遙か凍土のカナン
第七回(2巻 第一章 シンガポール・ナイト)
芝村裕吏 Illustration/しずまよしのり
公女オレーナに協力し、極東にコサック国家を建設せよ。広大なユーラシア大陸を舞台に、大日本帝国の騎兵大尉・新田良造(にったりょうぞう)の戦いが始まるー。
日差しを受けて輝く海は、中々の見物であった。
大日本帝国元陸軍大尉、新田良造は客船の甲板から飽きもせずに海を見ている。大波が来ては客船をゆっくり揺動させるのが面白く、良造は海軍に入っても良かったなと考えた。
空を見る。海の青さは空を映したものであるという。地上で見る空の色とはまた違う、段々と変わりゆく深い青である。心酔出来そうな青であった。良造は自分を苦笑して、参ったな画家も楽しそうではある、と考えた。この空の青を再現するために一日絵の具を混ぜていく。実に楽しそう。もっと早くに旅行の一つもするべきだったか。
「良造。こっちだ」
綺麗なドイツ語でそう呼ばれる。良造は名残惜しそうに手すりと別れ、のんびりと声の方へ向かった。のんびりとはいえ、背筋が伸びて口は閉じる。首を動かさずに目線を動かして周囲を確認するのが、元軍人の習いである。首くらいは動かしてもよかろうが、どうにも目を先に動かしてしまう癖がある。
船内で二〇人ほどの一等船客のために仕切られた大きな甲板には、いくつかのパラソルが張られ、その下にテーブルと椅子が出してあった。船内ばかりでは気が滅入るとして、乗客のために用意してあるのである。注文すればコーヒーやサイダーなどの飲み物も飲むことが出来た。
今も一人のボーイが、二つの紅茶を運んでいる。
彼を呼ぶ少女が目に入る。綺麗な金色の長い髪と、小柄な姿。清楚な紺色のスカート。白いブラウス。
名をオレーナと言う。前年まで大日本帝国と戦争をしていたロシア帝国の少女である。今はわけあって、良造を引き連れて母国に帰ろうとしている。彼女は知らぬが、良造は知っている。うまくいけば、別れのための帰国になろう。手続きや人員を集めた後、彼女は遠く東の地に楽土を建設しに行く予定である。日露戦争に勝った大日本帝国が決め、良造はそういう密命を帯びてオレーナの横にいる。
「こっちへ。日差しがあるところにいると汗をかく」
立ち上がって何も知らぬオレーナはそう言った。軍人に負けず背筋が伸びるあたり、貴族の子弟としての面目を十分に保っていた。白く小さな手を伸ばし、良造の手を取って自らの席に導いた。重なる手のあまりの大きさの違いに、良造はせめて、この公女を守ってやらねばなと考えた。
相対するとも並ぶとも言えぬ角度でともに座る。紅茶が来る。ボーイは恭しく紅茶を出す。入れ過ぎと言えるほど角砂糖を入れ、オレーナは両手でカップを持ってお茶を飲んだ。音などさせぬのはさすがである。良造も注意しながらすすった。日本茶と違い温度は低く、苦さはあまりない。その割に香りだけはある。
しかし、砂糖を入れすぎだろう。
「私が紅茶を飲むのが珍しいだろうか」
背筋を伸ばして言うオレーナに、背筋を伸ばし返して口を開く良造。
「いえ」
オレーナの機嫌が見る間に悪くなる。
「私は社交辞令が嫌いだ」
「自分は社交辞令を知りません。軍人でしたから」
良造はそう言った後、なるべく優しく言った。彼女からすれば故郷から遠く離れ天涯孤独の海の上、お供の犬も船倉の中である。自分ぐらいは親切にしたい。
「あなたがお茶を飲んでいるところは何度も見ています。小さい子供のように茶を吹いているのも」
「……子供扱いはもっと嫌いだった。その言い方もだ」
良造は目を彷徨わせる。そういう言動が可愛らしいと思うあたり、自分もこの公女に毒されているかもしれない。オレーナは口先を尖らせる。
「私にも子供っぽいところはあるかもしれないが、それは子供が私に似ているのだ」
だから、私が子供なわけではないと言う。
良造は思わず笑ってしまった。その顔を見てオレーナも微笑む。少し恥ずかしそうに。
「やっと笑ったっ」
そんなことを小声で言う。良造は口と顎に手をやりながら、オレーナを見た。
「最近、髭を剃る時以外はいつも笑っているような気がしますが」
「そんなことはない。難しい顔をしているし、何を考えているか分からないし、遠くばかり見ている。日本を見ているというのなら、方向が違うといいたい」
藤子も同じような事を言っていたなと、良造はちらりと思った。
「日本はあっちの方です」
「そうだ」
オレーナは背筋を伸ばして言った。良造は頭を搔きそうになる。
「いや、だから日本を見ていたわけではなく」
「女の人だろうか」
「違います」
未練がましく望むことなど許されぬ。今は藤子の幸せを願うばかりである。良造はそう思いながら微笑んだ。微笑みを向けられたオレーナは、それで傷ついた顔をした。噓をついたと思われたか、それとももっと深いところを見透かされたか。何れにせよ良造はこういう時、どうしていいのか分からぬ。
「貴方の幸せを願っています」
良造は心からそう言って、紅茶を一気に飲んだ。立ち上がり、読書室へ行きますと言って歩き出す。オレーナとどう話をしていいのか分からないので逃げたていである。どうしたものか。あるいは、どう向き合うべきか。
第一章 シンガポール・ナイト
彼らを乗せた客船は上海、香港を経て、シンガポール、ペナンへ向かう。その後マラッカ海峡を通過しインド洋を経てスエズ運河を越え、目的地である南フランスのマルセイユに到着するまでおおよそ一月以上。船旅は無聊をかこつものであるが、実際暇であった。暇なので客船は、色々な催し物や施設で紛らわせようとしている。
読書室というのもその一つで、さほど大きくはないものの、それなりの本が蔵書としてしつらえてあった。美術品としての価値もあるような立派な装丁の本が、堂々と飾られている。最近流行しはじめた夏目漱石の小説でもないかと探したが、さすがに流行書のたぐいはなく、それでは代わりにと船の歴史を書いた英国の書物を手に取った。英国の本だけあって、日本の船などの記述はなく、良造は我が国にもこういう本がいるのではないかと考えた。世界と日本、両方を書いた本があれば楽しそうである。
日本ではほとんど導入されなかった優美な帆装艦を見てうなりながら、良造は海軍さんが陸軍をバカにするのも分からんでもないなと考えた。馬も良いが、軍艦も見事である。もっとも先の日露戦争で活躍した戦艦朝日などは今一、好きになれぬ。無骨でいかつい、と思う。ああいう軍艦と比べるなら馬の方がいいなと、良造は自分勝手に白黒をつけた。懐中時計を取り出して時間を見て、そろそろオレーナの機嫌も良くなっているだろうかと考える。一々気にしすぎだとは思うのだが、どうにも放っておけない雰囲気がオレーナにはある。危なっかしいところも魅力と言おうか、いずれは傾国にもなりそうな少女である。
