大坂将星伝
第四章 戸次川
仁木英之 Illustration/山田章博
戦国の世に“本意(ほい)”を貫いた男ーーその名は、毛利豊前守勝永(もうりぶぜんのかみかつなが)。家康(いえやす)の前に最後まで立ちはだかった漢(おとこ)の生涯を描く“不屈の戦国絵巻”、ここに堂々開帳!
第四章 戸次川
一
四国勢が九州に上陸するのは、中国勢に比べて随分と遅れた。軍船が揃いきるまでに時間がかかったことと、筑前での戦況がめまぐるしく変わったためである。吉成の弟たちが率いる森の手勢は中国勢と共に先に豊前入りしたとの報せがもたらされていた。
「岩屋城での攻防戦は凄まじかったようだ」
浦戸城の一角で太郎兵衛と碁を打っている時、吉成はぽつりぽつりと九州の動きを話した。吉成も準備が整わなければどうしようもない。仙石秀久は四国勢の尻を叩き続けていたが、その溝は広がる一方である。
ただ、四国軍を束ねる長宗我部元親は吉成に対し、
「四国が関白さまのために働くことは間違いない」
と保証していた。
「土佐侍従さまほどの方が言うことを、周りがとやかくせっつくべきではない」
吉成は九州に弟の権兵衛吉雄や太郎兵衛の随身である杉助左衛門たちを派して、情勢を探りつつ、渡海の機会をうかがっていた。
「岩屋城に篭った高橋紹運どの以下七百名は、十四日持ちこたえた末に全員討ち死にした」
何より太郎兵衛を驚かせたのは、岩屋城が三万もの島津軍を引き受けていたことと、城兵が一歩も退かず、何度も敵を撥ね返し続けたことであった。
「城攻めはこれがあるから恐ろしい」
「島津は弱いの?」
「一戦の勝敗のみで軍の強弱をつけてはならん。確かに、岩屋城を落とすのに手間取ったかも知れないが、薩摩から筑前までを勝ち続けている軍が弱いわけがない」
島津家中興の祖と呼ばれる貴久の跡を継いで当時の島津家を率いていたのは、義久である。彼と三人の弟たち、義弘、歳久、家久はいずれも優れた武将であった。彼らをはじめとする一門衆をはじめ、伊集院一族を筆頭とする家臣団は精強であった。その強い島津に頑強に抵抗したのが、高橋紹運と立花宗茂の親子である。
「岩屋城を落とした後、島津方は立花城に降伏を促したが、それを逆手にとって降ると見せかけ、不意討ちを仕掛けたという」
義久の家老である島津忠長の本陣に突入して散々に蹴散らし、秋月種実、秋月種長など島津に味方する諸軍へと襲いかかり次々に破った。
「これには島津方も前進するのをためらった。岩屋城をようやく抜いたと思ったら、次にもっと厄介な将が控えていたのだからな」
この時立花宗茂は十九歳である。
「千雄丸さまと近いのですね」
「おそらく話を聞いて血が滾っておられることだろう」
宗茂の武勇は既に秀吉にまで届いていた。滅亡の危機を免れた大友宗鱗はその戦いぶりを詳細に伝えていたからである。
「いずれ天下に名の轟く武者になるだろう」
吉成はそう評した。岩屋城と立花城は奮戦していたが、岩屋城と立花城の間にある宝満城が陥落し、宗茂の命運もここまでかと思われた。
しかし、下関まで軍を進めていた中国勢がついに九州への上陸を開始したのである。天正十四年八月二十六日、毛利勢の先鋒が小倉に上陸した。
毛利輝元が安芸、引退していたがこの戦のために復帰した吉川元春が出雲、そして小早川隆景が四国勢と合流して伊予から九州へと向かうこととなっていたのである。これには島津も足を止めざるを得なくなった。
吉成は相変わらず、地を作るのが下手だった。
渡海を待っている間は暇な時間が多いので、吉成は太郎兵衛に碁の相手をさせる回数が増えていた。
千熊丸は結局、土佐へ帰されてしまった。一人で速吸瀬戸を越えようとした蛮勇は瞬く間に噂となって軍中に広まり、その稚気をあざ笑う者と称賛する者が相半ばした。
「人の口に戸は立てられません」
土佐へ送り返すことを決断するよう促したのは、吉成であった。
「土佐侍従さまは、どこかで千熊丸さまを豊後へ連れて行きたいというお気持ちもあったようだ。だがそれでは収まらぬ」
もともと勝手についてきている上に、噂の的になるような行いをしてしまったのでは示しがつかない。
「千熊丸さまはこれからのお人だ。ここは国に帰り、己をよく省みればよいのだ」
吉成は千熊丸が海に出たこと自体は責めなかった。仙石秀久は鬼の首でもとったように嘲笑したが、
「権兵衛が昔やらかした失態を一つ二つ披露してやったら黙ったよ」
「どんな?」
「女がらみだが。ともかく、他人を嘲る奴はいつか笑われるか、笑われていた奴だ。お前も人の行いを見てそれが奇妙なものでも、笑う前にまず考えろ」
「笑ったりはしません。俺だって千熊丸さまと同じようなことをしたし……」
戦場に憧れて、又兵衛と山崎の合戦を覗きに行ったものだ。
「あの時、お前は世間の者たちに笑われていた。俺も笑われた」
「え、そうなんですか……」
彼はむしろ、子供の世界では英雄であった。戦場を知らない者が多い中で、天下が転がる瞬間を見たと思っていた。山崎の合戦で勝った秀吉は、小牧長湫で敗れても天下を失わなかった。一度転がり出した天下の上で舞う秀吉を、父と共に仰ぎみている心地すらしていたのに、笑われていたとは意外だった。
「どのように考えていようが、無茶しているように見えればあざ笑うのが大人というものだ。だからあの後、俺はお前を勤めに連れて行き、馬丁として使ったのだ。笑わば笑え。こやつはもう働ける、と示さねばならんかったからな」
何度か黄母衣衆の従者として使っているうちに、嘲笑は止んだという。
「相手の立場が変われば態度も変わる。それも大人というものだ。あとは土佐侍従さまと千熊丸さまが、嘲りをどう跳ね返していくかお考えになればいい」
気付くと、地が逆転していた。
「他のことを考えていたから、隙を衝かれるのだ」
久々に息子に快勝した吉成は、満足げに立ち上がる。
「そろそろ出立の用意をしろ。九州では我らも奔走せねばならんぞ」
松山の街には陣触れの声が響き、甲冑の触れ合う音があちこちから聞こえる。吉成も黄母衣の正装で元親の本陣に加わる。その従者という扱いで太郎兵衛もつき従った。
鉄砲、槍、弓隊に続いて騎馬武者たちが整然と軍船へと乗り込み、西へと出陣していく。仙石、長宗我部、小早川の旗指物がはためく中を先導するのは来島村上水軍の面々だ。
関船と小早の大群を目にして、太郎兵衛は感嘆のため息を漏らした。
元親が座するのは軍の中で唯一である安宅船である。もともと信長が石山本願寺を攻める際に造らせたもので、そのうちの一隻が来島通総に与えられており、四国総大将の御座船として使われている。
「気を抜くな。渦が出たらすぐに知らせろ」
東西に細長い三崎半島を右に見ながら、船団は西へと進む。既にこのあたりの水軍衆は秀吉に帰順しており、襲われる心配はない。だが通総の表情は緊張していた。船乗りたちからもいつもの陽気さは消え、じっと海を見つめている。
「速吸の瀬戸はそれほど恐ろしいものなのか」
吉成も元親と信親親子も、四国の諸将とは微妙な距離をとっている軍監の仙石秀久も甲板に出て水軍衆の動きを見守っている。
「何故俺が気乗りしなかったのかわかるよ」
通総が険しい表情で言う。その言葉通り、三崎半島の先端、佐田岬を過ぎたあたりから、海の様相が一変した。
「父上、海の中に川が」
信親が指さす。それまで静かだった瀬戸内の海は白波の立つほどに荒れ始めている。陽光ふりそそぐ晩秋の好天は変わらないというのに、船底の下に嵐が襲いかかったように船が揺れ始めていた。
太郎兵衛は気持ち悪くなり、舷側から激しく戻してしまう。仙石秀久も隣でうずくまりながら青い顔をしていた。
「馬ならどれだけ乗っていても平気なのだがな」
太郎兵衛に言うともなく、言い訳を口にしている。
吐くだけ吐いて船端に寄りかかり、吉成が言っていたように遠くを見ようと試みる。海はめまぐるしく表情を変えている。凪いだと思えば波立ち、波立った一角に川のような流れが出来ている。
「渦です!」
帆柱の上から見張っていた水軍衆が叫ぶ。左前方に、海がわずかにくぼんでいるように見える場所があった。
「皆に伝えよ!」
通総が船を進ませるべき針路を各船に伝えさせる。波と潮流を見て即座に判断し、帆と舵を操って巨大な鉄甲船を進ませる連携は見事であった。
速吸瀬戸の難所を抜け、いよいよ船団の前には九州の海岸線がはっきりと見えるようになってきた。太郎兵衛は豊後の緑が、かつていた姫路や土佐よりも、随分と濃いような気がしていた。
「太郎兵衛、しっかり働けよ」
父がこのように言うのは初めてだった。驚きつつも、太郎兵衛は嬉しさを抑えきれなかった。
二
豊後に入った四国勢が命じられたのは、南と西から島津に圧力をかけられていた大友宗鱗の救援である。彼の居城は大分の府内館と、臼杵の丹生島城にあったが、臼杵の南にある、大友の有力家臣である佐伯惟定は島津の猛攻に頑強に抵抗していた。
