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祭囃し編

昭和の公衆電話2「美代子の脱走劇」

 暇潰し編コラム「昭和の公衆電話」に続き、当時の公衆電話にちなんだ話をしよう。

『ひぐらし』には何度か電話ボックスが登場し、いずれも重要な役割を果たしている。

 昭和中期の電話ボックスはクリーム色のボディと赤い屋根が特徴的な「丹頂形」というタイプだった。金属板で作られており、三方の上半分に窓が設けられている。中に入ってしゃがむと外から姿が見えなくなるため、子供たちがかくれんぼのポイントにすることもあった(もちろん真っ先に疑われる場所でもある)。その構造上、電話ボックスの中で悪さをする人が後を絶たず、防犯上の問題にもなっていたという。これを解決したのが四方を透明なガラスで構成した電話ボックス「A-BOX」だ。昭和44年(1969年)から全国的に導入されるようになり、現在でもこの流れを汲んだデザインが広く用いられている。

 A-BOXへの交換は急速に進んでいったが、昭和50年代でも丹頂形の電話ボックスは生き残っていた。奥地にある雛見沢ではまだ古めかしい丹頂形が使われていたかもしれない。祭囃し編で美代子が発見する電話ボックスは次のように描写されており、丹頂形であることがよく分かるようになっている。彼女の逃走劇は昭和32年(1957年)なので、まだA-BOXがない時代だ。

〈四方を鋼鉄製のボックスがしっかりと守り、私を冷たい雨から守ってくれる。〉

〈確かに、窓の部分は高いから、しゃがみ込んでしまえば外からは見えないだろうけども。…このような暗闇の森にある唯一雨宿りが出来る場所なのだ。〉

〈職員が中を確かめないわけがない。…私はいつまでもここにいられないのだ。〉

〈当時の電話ボックスは今日のような全面ガラス張りではなかったため、電話ボックス内に隠れることが可能だった〉

『ひぐらし』における電話機は日常と非日常の世界を繋ぐ道具でもあった。受話器のあちら側は一種の異世界であり、こちら側と明確な対比を見せるシーンが多い。

 四面楚歌の圭一が頼みの綱にしていた自宅の電話。そして死の寸前、大石にすべてを託そうとした電話ボックス。

 鬼となった詩音が魅音を騙ってかけた、圭一への電話。

 祭囃し編では、先ほど取り上げた美代子と高野一二三の通話がそれに該当する。施設からの追っ手が迫る中、運命を変えるために受話器を手に取り、あちら側の高野に救いを求めた美代子。彼女はそれをきっかけに絶望の世界から抜け出すことができたのだ。二つの世界を隔てる境界を、自らの意志で乗り越えた瞬間である。

 美代子は「強い意志で誰かに相談することで運命を切り開いた人物」と言える。彼女は鷹野三四を名乗るようになった後も、人脈を頼りながら夢の実現に邁進する。雛見沢での活動が行き詰まろうとした時、交流がなかった小此木に自分から相談することで、神主殺害という新たな方策を手にしたこともある。惨劇の黒幕だった彼女が圭一たちと共通の要素を持っていた理由は、羽入との対決——意志と意志のぶつかり合いに象徴されている。

 鷹野が敗北したのはなぜなのか。彼女はどこで道を誤ったのか。『ひぐらし』のテーマに重ねながら考えてみてはいかがだろうか。

 なお、美代子の体験は決して絵空事とは言い切れない。教育という名目の下、死に至るような体罰を加える——現実世界の昭和58年(1983年)にもそのような事件が発覚していたからだ。戸塚ヨットスクール事件である。この年に逮捕された校長は、以前から体罰による教育の正当性をカメラの前で堂々と主張していた。それを見て「なるほど、その通りだ」と同調する国民が少なくなかったのは、今と違って体罰が全国的に行われ、それがある程度受け入れられていた時代だったことも関係しているだろう。しかし昭和57年(1982年)、コーチたちによる生徒1人への傷害致死事件が発生。それをきっかけとした捜査・起訴によって、すでに2人が死亡(うち1人は病死扱いで不起訴)しており、2人が洋上で行方不明(監禁致死)。さらには脱走者や多数の怪我人がいたことなどが次々と明るみに出るに至り、教育の枠を越えた暴行死事件として社会に強い衝撃を与えたのである。

