2WEEKS イカレタ愛
第二回
野中美里 Illustration/えいひ
4 オカルト研究部
その日の昼休み、いつも通りコンビニ弁当を一人で食べていると、同じクラスの岡田恵美が席にやって来た。
「上代君、一緒にお弁当を食べよう!」
と元気一杯で、笑顔満開の岡田さんはそう言って、前の席に座った。
岡田さんはセミロングをカチューシャでとめてオデコを出しており、入学当初から非常に明るい。いつも笑顔で、誰とでも話す。僕とも話す。黒戸が和の綺麗さなら、岡田さんは洋の綺麗さを持っている。
岡田さんも机に弁当を広げた。
「いつもコンビニ弁当じゃ栄養が偏るよ。上代君って一人暮らしだから仕方ないけどさ、コンビニ弁当とかジャンクフードってちゃんとした栄養が入っていないんだから。野菜とか果物も食べないと」
そう言って広げた岡田さんの弁当には、サラダとから揚げが入っている。別の容器に詰めたオレンジもあった。
はいこれ、とオレンジを僕の弁当に入れた。
「うお!」
見た目によらず、手つきが荒かった。
「それはビタミン! あとこれもあげる~!」
岡田さんはフォークに刺したプチトマトを僕の口に突っ込もうとする。僕は反射的によけた。
「私のフォークが汚いっていうの上代雪介君! 変な名前のクセに!」
「頂きます! ぜひ食わせて下さい」
「もう遅い! オレンジも返して!」
僕はオレンジをその場で食べた。ついでに、フォークからプチトマトを抜き取って口に入れた。オレンジとトマトがミックスされて、変な味が口に広がる。
「貴重な栄養をごちそうさま」
「上代君は味わうってことを知った方がいいと思うな。食材が勿体ないよ」
岡田さんは首を傾げてそう言った。
仕草が可愛い。
「ところで上代君」
と岡田さんは少しまじめな顔つきで言った。
「なに?」
「オカルト研究部ってご存知?」
「たしか部活動紹介でそんな部があったな。あまり記憶には残ってないんだけど」
「あーんとね、簡潔に説明すると、オカルトネタを研究して、月一で発行している学校新聞に載せるのが活動内容」
「オカルトっていうと、学校の七不思議とか?」
「過去に心霊現象を対象に色々調べてた先輩はいるみたい。私はニューエイジとか、宇宙人ネタにハマってるんだけど」
「面白そうじゃん、今度岡田さんの記事読んでみるよ」
「て言うかね上代君、オカルト研究部に入れ」
命令口調を笑顔で言う岡田さんに、僕はなんて返せばいいか迷ってしまう。
岡田さんはオカルト研究部が楽しくて、僕を誘ってくれたのかもしれないし。
しかし、はっきり言うことにした。
「入らないよ」
本物の宇宙人の世話をしている僕が、オカルト研究部に入ってなにをするんだ。
「えぇぇぇ、どうして! 少しくらい考えてから言ってよ。上代君はオカルト現象詳しそうじゃん。上代君の暗い、じゃなくて、ミステリアスな雰囲気ってまさにうちの部向けなんだよ! せめて体験入部くらいして、お願い! 今日の放課後ね!」
岡田さんは明るく笑っているのだけど、目に力が入っている。
「……じゃあ体験入部だけなら」
そう言うと、手を叩いてやったぁ! と声をあげた。
「お礼にから揚げもあげちゃう!」
放課後になり、岡田さんに手を引っ張られつつオカルト研究部に行こうとしたのだけど、その前に購買で黒戸の制服を買っておくことにした。
でも女子の制服は男子は買えないことになっているらしい。
購買で途方に暮れていると、岡田さんが買ってあげる、と言ってくれた。僕は当たり障りない理由を考えて、黒戸の制服がなくなったことを説明する。
「ふーん、黒戸さんと仲いいんだ、へぇ」
と、岡田さんはなんだか狡猾に微笑みつつ、制服を買ってくれた。
そのあと、文化部の部室の集まる旧校舎へと足を運び、二階にあるオカルト研究部に向かった。
部室の中には、誰もいなかった。
通常の教室の三分の一くらいのその部室は、小さな窓が一つあり、脚のバランスが悪くなっている長机が中央にあるだけだ。
岡田さんが荷物を長机に置いた。
「とりあえずかけてくれたまえ。ちなみに私は副部長ですから」
「部長さんや、他の部員の方は?」
「なにを隠そう、部長と私しか部員はいないのだよ! 上代君と黒戸さんも入ってくれるみたいだけど」
「いやいや、まだ入るか決めてないから。つか黒戸もかよ! その部長さんはどうしたの?」
「部長は三年生なので、引退しました。籍を置いているだけ」
「じゃあ部員は岡田さんだけってわけか」
「そう。このままでは廃部になってしまいます。決まりでは三人は部員がいないといけないの。ねえ分かったでしょ、オカルト研究部に入ってよ! 入らなければ先輩が残したこの霊符入り麦藁人形に上代君の髪の毛を入れて五寸釘を打ち込んでやるから!」
「なんでそんな物があるんだよ! オカルト研究部だからか! そうじゃなくて、僕はまだ入るつもりはないんだよ。申し訳ないけど」
「月一で新聞にネタ提供するだけでいいんだから、お願いだよぉ」
「他を当たってくれ。岡田さんならいるだろ、そんな友達くらい」
「もうみんな他の部活に入部しちゃったし、オカルトに興味ある人なんていなかったよ。それに上代君と一緒に部活がしたいの!」
「なんで僕なんかと」
「あのね、私は本気でいい内容を作りたいと思ってるんだよ。だから私の目にかなう人材を集めたいの。上代君ってなんか人と違うとこあるからさぁ」
「ないない」
「不思議な現象も詳しそうだと思って。私の勘がそう告げてるの、違う?」
その勘は、たしかに当たっている。
「だから、はいこれ!」
と岡田さんは入部希望の用紙を出した。
受け取ると、用紙は二枚ある。
顔を上げて岡田さんを見ると、満面の笑みで、
「上代君と、黒戸さんの分!」
と言われた。
約束通り一時間程体験入部をした。と言っても、長机でニューエイジ系の本を読み、付箋を貼っている岡田さんの様子を眺めていただけなのだけど。
ただ、岡田さんの研究ノートを見せてもらった時に、僕はちょっと背中に冷たい汗が流れた。
研究ノートの内容は三つに分かれていた。
一つ目は、校庭から見つかったバラバラの女子制服や、靴や、下着のようなものについて。あまりにバラバラなので、一体どうしてこうなったのか、誰がこんなものを校庭に撒いたのかを調査しようとしているらしかった。
思いっきり、黒戸の残した残骸だ。
二つ目は、新聞の切り抜きだった。千葉県T市の海岸に、十五メートルのザトウクジラが打ち上げられている写真。その身体の大きさも、時期的にも、珍しいことらしい。
三つ目は、千葉県の暴力団系組織が一日にして壊滅した事件。組員の殺され方が、熊にでも襲われたような残虐なものであったこと。朝のニュースでも大きく扱われていたらしく、クラスでも話している人がいた。
これも、黒戸の起こした事件だ。
「同じ県内で起きたことを中心に調べようと思って。なかなか興味深いでしょ?」
と岡田さんは嬉しそうに言った。
「三つとも、宇宙人の仕業だと思う?」
「そうかもしれないね。でも三つとも宇宙人じゃ記事として誰も読んでくれないだろうから、自分なりに工夫するつもりなんだけど」
「正直驚いたかも」
「だからー、本気なんだって! 上代君も興味を持ってくれたみたいでよかった! 横顔真剣だったよ。笑われるかもしれないと心配してたからさぁ」
笑えない。
「実は、あと一人我が部に勧誘したいと思っている逸材がいるんだぁ。その子も絶対に引き込むつもり! なかなか可愛い子だよ。よかったね上代君!」
「なにが?」
「可愛い女の子三人に囲まれて、高校生活を過ごせるんだから!」
それはべつにして、この部活に入っておいた方がいいかもしれないとちょっと思う。まさか、岡田さんがピンポイントで黒戸の起こした惨事に興味を持っているとは思わなかったし、なにか進展があれば、すぐに知ることもできる。
「一晩考えるよ。黒戸にも入部用紙渡しておくから」
「頼んだよ相棒!」
そう言って、岡田さんは僕の肩をポンポンと叩いた。
用事があるからと、僕は部室をあとにした。
家に帰り玄関を開けると、妙生はいまだにケージの隅で小さくなっていた。僕を見てもなにか言う元気はなさそうだ。
「ただいま」
部屋に入るが、黒戸がいない。
テレビを見ていたみぞれが笑顔で口を開く。
「おかえりなさい。黒戸さんならさっき帰ったよ」
あいつはスエット着たまま帰ったのか。
みぞれの姿も希薄になってきていた。
「黒戸に届けものしてくる。帰りに弁当買ってくるけど、なにがいい?」
「いらないよ」
みぞれはぼんやりとそう言った。
僕は頷いて、外に出て自転車に乗った。
黒戸の自宅まで行き、呼び鈴を鳴らすとすぐに出てきた。
そのまま中に入れてもらい、居間で座布団に正座をする。黒戸は湯飲みにお茶を入れて持ってきてくれた。
「制服と靴持ってきたよ」
バッグから二つを出して、黒戸に渡した。
「これで学校に行けるだろ?」
「うん。本当に買ってくれると思わなかった」
「意外と手間だったよ。男は女子の制服買えないし、サイズも分からなかったから。岡田さんに買ってもらったんだ」
「岡田さんか」
と黒戸は呟いた。
それから僕は、岡田さんにオカルト研究部を勧められたことを話した。黒戸にも入部してほしいといったことや、バラバラになった黒戸の制服を記事にしようとしていることだ。
「黒戸はオカルト研究部どうする?」
「幽霊部員でいいなら」