佐伯の街を見下ろす栂牟礼山に築いた城を中心に多くの砦を築いて要塞とすると、島津軍の数度にわたる攻撃を弾き返したのである。
島津方の豊後方面攻略の総大将は、戦上手で知られる島津家久である。彼は佐伯を攻略するのが困難だと見るや、すぐさま道を変えた。
当初、島津軍は海岸線に沿って北上し、佐伯、津久見、臼杵と経由して大分府内を攻略する予定であった。だが、臼杵と津久見を結ぶ線を捨てて山中を抜け、戸次庄の鶴賀城へと迫ったのである。
戸次庄は、大分府内への南からの入り口となる要衝であり、臼杵など豊後各地へ至る要にあたる土地でもある。島津軍がここに迫った時、戸次庄にある鶴賀城をわずか七百の手勢で守っていたのは、利光宗魚であった。
「援軍はしばしお待ちください」
四国の諸将が驚いたことに、宗魚は府内にそう使いを送ってきていた。この時、大友宗鱗は臼杵を守り、子の義統が四国勢と共に府内にいた。
「三万もの大軍を退けることなど無理だ」
仙石秀久は、あくまでも援軍を差し向けるべきだと主張する。
「宗魚がいらないと申しているのですから」
大友の若君は、戦装束が似合わない男だった。軍議の席でもぼんやりとしていて、口を開けば茶の湯や歌のことなど戦にはまるで関係のないことばかり言う。それでいて、秀久が救援をというとこのように拒む。元親が、
「では宗魚どのを府内へ退かせましょう。勇者をこのまま犬死させるわけにはいかぬ」
と勧めてみると、
「助けなければ」
などと口にする。これには元親も秀久も閉口した。
「戦のことは我らで進めよう」
という点では元親と秀久は一致した。臼杵との連絡は戸次庄が戦場になっているためうまくいかない。府内は府内で守らねばならなかった。
この時、豊後以外の情勢は秀吉方の有利に働いていた。筑前では立花宗茂らの奮戦によって島津の進撃は止まり、毛利軍の主力と共に黒田孝高が小倉に上陸し、反撃と調略を盛んに行っていた。だが、まだ豊後まで軍を送る余裕はない。秀吉の意向を受けた黒田孝高は府内に使いを送ってきて、四国勢は府内で篭城戦を行うよう勧めていた。
これに焦っていたのが仙石秀久である。
「ぼやぼやしていると何もしないまま九州の戦が終わってしまうぞ。すぐさま兵を出して島津を押し返すべきだ」
秀久の意見に、讚岐の十河存保が同調した。
「我らはただでさえ、中国勢に遅れている。このままでは関白さまのお叱りを蒙ることは間違いない。すぐさま鶴賀城へ全軍を送るべきである」
と続けた。
「まずは豊後の地を知ってからだ」
元親は土地勘がないことを心配していた。もちろん、大友方の協力を得て地勢を理解しつつある。だが、知らない土地で伏兵に遭えば逃げ場もわからず壊滅する恐れがあった。
「島津とて知らないはずだ。いつまでも待つわけにはいかない」
「それに兵数に差がありすぎる」
島津は五万と称して軍を動かしていた。四国勢のうち、府内館を守っているのは六千あまりである。一万近くの軍勢で九州に上陸してはいたが、伊予の三千は海伝いに臼杵へと向かっていた。
「寡兵で戦う時は慎重でなければならん」
「そういう土佐侍従どのはたった四万で関白さま十万の兵に戦いを挑んでいたではないか」
秀久が皮肉を込めて言うと、
「それは戦場が四国だったからだ。よく知る土地で、他所から兵を迎え撃つのは寡兵もってしても足る。島津は豊後を知らないといっても、降った国人諸将を先導に使っているはずだ。我らと同じかそれ以上は知っているだろう」
秀久と元親は歩み寄る気配を見せない。
「では鶴賀城の勇者たちを見殺しにするのか」
「彼らは岩屋城と立花城の戦いを聞いているはずだ」
「だからといって全滅戦をさせるわけにはいかん」
秀久は鶴賀城を守る利光宗魚の意向を無視してでも、兵を出すべきであると譲らない。
「義のないところに勝ちはない」
「義も勝ちも、生き残ってこそである」
秀久は正論で押したが、元親は冷静に返す。
「土佐侍従ともあろうお人が臆したか」
睨み合いとなったものの、結局は鶴賀城の情勢を見ながら軍を動かすこととなった。城を守る宗魚に策があった場合、下手に足を引っ張ってはならない。ひとまず、そういう結論に落ち着いた。
利光宗魚は、助けは要らないと豪語しただけの戦いぶりを見せた。鶴賀城は大野川(戸次川)の東岸にあり、豊後府内へと至る街道を見下ろせる位置にある。川の西岸は急な山で、軍を動かすには向いていない。
この時、島津軍は佐伯での激戦などを経て兵数を減じてはいた。だがそれでも、一万余りの軍勢が城を囲んでいる。
宗魚は急を聞いて出兵していた肥前から戻ると、三段構えの山城に立てこもって島津方を迎え撃った。激しく銃を撃ちかけてくる間は息をひそめ、攻め手が構えを破ろうと踏み込んでくるところを、数少ない銃で反撃していたのである。
木の虚がどこにあるかすら知っている守備兵たちは、神出鬼没に現れては島津陣をかき乱した。十一月二十六日の夜半になって宗魚はそれまで温めていた秘策を実行に移すことにした。
家久本陣への斬り込みである。この策を実現させるためには、相手よりも圧倒的に寡兵で侮らせなければならず、思わぬ抵抗を見せて焦らせなければならない。
そこに隙が現れるのを待つわけだから、四国勢などに出てこられては邪魔なのだ。宗魚はきれいに禿げ上がった頭をゆっくりと叩きながらその時を待った。
鶴賀城の三段構えは既に二段までが破られて本丸が残るのみだ。わずか七百の兵で三万の島津軍を退けた岩屋城と立花城の評判は、豊後まで聞こえていた。
「同じ大友家中の我らに出来ぬことはない。その上をいくぞ」
宗魚は兵たちを励ましていた。甲冑が緩く見えるほどに小柄で痩せた男だった。だが、大声でよく笑い、その声が山のどこにいても聞こえるほどの明るさを放っていた。彼の姿を見れば、兵たちはしばし恐怖を忘れた。
岩屋城は全滅し、宝満城は落城し、立花城は耐えきった。三城あって一つしか残らなかった、ともいえる。宗魚は鶴賀の一城で三城の働きをすると豪語したのである。
「やってやろうや」
島津の大軍を前にした時から、宗魚は一度たりとも怖れを見せたことはなかった。城の兵は最初頭がおかしくなったのかと訝しんだが、その指揮ぶりを見て考えを改めた。この男についていけば、たとえどれほどの大軍を前にしても勝てる。そう信じるに至った。
城には宗魚の弟の豪永と息子の統久が共に篭っていた。彼ら二人だけは、城主の様子が尋常でないことに気付いていた。いつも穏やかな笑みを浮かべ、銃弾ですら恐れず指揮を下す姿が、常とはあまりに違っていた。
「大丈夫ですか」
二人だけになった時に、豪永は兄に訊ねた。
「何がだ」
微笑を含んだまま、宗魚は訊ねる。
「最近の兄上は鬼に見えますよ」
「坊主らしいことを言うではないか」
豪永は若くに出家して府内館近くの寺で修行していた。島津軍に襲われている故郷を救うと共に、兄の危急を助けるべく城へと入っていた。
「そういえば、義姉上はどうされたのです。甥の太兵衛の姿も見ない。府内へ逃れたと仰っていましたが、見なかった。城には統久しかいないではありませんか」
豪永は、兄の顔に影が差したことに気付いた。
「何があったのです?」
宗魚は立ち上がり、豪永を本丸の背後にあるごく小さな庭へと誘った。庭といっても、松が数本植えられているだけの狭く小さなものだ。
「ここにいる」
宗魚が指した先には、小さな土饅頭が二つ並んでいた。
「島津の先手が襲った際に、妻は他の者を守って先に行かせた。そして自分たちだけが逃げ遅れたのだ」
「俺が仇を……」
怒りを露わにして言いかける豪永の肩に、宗魚は優しく手を置いた。
「妻が何をしようとしたか、俺はずっと考えていた。己の命を賭してまで、城兵たちの家族を守ろうとした。では俺が何をすべきか。それは城を守りきることだ。違うか」
豪永は無念の涙を流す。だが、宗魚の穏やかな表情は変わらなかった。
「この城を守るためには、家久の首を挙げて島津の気勢を挫いてしまわねばならぬ。俺はこの未明に城を出て家久に槍をつけてくる。その間、城を守っていてくれ」
兄は死ぬつもりなのか、と豪永は宗魚を見つめる。
「生きるさ。でないと誰が供養してやるんだ」
そう言って、宗魚は本丸の方へと戻っていった。
三
「鶴賀城へ行ってこい」
太郎兵衛が吉成に命じられたのは、宗魚が夜討ちを敢行する二日前のことであった。
「大友御曹司と四国勢は、存分に宗魚どのの働きを見届けさせていただく。そう伝えてくるのだ」
命じられて、太郎兵衛は武者ぶるいをした。前線への使者を命じられるのはこれが初めてのことである。
「そしてこう付け加えよ。鶴賀城が危うくなれば、即刻府内に落ちてこられるように。城にこもる全ての者を受け入れる用意がある、とな」
承りました、と一礼して太郎兵衛は府内館を出る。府内では島津の襲来に備えて、民たちが避難を始めている。府内の城は、守護である大友氏が暮らす大友氏館と、南部にある防衛拠点の上原館がある。