最上甲板を見た後、姿がないことを確認してオレーナの船室をノックする。返事はない。また泣いていたりしたら嫌だなと、腹の中に大砲の弾のごとき重い物を感じながら絨毯の上を歩いた。
もしかしたらと考えながら自室のドアを開ける。丸い船窓に寄り添うように椅子をおいたオレーナが、手紙の束を手にため息をついていた。
「もっと美しさを磨くべきだった」
良造の方を見ずにその手紙の束に目を落としながら、そんなことを言う。
「真面目に美貌を磨いて来なかった、これはむくいというものだな」
泣いてはいないが、しょげてはいる。良造はどうしたものかと考えながら口を開いた。
「十分美しいと思います」
いつものように、一瞬頰を膨らませるオレーナ。美しいとは言えないが栗鼠みたいで可愛いと、良造的にはずっと思っている表情である。美しくなるということとは、きっとこんな表情を拝むことができなくなることだろう。ならばこのままで良い。少なくとも物憂げに目線を下にやるよりは、ずっといい。そんなことを考える。良造は不幸そうな女が嫌いだった。正確には、自分の好む女が不幸そうなのが嫌いな質であった。
頰を膨らませたのもつかの間、すぐに表情を戻し、憂いを帯びた横顔を見せるオレーナ。僅かな海風が、彼女の金髪を躍らせている。
「十分では駄目なのだ。予備戦力としては十分ではない。決戦を挑むこともできぬ」
将軍のようなことを言う公女ではある。良造は頭の横を軽く搔く。我が国と違ってロシアは貴族が軍事教育を受けているのだろうが、少々たとえが実戦的すぎる。
「誰と戦うんですか」
「しらない」
言外に教えたくないという内容を含ませてオレーナは言った。その瞳は怒るとすねるの中間のようである。
良造は口を開いた。
「まあ、誰と戦うかは知りませんが、自分の美貌を武器に戦うのはやめたほうがいい」
「他に私は、何もない」
「自分がいます。富士号や、あとトウゴウ号も」
馬やら犬やらまで動員して、良造はオレーナの戦力を主張した。主張したが確かに戦力は足りていない気がする。飛ぶ鳥を落とす勢いの大日本帝国、その陸軍騎兵大尉とその乗馬ながら、兵がいないのでは、士官としての真価は発揮しようもない。
見ればオレーナは栗鼠のように頰を膨らませている。どうやら、お気に召さぬ回答だったらしい。
「私の味方を名乗るなら、胸襟を開いてほしいものだ」
女性が言うと意味が違うんだがなと思いつつ、良造は苦笑する。この寂しがり屋は、気の置けぬ友人が欲しいように見えた。とはいえ、倍ほど違う年齢で性別まで違うとあってはそれがなかなか難しい。確かに戦力不足である。美貌は友人を作るのに必要だとは思わないが。
「そろそろ夕食ですね」
オレーナは憤然と立ち上がった。
「それを子供扱いというのだ。良造は私を子供扱いしてどうするつもりだ」
「どうもしませんよ。幸せになって欲しいとは思いますが」
またそっぽを向かれるのも嫌なので、良造は頭の中でドイツ語の作文をする。口を開く。
「そう、子供時代は貴重なのです。急いで捨てるのはもったいない」
「〝もったいない〟ってなんだろう」
ドイツ語にはもったいないの訳語がない。良造が知る限り、もったいないはフランス語にも英語にも中国語にも適切な対応語がない。なので、そこだけ日本語で言った。オレーナはそこに反応して首を傾げている。目には素朴な知的好奇心の光がある。良造は優しく言った。
「日本語です。意味は、捨てるのは惜しい、もっと使える、くらいの意味です」
不意に目をそらすオレーナ。
「そうか。ええと、でも子供では出来ないことがあるんだ」
言葉の最後の方は早口だった。良造はすぐに言葉を継いだ。
「自分がやります。代わりにやりますよ。貴方の子供時代がもう少し続くよう。自分が大人の仕事をやります」
目を三角にして良造を見るオレーナ。怒っている。
「子供が欲しい。結婚したい」
「順番は逆の方が良いのではないですか、いや、それはともかく」
オレーナは良造の事を、優しいから好きだという。良造はそんなことで人を愛せたりするオレーナの中に、幼さと危うさの両方を感じていた。年端もいかぬとはいえ、余裕で美人の範疇に入るオレーナの求愛を良造が拒み続ける理由はそこにある。単身日本にやってきて結婚しようと言い出したりするところも含め、捨て鉢すぎると思っていた。一度の人生、もっと大切にして欲しい。
守って、やりたい。オレーナは藤子の代わりではないが、もし幸せにできたなら、江戸の敵を長崎で討ったくらいにはなるやもしれぬ。
「そんなことしないでも、お家再興はできますし、やりますよ」
良造は優しくそう言った。オレーナは恨みがましく言った。
「アポーストル再興は大事だ。でも結婚は、それだけじゃない」
「そうでしょうとも、貴方が好きな人と結婚できるようにします」
「良造が私と結婚すればすぐ私は幸せになれると思う」
「お断りします」
良造は笑顔でそう言った後、泣きそうなオレーナの広い額を撫でた。
「大丈夫。でも貴方を幸せにします。それだけは必ず」
失敗は一度で十分だ。二度は多すぎる。良造はそう微笑んだ。
押し問答に疲れたか、その後オレーナがそういう話題を口にすることはなくなった。代わりに時々、寂しそうで悲しそうな横顔を見せる。そんな表情を見るたびに良造は自分の振るまいが正しかったのか考える。
難しい。
思えば軍隊は単純で良かった。そもそも男しかいないので、女性について頭を悩ませることがなかった。しかしそれは、軍という特殊な世界の話、世の一般の姿では、女性は半数いる。
自分が軍に入る前はどんな風に世の中を見ていたろうかと考える。当時一七歳。いやいや、良くわかってなかったなと考えた。つまり自分は娑婆のなんたるかを知らずに軍に入ってそこで何年も過ごしていたわけだ。それを悔いているわけではないが、後から見ればもっと別の、よりよい方法があったように思える。
今のオレーナ嬢は昔の自分といくらも変わらんなと、良造は嘆息した。自分がやった失敗はさせないぞ、とも。慎重にやればもっと人生があると思う。しかしオレーナは、すぐにかなしそうな顔をする。自分が悪いのか。
そもそも暇な船旅がいけない。良造は責任を船に押しつけた。馬であちこちを走ればオレーナの機嫌も良くなるであろう。自分が子供の頃もそうであった。次の寄港地を待ちわびる。
そして、シンガポールである。
季節は九月に入っていたが、赤道直下の海は暑い。カモメの数が増え始めれば陸地が近いと知れる。
良造は昼飯にでていたパンを少し残しておいた。寄港地ごとに仕入れるパンはそれぞれの国の味がして、味わい深いものがあったが、これで釣れるのではないかと思ったのである。