「やっぱり興味はないか」
「だって私たちがオカルトそのものじゃない」
「たしかにな」
「それに私の制服が校庭に散らばっていても、どうせ誰のものか分からないよ。あの事件だって調べても無駄でしょ」
「せめて体験入部くらい来いよ。岡田さんは制服を買ってくれたんだし」
「いいよ。上代君も一緒に行くんでしょ?」
と黒戸はつまらなそうに言った。
「ああ、僕はそのまま入ってもいいと思ってる」
黒戸は湯飲みを置いて言った。
「なら私も入部していいけど」
とにかく、入部用紙は僕が持っておくことにし、もう帰ることにした。一応みぞれの弁当も早めに買っていかないといけない。
「明日は学校に行くだろ?」
玄関でそう訊くと、黒戸は頷いた。
弁当を買って自宅に帰ると、部屋にみぞれはいなかった。
ケージの中では妙生が元気を取り戻している。餌を一生懸命食べていた。
翌日、五月十一日の水曜日。二日間学校を休んだ黒戸だけど、この日は学校に来ていた。クラスに入ると、登校していた黒戸に岡田さんが熱心に入部を勧めていた。その様子をチラッと眺めて、僕は席に座った。
黒戸の引きつった表情がなんだか印象的だった。
その日の放課後に、僕と黒戸はオカルト研究部に向かった。
岡田さんは用事があるから先に部室に行っていてと言い残し、どこかに消えてしまっていた。
部室のスチールイスに腰かけて、なにをやるともなしにいると、しばらくして岡田さんがドアを開けて入ってきた。
「遅くなってごめんごめん! 今日はもう一人部員を連れてきたよ。どうぞ入って」
後ろから顔を出したのは他のクラスの女子だった。眼鏡をかけて、ふんわりとした髪型をしている大人しそうな子だ。先日岡田さんが言っていた人かと、ふと思い出す。
目が合った。
彼女はすぐに逸らして、顔を赤くしていた。
岡田さんが張り切って声を出す。
「こっちの男子が上代君で女子が黒戸さんね。この子は三組の姫髪葵さんです。じゃあみんな仲よく楽しくやっていきましょう!」
姫髪さんがおどおどしながら部室に入ってきて、長机の前でそのまま立っていた。
黒戸が姫髪さんの顔を見て言った。
「イスに座れば?」
「あ、すみません……」
と頭を下げてイスに座る姫髪さんは、黒戸に怯えているようだった。黒戸は誰に対しても無愛想だから、怖がられるのも無理はないけど。
「さて、じゃあ三人にはさっそく入部用紙を書いてもらいます! 大丈夫、サインをするだけですぐに済みます」
と岡田さんが長机に用紙を広げる。
姫髪さんもまだ入部してなかったのか。
とりあえず僕は入部用紙に名前を書いておく。姫髪さんを見ると、ちょっと困惑しているみたいだった。黒戸は入部用紙をジッと見つめている。
僕は岡田さんに言った。
「岡田さん、姫髪さんにちゃんと説明してない?」
「そんなことないよ。姫髪ちゃんは興味あるって言ったよ。ね?」
そう言って、岡田さんは姫髪さんを見つめる。
姫髪さんはキョロキョロと周囲を確認して、僕を見た。とても困った表情をしている。性格的に断りきれずにここまで来てしまったのかもしれない。
「部活に入るか決めていないんじゃない? 姫髪さん、無理しなくていいよ」
「いえ、あの、興味はあるんですが、さっき体験入部と聞いたので……」
と姫髪さんはうつむいて言った。
「活動内容は説明したじゃない! とりあえず入部しちゃってよぉ」
岡田さんが強引に勧める。
黒戸も口を開いた。
「私はオカルトに興味ないんだけど、幽霊部員でもいいの?」
岡田さんの肩がプルプルと震えていた。
「私はあなたたち三人と部活がしたいの! だから毎日部活に参加してくれなくちゃ困るの! それに、黒戸さん」
と岡田さんが黒戸の方を見る。黒戸は少し眉をひそめる。
「なに?」
「私は校庭でこんな物を拾った」
と岡田さんが見せてきたのは、紫の刺繡で『黒戸』と描いてある小さなワッペンのようなものだった。バラバラになっていたものを、縫い直した痕がある。
黒戸の表情が少し変わる。
「これは制服の裏に縫ってある刺繡だね。制服には持ち主の名前を縫うから。バラバラになっていた制服についていたもので間違いないでしょうね。あの制服って黒戸さんのものなんでしょ?」
「知るわけないじゃない」
と黒戸は窓の方を向いて言った。
「これを集めるの大変だったわ。夜中、ライト片手に探し回ったんだから。これで、黒戸さんも入部用紙に名前を書いてくれる気になったよね! もし新聞にこのこと書いたら、男子が落ちてる下着の切れ端を集め始めるかもしれないね」
黒戸が舌打ちをした気がした。
実際にはしていないと思うけど、そんな雰囲気が伝わってきたような気がした。
「入部はしといてもいいけど」
そう言って黒戸はしぶしぶ入部用紙に名前を書き始めた。
岡田さんはキョトンとしている姫髪さんに笑顔で言う。
「さっ、早く書いちゃって!」
姫髪さんはハッとしたように、せかせかと入部用紙に名前を書き始めた。
三人分の入部用紙を集め終わると、岡田さんは満足したように口を開く。
「オカルト研究部存続記念パーティをやります! ついでに新入部員歓迎会! さ、マネージャーは買い出しに行ってくれたまえ! 領収書を持ってくれば、割り勘にしてあげよう!」
僕はマネージャーだったのか。
「なにを買ってくればいいんだ?」
「とりあえず木原屋のプリン、あとは紅茶でいいよ」
そう言われて、僕は部室の外に出た。なんだか岡田さんの作る空気に飲み込まれている気がした。
岡田さんは黒戸や僕のことをどこまで知っているんだ。まさかとは思うけど、シマウマ男のことまでは知らないよな。
駅前のケーキ屋さん「木原屋」でプリンを三つ買い、コンビニで紅茶の大ボトルを買った。締めて千二百円なり。少なくとも、黒戸の支払いは僕が持つことになりそうだ。
部室に戻ると、岡田さんがオカルト研究部の活動内容を説明しているところだった。
黒戸は長机に突っ伏してボンヤリ聞いている。姫髪さんは岡田さんの言うことに一回一回頷いていた。緊張しているのかもしれない。
僕は長机にプリンと紅茶のボトルを置いて、イスに座った。
「先生には見つからなかった?」
「え?」
「お菓子の買い出しがバレたら怒られるでしょ」
「……たぶん大丈夫」
「おっけー。さ、食べちゃお~!」
岡田さんがプリンとスプーンをみんなに配っていき、渡し終えると呟いた。
「あれ、上代君の分がない」
「甘いもの苦手なんだ」
「じゃあ遠慮なく食べちゃうよ? 一口ならあげてもいいよ」
「大丈夫大丈夫」
ちょっと食べたかったけど、楽しみにしていたみたいだし、やめておいた。
「紅茶忘れてた」
岡田さんはバッグから紙コップを出してみんなに配り、紅茶を注いでいった。
それにしても、甘いものを食べてる女の子を見ているのは、なんだか分からないけど癒されるものがある。本当に嬉しそうに食べていた。黒戸ですら甘いものには弱いみたいだ。
プリンを食べていた岡田さんが、黒戸の方を向いて口を開いた。
「黒戸さんの制服はどうしてああなったの? ミキサーにかけたみたいだったけど」
「だからあれは私の制服じゃないし」
「でも上代君に制服を買ってもらってたよね?」
「そんな事実はない」
おい。
岡田さんは、背もたれに体を預けて天井を見上げた。
プリンを食べ終わると、黒戸は「用事を思い出した」と言って先に帰ってしまった。
姫髪さんも「今日はありがとうございました」と言って席を立った。
「明日も来てね!」
と岡田さんが言うと、姫髪さんはビクッとして振り返り、首を縦に振った。
「ばいばーい」
姫髪さんはもう一度お辞儀をして、部室を出た。
僕は紅茶のおかわりをした。
「私にも頂戴」
そう言われて、岡田さんのコップにも注いでいく。
「あーあ、みんな帰っちゃったね。また来てくれるかな」
「入部用紙も書いてくれたんだし、来てくれるだろ」
黒戸は分からないけど。
「そうだけどさぁ、もっとこう、頑張ります! みたいなやる気を期待してたんだよね」
頑張りを期待するのは難しそうだ。
黒戸は興味ないし。
姫髪さんは興味があるみたいだけど、無理をしていないだろうか。
「オカルト研究部は存続できるんだし、二人が入部してくれただけでもよかったじゃないか」
「それもそうだね」
岡田さんは紅茶を飲む。
「ところで、岡田さんは超能力とか使える?」
と僕は訊いた。
「使えるよ!」
岡田さんはバッグの中をゴソゴソと探った。少し見えたけど、オカルトグッズっぽいものがたくさん入っている。その中から透明な石をぶら下げた首飾りを出し、僕の前で揺らした。
「上代君はだんだん黒戸さんの秘密を話したくなーる。話したくなーる」
催眠術か。
「なんないよ」
「おかしいなぁ。すごい宇宙パワーのはずが」
石をしまうと岡田さんは言った。
「姫髪ちゃんのことは私から説明してあげる。上代君って人の噂話とか疎そうだし」
「姫髪さんにもなにかあるの?」
「彼女もかなり変わっているよ。なんたって特技が占い! 予知夢を見ることもあるみたい」
「実家が占い師でもしてるとか?」
「違う違う。両親は普通の人。しっかしよくうちの部に入ってくれたなぁ。自分で言うのもなんだけどさ」
「興味はあるみたいだからな。よかったじゃないか、そんな子が入ってくれて」
「まあね。でもさぁ、私が一番気になっているのは上代君なんだけどね~」
まるで猫のようなイタズラな表情を浮かべて、岡田さんは下から覗き込んでくる。