豊後の国衙は北に海を望む地形からして、南に守りの重点が置かれていた。大友義統をはじめ、豊後勢と四国勢は上原館に詰めており、太郎兵衛もそこから出立している。
大友義統は町から避難する民たちを、高崎山城に収めるよう布告を出していた。高崎山は府内の西北に聳える独立峰で、山城が築かれている。府内が守りがたしと見ればそこで戦うよう、義統は宗鱗から命じられていた。
太郎兵衛は徒歩である。
鶴賀城は島津に包囲されていると考えられ、そこに騎馬で行くことはできない。その服装も、地元の百姓の子から借りたものになっていた。
「島津に捕えられたら?」
「何をされても口を開くな。もしそれができないなら、自ら命を絶て」
吉成は厳かに命じていた。捕まったら死ね、という父の言葉に、島津の軍はすぐ近くにいることを実感する。だが、不思議と恐怖はなかった。戦の真っただ中にようやく足を踏み入れられる喜びの方が大きかった。
府内から南へと進むと、大野川を挟みこむように山並みが聳えている。その間の谷間が戸次庄となる。
そこから先には十字の旗印が見える。島津の本陣が今にも府内に向けて押し寄せてきそうな勢いである。だが、思ったよりも少ないと太郎兵衛は感じた。海を渡った四国勢とさして変わらない。
「三万はいると聞いていたのに……」
一万程のように見える。残りの二万が山を迂回して府内へ突入してくるのでは、と怖くなったが、それよりもまずは使者の任を果たさねばならない。彼は府内で聞いていた通り、島津軍で充満する日向街道から外れて石鎚神社のある側道の方へと進んでいった。
道は神社で行き止まりになっている。だが拝殿の奥に、神主が山に参拝するさいの細い道があることを聞いていた。この道をたどると、鶴賀城の真下に出るという。
太郎兵衛は周囲を警戒しながら急な山道を進み、二度ほど道を見失った末にようやく尾根筋へと向かう道を見つけた。だがそこで、何者かの気配を感じて太郎兵衛は動きを止めた。
木立の中を縫うように、一つの影が山を登っている。太郎兵衛は悟られぬよう距離をとり、その後をつけた。粗末な杣人姿で敵か味方かは判然としない。だが人目を気にするように、何度か足を止めて周囲の気配を探っているようでもあった。
山肌は急峻さを増し、そして木立の向こうに微かに曲輪が見えてきた。土づくりではあるが、堅牢そうな造りなのが遠目でもわかる。
男は何やら指を前に出し、寸法を測っていた。どうやら島津の忍びの類らしい、と太郎兵衛は緊張した。城まではまだ一町ほどはありそうだ。このままやり過ごすかどうか迷っていたその時、耳をつんざく音がして太郎兵衛は慌てて身を伏せた。
忍びらしき男は顔の半ばを吹き飛ばされてしばらくふらついていたが、やがて仰向けに倒れた。狙って当てたのであれば、大した腕だと太郎兵衛は感心した。
この鉄砲に狙われるとまずい。太郎兵衛は身を伏せ、土塀が見えるところまで何とか近づくと、銃口がじっとこちらを見ていることに気付いた。
太郎兵衛は敢えて身をさらし、
「府内より使者として参りました、関白羽柴筑前守が黄母衣衆、森小三次吉成が子、森太郎兵衛にございます」
と名乗った。
銃手はわずかに顔をのぞかせ、使者という者が幼い子供であることに戸惑った表情を浮かべたが、太郎兵衛も先ほどの鉄砲名人が同じ年頃の子どもだと知って驚いていた。
やがて僧形に甲冑を身に付けたいかつい男が出てきて太郎兵衛を曲輪の中に招き入れた。
「利光豪永だ。使者の任、大儀である」
そう挨拶した後、
「すぐに兄上に会わせよう」
と豪永は本丸へ至るほとんど崖といってもよい山肌をよじ登っていった。
「石垣を積むような銭もないのでな」
豪永は腕一本で岩からぶら下がりながら微かに笑みを浮かべる。
「この城を落とすのは島津三万といえども、そう簡単にはいかない」
「三万もの全軍はいないように見えました」
二人にも、他の地域での戦闘の詳細まではわからない。
「戦場はここだけではない。臼杵の宗麟さまのところも攻められているだろうし、西の肥前でも戦があるだろう。兄上は肥前に出征しているところ、留守を襲われたのだからな。島津は諸方に軍を分けているのかもしれん。ま、どちらにしても島津の大軍がいることには変わりない」
本丸は頑丈そうな柵と矢倉で守られてはいるが、ごく粗末な山城だ。安土や大坂の城を知る太郎兵衛からすると、出城の一つ程度にしか見えない。途中までは深い木立と急峻な山肌で周囲が見えなかったが、城まで登ると山の全容と島津の大軍が明らかになった。
本丸から東に延びる尾根筋に沿って二の丸、三の丸が設けられ、北と南、西の三方には小さいながらも曲輪が城を守っている。
「粗末だが、使いでのいい城なんだぞ」
と豪永は得意げに言う。やがて本丸の門が開き、館の奥に通された太郎兵衛は城主の利光宗魚に目通りした。
「おお、随分と若い使者が来たものだ」
城主の宗魚も、僧形であった。だが、まるで親しい友が遊びに来たかのような穏やかな笑みを浮かべ、甲冑を身につけているわけでもない。
「して、義統さまからは何と?」
太郎兵衛が使者としての言葉を伝えると、こくりと宗魚は頷いた。
「こちらの想いを聞き届けて下さり、心より感謝申し上げる」
鶴賀城が主筋の大友義統、そして四国勢の後詰めを断わったことは、太郎兵衛も吉成から聞かされて知っている。だがその理由を訊ねるのは、仕事のうちに入っていない。
「ではこれにて失礼いたします」
初めての使者の務めが無事に済んだことに安堵し、太郎兵衛は手をつく。だが宗魚は一晩ここで泊っていけ、と勧めた。
「もう日が暮れる。お主はこのあたりの山に詳しいわけではなかろう。本丸にいて明朝府内へ帰るといい。統久もいることだしな」
「は……」
島津の大軍に囲まれているとは思えぬ、悠然とした態度である。太郎兵衛はどうにも我慢できなくなり、怖くないのですか、と訊ねてしまっていた。
「何が?」
と逆に問われる。ここで島津が、と答えると宗魚を辱めているような気がして、太郎兵衛は口ごもった。
「島津が怖いか、と申すか。そりゃ怖い」
宗魚はあっさりとそう言った。
「敵の大軍何するものぞ、といえば勇ましくていいのだろうが、生憎俺の性分には合わないのでな。川に釣りに行くような気持ちでいようと思いながら、眠れぬ夜を過ごしておるよ」
太郎兵衛は逆に拍子抜けしたような気がして、言葉が出ない。
「統久が来たようだから、奥で茶でも飲んでいくがいい。篭城中ゆえ、ろくなもてなしもできぬが、許せよ」
呼ばれて出てきた少年が先ほどの銃兵だったので、二人はあっと声を上げ、そして照れ臭そうに笑った。宗魚はそんな二人の様子を微笑んで見ていた。
四
宗魚への挨拶がすむと、太郎兵衛は統久の部屋で休むよう告げられた。大坂や姫路、土佐の話をしているうちに夜が更けて、二人は床についた。
城の周囲はしんと静まり返り、やかましいほどの虫の声だけが聞こえる。太郎兵衛は緊張が解けて、すぐさま眠りに落ちそうになったが、統久がしきりに寝返りを打つので目が醒めてしまった。
「どうしたの?」
「……何でもない」
「怖い?」
「全然」
統久は声を押し殺すようにして答えた。涙混じりの声だった。
「島津の奴ら、絶対に許さない」
統久の母と兄が城下の人々を守って討ち死にしたことを知り、太郎兵衛は言葉を失う。
「この城、必ず守ってみせる。来るやつは皆殺しだ」
泣いているのだ、ということに太郎兵衛が気付いた時には、統久は立ち上がって部屋から出て行っていた。使者として利光宗魚のもとまでたどり着くことだけを思って山道を歩いてきたが、よくよく考えると今は島津軍一万の刃の上にいるのと変わりはない。
そうと思うと自分まで震えてきた。冬深更で、しかも山の上だ。寒さもより厳しく感じられて心細い。
なかなか統久は帰ってこない。厠にでも落ちたかと心配になって部屋から出ると、太郎兵衛は異変に気付いた。
城のあちこちから甲冑の触れ合う音が聞こえる。だが、喊声が聞こえるわけでもなく、銃声もしていない。
こっそりと本丸の方へ向かうと、篝火も焚かれていないのにやはり多くの人の気配がする。柱の陰から覗くと、統久をはじめ数十人の武者が白い鉢巻をしめて居並んでいる。数人は銃を持ち、多くは弓を持ち、柄を短く切った槍を手にしている者もいた。
宗魚が手を上げると、数人の兵が静かに門を開く。闇の中へと消える兵たちの最後に、宗魚と統久が続いた。統久の横顔は、先ほどまで泣いていたとは思えないほどに、静かなものとなっている。
太郎兵衛はその後に続こうとした。統久たちがこの夜更けに武具を身につけてどこに行くのか、明らかだ。島津への夜襲をかけようとしている。だが、
「これはお前の戦ではない」
と肩を掴まれる。振り向くと、豪永が立っていた。
