星海大戦
第十八回
元長柾木 Illustration/moz
元長柾木が放つ、渾身のスペースオペラ!10年代の文学シーンをリードする「星海社SF」ムーブメントの幕開けを、“たった今”あなたは目撃する————。
第4章 理想のいくつかの貌
1
土星中心から120万キロあまりの軌道を周回するタイタンは、土星系で最大、太陽系でも木星系のガニメデに次ぐ大きさをもつ大衛星である。
テラフォーミングされる以前は、濃密な窒素大気をもち液体メタンの雨が降る、オレンジの靄に覆われた天体だった。人類が発生以来生を営んできた惑星とはかけ離れた環境だったが、地球の大気圧を凌ぐ1.5気圧という地表面気圧のために環境改変はむしろ容易であり、入植の開始は小惑星帯のケレスなどより早かった。
天族を称する、ユーラシア大陸東部の平原に起源をもつ人々の入植以後は、強化医療の一大中心地として発展した。タイタン氏族連合として統一されて以降は技術至上主義的な思潮を有する遠惑星諸国のなかで長く指導的立場にあり、大戦を経て協定球圏が《敵》の手に落ちたのちは太陽系を二分する勢力の片方の中心として君臨している。天体単体での経済規模でみるならば、太陽系最大である。
恩寵暦432年8月5日午前10時40分。
タイタン南半球の低緯度平原地帯に位置する首都星海は、反射鏡が作りだす午前の柔らかな陽光に包まれていた。自然の摂理に従うならば1週間ほど続く夜のさなかにあるのだが、太陽系の多くの都市と同じく、バルニバービ協定で定められた世界時に準拠して日照が調節されている。
恩寵会議に出席しこの日帰国したばかりの恩寵部長官蔡艮は、星海において陽光の恩恵を最も大きく受ける場所にいた。
広い半円形の部屋だ。円弧にあたる部分すべてが外光を透過する素材でできており、上都とも別称される都市圏人口5500万の太陽系最大の都市を見下ろすことができる。星海のほぼ中心部にそびえ立つタイタンの最高執政府天宮の上層階の一室である。
部屋は蔡艮のものではない。この場所が彼のものになるまでには、まだ数えきれないほどの階梯を上らなくてはならない。
現在のこの部屋の所有者は、趙歩天。地位は、タイタン氏族連合・連合主席。つまり、タイタンの、ひいては土星圏の最高権力者である。蔡艮はこの部屋を訪れ、先刻から恩寵会議の首尾を報告しているのだった。
「……土星圏中央銀行の総裁は、康懿が承認されました。彼の見識ならば、余命価を安定的に上昇させることができるでしょう。前任のレア人のようなことはないはずです。例のごとくレア大公が不満を述べたてていましたが、抗する手だてをもちあわせているわけではありません。愚痴のたぐいと考えてよいでしょう」
黒檀の机の向こうで、椅子に沈みこむように腰かけて蔡艮の報告を聞いている連合主席は、120歳を超える老人である。
「よろしい」
老人は穏やかに言った。
肥満しているが醜くは見えず、悠然とした所作や物柔らかな表情もあいまって、穏やかどころか福々しい印象がある。顔には多くの皺が刻まれているが、老いというより赤ん坊のような無垢を感じる。そこには、ある種の神々しささえ漂っている。
慈しむような表情でゆっくりとうなずきながら蔡艮の報告を聞くこの老人が、タイタンの155の民族、20億を超える人々を統べる権力者なのだ。
正式な年齢は公にされていない。150歳になるという説もある。地球外知性《敵》の出現のはるか以前から生存しており、かれらと最初の接触を行った外交官である程昂石の同僚であったともいう。
直立して淡々と報告を行う蔡艮だが、内心はそう平静でもなかった。生ける伝説ともいえるこの老人の前では、どうしても緊張を強いられてしまう。趙歩天は声を荒らげて他人を叱責するようなことはけっしてしない、表面上温厚篤実な老人であるが、であるからこそよけいに底知れない恐ろしさがある。人の精神を鎮静させる午前の光も、現在の蔡艮に対しては奏効していなかった。
「共通語に関しては、人口比にしたがった合理的な言語形成を目指すが、それぞれの言語の主体性を尊重する――という穏当な線に落ちつかせました。花を持たせたわけですが、これは時間が解決するでしょう。最終的にはわれわれの人口が勝利します」
老人はゆったりとうなずく。
その所作は、蔡艮の発言に、ひいては彼自体に関心をもっていないのではないかと感じさせる。彼の観察眼によっては、内面をうかがい知ることができない。それは、たとえばミーミルのメーデバッハなどとは異なる不可解さだ。メーデバッハのごときは性格として不可解という程度のことにすぎないが、この老人の場合は存在のありようとして理解を超えるのだ。
冷や汗をにじませながら、蔡艮は恩寵会議についての報告を終えた。要約すると「諸事滞りなく」といったところで、問題はないはずだった。老人の態度は、ずっと鷹揚なまま。
察しえないことについては考えないよう努めて、蔡艮は別の話題をもちだした。
「今日未明、私がまだ恩寵代表船にあるときですが、イアペトゥスで変事が発生しました。地上軍の一部将校による叛乱です」
福々しい老人は、満ち足りた赤子のように細めていた目をすこしだけ見開いた。
