遙か凍土のカナン
第八回(2巻 第二章 海へ)
芝村裕吏 Illustration/しずまよしのり
公女オレーナに協力し、極東にコサック国家を建設せよ。広大なユーラシア大陸を舞台に、大日本帝国の騎兵大尉・新田良造(にったりょうぞう)の戦いが始まるー。
第二章 海へ
翌朝、五時頃起床。身支度を整え、六時五分前に階段を下りる。髭を綺麗に剃ったグレンが待っている。乗馬服に、騎兵刀まで下げていた。
「案内にしては重武装だな」
オレーナの言葉を聞いてグレンは片眉をあげた。笑ってみせる。
「心意気ってやつさ。いこうぜ。アラタ」
「分かった」
外には富士号、トウゴウ号の他、見慣れない馬もいる。
「俺の馬だ」
「いい馬だ」
「だろ、維持に金がかかるがね。こいつは最高だ」
良造の短い賛辞に、子供のように嬉しそうに笑うグレン。
遅れて、不意に驚くオレーナ。
「ついてくるのか!?」
「道順を教えればこの先どうにかできるとおもっていたのか」
グレンはこれだからお嬢さんはという顔をした後、良造に笑いかけた。
「いこうぜ。荷物は一部俺が持つ」
良造は黙って自らの荷物をグレンに預けた。
グレンは頷いて馬の鞍につり下げると、馬にまたがった。
「騎兵って奴はいいな」
グレンは朗らかに言った。
「いつまでも騎兵をやっていたくなる」
良造がそういうと、グレンは心から笑った。
「だな。いこうぜ」
激しく良造とグレンを見比べるオレーナ。
「何故か胸騒ぎがするほど仲がいい気がする」
「女にゃ分からねえよ」
「別に仲が良いというほどのつきあいではないですが」
グレンと良造はそう言って並んで馬を走らせた。二人して笑いながら、馬脚をあわせたりだく足で走らせてみたりと互いに腕前を披露する。
「じゃれあってる気がする」
オレーナは不満そうに盛大に良造の袖を握った。良造はオレーナに言う。
「腕前の確認です。いざというときの」
「だから女には分からねえって」
そう言い放つグレンに、オレーナは犬のようにうなった。なお、本物の犬の方は袋に入って首だけ出しており、あくびなどしている。
「早速アラタの弱点を見つけたぞ。女の趣味が悪い」
怒って暴れるオレーナを押さえながら良造は苦笑した。
「良造まで笑うな」
「暴れないでくださいと怒って欲しいのですか」
「怒ってもいい。ただし、怒るならあの男にだ」
「不器用なんですよ」
「やけに肩を持つ。私が求婚したときにはにべもないのに」
良造は馬上にて往生した。オレーナの機嫌が悪い。こういう時良造は、どう女性の機嫌をとっていいのか分からぬ。
グレンは仕事を辞めているはずである。職を辞して、自分たちの冒険に付き合おうとしている。自分が職を辞したように、グレンも辞める時を探していたのだろう。良造はそう思った。
グレンは港に向かった。停泊中の二本煙突、帆船時代を思わせる優美な姿の船を指さす。防護巡洋艦だった。
「ピローラス級ペガサス。前世紀の三等巡洋艦だが、シンガポールでは一番のフネだ」
「それで我々は、どのフネに乗るのだ」
オレーナは良造の指を不機嫌そうにもてあそびながら言った。
「いや、だから、あれ」
白い二本煙突のペガサスを指さすグレン。
「軍艦じゃないか」
「軍艦が一番安全だ」
オレーナがどうやってと怒る前に、グレンは慣れた口調で衛兵に口を利いた。良造たちを見る。
「さあ、こっちだ。タラップくらいは馬で上がれるだろ?」
「人馬併せて七〇〇kg以上あるが」
「kgでは分からん。ポンドで言ってくれ。でも、大丈夫だ」
良造は馬を走らせ、難なく軍艦中央から下ろされた細いタラップを登り切った。馬から下り、出迎えの海軍士官達に頭を下げる。オレーナも軽く頭を下げる。続いてグレンが上がってきた。
どこをどんな風にすればイギリスの軍艦に便乗できるのだろうと思ったら、元々グレンが急使としてインドに行くことになっていたらしい。そこに数名の供をつけたという格好でつじつまを合わせた。
「んで、お前たちは夫婦だ」