「使者の任を果たすのが務めであって、我らの戦に助太刀することは命じられていないはずだ。一緒に槍をとって戦うのではなく、見届けていくのが本分だろう」
そう諭され、太郎兵衛は力を抜いた。
「物見櫓があるから、そこから見ているがいい」
豪永は兄と甥が死地に赴いているというのに、随分と落ち着いて見えた。
「今の兄上には島津の兵が一万いようと、恐れるに足らぬ」
「どうしてです?」
「負けられぬ理由のある者は強い、ということだ」
「統久に聞きました」
「そうか……」
太郎兵衛を伴って豪永は物見櫓に登る。櫓は木立の上からは周囲を見渡せるが、下からは見えないように巧妙に枝葉を使って隠されていた。そこから顔を出すと、既に破られた三の構えと二の構えが無残な姿をさらしていた。
島津軍は一度退いて戸次庄の集落に陣を置き、さかんに篝火を焚いている。
「勝ちに驕っておるわ」
夜明けに近い真夜中は、奇襲にもっとも向いている刻限とはいえ、警戒も厳しいはずだ。だが、島津家久の陣には見張りの兵もそれほど立っているようには見えない。
「島津も疲れているのだ」
豪永は敵の警戒が薄い理由を、そう読み解いた。
「薩摩から激しい戦を繰り返して北上し、筑前では上方からの軍が押し返してきている。このまま府内を抜いて北上して、関白さまの精鋭を中国へ押し戻すのは至難の業だろう。勝っていても、その先に終わりが見えなければ辛いものだ」
だが俺たちは違う、と豪永は胸を張る。
「我らは大友家に恩を受け、故郷を安堵されている。この戦に勝てば、またこれまでのように暮らせる。島津のように限りなく戦っているわけではないからな。だから、この一戦に全てを賭することができるのだ」
城には数百しかいないが、この先にもつわものがいくらでも待ち構えている。筑前まで達したところで、上方の大軍に迎え撃たれる。
「それがわかっていながら、あくまでも北上を続けるあいつらも天晴な敵だ」
豪永は島津軍を称えてすら見せた。
「そろそろか。あの辺りを見ているといい」
指された辺りは、何ということもない木々に覆われた山肌だ。篝火のおかげで仄かに明るくはなっているが、重い闇が周囲を包んでいて様子がわからない。
だが、山肌がわずかにざわついたように見えた。風のせいかと思えばそうではない。波立つようにざわめいた茂みの間から、ゆっくりと姿を現したのは、白い鉢巻姿の武者たちである。
島津家久の本陣はまだ静まり返っている。城を出る時には最後に出て行った宗魚が、先頭に立っているのが見えた。大胆にも篝火のすぐ近くまで行った姿が、物見櫓からも見えたのである。
宗魚の右手がさっと上がった。喊声をあげることもなく、槍をふるって本陣へと突入する。銃声が一斉に轟いて、島津の陣は騒然となった。慌てて飛び出してくる者は銃弾と鏃の餌食となり、次々に倒されていく。
だが島津の混乱は間もなく収まった。
宗魚たちの夜襲は激しいとはいえ、島津の本隊からすればはるかに小勢である。敵軍全体を混乱させるには至らない。本陣の幔幕は燃え上がったとはいえ、家久の首を挙げたわけではない。
陣太鼓の音が響き、それを合図にしたように、島津方は整然と反撃を開始する。
「まずいな……」
豪永はくちびるを噛んだ。そして物見櫓の下に向かい、宗魚たちが山を登ってくればすぐさま収容するように命じる。
「さすがは島津家にその人ありと知られた家久だ。沖田畷で竜造寺の精鋭を破っただけのことはあるな。太郎兵衛は本丸に隠れていろ」
「ここで見ています」
「そうか。では俺たち利光一族の戦いぶりを四国の面々にお伝えできるよう、手痛く働いて来るとしようか」
豪永は不敵に笑うと、物見櫓を下りていった。
島津軍に押し詰められた宗魚であったが、慌てる様子も見せず兵たちをまとめると、銃と弓で追手を怯ませつつ後退を始めた。太郎兵衛はその悠然とした退き口から目を離せず、櫓の木組みから身を乗り出すように見つめている。
多勢で追いすがる島津兵を狭い沢に引き込んでは射すくめる。山ひだの一枚にまで精通している彼らに追いつけず、島津方は苛立っているのが手に取るようにわかり、太郎兵衛は喜んで櫓の手すりを叩いた。
だが、彼は恐ろしいことに気付いた。島津方の一隊が、既に落ちた二の構えへと回り込んでいる。焼け焦げてはいるがまだ建っている矢倉の上へと、数人の銃卒が入った。
太郎兵衛は急いで物見櫓を下り、豪永の姿を捜す。
迎撃の備えを整えていた彼は、崩壊した二の構えに回り込んだ一隊を認めると、すぐさま一隊を向かわせようとした。だが、太郎兵衛が山を登ってきた裏門の方から突如喊声が上がる。
「豪永さま、搦め手の道から島津兵が攻めのぼってきています」
「くそ、ばれたか」
しばし迷った末、豪永は兄の救援に向かわせるはずの一隊を、搦め手へと送った。
「なあに、兄上はそう簡単には死なんよ」
自分に言い聞かせるように呟いた豪永は太郎兵衛の肩に手を置く。
「しばらくは戦が激しくなるから隠れていろ。もし城門が破られるようなことがあれば、すぐさま逃げるんだ。府内から来た使者を死なせたとあっては、大友の殿に失礼だからな」
そう言うと、搦め手の方へと駆けて行った。残された太郎兵衛は懐に手を入れる。小刀一振りと丸い石が三つ、入っていた。もう一度物見櫓に登って宗魚たちを捜すと、三の構えを越えたところで猛反撃に出ていた。
敵兵の怯んだところでさっと退く采配ぶりは相変わらず見事だが、二の構えに先回りした銃卒たちには気付いていないように見えた。
太郎兵衛は島津方に備えている兵たちの間をすり抜けて柵から飛び降りると、止める声も聞かずに二の構えの背後へと走り込んだ。島津の銃卒が宗魚の背後をとり、その背後に太郎兵衛が回った形となる。
矢倉の上に顔を出している銃卒は五人。石は三つだが、三人の頭を砕けば残りの二人は逃げると考えていた。しばらく石合戦もしていないから、印地打ちがうまく決まるか自信はない。だが、やらねばならない。
銃卒の一人が銃口をわずかに下に向けて狙いを定めた。太郎兵衛も足場を確かめ、手の中に石を握る。
太郎兵衛は腕をしならせ、石を投げる。当たるかどうかを確かめもせず、次の石を手の中に握る。頭を出しているもう一人の銃卒を狙って、二つ目を投げた。
狙いをつけていた銃卒の頭が跳ねあがるが島津兵は怯まない。二発目の石が当たって兵が矢倉から落ちたところで、太郎兵衛は愕然とした。
普通であれば、二人も倒されれば他の兵は周囲を探すか、慌てて逃げてもおかしくない。だが島津の銃卒は、二人が倒されたのにもかかわらず、石が飛んできた先を探そうともせず銃を構える。
焦ったのは太郎兵衛の方であった。予想外の動きをされたことで心を乱され、三つ目の石は銃に当たっただけで兵を倒すまでには至らない。三人の銃卒がほぼ一斉に、山を上がってくる宗魚たちに向けて発砲した。
太郎兵衛の方から、宗魚たちは見えない。だが、反撃によって三人の銃卒は瞬く間に倒された。ほっと胸をなでおろして宗魚たちの方に向かおうとすると、地響きのような鬨の声が響き渡る。
島津軍が十文字の旗を押し立てて、続々と鶴賀城山を登りつつあった。太郎兵衛は急いで本丸に戻り、宗魚たちの奇襲隊と共に城内へ駆け戻る。
数人の死者は出たが、ほとんどが無事に帰ってきた。統久も膝に手をついて荒い息をついている。だが、宗魚の姿が見えない。
「統久、兄上は……」
豪永が声をかけると、統久はそのまま顔を覆い、崩れ落ちた。生還した兵たちも俯いてくちびるを噛んでいる。
「殿は、二の構えまで上がった時に敵兵に撃たれて倒れられました。俺たちは担いで行こうとしたのですが、置いて先に行けと叱りつけられ……」
一人の兵がそう報告し、太郎兵衛は目の前がぐるりと回ったような気がしてよろめいた。
やはり、印地打ちを外したせいで、宗魚は命を落とすことになってしまったのだ。人の父を殺してしまったような気がして、太郎兵衛は思わず統久と豪永の前に手をついた。
「俺がしくじったばかりに!」
と詫びる。初めての使者として鶴賀城に来て、城主を死なせてしまうとは何事か、と太郎兵衛は自分を殴りつけたかった。その願いを見抜いたかのように、大きな拳が彼の頬を打ち抜く。
目を回しながら立ち上がった太郎兵衛の前に、拳を握りしめたままの豪永が仁王立ちになっていた。
「府内からの使者にご無礼、平にご容赦願いたい。だが、言っておく。兄上は存分に戦って討たれた。誰かのせいではなく、己の心のままに戦い、志を遂げられるべく武者の道を歩いていたのだ。その道に余人が入ることは許されぬ」
太刀で斬り捨てるような厳しい声である。
太郎兵衛は己の浅はかさを悟り、俯く。宗魚は島津の大軍の本陣へと斬り込み、総大将を慌てさせた。そして鮮やかに退いて見せる途中で敵弾に当たって傷つき、味方を庇って討ち死にしたのである。その名誉に、誰も踏み込んではならないのだ。
言葉を失っている太郎兵衛を、統久が見つめていた。
「太郎兵衛の石、見たよ。見事だった」
