遙か凍土のカナン
第四回
芝村裕吏 Illustration/しずまよしのり
公女オレーナに協力し、極東にコサック国家を建設せよ。広大なユーラシア大陸を舞台に、大日本帝国の騎兵大尉・新田良造(にったりょうぞう)の戦いが始まるー。
第四章 おとぎの国の公女
家に帰ると人だかりが出来ていて、何事かと考えた。家主である良造も、野次馬の一人として首を伸ばし、自分の家を見ている。
「何かありましたか」
「それが異人さんがね」
「異人ですか」
髭の立派なおじさんでしたかと尋ねる前に、野次馬達がのけぞって離れた。良造が家主であることを思い出したようだった。
「ああいえ、別に逃げないでも」
そういいながら、手綱を引いて敷地に入った。確かに犬を連れた外国人が一人、手紙の束のようなものを持って立っている。金髪で白い肌の、脚が妙に長い若い女に見えた。突き出た胸の大きさから見て肌襦袢を着ていないように見えたが、正直、外国人の服の下がどうなっているのかは良造には分からなかった。分かったのは飼い犬ともども、青い眼をしているということだけである。可愛い顔立ちだが表情は凜々しい。
「貴方がニタ騎兵中尉か」
綺麗なドイツ語であった。
「いかにも、ニタ大尉ですが」
随分軽装だなという印象を持った。供回りも居らず、荷物もない。犬と、彼女だけ。
ニタという言い方には覚えがある。
「結構。クロパトキンの紹介でここに来た。世話をしてくれると嬉しい」
やはりそうだったか。
「将軍のですか」
「そうだ。嫁を探していたのだろう?」
てきぱきと歩く様は律動的で、軍人とはまた違う規則正しさに満ちあふれている。
良造はその歩きを眺めた後、まだ夕暮れに至らぬ空を見た。
戦った経験からロシア人は大柄だとばかり思っていたが、女性となるとそうでもないらしい。良造の胸の辺りに頭があった。特に怯える風でもなく、堂々とした振る舞いはまるでどこかのお姫様に見えた。どこかといっても国内ではないが、雰囲気としては加賀あたりの侯爵令嬢に似ていた。
「どういう事でしょうか」
「安心して貰いたい。悪いようにはしない」
良造はそれはどうもありがとうございますと言いかけて、口をつぐんだ。馬を見た。
馬は鼻の穴を広げたり閉じたりしている。馬がのんびりしているということは、敵というわけでもないのだろう。
「とりあえず、経緯を話して戴きましょうか。家へどうぞ」
「どこに家があるんだ」
「目の前の建物です」
「物置に似ているな」
「そうでしょうとも」
良造は長靴を脱いで家に上がった。少女は土間と長靴と敷居を等分に見ている。
「靴を脱ぐのか」
「そうです」
「ここは異国なのだな」
しみじみ言うので、良造は思わず笑ってしまった。いっそ愉快とはこの事だろう。
「その笑いは乳母を思い出す。やめて欲しい」
「難しい注文ですな」
この言葉は少女を怒らせた。口を真一文字に結んで良造を睨んだ。
「私は子供ではない。人生経験の足りない若い大尉には分からないかもしれないが」
「若いというほどでも。もう二六です」
その返事は予想外だったらしい。少女は目をさまよわせた。表情変化の激しいところが、幼い印象を強くしている。
「それは、卑劣な罠だな。私には一八くらいに見える」
卑劣ですか。罠ですか。良造はどうやってこの少女を追い返すかを考えている。
ボラを一緒に釣る髭のおじさんなら大歓迎するところだが、女性となるとまた別だった。
良造の気も知らず、少女は良造を真似て腰掛け、土間に脚を投げ出して恥ずかしそうに靴紐を緩め、脱いだ。
「靴下を殿方に見せるのは初めてだな」
「貴方は異国の女なんですね」
「仕返しのつもりか?」
少女は目を細めて良造に言った。手を軽く動かして犬を呼ぶ。犬は土間から一飛びで家に上がり込み、少女と同じ輝く青い眼を良造に向けた。もっとも瞳の形は、三白眼で随分違う。目つきの悪さはともかく行儀良く座り尻尾を振っている、狼のような犬だった。
「犬は嫌いか」
「靴を履いていないものを家の中に入れるときは足を拭いてあげるものです」
「心しよう。では、家はどこだろう」
「貴方の座っているそこです」
少女は立ったまま周囲を見た後、顎を突き出し目を細めた。気が強そう。
