綿流しの意義
雛見沢で毎年6月に行われている祭り「綿流し」。昔は冬の終わりを喜ぶ祭りであったらしく、レナは「傷んで使えなくなったお布団とかどてらとかにね、ご苦労さまって感謝して供養しながら沢に流すお祭りなの」と述べている。
その所作は「ワタを右手にもち、左手で御払いみたいにしてから、額、胸、おへそ。そして両膝をぽんぽんと叩く」というもの。これには身体に溜まった様々な罪や穢れ(ケガレ)を綿に移すという意味合いがある。
穢れの固まりとなった綿は、「記念に」などと言ってそのまま家に持ち帰ったりしてはいけない。最後は必ず雛見沢の清流に流し捨てなければならないのだ。そうすることで穢れが祓われ、清らかな心身を手に入れることができるのである。
人間は日々の生活で様々な罪や穢れを溜め込んでしまう。綿流しという祭りを執り行うのは、それを年に一度、大々的に祓うためだ。
雛見沢における穢れの最たるものは、四年連続で起こっている雛見沢連続怪死事件だろう。人の死は言うまでもなく忌むべき出来事であり、自分が住んでいる土地でそのようなことが起きれば、誰もがお祓いをしたいと願うのは当然だ。詳しく描写されることはなかったが、雛見沢住民の心の内が気にかかる。
綿流しの祭りには、土地の守り神であるオヤシロさまに感謝を捧げるという作法がある。祟り神でもあるというオヤシロさまは、罪と穢れにどのような関係を持っているのだろうか?
これと同じ意味合いを持った祭りは、他の土地でも行われていた。たとえば、比較的近年まで行われていた風習「流し雛」がある。3月3日——雛祭りの夕方に河川へ行き、雛人形を流し捨てるのだ。
歴史を遡ると、陰陽道では身体を木や金属の人形で撫でて悪霊を移した後、河原や辻などの境界に捨てて清めるということを行っていた。この人形を撫物(なでもの)という。
これらは私たちの身代わりになってくれる人形(ひとがた)なのである。
流れのない沼がよどむのとは逆に、流れ続ける川が清らかであることは誰もが知るところだ。人々はその浄化力に頼って穢れを祓っていたことになる。川が境界としての性格を有していることも、この思想と無縁ではない。
綿や人形は境界へ捨てられ、罪と穢れを託されて人里の外へと流されていくのである。
参考資料
小松和彦『日本の呪い 「闇の心性」が生み出す文化とは』(光文社)