どう応じるべきか迷う太郎兵衛の手をとった統久は、
「俺はこれから豪永叔父と共に、この城を守る」
と静かに告げた。
物見櫓からは、島津の先鋒が二の構えを越えて山肌を登ってきていると声が聞こえていた。全ての城兵が柵の銃眼から敵に狙いをつけ、弓を持った兵は次々と弦を引き絞っている。
「それが俺の務めだ。太郎兵衛の務めは、府内に帰ることにある。ここで俺たちと共に闘うことではない」
その声は太郎兵衛の耳には冷たく響いた。でも、と統久は続ける。
「太郎兵衛の助太刀、嬉しかった。単身、俺たちを助けに城を出てくれたことは忘れない。共に戦ってくれて、ありがとう。いつかこの恩を返そう」
力を篭めて太郎兵衛の手を握り締めて、離した。太郎兵衛が顔を上げると、統久は微笑んでいた。顔見知りになった城兵たちや、先ほど太郎兵衛を殴り飛ばした豪永ですら、穏やかな笑みを含んでいる。初めてまみえた時の宗魚と同じ表情であった。
「太郎兵衛、お前の道は俺たちで作ってやる。兄は存分に思いを遂げた。島津はいま、利光宗魚のいないこの城を落とそうと総がかりになっている。その背後を衝くなら今だ。府内へ帰り、我らの言葉を伝えてくれ」
豪永は鶴賀城の将兵は退かず、ここで島津軍を引き付けるから、全軍を以ってその後詰めとなることを要請する、ときっぱりとした口調で言った。
「道は石鎚神社から続く搦め手の他に、我らしか知らぬ隠された道がもう一本ある」
豪永に促されて、太郎兵衛は返書を胸に城を出る。登ってきた道にある搦め手の曲輪からは、銃声と断末魔の叫びが聞こえてくる。城方のものなのか、敵のものなのかが気になるが、振り返るな、と豪永は言う。
「さあ行け!」
背中を強く叩かれて、太郎兵衛は走り出した。初めて通る茂みに覆われた道であったが、迷うことなく駆け下りる。
道をたどると、再び社の裏手に出た。石碑を見ると丹生天満神社とある。鳥居から大野川が見えて、その先には府内の街が広がっていた。まだ島津軍の気配はなく、ほっとしつつ川を渡る。
振り返ると、戸次と府内を隔てる山並みが見える。山稜の向こうから煙が数本立ち上り、一見のどかにすら思える。だがその下では、統久や豪永が死力を尽くして城を守っているのだ。
太郎兵衛は府内館へ走った。
五
「利光宗魚さまは討ち死に。しかし弟の豪永どの、子息の統久どのが懸命に城を守って支えています。島津は足止めされ、側面から衝く好機です。今すぐ軍を動かして下さい!」
泥だらけになって帰ってきた太郎兵衛は必死に援軍を出すよう求めた。だがその報告を受けて、軍議はさらに紛糾するばかりである。
「すぐさま討って出て、島津家久の首を取るべきだ」
仙石秀久は広間の床を叩いて喚いた。
「ここで宗魚どのの死を無駄にしては、我らが海を渡ってきた意味がない。それに、戸次を破られれば府内は丸裸になる」
背後に海があり、三方が開けている府内の大友館は、守るに適さない。四国勢が詰めている上原館も城としては弱かった。
「それに使者からの報告によれば、城兵は島津の主力を引き付けてくれている。その背後を衝くのは上策である」
だが、長宗我部元親と信親親子は反対した。
「我らは寡兵であり、島津家久ともあろう者が、背後の備えを怠っているとは思えない。ここは高崎山城へと退いて堅く守り、鶴賀城で疲弊した島津方の気力を殺ぎながら臼杵の宗麟どのと兵を合わせる機をうかがうべきだ」
太郎兵衛は使者として城をつぶさに見てきた手前、軍議の末席にいた。だが、元親たちの言葉には苛立ちを覚えた。助けなければならないのは明白である。なのにどうしてこのような評定を繰り返すのか。
だから父が立ち上がった時は、ほっとした。これで統久たちは助かると思ったからである。だが、
「軍を戸次に出すべきではない」
と言った時には愕然とした。
「鶴賀城はすでに三段構えの二段までを破られ、本丸には残存の五百ほどが守るのみ。彼らはよく戦っているが、戦は広い目をもって見るべきだ。ここは土佐侍従さまの言う通り、高崎山城に退いて、敵の戦力を削るべきである。薩摩から長駆して戦い続けている島津は疲れている。戦う気力を殺ぐことこそ肝要だ。だが、利光一族の奮闘を見殺しにしてはならぬ。秘かに一隊を送り、呼吸を合わせて血路を開いて後に退く」
「それでは手ぬるい」
秀久は吉成をぐっと睨みつけ、
「土佐侍従どのと小三次の案は受け入れられぬ」
と拒んだ。
「これまでは海のこともあって遠慮していたが、戦の大事を決するとなれば、わが命に従ってもらう。関白さまに四国勢の戦いぶりやいかにと訊ねられて、ひたすら山に篭っておりましたと答えるわけにはいかん。ただでさえ、我らは中国勢に後れをとっているのだぞ。しかも、あちらは筑前一国を奪い返し、さらに南へ島津を押し返そうという勢いなのに、このまま横目で眺めているだけでよいのか」
土佐にやる気がないのなら、他の三国だけで出る、とまで秀久は言った。
「戦が終わった後、土佐侍従は怯懦にして戦意なしとご報告申し上げるが、異議を申されないようにな」
そこまで言われては、元親も返す言葉がない。軍議は戸次への出陣に決まった。諸将がそれぞれの陣へと帰っていく中、太郎兵衛は安堵と共に物足りなさも感じていた。自分の報告によって、四国勢は炎のように島津方の背後を襲い、鶴賀城を助けてくれるはずであった。
なのに、元親親子は兵を出すことに反対し、父は統久たちを助ける案は出してくれたが、城は捨てると言った。
「不服か」
むっとした顔をしている息子に、吉成は声をかけた。だが、軍議で決まったことに不服を言うことは憚られた。黙っていると、
「お前は何のために兵を出すべきだと考えた」
「統久たち、城を守る者を救うためです」
間髪容れず、太郎兵衛は答える。だが吉成はそれは間違いだ、と言う。
「我らが考えなければならないことは、小さな城を一つ守ることではなく、島津を薩摩に追い返すことだ」
「確かにそうですが……。でも、味方の奮戦を見殺しにするようでは、誰もついてきません」
「鶴賀城はもともと、我らの援軍を断った。その間に島津は戸次へと兵を入れ、こちらから攻め入るのは難しいほどの陣を築いたのだ。そこへ島津よりも兵力の少ない我らが攻めかかることは、四国勢にも大きな犠牲が出ることを意味する」
「だからといって、あれほどに奮戦している鶴賀城を見捨てていいという理由にはならないではありませんか」
と太郎兵衛は父に詰め寄る。
「お前は随分と、城内の者たちに肩入れするのだな」
「そ、それはあの戦い方を見れば誰でもそうなります」
「見るべきは城がどうなるかだけではないのだ」
吉成は甲冑を身につけ、黄母衣を羽織る。
「だが、鶴賀城は要地だし、味方の士気も大事だ。高崎山城に篭るとなれば、俺が自ら走って利光豪永以下、城を守っている者たちを脱出させる」
「見捨てないのですね」
太郎兵衛は胸を撫で下ろした。
「四国勢が後詰めに入れば、家久は備えをとらなければならない。鶴賀城は小さいとはいえ、これまで島津の我攻めにすら持ちこたえてきたのだぞ」
「城は落ちない、と?」
「おそらくな。それよりも、俺たちは己の心配をした方がいい。権兵衛の奴、功を焦り過ぎている」
吉成は鶴賀城より、功に逸っている秀久のことを気にしていた。
「あまり無茶をしなければいいのだが」
「無茶?」
「島津は剽悍だが頭のいい連中だ。俺も軍議であの程度のことは言えるが、やはり軍を実際に率いている連中の意を曲げるのは難しい」
への字にくちびるを歪ませた吉成は嘆息する。
「四国勢が健在であることが城を助けることになると気付けばいいものを。これで我らもろともに島津にやられたら、鶴賀城どころか豊後全体が危うくなるぞ。こうなっては四国勢の奮闘を祈るのみだ」
黄母衣衆の吉成には、数十人の郎党しかいない。これでは戦に出ることはかなわないので、元親の本陣近くに侍ることになる。土佐衆の気勢は今一つ上がらなかったが、それでも戦を前にして兵たちの気分は高揚しつつあった。
仔細はともかく、九州に入ってようやく戦えるのである。滞陣中やることもなく、博打に明け暮れていた兵たちは勇躍して進撃を開始した。
六
細作が見聞してきたところによると、島津は戸次から大野川を渡り、判太郷のはずれに陣を敷いていた。軍を三つにわけ、中軍を中心に両翼に陣を展開している。
それ以上の前進を許しては、府内の城下へと攻め込まれてしまう。
「ほら見たことか」
仙石秀久は得意げな表情を隠そうともしない。
「わしがこうして軍を出そうと言わなければ、我らは何もせぬまま府内の館を囲まれていたのだぞ」
長曽我部元親と森吉成は憮然として答えなかったが、十河存保も同じように誇らしげな顔であった。
「これでようやく、関白さまに功をお知らせできますな」
布陣は、秀久の軍が中央で先陣を切る。長宗我部と十河が両翼、そして小早川はその後詰めとして敵を川の向こうへと押し返すことになった。
