遙か凍土のカナン
第六回
芝村裕吏 Illustration/しずまよしのり
公女オレーナに協力し、極東にコサック国家を建設せよ。広大なユーラシア大陸を舞台に、大日本帝国の騎兵大尉・新田良造(にったりょうぞう)の戦いが始まるー。
第六章 上海裏通り
翌日。この日は上海に寄港する日である。色々な国の汽船の他、大量の中国古来の船形であるジャンク船が行き交う様は、とても見ごたえがあった。
良造は最上甲板にあがって物売りの小舟がどんどん寄ってくるのを見た。その小舟を無視して汽船は行く。どちらも凄い胆力だと、良造は思った。笑って色とりどりの果物を掲げてみせるあたり、うっかり買ってしまいそうである。
朝からオレーナの姿が見えない。正確には朝、衣服を届けて着替えを見ないように外に出てから、オレーナを見ていない。
接岸し、上陸許可が出る。良造は富士号とオレーナを連れて散歩しようかと部屋を訪ねる、が、出てこない。
昨日の一件で機嫌を悪くしたかな。それならそれで仕方ないと、船内で昼飯であるカレーを食べ、そのうまさに感動した。再度部屋を訪ね、オレーナが部屋から出てこないことに焦りを覚える。
ドアノブに触れる。ドアが開く。覗き込む。
部屋の中はもぬけの殻だった。旅行鞄も置いてない。良造は口から何か出そうな気がしながら慌てて自室に戻った。
助広と鞍を持って部屋を飛び出し、船倉に犬が居ないことを確認。クレーンで馬を外につり上げて貰い、慌てて馬の背に鞍を置いた。どんなに焦っていても走って捜すより馬の方が早いと思うのが元騎兵の正しい感性である。
「富士号、頼むぞ」
馬は小さく声をあげて主人に答えた。
曲芸用の鞍でよかった。良造は馬に跨りながらそう思った。海に面した広くて眺めの良い道を走り、海岸から離れて広い道路に入る。オレーナはあえて狭い道など行かぬであろう。
打って変わって道路は人で埋め尽くされている。露店が道を狭めているのと東京と比べても人が異様に多いためだった。さすがは極東一の大都邑である。
想像を絶するほど人が行き交う通りの中を馬を操り駆け抜ける。馬の背の上は高い。また金髪は珍しい。どうにかなるはずだった。どうにかせねばならない。
馬を操り人混みを避けながら同時に人を捜す。一人では出来ない。馬が乗り手の意図を分かって動くから出来る。一人では出来ないことも一人と一頭なら出来なくもない。それが騎兵というものである。良造はそう教育を受けてきたことを思い出した。
馬は人混みを嫌う。臆病なのである。だが富士号は人混みの隙間を見つけては飛び、歩き、小歩きして、良造を助けた。
元来人間同士の戦いに関係ない馬を戦場で走らせるには、馬に好かれねばならぬ。馬が進んで危険に向かって走るような、自然の摂理を曲げるだけの人間への愛情を馬が持っていないといけない。馬が本能よりも人を助けようと思うから、軍馬というものは成立する。
それを一言、訓練の結果と言いたがるのは、馬とのつきあいがないためであろう。
良造は馬の首筋を優しく叩いた。おお。俺は今塹壕よりも騎兵らしいぞとそう考えた。いまだ銃の一発も撃っていないが。
落ち着けと自らに言いながら馬には急がせる。時間が経つほどに移動しうる範囲は大きくなり、ついには見つからなくなるであろう。この戦い、時間との勝負になる。移動の範囲が狭い今、遠くまで捜しにいっても意味はない。近くの別の道だ。
一度戻って別の道をあたるべくと馬首を翻し、船のある港まで駆けだした。
すぐに港が見えてくる。馬の前に出る人が居る。ドイツ人夫妻の、夫の方。紳士杖を腕にひっかけて、両手を広げて馬を制止する。飛び越えるかどうか迷ったが、ぎりぎりでとめた。
何か知っているかも知れない。
「オレーナを見ませんでしたか」
「いや。見てない」
「では失礼」
良造は軽く会釈して馬の背を叩こうとした。
「待ちたまえ」
ルドルフは鷲のような目で見ている。
「忙しくしております」
「それは分かるが、私も仕事でね」
ルドルフと名乗った男は洒落た感じでそう言った。手には拳銃を握っている。
良造は何の躊躇もなく助広でルドルフの右腕を切断し、馬でルドルフの胸を踏みにじった。戦場では聞き慣れた胸骨が折れる音がした。