雛見沢症候群と現実世界

 今回は皆殺し編と祭囃し編で明かされた真相を踏まえながら、雛見沢症候群の問題を扱ってみたい。まずは罪滅し編のコラムに続いて、現実世界から薬物中毒者の症状を紹介する。そこには架空の病気である雛見沢症候群を、現実世界のフィルターを通して理解するための実例があるからだ。

 薬物依存の症状は、経験がない者には想像もつかないほど凄絶である。たとえば代表的なダウナー系ドラッグであるヘロインは、現実感を完全に喪失して快楽の世界に入り込める危険な代物だ。そして効果が切れると凄まじい苦痛に襲われる。『麻薬とは何か——「禁断の果実」五千年史』(新潮社)第二章において、吉永嘉明氏はヘロインの禁断症状を次のように述懐している。インドのベナレスでアパートにこもり、手持ちのヘロインがなくなるまで一ヶ月間やり続けた後のことである。

〈そこからが地獄であった。体中が生まれてこの方、味わったことのないほど強烈に痛みだし、寝ても立ってもいられない。部屋中をのたうちまわった結果、二階であったので、窓から飛び降りようとした。しかし、どうしても窓が開かずに、私は助かったのである。〉

 ヘロインはすぐに耐性がつくため使用量も増え、禁断症状はどんどんひどくなっていく。自分の身体に噛みつく、壁に繰り返し頭を打ち付ける、あまりの苦痛から錯乱状態に陥る——。原因こそ違うが、マンションの一室で暴れていた目明し編の詩音を思い出す者もいるのではないだろうか。フィクションの世界でよく描写される凄まじい禁断症状は、ヘロインのそれをイメージしたものだという。

 また、幻覚に支配されるようになった薬物中毒者が「私は神を見た」などと訴える例もある。『ひぐらし』でも「うじ湧き病」という幻覚・幻触に囚われていたレナが、光の中でオヤシロさまを目撃していた。その実体験があったからこそ、彼女はオヤシロさまの実在をしきりに主張していたのだろう。そして作中で謎の足音を聞いた人物は、全員レナと同様に症候群で感覚異常を来し、本来ならば察知できない羽入の気配を感じ取っていたものと結論できる。これは『ひぐらし』におけるルール(規則性)の一つである。

 もちろん、足音の正体を論理的に推理することは不可能だった。しかし圭一たちが感覚異常、即ち中枢神経の異常を来していたことは推理可能だったわけである。それはなぜ起きたのか——考え得る原因は、薬物あるいは病気の二つに絞り込まれることになる。

 ちなみに当時の私は架空の薬物と病気の存在を極力排除しつつ推理していたため、「圭一たちに既存の薬物を用いた犯人がいる」と考えていた。いずれにしても足音の正体は演出の一環に過ぎず、事件の推理には影響を及ぼしていない。推理可能なポイントは他にあり、そこを徹底的に追いかければ犯人に迫れるようにデザインされているからだ。真犯人の推理に関して特に重要だったのは、祟殺し編の終盤で入江診療所のスタッフが発する「山狗」という単語、そして暇潰し編における誘拐犯と入江の発言である。再読をお勧めしたい。