「分かった。しかし、幾ら暖かいとはいえ、木と紙で作った家に勇敢な騎兵士官とその家族を住まわせるとは、憤りを感じる話だな」
「お帰りになるのなら旅館まで案内しますよ」
「いや、遠慮はいらない」
少女は手で軽く良造をとめた。嫌味など無縁、生まれたときから人に指図するのに慣れた、見事な貴族ぶりであった。その美しさすら感じる所作に感動すら覚えたが、とはいえそれが家に居座りそうだと思うと、また話は別であった。
初めて見る敵国の女は、いや、元敵国の女は、想像と大分違った。少なくとも牛女ではなかった。馬で言うなら気位の高い、白馬のじゃじゃ馬だなと騎兵士官らしい値踏みをした。
客観的に見れば面白い話なのだが土肥にも藤子にもこの話が出来ないのが、残念だ。そんなことを考えた。
どうでもいいこと、どうでも良くないこと、それらをすぐ共有出来る相手がいないのは寂しい。そうだ、軍を辞めたら外国にそういう人物を捜しにいってみようかと、そんな埒もないことを考えた。
気付けば少女が立ったまま、顔を近づけて良造を見ている。
「ニタ大尉は不幸そうな顔をしている」
「話相手が余り居らぬのです」
状況が余りに現実離れしていたので、良造は素直にそう言ってしまった。あるいはドイツ語が悪いのかもしれない。日本人がドイツ語を使うとプレイボーイになるとは、よく聞く陸軍軍人の噂である。
顔を近づけたまま、少女は目を細め、ついで上を見て、最後に微笑んだ。
「私に話せ。これからは。木の家に住むのが大変だとか、そういう事に対する対処法は知らないが、話を聞くくらいならできよう」
良造は思わず笑ってしまった。庶民派と言って良い黒鳩金将軍が、少女とどうやって知り合ったかは分からないが、何となく気があったであろう事は想像出来た。妙に親切で、それでいて批評を付け加える事を忘れない。親切も批評も斜め上なところまで似ている。
世間一般でどう評するかはさておき、良造はそういう人物が嫌いではなかった。小さい頃は親代わりだった遊び人の伯父の影響であろう。思えばあの伯父は東北の山村という枠から外れ、斜め上にいた。三つ子の魂百までという。あの伯父を好きだった名残が、目の前のロシア娘を慎ましく肯定している。
ロシアも日本も、馬は馬。いや、ここでは人は人というべきか。
「そう言えば、お名前を聞いていませんでした」
少女は立派な胸を張りながら凜々しく口を開いた。
「オレーナ・オリャフロージュスカ・アポーストル。髪はこうだが、おばあさまに鼻は似ているという話だ」
「金色は綺麗だと思います」
少女は目をそらした。背伸びしたり、縮んだり。
「クロパトキンよりは優秀だな。奴も同じ事を言ったが、三秒かかった。お前は即座に言った、だから優秀だ」
どういうわけだか恥ずかしくはあるのだなと、良造は思った。
「しかし、なぜ立っているのですか」
「家の主が許可を出すのだ。この国は違うのか」
「いえ、そう言えばそうでした。えーと、まあ、お座りください」
「椅子がない」
「このストローマットの上に座るのです。畳といいます」
「床に埋め込んだ椅子か。初めてだな」
オレーナはスカートの裾を厳重に気にしながら座り、膝の上に犬を置いて周囲を見て笑った。
「おとぎ話の世界に来たようだ。中なのに外のようだな」
うまいことをいう。良造は犬を見た。良く訓練され、まったく吠えない。軍用だろうか。
「そうかもしれません。今日のお泊まりはどちらで?」
「ここだ。私は婿を持って帰る予定だった」
あんな戦争をしたのにも拘わらず、クロパトキンは良縁の話を真面目に遂行しようとしていた。良造は軽い恐怖すら覚えた。損害を損害として割り切って数字以上のなんの感想も持たない、それこそ将軍の采配を垣間見た気がしたのである。
「えーと、そういうものは持って帰れるものですか」
「問題はない。政府も、ロシア宮廷の許可を得、勲章を与え体面は繕った。あとは連れて帰るだけだ」
良造はそれが自分のことであると少しは思ったが、それ以上考えるのはやめた。頭がおかしくなりそうだから。
ロシアは時々意味不明のことをする。戦った記憶も消えぬうちに〝元〟敵国の男を連れて婿にするというのは、常識の遠く及ばない話である。
