遙か凍土のカナン
第五回
芝村裕吏 Illustration/しずまよしのり
公女オレーナに協力し、極東にコサック国家を建設せよ。広大なユーラシア大陸を舞台に、大日本帝国の騎兵大尉・新田良造(にったりょうぞう)の戦いが始まるー。
第五章 横浜ホテル
二日三日と授業が進み、良造は全ての符牒を頭で覚えた。今後はそれを覚え続けるだけ、という。心配になりつつ、なんとかなるだろうという気もある。塹壕で数倍の敵を相手に戦う事より難しくはないと、常々思って暮らしている。
四日五日と準備を整え、六日目、横浜港に向けて旅に出る。オレーナの疲労を考え、総武鉄道で東京まで出て、そこから銀座まで歩き、銀座からまた鉄道に乗って横浜まで行く予定を立てたが、オレーナは馬で旅することを望んだ。結局良造は曲芸用の鞍を常用することになった。曲芸用の鞍はゆったり乗るのに向いているとは言えず、長い旅には向いていなかったが、馬の背が二人乗りでずれた鞍で傷つくことを考えると、他に選択肢がなかった。
アメリカでは馬が死んでも鞍だけは捨てずに持って帰るという。馬ではなく人間が鞍を担いで歩くのである。素人目にとっては滑稽な話であったが馬を職業にする者にとって鞍はそれくらいもっとも重要な道具なのである。鞭はなくてもどうにでもなるが、鞍がないと困る。
その鞍を、一つ置いていくことにした。普段乗馬に使っていた遠出・通勤用の鞍である。どうにか持って行けないかと悩んだが、富士号の年もあり、無理せずおいていくことにした。曲芸用の鞍で全部をこなすのはしんどいが、他にはない。
良造はその他家財全部を藤子に残す事にして、当面の家の世話を隣家に頼んだ。手紙をしたため、いつか藤子が帰ってきた時のためにちゃぶ台の上に残した。家財や家を譲渡する旨も書き添えた。
顔を見ずに出て行くことに、少しの安堵を覚える。まあ、彼女ならば自分より余程うまく生きていくだろう。そう思えば、寂しさもいらだちもさして覚えはしなかった。書くのは気恥ずかしくてためらわれたが、藤子が幸せになることを願った。
思えばドイツ語では幸せを願うなんて連呼しているなと、良造は言葉の違いで性格まで変わるのではないかとそんな事を考えた。
「時間はかかりますが、いいですか」
「急ぎではない」
オレーナは良造の腕に摑まりながらそう言った。横座りである。何かを呟いたようだが、良造には聞き取れなかった。オレーナと良造で旅行鞄二つをくくりつけ、馬をのんびり走らせた。最近の運動不足が解消されてか、富士号の調子はすこぶる良く、現役時代のように軽やかに走った。少々太り過ぎだった馬体重も適度に落ちた。
老齢と夏の暑さでの体重低下かもしれないので様子を良く見ないといけないが、特に問題はなさそうだった。
犬は一緒に走ってついてきたが、隅田川を前に麻袋に入れて馬の背に乗せることになった。北国育ちのこの犬に、日本の夏は大変そうであった、顔だけを出して舌で体を冷やしている。
隅田川を渡り路面電車の横を走る。路面電車の中の人々がオレーナの姿を見て目を剝いている。腕を摑む手に力が入るのを感じる。馬が速度を上げた。主人の気持ちを汲んでの話らしかった。
「おー、と言っていたな。彼らは」
「電車ですか。そうですね」
「私達が似合っているように見えたのだろうか」
「どうでしょう……暴れないでください」
暴れそうなので、良造はオレーナの体に左腕を回した。オレーナが息を吞んだのが分かった。
これ幸いと人力車の間を抜け、車道を走る。習志野から横浜までぴったり一日、二日は多すぎるというところ。
無理せず途中、宿を取るか、それとも強行して横浜で宿を探すか、微妙な時間になりそうである。飛び込み客は足下を見られるのが世の習い。宿を探すのには時間をかけた方がいい。
品川あたりで宿を探すかと思いながら、宿があるかどうかは分かりかねた。
結局、なるべく急いで横浜を目指すことにする。列車を使えばさして苦労もせずいけたはずだが、公女の願いとあれば致し方ない。その公女は黙って顔を真っ赤にしていた。慌てて手を緩めた。悪い事をした。
人通りの多いところは速度が落ちる。そこで、海岸に沿って走ることにした。品川に入ったのは昼を過ぎたところで、朝出てから五時間ほど走っていた。
今更ながら左腕が汗で濡れている事に気付く。ずっと摑まっていたオレーナも大変だったろう。
「蕎麦くらいしかたべるものがありませんが、我慢してください」
「ソバとはなんだろう」
「枕につかうものですね」
オレーナの顔が難しくなった。
「およそ食べ物の話ではない感じだが、食事の話なのだな?」
「もちろん」
オレーナは馬から下りて背伸びしたり腰を伸ばしたりしている。良造を見て顔を横にやった。
「大尉は横を見るべきだ」
「何かありますか」
「今は私を見るなと言っている。特に背を伸ばしているときは」
見ろと言ったり見るなと言ったり忙しいなと思いつつ、良造も腰を伸ばしつつ周囲を見た。目黒川を渡ったから、この辺りは南品川ということになろう。宿だの茶屋だの多いが、この辺りは連れ込み宿に売春宿と、年頃の女性を連れてくるには刺激が強すぎる。
そう言えば加納がこの辺りに入り浸っていた。良造は彼の自慢話を元にうまいと評判の蕎麦屋を探し、店に入った。品川埋め立ての日雇いが大勢いたが、店員は良造とオレーナを見て静かな二階に案内した。顔を見て案内する席を変えるのは普通だが、良造は今日より軍服を着ていない。どう店員に見えたのか、興味深いところではあった。あるいは馬と犬を見て、普通とは違うと思ったのかもしれない。
二階はそれなりの立場の者による密会や睦み事などに使われる場所のようであった。幸い、潮のにおいしかしない。開け放たれた窓からは、埋め立てられようとしていく海が見えた。
天ぷら蕎麦を注文し、蕎麦茶を飲む。
「変わったお茶だな」