良造は最上甲板にあがり、パンの欠片を投げる。三白眼のカモメが器用に空中でさらっていく。見事な飛行術である。人間も空を飛び始めたところではあるが、まだまだ、空は鳥たちのものであった。面白がってパンくずを投げていると、背後からオレーナがやってきていた。見れば目を輝かせている。
釣れた、釣れた。公女が釣れた。良造は笑いながらオレーナを手招きした。意を決し、髪を編み始めるオレーナ。大ざっぱにおさげを作った姿は貴族の令嬢に似つかわしくなかったが、良造はその姿こそを、喜んだ。
風が、強い。オレーナがよろけそうになるのを良造は抱き留める。手すりをつかませ、自分はその後ろから覆いかぶさるようにして風を防いだ。
「どうぞ」
オレーナはとても恥ずかしそうにしている。頰を赤らめ、少し震える手でパンの欠片を受け取った。
「大丈夫、風からまもりますから」
大声で良造は言った。オレーナがかすかに怒るのがわかったが、良造としてはすぐにどうにでもなると考えた。なにせ我が手にはパンの欠片がある。オレーナは勢いよくパンの欠片を投げる。数羽のカモメが争いながら拾い上げる。かわいそうと思ったか、オレーナは手持ちのパンくずを全部放り投げた。大量のカモメが飛んできた。東京湾で漁をする漁船のような有様だった。
餌を求めてつついてくるカモメから公女を守り、良造は大いに笑った。元来素朴な性質である。オレーナも笑った。こちらは輝くようだった。
良造はしまったという顔をした。我が手にあった必殺の武器がなくなっている。ついばまれてしまったか。
「しまった。パンを全部とられてしまいました。戻りましょう」
「こ、このままがいいと思う」
「カモメは薄情です。すぐ離れていきますよ」
「どこかの騎兵大尉のようだ。いや、私はシンガポールが見たいのだ」
「上陸準備が必要でしょう」
「シンガポールが見たい」
何が公女を引きつけるのか分からないが、良造はうなずいた。楽しそうにしているオレーナの姿を見るのは嬉しくもある。
ともに、段々と近づいてくるシンガポールを眺める。二人くっつくのは暑苦しいと思ったが、存外そんなことはなかった。風が強くて、暑さも忘れる。
上海と比較して寄ってくる物売りの小舟がなく、良造はところ違えば歓迎も違うのだなと考えた。いや、この大風のせいかもしれぬ。この風では小舟は出せまい。大風はどこか煙たく、ほのかに灰の臭いすらした。火事でもないし、船の煙突からの風というわけでもない。見える範囲で工場があるでもない。不思議なこともあるものだ。思う内に、段々とシンガポール市が見えてきた。白い壮麗な建築物の多いところである。海岸に面した大通りに銀行が多いのは、ここも同じであった。
寄港地シンガポールは同盟国である英国植民地で、貿易にて栄える。シンガポール市の川沿いには大量の倉庫街が出来ており、ここを中継点として荷物が載せ替えられ、運ばれていくのである。
日本の欧州航路は同盟国イギリスあっての話である。日露戦争を戦った大艦もイギリス製であったし、大量に発行した戦時国債を引き受けたのもイギリスだった。イギリスさまさまである。いや、イギリスこそが日本を使ってロシアを討ったというべきか。
そのイギリスの植民地に一つ一つ寄港する形で船は進む。自分たちは途中で下船するにせよ、この船、若狭丸の最終目的地はイギリスはロンドンである。大英帝国巡礼といった感じであった。
いつかは我が国もこのような大帝国を目指すのかなと、良造は考えた。いや、目指してはいる。角砂糖も国産化するだろうし、船の歴史の本もそのうちには国産ででるであろう。自前で植民地を持ちたいと思うのは、時間の問題である。本国から遠く離れた赤道直下のこの島で、ユニオンジャックの国旗が翻っているのを見れば、誰しもそう思うに違いない。国が上に行くとはそういうことだ。個人の栄光もそれに寄り添うような形としてある。
思えば自分がシベリアの地でコサック国家を建設するのも、この一環というわけだ。日本は今、必死に上を目指してあがいている。
オレーナを見下ろす。オレーナは小さく咳をしている。煙にやられたかと考えて、有無をいわさずその手を取って船内に避難した。咳をしながら涙目で名残惜しそうな顔をしているのを見て心動いたが、良造は結局、オレーナの健康こそを優先した。
「なぜか煙たいところですね」
「うん」
特に不機嫌ではなさそうなオレーナを見て、良造はシンガポールを見たいのではなかったのかと思いはした。だがまあ、煙たいのは事実である。
さりげなく袖に顔を近づけ、少し休んでくる、すぐ戻ると言って自室に戻るオレーナ。良造は荷物をまとめて、上陸に備えた。船旅の退屈を紛らわせるのは上陸である。それに彼には馬もいればオレーナの犬もいる。これらを外に出して運動させてやらねばならぬ。
休むと言ったわりにすぐにオレーナは戻ってきた。白のブラウスに薄い灰色のワンピース。着替えてきていた。
「着替えたのですか」
「臭いが気になった」
僅かに声を落として、オレーナは言った。良造には、良く分からぬ。紅茶もそうだがこのころの日本人は、うまい匂い以外にはとんと反応せぬ。
「上陸はどうするのですか」
「もちろん一緒に行く」
「だったら着替えなくても」
「そこは気を遣うのが乙女というものだ」
オレーナは年の割に豊かな胸を突きだしてそんなことを言った。
まあ、そういうものかもしれぬ。思えば毎日違う組み合わせで服を着、小物を変えて同じように見えぬよう、努力をしていたのを思い出した。
貴族とは大変だなと、良造は思う。それでいて、日本に来たときには服を盗まれていたにもかかわらず、何事もないように振る舞っていたのがおかしかった。武士は食わねど高楊枝というが、コサックも同様らしい。
服でも買ってやりたい。良造はそんなことを思う。もっともこの頃、服に既製品などというものはなく、シンガポールの仕立屋で頼んだところで出航にはとうてい間に合わない状況だった。
そこをどうにか出来ないかと考えながら、良造は入港の知らせを聞いた。港での手続きが終われば、上陸出来るはずだった。
シンガポールは、暑い。まだしも海の方が涼しいことがわかった。日差しは頭を焼くようで、海の上など比較にならぬ暑さである。船はここで一日を過ごすという。翌日にはマラッカ海峡を抜けて、ペナンに寄港する。
馬の鞍を担ぎ、下ろされたタラップを降りながら港を見れば、同盟国イギリスの軍艦が並んで錨を下ろしているのが見えた。
見れば港の各所には砲台も置かれており、旅順のごとき要塞化した姿を見せていた。話を聞くに、倉庫ばかりの中継地という印象であったが、おそらくは中継地だけに、価値が高いものらしかった。聞くのと実際に見るのでは大違いだなと、良造はそんなことを考えた。
クレーンで馬が降りてくる。馬の名を富士号という。良造とは日露戦争前からのつきあいで、老齢を機に払い下げを受け、今では良造の個人的な馬となっていた。セン馬である。良造の姿を見るや近づいて頰をすり寄せて良造の身を案じた。
