サクラコ・アトミカ
第二十回
犬村小六 Illustration/片山若子
「最前線」のフィクションズ。サクラコの美しさが世界を滅ぼすーー。 畸形都市・丁都に囚われた美貌の姫君、サクラコ。七つの都市国家を焼き払う原子の矢は、彼女の“ありえない美しさ”から創られる......。 期待の新星・犬村小六が放つ、ボーイ・ミーツ・ガールの新たな金字塔、ここに誕生!
七.
大きな夕陽がこれから地平線に吞まれようとしていた。
どこまでもどこまでも、見渡す限り赤土の大地である。乾ききり、ひび割れた地表面には道もなく、ただ真っ赤に染まった大気だけが果てもなく立ちこめていた。
そのさなかを一台、白い大きなバスが土埃を巻きあげて走っていく。かなり急いでいるらしく、大地の起伏に沿って大きく車体を弾ませながら、道なき道を猛然と駆ける。
運転席でハンドルを握っているのはナギである。
すでにして翼は収納し、通常の軍服すがたに戻って、やや緊張した面持ちでアクセルを踏み込んでいる。そのすぐ後ろの座席にサクラコは座って、窓の外の夕景をにこにこしながら飽きず眺める。尻尾があればぱたぱた左右に振られてそうな、楽しげなサクラコだった。
富裕層むけの都市間連絡バスだ。定員十名。ゆったり広い車内には後部ラウンジ、キッチン、トイレとシャワーが完備され、二週間以上に及ぶ長距離移動を快適に過ごせる。
サクラコはキッチンに赴き冷蔵庫からオレンジジュースを取り出してまた座席に戻ると、じゅりー、とストローから音を立てる。
「ナギ、ジュースいるか」
「うん、頂戴」
サクラコは腰をあげて運転席の傍らへジュースを持っていった。片手で受け取ろうとしたナギの手を遮る。
「え、なに、くれないの?」
「ダメじゃ。わらわが飲ませてあげるのじゃ」
「なにそのこだわり。意味わかんない」
「口をあけよ」
素直にひらいたナギの口に、サクラコはストローを突っ込んだ。じゅりー、とナギはオレンジジュースを飲む。サクラコは幸せそうに頰を上気させる。
「飲め飲め。もっと飲め」
「じゅりー」
「わははは」
「なんで笑うの。じゅりー」
「それにしても良い乗り物が手に入ったのう。逃避行とは思えんほど快適ではないか」
「乗ってた人には悪いことしたけどね」
「なにもかもあの変質者が悪いのじゃ。文句はあいつに言えばよい」
バスを強奪したにも関わらず、サクラコは悪びれることなくふんぞり返る。ナギは仕方なさそうに前方へ目を戻した。日没まであとわずかだった。
昨夜、あの観覧車のゴンドラからサクラコを抱きかかえて飛び立った。阿岐ヶ原から侵攻してくる陸上艦隊を迎撃するため、義姉ユキノ・ヴィルヘルム・シュナイダー率いる丁都飛行艇艦隊が進発しているどさくさに紛れ、ナギは翼を広げて飛行艇の狭間を飛翔した。
狙い通り、丁都知事ディドル・オルガの興味は敵陸上艦隊へむけられているようだった。ナギとサクラコは無事に丁都空中ゲートを航過して、ほどなくして雲に紛れ飛行艇艦隊から離脱した。それからナギは都市間連絡用の長距離バスを発見し、上空から接近して針路上に立ちふさがった。乗っていたのは丁都からグラン・セイオンへむかう遠隔地商人とその護衛たちだった。ナギは謝罪しながら護衛たちを武装解除すると、バスを乗っ取り、こうして一路阿岐ヶ原を目指して快走している。
「でもぼく阿岐ヶ原って行ったことないから、道わかんないよ」
ストローから口を離して、ナギはそう言う。
「とにかく北東じゃ。北東を目指せばなんとかなるわい」
適当に返事して、サクラコは残ったオレンジジュースを吸い上げた。バスの後方の夕焼け空が徐々に彩度を落としていく。もうすぐ夜が来る。
「楽しいなあ。観光旅行みたいじゃあ」
丁都を逃げ出してからサクラコはずっとご機嫌だった。久しぶりに仰ぎ見る本物の空が気持ちよくて仕方ない。運転中のナギに気紛れに抱きついたり、頰にキスしたり、太ももをつねったり、じっとしていない。
「あのね、一応確認しておくけど、ぼくら逃避行中なんだから。もうちょっと真剣みがあってもいいかもしれない」
そんなナギの戒めも、サクラコは弛緩した笑みを浮かべて聞き流してしまう。
「走れ走れえ。ずっと走るんじゃあ」
「日没まで走るよ。夜になったら休憩しよう」
サクラコはにこにこしながら、荒野の光景を飽きず眺めていた。半年間ずっと丁都の大屋根の下で暮らしていたから、空の雄大さが身にしみてうれしかった。
日が沈み、ナギはバスを止め、最後部、テーブルを囲んでソファーを並べたラウンジへ赴いた。
