iKILL
1 猿は猿を殺さない
渡辺浩弐 Illustration/ざいん
ウェブ上に蠢く処刑システム「i-KILLネット」の管理人・小田切明の終わりなき“仕事”の果てに待ち受けるものは……!? シリーズスタートを記念して「最前線」のフィクションズページにて“期間無期限”で“完全公開中”!
1 猿は猿を殺さない
小田切明は檻の前に立っている。
鉄格子の向こう側に、小さな猿が1匹しがみついている。
鈍色の棒の隙間に顔を押しつけて、小田切のことを見つめている。
やがて白い歯を剝く。金属を爪で搔くような声で、けたたましく鳴く。
それは夢だった。小田切は夢をみながら、それが夢だと気づいていた。しかしそのことよりも、自分の中に湧き上がる怒りの方が重要だった。
猿の動きが、表情が、声が、むしょうにかんに障るのだ。汚らしい毛に包まれたその小さな体を両手でぐっと摑みたかった。首をへし折り、手足を引きちぎり、地面に叩きつけてやりたかった。
しかし猿は檻に守られていた。猿はそれを知っているのだろう。嘲るようにきいきい叫びながら鉄柵をひょいひょいよじ上り、尻尾で天井にぶらさがった。そして逆さまになったまま小田切を指さし、両手を叩き、また歯を剝いた。
背後から、笑い声が聞こえてきた。
小田切は自分の後ろに大勢の人々がいることを知った。檻のこちら側にいるのは、猿を見ているのは、彼だけではなかったのだ。
話し声や拍手も聞こえた。しかしなぜか振り返って見ることはできない。体が硬直している。
猿は天井を伝って四角い空間を一周すると、また小田切の顔前に戻った。隙間から手を差し込めば、届くかもしれない。しかし、そんなことはできない。背後から人々が見ているのだ。和やかに笑いさざめいている。猿は人気者らしい。
猿はピンク色の皺の中からぎょろりと丸い目玉で小田切のことを覗き込む。小田切は動けなかった。手を伸ばすことも、後ずさりして逃げ出すこともできない。猿の視線と、そして背後に控えた人々の視線が、粘り気のある糸のように体を押さえつけていた。
目が覚め、ベッドから起きあがっても、シャワーを浴び、汗を洗い流しても、夢のイメージはいつまでも体にまとわりついていた。夢はこの現実世界とは無縁なんだ、すっかり忘れて、なかったことにしてしまってもいいんだ。そう何度も自分に言い聞かせなくてはならなかった。
髪を拭きながら窓を開けた。よく晴れていた。視界の上半分には青々とした大空が、下半分には黒ずんだ街並みが広がっている。その対照は極端で、見飽きることがない。
13階建てビルの4階だが、周囲にはこの窓より高い建物はない。眼下には細い路地が不規則に走っていて、その隙間に小さな箱形の建物がぎっしりと立ち並んでいる。駅から少し離れていて、再開発から取り残された界隈だ。戦後の焼け跡に急ごしらえされた飲み屋街が、ほとんど形を変えずに残っている。
どの建物も壁はひびだらけで、ところどころをツタが覆っている。屋根はたいてい木の板やトタンでつぎはぎに補修してある。エアコンの室外機を載せたところもあり、そこだけがとってつけたように真新しい。
路地にむかって、色とりどりの、しかしどれも古ぼけ煤けた看板が突き出している。洋酒やビールのブランドロゴと一緒に美絵子とかユカリとかMARIEといった店名が書かれている。夜になると街灯もないこの路地が青や赤やピンク色の太文字で浮かび上がる。焼き鳥の煙が漂い、年老いたホステスの嬌声が上がる。そこにはまるで昔の映画の1シーンのような情緒が現出する。しかし今、日の光の下でその全体はとても安っぽく薄汚い。
昼を過ぎていた。ゆうべは明け方までパソコンに向かっていた。そして、ろくでもないページに目を凝らし続けていたのだ。それを思い出すとまた疲労がこみ上げてくる。
昨日のことだ。電話をかけてきた男は聞いたことのない会社を名乗った。広告代理店だという。クライアントのゲームメーカーが準備している新作ソフトについて相談に乗って頂きたい、という話だった。曖昧に返事をしていたら、では今すぐ伺いますと相手は言い、その1分後にはドアチャイムが鳴った。
銀縁の眼鏡をかけた、ぺらぺらした雰囲気の男だった。代理店なら営業によくいるタイプだ。ただ目つきは鋭かった。そしてイスに座ろうとしなかった。立ったままで、費用は512万円と伺っております、と言った。それで来訪理由が確かになった。小田切は、この部屋でなら何を喋っても大丈夫だ、と言った。
倍出します、と男は言った。小田切が黙っていると、少し難しい案件なので、と続けた。
そして1枚の紙切れを小田切に手渡した。http : ではじまる文字列がそこにあった。
受諾頂けるのであれば半額は持参しております。男は長い指で黒いかばんを撫で回した。
小田切は手を振った。値下げも値上げもしない方針だ。そして全額後払いでいい。
男は首を傾げた。しかし発注書も契約書も作ることはできません。
いらないよ。今どきそんなものは信用の裏付けにならない。小田切は立ち上がると壁際のプリンターから1枚の紙を取り出した。
ゆっくりとテーブルに戻り、その紙を置いた。反対側からそれを覗き込んで、男は眉を上げた。
生年月日、昭和42年5月8日。本籍地は、北海道か。……合ってるよな? 小田切は顔を上げた。これあんたの住民票だよね。
そのドアノブが指紋センサーになっているんだよ。
そちらは俺の身元も居場所も知ってるわけだから、これでフェアだ。
すっかり態度が変わった男が逃げるように去った後で、小田切は紙切れに書かれたURLをパソコンに打ち込んだ。いきなり画面がピンク色になった。無数の花びら模様が点滅している中に、メイド服の女が微笑んでいる。
読みにくい飾り文字で「瑠璃のお部屋」と、タイトルが出ていた。個人のホームページだ。このコスプレ女を殺せ、ということなのだろうか。
タイトルの下に、GALLERY、DIARY、PROFILE、BBS……と、これもまた読み取りにくい横文字アイコンが並んでいる。よくあるパターンだ。アイドル気取りの女の、自己顕示場所である。
一番上の「GALLERY」をクリックしてみる。その女がいろいろに変身を遂げた写真が並んでいる。制服、スクール水着、そして巻き毛のウィッグを着けてゴスロリファッション。
アニメやゲームのキャラクターになりきった写真もある。どの衣装も、かなりいいかげんに布や紙をボンドで張り合わせて作ったもののようだ。顔のメイクは、ジェル入りのペンで描いたものだろう。
どれも部屋の中で撮っている。そして、ほとんどの写真は目を見開いた顔を斜め上方から捉えたものだ。自分一人で撮っている、つまりデジカメを裏返しに持った手をぐっと伸ばしてシャッターを押した写真だ。そのアングルで強調された目をさらに大きく開けて、口は端だけを上げて笑っている。この撮り方なら、50歳の女でも体重100キロの女でも可愛く見えてしまうかもしれない。
お気に入りの顔はその1種類だけのようだ。衣装の違う数十枚が全て同じ表情で、まるでお面をつけているようだった。
「DIARY」のページに移る。ここにも同じ表情のコスプレ写真が飾られている。その中に「日記、あるいは瑠璃式ポエム」とある。写真の下で「0と1のシンデレラ、デジタルハートにきらめいて」という一行がちかちか点滅している。
そこからピントのぼけた画像が並んでいた。白い背景の上に赤の線が走る。濡れた紅白饅頭のように見えるそれは白い肌の上に幾筋にもひっかいたようにつけられた切り傷の写真だった。
スクロールしてみる。
「新しい刃/私は緊張する/赤い閃光/そしてきっと私は肉塊から人間になる」
「私の血なのになぜ私よりも温かいの/その血の中に私はしずむしずしずしずんでゆく」
「私の中の海に溺れたい/遠い遠い過去、私は海から来た/遠い遠い未来、私は海に還る」
そんな独り言のような詩のような散文に並んで、生々しい傷のついた手首や肩口、あるいは血に染まったカミソリの写真が並んでいた。
ネットに溢れ返っているアイドルのパターン。自分のような人間は一人だ、自分は一人ぼっちなんだと、世界に向けて大声で叫んでいる、そんな女が今は何千人も何万人もいて、見分けはつかないのだ。
これは仕事だからと自分を鼓舞しつつ、今度は「PROFILE」を開く。
HN・瑠璃 本名・中津田聡子 住所・東京都新宿区築地町……小田切は眉を顰めた。そこには23歳の女性の個人情報が露になっていた。住基ナンバーまで明記されていたから、小田切はすぐに公的個人情報データベースに入って照合した。顔写真も確認した。役所に登録された正面写真は化粧気がなく数段老けて見えたが、間違いなく同一人物だった。