「蕎麦茶です」
「枕ではないのか」
「食べもしますね。お茶にもします」
蕎麦の新芽を茹でたものが出てきたので食べる。中々のうまさである。これも蕎麦だと言うとオレーナは鼻の根に皺を寄せる勢いで疑念を表明している。
「蕎麦とは混沌なのだな」
「うまいとは思うんですが」
とはいえ、味覚は良造とオレーナでは随分違う。自信はない。魚の塩焼きをうまそうに食べていたので、より単純なものがいいかと思ったのだが。
蕎麦が出てくる。天ぷらは見事な黄金色で、茄子や牛蒡、カボチャに大葉、海老が入っていた。
「これは、フライ?」
「フライです」
「さすがは日本だな。フライまで海産物だ」
オレーナは妙に感心して良造を見た。良造は茄子を天つゆに浸して食べる。オレーナは頷いて真似をする。顔がほころぶ。
「これはうまいな。フライとはまた違う味だ。どんなクッキーをまぶしてあるんだろう」
「クッキーはお菓子でしょう」
「……それがどうしたんだ」
蕎麦枕の逆だなと良造は思った。オレーナは天ぷらにいたく感動している。あっという間に平らげてしょんぼりしていたので、良造はまた注文した。振り返るとオレーナは顔を赤くしている。
「どうしましたか」
「別にそんなに食べたかったわけではないぞ」
「好きなものをたんと食べるのは悪い事ではないですよ」
オレーナは顔を赤くした。
「違う。大尉がいつも用意してくれている食事に不満があったわけではないと言っている」
「ああ、なるほど。大丈夫です。気にしないで存分に食べてください」
「大尉は私を甘やかしてどうするつもりだ」
「別に何も」
「そうだろうとも」
オレーナは何故か怒っている。この可愛い意味不明に慣れてしまった良造は、笑って数日後は海の上だろうなと考えた。
窓の下では店の看板娘がトウゴウ、あの青い眼の犬に餌をやっている。尻尾を振って食べるのを見て、良造はやはりあの犬は駄犬ではなかろうかと考えた。今はいいように撫でられている。生来の女好きかもしれぬ。
オレーナの箸さばきは結構なものに上達していた。盛り蕎麦を不思議そうに箸ですくっている。
「つゆにつけて食べるのです」
「何故別にしてあるのだ?」
「味が自分で調整できます」
「なるほど」
オレーナはそのまま食べている。形のいい眉が上がる。口に手を当てた。
「懐かしい味がする。あれ?」
「蕎麦がですか」
オレーナは口の中で良く検討している顔をしている。探るように口を開いた。
「麵の形はしているが、これはグリェチカ……のような気がする」
「食べなくても」
「いや、好きだ。この味は」
オレーナは優しい顔になって蕎麦を食べた。つゆにはほとんどつけずに食べた。
「しかし、バターと牛乳が足りない気がするな」
「斬新な蕎麦ですね」
良造は試しに麵以外を食べましょうと昔風のそばがきを頼んだ。もってこられたそばがきを見てオレーナは目を見張った。
「グリェチカだ。間違いない」
「グリェチカは蕎麦ですか」
「うん」
嬉しそうにそばがきを食べるオレーナを見て、良造は蕎麦が日本以外でも食べられることを知った。
「ロシアでも蕎麦を作るのですか」
「作る。ウクライナでも作る。沢山作る。食べない日はたまにしかない。大尉が良く出していた米のようなものだ」
「なるほど」
オレーナを見て良造は、だから瘦せているのだなと思った。しかし男はあの体格。不思議な気もする。
「蕎麦は女性の食べ物ですか」
良造は推理を口にした。オレーナは首を傾げた。
「不思議なことをいう。いいや。男も女も食べる。子供も老人も」
「なるほど」
違ったか。残念に思いながら食べ終えた。勘定を済ませて出ようとすると袖を摑まれた。
「もう少しここにいたい……のだが」
場所が場所だけに良造は動揺したが、考えてみればオレーナがそんなことを理解しているわけもない。見れば恥ずかしそうにしている。
「どうしました?」
「なんでもない」
「加減が悪いとか」
オレーナは良造を睨んだ。そっぽを向いた。にわかに曇りだした空を見ている。
「医者なら……」
オレーナは立ち上がってよろけた。良造は支える。胸ぐらを摑まれる。助けたにしては随分な扱いであった。睨まれている。
「食べ過ぎて動けないと言っている。大尉はもっと乙女について察するべきだ」
オレーナは顔を真っ赤にして小声で言った。
「余り乙女に知り合いがいないもので申し訳ない」
「そうだろうとも、それでいて蕎麦畑に飛び込む常連者のような事を言う」
「刈り入れ前だと迷惑な話ですね」
「どうでもいいから。とにかく」
「はいはい」
良造はオレーナを休ませた。帯を緩めた方が良いのではないかと思ったが、言うのも憚られた。
オレーナは恥ずかしそうにしている。
「大尉が色々食べさせるからだ」
そんなことを言った。
「おいしそうに食べていたので、つい」
「……昨日食べた魚もおいしかった気がする。そう言えば大尉はボラという魚を知っているか」
「ええ。まあ。クロパトキン将軍から?」
「うん。美味しいという話だ。いや、料理の話はもういい」
自分から話題を振ってそんなことを言う。良造は苦笑してこの公女は我が儘なのだなと思った。とはいえ、何を望んでいるか分からないより、ずっといい。
思えば藤子にもっと望むことを話すように言えばよかったな。そうすればもう少し彼女を幸せにできたかもしれない。
雨が激しく降り出した。見れば道行く人々が一斉に傘をさしているのが見える。オレーナが感嘆の声をあげている。
「すごい光景だ」
「夕立といいます。直ぐに止みますよ」
「違う。傘だ。道行く人々が一斉にさしている」
ロシアには傘はないのかと少し思ったが、雨音に考えが流された。まあ、今はただ公女が幸せになるよう尽力しよう。それで気が晴れるとは思わないが、一人幸せになるのは誰も幸せにならないよりはずっといい。
