iKILL

4 殺し屋には顔がない

渡辺浩弐 Illustration/ざいん

ウェブ上に蠢く処刑システム「i-KILLネット」の管理人・小田切明の終わりなき“仕事”の果てに待ち受けるものは……!? シリーズスタートを記念して「最前線」のフィクションズページにて“期間無期限”で“完全公開中”!

4 殺し屋には顔がない

夢の中では、知らない場所にいきなり立っていることがある。全くの別人になっていることさえ。そこに至るまでの記憶もない。なのにあなたは驚きもせずにその状況を受け入れている。そういうものだ。

今も、あなたはそんなふうに、当然のように、見ている。その部屋の光景を。

視界の中央に、人が寝ている。いや倒れている。少女だ。

二つに結んだ黒髪の片方がほどけてくせのない毛が鳥の羽のように広がっている。口にタオルのような布をまされている。顔は血の気を失い、まるで人形のように白い。頰には涙の跡があるが、黒目がちなひとみも今はガラス玉のように生気を失くしてただ見開かれている。

白ブラウスのすそから細い太ももがいきなり出ている。ブラウスにも、両足にも、けば立った縄が食い込んでいる。

傍に紺色の布が投げ出されている。学校制服のスカートのようだが、引き裂けていて、原形は見るかげもない。ひどく乱暴に脱がされたことが見てとれる。

あなたは悪寒おかんに襲われる。これからそこで何かひどいことが起こることをあなたは知っている。

揺れていた視界が止まり画面が安定する。と、そこにぼんやりとした黒いものが入ってくる。奥に移動していくにつれピントが合ってくる。短いぼさぼさの髪。若い男だ。水道局やガス会社の職員のような作業服を着ている。男がさらに奥に進むと、その下半身が見える。ズボンとトランクスを腰の下までだらしなく下げていて、毛深い尻が半分、見えている。

右手には銀色に光るものを持っている。大ぶりのバタフライナイフだ。それを指揮棒のように振りながら歩く。軽く飛び、少女の下腹に着地する。さらに踊るようなステップで踏みにじる。少女が小さくうめく。

男はにやにや笑いながらこちら側に視線を向け、ピースサインをしてみせる。少女を縛り上げてからこのカメラをセットして、回し始めたのだ。

やがて膝をついて少女の上におおかぶさる。その顎をつかみ、ナイフの刃で頰を軽く叩く。

次にナイフを持ちかえるとその先を少女の胸元に差し込む。きつく縛っていた縄が切れて一気に弾ける。その勢いでナイフは下にすべりブラウスとブラジャーを同時に引き裂く。刃先は肌まで達し白い胸をすっと血が流れる。

少女は自由になった両手を反射的に引きつけその胸を隠そうとする。男はナイフを反対側に向けて握り直し、振り下ろす。太い柄が首筋に入る。ぎっ、と短い音。少女の上半身が弓なりにのけぞり、また沈む。腕が両側にだらんと落ちる。肩が不自然な形にねじまがっている。鎖骨さこつのあたりが壊れたようだ。

男はその体を押さえつける。ブラウスをさらに裂き、ぎ取ってしまう。下半身に残ったショーツも引きちぎりむしり取る。少女の小さな乳首や細い手足や薄い陰毛が全てあらわになる。ナイフの雑な動きが体のあちこちを傷つけ、赤い血が幾筋も流れ出している。

男は少女の髪の毛を鷲摑わしづかみにする。その顔を自分の腰の前に引き寄せる。

「お前がしっかりサービスしてくれたら、母ちゃんは助けてやっからよ。ほら、がんばれがんばれ」

両手で少女の頭を乱暴にもてあそびながら、男はまた振り返ってこちらを見る。その表情はまるで悪ふざけをしている猿のようだ。

やがて男は少女の頭を床に叩き付ける。少女は一度バウンドしてから床に伸びる。そして陸にてられた魚のようにびくびくと痙攣している。

男が体ごと向きを変える。下半身が今度は正面から見える。性器は陰毛にほとんど隠れている。男はこちらに向かって数歩近づいてくる。

伸びてきた手が画面の枠にかかり、風景全体がまた揺れる。この視覚はカメラの映像であることをあなたは思い出す。

あなたは、この男が、このビデオテープを闇ルートに流し、それで金儲けをするつもりだということを知っている。

画面はしばらくふらふら動く。男がカメラを持ち、別のものを映し出そうとしているのだ。

あたりの様子から、ほんの数時間前までの、清潔でつましい生活の名残なごりを見てとることができる。隅に積み重ねられたプラスチックケースが倒れ、折り目の入ったシャツやハンカチが散乱している。窓際の小机からブックエンドが落ち、教科書やノートが崩れている。ふすまの脇には仏壇がある。スーツ姿の、まだ若い男性の小さな遺影が飾られている。

画面が広角に切り替えられ、狭い部屋の全容が映る。手前の床に、細長いものがぼんやり見える。

カメラを固定すると、男はまた画面に入ってくる。そして床に横たわっているものをる。

「おかあたま。まだ生きてるかなー」

それもまた人間だったことにあなたは気づく。先ほどの少女の、母親だろう。破れた服から露出した肌は、あざ血糊ちのりにまみれている。男はまずこの女性を拘束こうそくし、暴行したのだ。

「血ぃ止めてやろうかな」

笑いながら、食卓に置かれた瓶に手を伸ばす。

角張った瓶は透明な液体で満たされている。それをラッパのように掲げて飲み、ぶっと吹き出しながら口から離すとそのまま蓋をせず前に傾ける。液体が、母親の髪のあたりに降り注ぐ。

瓶を捨てると、男はポケットからマッチ箱を取り出し、手の中でしゅっとる。小さな赤い火を確かめると、軽い動作で放り投げる。

炎がいきなり燃え上がる。

ぎゃあああああああああ!!

それまで身動きもしなかった細長い物体が縛られたままで芋虫いもむしのようにうごめき始める。

男はその様子をとても面白そうに眺めている。やがて何かを思いついたように近づくと、がに股で立ち、両手で股間のあたりをごそごそとまさぐっている。

そこから、宙に黄色い放物線が描かれる。

「消防車が来ましたよー」

男の小便は火に、そして母親に降りかかる。

燃えさかる炎はいっこうに消えることなく、さらに髪や皮膚ひふをこがしていく。

火の勢いが収まると、女性は一回り縮んで黒ずんだ固まりとなっている。男はタバコを1本口にくわえ、そのくすぶりから火をつけ煙を吐く。

「くっせーぞコノヤロー」

薄茶色と灰色の煙が宙でねじれ合い混ざり合っていく。あなたはその匂いをはっきりと感じる。

和紙を裂くようなかぼそい音が聞こえる。それは少女の声だ。お か あさん、と言っている。男はそちらを振り返って言う。

「めんどくさいから、殺しちまうかんね、こいつ。いいだろ」

しゃくり上げるような音が続く。瀕死ひんしの状態で少女が何かを訴えようとしているのだとわかる。男は少女のもとに数歩移動し、身をかがめる。顎をつかみ、顔をねじまげて母親のほうを向かせる。

「だってほら、あれ見てみろよ。もうぼろぼろだぜ。化けもんじゃん。なんの価値もねーよ。これで生きのびんのも、へへ、どうかと思わねえ? 死んだほうがすっきりするだろ。それとも、あんたを先に殺してあげたほうが、いいかなあ?」

じゅ、と音がする。少女の顔にタバコを押しつけたのだ。

男の息づかいが荒くなったことが、煙の動きでわかる。苦しむ少女の表情にふいにまた残忍な劣情れつじょうが湧いたようだ。タバコを投げ、少女の白い体に覆い被さる。

野獣のようなけがらわしい振動が少女を覆う。歪んだ画面の中で、男は舌を出して少女の体のあちこちをなめたり嚙んだりしている。えた犬が肉のかたまりにむしゃぶりついているようだ。

やがて男は動きを止める。いったん身を引く。それからナイフを振り上げ、振り下ろす。今度は刃を下に向けている。ざく。少女の乳を切る。ざく、ざく、ざく、肌がささらのように細く割れていく。なだらかな胸に描かれていく平行線から、順番に血が噴き出しはじめる。

男はさらに胸を腹を料理でもするようにかき回す。大量の血と脂が盛り上がり溢れ床に流れていく。少女はもう声を発することもなくただ吐血にむせながら両手を虚空こくうに突っ張ってびくびくと痙攣している。おぞましくけがらわしい世界の底で震え続けている。その姿からあなたは目をそらすことができない。どうしても見てしまう。見続けてしまう。そして、体の芯に、自分で制御できない感覚が湧き上がっている。今や真紅の花園のような少女の胸、腹。その上を汚す男の邪悪な肉体。

あなたは知っている。この映像はアングラビデオとしてマニアの間で流通する。この男の犯罪が明らかになれば、この映像はさらに激しくコピーされ、さらに多くの人々の目に触れる。あなたはそのことについても心を痛めている。こんなに可哀想かわいそうな姿をできれば誰にも見せたくない、と。

それは矛盾むじゅんだ。ならばせめて、あなたが見なければいい。しかし、あなたは見ずにはいられない。

犯人の男に対してあなたは激しい憎しみを感じている。体から火を噴き出しそうなほどの。

けれどその感情の本質が、嫉妬であることに、本当は気づいている。

なぜ自分ではなくこいつがこんな下劣げれつな奴がやっているのか、と。

あなたは知っている。もはや自分も汚れてしまっていることを。

誰かが耳元でささやいているような気がする。見ているあなたもあいつと同じだ、と。

あなたはこの映像を、いやらしい目で見ている、と。ほらあなたの体は高ぶりを覚えている。

女を情欲を抱いて見つめる者はすでにその女と姦淫かんいんを犯したも同義なのだ。

あなたは汚れている。あなたの体は腐り始めている。その目も。その手も。

          *

ノイズ音が続いている。あなたは、自分の視聴覚がひどく鈍くなっていることに気づく。画面はいつのまにかカラーバーになっている。無機質なにじの模様が、なおもいやらしくびくびく振動しているようにあなたは、感じている。

画面はやがてすうっと小さくなってウィンドウの中に収束していく。

喉から胃にかけて熱く重い感覚がある。あなたはそこから自分の存在に戻ってくることができる。パソコンでネットを見ていたことを思い出す。

口を開けるとぬちゃっと汚い音が響く。深く息を吸って、吐く。もう一度見る。それはよくある画像掲示板ページだ。画面のいちばん上に、地味な書体で 人民裁判サイト『i‐KILL』 と表示されている。これがサイト名だろう。

今はマッチ箱くらいの大きさに縮小したカラーバー画面の下に、文字が表示されている。

宮野泰史みやのやすし 東京都府中市塩沢2−9−4

あの男の名前と住所だということは間違いない。

さらにその下に赤い太文字が表示されている。

 〈殺害料金寄付きふ受付〉

たった1行がすべてを解説している。

あなたはネットでこの映像を見ていたということを思い出す。そのアイコンは、自分の意志でクリックすることができるものなのだ。

この人物を削除する費用

¥5,120,000

 まで あと

¥4,309,700

 です。

1クリック ¥300 支払いますか。YES NO

既にあなたの指は動いている。「YES」のアイコンがぴくんと点滅する。

あなたの口座から、どこの誰かも知らない相手に、見えない価値が移動したのだ。

あなたは、金銭を、支払ったのだ。サイフを開いて紙幣しへいや硬貨を出したわけではないが、あなたは確かな手応えを、その指先に感じている。そこから全身に、痛みのようなしびれのような微妙な感覚が広がっていく。

ありがとうございます。あと

¥4,309,400

で、この人物は 死にます。

¥300 支払いますか。YES NO

脳裏にあの映像がよみがえってくる。その記憶に対する後ろめたさを振り払うように、あなたはもう一度アイコンを、クリックする。

掲示板は、誰でも見られる仕様になっている。あなた以外にも多くの人々が、同じ体験をしてきたようだ。

書き込むことも、誰にでもできる仕組みだ。誰でもない誰かが一人また一人と集まってきて、それぞれの興奮や恐怖や期待を隠し、何気なさをよそおいつつコメントを残している。

>某巨大掲示板から流れてきました。

コレマジ?