「大丈夫大丈夫、お前は変わりないか」
富士号は尻尾を揺らして良造に返事をした。微笑み、鞍を載せる。一方でオレーナは麻袋に入れられて運ばれてきた犬のトウゴウ号に抱きつかれて顔をなめまわされていた。尻尾がちぎれんばかりに揺れているところからして、散歩がしたくて仕方なかったのであろう。
それで、犬の首に紐をつけて馬には乗らず、散歩をすることにした。馬に乗るのは、犬の散歩が終わってからになるだろう。
トウゴウ号は精悍な体つきをした、黒と銀色の毛を持つ青い目の犬である。目はカモメのような三白眼で、泣き虫の子供が見れば怖いという印象を持つに違いない。しかし良造は、この犬が妙に愛嬌を持っていることを知悉している。今実際に甘えた声をあげながらオレーナに抱きついているのがその証拠である。オレーナは行きつ戻りつ、くっついてくる犬の毛で、早くもまた着替えが必要そうな有様だった。
「ほら、言わんこっちゃない」
「いいんだ。この子も寂しかったろうから」
トウゴウ号をなでながら、オレーナは言った。良造は頭を搔いた後、荷物を持ちますと口にした。やはりオレーナに服の一つも買ってやりたい。彼女をからかった代価にはそれくらいがふさわしい。
それにしても港の規模の割に、人通りが少ないのはなぜだろう。煙といい、不思議なこともあったものだ。
隣を見ればオレーナが、白い手袋をつけてさらに日傘まで差している。
「厳重ですね」
「予備戦力を拡充せねばならない」
オレーナは真剣そうにそう言った。予備戦力とは美貌であろう。良造はどう反応するか迷いつつ、馬とともに歩き出す。オレーナは犬が走るので、日傘を置いてけぼりにしそうな勢いで小走りだった。
あわてて良造が紐をとろうとした。間一髪で間に合わず、良造はオレーナの腰に手を回して引き寄せ、犬の紐をとった。
オレーナに馬を任せ、犬と走る。
犬ことトウゴウ号は、全力で走り回りたくて仕方がない様子である。紐を全力で引っ張り、あちこちに行こうとし、良造の周りを回ってあげくに自分で自分に紐をかけた。お縄になった。きゃいんきゃいんというので苦笑しながら紐をはずす。あろうことか恨みがましい目で良造を見る。
「いや、それはお前のせいだろう」
良造は苦笑しながらその頭を撫でた。この犬は、まごうことなき駄犬である。だが可愛い駄犬ではあった。
「狭かったか。走りたかったか」
トウゴウ号は青い三白眼を動かさずに良造を見たまま、尻尾を勢いよく振っている。それが答えのようであったか。
それで良造は、少々走った。犬につきあって走ったのである。オレーナは富士号の手綱を引いたまま、その姿を見て笑っていた。
「お前の主人も喜んでいるぞ」
良造は走りながら言った。直後にトウゴウ号は耳を立て、即座にきびすを返して全速力で戻り始めた。走りだけは立派な犬であるが、良造は駄犬めとののしった。ついて行った。
馬の富士号がいなないて、後ろ脚で人を蹴っている。
しまったあれは死んだなと良造は思ったが、それどころではない。オレーナがさらわれようとしている。人数七、八。紳士とは到底言えぬ風体。馬車二台。白昼堂々またかと呟きトウゴウ号の首についた紐を手放し、自身も矢のように走った。この間に富士号はオレーナを守るようにその巨体を動かしている。後ろから近づけば蹴り上げるのである。馬は軍馬として訓練されていても、乗り手がいないと前方の人を攻撃するようなことはない。元来優しい動物なのである。
良造は最初の跳び蹴りで一人の背中を蹴った後、金的を踏みつぶして左手の人差し指で別の一人の目玉を潰した。オレーナの眼前で人を殺すのは忍びなく、それで良造は手加減したつもりである。少なくともその場で殺さぬようにはした。
幕末にかけて実戦で磨かれた剣術は、日本陸軍が火力戦を指向するうちに随分廃れていたが、自ら時代遅れというように良造はこの手の技術に天性の才があった。人の命が鳳の羽の重さほどもない日露戦争中に花開いてしまった、人を傷つけるのになんの躊躇もないという才能である。
トウゴウ号が一人の喉笛に嚙みつき、嚙みちぎった。馬一人、犬一人、良造二人と敵の半数を殲滅し、良造は残りを料理に掛かった。敵はすでに逃げ出していた。
銃を天に撃ちながら、騎兵が走ってくる。反応が早いなと良造は舌を巻いた。上海とは違う。
この頃、騎馬警察は後のパトカーのような役割を果たしている。事件があれば一番に駆けつけるのは、機動力あふれる騎馬警察だった。馬の少ない日本だけが、機動力のなさを派出所や交番という人の数で補おうとしていた。
分隊長は白人、濡れたような黒髪の男だった。元は女と見間違うほどの美少年だったと思われたが、今は髭を蓄え、性別など間違えようもない様子である。
状況というよりも惨状を見渡し、英語かと思うが何事かを言った。
オレーナを見る。オレーナはドイツ語でこの者達はさらわれようとした私を助けただけだと言った。
良造はトウゴウ号の紐をとり、富士号の手綱を引いてもって恭順の証とした。大英帝国は同盟国である。国の密命を帯びる以上、騒ぎは避けたい。
「ドイツ語は使えない訳じゃないが、俺はロンドン子でな」
分隊長はそんなことを言った。良造は意味を取りかねたが、オレーナは頭を下げた。
「苦労をかける」
「あんた貴族のお嬢様、そうだな、その男は中国人の下男に見せかけて用心棒。馬は年取ってるがまあまあだ。犬は毛並みの色が気にくわないが最高の部類だな」
濡れたような黒髪を振って、分隊長はそう値踏みした。
オレーナは顔を僅かにしかめている。下品だと思ったようだったが、同時にそれが、彼なりの尋問であろうことも理解しているようだった。
「彼は日本人だ」
オレーナは言葉少なに答える。馬上にて大きくのけぞってみせる分隊長。
「日本人! ここでもまた戦争する気か。ここは同盟国だぞって教えてやってくれよ」
良造は口を開いた。
「戦争する気はありませんし、大英帝国が重要な同盟国であるのは一国民に至るまで良く知っております。おかげでなんとか面目を保って勝てたのだとも」
片方の眉をあげて妙な顔をする分隊長。
「なんだ喋れるじゃないか。英語は?」
身を乗り出して、分隊長は言った。
「申し訳ないが」
「申し訳ないから始まるあたりは確かに日本人だな。ドイツ語しか使えなさそうなのは同盟国として気にくわないが。まあいい。俺は元王室騎兵隊のグレン・ピエール・ホワイトフィールド」
「リョーゾー・アラタです」
グレンの目には面白そうな光がある。珍しい猿でも見かけたような顔だったが、同時に少しの親切もあった。間をとって猿の弟を見つけた感じだなと良造は思う。この頃においてはあまり不思議ではない態度である。むしろ良造からすればオレーナの人種への無頓着のほうが、少々異常であった。