オレーナは窓に寄りかかって良造を見ている。座布団の上に傾いて座るより、窓枠に腰掛ける方が楽なようではあった。
「大尉は、時々悲しそうな顔をする」
「そうですか?」
「そして秘密主義者だ」
「秘密なんてありませんよ」
良造は笑って噓を言った。秘密ばかりだった。
「今日はここで宿を探しますか」
「横浜までどれくらいだろう」
「一時間少しと思いますが」
「横浜で探した方が便利というのなら、頑張る……もう少し食休みが欲しいが」
「雨が止むのを待ちましょう。長引きそうなら宿を探しましょう」
しかし、この辺りで男女が別々に泊まることなど出来るのだろうかと、心の中で汗をかきながら思った。宿泊客は鉄道でここを通過して、それこそ横浜やその先の銀座周辺を選ぶ。
雨が止んだのは小半時たっての事だった。オレーナも大丈夫というので、店に礼を言って外に出た。
道の水たまりやぬかるみにオレーナのスカートが汚れぬよう注意しながら歩く。犬は最初から袋に入り、歩く気はまったくなさそうだった。駄犬だなと良造はきめつけた。
「虹だ」
空に掛かった虹を見ながらオレーナは弾んだ声をあげた。
良造はこの人といると飽きないものだと思いながら馬を走らせる。
少々時間はかかったが午後三時半には横浜に到着した。
横浜は銀座と同じ不燃都市である。それは、とりもなおさず広い表通りと、表通りに面した煉瓦建築を意味する。これで延焼、飛び火を防ぐのである。表通りから離れれば、旧来の家が建ち並ぶところも銀座と同じであった。
江戸の昔から大火、火付けに延々悩まされてきた国としては煉瓦建築を増やしたい意向だったが、これは倉庫をのぞき、中々果たせないでいる。建築価格が高いということもあったが、建築初期は雨漏りが多く、不評が多かったことが尾を引いている部分がある。それでもゆっくりとは洋式建築や和洋折衷の建築様式の建物が増え、横浜の景色を作っていた。
海岸通りから少し離れた外国人も多そうな宿を当たる。幸い直ぐに料金の折り合いのついた場所を取ることが出来た。煉瓦の三階建て。東側の窓を開ければ海が見え、様々な汽船が行き交うのを見ることが出来た。
館内への犬の持ち込みは出来ないが、馬の世話と一緒に頼むことが出来た。
上出来、上出来と良造は思う。イトウに貰った秘密資金には手をつけていない。今後も出来るなら手をつけたくなかった。妙な貸しを作りそうで嫌だったのである。
夕食は六時半。食堂にて洋食という。
「それまでは自室でくつろいでください。バスもあるそうです」
良造はそう言ってオレーナを部屋に送った。ロシア風の家がどんなものか分からないが、まあ木造で襖と障子の家よりはくつろげるに違いない。
自分もくつろごうと立派な椅子に座った良造が靴と靴下を脱いで足の指を握ったり離したりしていると、ノックがあった。椅子に靴下をかけたまま慌ててドアを開ける。先ほど別れたはずのオレーナだった。彼女にしては珍しい、大人しい白いブラウスと、青いスカート姿である。青が少々明るすぎる気がしたが、そうして立っていると良家のお嬢様のようであった。いや、貴族の子女なのだから実際お嬢様なのは間違いない。編んだ髪は細く見え、良造は黒髪と比べて色が薄い分、髪の量が少なく見えるのだなと考えた。
「どうしたのですか」
オレーナは口に拳を当てて伏せた目を横にやっている。
「木と紙の家のせいだ」
「なにか」
「大尉の寝息や声が聞こえないと、変な気分になる。私はおとぎの国の木と紙の家に慣らされてしまった」
そういうものかと思う間に、オレーナは早口で囁くように、そしてとめどなく喋り出した。
「とはいえトウゴウも手元にはいないし落ち着かないこと甚だしい。だからこれは当然の事であって致し方ない事なのだ大尉はこの件について留意しまた私を助ける義務がある」
「つまり?」
「食事まで大尉の部屋にいる」
返事すら待たずにオレーナは部屋に入った。椅子の背に置いた靴下を見られ、大変に恥ずかしい思いをした。オレーナは驚いた顔をしたが、それだけだった。別の椅子に小さく座った。
「そんなに肩肘張らなくても」
オレーナは縮んだというより小さくなった。肩を張っていると大きく見える物だなと思いつつ、いそいそと靴下を隠した。
「こういうところでは、バスの上に吊るのだ」
オレーナは横を見ながら言った。
「すみません」
良造もうつむいて謝った。我が儘公女と一緒に行動する以上、一瞬たりとも気を抜くべきではないと心得た。
気まずい時間が流れる。良造が話題を探すうち、オレーナの方が先に立ち上がった。
「邪魔だったようだ。すまない」
歩き去ろうとするオレーナの細い手を引っ張った。口より先に手が出ていた。
「そんなわけないでしょう。単にだらしなく脱ぎ捨てられた靴下を見られて恥ずかしかっただけです」
「私はもっと恥ずかしいところを色々見られている。鼻の頭が赤いとか、靴を脱ぐところとか」
妙な自慢合戦になってきた。話題を変えねばならないのだが、良造は乗馬や剣は得意でも、話術となると分が悪かった。しかもドイツ語である。
「あー。貴方が居ることを嫌がったりはしません」
どうにかそう言ったが、オレーナはひどく不満そうである。
「好ましく思います」
そう言い直すとオレーナは大きな笑みを浮かべた。良造も釣られて笑った。
「涙を流したりする以外で大尉に言う事をきかせる方法に気付いたぞ」
重大な発見をしたように、そんなことを言い出した。言った後で、良造の方を窺っている。
「どうした?」
「いえ、そんなことしなくても言う事ききますよ」
目線を下にやるオレーナ。
「大尉には分からないのだ。私は私だから大尉に言う事をきかせるということがやりたい。大尉が大尉だから言う事をきくというのは、それはその通りかもしれないがとても悲しい」
「確かによく分かりません」
「そうだろうとも。大尉が独り身な理由がようやく分かった」