土佐から来た一領具足たちも、戦を前に張り詰めた空気の中で押し黙っている。太郎兵衛は元親が諸将にてきぱきと指揮を下す様をじっと見つめていた。将兵と軍馬の吐く息が、一帯に白く漂っている。太郎兵衛は、ともすれば震えそうになる体に力を入れて我慢していた。
「いよいよですね」
千雄丸信親が、吉成に話しかけている。信親も一軍を率いて元親と共に戦うことになっている。全ての配置が終われば、元親に挨拶をして自軍に戻ろうという頃合いだった。
「存分に戦ってきます。ご検分ください」
信親の顔を高揚が覆っている。
「あまり気負われませんように」
じっと若武者の顔を見返していた吉成は、ただそれだけ言った。
「九州で覇を目指す島津に、かつて四国に覇を唱えた長宗我部がぶつかるのです。気負わずにおられましょうか」
「関白さまの主力はまだ畿内にとどまっています。利がなければすぐさま退かれますように」
吉成の言葉に、信親は不愉快そうな表情となった。
「戦の前に随分なことを仰る」
「これは関白さまの戦いでもなければ、土佐侍従さまの戦いでもない。権兵衛の我がままから出た戦でしかありません」
「島津は大野川を越えて陣を敷き、府内へ攻めかかる姿勢を見せています。仙石どのの発意から始まったことだとしても、今や戦うに十分な理由があり、功を立てる時だと思っております」
その横顔を、太郎兵衛は眩しげに見上げていた。その視線に気付いた信親は、
「太郎兵衛、我ら共に名を揚げる好機ぞ」
と張りのある声をかけた。太郎兵衛もその意気に当てられて大きな声で返事をすると、満足げに頷く。信親は吉成に一礼すると自陣へと戻っていった。その背中を見送っていた吉成は、
「太郎兵衛、我らは千雄丸さまにつくぞ」
そう告げた。
吉成は戦においては元親の側にいることになっている。それは、秀吉からの使者で軍監であるという立場からである。だが、それは誰に命じられたわけでもない。
「千雄丸さまは何度も戦場に出られ、存分に戦える力もある。だが、権兵衛が強引に始めた戦で万が一のことがあれば、俺は殿にも土佐侍従さまにも顔向けできぬ」
吉成は初めて、太郎兵衛に馬に跨ることと、甲冑で身を固めることを許した。これまでは馬丁扱いだから何もなく、せいぜい胴丸と鉢金だけの足軽のような格好だった。
「これが俺の初陣ですか」
「気負うことはない」
励まされているのかと思ったが、そうではない。
「ことさら初陣だからと気負うような家でもなし」
とつれない父の言葉だ。だがそれでも、太郎兵衛は嬉しかった。初めて騎馬を許され、侍として戦うことができる。そのための鍛錬はもう十分にした。
「ともかく我らは千雄丸さまの側にいて、その無事を守るのだ」
太郎兵衛は力強く頷く。土佐侍従の息子を守って戦うなど、これ以上ない名誉の務めである。鶴賀城では宗魚を目の前で死なせてしまった。次はそうはさせない、と槍を握りしめる。
「あまり己の腕を過信するなよ」
吉成の忠告に頷くが、太郎兵衛も気負っていた。
長宗我部の三千のうち、信親が率いるのは千人である。信親の軍を前衛とし、右翼の島津軍を攻める。激しい銃撃戦が始まると、あたりは濛々とした煙と火薬の匂いで覆われた。
「戦況を」
信親はひっきりなしに物見の兵を出し、状況を知りたがった。島津には膨大な数の銃があり、四国勢も秀吉から与えられた大量の銃を備えている。互いが撃ち合う銃撃の優劣は、結局はその数と用い方が左右する。
「我が軍が押しています」
銃の性能や運用については、双方ともに熟練しているといってよかった。この時期になると戦は銃卒の撃ち合いが多くなり、先に崩れた方が負ける。
「島津方が潰走を始めているようです!」
数人の物見が立て続けて報告した。
「追撃を……」
と命じかけたところを、信親の後見に付けられていた谷忠澄が止めた。
「まだ早い。策略かもしれません」
「谷どのの言う通りです。島津がこれほどあっさりと退くとは考え難い」
吉成も横から言い添える。
「それは故があるのか」
信親は普段の静かな表情を捨て、闘神のように猛って二人に詰め寄る。容貌魁偉な信親が見せる激しい戦意に谷忠澄は押されたように口ごもった。
「故はありませんが、戦には機微があります」
吉成は駆けだそうとする信親の手綱を掴んで止めようとした。
「機微とは何か! 敵の敗勢を見て攻めてこそ、機を失わないのではないか」
そう反論されて、吉成は言葉に詰まった。太郎兵衛は、敵が逃げ出しているのに追ってはならぬという父たちの言葉が理解できない。
「島津方は川を渡って敗走しています!」
続けざまに報告が来る。そして信親の表情が変わったのは、
「仙石越前守さま、敵の左翼を破って川を渡り始めております」
との報がもたらされた時である。仙石秀久ら淡路勢が敵の左側に攻めかけ、第二陣に十河存保と信親の軍勢が続いている。元親はその後詰めに入っていた。
「怖じているのなら無理にとは言わぬ。我らは敵を追い、家久の首を取る。越前守どのに後れをとるわけにはいかない」
そう言って吉成の手を振り払うと、大声で追撃を命じる。喊声を上げた長宗我部軍は戸次川に足を踏み入れ、次々に渡り始めた。
「千雄丸さまから離れるな」
吉成は太郎兵衛にそう命じると、馬を走らせようとする。
「どこへ行くんですか」
「様子を見に行くのだ。島津一の戦上手が、こうもあっさり退くのがどうしても信じがたい。何があったのか確かめねばならん」
そう言って煙と喧騒の中へと消えていった。
信親の軍の後を追って、元親の本隊も続いている。仙石秀久の軍も競うように川を渡り、戸次の集落へと入り込んでいた。島津方の逃げ足は速く、煙が晴れてきたというのにその姿がわずかにしか見えない。
「急げ!」
信親は馬の腹を蹴り、軍の先頭に立って走る。だが、目前から駆け戻ってきた吉成がその前に立ちふさがった。
「すぐに退くのです!」
「なぜ!」
「釣り野伏せ……」
と吉成が言いかけたところに、その声をかき消すほどの銃声が轟いた。太郎兵衛の視界の中で、数人の兵が次々に倒れる。銃弾が胴丸を貫く乾いた音がして、続いてあちこちで血しぶきが舞うのが見えた。
土と血の湿った香りを塗りつぶすように、糞尿の臭いが立ち込める。命を失う寸前に、人は体内にたまった排泄物を出す。戦場はいつも、その臭いが充満していた。しかしこれほど近くで、その瞬間を見たのは太郎兵衛も初めてだった。
一人の武者が槍を構え、太郎兵衛の前に突進してきた。
組み止めきれず転ばされた太郎兵衛に槍を突き出そうという武者の首筋に、矢が突き立った。
「太郎兵衛、止めを!」
矢を放った次郎九郎吉隆が叫ぶ。無我夢中でその武者の首を掻き切った。
「押せ!」
信親は敵の勢いに怯まず、銃卒を前に出して反撃を試みた。だが、集落の陰から狙撃してくる敵の姿は硝煙に隠れて定かでない。密集して川を渡ってきた長曽我部軍は格好の標的となって、次々に倒れていく。
「千雄丸さま、機は失われました」
馬を撃たれて失い、徒歩になった谷忠澄が信親を引きとめる。
「越前守どのの軍はどうなっている」
戦場は混乱し、中央から川を渡った秀久の動きは判然としない。
「島津の策が我らにだけかけられたとは思えません。島津は最初から一度退いて我らを引きこんでいるのです。即刻退かねば全滅します!」
吉成の言葉に、太郎兵衛は愕然とした。集落の向こうから、肝が凍るような鬨の声が巻き起こった。島津の本隊が整然と押し出してくる。銃火は炎の束となって襲いかかり、信親の軍は見る間に百を超える兵を失った。
「退こう……」
信親は肩を落とした。だが、忠澄に軍の指揮を命じ、自らは殿となって敵を防ぐと命じた。吉成と太郎兵衛にも先に退くよう告げるが、吉成は拒んだ。
「見届けるべき軍がそこにある以上、離れるわけにはいきません。それに千雄丸さま、あなたは存分にご検分せよと仰ったではないか。軍監が真っ先に逃げ帰って、何の面目があって殿に報告できましょうか」
驚いたように目を大きく見開くと、若武者の顔は驚くほどあどけなくなった。頷いた信親は槍を構え直す。猛烈な射撃の中、土佐の兵たちは次々に倒れていく。だが信親の本陣はじっと動きを止め、静まり返っていた。
七
十字の旗を押し立てた大軍が信親たちへと迫っている。太郎兵衛は既に、数人と槍を合わせて討ち取っていた。
首を挙げて功名としたかったが、討ち捨てにせよと命じられている。言われてみれば確かに、いちいち首を掻き切っていたのでは間に合わない。それほどの乱戦であった。
体は疲れている。いくら鍛錬を積んでいるとはいえ、一間半の馬上槍を持つ手は痺れていた。太郎兵衛は吉成や信親の強さに驚くばかりである。
二人とも面頬から脛当てに至るまで、乾いた返り血で色が変わっている。それでも押し詰めてくる敵を前に気を静め、微動だにしない。