「一つ尋ねても。なぜそんなことに」
「我がウクライナ・コサックは滅びようとしている。いや、一度は潰えていると言ってもいいだろう。アポーストルにしても四代続いて女性当主だ。血が弱まっているのだ。血を強くせねばならない。精強な、世界最強の騎兵の血を入れて我がアポーストルに再びの栄光を与える。それが、私の望みだ」
ウクライナという言葉に聞き覚えはないがおそらくは地名、それもロシアの一部であろう。問題はコサックのほうである。
「コサックというのは騎兵を中心とした軍事組織だった気がします」
良造は尋ねた。
「そうも言うな」
オレーナはそれがどうしたという顔。
「貴方は女性に見えます」
「失礼なのか失礼でないのか分からない表現だな。大尉が男なんだから、それを婿とする私は当然女性だ。それで?」
「軍事組織に女性がいるんですか?」
「女がいないでどうやって増えるんだ」
二人は揃って首をかしげた。かしげた方向まで同じであった。
しばしの沈黙ののち、オレーナは一旦目をそらした後、少し照れながら口を開いた。存外その横顔は幼く見えた。
「日本では知られていないのかもしれない。まずコサックは軍事組織だがそれだけではない。地域組織でもあるし、生活共同体でもある。貴族、聖職者、農民、商人と並ぶ第五の階級でもある。軍人と違うのは職業ではないことだ」
日本で言うなら武士階級の数が少ない長州が幕末にその劣勢をどうにかしようとして、町民や農民を兵とした。武士という階級ではない、軍人という職業の誕生である。その後元々武士を沢山抱えていた薩摩が武士階級余りに直面して一部が武装蜂起、西南戦争を起こした。西南戦争はいうなれば、武士と軍人の戦いであった。この戦いで武士は負け、以後日本において武士階級の凋落は決定的になった。
一方でロシアは当たり前ながら日本とは別の歴史をたどっている。日本で言う西南戦争が起こらなかった故にコサックという武士階級は滅びることもなく今もある。
日露戦争においてロシア軍は、軍という一つの所帯に武士階級と軍人をあわせて投入していたわけだ。良造はそんなことを思った。軍衣に違いがあったかなと、そんなことを考えた。
「国みたいなものですか」
武士と言っても伝わらなさそうなので、良造はそう言った。コサックは階級だけに終わらない。そこに興味がわいてきた。江戸幕府が進めた士農工商の職分への分化と純化も起きてないのかもしれない。日本では武士階級だけで国は成立しないが、武士階級が農業や商売をもやるなら、武士階級だけで成立できる。
ゆっくり頷くオレーナ。
「そうなんだ。正確には国から逃れた民が作った国のようなもの、かな。没落貴族と盗賊と、遊牧民族に逃亡農奴にさらわれた女達。そういうのがまざりにまざって作られた。投票と議会で全てを決める、自治団体と言ってもいい」
壮絶な国もあったもんだと良造は思った。支配を逃れて荒野の辺境にて形作られた吹きだまりという印象を持った。
「ますます国に聞こえますね」
「国を目指したことは何度もあった。今もそうだ。ウクライナ・コサックもその一つ」
国を目指しているということは、言い方を変えれば独立は出来ていないわけだ。良造はようやく意味が分かりだした。巨大なロシア帝国の中に組み込まれてしまった辺境の自治組織か。さしずめ、目の前の金髪少女はそのお姫様というわけだ。
「なるほど。その口調からするとウクライナ以外にも居るんですね。コサックが」
「いる。ドン・コサックというものもあれば、ウクライナ・コサックも細かく見ればドナウ・コサック、もう滅んだがザポロージェ・コサック、クバーニ・コサックと分かれる」
「どれも地名ですか」
「そうだ」
良造は自分の記憶をたどっていく。コサックと言えば日本人にとって大量の虐殺事件を起こして清国人を殺して回ったアムール川流血事件の首謀者であり、日露戦争の騎兵である。恐るべき血に飢えたものどもという印象だったが、よくよく思い出すと、これまでもたびたび独立の機運を高めて反乱を起こした記録があった気がする。同時に戦争中、カナダに移住したコサックの中に日本騎兵への参加を希望した例があった。もちろん、日本軍はお断りしている。この例に限らずあちこちの国、地域から日本陸軍への参加希望は多かったが、いずれの場合も日本は断っていた。例外は中国の馬賊くらいであろう。