客船と比べて桁違いに分厚く、丈夫そうな水密ドアの縁につかまりながら、グレンは言った。
「分かった」
良造が言う前にオレーナが言った。左手で犬を抱きながら右手は良造の袖を摑んでいる。
「で、馬は外で過ごす。この船には猫もいるから犬はトイレ以外この部屋から出すなよ。馬用に最上甲板に帆布を張って臨時の天幕をつくる。戦闘になったら馬と犬はあきらめろ」
「戦闘はありえるのか?」
「いや、ないがね」
オレーナはグレンを睨んだ。ウインクするグレン。
「お前たちは英語が使えない。まあ実際そうだろうから特に問題はないだろう。筋書き的には襲われた外国人夫婦であるお前たちを保護しつつ、事情聴取するためにインドへ向かう。で、見回りのこの船に便乗した。これはその書類。判事のサイン付きだ」
「なるほど」
「というのは表向きで。俺は急使としてチッタゴンに向かう。その急使を隠す隠れ蓑がお前たちというわけだ」
「どこまで本当なんだ」
オレーナがそう言うと、グレンは濡れたような黒髪を振って笑った。
「全部が少しずつは本当さ。そうでないとこういうのはうまくいかない。まあ、任せろ」
「任せた」
良造がそう言うと、グレンは嬉しそうに笑って姿を消した。ドアがしまる。
椅子に座ったオレーナが息を吐き出すついでに肩を落とす。片手で犬を抱きしめる。右手は良造の袖を握ったままだった。
トウゴウ号は事情をよく分かっていないような顔でおとなしくしている。
良造は上を見た後、自分と犬の価値は大体同じだと思った。不満は特にない。
「よく分からない男だ。なぜあれを信用するんだ」
「そうですか。あれほど分かりやすいのもいないと思いますが」
「どこが」
オレーナはそう言いながら良造の袖を引っ張った。
「いいところを見せたいのです」
「ぶっきらぼうに」
「いいところを見せたいんだ」
目を細め、考えるオレーナ。船室は暗く、明かり取りの船窓も小さい。客船ならば最上甲板から自然光を取り入れて天井で反射させるための鏡やカットガラスを使った光路や自然光ランプがあるのだが、軍艦にはそれもない。恐らく煙や炎が光路を伝って他に広がるのを防いでいるのだろう。優美ではあったが、やはり軍艦は軍艦であった。
オレーナは、良造を見上げる。
「私にか? それとも良造か」
「自分に。自分自身に、奮い立ち、鼓舞するために」
良造はそう答える。オレーナは目を細めた。
「良造もそんなときがあるのか」
「部下の前ではそうですね。やるときがあります」
「私にはやらぬように。気取っている良造は見たくない」
「格好悪いですか」
「距離を感じる」
甘えん坊だなと良造は思った。この甘ったれが一人で海を越えて日本まで来るんだから、大変だったろう。
良造は微笑んだ。オレーナは視線に気づいて、少し恥ずかしそうにした。
「良造と結婚するのはあきらめたが、好きだという気持ちは、収まらない。時間がかかる」
「分かりました」
「ぶっきらぼうに」
「分かった」
優しく良造が言うと、オレーナは顔を真っ赤にして袖を激しく何度も引っ張った。
「何か」
「なんでもない。疲れた。休む」
船室内にハンモックがあったが、良造もオレーナもハンモックの使い方が分からぬ。そこで軍用毛布を床に敷いて、その上にオレーナが座った。良造を座らせ、背に廻って良造の背に頭を預けて寝るオレーナ。その顔が赤いことを良造は確認できぬ。
グレンが来たのは数時間経った後である。
ドアを開け、良造の背に頭を預け、犬を抱いたまま寝ているオレーナをちらりと見る。良造に視線を移す。
「貴族のお嬢さんと思っていたが、違ったか」
「いや、違ってはいない」
「ハンモックを使えばよかったんじゃないか」
「使い方が分からない」
「ベッドじゃ暑いからな、ここらは。んじゃあ、あとで教えるよ。で、食事を持ってきた。出港直後だから飯はいいぞ。青パパイヤのサラダに、シシカバブ。シシカバブは引き肉料理だな。パンは焼き締めてあるから味気ないがまあ、いいだろ。酒は我慢しろ。数日の辛抱だ」