>すぐに消されそうなので記念書き込み!

>なになになに。何このページ。「人民裁判」ってどういう意味。

>くだらん。

>アングラAV? ひどい出来。

>アホか。ホンマモンの殺人ビデオやろコレ。

>はいはい通報しまーす。

>おまえら知らなすぎ。これちっとも珍しいもんじゃないよ。

>〝鬼畜きちく少年・ミヤノン〟だろ。

少し前に有名になったの。

写真も一時期はあっちこっちで出てた。

こいつ、本当にひどい奴だぜ。

>詳細希望。

>見た通り。

母子家庭のアパートに、

ガスの点検員を装って侵入。

まず居合わせた母親に暴行し拘束し、

続いて、帰ってきた高校2年の娘も暴行。

2時間以内に、母子ともに殺害。

その一部始終を自分でビデオ撮影していた、って。

>「ミヤノンの鬼畜ビデオ」で

一時期ファイル交換に流れてた。

でもこれ、ノーカットのバージョンって貴重。

おれ犯行ビデオ全部見たの初めて。

これアップしてくれるだけでえらいよこいつ。

>同意。

>ちょっと待て。この映像は本当に本当に本物なのか?

>それはもう検証済。

映っているのは間違いなく犯人と、被害者2人。

捜査は終了してる。

犯人は逮捕たいほされたし、被害者の葬式も済んでる。

>全部のっけるなんてバカか天才。

ただものじゃないよなー。

すぐにページごと削除されるか、ケーサツが入るか。

>誰が作ったの。趣味の悪いいたずら。

>サーチできるやつぁいねーの? 仕掛け人の正体さらしてよ誰か。

>おいらいけるとこまでほじくってみたけど、撃沈ー。

身元を、結構巧妙に隠してある。

サーバーはツバルにあることになってるし。

>ツバルてどこ???

>ツバル海峡冬景色。

>違うって。南太平洋の島国だよ。

>でもさ、もっと不思議なのは、課金方法。

クリックしてみたら、ほんとにきっかり300円引き落とされたぜ。

どうなってるの。おしえて偉い人。

>これ、コンテンツダウンロードのための汎用はんよう課金システムを使ってる。

>もっとやさしく。

>えーと。ほら、ちょい前に流行った、〝投げ銭システム〟ってやつ。

個人がアップしたゲームとかアニメとかソフトとかに

ダウンロードした人が自発的に支払いをする、って仕組み。

>もっとくわしく。

>つまりコレうまく使えば、匿名とくめいのままで不特定多数の人々からの支払いを受け取ることができるわけ。

>今更な質問だけど、ミヤノンってなんで少年なのに名前出てるの。宮野って本名?

>本名と住所はずいぶん前にさらされてるって。

>自宅の写真までどっかにアップされてたし。

>放火しに行くオフの計画もあった。もちろん計画だけだったけど(笑)

次のコメント欄には >こんなの発見! という一文の下に画像が貼り付けられている。もちろんあなたはそれをクリックする。

と、それは画面いっぱいに拡大し、自動的に再生を始める。

聞き覚えのある高い声がいきなり鳴り響く。

「逮捕上等だよ。お巡りさん、オラ逃げも隠れもしねーし。早く来い来いどんと来い、っつーの。けど痛いことしたらソッコー告訴こくそするって、言っといて」

顔にモザイク処理がなされているが、それが宮野少年だということはすぐにわかる。

「へへ。なんつったってさ、オラまだ未成年だし。2人や3人殺したって長くても5年とか10年? それもムショじゃない。少年院ネンショーって、知ってる? ちょろいんだぜ。メシは悪くなくて作業も嫌ならサボれるし、おとなしく勉強するふりだけしてれば1年かそこらで、出てこられるっしー」

ニュースかワイドショー番組用の取材映像のようだ。逮捕直前に、どこかの局がインタビューしたのだろうか。テレビカメラを向けられて、宮野少年はすっかり高揚こうようし、英雄気取りでしゃべっている。

「やらねーかやるかだったら、やる、だよ。やらねーで後悔するよか、やって後悔したほうがいいに決まってんじゃん」

>超むかつくコイツ。

>この後、逮捕されたんだよ。ざまみろ。

>けれど、1年半後に出所。

本人の予定通りにね。

>今は自由の身? ウソだろー。

>裁判所ぬるすぎ。

>死刑でしょう本来。

>あの女の子、おっぱい両方ともえぐり取られてた。

>お母さんは焼けこげて髪の毛全部なくなってたんだよ!

>ほら日本てそういう国だから。

>だからおかみに代わってコイツがヤるって言ってるんだろ?

>512万でコロスって? キャ〜!!

>まさか〜。

>オレ3000円も寄付しちまったよ。

>バカ発見。だまされてるに決まってんじゃん。

>いや、いいのよオレ。騙されてOK。

誰か知らないけど、本当かどうかわかんないけど、

このサイト作った奴の考えには賛成できるから。

>同意。お布施ふせって、そういうものじゃないの。オレも寄付する。

>同意。だってこの宮野って、本当は死刑になってなくちゃいけないやつだもん。

>同意。「人民裁判」ってそういう意味なんだろ。

賛同者が投票して、一定の数を超えると、死刑決定て。

>オマエラ目エ覚ませ。これ詐欺さぎだってわからねえのか。

512万集まったらほんとにコロシヤがコロシにいくワケねぇだろ。

>そやからさあ、詐欺とかそういう話やなしに。

300円払って楽しませてもろたと思えばいいんちゃう。

>マジレスするけどさ。オレ、被害者に申し訳なくて。

なんていうか、あの鬼畜と同じ男性だってだけで。

だから、払うよオレ。300円。

>だ・か・ら いくら払ったって金が被害者のところに届くわけじゃないんだってば!!!

>どういうふうに払ったところで届かないよ。だって2人とも亡くなってるんだから。なら、それぞれが自分の思う方法で寄付すればいい。

詐欺だったとしても、このホムペは、犯人の実名と顔をさらす役には立っているわけだろ。開設した奴に少しでも賛同するなら、それでもいい。

>がんばれ! 残り400万切ったぞ。

>俺は信ーじーねーぞー

>俺は信ーじーるーよー

>ミヤノン、ピーンチ。

>ミヤノン逃げたっていううわさ

>まさか。本人まだしらねーだろ。

>誰かここのこと教えてやって。そんで反応書き込みよろしく。

>ざまみろミヤノン。一生殺し屋におびえて日陰者の暮らししてろって!

あなたはそれから一日に何度もそのページにアクセスしてしまう。

掲示板の書き込みはおそろしいほどの勢いで増えている。画面を開いているうちにも、文字列はわらわらと動く。アリの大群のようだ。

その男、宮野が実際に処刑されると信じている人は少数派のようだ。ところが多くの人々が寄付には参加している。1クリック300円の値頃感のせいか、それとも、このサイトの存在そのものに共感を呼ぶ魅力があるのかもしれない。

残額の数字が、アリの群がった菓子のようにじわじわと減っていく。

もちろんあなたも、じっとしていられない。何度もクリックしてしまう。簡単なことだ。クリックする。ただ、指を数ミリ動かせばいいのだ。クリック。クリック。クリック。

数日後。

>宮野泰史 の案件

規定額に達しました。

只今、実行中です。しばらくお待ちください。

>実行中てオイ。

>マジ? 殺しに行ったの(爆)

>行ってらっさーい(笑)

>待て。なんつーか、これ本気の人だったらどうする?

もちろんあなたはさらに頻繁ひんぱんにそのページを開くようになる。そして、そのつど変わりばえのしない画面を眺めては、時間の流れを遅く感じる。

一昼夜の後、ついに、そこに新しい動画を発見する。

四角いフレームの中は真っ黒。

それが深い深い世界に続いている穴に見える。

あなたは震える指でマウスをクリックする。

その穴がさあっと広がりあなたの視界を覆う。

その闇にほどなく灯りがく。

「コラ、何やってんだ、おい、ぶっ殺すぞてめぇ」

甲高いののしり声を聞いたあなたは一瞬で不快になる。あの声だ。あの、宮野という少年。

今度は全く違う役割をあてがわれている。今は彼が、全身を縛られているのだった。

床に座った姿勢で、後ろにまわした手を柱に固定されている。両足は大きく開いて、画面の左右から伸びている縄にそれぞれ繫がれている。

背景に映っているのはコンクリート打ち放しの壁。一部分が崩れ落ち、鉄筋がはみ出している。取り壊し中のビルか、放置された廃墟はいきょか。

「お前だよ。コラ。顔隠してんじゃねえ。卑怯ひきょうもンが。オレは本物のやくざとも付き合いがあんだぞ。殺されてぇのか。おら、聞いてんのかこのやろう」

画面の外側にいる誰かに向かって、怒鳴り散らしている。しかし相手は全くの無言で、どうやらこのカメラを操作しているようだ。

ピントがゆっくりと定まりカメラが固定されると、手前側からその人物がようやくフレーム内に入ってくる。

ひょうひょうとした歩き方。よれよれのトレンチコートをまとい、ザラ紙の袋を頭からすっぽりとかぶっている。男性のようだ。

宮野は暴れようとする。が、緊縛はきついようで、立ち上がることもできない。紙袋の男はその様子を、実験動物の健康状態を品定めするかのようにじっと見ている。もちろんその表情をうかがうことはできない。