その視線に気圧されないようみずからを奮いたたせながら、蔡艮は話を続けた。イアペトゥスの政治的中枢――八紘宮の状況の推移を時系列に沿って簡単に述べてから、最後に言った。
「イアペトゥス政府の方も不法を弾劾する旨の声明を出しましたが、事態は動いておりません。――現在のところ、事態は順調に推移しているといえます」
「見事に君の仕掛けた罠にひっかかったというわけだな」
「はい。砂漠で渇いた者に水を与えるようなものです」
イアペトゥスにおける変事は、蔡艮が発案し趙歩天が了承した陰謀の成果である。
土星圏におけるタイタンの優位をより強固にするために、そして何よりタイタンにおけるみずからの立場を上昇させるために、蔡艮は陰謀を仕組んだ。タイタンに悪感情をいだき八尋家の統治に不満をもっている、復古主義の将校や非主流派貴族をけしかけたのだ。簡単だった。タイタンの横暴が目につくよう、ふだんよりすこしばかり大げさにふるまってやればよいだけのことだった。
「どのような結末を迎えるにせよ、八尋の眷属にとってはよい結果とはならないでしょう」
蔡艮が言うと、老人はうなずいた。
「そうなるとよいな」
そのようすはあくまで福々しく、純粋に部下の成功と祖国の繁栄を願っているように見える。
しかし蔡艮は、表面の態度どおりに受けとることができない。何らかの含意があるように感じられてならないのだ。
蔡艮は趙歩天に対してというより、自然と乱れゆくみずからの精神に対して言った。
「ご安心ください」
「奇妙なことを言う。私は最初から安心している。――失敗しても、命を落とすのは私ではない」
あくまで柔らかな主席の発言に、蔡艮は息を吞んだ。剣の切っ先をつきつけられたように感じた。
蔡艮の動揺を知ってか知らずか、老人はつけくわえた。
「むろん君でもない。われわれが《大多数》であるかぎり、もくろみが当たっても外れても、敗れ去るのはわれわれ以外の誰かだ。人は、真理には勝てない」
《大多数》――それは、タイタンの統治を支える根幹概念だ。
タイタンにおいて、天族の人口は圧倒的多数を占める。そして土星圏において、タイタンの人口は圧倒的多数を占める。それゆえに彼らは勝利する。人口の大きさこそが、絶対的な国力の源なのだ。タイタンの政策はすべて、この考えにもとづいて決定される。
「君も《大多数》だ。あらかじめ勝利している」
「――はい」
蔡艮もタイタンの統治原理など重々承知している。にもかかわらず、この老人の口からそれが発せられると、そら恐ろしさがついてまわる。民族や国家とは違う枠組みでとらえるならば、「老人」こそが《大多数》であるからだ。
趙歩天は蔡艮が生まれたときからすでに老人で、最高権力者だった。そのような存在は、得体の知れない脅威だ。権力をもった老人がずっと生きている、そんな恐怖にかられることがある。
事実だけを述べるならば、趙歩天が長い権力闘争の末に連合主席の地位を得たのは、蔡艮が生まれる直前のことで、老齢になってからのことだ。かなりの晩成であり、生まれついての権力者ではない。趙歩天の死も権力交替も、どちらが先になるかは別にして、いずれ訪れる。永遠の権力者などありえない。
理屈の上ではわかっている。わかってはいても――
――世界の蓋だ。
趙歩天の存在とみずからの怯懦、双方に関してそのように感じる。彼はそれを、何としても打破しなければならない。
もともと彼は、障害は打破して通るべきであると考える人物である。
蔡艮はこれまで、強引なやり方で上昇してきた。巡撫官僚として地方で少数民族の監督業務にあたり、トラブルに際してはときに強硬な施策を行った。省軍の動員を要請して騒動を鎮圧したこともある。
通常タイタンにおいては、そのような実力行使は高く評価されない。
タイタンの基本的な統治技法は、医療技術が下支えする、天族の巨大な人口による同化政策である。長期的にみるならば、暴力の行使よりもそちらの方がはるかに効率的なのだ。ゆっくりと血と文化を混淆させてゆき、少数者のアイデンティティを薄れさせ、《大多数》になじませてゆく。3日で鎮圧するより、10年かけて忘れさせる。それが優れた統治だとされる。
蔡艮も、基本的には同意する。しかしまた、彼は考えるのだ。
――では、10分で鎮圧すればどうだ?
当事者以外が騒動があったことにも気づかないほどの早さで解決すれば、忘却はより早く訪れる。いや、認識する前に忘却する。
その考えは、蔡艮の信念と性格と方便との混合物だった。彼は暴力に親しみをもつ野心家であり、短期間で目立った功績を示し上昇するためには、強引な手段が必要だったのだ。
賭けではあったが、さいわい趙歩天の目に留まり、重用された。その結果、現在31歳にして恩寵部長官という要職にある。
しかし、ここが目的地ではない。それなりの地位を得てもなお、彼は従前のやり方を通すつもりだった。
タイタンの同化政策は、蔡艮の目にも完璧に映る。しかしその先にあるのは、勝者のいない勝利だ。タイタンあるいは天族という概念そのものの勝利といってよい。誰も勝ってはいない。
それでは足りないのだ。
蔡艮は、自分こそが勝利したい。タイタンが太陽系宇宙を制覇したときに、その頂点にいるのは概念ではなく個人でなければならないのだ。