周囲が騒ぎ出す前には馬をもう走らせている。
捕虜をとれば良かったなとちらりと思ったが、密偵かなにかであれば単に時間の無駄だろう。
良造は馬を走らせる。銃声が聞こえる。この大陸の大抵の者が震え上がる、大日本帝国の軍人に武器を向けることがどれだけ無謀なことかを教育する気になった。
正面の露店から口汚く罵りながら小銃を撃つ者が居る。人数は三。後込めではあっても古い銃で、良造は薄く笑いながら馬で蹂躙し、露店に並ぶスイカのように助広と馬の足で三人とも頭を叩き割った。
殺した者にはなんの興味も覚えず、オレーナを捜して良造は目を走らせた。無様に逃げる女が見える。ドイツ人夫妻の……今となってはそれすら怪しいが、片割れのほうであった。追いかけ追い抜き、馬の後ろ足で蹴飛ばして走った。味方を置いて逃げるとはけしからん。
オレーナを捜して周辺を見る。後方の悲鳴と騒ぎなどには一切の興味も持たず、ただ金髪を捜した。捜す内に自らが不機嫌であることに気付いた。だいぶ殺した後だった。
戦う時はいつも穏やかな気分だった。今も軍人として出征してこっちずっとそうだったように、冷静に自分と他人の命を手玉にとる点は変わらない。だが良造は不機嫌であった。穏やかではあったが不機嫌だった。永遠にそうであるような気すらした。
見渡す限り金髪の姿はない。良造は馬車の中はどうだろうと考えた。富士号を走らせ、馬車の窓から人の姿を確認していくのである。良造は直ぐに実行した。実行しながら次の手を考える。
走るのを馬に任せて馬車の中を覗き込む。驚かれるが気にしない。女の足だ、そんなに遠くもないだろう。犬を連れて入れる施設もそう多くはないに違いない。
彼女は傷ついたのだろう。傷つけたのは自分で、その責は後で取るにしても、女一人で歩かせるのは怖い。もはや過保護とも言っておられぬ状況にある。良造は目を走らせた。騎兵は走る馬の上で考える。そうでなければ、騎兵ではない。
走る内に数名からなる騎馬が寄ってきた。上海の羅卒のようであったが違うようでもある。
「工部局だ……って大尉?」
騎馬の上の羅卒が馬からひっくり返りそうな様子でそう言った。
土肥だった。
「土肥、なんでこんなところに」
「大尉は欧州だったんじゃないんですか」
「何で知ってるんだ。そんなこと」
土肥はしまったという顔をしたが、直ぐに馬を寄せて小声で言った。
「怪人物が馬車を覗き込んでいると苦情が来ています。後周辺で殺人が」
「人を捜している。金髪の少女だ」
「一人ですか」
「犬は連れていると思うが」
土肥は部下に何事か言っている。中国語のようだった。器用な奴だと思っていたがまさかここまでとは。
土肥はこちらを向いて口を開いている。
「外国人ならまあここは安全です。ですが、完全に安全とも言えません」
「だから捜している」
「……塹壕で一緒に煙草吸った仲です。お手伝いしますよ」
「ありがたい!」
良造は馬首を翻しながら言った。綺麗に合わせ、土肥が併走する。
「工部局の人間と一緒なら文句も言われないでしょう。警察の役割も持っていますから」
「軍を辞めたと思ったらこんなところにいたのか」
「あーいえ。正直に言うと軍も任務の一環で居たわけでして。白状しますが」
良造はイトウを思い出した。あれの仲間、みたいなものだろうか。
「秘密組織があったんだな。あんなところで何してたんだ」
「大尉を見張っておりました」
「なるほど。だが軍曹、君の仕事は見事だったぞ」
「大尉だってそうでしたよ。よかった、何も言わずに転属してたんでちょっと気持ち悪かったんです。大尉が日本のために戦う立派な軍人であることは、私がチャンと報告しておきました」
「なるほど。だからイトウは俺に秘密任務を、か。いや、いい。元気で何より」
軍曹を連れて元気三倍。士官たるもの銃や軍刀より先に下士官が居なければ十分な仕事ができない。
二騎で走り、馬車が走りそうな広い道を探す。黒塗りの屋根付き馬車の横を走る。男に挟まれたオレーナを見る。オレーナがびっくりしている。犬が吠えている。
良造の頭に血が上る。穏やかとはとてもいえぬ風情である。