ちょっと可愛い。
でも可愛さの裏に、なに隠しているの? というメッセージが込められているようにも見えた。
「僕は普通の人だよ」
「少しずつ訊いていくつもり」
家に帰ると、僕はハムスターのケージを覗き込んだ。
ケージをコツコツと叩き、鼻提灯を作って寝ている妙生を起こし訊いた。
「ネクタールが入り込んだ人間を見分ける方法ってあるの?」
「なんだよやぶから棒に。ようやく気持ちよく眠れたのに」
「クラスに僕と黒戸の能力に気がつきそうな子がいるんだよ」
「じゃあ話しちゃえよ、黙っている必要はないだろ」
「あのな、人間ってのは面倒臭いんだよ。能力がバレれば変な目で見られるだろうし、もしかしたら病院なんかで体をいじくり回されるかもしれない。それに、黒戸は何人も殺しているんだ。それがどんなやつらだろうと、犯罪になってしまうんだよ」
「日本語難しいね!」
「いいから見分ける方法があるのか教えてくれ」
「俺がその子を見れば分かるぞ」
「お前を外に出したくない。リスク高そうだし」
「じゃあその子をここに連れてきちゃえばいいんじゃない?」
「それも駄目。岡田さんにしゃべるハムスターを飼っていることが知られたら、それこそ全世界に広まってしまう」
「雪介は冷たいな」
「お前とは信頼関係で一緒にいると思ってないよ。むしろ利害関係だろ?」
「どんな利害があるんだよ」
はぐらかそうとする妙生の言動が、苛立たしく感じた。
「僕はハムスターに入った妙生を保護している」
「俺はペットかよ!」
「その代わりネクタールについて色々教えてもらっているだろ? どこまで本当かは分からないけど」
「おいおい。まあいいけど」
「黒戸と会話して思ったんだ。自己修復プログラムというのは、宿主の魂を奪い取って殺してしまうものなんじゃないかって」
「魂ってなに?」
「宇宙船は僕らが死ななければ元に戻れない。パーツの修復が終わってしまえば、宿主を殺すはずだ」
「なに言ってるかわかんねえよ」
僕は無視して続けた。
「黒戸が死んだとき、あいつの魂はもう船になったのか? 今の黒戸はちゃんと元の黒戸なのか?」
「黒戸ちゃんは黒戸ちゃんのままじゃないか、雪介が生き返らせたんだから! なんか雪介変だぞ!」
そう言って、妙生は憤ったようにケージの中を走り回った。
僕は諦めて、部屋の中に入った。
5 死にたがりの少女
翌日の放課後に、僕と黒戸は岡田さんに連れられてオカルト研究部に向かった。
部室の中にはすでに姫髪さんがいて、僕らを見ると慌てて頭を下げた。
イスに座ると、岡田さんが口を開く。
「さあて、今日は姫髪ちゃんに占いでもしてもらおうかな。得意なんだよね!」
僕ら三人が姫髪さんを見ると、姫髪さんは顔を赤くして顔を伏せた。
「どんな占いが得意なの? 予知夢を見るってのは知ってるけど」
「予知夢、ですか……?」
「違うの?」
「いえ、その、似ているのですけど、正確に言えば、私が見えるのは物事の因果関係のようなものだと思います」
岡田さんが口元を歪ませる。
「ほほう。それはまた食指が動くネタだわ。因果関係っていうと、原因Aが結果Bを引き起こして、そのBがまた結果Cを引き起こすようなことね。ビリヤードのボールのように原因と結果が生まれていく感じかな。今なにか見ることができる?」
「やってみます」
姫髪さんは目を瞑った。僕が能力を使うときと同じ集中の仕方だった。
姫髪さんは目を開けると、そわそわした様子でバッグからノートを取り出した。一枚破って紙飛行機を作った。
「なにしてるの?」
と岡田さんは楽しそうに訊いた。
姫髪さんは紙飛行機を持って立ち上がり言った。
「これを窓から飛ばします」
「おっけー」
岡田さんも立ち上がり窓を開ける。
姫髪さんは、紙飛行機を飛ばした。
普通の紙飛行機だ。円を描きながら、紙飛行機は地面に落ちていった。
「これで、佐々木先生の事故を防ぐことができました」
姫髪さんはこちらを振り向いてそう言った。
岡田さんは喜んでいたのだけど、黒戸は首を捻っていた。
「佐々木先生の事故ってどういうこと?」
と僕は訊く。
「え、っと、こんな感じです」
と姫髪さんは開いたままのノートにシャープペンシルでなにか書く。
『飛行機が飛ぶ→それを見た生徒が立ち止まる→その生徒と帰宅しようとしていた佐々木先生がぶつかる→電車に一本乗り遅れる→事故が起こらなくなる』
「なるほど」
と岡田さんは深く頷いた。
黒戸はノートを凝視していた。
僕も少し考えてみるけど、これだと姫髪さんの因果を見る能力が成功したのかちょっと分からない。
「あとですね」
と姫髪さんは続ける。
『飛行機が飛ぶ→先生とぶつかった生徒の手帳が落ちる→拾いに行く→生徒がお礼をしてくれる』
「さっそくその手帳を拾いに行ってみよう」
岡田さんに言われ、僕らは部室を出た。
一階には本当に手帳があった。生徒手帳を見て、岡田さんが口を開いた。
「この人は生徒会の人だね。今の時間ならたぶん生徒会室にいるから、届けてあげましょうか。それにしても姫髪ちゃん、やっぱり占いできたんだね!」
「あの、こんなことでしたら」
「なに言ってるの! めちゃくちゃすごいじゃない!」
姫髪さんは体を縮こまらせていた。ふいに、僕の方をチラリと見た。
その表情は、なんだか不安そうに見えた。
手帳の持ち主は生徒会室にいた。生徒手帳を渡すと、その人は慌てて受け取った。なにか人に知られたくないことが書いてあるのかもしれない。
姫髪さんの言う通り、その人はお礼に生徒会室で余っていた紅茶パックと、小さなクッキーの詰め合わせをこっそりとくれた。
給湯室でお湯を貰ってから部室に戻ると、貰ったお菓子を広げて僕らは話をした。
「姫髪ちゃんはその因果ってどんな風に見えるわけ?」
と岡田さんが訊く。
「原因と結果の道筋が瞬間ごとの風景で見えるような感じです。関係のない風景まで混ざってしまうので、少し頭が痛くなるのですけど」
「人間の脳には情報量が多すぎるのかもねぇ」
と岡田さんは言う。
なんで、そんな冷静に分析してるんだ。
岡田さんはやっぱりネクタールのことなにか知っているのかもしれない。いやでも、そんな風には見えないし。
岡田さんは続ける。
「佐々木先生の事故を防げたのであれば、それはとてもすごいことじゃない。姫髪ちゃんのお陰でお菓子も貰えたわけだし」
「あの、私はなるべくこの力を使いたくないんです。すみません……」
「謝らないでよ、こちらこそごめんね! 頭痛くなるんだよね。あれからちょっと疲れてるみたいだけど、大丈夫?」
「はい。平気です」
「よかったぁ」
しばらくして岡田さんの興味の対象が黒戸に移ろうとすると、黒戸は「今日は帰る」とそそくさと出て行ってしまった。
さらに、姫髪さんが「やはり頭が痛いので今日は帰らせてもらってもいいですか?」と言ったことで、本日は解散となった。
岡田さんはまだ残るらしい。僕はどうしようと考えていると、岡田さんに姫髪さんを家まで送ってあげてよと言われた。バッグを持ち、姫髪さんと二人で部室を出ることにした。
校門を出たあと、歩きの姫髪さんに合わせて、自転車を押していく。
姫髪さんの歩くペースはゆっくりで、見ると顔を真っ赤にしていた。能力を使ったからかもしれないと思い、ちょっと心配になる。
なにか声をかけた方がいいのかもしれないと思っていると、うつむいたままで姫髪さんは言った。
「あの、上代さんに訊きたいことがあるんです、ちょっとだけいいでしょうか?」
僕と姫髪さんは、学校近くの公園に入った。黒戸と話をしたときもこの公園だったと思いながら、遊歩道を歩いていった。もう空は暗くて、外灯がついている。
自転車をとめて、ベンチに腰かけた。姫髪さんもベンチに座って、両手を膝の上に乗せている。
訊きたいことってなんだろ? と考えていると、姫髪さんが口を開いた。
「上代さんは、その、黒戸さんとどんな関係なのかなと、思いまして」
僕は緊張してしまう。
姫髪さんは、黒戸と僕にも能力があると気づいているのかもしれない。姫髪さんの出方を見ようと思った。
僕は核心に触れないように話した。
「友達だと思う。黒戸が僕のことを友達と思っているかは分からないけど。ただのクラスメイトってくらいにしか思われていないような気もするし」
「ただの友達には見えません。私には、黒戸さんは、上代さんに打ち解けているように見えました」
姫髪さんは僕を見た。
彼女の表情は柔和だけど、視線は僕の目に向けられていた。
僕は顔をそらして言った。
「僕はそこまで黒戸に好かれていないよ」
姫髪さんはまたうつむいて、口を開いた。
「あの、小学生の頃を覚えていますか?」
姫髪さんがどうしてこんなことを訊くのか分からなかった。
たぶん彼女なりに理由はあるのだろうけど。
「あまり記憶にないかな」
姫髪さんはちょっと寂しそうな表情をした。外灯に照らされて、彼女の横顔がそう見えた。
姫髪さんは言った。
「上代さんは幸せを感じることはありますか?」
「どうだろ。最近は不幸せだと感じることは減ったけど」
「……そう、ですか」
「姫髪さんは?」
「私は……」
姫髪さんはバッグのサイドポケットからなにかを取り出した。
小さな瓶で、中には錠剤が入っている。
「なに、それ?」
「睡眠薬です」
「ちょっとバッグ見せて」
僕は姫髪さんのバッグの中を見る。そこには、ロープや、カッターが入っていた。