宮野がつばを吐く。相手にはまるで届かないが、それきりふてくされたように静かになる。

紙袋男はそれを待っていたように、コートのポケットから、ゆっくりと、瓶を取り出す。透明の瓶を、客にカードを改めさせる手品師のように、宮野の顔の前に掲げる。

「ばーか。いらねーよ、そんなもん

宮野は口ごもる。瓶を見つめる視線が泳いでいる。何かを思い出しかけているのだ。

紙袋男は、瓶の蓋を開け、宮野の頭の上で傾ける。透明な液体が頭に、顔に、降り注がれる。

宮野は激しく咳込せきこむ。

「げほっ、げほっ。くせーって。てめー何をするつもり

そこまで言いかけて宮野ははっと目を見開く。考えが、何かとても恐ろしいところに至ったようだ。自分の置かれているこの状況とぴたり符合する光景が脳裏に浮かんだのだろう。

その瓶。その匂い。アルコール濃度の高い無色の蒸留じょうりゅう酒。飲めば喉を焼くような刺激。そしてマッチを近づけたらきっと燃え上がり

まだ幼さの残ったその瞳は焦点しょうてんを失い宙をうろうろさまよう。その思考は、恐ろしい答えを導く直前で停止してしまっている。ひ弱な脳が、現実を受け入れることを拒絶しているのだ。

紙袋男はポケットから小さな箱を取り出す。そしてゆっくりとマッチをつまみ出す。しゅ。箱に擦り付ける。が、失敗。折れたじくを放り投げる。もう一本、取り出す。しゅ。火が小さく点きかける。しかしすぐに消え、煙だけが一筋たちのぼる。

火の色が宮野を目覚めさせる。その目に生気が戻る。

「あんた何やってんだ? や、や、やめろよおい!!」

しゅ。ぼ。うまく点く。紙袋男は手を伸ばして、その小さな炎を、ていねいに、ぐっしょりれた宮野の頭上に運ぶ。そして、手を開く。炎は落ちていく。落ちきった瞬間、ぼうと巨大化する。

あっぢっぢっぢー、と、泣き叫ぶ声は幼児のようだ。それが動物がえるような声に変化していく。

いくら苦しみあがいても、手足の自由は完全に奪われている。炎は揺れ続ける。髪と肌を焼き自然に消えるまで。

宮野はひいひいと泣きながらも、うらみ言をつぶやく力は残っている。

「熱いよう。おい、早く病院つれていけよ。熱いよ。痛いよ。痛いってんだよこのやろう」

かたわらにじっと立っていた紙袋男は、やがて思いついたようにいったんフレームアウトすると、バケツを手に戻ってくる。それを宮野の頭上でひっくり返す。

重度の火傷やけどを負い一時的に感覚を喪失していた皮膚に、冷水がたっぷりと浴びせかけられる。その効果は劇的だ。宮野は電気に撃たれたように跳ね上がりかけ、繫いだ縄に引き留められる。その後あうあうあうと奇声を発している。

水をかける前は煤で黒ずんでいるだけだった顔が、見る見る赤くなり、膨れ上がりはじめる。

掲示板はしばらくの間、沈黙している。

やがてぽつりぽつりと文字列が流れ始める。

>ちょ・・・

>コレ・・・

>まさか本物

>顔、焼いたぜ火で

>SFXだろ

>違うよ、今水かけたとこ見ただろ。やけどって、あとで水かけるとそれかられ上がるんだ。リアルだった。絶対マジだよあれ。

>それに間違いない。あれ、確かにミヤノンだぜ。顔見た。

盛り上がりかけた掲示板だが、書き込みはそこでまた止まる。次の動画が、追加されたからだ。

画面の中に映っているのは、もちろん縛られた宮野だ。繫がれた姿勢は変わっていないが、髪は焼けこげ、顔は全体がただれ膨れている。口のあたりから粘液をたらし、ひいひい泣きながら、「このやろう」とか「ぶっ殺すぞ」とか、そんな言葉を時々、弱々しく言っている。

そこに、紙袋男が入ってくる。ためらうことも急ぐこともない足取りで宮野に近づく。

宮野はそれに気づくと、わずかに自由なその両足をじたばたと動かし、なんとか紙袋男を蹴ろうと試みる。紙袋男はぎりぎり触れない位置にたたずみ、その様子をじっと見ている。

「ちくしょう! くそ、くそっくそっ」

宮野はすぐにあきらめて、足を投げ出してしまう。

それで紙袋男は動き出す。トレンチコートの小脇に抱えた新聞紙の包みをがさごそと開く。

中から出てきたものを見る宮野の顔が、驚愕きょうがくを表して固まる。

「おい。何する気だあ、てめー。おい、変なことしたら、承知しねーぞ、おい!」

紙袋男の手には大きく頑丈そうなノコギリが握られている。宮野は溶岩ようがんのような水膨れの中で目と口を歪めて猛然と抗議する。その顔に紙袋男はそっと上半身を近づける。

「急ぐかい。それとも、ゆっくりやるかい」

地の底から湧き上がってきたような重い、しかし明瞭めいりょうな声だ。それに押さえ込まれたように宮野のわめきがぴたりと止まる。

質問は単純だが彼は答えられない。

紙袋男は返事を期待しているわけでもなさそうで、黙々と作業を続ける。ノコギリのを両手でしっかりと摑み、両足を開いて全身を固定する。そして宮野の右足のすねに慎重にノコギリを下ろす。宮野は恐怖に凍り付いたままだ。

ごりっ、と、湿しめった金属音がする。

少し遅れて、鮮血が噴き上がる。

宮野の顔も上半身も赤く染まる。血しぶきは紙袋男の顔すなわち紙袋にも飛んだ。

「うああああああ」

宮野泰史が再起動する。紙袋男は、いったん動きを止める。しばらく、その様子を観察している。

「切れた、切れた、足が切れたったったあああ」

宮野が裏返った声で叫んでいる。

「いてて切れたよ、いててててて、おい、大ケガなんだよ」

紙袋男はそれには応じず、ノコギリをゆっくりと顔の前に掲げる。刃の状態をチェックしているようだ。

「やめろよ、なあ、頼むよ。ごご、ごめんなさい。謝るよ。ごめんなさい。謝ったろ、外してくれよ、このひも

刃の次は足に作った切り口を覗き込む。血は幾筋にも分かれながら床を流れていく。

さらに、太もものあたりを確かめる。そこに縄がきつく巻かれている。激しい流血を続けさせないための措置そちだろう。失血死やショック死をさせないつもりで準備をしてあるのだ。

点検を終えると、また、当たり前のように傷口に刃をあてがう。

「いてえ、いてえよお、ごめんなさい、もうしません。ごめんなさい。全部やめます。やめです。なしです。全部なし。なし。今までのこと、全部なし。ひどいよ。これは何だよ。もう、警察に言いつけるぞ。とってよ。この変な紐。痛いよう。うううううう」

怒号はいつの間にか懇願に変わっている。さらにそれが意味のない叫びになっていく。それが、肉と金属がみちみちと擦れる音に混ざっていく。ノコギリの運動が今度は前に、後ろに、繰り返し、繰り返し、何回も、何回も、続けられる。裂け目からは血しぶきだけでなく、脂なのか肉なのか、乳白色や薄桃色の小片が噴き上がってはあたりに散る。

足の中軸あたりまでノコギリが食い込んだ時、不気味な破裂音が鳴る。骨が砕けたのだ。そしてつま先がありえない角度にひょいと跳ねる。

紙袋男はぶらぶらと不安定になったその足を自分の足でこともなげに踏みつけると、さらに何回か引く。それで、足は体から離れる。

すぐにノコギリを持ち替え両刃の反対側を、左足のやはりすねの上部に当て、引き始める。

肉を削る音がまた響く。右足の時と同じ仕事が同じペースで続く。そして骨が砕ける音。左足の切断も終了する。宮野はもう叫ぶことをやめている。股間から灰色の床に尿の染みが広がっている。そのうなだれた頭を紙袋男はちらりと見ると、ノコギリをその場に置き、フレームから外に出る。あくまでも悠然ゆうぜんとした歩調で、あわてた様子はカケラも見えない。ただ予定の工程を淡々とこなしている、そんな印象である。

戻ってくると、手に瓶を持っている。前のものと同じ瓶だが、中身はまた満たされている。

そこから透明な液体を、気絶している宮野の、足の切断面にまず振りかける。

宮野は大きく一度びくん、と震える。カエルの死体に電気を通した時のような、機械的な反応だ。

ともに膝から下を失った両足だけでなく下半身全体にざばざばとかけると、紙袋男はマッチを取り出す。

小さな火を、放り投げる。

宮野はこれまでで最大級の叫び声を上げる。カメラマイクのレベルが振り切れたようで、その音はもう平坦なノイズにしか、聞こえない。

そこで映像はいきなり終わる。

しばらく硬直していた掲示板が、またわっとく。

>ぜってー、本物だ!

>マジだった、マジで512万たまったら、殺すことにしていたんだ。

>すごい。どこの誰だかわからないけど、すごいよ。

>ちょとだけどコココ殺し屋の声が聞こえてたワワワ!

>「急ぐかい、ゆっくりやるかい」

>「急ぐかい、ゆっくりやるかい」

>「急ぐかい、ゆっくりやるかい」

>おれ殺し屋の声はじめて聞いたよ・・・

>急がれるのもゆっくりやられるのもどっちも激しくイヤすぎる。ひーおいら宮野じゃなくてよかったー。ガクガクブルブル。

>マテ。

クリックして寄付したヤツラ全員タイホ

ってことになりゃしねーか?

殺し屋に殺人を依頼しただけで「殺人教唆きょうさ罪」になる。

>それは調べた、おれらは大丈夫。

このサーバーはトレースされない。

それに、〝投げ銭システム〟って振り込んだ先が特定できないようにシステムが組まれている。

よーするにおれらのほうには単純にネット上の「何か」に対して投げ銭した、っていう記録しか残っていないわけ。

>ナルホド。ならこれってカンペキなシステムじゃねぇ?

不特定多数の人間の金が、匿名の殺し屋に確実にわたる。すごくねぇか?

>俺は信じねーぞー。やっぱこれ誰かのいたずらなんじゃねーのか?

>んー、やっぱつくりものとは考えられんけどなー。

こんなに手ぇこんでるし

>リクエストをどうぞ。

>リクエストって何だよ。

>リクエストって、つまりこれからのことを

>わかた。これからあの鬼畜をどう料理するか、そのアイデアを募集するってこと? 

>ていうか、お前だれ

>まさかあなた殺し屋氏? 本人!?