「分かった」
「トイレは士官用が使えるようにしておいた。女性だからな。場所はここを出て右手にまっすぐ、左側にある。レストルームとある。間違えるなよ」
良造は頷いた。グレンは濡れたような黒髪を揺らした。
「インド東部、チッタゴンに行く」
「ありがとう」
「礼は旅が終わってからにしろよ。俺は艦長とつまんない食事してくる。陸にあがったら一杯おごれよ、経費外で」
「約束する」
グレンは笑い、小さく手を振って姿を消した。
良造の背中側でオレーナが動いた。
「起きていたのか」
「途中から。しかし、私が居ないときは楽しそうに笑う」
「あまり変わってない気が」
「変わっている。良造は注意した方がいい」
オレーナは立ち上がった。どんな、とは良造は聞きそびれた。
「食事をしよう」
青パパイヤは昨日のサンドイッチに入っていた大根のようなものだった。若い南国の食べ物。もっとも若いので甘くはない。しかし料理にはこちらの方が都合がよい。
甘辛い上に酸っぱいという、よく分からない味付けのサラダ。良造とオレーナは並んで食べたが、二人ともうまいともまずいとも言えず、黙った。
オレーナと良造は互いを見た。食事で不思議な気分になることはそうそうない。それで、二人して笑った。味付け的に犬にやるのはやめたほうがよさそうである。犬は忠犬のごとく舌を見せて待っている。いつ分けてくれるのか待っているよう。
シシカバブとは挽き肉を棒のようにして焼き固めた食べ物である。何の挽き肉か、分からないが、風味からして牛、豚、鳥ではない。
「羊だ」
と、オレーナは言った。日本では羊をとんと食べないので、良造はこれが羊かと思いながら食べた。上に掛かるソースは血の色をしていたが、意外に甘く、そして酸っぱく、そして辛かった。
これも甘辛い上に酸っぱい。日本とは根本的に味に関する考えが違うようであった。
「イギリスの軍艦の割に、イギリス料理が出てこないものだな」
オレーナは言った。うなずく良造。もっとも、数日の旅、と言っていたので、現地で食品を積んで、それっきりということはあるのかもしれない。よく分からないが、まあ、明日にも分かるだろう。良造はそう思いながら、犬にシシカバブの欠片をやり、口を開いた。
「チッタゴンなる場所へいくそうです」
「インドの地名、なんだろうな」
「おそらくは」
「若狭丸の寄港地にチッタゴンはあったろうか」
「ありませんでした」
「ふむ。追っ手は寄港地ごとにいたろうから、一旦考えなくても良くなったというところか。問題は次。チッタゴンから、どうウクライナに戻るかだ」
ウクライナという国はない。良造はロシアの地名と認識している。それがどこか、良造にはよく分からなかった。腕を組む。
「地図が欲しいですな」
「ぶっきらぼうに」
同じく腕を組みながらオレーナはいう。
「地図が欲しい」
言い直す良造。頷くオレーナ。
ところが地図は、そうそう簡単に手に入るものでもない。簡単な地図ならともかく、精緻なものともなると軍事的価値が高いのである。この際簡単な地図でも良いので欲しかった。自由に動くことになった今、地図がなければどうやってロシアに渡るか、作戦も戦略も立てようがない。
「地図なら売るぜ」
いきなりドアを開けてグレンが言った。
「ノックくらいするものだ」
「あー。はいはい」
グレンは開けたドアをノックする。
「ま、民間用だけどな」
「それでいい」
オレーナは言った。軍用地図を手に入れるのは難しかろう。
「んじゃ、別に計上しとく。なに、そんなに高くはない。ちと古いが地図帳もある」
グレンの言葉に苦笑する良造。
「言えばなんでも出てきそうだな」
「そうでもないさ。単にお前等が、旅に必要そうなものをぜんぜん持ってないだけの話」
良造としては言葉がない。追っ手がくるとは思っていなかったこともあるが、確かに密命を帯びた身の割に随分な不用意ではある。
「確かに。まあ、楽な船旅のつもりだった」