「そういえば、カナダのコサックが日本騎兵に参加したいと言ってきたことがあったと聞いています」
「移民だな。ウクライナ・コサックは農地をもとめて移民する。今もあちこちに移民している」
「話を聞く限り、ロシア帝国とあまり関係が良くないような気がします」
「……仕方なく従っているだけだ。ロシアの方は昔から取り込みを図ったり、解体しようとしたり、有力者を貴族に列したりしている。我がアポーストルもそうだな」
クロパトキンはそういう事情を知った上で今回の話をまとめたのだろうか。それが気になった。彼のロシアという国に対する忠誠心は疑う余地などないはずである。ないはずだが。
「えー、話をきくととても不穏な感じですが。クロパトキン将軍はそれらを分かっておられるのですか」
にわかにオレーナは目をそらした。早口になる。
「……別に。騙してはいない。黙っていただけで。それに今すぐ反乱を起こそうと言うわけでもない。私はその、まずは家の再興を願っている」
良造は事情を理解した。クロパトキンは事情を知らないというか、コサックの気持ちというのを理解していない。
オレーナを見る。オレーナもまた。青い眼で良造を見ていた。
「私の望みを、かなえて欲しい」
オレーナは凜々しく鎮座する犬を抱きしめながら、そう言った。良く見れば手が小さく震えている。
藤子のことを思い出し、良造は笑った。失敗は一度で十分のはずだった。
「丁度軍を辞めようと思っていたところではありますが、お断りします」
オレーナは下を見る。犬が歯をむき出しにして怒り、吠える。顔をあげず犬の頭を撫でるオレーナ。
「夫になる男性だと思い、噓偽りなく正直に話をした。また苦手ではあったが、それなりに綺麗に見える努力もしてきた。足りないところがあるのなら努力する。駄目だろうか」
「いえ。そんな問題ではなく。貴方の行動が、とても悲しく見えます」
恩義の代償として女を抱くのはもう沢山だ。人を殺して砲弾の雨の下で下手な演技をやったのは、そんなことをするためではない。
「ただ幸せになって欲しかっただけです。それだけを望んでいます」
日本という国や、藤子を思いながらそう言って、微笑んだ。自分が軍を辞める理由をようやく明確に理解した気になった。幸せになってくれるのなら、それで良かったのだ。自分はそれだけで馬と共に、戦場を駆け抜ける事が出来た。
「幸せになってください。そのための手伝いならば、喜んでやります。誰かと戦うのなら自分が戦いましょう。守れと言うのなら守ります。国を盛り立てろというのであれば、かならずや。でも、それは貴方のためです。他に望むものは、ありません。何もありませんでした。欲しい物がそんなにない人生だったのです」
詩集の一つも読んでうまい言い方を覚えれば良かったと、良造は反省した。ドイツ語ではこれ以上うまい断りの表現を思いつかなかった。
オレーナは顔をあげて、良造を見上げている。涙目だった。良造は既にして先ほどの言葉を猛省した。謝る前にオレーナは口を開いた。
「貴方は真の騎士なのだな。クロパトキンは良い人選をした」
「騎士ではなく騎兵ですが」
「ここは本当におとぎ話の国のようだ」
オレーナは良造の言葉を聞いていない。苦笑した。中々格好の良い風にはならないものだ。
良造としてはむしろ目の前の青い眼の狼を連れた金髪少女の方がよほどお話の中の住民に見えたが、何も言わなかった。ただ立ち上がった。
「寝台などないところですが、今日は休まれるといいでしょう。荷物は?」
「ない」
良造は傾いた後、次の言葉を待った。オレーナは背筋を伸ばして座っている。
「港に降りたときには持っていたのだが、宿の交渉をするうちにいつの間にかなくなっていた」
置き引きかと、良造は傾いた。犬を見る。犬は尻尾を振っている。こわもてだが意外に駄犬のようであった。
「分かりました。それもなんとかします」
オレーナはびっくりして顔をあげた。
「戻ってくるものなのか。あれには母の形見などが入っているのだ」