 雛見沢症候群に着目しつつ、もう一度鬼隠し編と罪滅し編を振り返ってみよう。この二編は対になっているため、共通する描写がとても多い。圭一とレナの感覚異常を抜粋すると、「狂った体内時計、嘔吐感、平衡感覚の喪失、歪む視界、聴覚の非現実感、熱っぽさ、紅潮する顔、朦朧とする意識、追跡妄想、被害妄想」という一致が見られる。これらはすべて薬物中毒者にも現れる症状であり、二人が中枢神経に異常を来していたことを窺わせる描写である。圭一、レナ、詩音、富竹、悟史、沙都子、バラバラ殺人事件の主犯……彼らがどのような異常に襲われ、どれほど恐ろしい世界に放り込まれていたかは、一人称のシークエンスを再確認すれば手に取るように分かるだろう。

 精神外科医への道を進んだ入江、そして事故による脳器質性精神障害で人格変容を来してしまった彼の父は、雛見沢症候群がもたらす周囲との断絶に重ねられている。自分の意志で服用を始める者が多い薬物への依存症よりも、そうでない事故や病気の方が『ひぐらし』にはふさわしい。なぜならそれが雛見沢症候群によってもたらされる、やむにやまれぬ悲劇性に通じているからである。

 入江は沙都子の両親が死亡した転落事故に対して一つの確信を抱いていた。症候群を発症した沙都子が極度の疑心暗鬼に囚われて、親子の交流をしようとしただけの両親を展望台から突き落としてしまったというのだ。彼がそれを、沙都子による「事件」や「事故」ではなく、〈ただただ悲しいだけの、……「悲劇」があっただけなのだ。〉と表現していたことを忘れてはならない。

参考資料

『麻薬とは何か——「禁断の果実」五千年史』(新潮社)

『アルコール,タバコ,覚せい剤,麻薬 薬物依存Q&A』(ミネルヴァ書房)

詩音と悟史の関係

 悟史に恋心を抱き、やがて悲劇の主人公になってしまった詩音。目明し編の彼女に感情移入した読者は数多い。

 しかし、一方で「詩音はただ片想いをしていただけで、悟史から好意を持たれていなかったのではないか」と言う読者もいた。彼が交流を深めていたのはただの詩音ではなく、「魅音を名乗った詩音」だったからだ。彼女が園崎本家から身を隠すために正体を偽っていた以上、二人の関係は深まりようがないようにも見える。どれだけ言葉を重ねても、悟史にとってはいつも顔を合わせている魅音なのだから。

 しかし本当にそうだろうか。詩音と悟史が引き裂かれる時に交わした最後の会話を、よく確認してもらいたい。大石に同行して取り調べを受ける直前、彼はこう言っていた。

「たまに、教室の魅音と話が食い合わないことがあったから、違和感は覚えてたんだ。……やっとわかったよ。」

 悟史は途中から「魅音」の様子がおかしいことに気づいていたのだ。彼はのんびりしているように見えて、人の心や場の空気を察する術に長けている。叔母をなだめ、沙都子を虐待から守り続けていたように——。

 綿流し編の圭一とは違い、悟史は詩音が「魅音によく似た他の誰か」であることをほぼ確信していたようである。だから正体を明かした詩音にあまり大きな驚きを示さなかったのだ。その際、朗らかな笑い声を上げたのは「やっぱりそうだったんだ」という気持ちがあったからではないだろうか。

「詩音…。……うん。いい名前だね。」

 悟史が最後に残した言葉である。

 彼はここで初めて詩音の名を呼んだ。まるでその名を噛みしめているかのようだ。真実を知った悟史は、それまで「彼女」と交わしてきた言葉の意味を、「彼女」が自分に寄せていた好意を、すべて理解したのではないか。