2
昼前の陽光のもと、星海を南北に縦貫する盛世路は、人でごった返していた。
星海最大の繁華街である。
極彩色の赤や黄や緑に彩られた建物が両脇に立ちならぶ街路は、航空機が離発着できるほどの道幅をもっているが、それでも余裕をもって人々を受け入れているとはいいがたい。内衛星のような階級システムもないため、いたるところで道行く人々がぶつかりかけたり、あるいは実際にぶつかったりして、怒号に近い大声が飛びかっていた。
それでも通りを支配する雰囲気は、殺伐ではなく活気だった。
タイタンの人々はもともと大声で話すし、感情をよく表現する。顔を赤くして青筋を立てて怒鳴っているくらいでは、激しているとはいえないのだ。
ほぼ直線の通りは、ところどころで結節のように円状に大きく広がっている。その部分は広場になっていて、いくつものテーブルやベンチが置かれ、人々は周囲の店で買ったものを飲食し、けたたましく歓談している。タイタンの人々は自宅で食事をとるという習慣があまりないので、これらの広場から人出が絶えることはない。
盛世路にいくつかある広場の1つで、3人の男女がテーブルを囲んでいた。
簡素な丸テーブルに溢れんばかりの食べ物を載せて食事をしているのは、2人の男と1人の少女だ。男は2人とも30代なかばほど、少女は10代のまだ前半に見える。
細面ですらりと姿勢のよい、どことなく自他の双方を嘲笑しているかのような皮肉な表情を浮かべている男が、その表情を保ったままで、大きく口を開いて炙った鶏の腿肉にかぶりついた。あくまで表情を崩さずに鶏肉を力強く咀嚼し吞みこんでから、きれいに歯形の残っている腿肉を見て言った。
「でかいだけじゃない。いい肉だ。とてもあの店の品とは思えない」
男の名は、庫翡潤という。現在35歳。土星軍軍人であり少将の階級をもつ戦隊司令であるが、現在は休暇中で故国に滞在している。
庫翡潤の言葉に反応して、もう1人の男が牛肉麵のスープをすすりながら言った。
「文を行かせたのは正解だったな。あそこの親爺は、子供には甘い」
椅子に座っていても長身だとわかる庫翡潤に対して、こちらは中肉中背だった。太く直線的な眉とそれに似合う黒目がちの目をもった、実直な印象を与える男だ。肌の色もやや濃く、外見は天族の一般的特徴とは異なる。
木容推。属する艦隊は異なるが、庫翡潤と同じく土星軍少将にして戦隊司令である。庫翡潤より1歳年少で、34歳。
彼らは10年来の友人関係にあった。
鶏肉をもうひと囓りして、庫翡潤は言った。
「子供に甘い。ふん、なかなか婉曲な表現だ。それだけであればよいが」
「何を言っている。じゃあ君は何なんだ」
木容推は、会話を交わす2人をよそに、両手に豚肉の饅頭を持って交互にかぶりついている少女の方に視線をやった。
髪は短く小柄で丸顔であり、さらに動作が子供っぽいため10代前半に見られることが多いが、実際の年齢はもう少し上だ。木容推の妹である木容文は、現在17歳である。
そしてこの少女は、木容推の妹であると同時に、庫翡潤の妻でもあった。つまり男2人は、友人であると同時に義兄弟でもあるのだった。
「俺は年齢で妻を選んだわけではない」
庫翡潤はこともなげに言う。
兄と夫の視線を受けながら一心不乱に饅頭を食べる少女の口のまわりは肉汁で汚れ、顎をつたってテーブルにまで滴っている。
しかし、男2人はそれを注意したりはしない。食事は、好きなものを好きなだけ好きな流儀で食べる。それが彼らの信念だったからだ。
「それを聞いて、兄として安心したよ」
木容推はあらかた食べおわった牛肉麵の器を脇にのけて、塩茹でした海老を手づかみで数尾自分の取り皿に移して皮を剝きはじめた。
「そういえば翡潤、あのときと同じような騒動がイアペトゥスで起こったそうだが」
あのとき、と言うときの木容推の表情に、複雑な陰りのようなものが差した。「あのとき」が具体的に何を指すのかは、2人のあいだでは明示する必要のないことだ。
「今朝聞いた。クーデターらしいな」
「そこまで大きい話かどうかはわからないが」
「高官が何人も暗殺されて、何やら声明が出されている。これがクーデターでなければ何だ」
「クーデター、かな」
木容推は、イアペトゥスで今起こっている変事については、複雑な思いがある。理性は、愚かな暴発だと断じている。しかし叛乱部隊の長が声明で語った内容に関しては、わからないではない、という感情がある。
木容兄妹は、タイタンの少数民族の出身である。天族の人口による支配を、程度の差はあれ苦々しく感じている点において、ほぼ同じ身の上なのだ。
今視線をすこし上げると、遠くの空に突き刺さるような巨大な円錐形の建築物を目にすることができる。天族の支配の象徴、天宮である。彼らの出身民族の自立を奪った者は、現在そこにいるはずだ。
木容推は、みずからの出自というものをそれなりに重要に感じている。自分で選びとったものでなくとも、それは確実に自分を構成する一要素である。
もっとも、彼は木星主義の信奉者でない。出自についてはあくまで趣味の問題であると了解しているし、人々が物理的・主観的に幸福であるならそちらの方がよいとも理解している。
――だが、趣味とは重要なものではないか?