「なんでこんなもの持ち歩いてるんだよ」
「いつでも、死ねるようにです」
言葉が出ない僕に、姫髪さんは言った。
「もう少しだけ、話を聞いて下さい」
姫髪さんが因果を見る能力を発見したのは、三年前の中学一年生の頃だった。
姫髪さんはもともと学校があまり好きではなかった。人と接することが、姫髪さんにとってとても怖いことだからだ。
怖いと思うことは、大きな問題に発展する類のものより、日常的な光景を見て感じることが多かった。掃除のあと、嫌われ者の席にはイスが載ったままでいる。嫌いな先生が弱いと分かれば、質問を無視するクラスメイト。誰かを仲間外れにするために、わざわざ嫌いかどうか訊いてくる。答えを間違えれば矛先が変わる。暗くて弱いと思われれば陰口を叩かれる。
それは残酷で、抗いようがなくて、日常的だ。
そんな風に物事を感じてしまう彼女が、学校で上手くやっていけるわけがない。人間を好きになれるわけがない。
繊細で、脆く、弱い。
「因果が見えるようになった頃は、これで人と接することが克服できると思って、頻繁に力を使っていました。誰かの会話や行動が引き起こす事態を先に知ることができれば、私は予め対処する方法を用意することができます。因果に影響を与えて、回避することもできました。でも」
たしかに姫髪さんはあらゆる出来事を先に知ることで、自分に起こるはずの事態に対処することができた。
よくしゃべる友達が突然冷たい態度を取るような事態に、姫髪さんは前もって安全処置を施すことができる。
姫髪さんが因果に影響を与えることで救われる人もいた。部室で佐々木先生の事故を防いだように。
「本当は事故を防いでなんていないんです。因果を変えたとしても、その人の大筋の運命は変えられません」
姫髪さんが言うには、人間の運命というものはまっすぐに伸びた幅の広い道路に喩えられる。
色々な地点に向きを変えて、障害物をある程度よけることはできても、道路そのものは変えられない。
さっきは佐々木先生の事故を防げたが、なにかしらの形で災難は起こるかもしれない。改変した因果のために、他に巻き込まれる人がでるかもしれない。
もちろん障害物を上手くよけることもある。
因果とは複雑であり、姫髪さんにもその繫がり全てが見えるわけではないらしい。
佐々木先生の事故とは、自転車とぶつかる程度の軽いものだった。
だから、姫髪さんは能力を使い回避をさせた。
使っても大丈夫だと判断した。
「人は幸せであるよりも、不幸であることの方が多いのだと思います」
「そうだろうね」
「それなら、生きている意味はありますか」
「生きることに意味なんてない気がする」
「そう、ですね。分かっているんです」
姫髪さんの、友人との摩擦を回避するための因果の改変は、ある障害物によって終わりを迎えた。
「私はこの力で人を死なせてしまいました。様々な原因と結果が繫がり、その事故は起きました。映像が断片で見えたんです。乗用車にトラックが衝突する事故でした。私が原因を作らなければその事故は起きなかった……」
「それは姫髪さんのせいじゃないだろ」
姫髪さんは肩を震わせていた。
静かに声を出した。
「私は思うんです。この能力を使ったことで、私は人を死なせてしまいました。それなら、もし私が死ぬことで、他の人が救われる未来が見えたとき、自分はどうするべきかと」
姫髪さんは錠剤の入った瓶を見つめた。
「そんな事態が起こるの?」
姫髪さんは首を振った。
姫髪さんの言っていることは矛盾していた。運命が変わらないのであれば、姫髪さんが死ぬ意味はない。
でも見えてしまうから、分かってしまうから苦しんでいる。
僕は姫髪さんのバッグからカッターを借り、刃を手首に当てた。
「上代さん、なにを」
「一ツ目の種族は姫髪さんだけじゃない」
僕は歯を食いしばり、カッターを引いた。鋭い痛みが走り、切り口から血が流れた。
姫髪さんの短い悲鳴が聞こえた。傷はすぐにふさがる。
「僕も姫髪さんと同じなんだ。人と違う。だから少なくとも他の人よりは姫髪さんの苦しみを理解できる」
姫髪さんはしばらく呆然とし、はっとしたように口を開いた。
「もしかして、黒戸さんもなにか能力を持っていますか?」
「黒戸は片手で熊を倒せる」
「黒戸さんと今週の月曜日になにかありましたか? 能力を使ったり」
「死んだ黒戸を、僕が生き返らせたけど……」
姫髪さんの呼吸が一瞬とまる。驚いたように僕を見た。
「そんなことが、本当にできるのですか?」
「僕の能力ならできてしまうんだ。黒戸を生き返らせたことでなにか起きるの?」
「私の因果を見る力は、月曜日を境に不安定になっているんです。未来を見ようとしてももやがかかりますし、今日から十日より先はまったく見えなくなりました」
「どういうこと?」
「運命が変化しているかもしれないんです」
「でも、運命は変わらないって」
「そうなのですけど、運命そのものが変化しているとしか思えないんです……」
「十日後になにが起きるか分かる?」
「詳しいことはちょっと。ただ、こんなことをお聞かせして申し訳ないのですが、未来に大きな不幸がくるかもしれないんです……。あくまで、直感のようなものなのですけど」
「えっと、それは回避できるものなの?」
「分かりません……。ですが、岡田さんにも私たちのことは話した方がいいかと」
「他に行動した方がいいこととかある?」
「いえ……。普段と変わらない生活で大丈夫です」
僕は小さく頷いた。
姫髪さんを自宅のマンションまで送ると、その足で黒戸の家に向かった。
玄関の呼び鈴を鳴らすと、黒戸が出た。
「あれ、どうしたの?」
黒戸はもうパジャマに着替えていて、お風呂上がりのいい香りがした。長い髪は濡れている。能力さえなければ、黒戸を素直に美少女だと思えるのだけど。
僕は居間に上げてもらった。おじさんはいない。
黒戸が湯飲みを持ってきてくれた。煎茶を飲みながら姫髪さんとの会話を黒戸にも伝え、僕らのことを岡田さんに話してもいいか訊いた。
「上代君に全部任せるよ」
「じゃあ明日話そう。黒戸も部活に来いよ」
「分かってる」
僕の不安は、黒戸の魂が、黒戸のものであるかどうかだ。
自宅に帰ると、遅い夕飯を食べてからぼんやり考え事をした。姫髪さんの言っていた大きな不幸について。
考えても仕方がないと分かっているのだけど、どうしても考えてしまう。
「雪介ー! どうした?」
と玄関から声がした。僕はケージを部屋に持ってくる。
ケージの中の妙生はおが屑の上でぐでっと寝転がっていた。
「今日はなんでまた帰ってくるの遅かったんだ? ちょっと話してみろよ」
気が乗らない。
けど、妙生には話を訊いた方がいいかもしれない。
「ネクタールの入り込んだ女の子と二人で話してた」
「ふーん」
妙生は体を起こして、近づいてきた。
僕は言った。
「その子は因果を見る力を持っていたんだ。でも今日より十日以降の未来が見えなくなったらしい。それってどうしてだと思う?」
「もう少し内容を教えてくれないとなにも言えないだろ」
僕は少し考えて、姫髪さんとの会話の内容を言うことにした。
月曜日に黒戸を生き返らせたこと、そのため先の未来が不安定になったことなど。
妙生は言った。
「十日以降の未来が見られなくなったってことは、姫髪ちゃんとやらの能力が失われるんじゃない? それか死ぬとか。黒戸ちゃんに殺されるのかもね」
「姫髪さんは自分の能力で人を殺したと思ってるんだ。死んでもいいと思っている。たしかに一理あるかも……」
「よせよ考え過ぎるなよ! 俺は適当に言っただけさ! 姫髪ちゃんはどんな風に人を殺したんだ?」
「殺したんじゃないよ。事故はあくまで運命だったんだ」
「分かった分かった」
「因果を変えたら、乗用車とトラックの事故が見えたらしい。それで人が死んだ」
妙生は黙っていた。
時計の秒針が動く音だけ響き、しばらくして妙生は言った。
「その事故ってさあ、雪介の乗ってた車だよ」
「なんでそう思ったんだ?」
「勘」
僕はため息をついた。
「だって雪介もそう思ったんだろ?」
「……そんなわけないだろ」
姫髪さんはおそらく事故の被害者を見ていない。もし事故の被害者が僕だと分かっていたら、姫髪さんも恨まれるような話を自分からしないだろう。
姫髪さんだってネクタールの犠牲者には違いないんだ。
朝起きて、カレンダーに印をつけた。
黒戸を生き返らせた日が五月九日の月曜日。大きな不幸がある日が、五月二十二日の日曜日だ。この期間は約二週間ある。
僕が母を生き返らせてから、母の面影を失わせてしまうまでの期間は、だいたいそのくらいだった。
僕は今日の日付を見る。五月十三日、金曜日。残りは十日だった。
姫髪さんはいつも通り行動して大丈夫と言っていた。
焦っていつもと違う行動を起こしても、因果を見れない僕が結果を変えることはできないのかもしれない。
僕はいつもと同じように、学校に向かうことにした。
昼休みになると、黒戸はたいてい教室の外で昼食を済ませ、時間になると戻ってくる。僕は席から動かず、石像のように一人でいることが多かった。でもその日は黒戸を探すことにした。
黒戸は屋上へ登るための階段に一人でいた。屋上のドアは鍵がかかっているので、人の出入りはない。
蛍光灯のあかりが奥まで届いていなくて、黒戸のいる所だけ一つ暗くなっていた。
「なんで教室で食べないんだよ?」