「んじゃミスターアラタ、ご同行願えるかな。市中で暴力事件はさすがに困る。もちろん自己防衛だったのは異論の余地はないにしてもだ」
「了解しました」
「あんた騎兵だったろ」
「はい」
「だろうな」
グレンはにやりと笑って、良造に騎乗を許した。騎兵の心、騎兵知るという奴であった。どこの国も騎兵は騎兵に親切だった。同じ病にかかった同輩のような扱いをする。
良造は鞍につけた袋に犬をいれ、自分の前にはオレーナを乗せ、富士号を歩かせた。
並びつつ、苦笑するグレン。
「歳のいった軍馬につらくないか」
グレンは富士号を気遣いながら言った。そして細やかに馬を気遣うからには、グレンが元騎兵というのは間違いないところである。良造は同じ職の気安さで頷き、口を開いた。
「目的地についたら馬を一頭手に入れるつもりでした」
「それがいい。ほら、そこだ」
連れて行かれた先はイギリス海軍の屯所である。海に向けた海岸砲から延びる石組みの敷地、その端に間借りするように建物がある。ペンキで白く塗られているのは、おそらくは日差しを少しでも避けようという知恵であろう。
室内には日差しはないが、暑い。建物内のありとあらゆる窓を全てあけていても暑い。それでいて日本と違い、誰も扇子を使っていないのは少々異常にすら映った。
「人員が少ないようですが」
「この時間に働くのは貧乏くじだ」
良造は人通りが少ない理由を知ったような気になった。オレーナを見る。オレーナが駆け寄る。不安そう。良造は大丈夫ですと口を動かしたあと、そっと手を出す。オレーナは顔を赤くして子供扱いかと目を怒らせた後、結局はその手を取った。
その様子を片目で見て、口笛を吹く真似だけするグレン。王室騎兵隊というものは良く分からぬが、日本で言うなら近衛だろう。それにしては砕けているというか下世話な行動、態度である。話に聞くアメリカ人にすら似ているが、アメリカのそれは田舎者の態度であってグレンはそう、下町といった風情である。日本のようなかなり特殊な騎兵後発国はさておき、自弁する物が多い騎兵を下町生まれがどうやって勤めるのだろうかと、良造は不思議に思った。裕福でないと、騎兵はやれぬ。大昔ほどではないにせよ二〇世紀になった今も同じである。
誰かが出てきて対応するかと思いきや、グレンはそのままデスクに行って自ら茶まで出し、聞き取りして書類を書き始めた。その多芸さと細やかさに良造は驚嘆する。オレーナを見ると、オレーナは特に驚いてもいなかった。欧州ではそうなのだろうかと良造は考える。いや、そんなことはあるまい、とも。
「んで、犬の散歩中に人攫いにあったと」
「はい」
「これは記録には残さないが、ひょっとして恒常的に狙われているとか?」
良造とオレーナは互いを見る。目を細めるグレンに向かって、小さく頷く。
「やっぱりな。お前等の対応も早けりゃ、向こうも組織的だ。この先全部で、こんな騒ぎを続けて行く気かい?」
グレンは濡れたような黒髪を振りながら、そんなことを言った。黙るしかないオレーナと良造。
考えてみれば敵、オレーナのいう飼い主とやらは、恐らく横浜にて待ち受けていたに違いない。日本で騒ぎが起きなかったのは今日本と事を構えたくなかったからであろう。静かに監視をし、そしてこの船にオレーナが乗ったことを知って各地で行動している。
「んま、俺が言うようなことじゃないが、策の一つも立てた方が良くないか。三度目はうまくいかないかもしれないぜ。ほい。聴取終わり。今日は揺れないベッドで寝るつもりかい?」
「はい」
「うちの海軍が使ってる宿がある。紹介料は一〇%だ」
良造は笑って頷いた。値段分の働きは期待できそうである。
「お願いします」
「任せておけ」
グレンは笑うと席を立った。すぐさま襲ってくるような事もないだろうが、護衛までついて一〇%なら安いものである。
良造は再び馬に乗って歩いた。
ともすれば、目を開けていられないほど風が強く、そして、煙たい。
手拭いを取り出してオレーナに与える一方、馬を近づけて理由を尋ねた。
「風はまあ、この季節ならこんなもんだ。煙たいのはスマトラ島だよ」
近くの島で焼き畑農業が行われているからだという。海を越えて煙が来ているのかと、良造は不思議な気分になった。
「ま、山火事のこともあるがね。どちらにせよ迷惑な話だ」
シンガポールは川沿いに大量の倉庫が並ぶ市である。山がないため川は緩やかで、緩やかであるが故に、淀み、悪臭がした。
この時代の倉庫街は活気にあふれている。荷卸、荷運びに大量の人足たちが働いているからである。人種もいろいろの人々が荷物を担ぎ、列をなして運んでいくのは心躍る物があった。
「シンガポールは三角貿易の中継基地なのさ」
グレンはそう言って、表通りに向かった。来た道を戻るのである。途中曲がり、出た先は先ほど通っていた道路から一本奥まった道路であった。
表通りと違って陰になりやすいせいか、白塗りの建物は少なかったが、いずれも石造りで立派そうではある。横浜と違って裏通りになるとすぐに日本家屋が立ち並ぶというようなこともない。良造はそれで、この地の歴史の深さを知った気がした。少なくとも横浜よりは数十年は長い歴史を持つはずである。
ホテルの一階は巨大なバーであり、イギリス人と思われる白人たちが、疲れ果てたように酒を飲んでいる様が印象的だった。
「暑いんだよ。ここは」
誰に言う風でもなく、グレンはそう言った。酒でも飲まなければやっていられない。という話らしい。
驚くほど高いというわけでもないが、日本人となるとグレンという保証人がいないと泊まれない程度の格式のホテルだった。二つの部屋を取り、軽く頭を下げてグレンに金を渡す。嬉しそうに笑いかけ、何かあったらここらのボーイに伝えてくれと言って去っていった。
ボーイに荷物を運んで貰い、犬と馬の世話も頼んでさらに金をはずんだ。インド系らしい端整な顔をしたボーイは白い歯を見せて恭しく頭を下げ、去っていく。オレーナに、では後でと分かれて二秒。オレーナが部屋にやってくる。割り当てられた自室に荷物も置くこともない様子だった。
「なんだこのホテルは、信用できない」
オレーナは怒っている。
「何が、ですか」
「日本人だからといって身分を改めていたろう」
幕末にかけて不平等条約を押しつけられてからこちら、伍せる国になりたいと日本が必死に働く原動力がこの手の差別である。実際のところこの地の対応はさほど悪いというわけでもない。良造自身は留学経験がないが、留学した多くの同僚達の話を聞いて大変なのだなと思ってはいた。同盟国になったところで、そんな事情がすぐに変わるわけもない。
なので、良造に怒りはない。なかったがオレーナが怒るので思わず広い額を撫でて微笑んでしまった。しまった、子供とはいえ女性にする態度ではなかったな。