そう思うのである。結局グリーンホーンなど、趣味で戦争をやっているようなものだ。つまりある種の人々にとって、趣味とは生命を賭けうる程度には重要なものなのだ。
そのような内心を表面に出すことはせず、木容推は言った。
「君の上官は、今イアペトゥスだろう?」
「ああ」庫翡潤は骨だけとなった鶏の腿を皿に置き、手巾で指先をぬぐった。「どうも俺の司令官閣下は禍を呼ぶ体質であるようだ」
庫翡潤の土星軍での地位は、太陽系艦隊母星方面軍所属第6艦隊第4戦隊司令であり、直属の上官である第6艦隊司令官は九重有嗣中将である。八尋家に連なる上官は現在、彼と同様に休暇で故国にあるはずだ。
「心配か?」
木容推は問う。
「この件に関しては、心配していない。八尋の眷属といっても、彼は土星軍の人間だ。関係はあるまい。無為に巻きこまれるほど間抜けでもないだろうしな」
「この件に関しては、か。では、そうでないところで心配があるというわけか。――この前、相談ごとがあると言っていたが」
「ああ」
「尺郭ではすれ違いになったな」
木容推は笑う。もともと、母星方面軍司令部のある尺郭で会う予定だった。それが、庫翡潤の方の都合でとりやめになってしまったのだ。しかし木容推の表情には、責めるようすもさきほど見せた陰りの痕跡もない。
非難したのは、彼の妹の方だった。両手の饅頭を口の中に押しこみ吞みこんでから顔を上げ、指についた肉汁を舐めながら言った。
「そうだよ、せっかく行ったのに」
「悪かった」幼い妻に対してはそう言ってから、庫翡潤は友人の方を向いた。「こんな場所で話す話題ではないかもしれんが……」
「いや、尺郭よりはここの方がいい」
木容推は周囲をぐるりと見た。広場は人であふれかえっており、喧噪が支配している。誰も聞き耳を立てる者はいないし、そうしようとしたところでこの騒々しいなかでは困難だろう。
庫翡潤はうなずいてから、彼が先日参加した遭遇戦のことを話した。艦隊規模でもって戦隊と当たった、近年類例のない戦いについて。木容推もまた土星軍の指揮官としておおむね承知していることであり、くどくどしい説明は必要なかった。
木容文は今度は蒸した蟹と格闘していて、男たちの会話には興味を示していないようだった。
「おそらく彼は戦略の転換を試みている。今後宇宙で行われる戦いすべてを、先日の遭遇戦のごときものにしようともくろんでいる」
「そう言ったのか?」
「明言はしていない。だが、おそらく偶然ではない。出航後すぐに、シミュレータではあるが、艦隊対戦隊という設定で演習まで行ったからな」
木容推はすこし驚いた顔をした。
「それは初耳だ。たしかに、疑わしくはある。――それで、相談というのは?」
「多少の迷いがある」庫翡潤はまっすぐに友人の顔を見て、率直に言った。「あの司令官についていってよいものかと」
「……奇妙なことを言うな。ついていくも何もない。君はあの艦隊にたまたま配属されただけのことだ。彼か君かはわからないが、そのうち異動もあるだろう。また、もし彼が戦場で無謀なり無能なりであったならば、自分の身は自分で守ればいい。それだけのことだ。君には可能なはずだ」
「本当にそう思うか?」
「自分の能力を疑うとは、君らしくもない」
木容推はいぶかしげに言った。
「俺の能力のことじゃない。ことが土星軍の人事などという小さな枠に収まる問題であるのか、俺は疑問をいだいている。もしもこれからあの司令官が太陽系の戦争のあり方を変えていくのだとしたら、高級指揮官として生きていくためには、彼に協力するのか否かは大きな問題だ」
「ふむ」木容推はすこし考えてから言った。「そうは言うが、軍は群体の1部門にすぎない。そして土星圏はタイタンの天下であり、天族の天下だ。軍の予算の多くを拠出しているのもタイタンだ。彼が軍のなかでどのような地位を得て、戦略にどのような変化が起ころうと、巨視的な枠組み自体は変わらない」
「むろんそうだ」友人の言葉を肯んじてから、庫翡潤は言った。「だが、その天族の天下にあの男が立ち向かうことになった場合はどうだ」
「――馬鹿げたことを」
「俺もそう思う。巨象と蟻の戦いだ。《大多数》には勝てない。とはいえ、俺は思う。これはたんなる直感のようなものだが、どうも俺たちは、戦争に関する特殊技術者として生きればよいという時代にはすでにいないのではないか。そんなふうに感じている」
「そうだな……。その場合は、簡単なことだ。馬鹿げた騒動に巻きこまれる前に、退役すればいい。もともと僕たちは軍人じゃない。問題はないだろう?」
木容推の問いかけに、庫翡潤は唇の端だけで笑った。
「たしかにそうだ」
それから木容推は、すこし気楽な調子で言った。
「あと、個人的な感想を言うと……九重有嗣という人物、悪い人間ではない」
「同じ部署にいたことがあったか?」
庫翡潤は意外そうに聞いた。
「いや、ない」木容推は答える。「一瞬といっていい時間だが、先日偶然出くわした。まさに、文といっしょに尺郭に上がったときだ」
そこで、それまで殻と汁をまき散らしながら蟹を分解していた少女が、だしぬけに憤然と叫んだ。
「あいつ、悪い人間っ!」
「どうした、いきなり」
庫翡潤は顔に飛んできた飛沫をぬぐいながら妻に聞いた。
「お兄ちゃんを下種扱いした!」
「どういうことだ?」
その疑問には、木容推が答えた。
尺郭で、微小重力に慣れていない妹がたまたま通りかかった九重有嗣にぶつかった。その際有嗣が、木容推が妹を方便に自分との出会いを仕組んだのではないかと疑った、と。
「ありそうなことだ」
庫翡潤は苦笑した。
「あれはおそらく、人間関係において要領が悪いだけだ」木容推は人物評を述べてから、なだめるように妹に言った。「だから落ちつけ、文」
「むー」