小田切は考えた。これは、本人ではなく他の人間が彼女に対する嫌がらせとして作ったページではないか。
もしかしたら、さっきここに現れたあの依頼者か。俺にターゲットの個人情報を伝えるために、こんなふざけた報告書を。
まさか。あの男にそういう茶目っ気があるとはとても思えない。そして、これはインターネット上の普通のホームページである。検索エンジンにも引っかかってしまうような場所に無防備に置いてある。
としたら、この女はいわゆる「天然もの」なのだろうか。
ページをもう一度たんねんに調べてみる。
趣味の悪い造花のようなアイコン列の一番下が「BBS」つまり掲示板コーナーへの入り口になっていた。
クリックすると、これまでとは違い文字ばかりがぎっしりと並んだページが開いた。
彼女は人気者だった。
書き込みは「タイトルだけ表示」のモードになっている。
「新キャラ最高でフ」
「萌えろいい女っ!!」
「瑠璃りんマッチョ化計画?」
「応援しています」
と、この女へのメッセージらしきものがどこまでも続いていた。
モードを「全文を表示」に切り替えて、読み始める。
……瑠璃たん、新しい写真見ましたでフ。こんどはもえポポ疑惑の裏キャラ・りりんとはさすがはるりるりマニアック(をぃ)萌え〜(*ˆ_ˆ*)けどGOGOそーたは眼鏡ッ子LOVEなので委員長もよろしゅうに。
ファンの書き込みの後に、彼女からの返信が付いている。
……えへへ、瑠璃ね、じつは今もえポポけっこうハマってて、それでコスプレするならあんましひとのやらないのをと思ったのでりりんにしました。ってことで。
平易なわりになぜかうまく頭に入ってこない文章だが、とにかく読み進めることにした。タイムスタンプを溯る形でスクロールさせていく。
……夏だぜっ! 瑠璃りん去年の今頃は浴衣着てくつろいでたよなっ。今年は水着に大期待!! てか今日瑠璃りんんちに届いたデパートの包みってもしかおニューの水着? ビキニだったりしてドッキン。
……届いたのはね、こないだデパートの通販で買ったバスローブだよ。水着より色っぽいピンクのバスローブ姿をまずはご披露しますよ! そっか夏か。水着か。どうしよっかなあー。アイデア募集中ってことで。
……るりたんいつもみてまーす。きのうはずっと運動してたよね(ˆ ˆ)もしかして筋肉ぱんぱんパンプアップ(ˆ o ˆ;)ノに目覚めたとか? あの長い棒みたいなのも運動器具? なんか孫悟空みたいで激萌え!
……あれはウェストグルーブっていうの。必死にやってるとこ見られちゃったかな。ぅぅぅ恥ずかしっ。でも音楽に合わせてアレぶん回すと気分ソーカイなのら。成果が上がったらみんなにもオススメするね。
……52回目のカキコをさせていただきます。1週間も沈黙が続き、ちょっと不安になっておりましたが、でも一気に更新、もう嬉しくて顔がほころんでしまいました。瑠璃さん、いつも本当にありがとうございますm(_ _)m。リストカットの写真、綺麗です。でも切るとき、切ったあと、くれぐれも気をつけて下さいませ。ところでいつもビジュアルのことばかり書いてまいりましたが、瑠璃さんは文章も、とても素敵です。才能あると思います。本とか出されてはいかがですか。さて一つ気になったことは、新しくアップされたポエムに、『さびしさ』って言葉が2回も出てきています。お部屋に一人でいる時のお顔を拝見したら、確かに、お悩みがおありのようにも見受けられます。
……ごめんなさぃぃ。毎日ちゃんと更新しようと思うんだけど、なかなか、ね。文章ほめられるととくべつうれしいです。ふだん思ったこと、感じたことなんかを、できるだけすなおに書いていきたいと思ってます。それからリスカはもう生活の一部だから、大丈夫だよ。あと『さびしい』っていうのは瑠璃のキモチではなくてあのお話の中のネコ耳リリーのキモチなのです。瑠璃は元気だよ(ˆ‒ˆ)<
書き込みの常連は10人ちょっとといったところだろうか。瑠璃と名乗る女はそれらの一つ一つに丁寧にレスをつけている。
こういうサイトの場合、実際に書き込みをする人の20倍程度がROM、つまり読むだけのメンバーとしてほぼ毎日アクセスしてきているものだ。としたらこの女は200〜300人のファンを持つアイドルということになる。
新しい書き込みにはレスがそれぞれ一つずつついている。しばらくの間サボっていた彼女が、たまっていた書き込みに一気にレスをつけた直後だったようだ。
溯っていくと、古い書き込みの中にはレスに対してレスが、さらにまたレスが、と続いて長いスレッドになっているものもあった。
……ハーイ瑠璃ですよぉ。今日も元気にリスカしてます。今はハイテンションなんだけど。ゆうべは切りすぎて太い血管にあたってしまって血がいっぱいどびゅーと(¯^¯;)それ見ているうちになんかもうダメって思いかけたんだけど、右手だけでなんとかこのページ開いて、みんなの元気もらって、それで立ち直りました。
……アッキーです。みんなだって、るりるりに元気もらってるんだよ、きっと。ぼくは寂しい時はいつもここに来てるりるり見てそれで、持ち直しています。
……ありがとうアッキーさん。なんか体がイマイチ本調子じゃなくて、それでちょっと弱気になっちゃったのカモ。ブルブル。
……ブルブル? 夏なのに、風邪ぎみでフか? おだいじにー。
……ううん、違うんだけど。エアコンのちょうどいいとこ、わかんなくて。夏バテで食欲なくてあんまり食べてないってゆうのもあるかな。ダイエットにはいいんだけどね
(ˆ‒ˆ)そうだ、みんな夜エアコンの温度とか、どうしてます? 瑠璃、冷房苦手で、でもさすがにこのごろは暑すぎて夜中に目が覚めちゃうからついつけっぱなしにして寝たら寒くてつらくって。冷え性なのかナ?
……瑠璃さんは、もしかしたらプチ貧血ではないですか。くれぐれも水分はたくさん摂取して下さいませ。それから、どんなに落ち込んでいても切った後、血が止まらないうちに寝逃げしてはなりません。体温がどんどん下がってしまってそのまま((((˚д˚;))))ってこともあるらしいです。一人暮しの瑠璃さんがとても心配なルキオでした。あ、何かわからないこととか心配事あったら絶対、すぐに聞いて下さいませ! なんでも教えてさしあげますので。
……そうか、貧血なのかなあ。最近うまく眠れなくて、ちょびっとフラフラ気味の瑠璃です。怖い夢見て夜何度も起きちゃうの。それから、あーん、今朝からほっぺの赤みがとれないよお。ファンデ厚くぬるのイヤなのだけど。これじゃあ真夏なのに北国のりんご娘だよー(*́エ`*)
……えー、ほっぺ赤いの、かわいいぜぇ。源ちゃん的には、あり! だけどなあ。
……お久しぶりのカキコです。あのう、この件、ちょっと真面目にお答えしますと、もしかしたらお薬のせいかもしれません。瑠璃さんがいま主に飲んでいるお薬はプロザックでしたっけ?
……電電さん、おひさですぅ。昔はプロザックでしたけど、今はデパスがメインです。気持ちがほぐれるお薬らしいです。
……デパスは良いお薬ですけど、ほんの少しですが心臓の機能を不安定にしてしまうという説を読んだことがあります。副作用として睡眠障害があります。もしかしたら、ほっぺたのことも関係してるかも? 続くようなら、やや軽めのホリゾンっていう薬もありますよ。
……うーん、ぬるメのはイヤなんだなー。いいお薬ないかなあ。瑠璃は病院とか行かないから並行輸入で買えるものがいいなあ。
……横レス失礼致します。最近出回ってるものでは、リタリンがお薦めです。すごく気持ちが晴れるし、頭がすっきりすると聞いております。それから寝入りばなに幻覚見るような人にも効くとのことです。簡単に手に入ります。このリンク先をチェックしてみて下さいませ。
……ルキオりん、ありがとりん。リタリンためしてみるりん。
……お薬飲んでから寝た時のるりるりの顔ってすごく白くて眠り姫って感じで素敵! けど時には悪夢に震えてたこともあるんだね。ああ、治るといいなあ。悪い夢を食べてくれるバクがいるといいね!
……瑠璃です。早くもリタリン手に入ったりん。きかないなあと思って6錠も飲んじゃったら、いきなり周りがバラ色に見えました。こんなの初めて! なんつーか勇気りんりん。ところがそれから寝ようとしたらすごく気分が悪くなって、戻しちゃいました。うー。
……うー、まだぐあいがわるーいです。
……うう、だめだめです。ODのせい?