「東京で無くしたのなら、まあなんとか。警察に知り合いがいるので、当たってみましょう。朝までには戻りますが今後着替えが必要なら、そこのタンスから好きなものを使ってください」
そう言って良造は迅速に動いた。
食事の世話を隣家の人々に頼み、自身は馬を駆って東京へ向かった。
夜中頃に外桜田門の警視庁へ赴き、用向きを告げると直ぐに案内された。
見知った人物が、走ってくる。仕事熱心なことこの上ない名を太田と言った。以前、クロパトキン将軍と接触し、取り調べを受けて以来の知り合いである。
「今度はロシア貴族だって? また魚釣りで会ったのかい?」
「いや、それが家にやってきてね。綺麗なお嬢さんだったよ」
「なんでまた習志野くんだりまでやってきたんだい。ええ?」
「結婚したいと」
「敵国のやつとかい? 広瀬武夫みたいなロマンスだね」
広瀬武夫は日露戦争中に戦死した海軍軍人である。軍神ともされるが、太田は警官、良造は陸軍ということもあって、ここでは余り、尊敬の響きがない。ロシア駐在武官だった彼とロシア軍人の娘の悲恋は、日本では大いにもてはやされたロマンスであった。
「いや、顔も見たことがなかったから、浪漫はないよ」
「まあ、そんなところだろうな」
面白くもなさそうに太田は言った。手帖がわりの大福帳に調べを書いている。
「んで、うちの管轄で置き引きと。分かった。しかし間抜けな置き引きもいたもんだ。外人の私物なんざ直ぐに足がついちまうだろうに」
古物商は盗品を捌くことをお上が嫌って締め付けられ、規制が厳しくしかれていた。無論、もぐりと呼ばれる闇の古物商はいたが、表だって出店することも業者間転売も難しく、規制はかなりの効果をあげている。
「足がついたら幽霊じゃないわな」
「そう、一休咄じゃないが、お縄にも出来るって寸法よ」
太田と笑っていると、扉が不意に開いた。太田が怒鳴る前に毒牙を抜かれたような顔になる。いたのは老婆だった。
「ありゃ、イトウさんまでこりゃまたどうして」
「捜し物はこれだろ」
男の声。老婆は瞬く間に帯の位置を下げ、男の姿になる。ただそれだけで和服は印象が一瞬で変わる。手に持っていたものは大きな旅行鞄だった。
良造は鞄を見て頷いた。牛革の立派なものだった。
「実物は見たことがないんですがイトウさんが言うなら、おそらくそれでしょう」
「着替えばっかりだったな」
イトウと呼ばれた元老婆は、良造に鋭い目線を投げつける。この人物もまた、クロパトキンの件で良造の取り調べを行った人物だった。内務省の人物で、変装の達人である。
「で。どうしてかと問われれば、仕事だ。ロシア貴族が国にくりゃ、そりゃ調べもするだろう」
「置き引きはイトウさんところの御仕事でしたか」
太田は目を細めてにぎにぎしく言った。
「人聞きの悪い事を言うな。みんな太田が悪いということにするぞ。ほらよ中尉、いや大尉だっけか」
旅行鞄を受け取り、ありがとうございますと言う良造。期せずしてすぐにも用事を済ませてしまった。
「中身を検めないでいいのか」
「何が入っているか良くわからんので、それにまあ、イトウさんは盗人じゃない。そうでしょう?」
「まったくだ。ま、嫌疑は晴れたから気にしないで良いぞ」
イトウは満面の笑みで言った。
「嫌疑ですか」
「お前の家の前の野次馬の一人な。ありゃ俺の部下だ。ドイツ語もロシア語も流暢でな。悪いが会話は全部聞かせて貰った。没落貴族が摑んだ藁がお前だったってわけだ」
なるほど、と良造は思った。お隣さんは監視だったか。暇なことだと思いつつ、用意周到なことだと感心もした。頼もしい。
それよりも良造の心に残ったのは没落貴族という言葉だった。それを聞いて得心した気になる。供回りがいないのも、そのせいであろう。雲を摑むような縁談に乗り、お家再興のため一人で海を渡る少女を思って一層味方してやろうと考えた。
イトウは肩をすくめる。
「怒るなよ。お国の為だ」
「いえ、別に」
良造の言葉に苦笑するイトウ。
「立て板に水をひっかけたような態度は変わらないねえ。大尉も。ホントに嫌疑は晴れているから安心して良いぞ。なにせわざわざ警察庁に事情話して依頼しに来るくらいだからな。これ以上の潔白の証明もない」