妻のようすを見て、庫翡潤はつぶやいた。
「……当分は土産話どころではないな」
先日の戦いについて戦記物語調に話してやるつもりだったのだが、この調子ではそれはしばらくお預けになりそうだ。すこしばかり残念なことだ。彼の妻は、勇ましい戦争の話が好きなのだ。
それから、上官について思いを馳せる。
――本当に関係がなければよいが。
イアペトゥスという国の政治自体に興味はない。だが、変事のなかで九重有嗣がどのように動くのかには興味がある。
――どのように動くか、だと? ふん、この発想は毒されているな。
ふつうは、どのようにも動かない。権限も義務もないところで、動くはずがない。
しかしもしもあの上官が何らかの動きをみせたならば、そのときには本気で将来について考える必要があるのではないか。そう思った。あの凶悍な八尋の眷属に、従うのか否かを。
3
まだ黒い雪は降りつづいている。
一式家旧邸は、八紘宮の外れといっていい場所にある。八侯家の一員である侯爵家の邸宅であったのだから、敷地面積も建物の様式も立派なものなのだが、どことなく物寂しさを帯びているのは否定できない。
十数年前にうち捨てられて使用されていないことに加えて、捨てられた事情がいっそう負の印象を強くしていた。一式真人による八尋貴遠暗殺未遂。九重有嗣による一式騒動。そういった事件がたてつづけに起こったため、一式家当主は心機を改めるために八紘宮内の別の場所に居を移したのだ。この邸は、文字どおりに捨てられたのである。
そんな陰鬱な過去のなかに置き去りにされた旧邸を、一式玖子は訪れていた。
黒のドレスに身を包んだどこか病的な雰囲気を放つ彼女は、裏口から本館の邸内に入り、赤い絨毯を踏みしめて1階の廊下を歩いていた。捨てられたといっても手入れは定期的に行われているので、荒廃してはいない。
玖子は、たまにこの場所を訪れる。今回は、3年ぶりになるだろうか。
珍しい雪が降っているとはいえ、外は晴れ。だが、廊下はあまり光の恩恵を受けていない。八紘宮の他の邸宅と同じく、見栄えを重視した大仰な造りをしているため、採光の機能が等閑視されているのだ。
しかし玖子は、明かりもつけずに廊下を進む。赤外領域まで感知することのできる彼女の視覚は、多少の薄暗さなど問題としない。
この場所を訪れることは、祖母に伝えている。
父真人が不名誉なかたちで姿を消して以後、彼女は伯父である一式侯爵邸で暮らしている。ただし当主である一式清人侯爵は暗州総督としてイアペトゥスの裏側に赴任中であり、その子敦彦は成人して子爵位を得たのちは独立して別に邸を構えている。よって現在一式侯爵家を実質的にとりしきっているのは、清人・真人の母であり、玖子にとっては祖母にあたる脩子である。
「騒がしいのは、あまり好きではありません」
そう言って、邸を出てきた。
一式家にも中央官衙で発生した変事については伝わっており、当然のごとく家中は慌ただしい空気に包まれていた。俗世的な騒々しさは、玖子の好むところではなかった。
騒動が発生しているのは八紘宮でも限られた区域であり、彼女の行動の自由を縛るものはなかった。とはいえ八尋貴輝をはじめとする人々が害された直後のことでもあり、祖母は玖子の外出を歓迎しなかった。
玖子は祖母に言った。
「わたくしは公人ではありませんので」
そんな言葉に納得したわけではなかったが、結局祖母は玖子の外出を許した。玖子の父の事件以来、祖母のまわりにつねにまとわりついていた諦念がそうさせたように見えた。
騒がしいのは好きではないと祖母には説明したものの、じつのところ、それは噓ではないにせよ核心でもない。
彼女の行動の理由は、明確に言葉にすることが難しいものだった。そもそも理由などという考え方自体が、玖子の精神にはなじまない。
――そう動くことが自然と感じたから。
子供のころは、自分の行動について大人に問われたときには、さんざん頭を悩ませて言葉を探したあげくに、そのような説明をよくしたものだった。しかし、玖子にとっては真摯きわまる言葉が理解されたことは、ほとんどなかった。
幼い玖子にとっては、不思議で仕方がなかった。その説明が理解できないということは、世界とともに生きていないのと同じではないか、と。
今となっては、何となく想像できる。
多くの人間は、世界とは縁を切って生きているのだ。そして世界ではなく、たとえば自己などと呼ばれるものにもとづいて行動している。すくなくともそう認識している。
しかし、玖子は違う。世界とともに生きている。
廊下から玄関ホールに出た。
ホールは吹き抜けになっており、丸天井にはめこまれたステンドグラスを透過した光が、絨毯に鮮やかな紋様を落としている。懐かしい場所だ。玖子はとりどりの暖色の光のなかを横切り、木製の柱の表面に指を滑らせた。
えぐれている部分があった。
弾痕だ。
十数年前の一式騒動の、それは名残だった。
旧邸は静かだった。現在も同じ八紘宮で変事が進行中であるとは、なかなか実感できない。
今回の騒動で、玖子にゆかりのある人物に被害は及んでいない。伯父である当主清人はイアペトゥスの裏側にいるのでそもそも影響はなかったし、敦彦からは無事を知らせる一報があったのち、会見に姿を見せてあらためて健在を確認することができた。
有嗣に関しては、連絡を試みていない。婚約者であるので個人への直通回線はもっているが、使用していない。有嗣の側からも同様だった。それが、たがいに暗黙のうちに定められた距離感なのだった。
有嗣が無事らしいことは、唐橋時胤男爵からの連絡で知った。
「困ったものです。婚約者同士が連絡をとりあわないのですから」
嘆くような口調で、そのとき唐橋は言った。