そっぽを向き、子供のように椅子の上で足を揺らしてオレーナは言った。郷里の弟がわざとらしいいたずらをしては、叱って欲しそうな態度を取るのを思い出した。
「叱って欲しいのですか?」
「別に……そんなことは……ない」
恥ずかしそうにそんなことを言う。良造は頭を撫でそうになって、やめた。日本と欧州は違う。ここ、横浜からは欧州のつもりでやっていかないと、いずれ彼女に恥をかかせることになる。
「そうですよね。大人だから」
そう言うとオレーナは拳を握って勢いよく立ち上がった。
「嫌味を言われるくらいなら叱られた方がいい!」
彼女らしい話ではある。
良造は笑って謝り、そうしてようやく、木と紙の家に居たときのような会話が出来た。建物が変わると人の関係も変わるのだなと良造は思う。日本の家が洋式になったら考えも洋式になるのかもしれないなと、埒もないことを考えた。
翌日は日本郵船の事務所でチケットを購入した。欧州までの定期客船である。船は二週に一度、出港まで三日。一便を待つ事になるかと思ったが、幸い客席は空いていた。話によれば料理がすこぶるうまいという。
ホテルに帰り料理がうまいらしいと報告すると、オレーナはどんな魚だろうと言った。
「ボラだろうか」
「どうでしょうね」
ともあれ数日暇になる。朝食を済ませてすぐにオレーナは良造の部屋に来る。たわいもない話をした後、思いついたように犬の様子を見に行く。ホテルの馬房の隅にいる犬は退屈か、オレーナを見て尻尾がちぎれそうなほど振って喜んで抱き付いた。その光景をほほえましく横目で見ながら、富士号に鞍をつける。少々散歩しなければならない。船旅では馬は運動せずに太ることになるであろうから、今の内にもう少し体重を絞っておかなければいけないのだった。
話によると日露戦争の時の船室よりはいいらしいと、良造はそう言って富士号の首筋をなでた。この馬は出征として朝鮮半島経由で大陸に行っているから、再びの渡航になる。
「私もついていく」
オレーナに言われて良造は自分が無意識に二人乗り出来るように鞍をきつく縛っていた事に気付いた。知らず自分も慣らされているのかもしれない。
ある日公女が自室に来なくなったら、妙な気分になるのだろうな。今度はきちんと心構えを作っておこう。良造はそう考えた。いつ、彼女が部屋を訪れなくなったとしても、傷つかないようにする。
犬がないた。というよりは吠えた。
「トウゴウも」
オレーナが付け加えた。良造は苦笑した。トウゴウを入れる袋も用意しなければならない。
時は翼が生えたように勢いよく飛んでいく。予定通り、三日後に船旅が始まった。
一一時に二人を乗せた若狭丸は横浜港を離れ、まずは神戸に向かう。その後は上海、香港、シンガポールときてペナン、コロンボと船を進める。目的地であるマルセイユまで一月以上を過ごすことになる。夏の中頃から秋口までを船で過ごすと思えばかなりの長旅である。
長旅で気が滅入らぬよう、船の中では常時催し物をやり、ことさら豪華にして過ごすのが常だった。
馬を連れるのと公女を二段ベッドには入れる事ができぬということで、一等船室を二つ取った。
一等船室の最大乗員は二六人、今回の旅は二〇人だったが、その二〇人とは毎日顔を合わせることになる。日本人とイギリス人が圧倒的に多く、フランス人は少しだった。ドイツ人は一組の夫婦という状況だった。
荷物を運んで貰い、身一つで船に乗り込む。デリックで腹に布を巻いた富士号が吊り下げられ、運ばれている。そのまま船倉に入れるのである。
「大尉は船旅ははじめてか」
タラップを上がりながら、オレーナは言った。
「兵員輸送以外では、ええ」
「大変だと思う。気の休まることがない」
「船酔いなら大丈夫ですよ。馬ほど揺れることはありませんので」
オレーナは物憂げに頭を振った。船酔い以外の悩みが、船にはあるようであった。
船室は、頑として別にした。イトウから貰った秘密資金も、これについては遠慮なく使った。
一等船室は船の中央付近にある。専用の出入り口と通路があり、厠に行くにも露天甲板を通らずに行くことが出来るのが自慢であった。雨の日など濡れずに用を足せるのである。
一等といえども部屋はそんなに大きくはない。吊り下げられた絵画は乗客の心を安らがせるためか、草原の絵が描いてあった。
部屋につき、荷物を検め、ベッドの下に置く。こうしないと椅子も十分には引き出せない。シーツは頻繁に交換できないということで、余り汚さぬよう注意を受けていた。
椅子の上に座り、靴下を脱ぐか迷っている間にノックがした。息を切らせたオレーナだった。
「そんなに急いで来ないでも」
「一人で歩く未婚女性は色々誘われるのだ」
オレーナは後ろ手でドアを閉めながらそう言った。
「そもそもこの船室の位置が悪い。随分離れている」
「まあ、未婚女性の部屋の直ぐ近くが独身男性だと色々問題があるんでしょう」
常識的な話をしたが、オレーナはそれを聞いていない。
「そうだろうとも。だが私はどうなるんだ。いつも誰かの気配があった、あの木と紙の家に滞在していた私は。急に気配がなくなると寂しいじゃないか」
「野次馬の気配とかは嫌がっていたでしょう」
「大尉の気配は好んでいた。でも私の船室には大尉がいない」
「そりゃ作り置きの家具じゃないですからね」
オレーナは下を見た。
「大尉は薄情だ。横浜に居たとき、一度でも私の部屋を訪ねてきたことがあったか?」
「いつも来られていたので訪ねる機会がありませんでした」
「そういうことではなく」
「じゃあどういうことでしょう」
首筋まで真っ赤にして、オレーナは横を見た。
「ええと。今から部屋に戻るから、私の部屋を訪ねるように」
良造にとってはまったく意味の分からないことを言って、恥ずかしそうにオレーナは出て行った。
段々険が取れて、子供っぽくなっているのは良いことなのかどうなのか。