階段下から声をかけた。
黒戸は僕に視線を向けて言った。
「一人でいる方が楽でしょ」
黒戸の横で弁当を広げてもいいものだろうか。なんだか、嫌がられそうな気もするし。
僕がその場に立っていると、黒戸は箸を休めて言った。
「ご飯食べれば?」
「そうだな」
「……こっち来れば?」
僕はゆっくり階段を登り、黒戸の一段下に座った。
ビニールから菓子パンとお茶を出す。黒戸の弁当を覗くと、ご飯に卵焼き、魚の切り身が入っていた。普通の弁当なのだけど、なんだか意外に思ってしまう。
「どうしたの?」
と黒戸が言った。
「いや、べつに。弁当自分で作ってるのか?」
「昨日の余り物とか適当に入れてきてるだけだよ。なに? 食べたいの?」
「いや、黒戸が普通の女子高校生に見えただけで」
「はあ?」
と黒戸は不愉快そうな声を出した。
「違う、悪気はないんだ。今日は部活に来るだろ?」
「行くって言ったでしょ」
「岡田さんに話すのは、シマウマ男のことと、生き返らせるために再生能力を使ったことだけだ。黒戸の過去とか、復讐の経緯については誰にも話さない」
僕が誰かに話していいようなことじゃない。
「当たり前だよ、そんなこと」
「でも僕は黒戸の過去が間違っているとは思っていないんだ。それははっきりと言える」
「いいよ、もう」
放課後、オカルト研究部に全員が集まり、長机を囲んで腰かけた。僕の隣には仏頂面の黒戸がおり、岡田さんと姫髪さんが隣同士で座っていた。黒戸は相変わらず仕方なくいるといった雰囲気を出して、頰杖をついて外の方を向いていた。
「さぁって、今日はなにしよっかなー!」と張り切っている岡田さんに、咳払いをしてから僕は切り出した。
「この前、岡田さんに僕は普通の人だって言ったの覚えてる?」
「あれ、恐竜の卵から生まれたって言ってなかったっけ?」
言ってないよ。
「岡田さんに、ちょっとまじめな話をします」
「私、なんか変なテンションになってた。もう大丈夫。どうぞ!」
「僕は一ツ目の種族です。それから黒戸と姫髪さんもそうです」
「私は? 仲間外れ?」
そこか。
「仲間外れにはしてないよ。とにかく、百聞は一見に如かずってやつです」
僕は姫髪さんからカッターを借りて、刃先を指に当てる。でも、わざわざ痛い思いをする必要があるのかとふと疑問に思った。
僕はカッターを姫髪さんに返して岡田さんに訊いた。
「岡田さんは傷痕とかある?」
「盲腸の手術痕が残ってるかな。カッターはなんだったの?」
そこは触れずに言った。
「手術痕でもいける。僕は生き物の外傷を治せるんだ。あと、自分が傷ついてもすぐに治る。いわゆる、不死身体質というか」
「うーん。まあいいや、治せるならお願いしようかな」
そう言うと、岡田さんは立ち上がりシャツの下のボタンを外し、スカートを少し下ろした。
岡田さんの肌には縦に二センチほどの赤黒い痕がある。
「少し触れます」
「え、いいけど……」
僕は目を瞑り、手術痕に右手を当てる。岡田さんが少し震えるのが分かった。しばらくして、治っていく感触が訪れる。
手を離すと、岡田さんの手術痕は消えていた。
「すごい」
そう岡田さんは小さく言った。
「こういったわけです」
「でもどうして、なんで、上代君はこんなことができるの? だってこれ本物の超能力じゃん! 姫髪ちゃんといい、上代君といい、めっちゃすごいよ!」
そう言った岡田さんの声は弾んでいたけど、真顔だった。
「ちょっと待って、じゃあ黒戸さんは? やっぱりなにかできるの?」
黒戸は話そうとしていなかった。
代わりに言う。
「黒戸は片手で虎でも倒せる。今は力を出さないことにしているけど」
「やっぱり校庭に黒戸さんの制服が粉々になっていたことと関係があるの?」
黒戸がため息をついた。
「この先を話す前に、岡田さんに断っておかないといけないことがあるんだ」
「待って、先に言わせて。私はそれがどんな内容でも、あなたたちを嫌いになんてならないよ」
岡田さんは真剣な表情でそう言った。
「姫髪さんが言うには、岡田さんにこの話をすることで、これから起こる大きな不幸を回避することができるかもしれないんだ。ただどんなことが起きるか分からない。危険な目に遭うことだって考えられる」
「それでも私は聞きたい。もしあなたたちの悲劇を回避することができるなら、私はなんだってしたい!」
「この先は決定的に因果に影響を与えることになるから、もう後には引けなくなってしまうけど」
岡田さんは頷く。
「私だって、好奇心から聞きたいと言ってるんじゃないよ」
「僕が校庭で黒戸の姿を見たところから話すよ」
それから一時間以上、僕らの能力と、それが引き起こした事態を説明した。ネクタールのことや、妙生のことも話した。
と、いうわけ。
そのように締めると、岡田さんが身を乗り出した。
「大丈夫! あなたたちはもう一人じゃない」
力強くそう言った岡田さんは、ズサッとイスから立ち上がった。
僕らは岡田さんに指示されて、片手を前に出し重ねていく。
「オカルト研究部は、今からオカルト部に改名します。なんとなくです。気持ちの問題です。そして部の目標は、部員全員の悩みを解決していくことにするの! 私たちはどんなことがあっても、部員が困っていたら協力する。助け合う! 分かった?」
僕と姫髪さんは顔を見合わせて、弱々しく「おー」と声をそろえた。
「黒戸さんも協力してくれるでしょ?」
「協力ってなにするの?」
「なにもしない! でもなんだかメランコリックになってるときとか、誰かがいてくれる方が精神衛生上いいの」
「まあ、いいけどさ」
黒戸はため息をついて、諦めたように「おー」と言った。
岡田さんは手を戻すと「着席」と言った。僕らは座る。
「ところで、上代君の家にお邪魔してもいいのかな? その宇宙人ハムスター君を是非見たいんだけど」
「ああ、じゃあ来ればいいよ」
「おっけー! 姫髪ちゃんは今から行けそう?」
岡田さんに言われ、姫髪さんはえっと声を漏らした。
「今日はちょっと、もう遅いので」
時計はそろそろ午後八時を指そうとしていた。
姫髪家の門限はちょっと厳しいのかもしれない。
「じゃあ明日は? 土曜で学校も休みだし、昼間から行くなら平気でしょ」
「ええ、それなら」
「んじゃ決まり! 上代君はちゃんと部屋片付けておいた方がいいよ、エロいやつ中心にね」
全部ロフトに投げ込めばいいか。
「分かった」
悪いんだけど、と黒戸が口を開いた。
「私は遠慮しておく。明日は用事があるから」
「えぇ~! 黒戸さんも来てよぉ。なんなら日曜に変更してもいいし」
「構わないで、平気だから」
そう言って、黒戸は疲れたように肩を落として部室から出て行った。
岡田さんはちょっと悩んでから言った。
「仕方ない、今回は二人で行きましょうか」
姫髪さんは開けっ放しのドアをまだ見ていた。
黒戸のことが心配なのか。
「黒戸は大丈夫だよ。さっきの話のあとだから、あんな態度を取っただけだろうし」
姫髪さんは、不安そうに僕の顔を見た。
岡田さんが大きな声で言った。
「じゃあ、明日の朝十時に中井公園に集合ってことで!」
ちょっと待った。
「早すぎるよ。せめて一時からにしてくれ」
「まあ、隠すものも多いんだろうから仕方ないね。姫髪さんも一時でいい?」
「はい。大丈夫です」
「おっけー! ところで上代君の家にはホットプレートはあるかな?」
ないな。
「必要なの?」
「お昼はみんなで食べようよ。お好み焼き作ろう!」
「いいけど、ホットプレートはない」
「一人暮らしってしょうがないなぁ」
持っていくか、と岡田さんは楽しそうに言った。
「よっし! じゃあ今日はこれにて解散! 礼!」
僕らはバッグを持ち、部室を出た。
家に帰ると、妙生に明日友達が来ることを伝えて、嬉しいのか騒ぎ立てるハムスターを尻目に僕は部屋に入った。
みぞれが片付けてくれているので別段することはないのだけど、一応掃除機をかけたあと、除菌スプレーを吹きかけ、いらないものをロフトに上げる。
こんなもんでいいだろう。そう胸を撫で下ろしたあと、飯を食べた。
さっき黒戸のことは大丈夫だと言ったけど、やっぱり気になる。
時計は十一時を回っている。黒戸も僕も携帯電話を持っていないから、すぐに連絡が取れない。黒戸の家に行くしかないのだけど、この時間に行くのは気が引けた。
でもおじさんはいないみたいだし、自転車を飛ばせば二十分くらいで着くか。
上着をはおり、外に出た。
自転車を漕いで、黒戸の家に着くと、呼び鈴を押した。
ドアの向こうから声がした。
「どなたですかぁ?」
かなり不機嫌な声色だった。
「悪い、寝てたか」
「上代君?」
玄関を開けて、黒戸が顔を出した。薄いパジャマ姿の黒戸は、ちょっと寒そうに腕をこすっていた。
「いや、用事があって来たわけじゃないんだ。学校でのことなんだけど」
「それがどうかした?」
「お前のこと、色々と話しただろ。シマウマ男のことも、生き返らせたことも。嫌な思いするのは分かってたんだけど」
「なに言ってるの? 私は上代君に全部任せるって言ったでしょ」
それでも、嫌なものは嫌だったんだろ。
「明日は本当に用事があるのか?」
「ないよ」
「じゃあなんで来ないんだよ?」
「べつに、たいしたことじゃないんだけど。最近、体の調子が悪いの。すごくダルくて、頭がボンヤリするっていうか。熱とかじゃないんだけど」
調子が悪い。
黒戸が?