玖子にとって、唐橋は奇妙な人物だ。八尋家の家政集団の出自であるとはいえ、直接一式家なり九重家なりに仕えているわけではない。それなのに、有嗣や玖子に何かと世話を焼く。かつての一式騒動の際にも、有嗣の処分の軽減を求めて奔走した。
「見ていられないものですから」
みずからの行動について唐橋は、いつもと同じ妙に気の抜けたような表情でそう説明したことがある。
玖子にはよくわからない。世界とともに生きていない者の考えることはわからない。
そのとき、玖子の脳裡の隅で小さな火花が明滅した。
ネットワークを介して知覚に直接はたらきかけるそれは、八尋家に属する者に注意を促す警報だった。秘匿性は低いため、双方向通信には用いられない。警報は重要度高で、ある放送チャンネルの閲覧を指示していた。
玖子は指示に従い、視覚に放送を呼びだした。
映しだされたのは、八尋貴詮の姿だった。今朝使用人から聞いた話では、なぜか地上と貴詮との間で直接交信ができないらしく、それが今回政府内部で意思決定の混乱の一因となっているとのことだった。恩寵代表船の無事自体は確認されていたが、貴詮が公共の場に姿を現したのは、玖子の知るかぎりこれがはじめてのはずだった。
八尋貴詮は落ちついた調子で、イアペトゥスの臣民と叛乱部隊とに対して話しはじめた。
話の内容自体は、玖子の興味を引くものではなかった。このような俗世の騒動は、彼女と関係のあるものではない。
貴詮は死者を悼み、叛乱部隊を非難した。しかし先だって敦彦が行ったような強硬な声明ではなく、心情は理解できるがより多くの悲惨を招く前に矛を収めよ、といった抑制的なトーンのものだった。つね日ごろの彼の言動といささかも矛盾しない中庸なもので、まさに強硬派より批判を受けているそのままの態度をあえて実践して見せたようでもあった。
声明自体に感銘を受けることはなかったが、その話しぶりを見て、有嗣と貴詮との間で結ばれたという契約のことが自然と意識にのぼった。
一式真人が逃亡し玖子が重傷を負った後、有嗣はこの場所で、貴詮に世界を変えろと迫った。貴詮は有嗣の要求を受け入れた。2人の間で、口約束ではあるが、契約が結ばれた。それが、一式騒動と呼ばれる事件の、部外者のほとんど知らない本質だ。
――有嗣さま。
玖子は有嗣に、世界を感じている。あの男に従うことが自然だと感じている。だからこそ確信をこめて、玖子はここにいない婚約者に対して言った。
「世界は、変わるものではありませんよ」
地上で起きた叛乱によって宙港への着陸を封じられた恩寵代表船は、この半日イアペトゥスの軌道上で足止めされていた。
船内の空気からは、落ちつきが失われている。事情が事情であるし、ここにきて数人の乗組員が体調を崩してしまっているため、人員が不足しているのだ。
イアペトゥスの事実上の最高権力者である八尋貴詮は、表面上は慌てるようすもなく、じっとみずからの席に座していた。
ただし、さすがに表情は厳しい。狼狽した姿を周囲に見せるわけにはいかないが、かといってあまり鷹揚に構えてもいられない。政権に対する叛乱が発生したということは、何より統治者である彼の責任であるからだ。
彼が気になっていたのは、八紘宮の動向だけではなかった。
「地上との回線はまだ復旧しないのか?」
放送回線は問題ないが、双方向通信可能な回線がすべて機能停止状態となっているのだった。
首席秘書官である小此木子爵の返答は、色よいものではなかった。
「担当者の話では、通信システムの交感体の活性がひじょうに低下しているとのことです」
「交感体? 原因はわかっているのか」
「それが、まだはっきりしていないようで……」
技術的なことがらに関して、貴詮ができることはない。担当者の手腕を信じる以外になかった。
ただ、放送回線へは接続可能であるので、声明だけは出した。状況確認に手間どっていたためタイミングとしては遅くなったが、とりあえず健在を明らかにすることはできた。
地上の状況は、ほぼ把握している。
実弟をはじめ、幾人かの眷属が死亡した。そのことで表情を変えはしなかったが、息子である貴綏の安全が確認できたときには、思わず安堵の息を漏らした。
貴詮は、今回の変事が単純な地上軍の将校の暴発だとは考えていない。動員の規模はともかくとして、手際がよすぎるからだ。
彼は援助者の存在を疑っていなかった。黒幕と呼べるほどの関与があるのかどうかは現段階ではわからないが、思い浮かぶ名前もある。
その固有名詞を、しかし彼は脳裡から振りはらった。慎重になったからというより、違和感があったからだ。
たしかにあの男は怪しいイデオローグのたぐいに援助を行っているし、今回の指導者である少佐との接点もある。八尋家の支配に対する反感もあるだろう。しかし、グリーンホーンであるとはいえ、基本的に粗暴な人物ではない。たとえば、九重有嗣のようには。
「さいわい、この船が攻撃を受ける徴候はないようです」貴詮の内面の思考を遮るようにして、小此木子爵が言った。「叛徒どもにそのつもりがないのか、あるいは気圏軍まで掌握していないのかまではわかりませんが」
「前者だ」貴詮は即答した。「もしも彼らが私を害するか、あるいはすくなくとも身柄を確保する意志があったならば、船が宙港に降りてから行動を起こしたはずだ」
なるほど、と秘書官はうなずいた。
「それにしても、地上の動きが鈍い。八紘宮は聖域などではない。遠慮などいらぬ。大兵力で鎮圧してしまえばよいのだ。難しいことなど何もない」
その口ぶりがふだんの太政大臣を知っている者からすれば驚くほど強いものだったため、秘書官は思わず上司の顔を見やった。
「このようなことになって、指導権をとる方がおりませんから……」
たしかに、秘書官の言うとおりではあった。