良造は頭をかいて、まあ、夜、食事の後にでも少しお邪魔するかと思いつつ、持ってきた本を開いた。珍しく英語の本である。フランシス・マカラーなる人物がニューヨーク・ヘラルド誌に寄稿した、日露戦争でのコサック従軍記をまとめた本である。ロシア側からの騎兵、中でもオレーナ達コサックを取材したもので、実際その場に居合わせたと言っても良い良造にとっては相手側の事情が何か、興味津々のものであった。陸軍にとってもそうで、これを取り寄せ現在急ぎ翻訳している最中である。良造はこの本を聞きつけ、発行直後に注文して手に入れていた。今回東方ウクライナ国家を作るということで、勉強しなおそうとしっかり読むつもりである。
一ページ目を開いた瞬間にドアが激しく叩かれた。良造は慌ててドアを開けた。
オレーナだった。
「私の部屋を訪ねるように言ったじゃないか!」
周囲に憚るような大声でオレーナは言った。直後に両手で顔を覆って泣く。泣いてしまった。驚いてドアから出てくる左右どころか遠くの船室の人々に頭を下げつつ、良造は慌ててオレーナを部屋に引き入れた。ドアを閉める。
「いや、後で行こうと」
「どうせ夕食の後で形だけ訪問しようと思っていたんだろう!」
図星だった。
「声が、声が大きいです」
顔を隠した手を引いたせいで、オレーナの涙ぐんだ顔と対面することになった。
良造は心に重大な打撃を受けた。なぜか塹壕の向こうで冷えていくロシア兵を思い出した。人の好さそうなおじさんの顔も。
鼻の奥で何処か甘酸っぱい人の死の臭いがした。
「すみません」
良造は死の臭いを振り払うようにそう言った。うっかり抱き寄せてしまいそうだったが、かろうじて回避に成功する。秘密命令のダシに純真無垢なこの少女を使うのは、何人ものロシア人やコサックを直接間接に殺してきた良造にとっても許されざる事であった。
「すみません。すみません」
何度かそう言った。オレーナは涙を飲んだような顔をした。
「そこは謝るところじゃない。もういい。大尉は薄情だ」
そう言ってオレーナは、良造の椅子の上に座って船窓の外を見た。顔をこっちに向けようともしない。犬なら鼻に皺を寄せて唸るような、そんな気配である。
良造はもう一度すみませんと謝った後、ベッドの端に腰掛け目を手で覆い、戦争の事を頭から追い払おうとした。生々しい思い出だった。
オレーナを可愛らしく、愛おしいとすら思うほど、自分が殺した敵が彼女のような人物の父であり、兄であったことを思い出した。頭で分かっていたことが実体験を伴い、良造は吐き気すら催すかと思った。それがなかったのは、騎兵、軍人としての訓練だった。
ようやく異変に気付いたか、オレーナは立ち上がった。
「大丈夫か。大尉。水を注文してこようか」
「大丈夫です」
「どうしたんだ。船酔いだろうか」
「いえ。馬よりは揺れないので」
「では……?」
良造は少し考えた後、オレーナの方へ体の向きを変えた。深呼吸する。
「送り届けてから言おうと思っていたのですが、自分は日露戦争に従軍していました」
オレーナは小さく頷いた。
「知っている。控えめではあるが戦果もあげていると聞いている。手紙にあった。クロパトキンは相当に我が軍を苦しめたと思いますと言っていた。私もそう思う。少なくとも馬術はコサックに劣らない」
「控えめかどうかは分かりませんが、そうですね。望んだわけではありませんが、ロシアや、おそらくはウクライナの人々とも戦いました」
「分かっているつもりだ」
いいや、貴方は分かってないと、良造は心配そうなオレーナを見た。分かっているならそんな心配そうな目で見るもんじゃない。
「ならば、お分かりでしょう。自分の手は貴方の国の人々の血で汚れています。余り自分に可愛い姿を見せない方がいい」
「言葉の前の方と後ろの方の繫がりが分からないが、言っている意味は分かった」
「はい」
オレーナは下を見た後、顔をあげて青い眼で良造を正面から見た。
「まず、どこの国であれ軍人が国を守って戦うのは当然の事だ。戦う相手を選ぶことも出来ないことを知っている。戦いたくて戦ったわけでもないだろう。私は大尉が好戦的でないことを知っている」
「いいえ。貴方はご存じではない。自分は好戦的なひどい奴です。黒溝台でコサック騎兵と戦いながら、自分はもっとうまく敵を倒せる、もっと上手に戦えると、そればかりを考えていました。戦う事に喜びすら感じました」
オレーナは黙った。良造の袖を摑んで、手に力を込める。良造を見る。
「ではなぜ、悲しそうな顔をする」
「戦争が悲惨で、そして貴方に出会ってしまったからです」
良造の告白に、オレーナは照れた。
「だからその言動が蕎麦畑に飛び込むようなものだと言っているのだ。ええと」
良造は、だから可愛い姿を見せない方がいいと思いつつオレーナを見る。オレーナは顔をあげて良造を見ている。
「私は大尉を苦しめているだろうか。だとしたらすまない」
良造が黙っているとオレーナは下を見た。顔を見続ける力を無くしたようだった。
「酷いというのなら、私の方だ。私は大尉の優しさを勘違いしている。いや、勘違いしたいのだ。私は身勝手でひどい女だ」
「そんなことはないですよ。酷いのは、自分です」
良造は砲撃の雨あられの中で演技をするつもりで優しく言った。
「大尉はただ、騎士道的な精神で私に親切なだけなのに」
「自分は騎士ではありません。騎兵です。それに」
敵の顔が見える距離で構え、撃てという気持ちでそう言った。
「頭を撫でても怒りませんか」
「怒らないが、はやく」
頭を撫でる。オレーナは半分面白くなさそう。残り半分は嬉しそう。
良造は子供扱いせねば変なことになると立ち上がった。距離も取るべきだ。笑うふりをして席に座り、つとめて平静に話そうとした。
結局オレーナは夕食まで居座った。それ自体はいつものことであったが、他の一等船客にその事実が大いに知られてしまった。