「それって、いつ頃からだ?」
「シマウマ男と最後に戦って以来かな。最近悪化してきた。今まであいつと戦ってストレス発散してたのかもね。私は大丈夫だから。人に心配されたりするの好きじゃないし」
「心配はしてないよ」
「じゃあ、上代君も明日早いんでしょ?」
「え、ああ」
「おやすみ」
「おやすみなさい」
黒戸はドアを閉めた。
五月十四日、土曜日。朝起きると、カレンダーにチェックをする。残りは今日を入れて九日になった。
久しぶりに制服以外の外着に着替えて、十二時半に家を出た。待ち合わせの中井公園に向かう。ここは黒戸や姫髪さんと行った、学校に近い運動施設もある大きな公園だ。
公園の入り口に約束通りの時間に着くと、二人はもう集合していた。
姫髪さんはロングスカートにカーディガンといった落ち着いた格好をしており、岡田さんはデニムに春物のジャケットを着ている。髪は下ろしていた。二人とも私服姿は大人っぽく、ジーパンにパーカを着てきた僕が浮いている。
「上代君は姫髪ちゃんを乗せてあげてね」
「分かった」
岡田さんの荷台には、ホットプレートが紐で縛ってある。籠には食材の入ったビニール袋も載っていた。
「さすがにまな板とか包丁は持ってこなかったけど、あるよね?」
「小さいものしかないけど。僕は料理できないんで」
「期待してないよ。さあ出発しよ!」
姫髪さんが自転車の後ろにちょこんと座り、僕の腰に手を伸ばした。僕は体が固まってしまう。顔はたぶん茹でダコみたいになっている。
「早く出発しよー?」
岡田さんに後ろからそう言われて、僕はゆっくりペダルを踏み込んだ。
家に着き玄関を開けると、さっそく妙生が騒ぎ出した。
「こんにちは! いらっしゃーい」
前もって説明はしていたけど、二人はさすがに驚いたように口を開いている。姫髪さんは額から汗を流していた。
でも岡田さんのリアクションは「可愛いー」だった。
妙生は頭を搔いている。
「今日はお前も話に入っていいよ」
「うそ! 雪介大好き! やった」
妙生はご機嫌にそう言って、ケージの中でくるくる回った。
料理は女の子二人におまかせして、僕はテーブルの上にホットプレートを用意する係りになる。すぐに終わった。
そのあと、妙生をケージから出してやろうかと思ったけど、なぜかホットプレートに怯えていたので出すのはやめることにした。
「具ができたよぉ。私と姫髪ちゃんの料理が食えるなんて上代君はまじ幸せもんだねぇ。クラスの男になら売れるぜこれ」
そう言いながらエプロン姿の岡田さんが具を持ってきてくれた。
僕が焼く。
焼けると、お好み焼きを分けて皿に入れていった。岡田さんはソースとマヨネーズをドバーッとかけて食べている。僕も真似る。中がふわふわしていて、具もたくさん入っていて栄養もありそうだった。めちゃくちゃ美味しい。黒戸にも持って行こうと思う。
岡田さんが口を開いた。
「さって本題に入ろうか。えと、まずハムスター君、妙生君だったっけ? 君は本当に宇宙人なの?」
「宇宙人です、お嬢さん」
と妙生はバリトン声で言った。
「その体にはネクタールが入っているわけだよね? つまりハムスターの体を操っているわけだ」
「そうですな。まあ、こんなちっさい動物だと、同化してしまえば体ごと俺のものになるんだよ。俺だってこんな経験は初めてだから、やってみるまでどうなるか分からなかったんだけどね」
「はあ。宇宙人って実際に見ると、なんだか味気ないなぁ。もっと衝撃的だと思ってたんだけど」
「ごめんなさい」
妙生はペコリと頭を下げた。
岡田さんは「あはは、でも可愛い」と笑う。対照的に姫髪さんは、ちょっと怖がっているようだった。
岡田さんが言った。
「上代君、この子ちょうだい」
「やめといた方がいいよ。こいつこう見えて、夜中になると……」
「夜中になると?」
「うーん。Gとか食べる」
「食わねえよ! あんな気持ち悪いもの! 俺の好物は今のところ向日葵の種だな、可愛いでしょ?」
「うん、可愛いよ」
と岡田さんは微笑む。
妙生はてへへと言って跳ねた。
「あ、上代君、二枚目も焼けたっぽいよ。食べよう」
妙生にはキャベツの切れ端をあげていた。嬉しそうにバリバリと食べている。
「さ、妙生君には色々と話を訊きたいんだけどね」
「なんでも訊いて」
「とりあえず、君の目的はなに?」
「元の世界に帰りたいっす。宇宙船が直ったらすぐにでも」
「ふんふん。それって、宿主が死なないといけないんだよね。そのあと、ネクタールと同化した魂はどうなっちゃうの?」
「さあ。死んだ人間がどうなるか分からない以上、それは分からんよ。もし人間に魂があるのなら、船の一部になっておかしくないかもね」
「死なないと分からないってこと?」
「そうなるな。でも魂なんてあるのかね。魂があるとして、輪廻みたいなことになるのかね。それとも、宇宙には魂の集合体のようなものがあってそこに帰化するのか。まあ分からないっしょ」
「なんか、無責任な話だわ」
「でもさ、もし魂がネクタール化するなら、それはラッキーだよ。言い方を変えれば高次元の生命に生まれ変わることになるわけだから。肉体って不便でしょ、色々。こんな姿になって分かったけどさ」
「そんなの知らないけど、これは上代君と姫髪ちゃん的にはどうなの?」
「冗談じゃない、と言いたいところだけど、結局曖昧すぎて分からないよ。死んだらどうなるかとか」
「私も同じです」
姫髪さんもそう呟く。
岡田さんが「あーぁ」と言って天井を見た。
「死んだらどうなるか、魂はあるのか、肝心な部分は分からないのか。宇宙人にも宇宙の神秘は解けないと。それはそうと、ネクタールと同化した人間が特殊な力を持つのはどうして?」
「そんなもん知らんがな。宇宙船のパーツには本来そんな機能ないし。たぶん、人間の精神と同化した副作用なんじゃない? 人間の精神って複雑でノイズが多くて、よく分からない部分が多いからさ。ブラックボックスってやつだな。そのなにかが、ネクタールと同化することで顕在化したんだろうね」
「じゃあ妙生君は黒戸さんのシマウマ男をどう思う? あれは、黒戸さんを殺したわけだし。自分で作りだしたのに」
「大方、黒戸ちゃんの罪悪感か恐怖心が作り出したんじゃない? 強くなりたいし、復讐したかったんでしょ? でも人を殺すことや、異常な強さを持つことが、彼女にとっては恐怖でもあったわけ。それが顕在化したのがシマウマ男。黒戸ちゃんが自分で作り出した精神的なストッパー役」
「はぁ。なるほど。上代君と姫髪ちゃんも、自分の能力に心当たりがあるのかな?」
姫髪さんは顔を伏せた。
僕は、なんだろう。再生させることや、不死身体質になること。もしかしたら、ハムスターが死んだときに思ったのかもしれない。簡単に死んでしまい、内臓を出して潰れたハムスター。
「仮説にすぎないけどね」
と妙生は言った。
キャベツを食べて、動き回りながら話していた妙生は、ぐうすかと寝てしまった。
岡田さんも、これは仕方ないといった顔をしていた。
「私も集中砲火で質問しまくったしね」
「こいつほとんど答えてなかったけど」
「宇宙人にも分からないことは分からないんだよ。そんなもんなのよ。それよりも、私はこのことをすぐにレポートにまとめたい。悪いけど上代君、私はこれで帰るね。余りは二人で食べて!」
言うが早いか、岡田さんはジャケットを羽織ると部屋を出た。思い立ったらすぐ行動するな、岡田さん。
僕は岡田さんの背中に叫んだ。
「これどうするの!? ホットプレート」
「適当に取りに来るよ! もうアパートの場所も覚えたから」
じゃあね! と言って、岡田さんはアパートを出て行ってしまった。
僕はハムスターのケージを玄関に戻してから、部屋に戻る。
姫髪さんはなんだか恥ずかしそうに僕を見た。
岡田さんが電光石火で帰ってしまったから、姫髪さんは帰るタイミングを失ってしまったのかもしれない。
でも僕から帰宅を勧めることはできないし……。
「DVDでも観る?」
と僕は姫髪さんに訊いた。
「え、あ。はい」
なんだかすごく緊張する。
「観たいものがあればいいんだけど……」
僕はDVDのケースを漁ってみる。
「あの、上代さんが観たいもので……」
「アニメになるよ」
「アニメ好きですよ。リトル・マーメイドなんて素敵でした」
なんだか、僕の好きなジャンルを観るのは危険な予感がした。ディズニー映画も録画しておくんだった。悔やまれた。
「これもアニメですか?」
姫髪さんの指した録画用DVDには、汚い字でシザーハンズと書かれていた。
なぜか録画していたファンタジー映画で、僕もまだ観ていない。
「アニメじゃないよ。観ないまま忘れていたけど」
「あ、じゃあ観てみませんか?」
僕はDVDをデッキに入れた。
映画を観て、時間は過ぎた。
その映画は僕にはよく分からなかったけど、姫髪さんはすごく感動しているみたいだった。
観終わったあと、姫髪さんは洗い物をしてくれようとしたのだけど、下ごしらえまでしてくれたのにそんなことさせるわけにもいかない、などと僕が言い、落ち着かないまま会話もなくなってしまった。
僕は姫髪さんを玄関まで見送った。途中まで送ろうかと訊いたけど、姫髪さんは大丈夫ですと首を振った。
「映画、すごく面白かったです」
「今度はディズニー映画も用意しておくよ」
「ディズニー映画じゃなくていいですよ」
そう言った姫髪さんの耳が赤くなっていた。