 悟史が詩音に恋愛感情を抱いていたかは分からない。だが、彼女を心から信頼していたことは確かである。それを示すのが祭りの前夜に交わされた通話だ。

〈叔母が帰ってきて、一刻も早く受話器を置きたいだろうに。

 …悟史くんは一呼吸置いて、一番大事な一言を告げるように言った。

「沙都子のこと、…………頼むからね。」

 私は即答で頷いて、せめて悟史くんを安心させるべきだった。

 …なのにこの時の私は、…沙都子のことをまだ許せていなくて。……黙り込んでしまった。〉

 悟史は「彼女」に沙都子を託していたのだ。全身に傷を負い、心を病んでまで守ろうとした、かけがえのない存在を——。

 それは最高の信頼の証しである。

 時には沙都子を巡って激しく衝突したこともあった。それでも悟史が「彼女」に沙都子を託したという事実を、よく考えてもらいたい。詩音と悟史の関係は「片想い」というひとことで片付けられるほど軽いものではないのである。

 残念ながら、惨劇を回避できた祭囃し編でも悟史の意識は戻っていない。しかし入江はこう断言した。

「微弱ですが、……この1年、…脳波の傾向に回復の兆しが見られるのです。(中略)必ず、悟史くんを、……雛見沢に連れ帰ってみせます……!」

 現実世界の未来に何が起きるかは誰にも分からない。だがフィクションの世界では、文脈を読み取ることでまだ見ぬ未来を確信することができる。入江の台詞が意味するのは悟史の快復、そして詩音との再会である。

 雛見沢症候群に冒されて叔母を撲殺した記憶は、果たして彼に残っているのだろうか。いずれにせよ——たとえ法的に罪に問われることがなかったとしても——悟史にとって決して楽な道のりにはならないはずだ。それでも彼はいずれ幸せを手にできると信じたい。なぜなら詩音や入江を始めとする仲間たち、本心を隠しながら北条家を村八分にしてきた園崎家、ひいては雛見沢の全住民が、彼をしっかりと支えていくはずだからである。

仮説と真実

 祭囃し編では、入江機関が行った非人道的な実験が描かれている。鷹野が強硬に推し進めた殺人と投薬、そして解剖……。バラバラ殺人事件の主犯を生きた検体にしてからというもの、こうした実験・研究はたびたび行われていたようである。

 さて、テネシー州のノックスヴィルには、人間の死体を放置して経過を観察するという極めて特殊な施設が実在する。テネシー大学人類学研究施設——通称「死体農場」だ。そこで行われる実験は、貴重なデータとして犯罪捜査などに役立てられている。死体を土中に埋めたり、野ざらしにしたりするのである。

 女流作家のパトリシア・コーンウェルは、この施設を訪れて一つの実験を依頼している。小説に用いる筋書きを再現し、犠牲者の死体がどのように変化するか確認してもらいたいというのだ。創立者であり所長でもあるビル・バスはこの異常な依頼に大変驚いたが、同時に強い知的好奇心を覚えて協力を約束。そして、〈小説に必要なディテールがこの実験でえられた〉という。後にコーンウェルがその小説に付けたタイトルは『死体農場』であった。

 皮肉なことに、ベストセラー小説に取り上げられたことで社会的な注目を浴びた死体農場は、メディアから〈事実を歪曲して、わざとどぎつくした〉報道をされ、一時期存続の危機に立たされたことがある。それは〈退役軍人たちが死後に死体農場で不当な扱いを受けている〉という批判だった。ビル・バスは退役軍人に〈心からの敬意を抱いて〉いたが、メディアは〈わたしのそんな思いなど一顧だにしなかった〉という。

 さて、『ひぐらし』の梨花たちが運命の袋小路を脱すると、昭和58年9月1日に世界を震撼させる大事件の発生を知ることになる。大韓航空機撃墜事件である。民間機である大韓航空007便がソビエト連邦(ソ連)の戦闘機に撃墜され、日本人28名を含む乗客乗員269人全員が死亡するという前代未聞の大惨事だった。当時のソ連政府は詳細を明かさず、事件の深部は闇に覆われてしまう。一部で「国家的陰謀ではないか」という論が巻き起こったのも無理はない。