「なに。あれだけ騒ぎを起こしてこれくらいで済んでいるのですから」
急に下を見るオレーナ。手にした手拭いをいじっている。
「すまない」
「いえ。自分も油断していました」
オレーナは良造を見上げる。
「そういう事じゃなく、良造を巻き込んだ」
「気にしないでも。これは自分の元部下の言ですが、自分は荒事向きだそうです」
良造は一歩離れた。大風が吹いてもいないのに、この距離は近すぎると思ったのである。下を見るオレーナ。
「良造は騎士なのだな」
「元騎兵です。貴方の幸せを願っているだけです」
「今日はここで寝る。そう決めた。このホテルは信用ならない」
少しうわずった声で、オレーナはそう言った。顔を見ようとすると顔を背ける。顔が赤い。
いや、あのグレンという男は信用できますと言い掛けて、良造は頭を搔く。ドイツ語で、しかも女性にうまく説明出来る気がしない。
「分かりました」
それよりは椅子の上で寝たほうがずっと良いというものだ。もう一つの部屋は、オレーナの着替えや入浴に使われることになるだろう。
良造はグレンのことを考える。なんというか馬があう、そんな感じの男である。軽薄そうだが約束は守るし、危機においては勇敢に戦いもするだろうとそんな感想も持った。何故かと言われると良く分からない。戦争で死んだ戦友に、加納に似ていたからかもしれない。奴も軽妙ではあったが、死んだときは勇敢であった。手にした拳銃を指から離すことが出来ず、一緒に荼毘に付したとも聞いていた。それは単に死後硬直だったかもしれないが、良造としては、最後の最後まで戦った結果であると思っていた。立派な最期であるとも。
それに似ているから信用する。そんな理由で人を信用してはいけないだろうが、そう思ったのだから仕方ない。
まあ、なるようになる。良造はオレーナに微笑みかけて、荷物の整理をした。
「しかし、参りましたね。毎回これでは気が滅入る」
この調子では寄港するたびにまた悶着がありそうである。
オレーナを見るとしょげている。良造はあわてた。
「いや、別に」
「良造はいつこの旅をやめてもいい」
「やめるわけないでしょう」
「私を幸せにするためか」
何故か悲しそうに、オレーナはうつむいた。
「お家再興をするのでしょう」
「でも、良造が怪我をしそうだ」
「大丈夫です。死んでも満足していますよ」
戦争に勝って、いや、戦争に勝ちが見えてから兵が命を惜しむようになって、勝ったあたりからロシア人や中国人を踏みつけるおもちゃが売れ出した。段々とおかしくなっていくような姿を見ることがつらくなって良造は軍と日本を飛び出した。藤子が自分に噓をついている姿を見るのが忍びなく、家も捨てた。捨てたからこそ、良造は今もなお日本も藤子も愛している。
そのきっかけをくれたのはオレーナである。良造はオレーナの幸せこそを願っていた。人を殺すこと、人を傷つけることに何の感傷も抱かなくなった壊れた彼にとって、それは悪くない残りの人生の使い道だった。
「死んではだめだ」
オレーナは息を吞んだ後、震える声で言った。
「簡単には死にません」
「死ぬのはだめだ」
オレーナは良造に近づいてその袖をつかんだ。良造を見上げる。
良造は目をそらした。
「分かりました」
「良造が変なことを言うから調子が悪くなった、横になる。側にいるように」
それで、靴を脱いでベッドに横になってしまった。寝間着にすらなっておらず、犬の毛がベッドに付着しそうだったが、良造は苦笑するだけにとどめた。今日は中々の働きである。あの犬は駄犬ではないかもしれない。
窓から差す西日が強烈である。良造はまともな飯を食い損ねたなと窓の外を見た。南側は表通りの建物があるから仕方ないにしても、西日の差すところに窓はどうかと思った。どうかと思いながら、窓の外を見る。緩やかな海岸線と、海が見える。西日に赤く染まる海は美しく、良造は考えを改めた。きっとこのホテルを建てた者は、建築現場の足場から、この光景を見て、西に窓を作ったに違いない。
良造は椅子に腰掛けて日が沈むところを眺め始めた。手に酒があればなと思ったが、酒を探しに行くよりもこの光景にこそ心を奪われた。
夕日が沈み、夜の帳が降りる。良造はゆるりと立ち上がり、遠いところへ来てみるもんだなと考えた。日本の空とはどこか、違った。
太陽や海の水はどこも同じであろうから、空気が違うのかもしれぬ。良造はそんなことを考えた。見ている人間の気分によっても違う風に見えるのだろうが、そこまで来ると哲学になりそうではある。
郷里秋田の北の方、東京、習志野、黒溝台、いろんな場所の日の入りを見てきた。今後も見ることになるだろう。意識してこなかったが、見比べるのも面白そうである。オレーナについて世界を巡れば、まあ死ぬまでにあといくつかは見ることになるだろう。良造はそれで一人笑顔になった。楽しそうな人生だった。
すぐにランプを持ってボーイがやってくる。ドア前で応答、食事をどうするかと英語で話をされ、身振り手ぶりでいくらか、ここで食べるなどを伝えた。ボーイは難しい顔をしたが、良造が多めに金を渡すと、ウインクして去っていった。大丈夫かどうかは分からぬが、さてどうしたものか。
ランプを机に置き、椅子に座って腕を組む。
大きな音を立てて慌ててオレーナが起きあがったのが見えた。金色の髪が乱れている。良造は目を逸らしながら、懐中時計を出した。
「今は一九時です」
「嫌な夢を見た」
オレーナはベッドの上で髪を束ねながら言った。
「どんな夢でしょう」
「起きたら良造が居なくなっていた」
「ずっと部屋に居ました」
オレーナは急に自分の顔を気にしている。涎でもあると思ったか、それとも別の何かか。良造が目を逸らしていると、身なりを整えたオレーナは恥ずかしそうに言った。
「寝顔には自信がないから、今後は見ないように」
「今回だって見てはいません」
「ぶっきらぼうに」
「見ていない」
「……考えが変わった。見てもいい。いや、見ろ、気をつけて寝るから」
さっきと違うことを言っているといいかけて、良造はノックに反応して席を立った。オレーナの姿が見えぬようにしながら、ドアを少しだけ開く。ボーイだった。
紙袋。おそらくは料理であろう。良造は笑顔で受け取って、ありがとうと頭を下げた。笑顔を見せ、去っていくボーイ。どうやら、金は口より的確に物を言ったようだった。
ドアの向こうを見ようと、首を傾けるオレーナ。
「どうした?」
「食料を頼んでいました」
「ぶっきらぼうに」
「食料だ」
しゃべり方が他人行儀だと、この頃オレーナは良造にしゃべり方をかえるように要請する。この時もそうだった。
オレーナは少し嬉しそう。ベッドの縁に腰掛けて足を揺らした。
「うん。正直に言うとお腹が空いていた」