>違います。けどさ、殺し屋のおっさんも、きっとここ見てるはずだし。

アイデアを出してあげたら、ラクかなって。

>目玉をえぐり出す。

>歯を全部抜いていく。

>チンコ切る。

>おいおい、おまえら

>やめとけってば。

>うるさい。ミヤノンがやったこと、思い出してみろ。

簡単にすぐに殺してやるなんて、被害者にも申し訳ないだろうが。

みんなで知恵しぼって、いちばん残酷な殺し方を考えようぜ。

>もったいないから、薬物実験に使うってのは。

>医学の研究とかやってる人に来てもらうのは、チョト無理かなあ。

>じゃあ僕たちでなんか実験考えれば。「血管に空気を入れたら、本当に死ぬのか?」とか。

>いっそこのまま放置してみるって、どうよ。

>そしてネズミに食わせる。とか。

書き込みはどれも冗談めいていながら、緊張と興奮を隠しきれないものばかりだ。

燃料が投下されるように、また画面が追加される。

縄の絡まった足首が切断され下半身は自由になっているものの、宮野には動き出す様子はない。ただぐったりとしている。

そこに紙袋男の登場だ。

左手に軍手をはめている。細長い銀色の、ワイヤーのようなものを握っている。

宮野の顔は泡立つように不規則に腫れていてもうそこからは感情は判別できない。両足の切断面も焼けただれカリフラワーのように膨れている。炎が止血の役割を果たしたようだ。

「かんべんかんべんしてください」

細い声で哀願あいがんする意識と気力だけが残っているようだ。

紙袋男は宮野の下半身に残ったズボンに手をかける。ほとんど焼け崩れた布地は簡単に剝がれる。

紙袋男はワイヤーを持った手を器用に動かしている。それで、宮野の股間に縮こまった性器の根元をしっかりと巻き、締め上げていく。気づいた宮野が残った力を振り絞って暴れようとした時には、作業はもう終わっている。

ぎっちりと縛られたペニスが、焼けこげた陰毛から浮き出してくる。

そのワイヤーの片端を、左手に巻き付けていく。

ワイヤーが、ぐっと手前に引っ張られる。

「いてっ」

ペニスと睾丸は縮こまった情けない形のままで、そのつけ根の部分だけがゴムのように長く伸びる。マンガのように滑稽な光景。

「いでででで」

ワイヤーがさらに引かれる。宮野は全身を硬直させ、変形し巨大化した顔の中の口を大きく開ける。その様も、滑稽そのものだ。

「いでええええええ」

紙袋男は右手でポケットから、園芸用の剪定せんていバサミを取り出す。そして左手のワイヤーをぐるぐる巻き付け、ぴんと引きながら宮野に歩み寄っていく。

紙袋男のハサミは宮野の股間に、伸びきったペニスの根元に向かう。ハサミと肉が擦れる音に、家畜が絞め殺されるような声が重なる。

「ぎいいいいいいいいい!」

人間が本当に絶望すると出す不思議な音。

そして、ばちん、と小気味よい音が鳴る。ばちん、ばちん、ばちん。胴体から性器が切り離される。

宮野は、どこにそんな元気が残っていたかという勢いで泣きわめく。まだ後ろ手に固定されたままなので、頭と短くなった両足がブレイクダンスのようにぐるぐる動く。

紙袋男は休まない。血と肉塊がこびりついたワイヤーを無造作に床に捨てると、宮野の髪を片手でしっかりつかみ、ハサミを左目に刺す。一度深く刺し、抜き、また刺す。その刃先でしばらくほじくりまわし、最後は眼球をまるごと眼窩がんかからえぐり出す。

片目から垂れ下がった眼球は揺れ、跳ね上がって額のあたりに貼り付く。

次はハサミを口に突き立てる。最初は舌を切ろうとしていたのかもしれない。しかし動物的な反応で食いしばられた歯に邪魔されると即座に予定変更、唇に刃を入れる。口の周囲の肉を一周じょきじょきと円く切り抜いていく。むき出しのままになった歯の間からぶくぶくと赤い泡が出る。

それから、耳を片方ずつ。ハサミは切れ味を失わない。鼻。一方の鼻腔びこうを切り口にして始める。軟骨の端に沿って切り開いていくとそこが三角形の穴になる。

そこでまた宮野が失神していることに気づく。紙袋男は血みどろの顔を上に向かせると、一つの空洞になった鼻に瓶から液体を注ぐ。と、間髪をいれない動作でそこに火を点ける。

強い酒と炎の刺激でむせた宮野は蓋のない鼻からおびただしい量の血や汁を、まるでくじらのように吹き上げる。

意識を取り戻した宮野は自分が地獄にいることを思い出したのか、また泣き始める。紙袋男は宮野の顔面をちろちろ燃える火が収まるのをしばらく待つ。それからハサミの刃を自分の脇で一度拭い、それを宮野の後ろ手の縄に当てる。

縄はとても固そうだが、長い時間をかけて彼はそれを切る。解き放たれた宮野はぐだりと床に崩れる。

「ほ ご ひ へ くらはい」

殺してください、と言うつもりだったようだ。しかし唇を失った口からは空気が漏れるだけだ。

その血と脂と煤にまみれた肉のかたまりに、紙袋男はもう無関心になっているように見える。軍手を外し床に捨て、着ているトレンチコートを数回ぱんぱんとはたく。宮野のことも、床に散らばった耳や鼻や足やその他の肉片も、ほったらかしにして、そこから出ていく。

自由になった宮野は、うめきながら、両足と顔の大半を失ったその姿で、誰もいない部屋をしばらくいずりまわっている。

不自由な体をいろいろに動かして工夫している。やがて、かつて自分を縛っていた縄の一本を輪にして、それを窓のさんに掛けることに成功する。そこに首を差し入れようとする。

しかし、どすん、と床に転がってしまう。

もう一度。首を差し込みぶら下がろうとする。

どすん。

なんとか、また起きあがる。体を伸ばし、縄を摑む。がくがく震えながら短い棒となった両足で立ち、縄を首に巻き。

どすん。

粘液を垂れ流しながらコンクリートの上を這い、また縄を摑む。

どすん。

何度も何度も同じことを繰り返す。

それはあまりにも長い時間を費やす血まみれ汗まみれの作業だ。

掲示板にはそんな宮野への応援メッセージが書き込まれている。

>がんばれ。

>両手はまだあるんだから、自殺くらいできるだろ? 少しは根性出せよ。

>がんばれもう少しや。

>手伝ってあげられないのがもどかしい。

>ファイトだミヤノン。

>フレー、フレー、ミ・ヤ・ノ・ン!!

>あきらめたらそこで試合終了だよ。

聞こえない声援に応えるように宮野は不屈ふくつの闘志で頑張り続ける。これほどの努力は、彼の人生にとって初めてのことに違いない。

そしてついにやり遂げる。縄の巻き付け方を工夫し、首に全体重をかけてそのままぶら下がることに、成功する!

特撮の専門家を自称する人間が書き込む。映像は捏造されたものではないということを、何枚かの画面写真を拡大して見せながら証明する。

宮野少年の住所の近隣に住んでいるという者は、その消息を調べて掲示板に報告する。1週間以上帰宅しておらず、遊び仲間への連絡も途絶とだえているという状況が明らかになる。

このサイトが一体誰によって、何のために開設されたものか。そんな話題も続いている。殺し屋に何度も呼びかける者もいる。

殺し屋が自分で運営しているわけではない、という推測を支持する者が趨勢すうせいになる。ここは単なるシステムであり、ファンクションであり、寄付金が512万に達したら、殺し屋に現金が振り込まれ、ターゲットのデータが伝えられる。それは全て自動化されている。と、そう仮定したら、ここに運営者は不要なのだ。

ならばここでは誰でも「殺人依頼」をすることができるのではないか。そういう意見も出る。殺したい相手のことを書き込んだり映像を貼り付けたりして、それを〈殺害料金寄付受付〉のページにリンクすればいい。共感しクリックして料金を振り込む人が大勢いれば、そしてその金額が512万円に達したら、殺人はきっと実行されるはずだ、と。

早速アイドルや政治家の写真を貼る者がいる。中年男性の写真を貼り「超むかつく担任。殺して」と書く者も。無論そういうものに寄付金は集まらない。

そんな中で、掲示板の住民達を真顔にさせる依頼文が現れる。

伊勢崎孝志いせざきたかし 栃木県宇都宮市真中町6−3−3 パークサイドマナカ208号室

名指しされた伊勢崎は21歳、無職の男性だ。写真は5点。顔のアップをいろいろな角度から捉えたものと、全身のもの。茶髪で唇にピアスをした、今風の若者だ。

住所は、アパートの名前と部屋番号までが書かれている。情報の詳細さが、依頼人の決意のほどを証明している。

伊勢崎の罪については、簡潔な文章で記されている。

>盗んだ乗用車を無免許で乗り回し、信号無視したところをパトカーに発見され、停止を求められた。ところが猛スピードで逃走。追跡を振り切ろうとして市街地を爆走したあげく、三輪車に乗っていた子供1名と、横断歩道を渡っていたOLと男子中学生をき殺した。その後、新聞配達少年のバイクをねとばして停止。現行犯逮捕。

さらに書き込みの主つまり殺害依頼の発起人ほっきにんは、報道されず世間にほとんど知られていない事実をここで明らかにする。

この犯人がばつを受けることなく釈放しゃくほうされていたことを。

>伊勢崎孝志は少年法で守られる年齢ではありませんでしたが、

我が国には刑法三十九条というとんでもない規定があったのです。

犯行時の心神喪失そうしつ状態が証明されたら、罪に問われないということです。

彼はその後、中毒治療の病院から脱出し、保護司の監視下からも逃げ出して、結局今は渋谷で覚醒剤の売人をやっている。そんな情報が、関係者の実名や様々な場所の住所や移動の日付に至るまで、丁寧に書き込まれる。

さらに、本人の肉声が、アップされる。この男から覚醒剤をしつこくすすめられた人物が携帯電話に録音していたものだという。

「いいことを教えてやるよ。ヤる時は、これキメてればいいんだよ。女ヤる時も、オヤジ狩る時もな。スピードやってましたって言えば、人殺しても無罪になるんだ。シンシンソーシツとかなんとかで。面白いだろ? 信じられねー? じゃあ教えてやる。オレ4人殺してんだ。けど、覚えてないとか、人を殺せって天のお告げ聞こえたとか、そんなことばっかり言ってたら、すぐに釈放だったぜ?」

>伊勢崎が殺したのは全部で4名です。

それだけでなく、どれくらいの人々がそのために、死ぬほどの苦しみを味わったことか、皆さんは想像できますか。

罪はこれほどに明確なのに、この国の法制度は、伊勢崎に罰を与えずに、世に解き放ちました。

私はこの新しいシステムを信じ、書き込みをしています。

よろしくお願いします。

この人物は十分な情報を自力で収集し、整理した上で提示しているのだ。しかしその行間からは抑え込んだ感情がにじみ出している。それが、住民達の心に強く訴えたようだ。掲示板にはすぐに「殺せ」という言葉を含む書き込みが溢れる。