「どこに行くつもりだい?」
「彼女の国へ」
「ドイツ、いや、オーストリアあたりか。まあ、分かった。チッタゴンから先はどうする?」
「地図を見てから考える」
オレーナの言葉に、グレンは笑った。
「にもかかわらず地図が無いってか。しまった。ぼっておけばよかったな」
グレンは人の悪い笑顔を見せながら肩から掛けた地図入れから地図を出した。広げてみせる。
「すごいな、イギリスは」
一目見て良造は言う。地図が読めないと騎兵は偵察ができないことから、地図の見方はたたき込まれている。良造の目から見てグレンの広げた地図は測量といい、印刷精度といい、紙の質といい、優れたものであるのが一目で知れた。
「これは軍用だよ。売りもんじゃない。俺の飯の種だ」
インド大陸の付け根からさらに東の地を指すグレン。
「ここがチッタゴンだ」
オレーナは考える。シンガポールから四〇〇〇km近くの距離にある。
「チッタゴンから船はどうだ?」
「あそこも海運が盛んだ。船に乗ろうと思えばできる」
「おすすめしないような言い方だな」
「自殺志望者でなければ。この世のどこにでも版図があるゆえ日の沈まぬと自称する大英帝国といえど、整備された港で休息ができて、となると、とたんに数が減る。避けて船で旅するのは不可能じゃないが、そんな風変わりの旅人はすぐに噂になるだろう。一五日でそうだな。一シリングも払えば誰でも知ることができる話になる」
情報に値をつけ、それをやりとりするような芸当を、ただイギリスだけが下々まで手広くやっている。他国ではあまり見られないが、イギリス、中でも港町はあらゆる情報に値札が張られて盛んに売買されていた。
良造は頷く。オレーナを見る。オレーナは細い指を動かしてチッタゴンから陸路を指した。
「売ってくれる地図は陸路移動の助けになるか」
眉を上げ、はじめてオレーナににやりと笑いかけるグレン。
「亭主の教育がいいのかね。まあ、そうだな。ぎりぎり使える。馬ももう少しいるな。見つかる可能性は低いが時間かかるぜ。一月の旅が一年になる。それくらいは見てくれないと」
「構わない」
オレーナは即座に言った。二度眉をあげ、良造を見るグレン。
「いいのか?」
「仕方ない」
旅というものは、大変である。女性ならなおさらである。良造としてはオレーナを陸路で旅させたくはない。そもそも彼女は家に連れ戻されるだけ、死ぬのはまあ、犬と自分だけという現実もある。
オレーナを見る。オレーナは祈るような目で自分を見ている。
「ただ、条件がある」
良造は言った。
グレンとオレーナが良造を見る。
「彼女に帽子が必要だ。着替えもそれなりにいる」
グレンは腹を抱えて笑い、オレーナはゆっくりと顔を赤くしたあと、恥ずかしそうに下を見た。犬はワンワンと吠えている。
「意外にイギリス的だな」
「どこ的でもいいが、真面目な話だ」
「分かった分かった。チッタゴンについたら仕立屋でも探そうぜ」
グレンは余程面白かったのか、良造の肩を抱いて爆笑した。背中もたたいた。
「んじゃ、頼むぜ。地図は貸しといてやる」
グレンは上機嫌で帰った。
残された良造とオレーナは二人して地図に目を落とした。
オレーナが我慢できずに良造を見る。
「陸路を選んでくれたのは嬉しいが、配慮は不要だ」
「日に焼けますよ」
「そうだけど!」
オレーナは下を向いた。上目遣いに良造を見る。
「ありがとう」
「いえいえ。どういたしまして」
犬も吠えている。今、駄犬まっさかりである。良造は犬を撫でた。犬は嬉しそう。尻尾を激しく振っている。
「やっぱり良造は私と結婚すべきだと思う。私の幸せのためにだ。もちろん」
勢い余ってと言うよりは、思い高まってそう口にするオレーナ。
「お断りします」
笑顔で良造は返した。直後犬が良造の手に嚙みついた。駄犬ではあったが忠犬でもあった。
翌日には、あと七日ほどでチッタゴンに到着すると教えられた。