 一方『ひぐらし』における大災害は、政府を巻き込んだ本物の陰謀だった。滅菌作戦実行を決断した者たちは、誤った論文を信じ込んで約2000人もの住民を殺害してしまったのである。

 センセーショナルな事柄に対して、人々は「もっともらしい仮説」を受け入れてしまいがちだ。死体農場に関する報道も、事情を知らない人から見れば実に「それらしい論」に見えたことだろう。大石を始めとする警察だけでなく、圭一たちや雛見沢住民、そして多くの読者も一度は信じたであろう、「黒幕は園崎家」「事件は村ぐるみの犯罪」という仮説も同様だ。山狗たちはこれを隠れ蓑にして暗躍していたわけである。

『ひぐらし』の世界において、誤った視点で対象を見ることがいかに恐ろしいすれ違いを生むか、読者は何度も目撃してきたはずだ。規模の違いこそあれ、滅菌作戦と雛見沢連続怪死事件の根底に流れるテーマは共通しているのである。

参考資料

小学館『実録死体農場(DEATH'S ACRE)』ビル・バス&ジョン・ジェファーソン(著)・相原真理子(訳)

『ひぐらし』における「聖地巡礼」

 近年、ゲームや漫画、ドラマなどのモデルとなった場所を訪れる舞台探訪——いわゆる「聖地巡礼」がよく行われている。記憶に新しいのは、『戦国BASARA』(カプコン)を始めとする作品で歴史に興味を持ち、武将ゆかりの史跡を訪ね歩くようになった女性ファンだ。彼女たちは後に「歴女」と呼ばれ、その存在が広く知られるようになっていった。

 さて、『ひぐらし』の舞台となる雛見沢が、岐阜県の白川郷をモデルにしていることは有名である。原作の同人ノベルゲーム時代から聖地巡礼が行われており、ファンはイメージのモデルになった場所を探し歩き、インターネットでその様子をレポートしたりしている。

 その際、たびたび話題になるのは観光時のマナーである。

 たとえば登場人物を真似た(コスプレ)姿で外を歩くといった行為は、ファンの間でもその是非が議論されてきた。『ひぐらし』を知らない人の目には奇異に映るだけに、気にしているファンも多いことだろう。

 実際に現地の方々の声を聞くと、「そうした行為を規制するつもりはない」という意見が多いようだ。また、『ひぐらし』ファンのマナーは全体として非常に良好であるという。もちろん法に触れるような格好・行動は厳に禁じるが、節度を守って観光をしている限り問題視はしないとのことである。

 また、古手神社のモデルとなった白川八幡神社に『ひぐらし』のイラストを描いた絵馬を奉納する行為も多く行われているが、こちらも「若い方が宮に参ることは喜ばしい」と好意的に受け止められているとのことだ。

 ただし、「全住民が同じ考えを持っているわけではない」という点には注意を払う必要がある。作品の内容(陰惨な要素)や『ひぐらし』ファンに抵抗を持っている方が、一部にいらっしゃるのも事実である。

 それだけに、ファンには今後とも節度ある振る舞いが求められる。

 白川郷の合掌造り家屋はれっきとした民家である。聖地巡礼では一般の観光客と異なる記念撮影をする機会が多くなるが、住民のプライバシーには十分な配慮が必要だ。

 また、白川八幡神社には当然ながら本来の祭神がいる。奉斎されているのは応神天皇だ。境内には木製の縁起板があり、神社の由来を知ることができる。「オヤシロさま」や「古手神社」だけでなく、「白川八幡神社」本来の姿をしっかりと意識しながら参拝したい。