そして512万の寄付金はあっという間に集まる。

ほどなく、短い映像が一本、アップされる。

走っているクルマの窓からの映像だ。夜の高速道路らしい。そこに灰色の布袋が投げ出される。袋はすぐに画面から消える。

それだけだ。しかし、その映像の意味をこのサイトの住民達は既に知っている。なぜならそれはここでアイデアを出し合い決定した方法だったからだ。

だから皆、翌日のニュースがとても楽しみだったはずだ。

袋の中にいた人間は両手両足を縛られていた伊勢崎は、その状態でしばらく路上をのたくっていたに違いない。

住民達にはその様子が容易に想像されるのだ。路面と同じ色の袋。猛スピードで行き交う長距離トラック。やがて撥ねられる。すぐにまた轢かれる。さらに潰される。その繰り返し。鉄板の上のお好み焼きのように変形を繰り返す袋。

間違いない。その通りだ。ニュースによると伊勢崎孝志は、発見されてからもしばらくは、不法に棄てられた生ゴミとして扱われていたという。処理されようとする瞬間まで布袋の口から吐瀉としゃ物のように、一気に出てくるまでは。

青山孝行あおやまたかゆき 東京都北区成沢町3−4−4

次のターゲット青山孝行は、子猫を虐待ぎゃくたいのあげく殺し、その様子をネットで生放送した人物である。

ネット界では既にとても有名な事件である。ただし現行法では器物損壊きぶつそんかい程度の罪にしか問えないということ、また犯行を実証することがとても困難であることから、警察がないがしろにする種類の事件でもある。

しかし子猫が生きたまま切り刻まれていく画像はネット上で一時期センセーションを巻き起こしたものだ。

サイトに再掲された生々しい写真が多くの人々の不快な記憶を喚起する。

ほどなく512万が集まる。

>猫をいじめたんだし、猫に復讐させればいいんじゃない?

という一文が大いに受け、そこからアイデアが発展し始める。

数日後、奇妙な事件が新聞を飾る。一人の男が、夜中にサファリパークに忍び込みライオンに食い殺されていた、と。発見された時点で遺体は原形をとどめていなかったが、全裸だったこと、血液からアルコールが検出されたことから、警察は事故と断定。マスコミは、被害者は変質者だったという憶測おくそくを報道。泥酔でいすいして動物にいたずらをしようとしていたのではないか、と。

もちろん誤報である。実際はこの男は自分でそこに行ったのではない。暴行を受け、瀕死の状態で口に漏斗ろうとを差し込まれてウォッカを注がれ、正気を失ったところでライオンの飼育スペースに運ばれたものだ。

ライオンによる処刑シーンは撮影が困難だったせいか、今回は映像によるレポートは、なし。それでも、不満の声はない。その時の様子を想像する書き込みで、掲示板は十分に盛り上がる。

掲示板では独創的な依頼やアイデアが次々と提示されている。

勝手にいろいろな映像を貼る人々もいる。

コンビニ前で酒盛りをしている少年数名。その傍若無人ぼうじゃくぶじんぶりをしばらく映した後で、そこに覆面ふくめん姿の人々が現れる。数十人はいる。手に手に持ったバットやゴルフクラブで、少年達を袋叩きにする。

「路上喫煙禁止」の標示の前で、バケツを持って待ち伏せする人。マスクとサングラスで顔を隠しているが、女性のようだ。タバコを吸いながら歩いてきたサラリーマンに、バケツの水をかけて逃げる。

とある家を訪ねる映像。ドアをノックする手が映し出される。中から若い男が現れる。

インタビュアーの肉声はピーという機械音で消され、代わりに字幕で表示される。

「10年前に、女子高生を暴行殺害してコンクリート詰めにした藤田直人ふじたなおとさんですね」

藤田と呼ばれた若者のおびえたような表情が、アップで、はっきり捉えられる。

字幕「よく眠れていますか?」

ドアがばたんと閉まる。

字幕「あなたに関する情報は全て大々的に公開しておきます。今後、外出の時は注意されたほうがいいでしょう」

そして現住所と電話番号、さらには本人だけでなく家族の実名までが書き込まれる。家や仕事場に電話をかけて、本人だけでなく周囲の人々にも抗議の意志を伝えよう、というメッセージも。

それは実行される。

その反応も逐一ちくいち報告される。

そして藤田直人は自殺する。

昔の事件を、しかも刑に服した人間の罪をほじくり返すのはこくではないか、という意見も書き込まれる。

掲示板は反論で埋め尽くされる。殺された人間や、その家族のことを考えたことがあるのか。彼等にとって苦痛や悲嘆は絶対にいつまでも消えないものなのだ、と。

その流れで、過去に重大事件を起こし刑期を終えた人物の出所情報が、続々と書き込まれるようになる。

熱は、もちろん掲示板から外にも広がっていく。『i‐KILL』サイトはもう有名な存在なのだ。発生した話題はすぐにここから溢れ出しネット上を駆けめぐり、そして当然現実世界へと波及する。結果、犯罪者や前科者の多くが安穏あんのんを奪われることとなる。殺害されたり自殺に追い込まれたりはしなくても、職を失う、家族から絶縁ぜつえんされる、地域から孤立する、等の状況に追い込まれる例が相次いでいる。

そういう事例も掲示板にいちいち報告されていくわけだ。そのたびに、中世の魔女狩りを思わせる熱狂はさらに加速していく。

いつもながらの賑わいの中に >はじめまして から始まる一文が現れる。とある有名雑誌の記者と名乗る人物の書き込みだ。

>このサイトについて調べています。一体誰が、何の目的で開設したものなんでしょうか。どなたでも、どんな情報でも、教えて下さい。

それは強い反発のみで迎えられた。

>殺し屋の正体あばいて記事にして自分だけ儲けるつもり?

>あのさあ、アンタこのサイトにケンカ売ってること、わかってるよね?

>偉そうに何さまだ? 記者なら自分で調べろ。

>殺し屋に会いたいなら、お前がターゲットになったらいいじゃん(笑)

まもなく同雑誌内部の人物からと思われる書き込みがあり、その記者の実名が明らかにされる。社員ではなく、フリーランスのライターだという。

本人からすぐに切迫した書き込みがなされる。軽率な行動でした、もう取材はしません、記事にもしません。と、誰でもない誰かに対して、必死に謝っている。しかしいったん燃え上がったその火は鎮静ちんせいすることはない。顔写真がアップされ、住所や年齢や家族構成が暴かれる。自宅を出る姿を誰かが撮る。行きつけの風俗店の情報までが寄せられる。

この記者が心身症になり、北海道の実家に帰ってしまうまで、公開ストーキングは続く。

警察が動き出したという噂が流れる。

調査を命じたらしい刑事の実名が、さっそく書き込まれる。

>警察庁サイバー犯罪対策課・中村規蔵なかむらのりぞう警部へ。お仕事ごくろうさん。

>刑事さん、読んでるよね?

ア ナ タ 殺 さ れ た い ?

次は刑事のプライバシーが暴かれていく。長男が通う保育園の場所までが書き込まれる。

このサイトに警察の調べが入ることも、何らかの圧力がかかることも、結局、ない。住民の執拗しつような努力が功を奏したのか、それとも、もともと捜査など始まっていなかったのか、それは明らかではない。しかし掲示板がますます高揚していることだけは間違いのない事実だ。

>警察いらねーよ。

>ここがあれば、みんなが警察になって、みんなで裁判できるっていうことだもんな。

>これこそ本当の民主主義!

>裁判所も死刑執行人も不要。私はこれは、戦争のない国で、生き残る価値のある者とない者を選別する自浄機能だと思います。

>政治もいらなくなるかも。そんで自動的に理想郷が完成するってわけ。インターネット、すげー。

これまで固定のハンドルネームを使うものはほとんどいなかったが、その人物は珍しく自己紹介から始める。

>ユダ、と申します。

よろしくお願いします。

僭越せんえつですが私も、依頼を作成させてもらいます。この男です。

アップされたのはひとりの太った男の写真。下半分が異様なほど大きい顔に、サイズが小さすぎる銀縁のメガネを着けている。

名前は長田浩典ながたひろのり。住所もある。

しかしそれだけで、犯罪履歴の解説文も犯行シーンのビデオもないから、この書き込みは無視され流される。その翌日、次の一文が表示されるまでは。

>長田浩典 の案件

規定額に達しました。

たった1日で、512万が集まったということになる。

>512万、イッキに集まったの?

>なんで? この長田ってやつ、なにげに有名人?

>寄付した人、情報希望。

>寄付をしたのは、私です。ユダです。つまりいいだしっぺです。ひとりで512万円入金させて頂きました。

掲示板にはしばらく「?」や、バカとか電波とか消えろといった文字列が渦巻く。スクロールのスピードが一段落した頃、ユダと名乗る人物はまた現れる。

>このサイトで裁かれ2番目に死刑執行された

栃木県宇都宮市の伊勢崎孝志は

該当事件の犯人ではありませんでした。

本当の犯人は、

栃木県栃木市の伊勢田強司いせだきょうじという人物です。

これはリンク先の裁判記録を見れば確認できます。

彼は人違いで殺されたということになります。

掲示板は静かになった。多くの住民達がとまどっているらしき状況をしばらく放置してから、ユダは続ける。

>元凶はこの男、長田浩典です。虚偽きょぎの情報をアップしたのです。

「伊勢田強司」と混同され「伊勢崎孝志」氏の個人情報が暴かれたのは、既に1年前、某巨大掲示板上でのことでした。すぐに誤りは指摘され、伊勢崎孝志氏の名誉は回復されたものです。

長田浩典は、ネット上に残っていた古い情報をほじくっただけで得た誤情報を鵜吞うのみにして、裏付けをとらずに、このサイトに掲載しました。

>私はここに一つの正義を提唱します。

>この無責任男の殺害を、ここに依頼します。

>皆様の寄付は不要です。

長田という男の写真がさらに数点、アップされる。

色白で、でっぷりと太っている。頭髪は脂ぎって平らになっていて、顎は左右に張り、正面から見るその顔は台形だ。首の回りがよれよれになったシャツと、ジャージを着ている。

室内で撮られたものばかりだ。全身写真の背後の壁には幼女の微笑む写真が、それもポスターサイズに引き伸ばされたものが見えている。

別の1枚には、黄色い小さなかばんと、幼稚園の制服らしきブレザーが、ハンガーにかかっているのが映り込んでいる。

掲示板はそれらのアイテムに激しく反応する。

>キター ロリキター 鬼畜! 変態!

>ぎゃははははははは!! きんもー!

>こんな奴にオレタチだまされてたのか。

>キモオタのくせにえらそーに。

>きゃあきゃあ騒ぎやがってそれで人一人殺して。どう責任とるつもりだぁ?