四〇〇〇kmを九日掛からず移動するのだから船というものはすごいものである。良造はうなった。しかもこの軍艦はさほど急いでいるようでもない。日光浴と馬の様子を見るために甲板に出た感じでは、客船とそう変わらぬ感じでもある。
いや、この場合は客船が速いというべきか。昼夜を問わず航行するゆえの速度であろう。これが馬なら一日一〇〇kmには届かないのである。つまりは四〇日は掛かるわけである。実際には国境に難所、迂回というものがあるから五〇日は欲しいところだ。
良造は頭の中で地図を検討する。その先ロシアを目指すなら、さらに大変な距離を移動することになる。大冒険だ。少なくとも日本人でそんなことをやった例は聞いたことがない。
騎兵大尉改め、冒険家になる、か。
良造は馬糞を取りながら苦笑した。やはり船で移動した方が良いような気がしてくる。
「なんだ。大変だと思ったか?」
同じく馬糞を取って海に捨てながら、グレンは言った。
「大変だな。大冒険だ」
「女抜きならなんとかってやつか」
良造は黙って頷いた。グレンは笑った。
「そうだな。あんた一人じゃそんなもんだろう。安心しろ。ちゃんとケツは持つさ」
「そこは疑ってない」
良造が言うと、グレンは嬉しそうに笑った。
「あんたは人信じて殺される運命にある。そんな気がする」
「そうか?」
「そうさ。だがまあ、俺がいる限りは大丈夫だ。俺がいなくなったら気をつけな」
「分かった」
「煙草吸うか」
「いいね」
良造はにやりと笑った。グレンはその顔をまじまじと見た後、苦笑した。
「なんだ、あんたはそんな顔もできるんだな。俺はあんたの笑顔を見るには命でも賭けないといけないかと思ってた」
本気そうに、そう言った。煙草を入れた缶から一本取り出して、良造に渡すグレン。すぐに蓋を閉める。湿度が高いのですぐに煙草はだめになるのだろう。良造はそんなことを思った。マッチを取り出し、靴の踵でマッチを吸って紫煙を天に吐いた。
「煙突が増えたな」
グレンも天に煙を吹き出しながら言った。
「船は速く進まないが」
良造はそう答えた。何が面白いのか自分でも分からなかったが、その後、グレンと良造は大いに笑った。
ペガサスは順調に進む。天馬のように速い、とは言えないが、十分な速度ではある。
食事は、段々質が落ちた。虫のわいたチーズこそ出てこなかったが、硬くて釘を打てそうなかび臭いパンと、紫色に焼かれた肉と、ライムだけ、という日はあった。良造は紫色に食欲を失ったが、オレーナによるとこの紫はワインの色らしかった。
結局肉のほとんどは、犬というか、トウゴウ号が食べた。トウゴウは上機嫌である。
狭い船室ではあったが、犬がいると楽しいものである。
何よりオレーナの機嫌がいい。良造は犬は重要だなと、思った。この甘ったれには、犬が必要だ。
「何故笑う?」
オレーナが不意に顔をあげてそう言った。
「人生に犬はいると思ったのです」
「そういうものだろうか」
オレーナは考えながらそう口にした。トウゴウはわんと言った。
良造はトウゴウをなでた。トウゴウは尻尾を振っている。この一〇日ほどで太った気がする。運動させてやらねばなと良造は思った。運動と言えば馬もそうである。老齢の富士号が夏ばてしていないのはいいが、太りすぎは寿命を縮める。いや、九月で夏ばてと言ってもいいのか。
「そういえば、船には猫がいるらしい。良造はこの船の猫を見たか?」
オレーナは不意にそんなことを言った。
「いえ。猫は用心深いものです。そうそうは姿を見せないでしょう」
この頃軍艦には猫が乗っていた。軍艦につきものの鼠退治のためである。海軍基地のある地中海のマルタには、それで大量の猫が住んでいるという。
「見てみたいな」
「運が良ければ」
「うん」
オレーナはどこか寂しそうに言った。犬に手をなめられている。
そんなに猫を見たいのか、とは思ったが、良造は猫を捕まえてくる、とは言わなかった。おそらく猫は犬の匂いを警戒して近寄ってこないに違いない。
「そろそろ夜中だな」
「ええ」