良造は微笑んで机の上に料理を載せる。厚切りのあぶったベーコンと、まだ青いと思われる果物の薄切りを挟んだサンドイッチ、チーズもある。葡萄酒が入っているのは嬉しいといえば嬉しい。他に南国の果物がいくつか。
四人前はありそうだった。温かい物が欲しいと思うのは自分が日本人だからだろうか。良造は食物を並べ終わって机をベッドの縁に座るオレーナの前に動かした。重い椅子を動かして、自分はその前に座る。
オレーナは難しい顔をしている。
「なにか?」
「いくつかあるが、最初に言うべき事は、この座り方に不満がある」
「椅子の方に座りますか」
椅子は一個しかない。オレーナはちらりと横を見た。
「私の隣が広大に空いていると思う」
良造が見たところ、広大には到底見えなかった。
「いつも差し向かいで食べていたでしょう」
「ぶっきらぼうに」
「差し向かいで食べていたろう」
「今日は横がいいんだ」
良造は良く分からない。正面から顔を見られたくないのか。まあ、寝起きだからそういうこともあるやもしれぬ。
仕方なく、横に座った。少々ベッドが深く沈み込み、横のオレーナも傾いた。少し滑って距離が近づいた。
「やはり無理では」
「いいんだ。それとも私の横は嫌か。そんなに嫌か」
「嫌ではありません」
「ぶっきらぼうに」
「嫌なわけないだろう」
オレーナはにこっと笑った。嬉しそう。
「では次だ。食器がないのはともかく、ナプキンがないぞ」
「手拭いがあるでしょう」
オレーナは手拭いを大事そうに胸元に引き寄せた。
「これはダメだ。綺麗な模様がたくさん入っている」
「日本ではそんなに珍しいものではありません」
「ダメだ」
オレーナは下を向いた。
「これは良造がはじめて私に渡したものだ」
服や簪とかならまだしも、それに何の意味があるんだろうと良造は思ったが、オレーナの頑固さは良造など話にならない。
良造はあきらめて紙袋を破って臨時のナプキンとした。船旅というのをさしおいてもこの時代の洗濯は一大事業である。食事の際、洗い物を減らす為のナプキンは必須だった。
「こんなものしかありませんが」
「十分だ」
オレーナは顎を突き出しながらそう言った。まだ不満そうな顔をしている。手拭いを使えは、よほど不当な指示のようであった。
それにしても紙袋というものは、中々にして便利そうなものではある。ただ耐久性に劣るので、日本ならば風呂敷を使うところであろう。あるいは逆か。この紙袋は風呂敷のない国の知恵、というものかもしれぬ。
オレーナは果物を見る。黄色や赤の、中々にうまそうな甘い香りがする。
「ナイフ、フォークがないのはいいとして、果物をどうするかだ」
「そうですな。ナイフは」
良造は袖口から忍ばせていた小柄を取り出した。目を丸くするオレーナ。
「果物はこれで」
「良造は暗殺者か何かか?」
「いえ、洋服では袖に財布も入らずどうにも軽いので」
「変わったナイフだな。綺麗な装飾だ」
「小柄といいます。脇差の外に付けておく、まあ、工具です」
本来刀や脇差を整備する道具である。しつらえを日本刀に戻した助広はより細やかな整備が必要で、一方で長脇差ではあるまいにと良造は小柄を刀に差すのをいやがり、とはいえ小柄を運ぶために大小差す時代でもないとして、袖口に収まっていたのだった。
「工具でこれなのか、日本は豊かなのだな」
オレーナはそんなことを言った。良造の認識としては日本は貧しい、と思うのだが、このあたりは捉え方の違い、であろう。ロシアでは細工あるところは豊かであると思われているようである。
日本の場合、細工より性能がより重要と思われている。追いつけ追い越せという言葉が合い言葉になっている今、海外にはあって日本にない物を作るのに精一杯で、細工にはなかなか目がいかない。
「まあ、豊かかどうかはさておき」
破って残った紙を折って、良造は紙箱を作って臨時のゴミ箱とした。
目を丸くするオレーナ。
「良造はおとぎ話の住人だな。日本人は器用だ」
「そういうものですか」
「私はレースを編めるが、日本人にやらせたらすごい物ができるような気がする」
良造はレースを編んだりはできない。
器用と言うよりも、その背後にある文化が大いに違うのだろうと、良造はそう考えた。
若い果物は大根のよう。しゃきしゃきして焼いたベーコンにあう。オレーナを見ると、小さく小さく食べている。視線に気づいて恥ずかしそう。素手で食べるのに抵抗があるのやもしれぬ。
「あんまり見るな。子供のように何か落としたら、恥ずかしい」
「それで横にと?」
オレーナは顔を赤らめた。
「結ばれることはなくても横にはいて欲しいと思うのは、罪だろうか」
「すぐに貴方好みの紳士が貴方を好きになりますよ」
「ぶっきらぼうに」
「大丈夫だ」
良造はこの姫君が、分別のある大人になった時のことを思う。いろんな輩から言い寄られるに違いない。いい未来だ。
「大丈夫じゃない」
じゃあ、どういえば良かったんだろうと良造は思ったが、思うだけで口にはしなかった。チーズを切ったり、果物の皮をむいたりしていたためである。
食事を一通りすませ、一息つくオレーナ。
良造は少々酸味が強すぎるワインをもう一杯飲むかどうか、悩んでいる。懐紙を取り出し、小柄を拭いながら葛藤する内に袖を引っ張られる。オレーナだった。
「重要な話をする。私の手を握って欲しい」
またも言い寄られたら即座に離そうと思いつつ、良造はオレーナの小さな手を取った。オレーナはいつのまにか髪を整えている。息を吸って、良造を見た。
「今後のことだ。私の飼い主は、港ごとに追っ手を置いていそうだ」
「すごい財力だ」
「金のかけどころが違うといいたい」
良造はオレーナの手を持ちながら、その顔を見た。その目は少女や乙女というよりも、決断を前にした若い将軍のようである。それで良造は、手を離しそこねた。
「対策をしたい。少し苦労するがついてきてくれるだろうか」
「もちろん」
良造は笑った。どうあれ彼女を一度は国に戻してやらねばならぬ。
「今回はさておき、次やその次は大変だと思う」
「ええ」
「船の航路や予定が押さえられている」
「船会社に問い合わせればいいだけですしね」
オレーナは頷いた。良造の手を強く握る。
「相手の欲するところを施すなかれ。軍事の基本だと私は習った」
「その通りです」
自分でもそうは思っていたが、その先の踏ん切りがつかなかった。あるいは次もイギリス領だからと考えもしていた。オレーナはそれではだめだと言う。
オレーナは口を開く。
「待ちかまえているところに行くことはない。遺憾ながら、船から降りるべきと思う」
良造は頷いた。オレーナはそれで勇気を貰ったか、言葉を続ける。
「今日、川べりの倉庫を見た」
「ええ。グレンがわざわざ見せていましたね」
「この市は船便が多いと思う」
「海上交通の拠点、中継基地だそうです」
「乗り換えて移動したい。どうだろうか」