馬の手綱を手放して鞍の上に立ち上がり、横に飛んだ。土肥が慌てて主不在の富士号を捕まえようとしている。良造はその光景を横目に見ながら揺れる馬車の上に乗って扉を開けた。
「それは自分の連れだ。返して貰おう」
「大尉っ」
オレーナがびっくりしている。
「今は」
良造はとりあえず馬車の天井の縁から回転して体ごと馬車内に入るとオレーナの左右の男を派手に殴り倒した。一人は蹴り出した。
「元大尉だ」
次にはオレーナと、ついでに犬も忘れずにかかえて馬車から躍り出た。
空荷の富士号が速度を合わせて走ってきている。軍馬の鑑だと良造は思った。犬を投げる。土肥が受け取る。オレーナを抱いたまま馬車を飛び降り、富士号の手綱を取って三歩走って馬の上に飛び乗った。
「陸軍の馬術大会で、またも優勝を収めそうな勢いですな。しかしありゃ、ロシア人ですかな」
土肥の寸評を聞きながら、こりゃ派手に国際問題になったなと思ったが、良造はとりあえず考えを馬の屁と一緒にどこかへ放り投げた。そしてオレーナの方こそを心配した。髪を乱してオレーナは馬にしがみついている。
「大丈夫ですか」
「何でいきなり現れるんだ! 私のことなんてどうだって……いいだろうに」
オレーナは身を乗り出してそう言った後、言葉の後半で下を向いた。
「国まで連れて行くと言ったでしょう。貴方を幸せにするとも」
「私は世界一不幸せな女だ。一番好きな人が自分を好きではないと言うのは不幸だ」
「一番好きな人が幸せなら、俺はそれで良いと思う」
ところで後方から盛んに拳銃を発砲されている。良造は何事か叫びながら拳銃を撃つ人々を見た。拳銃では当たるまい。この頃、まともに拳銃を当てようとすると五mよりも近づく必要があった。戦場での拳銃の命中率が上がるのは銃が進歩するというより使い方が変わり、両手でしっかり保持して撃つようになった八〇年以上も先のことである。
「ちなみにあの男達は?」
「待ち構えていた私の保護者……の手の者だ」
「保護者だって」
「……黙って日本に行ったんだ」
「なんでまた」
「反対されるから」
簡潔かつ完璧な説明だった。自分が保護者でも反対している。良造は男達を力一杯殴って蹴飛ばしたことを後悔した。とはいえ銃まで持ちだして怒る相手に謝りにもいけない。
「私の保護者は、コサック廃止論者なんだ」
「この調子だと他にも色々秘密があるようですが」
「あとでちゃんと話すつもりだった。本当だ。噓じゃない」
オレーナは必死になって言った後、下を見ながら言葉を続けた。
「言ったら、嫌われると思ったんだ」
「嫌いませんが、さっきの男達には悪い事をしました」
数名殺した。とは言わなかった。世の中には可憐な犬娘が知らないでいいことはある。
「いや、あれは、ならず者みたいで怖かった。最初はトウゴウを殺すとか言ってたんだ。なんというかあいつらは職業的犯罪者というか、だから大尉は悪くないんだ」
「元大尉です。今は貴方のお付きです」
「お付きなんだ」
「今はそれぐらいで満足してください」
良造は馬を走らせた。一緒に逃げる土肥が、頭を抱えている。
「なんで羅卒が銃で追われてるんだか」
「悪い事をしたな。軍曹」
「いえ。大尉が元気そうで良かったですよ。せっかくの下船ですが船にお帰りください。そして首をすっこめて出航をお待ちください」
「返す返すもすまない」
「あいつらには覚えがあります。そこのお嬢さんの荷物などは明日の出航までに取り戻してきますんで」
土肥はそう言って苦笑した後、部下に声をかけて走り始めた。
「貴方が幸せそうで良かった」
去り際の言葉がそれであった。
良造は土肥に感謝しながら船のタラップを馬で駆けあがる。船員が驚いている。船長への説明が大変になるな。そんなことを考えた。
第七章 公女将軍のお付き
結局、オレーナを連れ戻した。連れ戻してしまった。しかも強引かつ暴力的、他人の迷惑を考えずにだ。船長室にて船長から小言を言われつつ、良造は自分のしでかしたことに頭を抱えた。秘密任務のためだと思いたかったが、実際馬を走らせているときはそんなことを忘れていたし、男を殴るときも一顧だにしなかった。