 観光の際はマナーや祭祀の意味をよく考え、ファンとして「作品と聖地の良好な関係」を心がけたいものである。

『ひぐらしのなく頃に』最後の問題——鷹野を倒すもう一つの方法

 最後に、私たちが模索しなければならない問題を記して、このコラムの結びとしたい。 『ひぐらし』では「仲間に相談して力を合わせることで困難を乗り越える」という重要なモチーフが描かれている。相談と協力によって、殺人の技術すら持っている強大な敵を退けるというのは、もちろん現実味の薄い筋書きである。竜騎士07氏は原作版祭囃し編のスタッフルームにおいて、自ら〈…非常に残酷ですが、現実世界はそこまでやさしくありません。(中略)その一点においてのみ、この世界はファンタジーであると言ってもいいでしょう。〉と認めた上で『ひぐらし』のテーマと勝敗のルールを語っている。

〈この『ひぐらし』の世界にはたった1つ、魔法の法則がある。

 それは、みんなに相談し、みんなの力を得れば、どんな困難にも打ち勝てるということ。

 どんな奇跡も起こせるということ。

 それが絶対法則として示されるなら、これはもはや魔法、…そう、「システム化された奇跡」と呼べるでしょう。

 劇中で羽入たちが語ったとおりです。

 これこそが『ひぐらしのなく頃に』の世界観です。〉

 新たな敵を設定して一致団結するのは〈永遠の争いの連鎖〉であり、〈それこそが人の世の鬼〉と断じられている。即ち、鉄平を倒して沙都子を救い出した皆殺し編や、鷹野を倒して運命を切り開いた祭囃し編でさえ、〈実は最高の解ではない〉というのだ。

 そして竜騎士07氏は読者に一つの問いを投げかけている。

〈彼らは、どうやったら鷹野と仲良くなれるのでしょう。

 まさか、「東京」を新しい敵に据え、鷹野と共同戦線を張って仲直り…とは言いませんよね?

 この話を延々と続けていくと、最後には宗教的な次元にまで達してしまうような気がしますので、これ以上の議論は控えましょう。

 『ひぐらしのなく頃に』の世界観に沿った、最高の結末とは果たしてどのようなものなのか。

 ……それはひょっとすると、「祭囃し編」よりも、もっともっと素晴らしい物語なのかも…。

 この問題はきっと、『ひぐらしのなく頃に』の卒業問題になるかと思います。〉

 圭一が疑心暗鬼に囚われて仲間を殺害してしまう鬼隠し編。人殺しという短絡的な手段で問題を解決しようとした祟殺し編……。他の編でもこれらの要素は形を変えてリフレインされており、そのすべてが悲劇で終わる。

『ひぐらし』における最高の解決とは、話し合い、相互理解を深め、平和的な手段で解決することだろう。運命の袋小路を回避するために必要だったのは連帯であり、力を合わせれば問題を解決できるという、仲間を信じる心だった。

 あの人物が協力してくれるはずがない、話したところで無意味だ——そう思い込んでずっと孤独な戦いを続けていた梨花は、罪滅し編以降の経験を経て己の過ちに気づくことができた。祭具殿の中を見せるという譲歩であの鷹野でさえ協力的になったシーンは、『ひぐらし』のテーマの深部を感じさせるところである。

 鷹野は黒幕だったため事件の解決には直結しなかったのだが、最大の敵に対して相互理解の可能性が提示されていたことを見逃してはならない。高野一二三と研究への思い、孤独、富竹という理解者……それらが正しい方向に向きさえすれば、彼女は全く違った道を歩んでいたはずなのだ。

 作中で絶対悪として描かれていた人物、北条鉄平に対しても同じことが言える。彼は北条家に仲間を集めて麻雀に興じていた。彼らもまた反社会的な人物だったようだが、少なくとも鉄平には「趣味を通じて楽しみを共有できる仲間」がいたのである。

 この最終問題に明確な答えが示されることはないだろう。

 しかし私たちは思い出すことができる。

 圭一たちがいかにして運命の袋小路を打開したかを。

 私たちは考えることができる。

 作中で悪役として成敗された人々にも、より平和的な結末があり得たのではないかと。

 あなたは『ひぐらし』を読み終えた今、そこにどんな答えを導き出すだろうか。

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