良造はいい考えですといいながら、グレンの事を考えた。彼は謎解きの手がかりを教えようとしていたのだろうか。親切なら口に出していえばいいのに何故だろう。
「荷物は全部持ってきていたな」
「あります」
良造は頷いた。船内にも追っ手がいるかもしれないと、用心して荷物は一切合切持ってきている。
「予定より大変になると思う。ついてきてくれると嬉しい」
「最初に聞いたじゃないですか」
「そうだけど、最初に尋ねたのは、狡い聞き方だったと思う」
オレーナは恥ずかしそうに言った。年若い潔癖な女将軍だなと良造は思った。現場叩き上げの尉官と比べてよほど筋がいい。
「ありがとう」
良造は笑って手を離して立ち上がった。
「そうと決まれば準備をしなければ」
「なにを準備するんだ」
「向こうも待ちわびていると思うので。風呂にでも入っていてください。すぐ戻ります」
上着をとって階段を下り、騒がしいというよりは今が本番というホテルのバーを見る。せわしなく働く、見知ったボーイに手を振って、部屋にお湯をたのみ、同時にグレンの名を言う。
インド系のボーイはうなずいて手をあげた。バーで飲んだくれている男たちの中から、濡れたような髪の男が両手をあげて立ち上がるのが見えた。グレンだった。
「思ったよりはかかったかな。彼女の説得に時間かかったかい?」
近寄りながら、そう言うグレン。手には酒杯を二つ持っている。一つを渡すグレン。
「いや。食事をしていた」
良造は言葉少なに言う。冗談と思ったか、顔を笑わせるグレン。
「こいつは俺たちの勝利に」
「感謝する」
「何、必要経費さ。しかし飯を食っていた、か。せっぱ詰まっていたように見えたんだがな」
「このホテルに襲撃をかける可能性は低いと思った」
片方の眉をあげるグレン。バカは嫌いだぞという顔をしている。
「そりゃまたなぜ?」
「グレンという男は信用できる」
良造はそう言った。グレンはしばらく考えた後、急に饒舌になった。
「日本人はお人好しか。それとも美辞麗句がお得意か」
「どちらでもない。戦争でいろんな人間を見てきた」
「俺みたいなやつはいたか」
「いた」
「軍法会議で縛り首にでもなったか。上司にはめられて」
グレンは笑って言ったが、目は笑っていない。あるいはそれこそ、本当の彼の過去かもしれない。良造は無視して口を開いた。
「二階級特進した。最後まで勇敢だった」
「俺は死なないぞ。死んでやるものか」
グレンは心の琴線に触れられたかのようにそう言った。
「お互い、元騎兵だ。我々の戦争は終わった。あとは個人の自由じゃないのか」
「あんたの自由はあの姫さまか」
良造はグレンを見た。
「イギリスの騎兵は、死ぬかどうかを考えて馬に乗るのか」
騎兵は戦果の事を考える。そうでなければ馬のことを考える。どちらにも問題がなければ食事のことを考える。自分のせいではなく死ぬ要素が多すぎて、命のことを考える事はない。騎兵の死は、いつのまにか死んでいた、である。
馬という簡単にどこまでも逃げる道具を預かる以上、命令に仕方なく従うような人間は配置されない。騎兵は命令を守るものではない。騎兵が守ってやっているのが命令である。騎士の時代から連綿と続き、宗教の別を問わず、どこの国にも通じる、世界共通の話だった。
グレンは頰を紅潮させた後、良造に渡した酒まで飲んで早口で口を開いた。
「グレンだ。俺の名前は、グレン・ダヤン・ゴールド」
「昼に聞いた名前と違うな」
「……本名だ。あと、俺はユダヤ人だ」
良造はユダヤ人に対する印象が特にない。言われてもぴんとこなかったし、表情も変わりようがなかった。だがグレンには、それがとても重大なことのようだった。グレンは感動の面もちで良造をみた。
「俺も騎兵だった。心は騎兵で居続けたいと思っている」
良造は頷いて口を開いた。
「船が欲しい」
「用意する。安くはないが」
「どれくらいだろう」
グレンは黒い手帳に数字を書いた後、難しい顔で数字を書き直した。ちぎって渡した。
「安くはないが、これ以上安くすると、人の口に戸を立てられなくなる」
「分かった。払う」
「出来高払いだ。明日、六時にここへ」
「分かった」
良造は引き揚げた。階段をあがり、グレンに黙礼する。
グレンは気むずかしい顔をしたが、軽く敬礼した。帽子をかぶっていなくても馬上では敬礼することが許される。うっかり事故を防止するためである。グレンは自分が騎兵だと、物言わずして語ってみせた。
やはり信用できるじゃないかと思いながら、部屋の前に戻る。ノックする。
「今風呂だが、入っていい」
オレーナの声が聞こえた。
良造はドアに背を預けて待つことにする。彼女が日本の風呂事情をどう勘違いしているか分からないが、日本にも良識はある。
背中を叩かれたような衝撃。押されたような圧力。ドアが押されている。良造は慌てて離れる。
寝間着に着替えたオレーナだった。濡れた髪がいくつかの束になっている。目は、怒っていた。
「入ってきていいと言ったじゃないか」
「船の手配が出来ました」
「あ、そうなんだ。いや、そうじゃなく!」
オレーナは大きく手を横に振った。
良造は背を向け、自分の荷物から手拭いをいくつか出した。
「これを。これは取っておかないで、髪を拭くのにつかってください」
「ありがとう」
オレーナは三度目の怒りを表現するかどうか、迷った。迷いながら口を開く。
「良造は私のことが嫌いなのだろうか」
「嫌いな女のためにここまではこられません」
オレーナは迷いが深くなった。髪を拭く手拭いを受け取りながら言葉を探す。
「じゃあ、ええと。なんだろう」
「大事にしているのです」
「結婚はしないとか言ってるくせに」
「それはそれ、これはこれです」
良造はにわかに怒るオレーナをなだめた後、優しく口を開いた。
「さすがクロパトキン将軍の係累か。状況判断も決断も大したものです」
「血筋につながりはない。子供の頃から、退屈していた私にお話をしてくれただけで」
「なるほど」
「でも、役に立ったのなら嬉しい」
嬉しいどころか、今後もオレーナの意見を聞こうと考えた良造である。自分は尉官どまりの男だが、彼女は違う。軍歴はないが将軍の器だと思った。もとより人間が馬の代わりに車を引くのを不思議に思わない国の出である。騎兵が馬に任せて走るように、良造はオレーナに任せてみようと考えた。適性とは関係ない東北出身という要素で出世を阻まれた、馬と人の区別ができていないと世界的に酷評される日本人で、女が働くことを普通に思っていた田舎者の騎兵だった彼だけができるような考えである。
ロシアでも日本でも、あるいはこの時代のどこの場所でも、普通ならばオレーナはかわいい女の子で終わりだったろう。そういう扱われ方をして以上終わり、だったはずである。それ以外を考えていた良造は、結果として相当な変人だった。