姫髪さんが帰ってから、洗い物をしようと流しに立った。そのとき妙生が目を覚ましていて、後ろから声をかけてきた。
「あの子もネクタールが入っているね、よくしゃべる子」
「岡田さんか?」
「そうそう! でも本人気がついてないんじゃない? 雪介みたく力はなさそうだし! たぶん」
「それにしても、偶然にしては妙じゃないか? ネクタールが入っている人間が一つのところに集まるなんて」
「知らんよ。ネクタール同士で集まろうとしてんじゃない? それか本当に偶然かもな!」
「お前、本当に僕らに隠しごととかないんだろうな?」
「ないない。俺だって分からないことだらけだ!」
僕は黙る。
「質問だってちゃんと答えただろ? 岡田ちゃんにネクタールが入っていることも雪介が知りたいと思ってるから教えただけさ。俺は優しいハムスターなんだ。利害関係だなんていい加減疑うのはよしなって」
妙生はケージの中で前足を前後させていた。
「悪かったよ」
「気にするなよ! しっかしそのホットプレートってのは、怖ろしいな。妹ちゃんと同じレベルでこええよ! また使うの?」
「使わない。岡田さんにすぐ返す」
「じゃあ寝る。キャベツ置いといてくれ」
そう言って、妙生は再びおが屑の中に潜り込んだ。
翌日は五月十五日。日曜日だ。
少し悩んだけど、僕は午後一時頃に黒戸の家に向かった。昨日作ったお好み焼きを持って行く。
黒戸の家に着き、呼び鈴を何回か押すけど、黒戸は出ない。
自宅で会えないとなると、連絡を取る方法がない。
一時間、その場でお好み焼きを持って待っていたけど、黒戸は結局現れなかった。
6 月夜の狂気
五月十六日、月曜日。黒戸を生き返らせてから一週間が経つことになる。姫髪さんが大きな不幸があると言っていたのは、今週の日曜だ。残りは今日を入れて七日となった。
この日、黒戸は学校を欠席していた。
放課後になると、オカルト部のメンバーは部室に集まった。
岡田さんも姫髪さんも、黒戸が学校を休んでいることを気にかけていたけど、黒戸が変に心配されることが好きではないことを言うと、ひとまずその話題から離れた。
「新聞に載っていたから知ってるとは思うけど、昨日の夜にM市内で殺人事件が起きたの。それも二件同時に。犯人はまだ捕まっていない。その死体、殺され方がすごく残虐なものだったらしいわ」
僕は新聞を取っていないので知らなかった。朝のニュースも見ていない。
姫髪さんは頷いていた。
「上代君はこの事件をどう思う?」
「通り魔とか、快楽殺人かな」
岡田さんは咳払いをした。
「そうかもしれないけど、でも胸騒ぎがするんだよねぇ」
そう言って、岡田さんは不謹慎に微笑む。
「僕たちが関わることじゃないでしょ。警察が犯人を追っているわけだし。こんな大きな事件なら、絶対に犯人検挙するぞって意気込んでるんじゃない?」
「まあ、そうだろうね。それが普通の事件なら警察にお任せするしかないけど。人外の事件ならどうする?」
「岡田さんは、ネクタールの入った能力者が殺人を犯したって考えてるのか」
「そういうこと。でも、それだけじゃない気がするんだよね。もう少し、複雑に物事が進んでいそうな予感がするというか。姫髪ちゃんもそう思わない?」
姫髪さんは、え? と声を洩らした。
「私にはちょっと……」
「まあいいわ。とにかく、私が動くことで不幸とやらを回避できるらしいし、どんどん動くつもりだから!」
その事件を調べるに当たって、とりあえず姫髪さんの能力を使うことになった。
物事がどう発展していくかを見てもらえれば、素人の僕らでも事件を追っていくことができると考えたからだ。
能力を使った直後、姫髪さんはしゃがみ込んで、口元を押さえた。苦しそうに喘いでいる姫髪さんに、岡田さんが駆け寄り、肩を抱いていた。
「姫髪ちゃん大丈夫!? 無理はしなくていいから」
「すみません。でも見えました。今日も殺人があります。場所は、中井公園の公営プールの近くだと思いますが、暗くて、たしかなことは分かりませんでした」
僕は姫髪さんに訊く。
「どんな光景を見たの?」
「……ありませんでした」
人の形ではありませんでした。姫髪さんはそう言った。
岡田さんが口を開いた。
「それは阻止できる?」
「僕らでやるつもり!?」
「私たちでとめるしかないじゃん!」
岡田さんに強く言われ、僕は焦る。
「岡田さん本気で言ってるんじゃないよな! 警察に連絡するならまだしも」
「駄目よ。信じてくれないだろうし。仮に私たちのことを信じてくれて、犯人を捕まえたとしても、どうして知っていたとなるじゃない。能力のことや妙生君のことは公には隠しておきたいんでしょ?」
「それはそうだけど、いくらなんでも危険だろ」
黒戸がいればべつかもしれないけど。いや、そういった問題じゃない。
素人が首を突っ込もうとしている時点でもっと慎重になるべきだ。
「人の命がかかってるんだよ! 私たちなら阻止できるかもしれないのに」
「待ってくれ。岡田さんは姫髪さんの能力を誤解してるんだよ。もしこの事件を回避できたとして、さらに大きな事件に繫がる可能性だってあるんだ。そもそも姫髪さんが能力を普段使わないのは、そんな事態を避けるためなんだよ」
「見殺しにするって言うの?」
僕は言葉が出なかった。
見殺しにする? なに言ってるんだ。そういう問題じゃないだろ。
「訊くけど、一人が死ねば、多くの人が救われる事態を見て、岡田さんはその一人を助けられる? その代わりに、多くの人に死んでもらえる?」
「そんな事態になるとは決まってないじゃん!」
「そうなる可能性もあるんだよ」
「じゃあ、上代君がその人を生き返らせるの?」
「僕はもう生き返らせたくない」
「なにそれ、冷たいよ上代君! それって普通じゃないよ!」
そう言って、口をつぐんだ。
岡田さんは、ごめん、と呟いた。
「この事件は危ないよ」
もう一度そう言うと、岡田さんは小さく頷いた。
「でも、事件のあとを追うのは賛成なんだ」
「分かりましたよ!」
そのまま、僕らは部室をあとにした。もうなにかする空気ではなかったし、なんだか僕ら三人とも違った理由からへこんでいた。
自宅に帰り、シャワーを浴び、飯を食べた。
色々なことが同時に起きているようで、頭が混乱していた。
岡田さんと口論したことも、黒戸が学校を休んでいたことも、これからのことも。なにも考えたくなかった。
そのまま床の上で眠ってしまった。
ふと、目が覚めた。
時計を見ると、夜の十時半になっている。三時間程寝てしまっていた。
疲れが消えて、頭が整理されていた。
なんで寝てしまったんだ。もし岡田さんが殺人現場に向かっていたら。それはあり得ることだ。岡田さんなら一人でもその場に行くかもしれない。
転がっていたジーパンとパーカを着て、外に出た。自転車に乗って、立ち漕ぎをして中井公園に向かった。
外では警察官の巡回が行なわれている。でも姫髪さんの能力は絶対だ。三人の内誰もイレギュラーを起こさなければ、殺人は絶対に起こる。
この時間の中井公園はやはり誰もいなかった。そもそも、市内で殺人犯が出ているというのに、出歩く人などいないだろう。
公営プールで自転車を乗り捨てると、プールの外壁に沿ってゆっくり歩いていった。
姫髪さんは時間までは分からなかったようだけど、暗いと言っていたから、夜中には違いない。時計を見ると、一日が終わるまであと一時間十分ある。
殺害はまだ行なわれていないだろうか。
現場に出くわす可能性もある。
植木を搔き分けて、慎重に歩を進めた。
プールの裏に回りこむと、人影があった。外灯の明かりは届いていない。しかし月が出ているせいか真っ暗闇ではなく、少しずつ暗闇に目が慣れてきた。
そこにいたのは岡田さんと、姫髪さんだった。植木に隠れるように、佇んでいた。
僕は後ろから小声で話しかけた。
「二人とも大丈夫?」
二人は驚いたようにバッと振り向いた。
「上代君……」
と岡田さんが呟き、声を震わせて奥を指した。
「なにか、あそこにある」
岡田さんが指した先には、黒い塊がある。
「二人は怪我とかない?」
岡田さんが小さく頷いた。
「やっぱり来たのか」
と僕は呟いてしまう。
「だって……。あの、私も姫髪ちゃんも公園の前で偶然会って、あれを見つけたばかり」
姫髪さんが来たのは偶然じゃないと思うけど。
姫髪さんを見ると、なんだか申し訳なさそうな表情をしていた。
岡田さんが袖を引っ張る。
「ねえ、どうしよう」
「見てくるよ」
僕は黒い塊に歩いていった。
離れていても分かったのだけど、それは男の死骸だった。
刺殺されたような痕が腹にある。それ以上に悲惨だったのは、頰の肉や、首、腕、太もも、腹部、その中から出ている内臓にも、嚙み千切られているような痕が残っていることだ。味見でもするみたいに、部分部分が少しずつなくなっている。
「上代君……平気?」
二人も歩いてきていた。
岡田さんは、死体を見てすぐに目を逸らした。口元を押さえて、喘いでいた。
「ここから離れた方がいいです」
姫髪さんに言われ、僕は頷く。
死骸を見て頭をよぎったのは、母のようにおかしくなってしまった黒戸の姿だった。
しばらく目を離すことができなかった。
その場を離れたあと、公衆電話から警察に通報した。
岡田さんは一人になりたくないからと、姫髪さんの家に泊まるらしい。姫髪さんが岡田さんの肩を支えていた。
僕は自転車を押して二人をマンションまで送り、自宅に帰った。