「レストルームに行く。ついてきて欲しい」
良造は黙ってついて行った。士官用のトイレ内で誰かに会うのは女性には気まずいものなのだろう。日本からこちら、廁の番なぞしている。今でもがっかりする時はあるが、以前ほどではない。
少々恥ずかしそうに犬とオレーナが出てきた。犬も用をたしたのか、すっきりした顔をしている。行こう、というので頷き動く。目線をやる。遠くで緑色の目が光っている。猫が一匹、遠くから様子をうかがっている。黙って指さした。オレーナが顔を動かす。目を輝かせる。
犬が吠える。猫が逃げる。オレーナが犬をしかる。
まあ、ここまで完全に想像通りだったなと良造は思った。艦内で猫を見たのはそれが最後であった。
出航から九日め、ようやくチッタゴンが見え始めた。遠浅で見渡す限りの砂浜が続く場所である。砂浜を利用して投網漁をする姿が見えて、良造は良い場所だなと思った。思ったのと同時に、座礁が心配になってきた。
「浮かぬ顔だな。座礁か?」
グレンが言った。良造は頷いた。
「大丈夫だ。あっちこっちにブイがあるだろ。あれを越えなければ、いい」
浮標、と良造は見た。確かに等間隔で浮標が浮かんでいる。
なるほど、良くできている。
「日本と言えばイギリスと同じく海洋国だろうに、それとも遅れているのか」
「自分が陸軍出身、だったからかな」
「こっちじゃ陸軍も海の向こうにしか出番がなくてね。おかげで海に詳しい」
同じ陸軍でも違うものだなと良造は思った。日本もいつかそうなるのだろうか。砂浜を避けて、するすると港に入る。古くからの良港だったようで、歴史と風格のある場所ではあった。並ぶ建物も小ぶりではあるが瀟洒であり、はめ込まれたレリーフや明かり取りの窓は凝った細工がしてあった。壁は白く塗られている。
シンガポールほど人は多くなく、のんびりした風情。人々の格好も変わり、裸とはいわぬまでも裸同然の格好で歩く者もいる。
「降りるぞ」
グレンが荷物を馬に積みながら言った。良造は頷いた。見ればオレーナも身支度を終えて甲板にあがってきている。犬を袋に入れて、馬にまたがり、オレーナを引っ張り上げる。そのままタラップを駆け下りた。
乗馬は坂路を上がるより下る方がずっと難しい。下る際に前脚を痛める可能性が高いからである。馬が下を見て震え上がるからである……が、富士号は老練さを見せつけて問題なく降りた。グレンが手綱を引いて歩いて降りてくる。危険を評価し、下手に競争しようとしないあたり、これはこれで立派なものであった。
「宿を押さえてくる。ついてきてくれ。はぐれたら捜すのが面倒だ」
グレンはそう言って先導した。馬で歩いて一〇分ほど、馬小屋のついた建物につく。
英語で交渉するグレン。日差しを気にしてオレーナは日傘をさした。立って数分、笑顔でグレンは戻ってきた。
「入りな。あ、これ地図な。俺は野暮用でいってくる。んじゃ」
「今までのこと、礼をいう」
オレーナはしんみりと言った。
グレンは変な顔をしたが、すぐに笑顔になった。
「なに、気にするな」
馬に乗り、そのまま陽炎の向こうへ去っていくグレン。暑い。シンガポールよりはるか北なのに、暑い。
良造とオレーナは連れだって宿に入った。靴を脱げと身振り手振りでいわれて、脱いだ。靴は自分で持ち運べといっているようだ。この指示にも従った。建物はそれなりの規模だが、平屋。部屋の数は一〇を少し超えたあたりのようだった。
部屋に案内される。二人で一部屋だった。良造は慌てた。
「別部屋を交渉してきます」
「私は別に、一部屋でいい」
「そういう訳にもいかんでしょう。軍艦に乗るような非常時ならさておき」
良造はそう言ってどうにか一人一部屋にできないかとドイツ語で喋りかけるが、宿の老主人は頭を左右に振るばかりで埒があかない。
それで戻ってきた。オレーナは肌の露出を抑えつつも涼しい格好になっていた。薄いシルクのブラウスである。光沢は見事だが、良造は少々高級すぎないかとは思った。