結論としては、自分が信じている以上に心惹かれているらしい。小言にうなだれつつ、そう考えた。船長もこれには参ったようで、まあ、反省しているようなのでこれ以上はいいませんが、くれぐれも危ないことなどなさらぬようにと総括した。
オレーナが気付いたかは定かでなかったが自らから血の臭いがする。助広を洗い、血糊をぬぐった。血で汚れた長靴を洗い、馬を洗う。富士号の首筋を優しく叩き、労をねぎらった。ありがとうと馬に言うのが久しぶりであることに気付いた。馬は尻尾を緩やかに振っている。今度からまめに馬に感謝を述べねばなるまい。
自室に戻ると、オレーナがいた。部屋に鍵をかけるのを忘れていた。秘密資金など盗まれたら大変なのに、それすら忘れていた事に気付いた。
参ったなと思う。土肥にもきっと、正体を無くしていると見られたんだろう。その割には幸せそうで良かったとか言っていたが。
ため息をつく。
オレーナが椅子から立ち上がって小走りで寄ってくる。といってもさほど広くもない。数歩で良造の胸にぶつかりかけた。
顔を見上げ、良造を見た後うつむくオレーナ。
「ありがとう。大尉」
「元大尉です。軍人としてあるまじきことをダース単位でやりました」
「軍人としてはどうか分からないが騎士というか、騎兵としては正しかったことのように思う」
オレーナは下を向いたまま言った。
下を向いたまま言うのに良造は微かな苛立ちを覚えた。もっと元気良くても良いのではないかと考える。こんな時だけしおらしいなどとは、腹は立たないが苛立ちは覚える。
「怒ってる……のは分かる。すまない……いや、ごめんなさい」
オレーナは背中が見えるほど頭を下げた。良造はさらに苛立ちを覚えた。いや、腹が立った。
「元気に笑ってください。自分が怒っているのは、貴方の幸せのために動いたのに、存外に貴方が不幸そうなので苛立ちを覚えただけです」
オレーナは黙った。口元が微かに揺れている。爆発直前の様子。それで良造は、少し機嫌を直した。客観的に自分の心の動きを見て、随分身勝手でよく分からないと思ったが、気持ちは何故か上々であった。
「そ、そんなことを言うが、大尉は私の気持ちなんか分からないんだ」
「元大尉です。ええ、分かりませんとも。国も違いますし」
「性別も違う」
「違いますな。母国語も違う。人種も違う」
「立場も違う」
二人でそう言い合った後、互いの顔を見た。良造を見上げるオレーナは、涙ぐんでいる。横を見る。
「大尉は、大尉は薄情だ。日本に来てから、大尉の紙と木の家についてから、こんなに忘れがたい経験をしてきたのに。こんなに離れがたい日々だったのに。次の瞬間には好きにならないでくださいという。日本人はみんなそうなのか。そんなに薄情なのか?」
オレーナは目をつぶって涙を抑えようとしたが、うまく抑えられない。涙が出続けている。良造も横をむいた。泣いているからといって、そこを曲げるわけにはいかないのである。
「薄情ではなく、思いやりです。貴方が不幸にならないための」
「これ以上に不幸なことがあるだろうか」
「一杯あります」
良造は戦争を思いながら言った。
「それは乙女にとっての、か?」
うつむいて、小声でオレーナは言う。まだ泣いてる。良造はこれ以上なく腹立たしくなる。腕を摑んで泣くなと言えたらどんなにいいか。
「それは分かりませんが」
そう答えると、オレーナは口の先を尖らせた。
「ほらみろ、そうなんだ。大尉の思いやりは、私の思いやりじゃない」
「元大尉です。国も性別も何もかも違うんだから当たり前です」
オレーナはまた黙った。涙が浮いている。良造は腹立たしさに頭をかきむしりたくなる。ああもう。
「でも、蕎麦は分かり合えたじゃないか。塩焼きの魚も」
オレーナが震える声でやっと言ったことがそれだった。良造は思わず、頑張って自制した。
「……食べ物は、まあ」
「私は木と紙の家のよさも、少しは分かった。外で風呂に入ることも。その、癖になったら嫌だなと思ったが、そんなに悪くはなかった。大尉が言う事は、それは永遠に分かりあえないことだろうか。分かり合えるんじゃないのか。苦労はするかもしれないが」