しかしながら、まさにこのような有事を想定して臨時首班の継承順位が定められているのだ。取り決めに従って、存命中の最上位者が粛々となすべきことを実行すればよい。あるいは、閣僚のなかでわれこそと思う者が行動を起こせばよいのだ。にもかかわらず――
簡単な問題を複雑にし、すみやかな解決を遅らせる過程が介在していた。
その名を、政治という。
貴詮の口調を強くしているのは、政治というものなのだった。
もっとも、彼は理解している。政治にいらだちを感じながらも、世界を動かすのは政治でしかありえない、と。そこで思い浮かべるのは、冷たい獰猛さを秘めた九重有嗣の顔だった。
――まったく、人の世は馬鹿馬鹿しい。昔、貴様が言ったとおりだ。しかしそれでも、つきあわねばならんのだ。世界はゆっくりと変わるものだ。変わってしまった後にはじめて気づく程度の早さで。だから貴様はじっとしていろ。
4
王都東雲は、太陽系で最も美しいといわれる夕陽を浴びて橙に染まっていた。しかし鮮やかな橙のなか黒い雪が落ちつづけるようすは、不吉さを帯びた美でもあった。
八紘宮での出来事はすでに一般の人々に広く知れわたっていたが、大きな混乱は起こっていなかった。叛乱を起こした地上軍部隊に対する不満もほとんど上がっていなかったし、一方、彼らに同調するような動きもなかった。
ただ、人々が世情の動きに完全に無関心だったわけではない。叛乱をさまざまな角度から分析したり、変事に直面した政府高官の動向を大げさに再現した番組は、閲覧数を稼いだ。つまり政治的変動には無関心だったが、それが生みだす物語の方には関心を寄せたのだった。
問題といいうるほどの事態は、唯一宙港で起こっていた。
東雲第1および第2宙港が占拠されたことで、宇宙に出るためには120キロほど離れた鹿室宙港を利用しなければならない事態となっており、それにはさすがに不満の声が上がっていたのだ。しかしこれも、暴力沙汰に発展するほどのことではなかった。もともと東雲への物流はほぼ陸送に拠っていたため、人々の日常生活に大きな影響が出なかったということもある。
そのような状況下、九重有嗣は東雲市内の内藤ホテルに滞在していた。
事態がどのように推移しどのように落着するのか、有嗣にはさして興味がない。とはいえ、叛乱がいずれ鎮圧されるだろうということに関しては、まったく疑いをいだいていなかった。
八紘宮そのものを人質にとられたような状態のもと、政府部内ではおそらくは鍔迫りあいが起こっていて、指揮系統がうまく統一できていない。そのため、実力部隊も動くに動けない。
それでも、いずれは数の多い方が勝つ。自明のことだ。宇宙空間での青二才たちの特異な戦闘とは違って、地上戦のあり方は、電磁的中世などを経ても基本的には何千年も変わっていない。
有嗣は、その解決をただ見守るつもりだった。
そして事態が落ちつくまでのあいだは、このホテルに滞在していようと考えていた。結局、休暇をすごす場所が変わったというだけのことだ。考えようによっては、静かであるとはいえ八紘宮内部である六嶺荘より、東雲市内のこの場所の方がありがたいともいえた。政治的な思惑からは遠いし、ふつうの人々の行きかう街は嫌いではない。外出する機会は作れないだろうが。
だから、八尋家の当主の懸念は当たっていなかった。事態に積極的に関与するつもりなど、有嗣には毛頭なかったのだ。
窓から夕陽が射すなか、そのように悠長に構えていた有嗣の耳に、鋭い音が届いた。
来訪者を告げる、インターコムの合図だった。
それから凜とした声が、室内に響きわたった。
「地上軍中尉里見蓮生です。九重有嗣閣下にお目にかかりたい」
来訪者の声だった。
牧野がインターコムの室内機を操作すると、地上軍の制服を身にまとった、細身で中性的な人物の立体映像が現れた。生来のものであるのか緊張のためか、表情は険しい。見たところ単身であるようだった。
有嗣はネットワークに照合を行った。確認はすぐに終わり、人物情報が脳裡の片隅に展開される。里見蓮生地上軍中尉。まちがいなく、今回の叛乱に参加している人物の1人だった。
牧野は有嗣に対してじっとしているよう身ぶりで示してから、扉の外の来訪者に対して言った。
「申し訳ない、お人違いではありませんか?」
「いや、間違いないと思いますが」里見中尉は断定的に言った。「九重閣下が、梨元某という偽名でこの部屋に投宿しているはずです」
「はて、どういうことでしょう?」
来訪者とやりとりする牧野の背中に、有嗣は声をかけた。
「どうやら、この場所がつかまれていたようだな」
その声は、扉の外の中尉にも届いたようだった。立体映像の険しい表情がかすかに和らぐ。
牧野は有嗣を振り返り、困ったような、あるいは疲れたような顔をしてみせた。いつもこの主人はせっかくの警戒を台なしにしてくれる、とでも言いたげだった。
有嗣は重ねて言った。
「すでに露見しているのだ。ごまかすことはできまい」
私企業であるホテルの宿泊記録まで監視できるとは思えないから、おそらくは尾行されていたのだ。
「面倒な手合いに気に入られたものだ」
そのつぶやきは有嗣にとって深刻なものだった。地上の政治などというろくでもないものが彼を解放しようとしていない、という厳然たる事実を示していたからだ。
「開けてやれ」
有嗣の言葉に仕方なく従い、牧野は拳銃を懐から取り出してからドアを慎重に開いた。
「ありがとうございます」
里見中尉は一礼すると、すばやく動いた。滑るような動作で、室内に足を踏みいれる。
牧野は慌てて侵入者に銃口を向けたが、そのときには里見もまた同様に銃を構えていた。部屋の入り口で、牧野と里見が銃を向けあう恰好となる。
「入れとは言わなかったが?」
牧野は厳しく里見に言った。