……ううう。薬、合わなかったかも。
……瑠璃さまはUFO茶をのめばいいとおもいます。元気になりますし、きっともっとスターになれります。もしぼくにまかせたくれたら、ぼくはCIAとかにコネがあるからとりよせたげられます。
……緊急カキコです。瑠璃さん、取りあえずたくさん水を飲んで下さい。もう起きれてるんだし、あとは脳に水分が行き渡ると気分は治るはずです。
……瑠璃さんもしかしたらリタリンが切れないうちに別のお薬を飲んだのではありませんか。
……あたり。そのとおりでーす。だってデパス残ってたから。これって大失敗?
……やはりそうでしたね。デパスは安定剤。精神を鎮める、ダウナー系のお薬です。リタリンは逆に興奮剤、アッパー系なんです。効き方が全然違うんですよ。コーヒーとお酒を一緒に飲んでるみたいなものだから、それはちょっとつらいかも。
そんな感じでやりとりはだらだらと、延々と続いていた。小田切は大きく息を一つ吸って、吐いた。
ここに集まってきているファンはどういうタイプなのか、考えを巡らせる。性別はよくわからないが、男性ばかりというわけでもないようだ。この女同様にリストカットや薬物に陥っているわけではなさそうである。しかし皆、女のことを全面的に肯定していて、なんというか、わがままな姫君の相手をする老侍従のようだ。そしてどんな質問にもためらわずに答える。
しかしその返答はもっともらしいようでいてどこか厳密さに欠けている。薬の話題にしてもリストカットの話題にしても、自分でやっているわけでもないのにまるでいっぱしの権威のように語る。きっとその場で検索した情報だろう。なのに、もともとなんでも知っているような口振りで、自信たっぷりに語る。まるで自分が1000年も生きてきた賢者であるかのように。
細かい内容を読み取っていくことは放棄して、それから小田切は画面を高速でスクロールさせた。「大ニュース!!!!!!」というタイトルの書き込みが目に留まった。女自身が記したものだ。彼女はそれを赤の大文字で表示していた。
……瑠璃でぇす。もしかしたら瑠璃、ゲームに出るかもしれません。ていうのは、これから発売される新作ギャルゲーの中にネットアイドルのキャラがいるんだけど、その子のCGは瑠璃の顔をモデルに作られてて、そっくりなんだって。内部の人からちくりメールもらっちゃった。詳しいことわかったら、お知らせするね。
……それってもしかして映画やテレビドラマにデヴュ〜するよりずっとすごくね?
……わーいわーいわーいわーい! 瑠璃たん全世界デビューおめ! どんなゲームなんだしょ楽しみでフでフでフ!! あっ、格ゲーだったらそーた苦手でフ。でもぎゅわんばる(⊘ˆoˆ⊘)/
……そっか、だから最近のるりたんいつもにやけてたんでしょ。ニャニャにゃ〜〜〜〜んo(ˆoˆ)o
……でもスターになっちゃってもるりるりはるりるりのままでいてね。
……瑠璃さまこんどゲームになるんですか。スーパーマリオがいいです。ぼくは4めんまでならいけます。
その書き込みは特に反響が大きく、何十ものレスをぶら下げていた。
他のスレッドと雰囲気が違う。その文字列だけは、外の世界と繫がっているように思えた。これだ、と小田切は呟いた。
こんな女を、わざわざプロに依頼して消そうとしている人間が存在する理由はこのあたりにありそうだ。
タコツボのように閉じた世界の中で、彼女とその取り巻きは幸せなはずだった。ところが、ふとしたはずみにその小さな王国から長い触手を出してしまった。それが「世間」の誰かに障ってしまったのではないか。
小田切は通常の書き込みからもほのかに違和感を感じるところがあった。画面の文字列を最初から読み直してみた。
おかしい部分が、明確になってきた。
「今日瑠璃りんんちに届いたデパートの包みって」
「きのうはずっと運動してたよね」
「あの長い棒みたいなのも運動器具?」
「お部屋に一人でいる時のお顔を拝見したら」
「最近のるりたんいつもにやけてた」
……見ているということか? 小田切は首を捻った。
文体はなごやかで楽しげだが、これはちょっと普通ではない。こいつらは、単なるネットアイドルのファンとは違う。この女の私生活の全てを見張っているのだろうか。ストーカー以上の熱心さで。
待てよ、と思いつき、もういちどトップページに戻った。愚にもつかないコスプレ写真の下に、GALLERY、DIARY、PROFILE、BBS……とアイコンが並んでいる。スクロールすると……さらにその下があった。ページの最下部に太いバナーがあったのだ。
オレンジ色の四角形の中に「瑠璃ちゃんの、おそばに!」という文字が白く抜かれている。その脇に「インターネットかていほうもん」と丸文字のロゴがある。
クリックしてみる。画面が切り替わり、色彩がいきなりどぎつくなった。大きなロゴのあとに、生々しい女性の裸体の写真が次々に現れた。赤や黒の太文字で、「ただいま放映中! 秘密のプライベートルームから」「彼女を覗け!!」と、煽り文句が続く。
一目瞭然、アダルト系の有料サイトのトップページだ。
「今すぐ入会」「今なら1時間分無料」という文字が抜かれた矢印の下に、バナーがずらりと並んでいる。「久美子のお部屋」「るみのお部屋」「利香子のお部屋」……それぞれ女性の顔写真が入っている。それらのもの悲しいけばけばしさが、場末のスナック群を想起させた。
「潤子のお部屋」「サチエのお部屋」「くるみのお部屋」「瑛子のお部屋」「南恵のお部屋」「瑠璃のお部屋」……瑠璃。それがさっき見ていた女の顔写真だった。
クリックすると、画面の中央に四角い窓が開いた。
ベッドの上に下着姿の女性が寝そべっている。今は静止画だが、その下の「入会する」をクリックして手続きをすれば動画を見られる、という仕組みだ。
小田切はモニターに顔を近づけて確かめた。やはり、あの女だ。中津田聡子とかいう本名の。
小田切は「入会する」を押した。パスワードをハッキングしてタダで入り込もうかとも考えたが、ここでリスクを冒す必要はない。
小田切は足跡に自分の個人情報を残すことには極めて神経質だったが、こういう時のために匿名の口座やクレジットカードを持っていた。
カードのナンバーを入力して入会手続きを済ませ、まずポイントを1000円単位で購入する。
カメラは女の暮らしている部屋をずっと映し続けていて、100円分のポイントで1分間、その映像を見ることができるということらしい。つまりインターネットを使った覗き小屋だ。
部屋の真ん中にベッドが据えられている。女はそこにいた。上体を起こして、雑誌を読んでいるようだ。黒いキャミソールから、右側の乳首が少しはみだしている。太い腰の部分は布地が伸びて張っている、その下から生足がにょっきり出ている。太股にはところどころ、かきむしった虫さされの跡のような赤斑がある。
カメラはその姿を斜め上方から捉えている。
さっきのページで見た、ネットアイドル「瑠璃」の写真とは違い、この映像はとても生々しかった。
女は落ち着きがなかった。雑誌を読みながら手を一本ずつ上に上げて伸びをしたり、足をゆすったり、そのたびに太股や二の腕の白い肉がたぷたぷ揺れた。顔を中心に上の方から撮った写真ではよくわからなかったが、女は太っていた。画像はかなりクリアだった。枕やシーツの上に残った毛や、ベッド脇の床に散らばったパンや菓子の食べかすまでが見てとれた。
画面の下部に1から6まで数字をふったボタンが表示されていた。クリックすると、この女を見る角度が変わる。
カメラはその小さなスペースに6個も設置されているということだ。アクセスしている間、それらの視点をスイッチングできる仕掛けだった。
ベッドを上から見下ろす。真横から捉える。奥のバスルームのドア。テーブルの周辺。
そして天井の隅に設置されているらしき広角レンズからは、彼女の生活空間のほぼ全体を見渡すことができた。ワンルームマンションだった。部屋の家具は白で統一されていた。右側に玄関。左奥がバスルームの扉のようだ。中央のベッドの向こうには、簡素な丸テーブルがある。その上には鏡と、白のiMacが立ててある。
テーブルの上、彼女が鏡やパソコンに向かっている時にその上半身を見られる位置にもカメラは設置されていた。
女は雑誌をぽいと放りだし、立ち上がった。
それだけで思わず身を乗り出してしまった自分に気づき、小田切は独り苦笑いした。女の腕や肩が見えた。傷がある。
小汚い部屋。そんなに器量もよくない女。そこで何の事件も起こらずに流れていく時間。なのに、大迫力の映画を観ている時よりも、素晴らしい演奏に聴き入っている時よりも、その小さな画面に熱中している自分がいる。これは一体どういうことなのだろう。