あの死骸を見てから、周囲の光景が変わった。
ヘドロでできたどろどろとした世界にいるみたいに、全身が重かった。
ネクタールに全ての原因がある。僕らに能力さえ生まれなければ、こんな悲惨な出来事に遭わずに済んだはずだ。
憤りが溢れてくる。それは粘着質の真っ黒い液体で、拭おうとしても、とめようとしても、触れたところから僕の内側を覆っていった。
部屋に戻ると、岡田さんの置いていったホットプレートをテーブルに設置した。電源を入れ、油を流した。
ハムスターのケージを部屋に持ってくる。妙生が騒ぎたてた。
「どうしたんだよ雪介? その焼くやつもう使わないんじゃなかったの? またなにか作るの? 夜に食べると太るよ?」
僕はハムスターのケージに手を乗せる。
「妙生は噓をついているだろ?」
「噓ってなに?」
ケージからハムスターを取り出した。逃げないように、体を片手で握る。
「おい、雪介、なに考えてるんだ? ちょっと痛いよ!」
「本当のことを話してもらうよ」
妙生を握った手をホットプレートの上に持ってくる。必死でもがいていた。
「なに言ってんだよ、熱いって! 油跳ねてる!」
「中井公園に死骸があった。食われたような痕まであったんだ。それやったのは黒戸なんだろ? 母のときと同じなんだ」
「そんなの分かるわけないじゃないか! 頼むからやめてくれ!」
「焼けても治せるだろ」
「なにが知りたいのか言ってくれ、なんでも話すから。でも黒戸ちゃんのことは本当に分からないよ。だいたい、俺はいつでも雪介に協力してきたじゃないか!」
「宇宙船の自己修復プログラムってのは?」
「何度も説明したじゃないか! それ以上のことは分からないって!」
姫髪さんは未来に大きな不幸が来ると言っていた。
妙生は、なにか隠している。
胸の中に、黒くて粘々しているものが満ちていくのが分かる。
「それだけじゃないだろ? おかしいじゃないか、死骸を食うなんて」
「知らないよ! もういいだろ!」
「僕らになにが起きているのか言え」
「分かるわけないだろ! 本当だ」
「本気なんだよ」
ホットプレートに近づける。
ガタガタと震えて、奇妙な鳴き声をたてた。
突然、妙生の力が抜けた。
「もう嫌だ、なんでこんなことできるんだよ。人間は弱いものを見ればいくらでも残酷になれるんだ。俺だって知ってるなら話してるよ、でも知らないものは知らないんだ」
「僕だってこんなことやりたくはない」
「噓だよ、雪介は俺を支配して楽しんでる。分かるんだ」
楽しんでる。
そんなわけない。
「雪介はその能力を使っているときも、楽しんでた。優越感があったんだ。自分のお母さんを殺したときも同じだ!」
「違うよ、そんなことはなかった」
罪の意識がないわけないじゃないか、母を殺して! 優越感なんてない、楽しんでもいなかった。
温かった母が、変わっていった。黒い粉に変わっていった。
僕にはあれ以外どうすることもできなかったんだ!
「自分だって分かっていたんだろ?」
頭の中が、真っ白くなった。
「雪介!」
妙生は緩んだ手から逃げてテーブルに跳んでいた。
「手を持ち上げろって! 焼けてるよ!」
一瞬遅れて、すごい痛みが手の甲に走る。手を落としていた。
「どうせ治る」
「しっかりしろって!」
どうしたって逃げられない。
妙生の責任にしようとしていただけだ。
そのまま外に出た。
「どこに行くんだよ!」と叫ぶ声がした。
黒戸の家に自転車を走らせた。
もう夜の十二時を回っている。空には大きな月が出ていた。今日は満月だったのかと、ふと思った。
満月の夜は犯罪が増える。引力が人の感情に影響を及ぼして、凶暴にするからだ。
あながち、迷信でもないのだろう。
母を殺した夜も、月は出ていたのかもしれない。
呼び鈴を押しても黒戸は出てこなかった。
庭に回り、ガラス戸に手をかけると、すんなりと開いた。
そのまま家に上がりこみ、廊下を進んで黒戸を探した。玄関から近いドアを開けると、飾り気のない部屋で黒戸は寝ていた。
月の明かりが窓からかすかに入り込んでいる。
布団で寝ている黒戸の前で膝をつき、手の平を顔の上にかざした。
黒戸の静かな呼吸が、皮膚を通して伝わってきた。
「上代君?」
と黒戸は目を閉じたままで言った。
「起きていたのか」
「私ってすごいから。足音が聞こえて起きたみたい」
かざした手が震えていた。
頭が痺れたみたいにジンジンと疼いていた。
「なにしに来たの、って訊いた方がいい?」
「言った方がいいの?」
うん、と黒戸は呟いた。
「もう一度、死んでもらいに来たんだ」
「上代君が私を生き返らせたのに?」
「黒戸を生き返らせたからこそだ」
「目を開けてもいい?」
僕はそっとかざした手をどけた。
黒戸は目を開ける。
月の明かりに照らされた黒戸の顔は、人を殺しているとは思えないほど綺麗で、目は澄んでいた。
「上代君、すごい顔してる」
「化け物なんだから、仕方ないよ。黒戸を殺すのに、笑って来た方がよかったのかよ」
「笑った顔は上代君には似合わないけどね。殺すなら早くしなよ。上代君になら殺されてもいいから」
「そうする」
「でも、どうしていきなり私を殺そうと思ったの? 理由があるなら教えて」
「たぶん、月が出ているからだ」
「かっこつけてるつもり?」
「かっこつけて人を殺すやつはいない」
「それもそうだね」
言えるわけないだろ、黒戸が人を食ったなんて。母と同じように、変わってしまったなんて。
「苦しくはないよ」
黒戸は再び目を閉じた。
僕は黒戸の額に手をかざし、集中した。
手の平が温かくなる。力を注いでいく。
黒戸の体がのけ反るように、動いた。
「すぐに追いかけるよ。さっさとこのつまらない世界から消えてしまおう」
さらに力を込めようとした。
だが黒戸はふいに目を開いて、僕を見た。そのまま僕の手を摑み、額からゆっくり剝がした。
僕は呆然と黒戸を見ていた。
「上代君も死ぬつもり?」
そう黒戸は言った。
握られる力が強くて、僕は困惑していた。
「そうするしかないだろ」
「それは駄目だよ。そんなの私は許さない」
「僕は母を殺して、お前まで殺そうとしてるんだ。そんなやつ、もう人間じゃない」
黒戸は僕の手を離した。上半身を起こして、その場に座り直した。
僕のことを睨んでいた。
「上代君は、幸せは限りがあるって言ったよね。その通りだよ、物も人も限られた数しかなくて、欲しいものを手に入れられる人は少ない。私はさ、上代君と一緒にいたいと思うけど、何人も殺してしまった私には幸せになる資格なんてとっくにないの。だから私が死ぬのは構わない。幸せが手に入らないのならその方がいい」
黒戸はなにを言ってるんだ。
「一緒にいてやるさ」
僕なんかでいいなら。
限られた時間しかないだろうけど。
「上代君は分かってないよ。上代君が死んでしまったら、幸せになれる人まで不幸にしてしまうの」
「そんな人、僕にはいない。みぞれのことを言っているのか?」
「そうじゃない」
黒戸は、僕の頰に手を当てて言った。
「もし私を殺して、あなたも死ぬと言うなら、私は自分が殺されることを拒む」
「どうして」
意味が分からなかった。
でも、僕は黒戸を殺すことを諦めるしかなくなっていた。
黒戸がそうさせないと思えば、結局僕にはどうすることもできない。
「上代君がここに来た理由を、聞いた方がよさそうだね。さっきまでは、私が変わってしまう前に、あなたは殺しに来たのだろうと思っていたのだけど。はっきり言えるけど、私は上代君のお母さんのようになってはいないし、そんな兆候もないよ。気分がすぐれないと言って、学校を休むことも前からよくあることだし」
「体がダルいって噓だったのか?」
「噓」
「変だとは思っていたけど」
僕は座り直して言った。
「M市内の殺人事件は知ってる?」
「私テレビ見ないから」
「そうか」
僕も人のことは言えないけど。
「もう三人が殺されている。死体はどれも惨殺されているんだ。その内の一体をさっき見た。刺殺された痕があって、殺したあと死骸を食ったような痕まで残っていた。それを見て僕は」
「私がやったと思ったわけか」
「生き返らせたあと、おかしくなってしまった母は、猫の死骸を食っていたんだ。それと似ていると思った」
「そんな事件私は知らないよ。刺殺された痕があるなら尚更じゃない。もし私の知らない間になにかが体を乗っ取ってそんなことしたとしても、刃物なんて使わないよ。必要ないし」
言われてみれば、そんな気もするけど。
「気分がすぐれなくて学校を休んだのは分かったけど、一昨日の日曜日は家にいなかっただろ? あの日はなにしてたんだ?」
「お見舞いに行ってた」
「お見舞い?」
「おじさん、怪我をして入院しているの。あの日、上代君うちに来たの?」
僕は頷いた。
「連絡が取れないから自宅に来るしかなかったんだよ」
「そうなんだ」
「お見舞いなら、そう言ってくれてもよかったのに」
「ごめんね」
「え?」
「それで、このあとどうするの?」
「すぐに出てくよ。勝手に上がり込んだのは申し訳なかったけど」
「一緒に朝までいてもいいよ?」
「帰るに決まってるだろ」
立ち上がり、部屋を出ようとしたところで黒戸は言った。
「上代君は二度とうちに来ないでね」
「明日は学校に来いよ」
靴の置いてある庭の方から外に出て、自転車を押して夜道を歩いた。
黒戸ではないなら、あの殺人は誰が起こしたんだ。
人間の肉や内臓を食うなんて普通じゃない。