「九重閣下は入れてくださると考えています」
「ずいぶんと身勝手だな」
有嗣は窓際の椅子に足を組んで座ったまま言った。里見の銃口は、牧野とともに、その延長上に有嗣をもとらえている。しかし有嗣は、まったく平静だった。
「とりあえず2人とも銃を下ろせ」
有嗣の言葉に応じ、里見は銃を銃囊に収めた。
「牧野、貴様もだ」
主人の命令に、牧野もしぶしぶ従う。
有嗣は叛乱部隊の将校を歓迎したわけではないし、自分の命を惜しんだわけでもない。ただ、このような場所で銃撃戦を行うことを厭っただけだ。宇宙では万単位の生命が危機にさらされる戦闘を辞することのない有嗣だが、こんな地に足のついた場所での泥くさい戦いは好まなかった。
有嗣は椅子に座ったまま、戸口で直立している里見に傲然とといえる調子で言った。
「招き入れはしない。言いたいことがあるなら、そこで言え」
一礼してから、里見はあらためて自己紹介し、みずからが今回の決起に首謀者の1人として参加したことを述べた。
「単刀直入に申します。九重有嗣閣下、われわれはあなたを指導者として迎え入れたいと考えております。もちろん返答はすぐでなくとも構いません。閣下の準備が整うまでお待ちします」
里見の口ぶりは硬質だったが、気負いはほとんどなく、みずからの信念に対する確信をうかがわせた。
「単刀直入であることは、わずらわしくなくていい」対する有嗣の口調は拒絶的だった。「だが貴官は、協力を請うべき相手に銃口を向けるのか?」
「正々堂々の気概をもったうえでの行動は、形式上の敵対を超えて人と人を結びつけるものだと考えます。真の軍人である閣下もまたそのようにお考えであると、私は信じています。ですから、そのことを示すためにも、あえて銃口を向けさせていただきました」
「勝手な信念だな」
そう常識的な発言をしたものの、有嗣にとってはまったく理解できない話ではなかった。馬鹿げたことではあるが、軍人とは武器でもって語りあうものだ、という考えが彼の裡にもあるのだ。
有嗣の意識にのぼっていたのは、目の前の地上軍将校ではなく、先日の遭遇戦での敵手のことだった。長い時間ではなかったが、しかしあのとき、たしかに自分は敵と語りあった。自分を出しぬいたあの男、名前は何といっただろうか。そうだ、たしか、マクシミリアン・ルメルシェ。太陽系最年少の将官。
――まったく馬鹿げた、勝手な信念だ。
有嗣は苦笑した。しかし実際には威圧しているように見えたようで、里見はわずかながら怯んだようすを見せた。
「われわれイアペトゥスに生きる者たちは、あるべき状態、あるべき繁栄から疎外されています。それを推し進めたのが、現政権です。閣下もそれは同感していただけるはずです」
有嗣はただ、ふん、と鼻で笑った。
「閣下だけではありません。他の志ある方々のもとへも、現在使者が向かっています。いずれも現状に批判的で、次世代を担う覚悟と識見をもった方々ばかりです。われわれは孤独ではありません」
「覚悟と識見、か。なぜそう考えた?」
「閣下のこれまでの行動を見て、閣下の地上への不満を察することができないようでは、そちらの方が愚かというものです」
「なるほど、俺は愚かというわけだな。貴官の言う地上への不満など、俺自身察することができない」
微温的な政治状況は唾棄すべきものと考えているが、不満などはない。不満を覚えるほど、地上に根を下ろしてはいないのだ。
「ご韜晦を。――閣下は幼少時より日和見的な八尋貴詮と対立し、戦場でもつねに既存の権威に抗して、閣下独自の信念にしたがって戦果を挙げてこられました」
「巷ではそういう演出がされているようだな」
有嗣と有嗣が参加した戦闘が報道されるにあたっては大幅な脚色がなされ、有嗣にも扇情的な綽名がついている。綽名については敦彦が言っていたが、忘れてしまった。里見の発言は、そういったメディアでの有嗣の像を下敷きにしていた。すくなくとも、そう感じた。
まともに反応する価値もないたわごとだった。
有嗣は話の切れ目を待って、里見に明確に言った。
「これ以上は必要ない。貴官らへの協力など、断固として拒絶する。心の底から興味がない。俺は貴官らが鎮圧されるのをただ傍観するだけだ」
それは明確な拒絶だった。だが里見は予期していたのか、有嗣の言葉に大きな衝撃を受けたようすはなかった。静かに一礼し、警戒する牧野の視線を受け流しながら、最後に言った。
「お心変わりをお待ちしております」
里見中尉が去った後、有嗣は吐き捨てるように言った。
「心変わり。馬鹿げたことを。そんなことがありうるとでも思っているのか」
「有嗣さまが警戒していると思っているのです」牧野が言った。「あの中尉殿は、あなたが自分たちにつくと心から信じています。今は警戒して言質を与えまいとしているだけだと」
よくもそんなにも思いこめるものだ、と有嗣は感心した。他人の存在に何かを賭けるというのはどのような感じがするものだろう。
しばらくして、扉の外から物音が聞こえた。
何かを引きずるような音が、こちらに近づいてきている。牧野がふたたび警戒し、銃を手にしてインターコムを操作する。扉の向こうのようすが、立体映像で表示された。
この地では異質な恰好をした男の姿が映しだされた。
白い薄布の外套を身にまとい、頭に頭飾を巻きつけた、どことなく疲れたような雰囲気を発している男だった。
男の両手はふさがっていた。地上軍の制服を着た、ぐったりとした男2人を、片手に1人ずつ無造作に抱えているのだ。
男はドアベルを鳴らすこともなく、こちらがカメラ越しに見ているのを悟っているかのように、不敵な笑みを浮かべて口を開いた。
「動き、視界に入れと言われたので、そのようにさせていただいた。――アーダルシュ・ライ、参上いたしました」