同じように多くのファンが、今この女をじっと見つめているはずだ。
女は下着姿のままで、ベッドの下からダンベルを取り出し、両手にぶら下げて立った。そして体操らしき動きを始めた。それはいかにも唐突で不自然だったが、小田切は納得できた。
女は無数の視線を意識している。せっかくの生放送が、じっと寝ているだけでは静止画と同じことになってしまうと、わかっているのだ。だからこうして、できるだけ動くようにしているのだろう。
自分の場合は、仕事なのだ。だからこんなに集中しているのだ。小田切は自分の状況をそう説明しようと試みたが、一方でそれは噓だとわかっていた。もっと単純に、のめりこんでいたのだ。この女のだらけた姿に。
画面左端の黒いバーが短くなっていることに気づいた。これが残りポイントということらしい。
それでずいぶん時間が経っていることを知った。1万円分のポイントが、もう半分くらいなくなっているのだった。
この調子だと数万円はすぐに消えるだろう。もっと可愛くてもっと若い女を、もっとクリアな画像で見られる方法は他にいくらでもある。いやそれくらいの金を使えば、もっとましな女をじかに見ることも触ることもできるだろう。
しかし、こちらに熱中する人々の気持ちが小田切にはわかる気がした。人間の脳は、欲望は、とても複雑なのだ。
せいぜい「中の下」くらいの容姿なのに。何の芸を見せてくれるわけでもなくただだらだらと過ごしているだけなのに。小田切はこの女を見続けて飽きることがなかった。
バカか俺はとつぶやいておしまいにしようとした時、服を脱ぎ始めたのでさらにまた見続けるはめになった。食い入るようにその乳や尻を見ながら、果たしてこの女の裸を見たいのかと自問した。
女はバスルームの扉を全開にしたままシャワーを浴び始めた。サービスなのだろう。
ばかに明るい照明のもと、彼女の裸を拡大していくと陰毛の一本一本までがはっきり見えた。
女は時間をかけて全身を無意味なほどたんねんに洗った。
結局、女がベッドで眠り始めるまでその画像を6時間も見続けてしまった。
1分100円で、1時間6000円。小田切は既に6時間を費やしていた。3万6000円使ったことになる。
もういちどトップページに戻る。ここを見たのははるか昔のような気がする。やはり「女性募集」のバナーもあった。クリックすると水色をベースにしたシンプルなページになった。
「誰にでもできます」「機材と回線は全てこちらから提供」「時給3000円〜」「お部屋の用意もあります」「親元から独立のチャンス」……そんな宣伝文句に続き、実際にこの仕事をしている女性達の体験談が並んでいる。「寝てるだけで儲かるなんて」「ヒッキーのあたしでも超OK」「風俗で働いてたあたしってなんてバカ!?」……
カメラをオンにしておく時間帯は各自で決められ、最初はまずそれに応じての報酬がもらえるということらしい。さらにカメラの前で指定された行為をすることを承諾すれば、100円単位で時給が上がっていく。オプションのリストは「下着姿になる」から始まり「全裸になる」「シャワーを浴びる」「ひとりエッチをする」など。また〝視聴率〟に応じて支払いを受けられるというコースもあった。
小田切はいったんそのサイトを出ると、検索エンジンに行って「覗き」「部屋」「ライブカメラ」といった言葉を打ち込んでみた。同様の商売を行っているサイトは非常に多いということがわかった。
小田切はそれらのサイトについてたんねんに調べていった。
しかしやがて、妙な息苦しさを覚えた。
自分がいるべき場所にいないという、そして何かとても重要なことから取り残されているという焦燥感。
駆け込むように先ほどのページに戻り、あの女の部屋の映像を開いた。女は寝ていた。さっきと全く変わらない風景。ボリュームを上げると、寝息が聞こえた。それを確認して、小田切はふうと息を吐いた。
それからやっと、自分の行動に気づいた。一体ぜんたい、と小田切は呟いた。何をやってるんだ俺は。
ネットアイドル。ぱっとしない生活を送っていたさえない女が、パソコンを手に入れる。ネットで個人ホームページを開いて、書くこともないので自分の写真を公開してみる。そしてたまたま訪れた人々に丁寧に対応する。気をよくした来訪者とひんぱんにやりとりをかわすうち、自分を必要としている人達がいるのだと勘違いすると、暴走が始まる。肌を露出した写真を出してみたり、珍妙な詩を公開してみたり。ついてくる人間だけを相手にするので増長は止まらない。いつの間にか、タレントにでもなった気持ちになっている。よくあるパターンだ。
もちろんプロのタレントとは違う。あらゆる要素で劣っている。しかし器量や才能は、ネットでは必要ない。ファンの数も、直接やりとりするのなら数十人もいれば十分である。東京ドームに1万人いるより、道端に数十人いるほうが大騒ぎに思えるのだ。
プロとの相違はもちろん、それだけではない。決定的なのは、儲からないことだ。いくらファンが集まってきても、彼らがいくらほめたたえても、それは一銭にもなりはしない。
しかし、それは小田切の認識不足だった。知らないうちに、立派なビジネスモデルが成立していたのである。
彼女らの表の顔は、ネットアイドルのページで露出される。
そこに集まってくる人々はまるで清純アイドルのファンのようだ。ファンレターがわりに掲示板に好意を書き込む。すると本人から丁寧な返事をもらえる。可愛いアイドルを中心にした、素敵な集いの場なのである。
そして、そこが入り口になって、さらに深い世界に入っていくことができるのだ。
そんなアイドルの私生活を、生の姿を、覗き見することができる場所に。
最初のアイドルページで常連になってしまったらここに入会せずにはいられない気持ちになるだろう。
ただしそこまで潜ると、以降は金を取られる。1分100円なり。
そこで経済が成立するわけである。
はまりこんで金を落としていく人間がどれほどいるのか、小田切には見当もつかなかった。ただし入会ページでは、「瑠璃」の他に十数人分の女性名があった。
これは結構大きな商売なのかもしれない。
彼女が全ての個人情報をさらけだしている理由も、わかった気がした。
ここまで顔をはっきり出していれば、どうせ調べられてしまうからだろう。住所まで知られてはストーカーがつきまとったりしないのか、覗かれでもしたら、という心配もナンセンスだった。彼女にはそもそもプライバシーなどないのだ。私生活を24時間、あからさまに公開しているのだから。
彼女のことを好きになったら、ストーキングしたくなったら、一番安上がりで簡単なのはサイトに入会することなのである。
ではもし、どうしても直接会いたくなったとしたら? その住所に行く、ということもできるだろう。マンションの部屋番号までがはっきりと明かされている。あの映像が現実として確かにそこにあるはずだ。行くのは簡単だ。そして、無理矢理中に入り込んで彼女に襲いかかることも可能と思われる。しかし、その様子の一部始終は、ネットを通じて全国に生中継されることになる。
つまり、全てをさらしていることが、彼女のセキュリティーになっているのだ。彼女は鍵を開け放している。そのことが何より堅牢な施錠の役を成している。彼女はどんな淫売よりもしどけなく生活と肉体をさらけだしている。そのおかげで、彼女の純潔は守られることになるわけである。
他の部屋もいくつか覗いてみたが、24時間休みなく放映を続けている女はほとんどいなかった。
その日じゅう、さらには翌日も、小田切はずっとその女「瑠璃」を観察し続けた。
ただ漫然と見ているだけでなく、彼女の体や持ち物を徹底的に調べ上げた。画面は精密で、拡大すると、彼女が読んでいる雑誌の活字までが判読できるほどだった。彼女は大半の時間を、およそ不似合いなギャル向けファッション雑誌か、もしくは青年マンガ誌をめくって過ごした。キャミソールやベビードール、あるいは大きなサイズのシャツを着て、下半身は下着姿の尻が剝き出しのことが多かった。コスプレ衣装に着替えて写真を撮っているところも見た。そして夜シャワーの後はテディベア柄のパジャマだ。
高そうなブランドバッグをいくつも持っていることもわかった。それからピアスやネックレスや指輪を大きな菓子箱いっぱいにためこんでいることも。それらを身につけて外に出かけることはなさそうだったが、時々、標本のようにテーブルに並べて眺めていた。テーブルにはその他に色とりどりのコスメ類がいつも散らばっていた。
小さな電熱コンロとシンクだけのキッチンスペースの隅にダストシュートがあり、ゴミは全てそこに放り込んでいた。タオルや下着もどんどん捨てていた。洗濯はしないようだ。シンクにはディスポーザーがあり、生ゴミ類はそこに流してしまっていた。