船旅というものは、とかく同等船室の人々と顔を合わせるようになっている。立ち入る事が出来る場所がことごとく重なるほか、催し物や食事などで同席する事も多い。この時の旅の一等船客は二〇名。その二〇名と、否が応でも毎日やりとりをする事になっている。
退屈な船旅である。ドイツ語を操る日本人と金髪碧眼の少女の組み合わせと痴話喧嘩……に見えるものはこの退屈な船旅に序盤から絶好の退屈しのぎを与えたのである。
食事のために二人連れだって食堂に行くと他の客の好奇の目が気になった。面食らいつつ、なるほどオレーナの言う通りだなと考えた。日本では彼女に不快な思いをさせたとも。
「ドイツ語が喋れるみたいだが」
どのテーブルについて好奇の目にさらされようかと思案するうち、そんな声をかけられた。ドイツ人の夫妻だった。
「ええ」
「それは嬉しい話だ。この旅中、ドイツ語を使わないのかと思っていたから。どうだね、一緒に食事しないか」
まだしも好奇の目は少なそうだということで、良造はドイツ人夫妻の招待に与った。
夫の方はやせぎすで神経質そう。口髭が洒落た感じ。黒い髪を油で光らせている。妻の方はもっと神経質そうだが、悪い人には見えなかった。神経質と言うよりは厳格なのだろうなと、良造は思った。
オレーナを見ると、オレーナは微笑んで軽く会釈している。
「我々も若い頃は夫婦喧嘩をしたものだ」
自己紹介の前に夫の方はそう言った。味方であるという意思表示であるようだった。
「大抵は貴方のせいでしたが」
妻は冷静に事実を告げた。オレーナは思わず微笑んでしまってしまったという顔をした。夫婦は揃って少しだけ笑い、まあ、若い内には喧嘩した方がいい夫婦になるものだよと言った。
「いや、それが夫婦では」
良造がオレーナの為にそう喋ると、脛を蹴られた。オレーナを見るとオレーナは直ぐに目線を外してドイツ人夫妻に微笑んで喋り出した。
「まだ夫婦ではないのです」
良造はオレーナを見た。オレーナは任せておけという表情。三秒考え、社交の世界には何かあるのかもしれぬと、オレーナに任せることにする。
「ああ、そうなの。ごめんなさい。ちょっとはしゃぎすぎたわ」
夫人は楽しそうに言った。しかし目は鷹のようだった。
「今許しを得るために帰国する最中です」
オレーナは言う。ドイツ人夫妻は良造とオレーナの双方を見た後、納得したように大きく頷いた。
「なるほど。それで別々の部屋だったのか」
「ええ、まあ」
脛を蹴られながら、良造はそう言った。このやりとりに何の効果があるか、頭で考えながら会話している。そのうちオレーナの考えが読めた気がした。
オレーナは結婚のことを諦めていないと言うより、好奇の目で見られるのを嫌がって一芝居打っている。ついでに言い寄ってくる男除けもしているようである。
なるほど。そういうことのダシに使われるのであれば、文句はない。望むところである。
「私は貿易商のルドルフ・レースラー。こちらは妻のエーファ」
「私はエレナ・ボック。彼は陸軍大尉のリョーゾー……」
オレーナは名をドイツ風に言った。ドイツ風に言ったのは、ロシア人と日本人の組み合わせが奇異に見られるからであろう。
あるいは身分を伏せる必要があるのかもしれない。
「リョーゾー・アラタです」
咄嗟に良造も言い換えた。
アラタとは新田を読み替えただけであった。
「エレナ嬢は東ドイツの生まれのようだ。そちらの大尉は騎兵かね」
「どうして分かったのですか」
良造はびっくりして聞き返した。満足げに笑うルドルフ。
「身のこなし、といいたいが、実は君の馬が船に運び込まれるところを見たのさ」
ルドルフは面白い事を面白くなさそうに言った。
「ああ、なるほど。そうなんです。もっとも今は元陸軍大尉ですが」
「いいじゃない。綺麗でかわいいお嫁さんがいれば、あとはどうにかなるものよ」
「綺麗で可愛ければな」
妻エーファは笑顔で夫ルドルフを見た。目は、笑っていない。
良造は笑いそうになるのをこらえて口に手を当ててオレーナを見る。
「私は綺麗で可愛くないと?」
オレーナの青い目は挑発的な色をしている。
「いや、そんなことはない」
そう言うとオレーナは首筋まで真っ赤にして顔を背けた。夫婦は笑って、良い夫婦になれるよと言った。
食事は肉を中心としたフルコースであった。出てくるのは魚とばかり思っていたので、二人して笑った。
食後、良造はオレーナの部屋に立ち寄った。女性の部屋というだけで、雰囲気が違う気がしたが、調度品や間取りはまったく同じであった。
「楽しかった」
オレーナはベッドに腰掛けながらそう言った。腰掛けた後で恥ずかしそうにした。
「なぜ恥ずかしそうにしているんですか?」
「場所がないとはいえベッドの上に腰掛けたからだ。大尉には恥ずかしいところばかりを見られる」
とはいえ、椅子が一つしかない上に良造がオレーナのベッドに座るのも障りがあろうから、必然としてこうなってしまうのである。船客同士の歓談はラウンジで、という話らしかった。
「なるほど」
そう答えておいて直ぐに部屋を出ようとする。瞬時に袖を引っ張られてつんのめりそうになった。
「顔だけ出すつもりだろうと言って喧嘩になったことを忘れたか」
オレーナは横を向いて言った。面白くなさそう。
「いや、しかし女性に恥ずかしい思いをさせるのも心苦しく」
「ということは、私を女性とは認めているんだな?」
オレーナは嬉しそうに良造を見上げて言った。
「認めるもなにも。ずっとそのつもりでしたが」
「子供扱いされていると思っていた」
「女性で子……」
子供というとオレーナが爆発しそうなので良造は目だけをさまよわせた。
オレーナは青い目を細めて良造の様子を見た後、許したかのように口を開いた。
「私は立派な女性で大人だ。ただ経験が足りないだけで」
最後の方は小声であった。良造は自信が無いのだなと推察した。