「言葉が通じませんでした」
「ぶっきらぼうに」
「言葉が通じなかった」
「そうか。まあ、仕方がない」
残念そうでもなく、オレーナは言った。トランクを閉める。良造を見て微笑む。
「まあ、今更部屋を分けなくてもいいと思うぞ。思えば日本の木と紙の家からずっと同室だった」
「いや、ええと、日本のあの家は別の部屋です」
障子ふすまで区切れば別の部屋であるという概念が、オレーナにはない。良造は悪いことをしたという気になった。もっと説明すべきであった。
オレーナは不思議そう。不思議なのをさておき、不意に微笑んだ。風で髪が揺れる。風を見る。
「良い風だ」
日本家屋と同じで、この建物にもガラス窓はない。鎧戸をあければ窓は全開である。この地に地震はないのか、壁一面が窓だった。遠く、海が見え、高い天井とあわせて中々快適だった。
「いい風ですね」
「ぶっきらぼうに」
「いい風だ」
「うん」
オレーナは笑って良造を見た。
「おとぎの国にきてからずっと、私は物語の中にいるようだ」
「良い物語ならいいんですが」
「それはまだ分からない」
オレーナは横を向いた。
「でも、胸は躍っている」
「なるほど」
良造は笑った。世の中を理解する前に陸軍に飛び込んだせいで、画家にも海軍士官にもなれなかったが、公女一人を連れた冒険家になれるというのは、これは良い物語の気がしてきた。
無くした友人も蛍の国から帰ってきたような気がしたし。まあ、気がしただけなんだが。
この宿には椅子がない。ベッドもなく、あるのはハンモックである。寝ていて頭や尻が暑くならないのはいいが、寝方を間違えると腰を痛める。また寝返りをうつのも大変であった。
「貴方を寝台のあるところで寝かせてやりたい」
「ぶっきらぼうに」
「心配している」
オレーナは笑った。窓の外を見る。
「いいんだ。私はこれでも、楽しんでいる。ロシアに戻れば、そこからが大変だ。いや、そこからが本番というべきか」
良造はうなずいて密命を思う。何とかオレーナを祭り上げ、極東にコサック国家を作らねばならぬ。確かに、ついてからが本番だ。
良造は先ほど受け取った地図を広げた。民間用ということだが、これでも相当の情報量がある。イギリスとはすごいものだなと何度めか分からぬ感嘆をした。精緻な地図があるということは、それだけ細かい測量を行ったことを意味する。過ぐる朝鮮にて日本が測量した際、測量への無理解も含めて相当の抵抗があったことを思えば、それらを排除し続けた武力、国力は凄まじいものがあったはずである。
「夕食のことを考えないといけません」
「船にいた時よりは美味しいといいが」
「もう夕食の算段か?」
ノックせずに入ってきたのは、グレンだった。オレーナは即座に良造の袖を摑まえた。
「なぜここにいる!」
「まさか二人でこの大陸を抜けようってわけじゃないんだろ」
オレーナは良造を睨んだ。良造はそれが当たり前のように表情を変えぬ。
「早かったな」
「密書一つを渡すだけさ。それとも、もう少し時間を潰してきた方がよかったか?」
旅支度を終えたグレンは笑って言った。
「いや」
良造は笑い返した。オレーナは不満そうに激しく良造の袖を引っ張る。
解説を求める顔。良造は優しく口を開いた。
「二人で大陸を抜けるのは大変です」
なんと言おうか考えた後、不意に怒るオレーナ。
「人選が悪いと言っている!」
「ご機嫌斜めだな。奥方は」
「奥方ではない」
オレーナは顔をしかめて赤くし、グレンは目を大きくあけた。
「いやいや」
グレンの言葉にオレーナは何度も頷いた。
「本当だ」
良造の言葉にオレーナは何度も首を横に振った。
腕を組んで上を見て考えるグレン。
「分かった。離縁して国に追い返すんだな」
「違う」
良造とオレーナは異口同音にそう言った。
「じゃあなんだよ」
「私の養父が反対なんだ」
オレーナはそう言った。納得顔のグレン。
「結婚の許しを貰いにいくのか。あー、それで邪魔が」