>もうOK! やっちゃえ!

>賛成! やっちゃえ!

その騒ぎには、やや空虚さが漂っている。

既にこの案件は、成立している。512万は、集まっている。

自分達には何も期待されていない。それを皆わかっている。

しかしそれがどういうことなのか、誰もわからないのだ。

そして、これから間違いなく残虐な手段で死に導かれるこの長田という人間のことを罵る言葉は、ここに参加している人々全て、つまり自分自身にもあてはまることである。そんなことを誰もが薄々感じているのだ。

ユダの主張はあまりにも正しい。だからこそ、その存在が不気味ぶきみに感じられるのだ。

彼は名無しの存在だった長田という人間を日の光のもとに引きずり出したわけだ。ならば、ずっと匿名の立場に安住していた自分も、もう安全とは言えないということだ。

>罪無き者だけがまず石を投げて下さい。

そんな投稿が突然現れる。果たしてユダによるものか、別の誰かによるものかわからない。それをただす者もない。

皆はただ沈黙する。

長田浩典という男が犯した罪は、ここでずっと浮かれはしゃいでいた住民一人一人に問われる罪でもあるのだ。誰もが鏡をつきつけられている。自分自身の存在を思い出せと迫られている。

静けさが続く。ただし誰もが、目を見開いて画面を見つめていることは間違いない。

皆、待っているのだ。

長田浩典が惨殺される映像を。

その雑居ビルは中野駅の北側にとりでのように長く伸びている。13階建ての、1階から4階までが店舗スペースだ。欧米スタイルのショッピングセンターとして設計されたもので、落成当初は瀟洒しょうしゃなブティックや高級レストランが並んでいたという。しかしその後数十年が経過し、景気の変動を幾度か経るうち、各スペースのオーナーはほとんど入れ替わった。そして90年代のバブル崩壊の後、大部分のスペースは数つぼごとの小分けで賃貸ちんたいされる形態に落ち着いた。老朽ろうきゅう化のせいもあり、賃料は破格だった。

以降、月に7万も出せば小さな店が持てる場所として知られるようになり、限定的な趣味人を相手にしたマニアックな店舗が増え始めた。

特にここ数年はアニメやゲームやマンガ関連の店が台頭していた。古本や中古ソフトの売り買いをする店や、手に入りにくい関連グッズを集めた店など、バリエーションも数もその分野が飛躍的に増加し、常設の展示即売会場のような存在としても認識されるようになっていた。

間口わずか数メートルの店がずらりと並ぶフロアには、祭りの縁日のようなにぎわいが現出していた。店舗や通路を縦に横に細かく仕切り直す違法建築が繰り返され今や迷路のようになってしまった空間を、小田切明はいつものように肩を落としてふらふらと歩いていた。

「遅刻遅刻〜」

見通しの悪い角の手前で、甲高い声を耳にした。

「まずい〜 新学期初日なのに〜」

どこかのショップで流されている古いアニメビデオの音声だろうと思いつつ足を進めていると、目の端に小柄な人間が飛び出してきた。

それは弾丸のような素早さで、小田切のふところに飛び込んできた。

「どっし〜ん!」

と、その相手は衝突の効果音を口で表した。

壁に手をつく小田切の前に、トーストを口にくわえた少女が尻餅しりもちをついていた。オレンジ色のセーラー服のすそが、めくれあがっている。

「もう! どこに目がついてるのよ!」

「きゃあ! 今パンツ見たわねエッチ! バカ! 変態!」

その声に覚えがあった。以前、このビルに小田切を訪ねてきた女子中学生、後藤未久だ。

「ついに妄想が実体化したと思ったでしょ」

「なんだ君か」

「なんだはないわ。あたしで損した気分?」

「その扮装ふんそうは何だい」

「このビルの中のお店で、アルバイト始めたんだ。メイドさんやってるの。暇な時はこのコスでビルじゅうを駆け回ることになってるの。看板持って歩いたりチラシ配ったりするより、こっちのほうがウケるからって」

どう見ても大きすぎる折り目が入ったスカートをぱんぱん叩きながら、少女は言った。

「ていうか、殺し屋さんだったらもっと緊張感を持って歩いたほうがいいよ。あたしがドスとか持ってたら、あなた殺されてたわよ。さぁ」

少女は小田切の腕に自分の手を滑り込ませた。

「ぶつかった人は強制的に連れてくことになっているの。断る人はいないよ」

店は繁盛はんじょうしていた。

「みかんちゃん、お帰り」

「ただいま。お客さん、じゃなくて、ご主人様をお連れしましたあ」

メイド服でトレイをささげ持っていた店員は、小田切に気づくと背筋を伸ばし、声を変えて言った。

「お帰りなさいませ、ご主人様

「はぁ。ただいま」

小田切はねむそうな声で答える。

「こちらにどうぞ、ごゆっくりおくつろぎください、ご主人様」

未久は隅の席を小田切に勧めた。

「君の名前はみかんちゃんか」

「そ。ここで働いてたらそのうちぜったい来てくれると思ってたの、殺し屋さいや、おじさんが」

「おじさん?」

「ごめん。じゃあおにいちゃん!」

おにいちゃんと呼んだ瞬間、ほとんどの客が小田切と少女のほうを見た。あわててメニューのオプションサービスページを探す者もいる。

「512万でどんな殺しでも引き受けてくれる人がいる、って噂が流れてるの。まさかそれって、おにいちゃんのこと?」

後藤未久は明るい声ではきはきと喋った。それは周囲からは好きなアニメの話でもしているように聞こえているはずだ。

「違う」

「そうか。けど、もし本当にそうだったら今なんて答えてた」

「違う、と答えていた」

未久はふいに小田切の耳に口を寄せ「急ぐかい、それとも、ゆっくりやるかい」と、囁いた。

「あれ聞いて、ピン来た。あたし聞き間違えたり、しないもの」

小田切は無視して砂糖つぼを開けた。

「ユダのことは、気をつけて。ねえ。これ、超ゴクヒ情報なんだけど。警察のわならしいよ。あたしの知り合いの知り合いが警察の偉い人の愛人で、こっそり教えてもらったんだって。ユダとか、あの長田っていうキモオタとかって、みんなグルで。ねえ、聞いてるの。ちょっと言ってみてよ。急ぐかいそれともゆっくりやるかい、って」

小田切のスプーンは炭坑夫のスコップのようにせっせと砂糖を運んでいた。とうとう未久はそれを見とがめた。

「ちょっと。どんだけ入れるの。体に悪いよ」

「みかんちゃん。コーヒーに砂糖をたくさん入れるのがなぜ体に悪いと思う」

「ええと、太るし」

「甘いものは、太りやすいという認識は間違いだ。砂糖のカロリーはスプーン1杯ぶん、つまり1グラムで4キロカロリーしかない。このコーヒーカップに砂糖だけ山盛りにしたって、200キロカロリーくらい、というとせいぜいおにぎり1個ぶんしかない」

「はあ」

「血糖値を上げる効果も、砂糖よりパンやニンジンのほうが高い。ついでに言うと甘いもので虫歯になるというのも誤解だ。甘いものより酸っぱいもののほうが歯には何倍もダメージを与える。お嬢さん、砂糖よりも塩分のきついみそ汁や梅干しやめざしのほうがずっと不健康なんだよ。大人の言うことを信じてはいけない。どうした」

「ちゃんと聞いてるんだよ」

「何がおかしい?」

「殺し屋さんが真面目に話をしてくれると、嬉しくなるの。学校行くよりためになる」

「何だそりゃ」

「ねえ、アシスタントにしてくれない。ほら、殺し屋が美少女の弟子でしとる映画あったじゃない」

「断る」

「なぜ」

「美少女じゃないし」

小田切は凝りをほぐすふりをして首を回し、未久のパンチをよけた。

「弟子はいらないがメイドさんに頼みがある。熱いコーヒーをポットに入れて持ってきて欲しい」

「えっ」

「ここではコーヒーを大鍋に入れてるだろ。それを火にかけて、沸かし直して入れてくれればいい」

「でも、ポットなんか持ち出したら叱られるかも。一応店長に聞いてみるけど」

「大丈夫。右の棚の一番下の段を見て」

そこには「オタキリさま用」と書かれたステンレスボトルが置いてあった。

「マイ砂糖瓶まで持ち歩いてるの」

小田切はボトルの口を開けると持参した瓶から白い粉をざらざら流し込んでいた。

「それ持ってどこに行くの」

「ピクニックに」

「あの気をつけて、本当に」

「ああ」

「帰ってきたらまたここに寄ってください」

「いいよ」

「もしいつまでも帰ってこなかったら、どこに連絡すればいい」

「別に、どこにも」

「あのさあのねもしかしてあたしも一緒に行ったりしちゃだめ?」

「だめ。メイドさんの仕事はお留守番だろ」

古いマンションだった。簡素な外観は一昔前の公団住宅といった風情だ。彩色されていないコンクリートにはひびが入っている。

エレベーターはなかった。小田切は5階まで階段を上がった。途中、踊り場に座り込んだ老婆と目が合った。老婆は小田切を指さして何かをぶつぶつと呟いた。

廊下はがらんと静まり返っていて人の気配は全く感じられなかったが、その部屋の前だけにはラーメンやソバの器が積まれていた。

ブザーはない。小田切は薄緑のペイントがところどころ剝げた冷たい鉄扉を軽く叩いた。

「はい。どなた?」

「小田切明だ」

ドアがわずかに開いた。その隙間でメガネが光った。小田切は言った。

「あんたを殺しに来た」

「驚きましたね。ドアを蹴破って入ってくるかと思っていましたから。まさか殺し屋がノックをして、挨拶あいさつをして入ってくるとはね」

「あんたこそ、ずいぶん落ち着いている」

「あなたはプロです。逃げ隠れしても意味がないことくらい、わかってますよ。どうしました?」

「いや、カメラはどこにあるのかと思ってね」

「ああ、ネットに上がっていた画像ですね。あれは自分で、ケータイで撮ったものですよ。防犯用の隠しカメラなんか仕掛けていませんから、ご安心下さい」

小田切は額にかざしていた手を外した。

部屋は『i‐KILL』サイトで公開されていた写真の通りだった。ただ実際のほうがぐっと明るい印象だった。清潔で、よく片づいていた。

幼女の写真は、あちこちに貼ってあった。スカートを巻き込んでゴム跳びをしている姿。体操服でかけっこのゴールに走り込む姿。水着でプールサイドに座っている姿もある。全て同じ顔だ。全て、楽しそうに笑っている。