まあ、結婚と言っても江戸の頃はともかく今の時代なら郷里秋田で一六、七。東京なら二二、二三で結婚するのが普通で、あんまり急がないでも良いのではないだろうか。
「経験ですか」
色々言いたいことはあったが、言ったらどれも大爆発を招きそうなので、かろうじてそれだけを言った。黙っていても爆発するのだから、中々難儀である。
「経験だ」
オレーナはつまらなさそうに言った。
「大尉は日本人だから分からないのかもしれないが、年齢に拘わらず結婚すると体型もかわるのだ。その、女性らしくなるというか、だから見た目で年齢を判断すべきではない」
良造はオレーナの胸をちらりと見た。日本人の基準から見れば既にして年齢不相応に見える。いや、何を気にしている。
「まあとにかく、部屋に帰ります」
このままいると変な気分になりそうである。昼時のように戦場を不意に思い出したりはしたくない。
「駄目だ。大尉は私の部屋にいるべきだ」
「なんでまた」
オレーナは横を見ながら言った。
「……私が寂しいからだけではないぞ。演技のためだ。好奇の目にさらされるのはつらい」
「なるほど。分かりました。そういうことなら」
「あと、そんなに丁寧な言葉を使わないでいいんだぞ。恋人を演じるに当たりむしろ不審に思われる。もっとぞんざいな言葉を使うように。食事の時の、いや、そんなことないか、上出来だったように思う。あんな感じで今後も頼む」
「難しい事を」
「何が難しい事だ。簡単だ。さあ、何か言ってみろ」
オレーナは立ち上がり、すがるようにして顔を見た。
『このお嬢さんは何を考えているんだ』
「日本語ではない。ドイツ語で。ロシア語でもいいぞ」
いい逃げ方だと思ったが、駄目だった。良造は考えた。照れた。学芸会じゃあるまいし。
「あー。出来れば言葉の上でも大事にしたいんだが、駄目だろうか」
「大尉が私を大事にしているのは分かっている。でも嫌なんだ。距離があるようで」
「男女にはしかるべき距離があるでしょう」
「木と紙の家にはそんなものはなかった。私はあれに慣れてしまった」
いや、そうは言っても日本にもありましたよと思いつつ、良造はため息をついた。
オレーナは目を伏せて気弱そうである。
「船にいる間だけですよ」
良造はそう言った。一歩一歩陣地を制圧されているような気がするが、気のせいだ。ロシアは時に損害を無視して突撃するからいけない。
翌日には神戸へ。犬と馬と金髪碧眼の少女を連れて散歩した。
船に乗り込み、次は上海へ。神戸では大量の水を積み込んだようである。神戸の水は評価が高く、赤道を越えても水が腐らないとのことであった。この水目当てに、色々な国の船が寄るという。
良造は騎兵士官だった事を知られてこっち、急にひっぱりだこになった。色んな一等船客に食事を誘われる。一緒に食事をしていると根掘り葉掘り聞かれることも多く、良造は直ぐに閉口してしまった。軍人であることが知られると皆が日露戦争の事を知りたがったのである。
隣にいるのはロシア人なのに。
横を見るとすました顔でお茶を飲むオレーナがいた。彼女はドイツ人と言うことになっている。
彼女に戦いの話を聞かせるのも忍びなく、また凄惨な戦いの話をするのも悪趣味という事で、良造は苦慮し、苦慮した結果、主として馬の話をした。馬や偵察行の話であれば、特段どうということもない。
ロシアにつくか日本につくか迷っている現地の人々に、どう味方してもらうか工夫した話などをし、同じ村にロシアと日本で魚を釣っては届けていた話などをして喜ばれた。
幸いだったのはイギリス人だかの知ったかぶりの人物が、戦争というものは概ね平和が九割なんだよと解説したことである。おかげで戦闘の話はほとんどせずに済んだ。
自室に戻り、本を読む。直ぐにオレーナが来る。寝るまで部屋にいる。木と紙の家と違って不便だと言いながらオレーナは自室に引き上げる。そんなわけで退屈な船旅は中々退屈することがない。むしろ多忙である。
それにしても自分のような人間と一日中一緒にいて、よくもオレーナ嬢も退屈しないものだ。
いや、自分の事を棚に上げているな。自分は退屈していない。彼女も同じなのかもしれない。どうだろう。彼女はとてもめまぐるしくて、一緒に居ると退屈しない。
オレーナが寝ると言って自室に引き上げた後、彼女がいる間は読めないと、思い立ってイトウから渡された手紙を読むことにした。数分で軽薄かつ、いいよいいよー、喜んでーと嫁取りに励む偽物の大尉の手紙に嫌気がさし、口から悪態が出そうになるのをこらえた。これは自分ではない。いや、最初から分かっていたが。
手紙を読む。オレーナ嬢の紹介のところを読む。教師が物を教えるようにクロパトキンが自筆で紹介を書いている。
〝オレーナ・オリャフロージュスカ・アポーストルはナボコフ家の育養にしてロシヤ貴族の令嬢なり。深窓の令嬢にて本と花を愛し、少々人見知りのところあるものの、その性格は穏やか、若年にして良妻賢母の才がみてとれ……〟
良造は、手紙から目を離して上を見た。自分もそうだがオレーナも全然違うと思った。若いというところだけあたっている。
本物は犬大好きの犬娘、蕎麦と天ぷら、塩焼きが好みの金髪娘で、我が儘で元気良く、甘ったれ。冒険家の行動力とロシア兵を思わせる損害を無視した突撃を併せ持ち、笑顔は時々、大抵直ぐに爆発する。その爆発は敏感苛烈で有名な下瀬火薬のよう。
自分で勝手に解説を改訂しつつ、手紙の続きを読むか考えた。翻訳しながら読むほどではないような気がした。
頭をかく。まあ、本物のほうがいいな。犬娘のほうで良かった。
ドアがいきなり開いてびっくりする。日本家屋には鍵がなく、良造も鍵をかけることを直ぐに忘れる癖がある。ドアを開けた主は、それを充分に弁えているようであった。見れば枕を抱いたオレーナである。寝間着姿だった。寝る前にも拘わらず、髪を左右に編んでいる。