そんな部屋のチャイムが日に数回は鳴った。宅配業者だ。女は生活に必要なものすべてを宅配サービスや通信販売で調達していた。配達人と顔を合わせることはなかった。ドアがいくら叩かれようが無視を決め込み、しばらくたってから玄関の方にいって、ごそごそとポストを開けて届け物を取り出していた。
食事も、そうして受け取ったものだけで済ませていた。それもほとんど菓子類だった。袋を開けてはスナックやケーキを次から次にむしゃむしゃと食べ、ジュースで流し込む。
食べ、飲みながら、たいていパソコンをいじっていた。パソコンの画面も見えたが、いつも、自分のホームページを開いているようだった。新しい写真を載せたり、掲示板の書き込みにレスをつけたりしているのだろう。
彼女は一切、外出しないスタイルを確立しているのだった。完全なるひきこもりだ。
大勢のひきこもりたちが、ひきこもりのアイドルをじっと見つめている。
2日目の昼に届いたのは、フェデラルエクスプレスの封筒だった。ネットを通じて海外から取り寄せたものらしい。
彼女はその中からビニールの包みを取り出すと丁寧に開けた。白い錠剤をそこから小さな瓶に移し替えた。枕元の棚には同じような瓶が10本以上も並んでいた。
1時間に1回程度のペースで瓶を選ぶと蓋を開け、クスリを飲むのが女の日常だった。
シャワーを浴びてパジャマに着替えるあたりの時間帯からそのペースはどんどん速くなっていく。そして目がうつろになっていくのだった。
その夜、そんな状態の彼女が手首を切るところを目撃した。
どんよりとにごった目で、口を半開きにしてふらふらと立ち上がり、パジャマを脱いだ。ブラとショーツだけになると、引き出しからカッターナイフを取り出した。
手首に当て、何のためらいもなく引いた。
宙を、細く赤い線がびっと走った。そして間をおいて、血しぶきが、噴水のように激しく噴き出した。
それはカーテンに花びらのような模様を描いた。
つ、と小田切は思わず声を出した。
それから息を吐き、額の汗を拭った。
彼女のことなど好きではなかったし、共感していたわけでもなかった。ただ、その存在に全身で没入してしまっていたのだ。だからその手首の痛みをそのままリアルに感じてしまった。
一方、画面の中の女の方は平然としていた。痛みをまるで感じていないように。
小田切の立場ならば、手首を切ったのならそのまま出血多量で死んでしまえばありがたい、と思うべきなのだった。
しかし彼女が二の腕を髪留めのゴムで縛り止血に成功するまでを見届けて、心底ほっとしていた。掌には汗をかいていた。
自傷女はなかなか死ぬものではないということは知っていた。ネットアイドルには手首や肩を切ってみせる女が多いということも。
彼女の場合も、これが売りの一つになっているのかもしれない。それが意識的にであれ、無意識のことであれ。
その後、彼女は血みどろの右手を股間に差し込み、動かし始めた。白いショーツもすぐに赤く染まった。
結局彼女は血にまみれて眠りについたが、翌日起きるとすぐに汚れたシーツもカーテンも片づけたようだ。どんな顔をしてその作業をこなしたか小田切は見損なった。テーブルの上に茶色い瓶と脱脂綿があった。傷口の消毒に使ったオキシドールかエタノールだろう。
せっかく替えたカーテンだが、この部屋では壁紙とかわりはしない。窓を使わないからだ。
この女は何もしていない。と同時に、この女の全ての行動は、生産的なのである。一挙手一投足は、それを見つめている会員達からの収益に変わるのだ。
すなわちこの女の仕事は「生きる」ことなのである。
そして彼女の生活は小さな画面にすっぽり入るその小さな部屋の中だけで完結している。
以前デパートで見かけたインテリアグッズのことを小田切は思い出した。「ミニ地球」とかいうものだった。密閉されたガラス球の中に水と水草と小さなエビが入っている。エビは動きまわっているし、水草も青々としているが、ガラスは完全に密閉されている。
これで光だけ当てていればエビも水草も生き続けるのだ。エビは酸素を二酸化炭素に換える。それと全く同じペースで水草は二酸化炭素を酸素に換える。エビは水草を食べ、有機物を排泄する。それが水草の栄養になる。……と、その閉鎖空間で完璧なサイクルがいつまでも続く、というものだった。
そんなふうにして数日が過ぎた。我に返るたびに無為な時間を過ごしているような気がして、小田切はいらだった。
だが……通常はターゲットの個人情報や生活パターンを調べ上げるのに何週間もかけることも多い。そうして得た情報が正確かつ完璧な任務遂行に大いに役立つのだ。
それがもうすっかりわかってしまったではないか。やってることは無駄ではない。そう自分に言い聞かせる。
いや、と、もう一人の自分が答える。
彼女は特別だ。そのプライバシーをいくら知っても、意味がないではないか。
依頼を持ってきた男は、難しい案件と言っていた。その意味がわかった。
求められているのは、完全密室殺人なのだ。
カメラ越しに彼女を見ている人々がいる。24時間の護衛がついているようなものだ。
殺すのは簡単だ。忍び込んでいって首をかっきる、という乱暴な方法も、やればできる。しかし、その一部始終は見せ物として全国に、いや全世界に放映されるわけである。
そして殺害の瞬間は、スクープ映像として彼ら監視員のパソコンからあちこちに発信されるだろう。それは数時間のうちにネット上で何千、何万倍にも増殖していくはずである。
実行犯は一夜にして世界的な有名人になれるというわけだ。
では、回線を切断してしまうというのはどうだろうか。放映を中断して、その間にやって、逃げる。
無理だ。金を払っているネットユーザーはとてもわがままだ。画像がブラックアウトした瞬間に運営会社に抗議が殺到するだろう。
運営会社はできるだけ早く映像を復旧させようとするはずだ。
部屋に様子を見に来るスタッフもいるかもしれない。彼女たちのセキュリティーに関してある程度の配慮はあるはずだ。会社の事務所が、同じマンション内に存在するという可能性も、低くはない。
暗闇にしてしまうという方法を考えてみる。
彼女は眠る時も明かりを点けたままにしている。しかし真夜中にビルの電気系統にトラブルが生じて、その明かりがしばらく消えてしまったとしても、不自然ではないだろう。
彼女が住んでいるマンションに出向き、配電盤をいじるまでは簡単だ。丁寧にやれば彼女の部屋だけの電気を止められるはずだ。
ドアの鍵を開けて、チェーンを切断して侵入する。暗闇でも、部屋の中の様子は把握しているから大丈夫だ。床の上の障害物を器用に避けて歩くことさえ、できる自信がある。
殺し方はいろいろある。ただ暗闇の中で手や体を洗うのは難しいから、血が飛び散らない方法に限る。体の自由を奪ってから窒息させるというのが最善だろう。
そこまでは、うまく行くだろう。誰にも疑われずに。
しかし、問題はその後だ。彼女の死は必ずすぐに発覚する。そして捜査が始まれば、死亡時刻前後のマンション周辺の監視カメラの映像は全て詳細にチェックされる。
なにしろ、事件現場で殺した以外に考えられない。犯人は百パーセント、その時刻にその場に来ている人間だということが明々白々なのだから。
その網をくぐりぬけるのは至難の業だ。
彼女の部屋に届く食べ物をすり替え、毒を盛るという手もある。彼女が口にする全てのものは、箱詰めされ伝票を貼り付けられてあの部屋に届く。隙を見てすり替えるか、配達人を買収するか。
どちらも賢い方法ではなかろう。証拠が残りすぎる。
小田切の仕事は、ターゲットが一人になる時を待ち、かつ監視カメラや防犯カメラの死角に入る瞬間を見計らい、素早く済ませることを旨としていた。生命活動の停止を確認したら即刻その場を立ち去る。そして決して現場には戻らない。
その流儀が、今回は通用しない。
以前見た夢の意味に小田切は気づいていた。
彼は、見物客に囲まれた檻の中にいる猿を殺そうとしているのだった。
掲示板の方は、相変わらず賑わっていた。
……ゆうべ、るりるりの寝顔ずっと見てました。ときどき、にこにこ笑ってました。寝言いってるとこハッケン! はっきりとは聞こえなかったけど、おいもにバター、って聞こえた気がします。かわいかったよ! ね、悪い夢とか、もう見なくなったんでしょ。
……きゃー瑠璃って寝言いっちゃうんだよね。はずかすぃー。あんまり聞かないでー。
……今朝食べてたのって、チョコレートケーキでフよね? 超おいしそ)ˆoˆ(。そーたもヨダレたら〜でフ。どこのお店の?
……神戸の難花屋っていうお店です。楽天にあるよん。
……お部屋の模様替えしたのかな、と思ったけど、カーテンを水色にしたんすね。いっす超いい感じっす!