「可愛い子だ」

と、小田切は言った。

「でしょう? 可愛い子を可愛がるというのは当然のことなんですよ」

長田浩典は答えた。

「ロリコンとか変態とか言われるのはちょっと心外です。年端としはのゆかない女の子とね、セックスしたいわけではないんです。これは代償行為なんですよ」

小田切が黙っていると、長田はさらに続けた。

「30も過ぎれば子供が一人や二人いるのが自然な状態です。その子を可愛がりいつくしむように、我々の本能はそうプログラムされているんです。ところがね、私みたいな人間が街で見かけた幼女の頭を撫でようとしたら、それだけで睨み付けられる。抱き上げたりしたらきっと通報されますね、ははは。だからその代わりに、アニメとか、写真集とか見るしかできないんです。ああ、すみません、私こう見えて話好きで、喋り出すと止まらないんですところで、どうしましょう」

と、長田はごく自然な口調のままで言った。

「さっそく始めるんでしょうか」

「急ぐかい。それとも、ゆっくりやるかい」

と、小田切も静かに言った。長田は眉を上げ、相手の顔をまじまじと見た。

「わかっていたんですね。さすがだ」

「確信できたのは今だ。俺をおとしいれようとしたのは、あんただ。いやそもそもあのサイトを仕掛けた張本人は、あんただった。そうだね?」

「その通りです」

長田はメガネを外した。そしてハンカチで顔を拭い、またメガネを着けた。

「『急ぐかい、それとも、ゆっくりやるかい』確かにあれは、あなたの声です。勝手に使わせてもらいました。あなたがある会社にかけた電話を、盗聴していたんです。それを録音したものを、あの映像に重ねたのです。そのことについては、謝りたい。本当に申し訳ないと思っています」

「もし警察が動いて声紋せいもんを取れば小田切明という人物が特定される可能性があった」

「いや、あの台詞せりふの部分だけ音を差し替えたことは調べれば簡単にわかります。そういうふうに作っておいたんです。それにね、警察はそんなところをほじくったりしません」

「あんたはハッカーなのか」

「そんなに格好いいものではありませんよ。ただのサラリーマンです。いや、フリーターに近いですかね。正社員ではなく、派遣はけんでSEをやってます」

長田は指でパソコンのキーボードを叩く動作をしてみせた。

「今は大手のゲーム会社の隅っこにデスクをもらって、飼い犬みたいにちょこんと待機たいきしています。社内LANのメンテナンス担当、といったら聞こえはいいけれど、つまり社内のどこででも、コンピュータ関係のめんどうくさいトラブルが発生したら呼び出されて、顎で使われる役です。たいてい仕事中にエロサイト見ようとしてブラクラを踏んでしまったとかウィルスに感染してしまったとか、そういうことです。ただね、そういう立場だと社員のメールは全部読めちゃいますし、金の動きもほとんどわかります。よその会社の社内事情をいろいろ知ることができるのは楽しいんですよ。不倫ふりんメールを覗き見しちゃったりね」

「なるほど。あの会社にいたのか」

「そうです。それでちょっと奇妙なことに気づいたってわけです。やり手で知られていた専務が突然、消えた。会議をすっぽかし、それ以降はケータイにも出なくなった。翌日も、その翌日も出社しなかった。中高年のサラリーマンがいきなり蒸発って事件は珍しくないけれど、社内でいちばん実権を握っていて、いちばん忙しく働いていた人物ですよ。それが忽然こつぜんといなくなった。そして1週間後、社長から全社員へのメールで、専務が自己都合で退社したことがあっさり告げられたんです。これはどう考えてもおかしい。ピンと来て調べてみましたら、その直前に、社長単独の決裁で大きな金が動いていたんです。振込先には聞いたこともないIT企業の名前がありました」

「ウェッブショック。1024万円」

「そこからはソーシャル・ハッキングつまりコンピュータではなく電話と口を使ってのハッキングを試みました。銀行員のフリをして社長に電話をしたりね。やればできるものです。私はついに本物の殺し屋の連絡先をゲットしたというわけです。ああ、ただし通報しようとか恐喝しようなんてことを考えていたわけではありません。ただ、必要があればいつでもその腕利きの暗殺者に連絡を取ることができるようになった、それだけで満足だったんです。本当に何かを頼むことになる日がすぐに来るとは思いもしませんでしたけどね」

「なぜあんな方法で俺を指名したのか、それを知りたい」

「最初はね、あの仕事、あなたに頼もうと思っていたんです」

長田は頭を下げた。

「しかし俺は不要になった。そこで声だけでゲスト出演させてくれた」

「あなたにメッセージしておきたかったんです。つまり本当に失礼な話でご立腹もっともなんですが、依頼した時に、断れないようにしたかった」

「そんなことを気にしなくても、普通に頼めば普通にやっていた。ラーメンの出前と変わらない。まあ、あんたにとっては512万を節約できたというわけだ」

「あ、誤解しないで下さいね。お金が惜しかったわけではないんです。そして、私が自分でやったわけでもない。あの母娘殺人事件の犯行ビデオは、裏ルートではずいぶん前から出回っていた。私はそれを、一人の紳士に見せに行った。それが、犯人を惨殺してみせてくれたあの男です。ビデオでは紙袋を被っていたから、わからなかったかもしれません。それにかくしゃくとしていましたからね。彼は70過ぎの老人だったんです。あの少女のおじいさん、つまりあのお母さんのお父さんです。最も、その資格がある、そういう人がいたというわけなんです」

「70のじいさんにしては、大した手際てぎわだ」

「元自衛官だそうです。ただ、下ごしらえまでは私がやりました。あのガキはクスリをやっていた。その入手ルートから、居場所は簡単に知れた。クスリをえさにおびき出すのも、クスリを使っていったん心神喪失にすることも簡単だった。私は全てをセッティングし、カメラをセットして、部屋から出たんです。後のことを紳士にまかせました」

「二人目は」

饒舌じょうぜつだった長田が一瞬ためらうように口ごもった。小田切は静かに言った。

「もちろん嫌なら無理に話してくれる必要はない。自白調書を作っているわけではない」

「いや、話させて下さい。話したいんです」

そうだコーヒーでも飲むかい」

小田切は持参したポットを開けた。外した蓋をカップにしてそこに注ぐ。湯気がすうっとたなびいた。

「いい香りです」

「一応言っておくが、クスリが入っている」

「毒薬ですか」

「麻薬だ。効いてくると痛みや苦しみを一切感じなくなる」

「なるほど。ありがとう。小田切さん、あなたは優しい人ですね」

長田は目を閉じて、ゆっくりと味わうように黒い液体を口に含んだ。

小田切は立ち上がり、壁の写真の前に立った。

「この女の子か」

「それも、わかっていたんですね」

「ああ」

「何万もの人々が見ていて、気づいたのがあなただけとはね。掲示板でこの部屋を公開した時の反応を見ましたか? 誰も、この意味を深く考える人はいなかった。皆ただ『幼女』という記号に脊髄せきずいで反射しただけだった。ネットの人達は、他人のプライバシーのほんの一部分を覗き見して、それで全てを知った気になるものです。自分が神にでもなったようなつもりにね。しかし、真実はモニターの皮を一枚剝いだ向こう側にあるものなんです」

喉を鳴らしてコーヒーの残りを飲みほすと、長田はイスの背もたれによりかかって微笑んだ。

「全部、話させて下さい」

「2番目のターゲット。伊勢崎孝志。とち狂って4人を撥ね殺した鬼畜とは別人です。ただし、殺される必要がないのに殺された、というわけではないんです」

長田はいったん口をきゅっと結んだ。その視線は壁の、少女の写真に向けられている。それから息を吸い、吐いた。

「彼は、別の事件の犯人だった。6歳の女の子をさらい、暴行を加えた。被害者は放心状態で家まで送り届けられた。その際、彼は家族に写真を見せ、もし警察に知らせたらこれを世間にばらまくぞと脅しをかけた。家族は本人の将来を考えてこれを事件化しないことを決断した。ところがそれは大きな間違いだった。すぐに警察に駆け込むべきだったんです。被害者は、自殺した。その、6歳の女の子は、心にそれほどの傷を抱え、自分の意志で、死を選んだんです。もちろん、彼伊勢崎孝志が刑に問われることはない。司法制度の中ではね。完全に、完璧かんぺきに、正義を実行するには、自分で創り出すしかなかったんだ。新しい、正しい、制度を」

「壁の写真はその妹さんだね。ブレザーや体操服も、その子のものだ」

「そうです」

長田はふらつきながらゆっくりと、立ち上がった。壁を向いて、少女を至近距離から見つめた。そしてハンガーにかかった小さな服をいとおしそうに撫でた。

その下にも、子供サイズの服がきちんと畳んで置いてあった。彼はそこから一枚のブルマをそっとつまみ上げ、顔を近づけてくんと嗅いだ。

「最初は、できるだけ忘れようと思った。でもね、無理ですよ。あの子が好きだった音楽が流れるたびに、毎年やってくる誕生日やいろいろな記念日のたびに、あの子はここに生き返ってくる」

そう言って長田は自分の胸を強く叩いた。肉が揺れた。

それからよろよろとまたイスに戻り、うなだれた。

「生き返って、そして瞬時にして、死ぬ。また、死ぬ。改めて、失われるんだ

「伊勢崎を殺したのはあんただった、ということだ。それも、ただ袋に入れて高速道路に落としたというわけではない」

長田はまた深く呼吸をしてから、顔を上げた。

「そうです。あの男は道路で轢き殺されたわけではありません。袋の中に入った時にはもうすでに打撲だぼくと出血で死んでいたんです。私がやりました。とても長い時間をかけてね。全ては、これを私の個人的な、一人の人間に対する殺害行為を実行するために作り上げたものだったんです。そういうわけです。種を明かしてしまえば、ちっとも不可解ではないでしょう。皮肉なことに、そのシステムの切っ先が、ちょっとしたことでこの自分自身に向かってきたというわけです。あわてましたけれど、今は諦めています。これは当然の報いなのです。そろそろクスリが効いてきたようです。ああ、これは肩がほぐれますね。気持ちがいい」

小田切はとてもリラックスしていた。目の前にいる男を、自分がこれから殺すことを知っているからだ。その脳の中の全情報は、今夜のうちにリセットされるのである。

「最後に言っておきたいことや、やっておきたいことはないか。願いを聞けるかどうかはわからないが」

「そうですね。そうだ、お祈りはどうでしょう」

「祈り?」

「そうです。なんでもいいですから、私のために祈って頂けないですか」

「なるほど。やってみよう」

小田切は表情を変えずに言った。

「天にまします我らが父よこんな感じかな?」

「小田切さんはキリスト教徒なんですか」

「まさか。ただ、幼稚園が、カトリック系だった。昼飯の前に、延々とお祈りをさせるんだ。何十年も前のことなのに、今でもそれを覚えている。その程度のものでいいか」

「もちろんです。お願いします」

「じゃあ。天にまします我らが父よ、み名が聖とされますように。私たちの日ごとのかてを今日もお与えください。私たちの罪をおゆるしください。私たちも人をゆるします」

そこでいったん黙った。そして、じっと相手を見た。

長田は目を伏せた。

小田切は、繰り返した。

「私たちの罪をおゆるしください。私たちも人をゆるします。私たちを誘惑に陥らせず、悪からお救いください。アーメン」

長田が下を向いたまま肩をぶるぶる揺らし始めた。その様子は笑っているように見えた。

「あなた方が人の罪をゆるすならあなた方の天の父もあなた方をゆるしてくださる。だがあなた方が人々の罪をゆるさないなら、あなた方の天の父もあなた方の罪をゆるしてくださらないだろう長田さん、泣いている理由は、あんたがクリスチャンだからというわけではない」