ふたつほどランプに火を入れて、ソファーに腰を下ろし、天井を仰いだ。
ふう、とひとつ息をついて目を閉じる。
昨日、今日と、いろいろな事態が大きく動いた。
自分の決断は間違っていない……と思う。これで良かったのだ、たぶん。
思い返してみると、生まれてきてからこれまで、自分の意志でなにかを決断して行動したことが一度もなかった。誰かに命じられるまま、移動して、戦って、また違うところに連れて行かれて、戦って、シチューを食べて……。その繰り返しだった。それが不満だったかというと、そうでもない。ただ、そういうものなのだと思っていた。
どうしてだろう。
どうしてぼくはいまになって、いきなりこんな大胆な決断をしたんだろう。
自分のこころの働きを、自分自身で理解することができない。
両目をあけて琥珀色の光を網膜に映しながら、ナギはただ、この現状を確認していた。
と、キッチンからサクラコが顔を出し、
「ナギ、パンがあったぞ。ジャム塗って食べよう」
「あ、うん。ありがとう」
旅が始まってからずっと上機嫌のサクラコが、いそいそと食べ物を持ってきて、ナギの隣に腰を下ろした。
「いただきます」
あむ、と口に含み、もぐもぐする。
「うまいなあ」
「うん。おなかすいてたからね」
サクラコはジャムを塗りつつ、食パンを三枚食べた。その隣、ナギも一枚食べた。
バスの窓にはランプの灯りが映り込んでいた。頼りない光量が、静けさとあいまって、周囲の荒野を不気味なものに見せている。
パンを食べ終え、サクラコは窓へ目を送った。夜の色に塗り込められたガラスに、ナギと自分のすがたが映じている。
「思えば遠くに来たもんじゃのう」
「まだ初日だよ。これからもっともっと走らなきゃ」
「うむ。しかし、あの変質者も意外とちょろいのう。全然、なんてことないではないか。いまごろ歯ぎしりしながら、美しいわらわを想ってなさけない行為に耽っておるに違いない」
「油断禁物。もしかすると、ぼくらのあがきを楽しんでるだけかもしれないから」
「ああ、いやじゃいやじゃ。あんな男の考えることなど、想像したくもないわい。せっかくの楽しい夜じゃのに」
サクラコはソファーに座ったまま、両足をぱたぱたさせて、
「ああ、自由じゃあ。行きたいところに行けるってうれしいのう。いつまでもずっと、こうやって暮らせたらいいのう」
無邪気なことを言う。その言葉はナギの胸へ暖かく沁みる。
「うん。そうなったらいいね」
静かに応えた。サクラコが笑顔を咲かせて、ずいっと腰をずらし、ナギにぴったり寄り添った。そして彼の肩に頭を預け、幸せそうに目を閉じる。
「ナギは優しいのう」
「そうかな」
「いいやつじゃあ。わらわのような美少女が惚れてしまうのも仕方ないわい」
「サクラコもいい人だよ。粗雑でわがままだけど、ほんとはいい人」
珍しくお互いに褒め合って、顔を見合わせて照れ笑いを浮かべた。サクラコはごろごろと猫のように喉を鳴らしながら、ナギの肩におでこを擦りつける。
夜気の冷たさが車内へも忍び寄ろうとしていた。荒野の夜は冷え込むはずだが、ふたりとも寒さは感じていなかった。ただ、これまで感じたことのない暖かさをお互いから受け取っていた。
ナギは胸の奥に疼きを覚えた。なにかしらの衝動が身体の内側を突き上げてくる。サクラコとふたりでいるときに幾度か経験した、自分自身を制御できない感覚。生まれてからこれまでずっと意識の一番奥に沈殿していた自分の知らない自分がのっそりと立ち上がり、両手を差し伸べて、いままで自分だと思っていた自分を引き裂き、代わりにその場所に居座ったような、それが決して不愉快ではなくて喜ばしいような、不思議な気持ち。
こころが元気よく動いている。
その動きからみずみずしいなにかが井戸水みたいに汲み取られて、手足の末端まで送り出され、身体の中枢へと戻ってくる。全ての細胞が新しく生まれ変わってゆく、そんな感覚。
「サクラコ」
名前を呼んでから、ナギの片手がサクラコの背に回った。
それに応えて、サクラコの両手もナギの背へ回る。
琥珀色の光のなか、ふたりは同じ毛布にくるまって眠った。
いつまでもずっとこうしていたい。サクラコは強くそう願った。願うだけでは足りなくて、ナギの胸へ顔を埋め、彼の心音へむかって祈った。
どうかいつまでもこの鼓動が鳴り止みませんように。この先、何年も何十年も、わたしの傍らで彼の血の巡る音が聞こえていますように。毛布のむこうから忍び寄ってくる夜気に冷たさを覚えながら、サクラコは繰り返しそう祈った。眠りに落ちるまで祈ることをやめなかった。