慌てて手紙を隠す。不思議そうに首をかしげて様子をうかがうオレーナ。
「何だ、それは」
「いやこれは……」
良造は半分立ち上がりながら手元の手紙を見た。
「手紙か?」
その通りなのだが、どこか気恥ずかしい。いや、何を恥ずかしがる。
「……あー。実はクロパトキン将軍から送られてきた手紙で……」
「あ、うん」
うなずくオレーナ。それで、会話が途切れた。
編んだ髪を指で巻きながら、良造を見るオレーナ。
「ど、どうだった? おおよそその通りだとは思うが、多少の誇張があったらすまない」
「いやもう、誇張どころの話ではなく」
「なん……だと」
「あ、いや、別に悪いと言うわけではなく」
「怒らないから見せろ」
「どうでもいいですがなんで枕持ってるんです?」
良造は我に返った。最初にこれこそを言うべきであった。
「まずは手紙だ」
オレーナは青い目を三角にして手を差しのばした。良造は困る。手紙、ではない。目のやりどころに困った。
「少々格好が刺激的過ぎませんか」
「木と紙の家に居たときに着た日本風のものよりはずっと隠れている」
オレーナはそれでも大きな枕で体の前面を隠しながら言った。
「それとも、その手紙は見せられない物だろうか。それなら済まなかった」
「いえ、そんなことはないですよ」
「もっとぶっきらぼうに」
「そんなことはない」
良造は苦笑しながら手紙を渡した。ベッドに座りながらオレーナは手紙を見る。目を走らせる。そっと閉じる。恥ずかしそうに顔を横に向ける。
「クロパトキンは、少々活動的すぎますが、今の時代はこんな感じなのかもしれませんとか書いたと言っていた……」
「そう言って貴方をからかっていたのだと思いますが、さすがに釣り書きでそれはないと思います」
「ぶっきらぼうに」
「将軍なりに好いていたと思う」
オレーナは黙った。犬の代わりに枕を抱いた。そう言えばトウゴウは船倉で今頃丸まっているだろうか。毎日見てはいるのだが、少し心配だった。動物は簡単に死ぬ。だから良く面倒を見ないといけない。
「悪かったな。随分違って。それは大尉も結婚を嫌がるわけだ。やっとわかった」
「いや、今の方が、というか、手紙の中のオレーナ嬢よりは実物の方が」
オレーナは顔を真っ赤にして枕の中に顔をうずめた。目だけを出して良造を見た。
「実物の方が?」
「……退屈しないでいい」
「ぶっきらぼうに」
「今の方が」
五秒考えた後に、オレーナは早口で言った。
「もっと詳しく」
「今の方が安心できる」
「別の表現で」
良造は黙って手紙を取り上げた。大きな封筒に入れる。
「それはそうと、なんでこんな時間にこんな格好で出歩くんだ」
「大丈夫。人がいない事を確認して急いで走ってきた」
「そんな問題じゃない」
「波の音がうるさくて眠れなかった」
オレーナはうなだれて言った。肩の力が抜ける良造。
「そういうことなら早く言ってください」
「ぶっきらぼうに」
「そういうことは早く言え」
「ここで眠ってもいいだろうか。戻るにもこの格好では戻りにくい」
わざとやったなとは思ったが、良造は苦笑しかけるだけにとどめた。甘ったれめ。そんなに一人が寂しいなら、一人旅なんてしなければ良かったのに。
「明日起きたらどうするんだ」
「私の部屋にいって着替えを取ってきてほしい」
日本騎兵大尉、女物の着替えを持って走る。いや、元大尉だからな。そんなにおかしくないかもしれない。
「今日だけだぞ」
「うん」
なんだかんだで自分は甘いのかもしれない。いや、秘密任務があるんだから、これは打算か。それともかつて彼女の同胞を沢山殺して良心が痛むから、ことさら親切なんだろうか。自分の考えが分からない。できるなら、ただ優しくしてやりたい。理由など特になく、オレーナが貴族でなくても。
良造は日露戦争の時良くそうやっていたように、腕を組んで椅子の上で寝ることにした。明りを消せば確かに波の音が良く聞こえる。眠りを呼ぶ優しい音に聞こえたが、聞く人によっては荒々しく聞こえるのかもしれない。
戦争の時は床が冷たくて凍え死にそうだったから椅子の上で寝ていた。それと比べれば甘ったれのお嬢さんのために椅子の上で寝ると言うのは苦痛ではなかった。
直ぐに眠くなってくる。
「……大尉は」
目が覚める。オレーナがベッドの中から顔を出している。
「大尉は神に身を捧げた清廉潔白の修道士のような……厳格な騎士なのだな」
「騎兵だよ」
しばらくの沈黙の後小さな明りが部屋を横から照らした。小さな丸い船窓のカーテンを、オレーナが開けたのだった。
オレーナは編んだ髪をゆっくりほどいている。シーツに半分顔を隠した。
「正直に言う。私はその、大尉に恋してしまった……気がする。あ、愛しているというか、一緒にいるのが普通でもう離れるのがヘンになってしまったと言うか……結婚や私の家の問題とは関係なく……だから」
良造は鼻の奥に甘酸っぱい匂いが充満した気になった。恋の匂いと、死体の臭いは良く似ている。良造は塹壕を思い出す。赤毛でそばかすの少年兵が後ろから撃ち抜かれるのを見た。そんな場面に居合わせて、何の感想も持たないで敵の士気を思う自分を思い出した。
オレーナはいつの間にか黙っている。審判を待つように、じっとしている。
良造はゆっくりと、口を開いた。
「なんでまた、いつから」
「わ、分からない。たぶんあって直ぐ……だと思う。理由はいろいろある気はするが、大尉は思ったよりずっと優しかった」
「そんなことで」
良造は秘密任務を帯びた自分を思い出した。戦争はまだ続いている。日本は誰かの血をもって、守られなければならない。だがそれを、一旦は脇に置いた。この無防備な女が自分のような悪い奴に痛い目に遭わないように、教育しなければならない。
「そんなことで人を好きにならないでください」
返事はなかった。良造はこれで良かったのだと思った。