土佐勢の鉄砲はまばらで、島津の銃声は激しい。銃の力は、太郎兵衛を心底震えあがらせた。顔面に直撃を受けると、顔の半ばは吹き飛ばされる。胴に当たれば拳より大きな穴が開いた。これまでも戦場でそのような死体を見てはきたが、目の前でそうなる姿は、やはり彼に衝撃を与えていた。
夢中で戦っているうちは平気だったが、ふと我に返るとやはり怖い。
「太郎兵衛」
気付くと、信親が轡を並べていた。
「一つ頼みたい」
土佐の軍を率いて、府内まで退く指揮をしてもらいたいと信親は言った。
「そんな……無理ですよ」
これまでは使者の、しかも馬丁や従者でしかない元服前の子供である。数百人とはいえ、土佐の戦士たちを指揮するなど、考えたこともない。
「男たるもの、いつ将となり王となるかわからない。その心構えをしておくのが戦国の武者というものだ」
信親は面頬を外した。色白の横顔は戦場にあるとは思えぬほどに柔らかな笑みを湛えている。そしてぞっとするほどに美しかった。
「これまでの戦いぶり、見事だ」
「ご覧になっていたのですね」
「目に入る限りはな。誰がどのように戦い、傷つき、倒れていったかを胸に刻み込んでいくのも、将の務めだ。ともかく、この場を預かる将としての命だ。残りの兵をまとめ、大野川を渡って府内へ戻れ」
「千雄丸さまは?」
「小三次どのと共に殿を務め、後に続くよ」
そこには土佐や府内で見せた気負いは全くなかった。太郎兵衛は引き込まれたように、承りました、と頷くほかない。満足げな表情を浮かべた信親は、腰から太刀を外し、太郎兵衛に手渡す。
「これは?」
「かつて信長さまより拝領した左文字だ」
「そんな物をいただくわけには……」
「お前は関白さまからの使者であり、俺に代わって軍を率いるのに不足はない。この左文字の太刀は長宗我部信親の魂だ。しばし預かっておいてくれ」
あれだけの乱戦を切りぬけたというのに、鞘にすら汚れ一つついていない。信親の戦いぶりがうかがえる太刀の清らかさであった。父を見ると、言う通りにせよと頷いていた。
「戦が一段落したらお返しします」
「……そうだな。では府内で」
信親の背中は大きい。土佐だけでなく、四国を背負えるだろうと見惚れてしまうような武者振りであった。太郎兵衛は左文字の太刀を握り、本陣の後ろに控える一領具足たちのもとへと向かう。
彼らの多くは傷ついていたが、爛々と目を光らせ反撃の下知を待っている。だから太郎兵衛がこれから川を渡り府内へ戻る、その指揮を執ると言い渡した時もすぐには従わなかった。
「千雄丸さまは俺にこの太刀を託された」
太郎兵衛が頭上に掲げた太刀を見て、一領具足たちはざわめいた。
「それを何故お前が持っている」
一人が訊いた。
「皆が府内へ戻るまで、俺が指揮を執るよう千雄丸さまは命じられた」
しばらく顔を見合わせていた一領具足たちは頷く。
「若君がその太刀を託すということは、お前にそれだけの値打ちがあるのだろう」
太郎兵衛は内心胸を撫で下ろす。
「で、千雄丸さまは」
「我が父と近習の方々で殿を務められる。一領具足の面々は先に退き、反撃の機を待つようにとの仰せだ」
じっと見つめてくる男たちの視線を太郎兵衛は受けきった。自分の後ろには信親が立っている。そう懸命に考え、将であろうと己に言い聞かせた。
「退くぞ!」
太郎兵衛は旗印のように太刀を掲げ、そして采配のように振る。一領具足たちは整然と大野川の流れへと身を浸し、北へと走る。既に岸まで押し出してきた島津方の銃卒が、次々と味方を射殺していく。
だが太郎兵衛も一領具足たちも振り返らず、ただ前へと進んだ。狙撃は確実であったがまばらで、信親たちが食い止めてくれていることがうかがえた。
数十人の犠牲を出しながら川を渡り終え、彼らはようやく対岸を見た。
帆掛舟の旗印が力強く揺れているところに、島津方の新納忠元軍が襲いかかっている。数で圧倒する島津方を、信親たちの殿軍は何度もはじき返していた。
「止まるな! 千雄丸さまの殿を無にしてはならない」
太郎兵衛は声を励まして命じる。あの中に父がいる、ということはなるべく考えないようにした。父がいるから、信親も無事に戻ってくるはずだと己に言い聞かせる。
府内へ戻り、上原館に入ると間もなく元親も戻ってきた。疲れてはいるが意気軒高で、太郎兵衛の顔を見て無事を喜ぶ。だが、戦況の話になるとその表情は急速に曇っていった。
八
「千雄丸が殿に、か……」
「おかげで我らは無事に府内へ帰りつくことができました」
一領具足のまとめ役となっている竹村惣衛門が元親の前に手をつく。元親はそれに頷き返しながらも、視線はじっと大野川の方へと向けられていた。だが、
「十河存保さま、討ち死に!」
「淡路勢、潰走しました!」
との報が立て続けに入るに至って、元親の顔色は青ざめていった。
「雄はどうしている」
周囲に何度も訊ねるが、物見の兵も信親の隊の様子を探ることはできない。彼のいたあたりには、既に島津の軍兵が満ちていた。
「島津の主力も川を渡り始めているようです」
「大友の若殿は!」
後詰めをしているはずの大友義統の姿はどこにもなかった。兵たちのほとんども知らなかったが、彼はわずかな供回りだけを連れてさっさと高崎山城へと逃げ込んでいた。
「大友館は守るには不利だ。高崎山城へと篭るべきか。仙石どのがいれば軍を合わせて動けるのだが」
元親が諸将と諮っているところに、
「仙石越前守さまは小倉に向けて走っているとのこと!」
との報がもたらされた。
「我らを見捨てて行くつもりか……」
元親はくちびるを噛むが如何ともしがたい。彼は信親を収容し次第、府内の港に泊めてある軍船に分乗して四国へ撤退すると将兵に命じた。
「まずは港で出港の備えを整え、殿の者たちを待とう」
不安を押し隠した表情で言い渡すと、元親たち四国勢は港へと向かう。船のもやいを解き、帆を上げるが潮が大きく引いてしまい船を出すのは適さない。
元親は浜の前に陣を敷き、余った船を柵として銃兵と弓兵を配した。太郎兵衛も弓を手に取り、横倒しにされた船から顔を出して南を見つめる。
濛々と煙が上がり、街から火が出ているのがわかる。それが島津方によるものなのか、狼藉者の仕業かはわからない。だが、大友氏の拠点として栄えた府内は灰燼に帰そうとしていた。
「何か見えるか」
元親が身軽に舷側に手をかけ、身を乗り出す。千雄丸が心配なのは、口に出さなくてもわかった。太郎兵衛も父の無事を確かめたいが、焦りだけが募る。
府内の街からは煙が上がっているものの、島津の十字も長宗我部の帆掛舟も見えない。奇妙な静けさがしばし続いた後に、武者を乗せた一騎が駆けてきた。
「雄の近習だ」
元親は慌てて船から下りると自ら出迎える。矢傷と鉄砲傷でぼろぼろになった騎馬武者は、元親を見ると滑り落ちるように馬から下り、そしてその足もとでうずくまった。
「よく無事で帰ってきた」
と肩を抱く元親にすがり、慟哭する。そしてひとしきり泣いた後、
「千雄丸さま……、討ち死にされました!」
と言って意識を失った。元親はしばらく、身じろぎ一つしなかった。太郎兵衛も一領具足たちも、ただ言葉もなくその背中を見つめている。
「手当てをしてやれ」
静かな口調で命じた元親は、続けて、
「馬を曳け。槍を持て。これより千雄丸の弔い合戦を行う」
と命じた。元親は甲冑を締め直し、今にも討って出ようとする勢いである。それを見て兵たちは色めき立ち、続こうと騒ぎたてる。だが、
「これから我らは海に出るのです。千雄丸さまが何故殿に残ったかおわかりなさいませ」
谷忠澄が立ち塞がって諌めた。
「うるさい」
元親は激することなく、忠澄を蹴散らそうとする。さすがの忠澄も馬蹄を慌てて避けた先に、太郎兵衛が立った。
「そこをどくのだ。お前の父も雄についていた。助けに行かねばならん」
だが太郎兵衛はそれに答えず、信親から託された左文字の太刀をぐっと元親の目の前に突き出した。
「千雄丸さまはこれを俺に託し、土佐侍従さまをお守りしろと命じられました。その心を無にするわけにはまいりません」
「これは我が子のための戦いである」
元親はあくまでも討って出ようとした。
「お心をわからず無駄に死んで、それで千雄丸さまと冥土でお会いできるとお思いですか!」
自分でも驚くほどに激しい叱責が、口をついて出た。元親は槍先を太郎兵衛の喉元に突き付け、
「道をあけよ」
と厳しい声で命じる。だが太郎兵衛は左文字を掲げたまま退かない。しばらく睨み合いになった末に、折れたのは元親の方であった。
「総見院さまは、かつて雄を見て養子に欲しいと仰ったことがあった。もちろん、質としてとるという心はあっただろう」
馬を下り、槍を収めた元親は天を仰いだ。
「天下に覇を唱えようとする男に息子をとられてなるものかと焦った俺に、あの方は仰った。この子は天馬である。それにふさわしい場は四国にはない。近くで育て、ゆくゆくは織田の翼となって欲しいと願われたものだ。慌てて断わると、信の一字とその左文字を下さった」
元親は息子が討ち死にを遂げた戸次の方角を見つめていた。