……そうなのです。カーテン変えただけで部屋全体のふんいきが変わってびっくりです。
……瑠璃さまは幹部こうほ生だからもうそろそろUFOそうじゅうのくんれんしないんですか。
……いいなあ、UFO乗ってみたい。まだ無理みたいです。でも、いつかきっと宇宙とかに行ってみたいです。
彼女は大勢のファンに慕われ、そして彼らに対して存分に慈愛をそそいでいた。白雪姫を囲むこびと達という感じだ。こびとは7人ではなくもっといるかもしれないが。
新しいカーテンがしばらく話題になっていたが、誰も、前のカーテンがどうなったかを言い出さないのだった。血にそまったあの淫猥な光景のことも。
チョコレートケーキのことと錠剤のことが等価に語られる。
そしてそのクスリを飲んでからのことは話題にはならない。手首を切った後で彼女が延々と行っていた自慰行為のことも。
誰もがいちばん熱心に見ていることを、誰も言い出さない。彼女のことを処女のように、天使のように扱っているのだった。
それは不思議なことではない。彼女も、彼女を見つめている大勢の人々も、きっといくつもの現実を持っているのだ。
その日も小田切は出かけずにずっと画面を見続けていた。
夜中になると、彼女はまたクスリを飲み、手首を切り、自慰を始めた。
小田切は掲示板のページを開いた。文書作成用の白い枠の中に「中津田聡子さん、あなたは毎日オナニーしてサルみたいですね」と打ち込んでみた。
これを実際に書き込んだら、お姫様とこびと達はどう反応するんだろう。
そう考えたら胸が高鳴った。
しかし、どうしても「書き込み」のボタンが押せない。
そこにカーソルを置いて、マウスに指を乗せる。
しかしクリックすることが、指をたった1ミリ動かすことが、どうしてもできないのだった。何か見えない力で留められているように感じられた。
もしかしたら、と小田切は思った。
俺も、もう檻の中にいるのかもしれない。
その夜、また夢を見た。
猿。あの猿が登場していた。
すぐ目の前にいたけれど、やはり手を触れることはできない。
気づくと猿は腕組みをしていた。
小田切は腕組みをしてそれを見ていた。
ふと小田切が自分の頰を触ると。
猿はわざとらしくその真似をした。
髪をかくと、頭の同じところをかいてみせた。
むっとして小田切が手を振り上げると。
猿も手を振り上げた。
その時、小田切は気づいた。自分の足下にナイフがあった。
小田切はそれを拾い上げた。
見ると、猿も手にナイフを持っている。
小田切はナイフを自分の首に当てた。
猿も同じ所作をした。毛むくじゃらの細い首に、銀色の刃が光った。
小田切は、自分の首の上でナイフを思いっきり速くすべらせた。実際には首に触れさせずに。
どば、と音がした。
目の前で猿が喉頸から血を噴き出していた。
目が覚めてからもしばらくそのままベッドにいた。起きあがると内容を忘れてしまいそうな気がしたからだ。
夢には意味がある。人間が意識して考えていることよりも、無意識のうちに考えてしまっていることの方が重要だ。一人の人間の脳は、いまだに世界最大のコンピュータよりも高度なのである。
女は携帯電話さえ持っていなかった。パソコンの画面を開いていても、自分のホームページ以外を見ることはないようだった。人とコミュニケーションをする場は、そこだけなのだ。
彼女は森に逃げ込んだお姫様なのだ。家族も友達もいない。会話をする相手はこびと達、ホームページにやってくるファン達だけ。彼女はそれで十分なのだ。
彼女はとても小さな王国を作り上げて立てこもっている。その中には彼女を愛している、そして彼女が愛しているもの達だけしか存在しないのである。
そこに毒リンゴを届ける、方法。
まずは失敗を覚悟で「瑠璃のお部屋」も所属している「インターネットかていほうもん」サイト運営会社の管理人にメールを送った。この仕事に応募している女性を演じて、容姿をアピールする写真を添付した。そのデータに、ウィルスを仕込んでおいた。
一方でサイトの解析も始めた。外側からサイトの一部を改竄することによって、アクセスしてきたユーザーを別の場所に、それとわからないように引き込む技術がある。それが可能かもしれない。
苦労していると、リン、と着信音が鳴った。メールが入ってきた。
管理人のパソコンに潜り込んだウィルスが、自動発信してきたものだった。管理人は何の疑いもなく画像データを開き、感染してくれたのだ。
こうなれば、サイト改竄は必要なかった。後は簡単だ。
ほどなく小田切は、管理人のパソコンをまるで自分の目の前にあるかのように遠隔操作できるようになった。そこを経由して入り込むと、思った通り、サーバー上のセキュリティーはないに等しく、それ以降はまる裸のデータを小田切は自在にいじり回すことができた。
「瑠璃のお部屋」の有料会員数は28名だとわかった。あまりの少なさに小田切は驚いた。しかし28人でも、彼らが一人あたり月に10万使えば月商は280万。彼女にはその半分程度は支払われているはずなのだ。
小田切が試みていたのは、双方に気づかれないように、ファンと彼女を分断する方法だった。
まず、彼女専用のページを作った。いつものように自分のホームページにアクセスしようとすると、自動的にそこにとばされるように細工した。写真も文章も、掲示板の書き込みもそのままコピーしていて、見かけも中身も今までのものと全く同じだ。だから、別の場所だと気づかずに、以降彼女はそこに書き込みを続けることになる。
そのため本物のサイトの本物の掲示板に彼女は登場しなくなる。しかし彼女が気まぐれで数日間書き込まないのはよくあることのようだ。しばらくは誰も気にしないだろう。
次に、彼女の部屋からファンに送信される生放送の映像を中断した。
単に止めたのではすぐに気づかれる。そこで生映像の代わりに、録画映像を流すことにした。
小田切はこの数日間、その部屋に設置されたカメラ全6台の映像を全て、録画していた。
生の映像を止めて録画済みの映像を流し始める、その切り替えのタイミングが難しかった。部屋はずっと明るいし、ログを確認すると一人もアクセスしていない時間は存在しなかった。いつでも、28人のうちの誰かしらは目をこらしてこの風景を見つめているのだ。画面がいきなり切り替わると、間違いなく気づかれてしまうだろう。
これは堂々とやるしかない。そう思い小田切は彼女がいつものダンベル体操を始めた時、数十秒にわたって画面にノイズを走らせた。そして戻った画面に、録画映像を流し始めた。同じパジャマで同じダンベルを持って動いている女。
会員は、今の彼女だと思って1週間前の彼女の様子を見続けることになった。
誰か、気づく者がいるだろうか。起きて、食べて、寝て、裸になって、シャワーを浴びて、手首を切って、自慰をして……と、毎日ほとんど同じ行為を繰り返している彼女の映像について、一度見たものであるということに。
重要なのは、ここからだ。
彼女は、彼女専用の偽掲示板にアクセスを続けている。書き込みもするだろう。だが当然、そこにファンが来ることはない。
だから、小田切はそこで、常連のファン全員を演じる必要があった。それぞれの文体を真似て書き込みをするのである。
新しくスレッドを立てるのではなく、他の話の流れから誘導することにした。女の最新の書き込みに「最近マンネリ、なんか面白いことないかなあ」という一文を見付け、それに反応をしたふりをして、常連の一人に成りきって書く。
……瑠璃さんはネコップとかには興味はないんですか。とても新鮮な気分になれるし、美容にもいいって評判です。
……あー、いいかも。気分よくなって、美容にいいなんて、まるで瑠璃のためにあるようだといえよう(笑)。
彼女はそんな適当なレスを返してきた。小田切はさらに別の常連のふりをして次々と書き込んだ。
……やったーなり。ネコップでのーみそキラリン☆(oˆ-ˆ)、瑠璃たんリニュー、って感じでフ。きっとかわゆーくなるんだろなあ。
……ワォウ!! 最近ちょいマンネリ化? ってかんじの瑠璃りんライフがニューバージョンに入るぜ! 超楽しみ! いつから?