「元大尉です」
オレーナは深呼吸して、良造を見上げた。
「元大尉では呼びにくい。良造と呼んでいいか」
これが作戦なら見事な用兵だと良造は思った。将軍のようだ。公女将軍。さしづめ自分はそのお付きか。でも、折れてはやらぬ。
「名字があるでしょう」
オレーナはまた泣いた。ついに刀折れ矢尽きたようだった。もはや何も言わずに良造の袖を引いた。何度も引いた。損害を気にせず突撃するからと腹立たしい気分になりながら、良造は天井を仰ぎ見た。船室の天井は明るく作られている。
「ああもう。分かりましたから。涙で船が沈みます」
天井が明るかったからではないが、鼻腔一杯に甘酸っぱい匂いを充満させながら良造はオレーナの手を取った。今度は死の臭いではなかった。
第八章 プスコフの隠れ家
プスコフという街は、ピヒクバ湖に注ぐヴェリーカヤ川を挟むように作られた古都である。積み重なった輝かしい歴史というもの以外の価値を無くした古都である。
価値を無くしたのはロシア帝国が伸張し、プスコフが国境の街でなくなったことに端を発する。国境の要塞、国境の交易都市としてのプスコフは、単なる一地方都市に成り下がってしまった。もっともお陰で古い様式の建物群が残ったのだから、何を良しとし、災いとするかは人によって異なった。
戦場にならずに済んだのは幸いだ。クロパトキンなどはそう思う。
クロパトキンがこの古都に慎ましい家を買ったのは軍を退役してすぐのこと。この街はクロパトキンの故郷である。
口が悪い者は、負けて逃げ帰って来たという。負けたのではない、負けたように報道されただけだとクロパトキンは新聞上でも軍部でも反論したが、聞き入れられなかった。そのまま日露戦争の翌年に不本意なまま退役している。彼は最後まで実体ではなく世の空気に負け続けた。
そうして隠れるようにこの家に移り住んだ。
移り住んで以降は客足も途絶え、またクロパトキンも貴族の屋敷に行くこともなくなった。今は趣味三昧。マッチ棒を組んで家を作ったり、釣りに行ったり、家庭菜園の様子を見たりしている。美しい故郷の絵を描いてみようとも思うが、まだやってない。
彼は煙草を吹かしながら日本で釣ったボラの事を考えていた。髭をしごき、海釣りもいいなと考えた。
「貴方、魚焼いたわよ」
妻にそんなことを言われて、階段を下りて食堂に行く。軍を退役してから、存分に釣りが出来るようになったので、家計は大助かりだった。少なくとも妻はそう主張している。
出来た妻だ。ありがたいことだとクロパトキンは思った。
クロパトキン家はロシアの平均と比較して一〇倍ほども魚を食べている。週に二回は夕食にも魚が出る計算である。
特に祈りもせず、魚を食べる。手の込んだ料理ではない。バターと塩で焼いたものであった。年も年なので最近は魚の方がうまい。今朝釣った鯉だった。妻は鯉が泥臭いと言って食べない。これくらいは些細な欠点だと思っている。
そういえば日本の庭にも鯉がいた。あれを釣れなかったのは残念な話であった。
「そういえば新しい家の案内、もう出したの?」
妻はオーブンを覗きながら、そんなことを言った。
「そのうち出すさ」
クロパトキンはそう返した。
「本当にお世話になったところ位には出すものよ」
妻はクロパトキンの食べた皿を片付けながら言った。我が妻ながら夫を信用していない。
「うん」
そう返事した。考える。
「一応、数名には出したんだがね」
「ナボコフさんのところと、他はなに?」
妻は夫のことなど全てお見通しの様子。
「東の魚釣りの仲間に。もしもうまくいったら、必ず顔をだしてくれと」
だがこれだけは、読み勝てまい。クロパトキンはそう考えた。
「うちに引っ越してきてで最初のお客になるのかしら」
「どうだろうなあ」
「なんでもかんでも弱気にならないでいいのよ」
「そうなんだがね。これは軍事じゃないんだ」
「調停でもないのね。なにかしら」
「分からない」
「秘密という訳ね。釣りのように。分かったわ。楽しみにしておきます」
「今度は鯉以外を釣ってくるよ」
クロパトキンは妻にそう言って感謝して、いつか日本人と共に釣りをすることを考えた。
遙か凍土のカナン1 了