「あの頃の俺には大望があった。西に覇を唱え、雄と共に天下を向こうに回して勝負をかける。だが、総見院さまの顔を見た時、これは敵わぬな、と実感したものだ。あの目、気迫の凄まじさを持つ者は四国にはいない。雄をあのようなお人の側においては、父である俺のことも忘れてしまうに違いない。そうとまで思いつめたものだ」
だから元親は四国の覇者を目指した。
「天下と五分に渡り合うためには、総見院さまを超えなければならぬ。だから本能寺で倒れられた時には安堵したものよ。これで宿願に一歩近づいたと手を打ったものだ」
信親も、信長に名を一文字与えられるに十分値する力を示した。
「まさに天馬だったよ。そのまま俺を置いて、天下に名を轟かせて欲しかった……」
府内からは島津の軍勢が姿を見せている。
「時が来たようだ」
元親はむしろ嬉しそうであった。
「飯を食え。腹いっぱい食え」
元親は干し飯を頬張り、太郎兵衛にも分け与えた。太郎兵衛の兵糧は乱戦の中でなくなっていた。
「食べる気がしません」
よくこんな時に飯など食えるな、と太郎兵衛は感心していた。信親は討たれ、父の安否も絶望的だ。太郎兵衛はもはや疲れも忘れ、ただ敵の中に突撃する自分だけを頭の中に思い浮かべていた。だが元親は清々しい顔で飯を食い続け、水を飲んで大きく息をついている。
「空きっ腹で存分に戦えるか?」
確かにそうか、と太郎兵衛ももそもそと干し飯を口に入れる。ただでさえ味のない乾いた米粒は口の中に貼りつくが、我慢して飲み込んだ。
「これも食え」
元親が差し出してくれたのは、梅漬けであった。酸味や塩気を予測していた太郎兵衛の舌は裏切られる。それは体が震えるほどに甘かったからである。
「土佐は砂糖も名産でな」
元親は信長に三千斤もの砂糖を献上したことで知られていた。甘味の後で酸味が立ち現れ、しばらくすると疲れがすっと引いた。
「飯のあてにはならんだろうが、力は出る」
確かに甘酸っぱい梅漬けと干し飯の相性は良いとは言えなかったが、交互に口に運んでいるうちに力が湧いてくる。
「不思議なものだ」
元親は全て食べ終わり、余った梅を旺盛な食欲を見せている近習たちに分け与えると、立ち上がった。
「どれだけ悲しかろうと、食えば気力が湧いてくる。雄も腹が減って足もとのふらついたわしの姿など見たくはなかろう」
手を払った元親は再び槍を握った。
「太郎兵衛、すまぬな。せっかくわしに生きよと言ってくれたのに、潮が満ちねば船も出ぬ」
太郎兵衛は土佐の男たちの闘気が徐々に上がっているのを感じていた。敗北を前にした消沈したものではなく、その横顔の一つ一つが輝きを帯び始めている。傷を負っていようといまいと、その目はひたと敵に向けられ、元親の下知を待っている。
鶴賀城の面々と同じだ、と太郎兵衛は感じた。城はどうなったのか、明らかではない。だが落城したという報せもなかった。彼は豪永や統久たちがあの城を守りきっているのではないか、という予感がしていた。
信親の遺志を継がなければならない。そのためには、元親を死なせるわけにはいかない。太郎兵衛は左文字をそっと撫でる。
「敵軍、前進を始めました」
物見が告げるまでもなく、太郎兵衛たちからも島津方の動きは見えていた。一際大きな十字の旗がはためいている。
「家久め、来るなら来い。土佐侍従の意地を見せてくれる」
元親は泰然と立って敵の動きを見つめている。互いの鉄砲が届くか届かないかぎりぎりまでの位置まで進んだところで、島津軍は動きを止めた。
「まだ撃つな」
元親は厳しく言い渡す。火縄は点火され、弦は引き絞られている。数少ない騎馬武者たちもいつでも飛び出せる態勢にあった。
対峙は永遠に続くように思われた。張り詰めた空気は一瞬たりとも緩まず、それでいて暴発する者もいない。達人同士の立ち合いのように、静かだった。
島津の本陣から、一丁の輿が兵たちに担がれて進み出てきた。兵たちが狙いを定めるところを、元親は下げさせる。先頭に白い幟を二本立てたそれは、葬列のようであった。
「何かの策でしょうか」
谷忠澄は元親に訊ねるが、答えずにじっと黙ったままである。
「輿を担いでいる連中、島津では名の通った者ばかりだ」
行列の先頭を歩いているのは、川上久智という、豊薩合戦では諸方で功を立て、敵方にまで名の知れた男であった。信親を討った部隊を率いる新納忠元と共に、戸次川での釣り野伏せで大いに働いた男である。
「何かの策略です。撃ちましょう!」
銃卒たちが迫ったが、元親は頷かなかった。
「敵の動きから目を離すな。不意を衝いてくるとしたら今だ」
冷静さを失わないまま、元親は輿を通させる。輿は人が一人乗れる程度の大きさで、人数が潜んでいるとも見えない。太郎兵衛は懐の中の石を握りながら、輿がゆっくりと下ろされるのを見つめていた。
川上久智は元親の前で名乗り、島津家久からの軍使である旨を丁重な口調で告げる。薩摩の訛りが、太郎兵衛の耳には新鮮だった。元親も慇懃に礼を返し、用向きを訊ねる。
「我が軍の新納忠元が手の者が土佐侍従どののご子息と槍を合わせ、首を申し受けましてございます」
太郎兵衛には、元親の大きな体が一瞬揺れたように見えたが、
「左様承っている」
と静かな声で応じた。
「戦のこと故、是非もなしと又七郎さまは仰り、ここに千雄丸信親さまのご遺体をお返しするものであります」
元親は微かに頷き、
「心配り、痛み入ると家久どのにお伝えあれ。これより後は存分に戦おう」
そう言って久智たちを送り帰そうとしたが、久智はもう一つ用件があると続ける。
「これより夕刻まで、我らは構えを解きます。激しい戦いに我が軍も疲れが濃く、兵糧をとらせねばなりません。全ての槍を伏せ、火縄を消し、ゆったりと休まねば兵も働けませぬゆえ」
冗談のようなことをごく真剣な口調で告げた後、薩摩の使者たちは帰って行った。しばし呆然としていた長宗我部の将領たちは、元親の命を待つ。
だが、元親は輿から下ろされた棺の前に崩れ落ちていた。
「潮が満ちたらすぐに船を出す用意を」
谷忠澄が諸隊に命を送る。
「島津の策では」
そう心配する者もいた。
「もはや島津が我らと戦うことはあるまい。疲れているのは間違いないだろうが、ここで我らが下手に足掻いても千雄丸さまの想いを踏みにじるだけだ。大友の主力は山にこもり、阿波、讚岐の兵たちは壊滅だ」
仙石軍は小倉に落ち、十河の残兵は長宗我部勢に収容されている。小早川秀包は臼杵の救援に向かっているとなれば、もはや戦える状態にない。
「我らは千雄丸さまを失った。身を挺して我らをお守り下さったことを忘れてはならん。この恨みを忘れず、土佐に帰ろう」
忠澄の言葉に、将兵たちは肩を落とし、それぞれの船へと乗った。元親は肩を震わせて涙を流していたが、やがて立ち上がると棺を船に乗せるよう命じた。
一瞬にして十は年をとったようにやつれてしまっていたが、
「太郎兵衛、小三次どのの消息は知れぬが、我らと共に来るか」
と気遣ってくれた。
「このまま豊後に残るのは危うい。高崎山城は島津に囲まれているだろうし、臼杵や他の城もどうなっているかわからん。俺たちと共に四国へ退き、後のことを考えよう」
「ありがとうございます」
息子を失った悲しさを隠して、四方に指示を出す元親の姿を見て、太郎兵衛もようやく心が落ち着いてきた。一領具足や兵たちも、家臣たちもそうであった。息子の変わり果てた姿に慟哭していた元親が常の姿に戻ったことが、皆の混乱を抑えていた。
「でも俺、父上を捜します。関白さまの使者として父が生きているのなら、復命させねばなりません。もし討ち死にしたのであれば、確かめて俺が代わりにそう報告します」
自分でも思った以上に、冷静な言葉が出た。
「そうか……。見上げた心がけだ」
元親は頷き、船に乗り込んだ。太郎兵衛は呼び止め、信親の形見である左文字を手渡そうとした。だが元親は受け取らず、逆に自ら佩いていた短刀を太郎兵衛の腰に挿してやる。
「雄のやつが刀を託したのは、俺に渡して欲しいからじゃない。戦場でお前を見込んだからだ。その心を無にするでない。そしてこの短刀は、息子の刀を引き継いでくれたお前へのせめてもの感謝の気持ちだ」
刃を見ると、吉光、と銘が切られている。太郎兵衛もさすがにこの刀の価値は知っている。京の粟田口に住み、鎌倉時代に多くの名品を残した伝説の刀鍛冶、粟田口吉光である。信長や秀吉も熱心に集め、また褒美や外交の際に大いに活用したものだ。
「関白さまにいただいた物だが、これを佩いて復命すれば、誰もお前のことは侮らぬ。土佐侍従の父子の刀を授けられる者として、堂々と働くがいい」
また会おう、と元親は朗らかに手を振って海へと出ていった。潮は満ち、多くの傷ついた兵を乗せた軍船が東へと向かう。速吸瀬戸は勝とうが負けようが、人の都合など関係のない難所だ。来島の旗印を上げた数隻が先陣を切り、波の向こうへと船団は消えていった。