……ネコップ、大賛成です。誰かが、頭に穴をあけて冷たくてきれいな風を吹き込んだ感じ、と言っていました。とても前向きな性格になるとか、発想のスケールが大きくなるとも言われています。瑠璃さんの場合はどうなるのでしょうか、ぜひ感想よろしくお願いいたします。
しばらく時間が開いたが、彼女はしぶしぶレスしてきた。
……ええと、ネコップの詳しいこと、知ってる人がいたら教えて下さい。やってみるにあたっては、やっぱりちゃんと知っておきたいので。
予想通り、彼女には、ネットの検索エンジンなどを使って自分で調べようという発想は、なかった。
……電電です。横レスすみませんが、ネコップの詳しいやり方なら、僕に任せて下さい。タオルを使うのが確実です。タオルの両端を結んで、輪っかにします。それを首に掛けてどこかに吊るんです。ただしクビツリジサツと違うのは、低い場所に引っ掛けることです。床に座った状態で、頭の少し上くらいの位置に引っ掛けます。そして、体の力を少しずつ抜いていって、首に体重をかけていきます。だんだん気持ちが良くなっていきます。そうだ瑠璃さんのお部屋なら、バスルームのドアノブがちょうどいいと思います。
それから、女のレスを待たずにたたみかけた。
……わーい、るりたんってネコップ似合いそうね! あれ超気持ちいいらしいよねえ!!
……ちっとも怖いことはありません。やってる人、ルキオもたくさん知っておりますです。
……ネコップ、常習っ子から情報仕入れました。ものすごく、気持ちいいらしいです。その上、副作用はゼロ。これほど流行するのも、むべなるかな、です。でも瑠璃さん、いつも最先端なのに今回だけは少々遅れ気味でしょうか。いえ決してそんなことは、ないでしょう。ネコップロへの道を一気に邁進、期待しております。
……やたー。ナースのポポのコスでやって欲しいでフぅ。
すぐにまた女は出てきた。
……やってみようかな。ええと、タオルはあるし、なんか他に注意することってありますか。
……聞くところによると、ネコップはダウナー系の薬とあわせるのが効果的なのだそうです。瑠璃さんが持っているものでしたらデパスあたりを飲んでみるとよろしいかもしれません。首がしまって脳に入っていくスピードが遅くなりますので、通常の2倍ほど服用すべしとのことです。
……それからルキオは薬だけではなくて、お酒もあわせるとすごく気持ちいいと聞いております。
……も一個。体のほうは血のめぐりが大切だから、ゆるい服を着たほうが良いらしいです。下着はつけないほうが良いそうです。
……ワーイ、ならパジャマ。超希望でフぅ。
もちろん、全ては彼女一人と小田切一人のやりとりである。常連の口調を瞬時に使い分けながら、しかもこちらの思惑通りに女の気持ちを誘導しなければならない。ところどころ口振りに破綻が出てしまい、書き込みながら小田切は幾度も一人ひやひやしていたが、どうやらうまくいったようだ。
……パジャマも、タオルも準備OK。これで大丈夫かな。さあ初体験。なんだか緊張するわあ。
小田切は画面から離れることができなくなった。他の会員をシャットアウトしてから10時間は経っていた。少しも腹が減らないし、眠くもならない。
彼女はそれから裸になって、素肌の上にパジャマを着た。
錠剤を一摑み口に入れ、がりがりと嚙んだ。そしてウィスキーを瓶から直接飲んだ。その姿は多分彼女が思っているほど格好良くはなかった。
それからベッドに座り、手の甲を額に当てて目を閉じると、しばらくじっとしていた。
やがてそのまま背後に倒れた。
寝入ってしまうのか。そう思い小田切が舌打ちをした時、彼女はすっと起き上がった。
顔の色が変わっていた。頰がバラ色になっていた。口元は深紅だ。もしかしたら唇を嚙み切ってしまって、血が出ているのかもしれない。
とろんと潤んだ目であたりを見回す。そこがどこなのか、自分が今何をしているのか、わからない様子だ。
自分の体を見下ろし、首にかけたタオルの輪に気づいた。
立ち上がり、ゆらゆらとした足取りでバスルームのドアに近づく。
しばらくカメラとノブを見比べていた。朦朧としながらも、自分の姿がどうすれば良く映るか、考えているのだろう。
やがて両足の位置を慎重に確かめてからドアに背を押し当てて立った。そのままずり下がっていく。中腰になり、顔の真横にドアノブが来たあたりで、首に巻いているタオルの端をそこに掛けた。
そしてさらに下へとゆっくり下がっていった。タオルがぴんと張って、止まった。尻は床すれすれで浮いていた。
背筋を伸ばした姿勢でしばらくは全身を硬直させていたが、ちっとも苦しくないということに気づいたようで、次第に力を抜いていった。顔はほとんど上を向いてしまったが、表情はよく見えていた。目を細めている様は、喉を撫で回されている時の猫のようだった。
彼女は頭をゆらゆら左右に揺らしたり肩を上下に動かしたりして、自分の体重が首にかかる感覚を調べていた。
次に両掌を顔の前に掲げ、それが自分のものであることを確かめるようにじっと見た。それから右手を首筋に、左手を顔に当てた。生きている。それに、苦しくもない。そう思っているはずだった。いったん足に力を入れ、尻を少しだけ上に持ち上げた。大丈夫。万が一苦しくなっても、いつでも元に戻れる。そう、考えているはずだった。
安心すると彼女はさらに体を緩めた。タオルにすっかり体重を預けると首は一段と伸びた。それでも、苦痛はないようだ。彼女はフーン、と、猫のように鼻を鳴らした。
絞首刑に使う縄のように、引くと輪が締まっていくような結び目を作っていない。だからこれで血管が絞まっても、呼吸は急には遮られない。意識がある状態で、体が弛緩し、ゆっくりと麻痺していく。
両手は自分の体を撫で回しながらゆっくりと下がっていった。顔や首から、胸や脇腹に、そして下腹に。フーン、と息をついて、彼女はもう一度尻を上げた。そして億劫そうに、パジャマのズボンをずり下ろした。蛍光灯で陰毛がはっきり照らし出された。
彼女は、右手を股間に入れた。左手をその上に添えた。
右手とその指はまるでそこだけが別の生き物のようになめらかに動いた。それが、舟をこぐように彼女の全身を揺らした。
首を絞めながらの性行為が、強烈な快楽をもたらすことを小田切は知っていた。
それが死の快楽だということも。
脳が酸欠状態になると、思考力や運動能力は低下していく。しかし視床下部の快楽神経だけは覚醒する。そして刺激に対して過剰に反応し、脳内麻薬を大量に分泌させるのだ。この状態で一度オーガズムを味わってしまうと、他のどんなセックスもぬるいものに感じられる。
それが相手を伴う行為なら、同時に失神しない限り、どちらかが手加減したり、介抱したりすることによって死に至ることからは逃れられる。それでもこの行為中の死亡事故はとても多いらしい。
タオルとドアノブを使うことによってこの禁断の快楽を一人で味わうことができる。ただしその際、万一の場合に自動的にタオルが外れるよう結び目に紙製のこよりを使う技法があった。また、酒やダウナー系の薬物を意識が混濁するほど摂取した状態では絶対にやってはいけないということを、この行為の経験があり、かつ生き残っている人々は、知っているはずだった。
死に至った人々についてはどうか。当然彼らの話を聞くことはできない。ただ、小田切は推測する。立ち上がるのは簡単だったはずだ。体が動かなくなって、立ち上がることができなくなって死ぬのではない。立ち上がり、生き続けるよりも、そのまま快楽に深く深く落ちていく方が余程すばらしい。そう、思ってしまった瞬間が、きっと彼らにはあったのだろうと。
彼女にも。
カメラはその姿を正面から捉えていた。彼女はのけぞっている。フィー、フィー、と、息づかいは金属音のように聞こえる。真上を向いた顔のはるか下で右手は速くなり、遅くなり、また速くなる。丸出しになった下半身が揺れる。
数分後、彼女が絶頂に達したことがわかった。その瞬間、彼女の全身は伸びた首を中心に引きつるように硬くなった。その様子は屹立した男性器を思わせた。次に射精するかのごとく数回痙攣し、そして弛緩した。全身がだらんとうなだれてしまってからも、フィーフィーという音はまだやまなかった。やがてまた右手が動き始めた。
指の動きと息の音は再びだんだんとリズムを速めていった。
そして2度目の絶頂が訪れた。びくん、と電撃に打たれたように彼女の全身が跳ね上がった。両手が放り出され、体の両側に落ちた。
全ての力が抜け、肩が下がり、尻がずり下がり、首がさらに伸び、上を向いた口が開いた。
そのまま、動かなくなった。
その体は、首の糸だけでぶら下げた操り人形のようだった。
すぐにその現場に駆けつけたら、助けることができるかもしれない、と小田切は思った。119番すれば、10分以内に救急隊員が到着するだろうか。彼らは適切な蘇生術を行うことができるだろうか。それで……と、いろいろと考えてみてから、小田切はやっと立ち上がった。