良造が何か言う前にオレーナはその口を両手で塞いだ。良造ほどグレンを信用していないようであった。グレンは腕を組んでしばらくオレーナと良造を見る。
「まあなんだ。一応俺の友達だから窒息死させるのはやめといてくれ、奥方じゃない、お嬢さん」
オレーナは髪を乱して悔しそう。良造は大きく息をした。鼻までふさがれて呼吸し損ねていた。
「話がまとまってないのに急ぎすぎたわけだな」
オレーナは涙目になってトランクから手紙の束を持ち出してきた。グレンの目の前に広げる。
「違う。ここにはこう、良造からの情熱的な愛の言葉がたくさん書いてある。だから早とちりじゃない」
良造は慌てた。自分の代わりに手紙をやりとりしていた日本の秘密機関は何をしていたんだという気になった。
にわかに赤くなった良造を見て、組んだ腕をとくグレン。
「分かった。判決、男が悪い」
「ほら、ほら」
オレーナは鼻の頭を赤くして言った。良造の袖を引っ張る。良造が重い口を開く。
「いや、これには深い事情が」
「事情なんて誰でも持ってるだろ。書類に残ってる方が負けだ。約束は約束、契約は神だ。負け。負け。良造の負け。いいじゃないか。チビっこいけど元気だし、良く吠えるし」
「犬のことか」
良造がいうと、グレンは片方の眉をあげて笑った。
「そういや、犬もそういう誉め方するな」
「うるさい。黙れ」
オレーナが言うと、外でトウゴウ号がうなる声が聞こえた。
腹を抱えて笑うグレン。
「まあ、犬のお姫様でもいいじゃないか。結論は同じだ。良造の負けだ。結婚しろ」
良造は憮然とした顔。オレーナは良造の横顔を穴が開くほど見て、目を伏せて落ち込んだ。顔面蒼白にして死にそうな表情。
笑顔で良造の肩を叩くグレン。
「正直なのも、誠実なのもいいがな。それで女を泣かせるもんじゃない。飯の用意をしてくる。そうだな。日暮れ前に戻ってくるから三時間ぐらいかかる」
グレンは舌をちらりと見せて逃げ出した。後には髪を乱したオレーナと、引っ張られすぎて着衣の乱れた良造だけが残った。
犬の、鳴き声がする。行為的には駄犬極まりないが、この場合、トウゴウは忠犬と言うべきだろう。良造の耳には、その鳴き声は良造を非難するように聞こえたのである。
「そんなに私が嫌か」
ぽろぽろと涙を落としながら、オレーナは言った。
「違います」
良造は正座したい気分でそう返した。
「他の誰かのところになんか、嫁ぎたくない」
オレーナはそう言って黙りこくった。途方にくれ、なんと言おうか困る。戦場においては忠勇無比であろうとも、女の涙には対して意味がなかった。途方に暮れ、時折すすり泣く声がして、気まずいままに日が暮れた。
「どうだ、仲直りしたか」
数時間後、いい笑顔で戻ってきたグレンは、顔をこわばらせてそのまま回れ右した。手に持ったランプに照らされた二人が、昼間と同じ姿勢だった事に気づいたからである。
「また明日なああ食い物はここに置いていくそれとたまには背伸びとかしたほうがいいな馬買うために遠出するからそのつもりでまあその俺も悪かったが良造はもっと悪いとにかくあやまれじゃあな」
ここまでを一気に言い立ててグレンは脱兎のごとく逃げた。逃げると決めたときの速さは、一流の騎兵だった。
ドアが勢いよく閉まり、良造はゆっくりと目を動かした。オレーナは細い腕をつっかい棒のようにして自らの膝の上にのせ、下を向いたままだ。
「貴方が喜んで嫁ぐことができる相手が見つかるまで、守ります」
余りに黙っていたものだから、多少嗄れた声になりつつ良造は言った。
「それでは、一生私を守り続けることになる」
オレーナはすぐに返した。
「それでも守ります」
「分かった」
オレーナはそう言って立ち上がった。
「寝る。食事はいらない」
ハンモックに倒れ込むように寝るオレーナ。その姿を見ぬようにしながら、これで良かったのかと考える。
泣かせているのだから良いわけがないのだが、他に答えようもない。彼女をこれ以上騙すことなどできようもないし、手をつけるのも嫌だった。