「小田切さん、あなたはそこまでわかっていたのか」

「あんたは自分で作ったシステムに思いがけず殺されようとしているわけではない。あんたが、ユダだ。そうだね?」

「そこまでわかってるのだったらもうそれが全てです。殺す者と殺される者が同一人物なら、それはただの自殺ということになる。簡単です。私は完全犯罪のためにあのシステムを稼働させた。しかし、実は最初から計画していた。システムを利用して自分の目的を完遂かんすいすることができたら、死のうと。ただし自分で自分を殺すことはとても難しい。だからその時だけは、あなたに頼むつもりだった。一回だけは、専門家に頼もうと思って、準備していたというわけです」

「あんたはまだ隠している。これはただの自殺幇助ほうじょではない。依頼人としてのあんたは、できるだけ残酷な殺し方をして、それをビデオに撮って例のサイトにアップして欲しいと頼んでいた。そこには特別な目的があるはずだ」

「それだけは、話しても理解してもらえるかどうか自信がないんですでも、話しましょう。話させて下さい。そうだ。わかっている。あなたは私に告解こっかいをさせようとしているんでしょう?」

小田切は答えなかった。長田は壁の少女を見つめながら喋り始めた。

「妹の仇をこの手で殺した。それは思った通りに、すばらしい体験だった。私は孤独ではなかった。あのけだものの死に、多くの人々が喝采かっさいを送ってくれた。しかも私に司直しちょくの手がのびる可能性もなかった。しかしね、終わった後で私はものすごい脱力感に襲われたんです。本当に熱が出て、体が動かなくなって、何日か、寝込んでしまいました。そして数日振りに『i‐KILL』サイトにアクセスしてみると、驚きました。3人目の死刑執行が、済んでいたんです。つまりね、システムが、自動的に稼働してしまっていたというわけです。3人目のあいつ、猫殺しの青山孝行については私がやったのでは、ありません。誰が実行したのかも知りません。サイトの熱心なファンで、頭に血の上った若者達がパーティー気分でやったものと思われます。その他にも、このサイトを利用して犯罪者達へのリンチが多発しているのはご存知の通りです」

「罪をさばき、それに見合った罰を与える。あんたが望んだことではないのか」

「私は自分の目的を達成する、それだけを考えていたんです。それで、ひどい苦しみから解放されるはずでした。それで終わりのはずだったんです。でも違った。本当に苦しんだのは、それからでした。このサイトはもう私には不要になった。放りだして、忘れてしまえばいいと、たかをくくっていたんです。ところが、そうはいきませんでした。私の知らないうちにも、次々いろいろなことが書き込まれていきます。悩みや苦しみ、怒りや、あざけり。それらがあれよあれよといううちにまっては時に噴き出して、人を、殺していくんです。私は気づきました。このサイトは、閉鎖してハイおしまいというわけにはいかなくなっていることを。私がやめたとしても、すぐにまたどこかに出現するでしょう。私は見えない力で羽交はがめにされたような気分でした。もう逃れることはできないのです。私は、ある罪を、自分なりの方法ですすいだつもりでした。しかし、その過程でもっと大きな罪を生み出してしまった。それはどんどん拡大していったんです。ねえ、小田切さん、クスリが、効いてきました。うまく、しゃべれなくなってきました。ででででも私まだ頭おかしくなってません。小田切さん、あああ、あなた、さっき、聖書の言葉を私に祈って、くくくくくくれた。あなた、わかっていたんです。わわわ私の考えていたこここここ、ことを」

長田の体はイスの上で傾いていた。声は震えていた。しかしその言葉は力を失わなかった。

「罪は罪を生むんです。罪をこの世から根絶こんぜつすることは不可能だったんです。わわわわ私はね、あのサイトを終了させる方法を、考えたんです。かかか考えに考え抜いた。そして、わかったんです。そのためには、私がまず犠牲ぎせいになる必要がある、と。私が、あそこに集まっている人々すべての自画像となった上で、できるだけむごたらしく死んでいく必要が」

「つまり進んで十字架にはりつけになってみせようというわけか。あんたは本物の聖人になりたいのかい」

「私はそれほど傲慢ごうまんではない。私は聖人とはほど遠い。むしろ悪魔に近づいたのです。私はあのサイトで、はっきりとしたかたまりになった巨大な悪意に手で触れ、それを撫で回していました。その悪意も、そして次々とそこに召喚しょうかんされる罪も罰も、本当は人間の手に余るものだったのです。人間にできることは、一つだけでした」

長田は唾を飲み、息を吸った。それからゆっくりと言った。

「ゆるすこと、です」

長田はしばらく深く慎重に呼吸だけをしていた。やがて小田切をまっすぐ見据えると「ありがとうございました」と言った。

「これでおしまいです。告解は済みました。もう喋ることもありません。ただ、一つだけお願いがあります。はじめに、私の舌を切って、頂きたいのです」

「舌を?」

「ぎりぎりの、状況になった時、私、妹の名前を呼んで、しまうかもしれない。それは、困りますから」

喋りながら、それが杞憂きゆうだと気づいたようだ。

「ああ、うまく、くちがうごかなく、なって、きた」

「だから舌は切る必要はない」

長田は緩慢な動作で片手を持ち上げ、それを顔に当てた。頰をつねっているようだった。

「痛さも、かんじなくまった」

「それでクスリの効き方がわかる。しゃべれなくなったら、痛みもなくなっているということだ。そうしたら始める」

「とてもきもち、いいよ。ありがとう、ありがとう」

「感謝されるのは妙なことだな」

その後、長田は何回かまあ、とか、ろう、とか声を出しかけ、それでもう喋ることをあきらめた。

しかしその目つきには、まだしっかりと意志が宿っていた。

小田切を見つめ、頷いた。

小田切は、イスに体を預けている長田の目の前に、部屋の隅から運んできた大きな姿見を据えた。

長田の目はもうどんよりとしている。鏡に映る自分の姿が見えているかどうか、わからない。

次にポケットから、コインほどの大きさのカメラを取り出した。あらかじめ裏に貼っておいた両面テープで、それを長田の額に取り付ける。

作業を淡々と進めている時ふと、思い出していた。原色で描かれた一枚の絵画を。

髪とひげを伸ばした男が、大きな十字の木組みを背に負わされている。大勢の人々が彼を取り囲んでいる。それは多分幼稚園で先生が読み聞かせてくれた絵本の記憶だ。

十字架を背負ってゴルゴタの丘を進行しているキリストの姿。

その光景が小田切の頭の中で今ありありと動き始める。

遠巻きにしていた民衆は、なげき悲しんでいたか、それとも、祈りを捧げていたか。

どちらでもない。と、小田切は考える。石つぶてを投げつけて、ばかやろう、と叫んでいた。ある者はキリストの頭にいばらを被せ、別のある者はキリストの肩をあしの棒で叩いた。キリストの弟子を名乗っていた者達でさえ、あんな奴のことは知りませんと言って逃げ出していた。しかしその時キリストは、絶望していたか。そんなはずはない。

キリストは全てを知っていた。全ては彼が意図いとしていたことかもしれない。彼はあえて、ありとあらゆる罪を自分に向け、その全てを背負いこもうとしたのではないか。今の小田切はそう考える。

罪は罪を生む。罪をこの世から根絶することは不可能だ。キリストはそれに気づいていたのではないか。そして唯一の解決策をすなわち「神が人をゆるす」というフォーマットを、プログラミングしようとしていたのではないか?

小田切には豊富な想像力があった。

人を殺すだけなら簡単だ。人間の急所を知っていれば片手で、10秒もあればできる。

しかしこの場合、凡人ぼんじんの好奇心を刺激するビジュアルが必要なのだった。

それはユーモラスである必要があった。それでいて胸が張り裂けるほど感情移入させる必要があった。

痛みとは主観的なものである。

目玉を刃物でざっくりと切られたら。想像するだけで誰もが耐えきれないほどの苦痛をイメージするはずだ。

しかしながら、眼球部位の神経は実際はまばらであり、感覚はとても鈍い。痛みは、それが取り返しがつかない行為だという知識がもたらすものなのだ。

もし死の覚悟を確固として持っている人間がいたとしたら、その苦痛は耳たぶにピアスの穴を開けることと変わりはない。逆に生にたっぷり執着を持った人々がその光景を目の当たりにしたなら。間違いなく、激しい嫌悪けんお感をもよおすだろう。

あるいは。顔の皮を丁寧に薄く剝いでいき、その下にあるものを標本のように露わにしていったら。

イマジネーションの外側にあるものをつきつけられた時、人は目をそむけることができなくなるものだ。

『i‐KILL』サイトの掲示板に、また、唐突な書き込みが現れる。

ぶたは皆自分だけは絶対に安全な場所にいると思っている。

>そして攻撃しても絶対に大丈夫なものを探している。

>お前は見た。

>彼女が、彼が、なぶり殺しにされるところを。

>その時すでにお前は姦淫を犯したのだ。

>お前は共犯者になったのだ。

新しい映像がアップされたのはその直後のことだった。

          *

そこはあなたが知らない部屋だ。けれど知らないということを、あなたは気にしない。

色の白い、太った男がイスに座っている。

あなたはその顔を正面から見ている。

あなたは気づく。それが鏡だということを。つまり、ここでの自分は、この男なのだということを。

あなたはその男になりきって鏡を見ている。鏡の中の自分をじっと見つめている。そんな映像なのだ。

その額の真ん中に、ビンディーのような小さな丸いものが光っている。超小型のCMOSカメラだ。

その顔に、手が伸びてくる。自分の手ではない。画面の外側に誰かいるのだ。その手が銀縁のメガネをそっと外す。その手の冷たさをあなたはありありと感じている。

どんよりと開かれた目に、美しく光るナイフが近づいてくる。

「急ぐかい。それとも、ゆっくりやるかい」

その声はあなたの耳元で響いているように聞こえる。

これから始まることを、あなたは知っている。それは見てはいけないものなのだ。

しかし、あなたは動けない。どうしても目をそらすことができない。

そういうものだ。