流し台に行き、手をよく洗った。そしてコーヒー豆を挽き始めた。できるだけ、丁寧に、ゆっくりと。
フィルターに入れて熱い湯をゆっくりとふりかけると、粉はぶくぶくと泡立ちながら溶岩のように盛り上がる。あたりの空気の色がすうっと変化していく。
コーヒーカップを持って、モニターの前に戻る。
彼女の手の位置が変化していた。右手は股間に戻り、左手はねじれて、わずかに持ち上がっていた。
その指先がびくびくと動いているが、それはトカゲの切り離された尻尾の動きだった。
顔は真っ白で、見開いた両目は、ウサギのように真っ赤だった。
小田切はその夜ぐっすり眠った。
爽快な気分で目が覚めた。とても晴れていた。
シャワーを浴びてから、パソコンを点けた。
彼女の顔は、肌も、目も、全て紫色になっていた。
完全に死んでいた。
バスタオルで髪を拭きながら、その姿をプリントアウトして封筒に入れ、依頼者の住所を記入した。
任務は終了したというのに、翌朝起きるとまた小田切はパソコンを起動し、女を見ていた。
首がとてもとても長く伸びていて、天井を向いた顔は梅干しのようにしわくちゃだった。下半身はどす黒く、ぱんぱんに膨らんでいた。股間から床に、糞尿が広がり始めていた。
通常の殺人では、殺してからが厄介だ。アリバイの捏造。凶器の始末。指紋の消去。そしてなにより、死体の処理。
熱いコーヒーを飲みながら考える。自分とこの女の死を結びつけるものは何もない。何も忘れていることはない。何も間違えていない。
なのにまだこの死体を見つめている自分が不思議だった。
自分は何を気にしているのだろう。
後かたづけのことか。こういう場合、死体はどうするべきか。
一つ、アイデアが浮かんだ。
小田切はそれが気に入った。
サイト運営会社のサーバーに再び侵入し、管理画面を開いた。
今この瞬間「瑠璃のお部屋」にアクセスしてきている会員は14名だった。録画されたものを生映像だと思いこんでずっと見つめ続けているのだ。
いくつかのスクリプトを削除し、新しいスクリプトを貼り付ける。線路のポイント切換のような作業だ。レバーを反対側に倒して、電車の走るコースを元通りに戻す。作業は10分で完了した。実行。かしゃん、と、頭の奥で小気味の良い金属音が鳴った。
録画映像に代わって、生映像が、流れ始めることになった。会員達の画面にも。
小田切もその画像に戻った。
そしてしばらく待った。しかし何の変化も起きなかった。彼女は、相変わらず、死んでいた。下半身を露にして、首を吊って。
ただし間違いなくその光景を、今は自分だけではなく、十数名の人々が見ているのだった。
さらにその翌日。彼女の首はキリンのように伸びていた。括り上げられたそのてっぺんは、ほぼ完全に頭蓋骨の形状を見せていた。内部の血肉がすっかり下がっていったのだろう。黒いどくろが髪の毛を生やしているようだ。
対照的に下半身はさらに大きく膨らんでいた。
そういえば彼女は冷房が苦手だと書いていた。エアコンは止めてあるのかもしれない。暑い日が続いている。死体の変化は想像を絶する目まぐるしさだった。
小田切は一日に何度もその姿を確かめた。彼女はそこに居続けた。
「瑠璃のお部屋」の熱心なファン達も、現在の彼女を見ているはずだった。そしてすぐに事情を理解したはずだ。しかし誰一人として連絡していないのだった。サイト運営会社にも、警察にも。
それから数日が経過した。ある時、画面の中で彼女が瞼を開いたように見えたので小田切は狼狽した。真っ黒に変色した彼女の顔の中で、目の部分だけがまたはっきり判別できるようになっていたのだ。拡大してみて、かつて目があった部分から白いどろりとした液体が流れ出し始めたことを知った。
その夜のことだ。彼女の下半身が、熟した果物のように、弾けた。風船のようにぱんぱんに張っていた下腹や尻や太股が同時に裂けた。噴き出した液体は、あたりじゅうに飛び散った。血やリンパや脂の液は蛍光灯の人工的な光を反射してぎらぎらと輝いていた。
彼女は、黒い薔薇の花の中心に座る悪魔のようだった。
ふと思いつき「瑠璃のお部屋」の掲示板を開いてみた。
驚いたことに、彼女が書き込まなくなった掲示板に、彼らは書き込みを続けていた。
それも、今までと全く同じ調子で。
……瑠璃りんの好きなマヤヤンの新譜出たぜっ!! ダウンロード急げってばさ。でさ2曲目の『ラブラブドール』の歌詞にチョコケーキのことが出てきて、瑠璃りんのこと思い出したってば。超シンクロだってばさ!!
……夏休みだねー。って言ってもアッキーはあんまりガッコ行ってないから関係ないけど(笑)でもなんだか楽しいよね。るりるりは何か夏の思い出とかありますか。アッキーはこう見えて小学校の頃はプール皆勤賞で、休み明けの水泳大会はクロールで3等だったんです。そうだ病気治って外に出られるようになったら水泳とかまた始めてみようかな。
……暑い日が続きますにょ(́・ε・`)。冷房苦手な瑠璃たんにオススメは、低温半身浴でフ(ˆoˆ)。低温って言っても氷水じゃないよ。体温くらいのぬるま湯を湯船の半分くらいに張って、2時間くらい入ってるでフ。本読んだり音楽聞いたり、ダイエットにもいいにょ
(ˆ▽ˆ)!!
小田切は彼女のあの無惨な姿は自分の錯覚だったのかと一瞬疑った。あわてて確認する。
間違いなく、死んでいた。その様相はさらに変容していた。
黒い花びらの中心で、彼女は小刻みに動いていた。まさか……目を凝らしてみる。生き返ったわけではなかった。動いているのは無数の蠅だった。全身の表面に、蠅がたかっていた。飛散した液体の臭気が呼び寄せたのだろう。
腐乱は進み、腹の裂け目から漏れ出した臓物からはぶくぶくと白い泡が立っていた。泡も微動していた。
それはおびただしい量の蛆だった。
この部屋がどんなに厳密に施錠されていたとしても、やがてネズミやゴキブリも入ってくるだろう。そして彼女は自然に還っていくのだ。骨になるまで、このまま、ここにいてくれるのかもしれない。
……水着のアイデア、まだ募集中ですか。もしかしたらどなたか別の方が提案されてるかもしれませんが、ルキオのオススメは、セパレートタイプのスク水です。イカがでございましょう!?
……瑠璃さんはダウナー系のお薬を飲む時いつも貧血気味になってるような気がして、心配でした。そこで良い情報をゲットしました。カナダの大学の医学者が、チョコレートは心肺機能を活発化させるという実験結果を発表しました。チョコとかチョコケーキとか、もっとたくさん食べるといいかもね。
……瑠璃さま、FBIがはっしんしたでんぱをキャッチして、しりました。22せいきのアメリカではチョコレートがしゅしょくになるんだって。たくさんチョコたべて、はやくみらいじんになてね。
……るりるり、今度のゲームショウで、『神秘の剣士5』のデモが出展されるって、知ってました? るりるりがモデルになったキャラのゲームって、これだよね! 超興奮。続報入ったら、また書きます。
書き込みは止まらなかった。小田切は彼らと同じように自分も、もう何日もの間、静止した時間を過ごしているのだと気づいていた。そしてとても平穏な気持ちだった。彼らに、家族のような親しみを感じていた。
例えばどんなに素敵な恋愛をしていても、相手に対する疑惑や嫉妬や不満は知らず知らずのうちに生まれているものだ。
長く生きているとそういうものが澱のように積もり、心の底にたまっていく。
刻一刻と変化する彼女の姿を見つめ続けているうちに、自分の中に存在していて、しかしこれまで意識することのなかったそんな濁りが、だんだんと浄化され、透き通っていくような気がしていた。
彼女の死体を見守り続ける十数人の仲間達も、同じ気分であることを小田切は願っていた。
それから長い間、小田切はモニターの前に座り続けていた。
不思議と腹が減らない。眠くもならなくなった。
やがて、一つの音に気づいた。何か変な音が聞こえてくる。あー……と、それは唸り声のようにも、小さな叫び声のようにも聞こえた。
彼女だ。それは確かに、彼女の死体の口から、喉の奥から出ている音だった。
死体が、内臓から発生するガスで声を出すことを小田切は知った。
あー。
真似をしてみる。
あー。
あー。
そっくりな音が、小田切の喉の奥からも出た。
あー。
小田切は笑ってみた。笑ってみると、おかしかった。いろいろなことが、おかしくておかしくてたまらなくなった。滑稽な格好で死んでいるネットアイドル。その姿を真剣に見つめ続けるいい歳をした男ども。そしてこの自分の姿。死体の物真似をして惚けたような声を出している自分。自分の、この奇妙な仕事。
気が付くと、小田切は笑い転げていた。モニターの前で身をよじり、涙を流しながら、いつまでもげらげら笑い続けた。