「イトウさん、嫌疑もなにも新田さんは戦争で何人も露助を斬ってるんですぜ」
「演技に必要な犠牲はある。いいから太田は窓でも見てろ」
「へいへい」
太田は良造に今度吞もうと手の仕草で伝えた。良造は深くうなずき、席を立った。
「まあ、用も済んだし、帰ります」
「待ちな」
扉の前で振り向く良造。
「なんでしょう」
イトウは難しい顔で腕を組んで言った。
「こいつは仕事の話とは関係ねえ、俺の個人的趣味だ。だから答えないでもいいんだが、あの女、娶るのかい?」
「いえ。軍を辞めて送り返しに行く旅に出ようとは思っていますが」
「軍に残っててもいいんじゃねえか」
「陸軍じゃある年齢までに出世できなきゃ辞めさせられるんですよ。自分は長州薩摩の出でもないし、幼年学校も出ていません。大尉止まりなんです。このままあと一〇年、年齢制限一杯まで大尉やってから路頭に迷うよりは、まだ今のうちに転職しようかなと」
良造は元々自分で自分を納得するために考えていた表向きの理由を言った。真の理由は単に、国や藤子に幸せになって欲しくて働いていたが、やれることがなくなった。だけである。新田良造には幸せになる何かが必要だった。それさえあれば勇敢な騎兵大尉として振る舞うこともできた。
「日本の敵になるのかい?」
「まさか」
「その言葉、覚えておく。またな、色男」
イトウは笑って良造を送り出した。
オレーナを思いながら旅行鞄を馬にくくりつけた。月の余り出ていない、夜襲向きの夜である。今日は夜襲などないぞとつぶやいて速度を落とし、のんびり走らせた。爆弾を抱いて塹壕に転がり落ちてきたロシア兵を思い出す。
日本とロシアがまた戦うのは勘弁して欲しいものだ。戦って得たのが南樺太くらいでは割に合わないし、第一、敵国の中にも到底嫌いになれない人々がいる。金髪碧眼の少女だけではなく。
帰ると犬に抱き付いて丸まるように寝ているオレーナがいた。布団もかぶっておらず、蚊帳もでていない。今更ながら食事をちゃんととったのかと心配になった。
翌日のんびり出かけても良かったかもしれない。自分の拙速を悔やんだが、兵は拙速を尊ぶものである。こんなものかとも思いはした。それでもまあ、次はこの一人異国へやってきた少女に気を遣わねば。
オレーナに抱き付かれている犬が耳を立てている。こちらを警戒しているのであろう。良造は近づかないようにして蚊帳だけ張った。顔をあげた犬は、青い三白眼で良造を見ている。格好の良い犬であった。満州の犬とも和犬とも、まったく違う。
自分だけ布団を出して寝るのも気が引けたので、良造は私物の助広を出してきて抱いて寝た。激しい戦いで刀身が伸びてしまい、鍛え直して鞘を新調し、日本刀の作りに戻したものである。良造は背を柱に預け、刀を抱きながら、おい加納、こんな事になっちまったよと元々の持ち主にそう呟いた。草葉の陰か蛍として夜を舞いながら、加納はどう思うかと考える。女好きだったから悔しがっているかもしれない。
朝になる。塹壕戦以来の座って寝る体験だったが、思ったよりは良く寝られた。生まれ変わった気分だった。蚊帳の向こうで犬に抱き付いて寝る少女の輪郭を見て、戦争が終わったのだと、たった今理解した。
同じロシアでも冷えていく死体を前にするよりも、ずっと良い気分であった。
これよりは敵とか敵国とか考えるのはやめよう。藤子がもう一度家に転がり込んできたようなものだ。前は失敗したが、今度はうまくやる。うまく家から出して自立させる。幸せになって貰う。それを笑顔で見送る。他にはない。
飯の支度をすることにする。米を洗い、炊く一方、干物を探してきた。漬物を食うかは自信が無いが、青菜の味噌汁ならどうだろうかと考えた。
飯の支度をする内に、いきなりオレーナが飛び起きた。口に手を当てているのは涎か何かに気付いたのだろう。恥じるように手櫛で髪を整えている。胸元にまだ眠そうな犬を抱き寄せて隠した。帯なりを外していたのかもしれぬ。犬は不満そうな目をしている。
「おはよう大尉」
「今食事の支度をしていますので土間から失礼つかまつる。ご機嫌はいかが」
「機嫌? 機嫌は」
オレーナが髪を整える間に、犬が走って外に出た。裏切り者とオレーナが言うのを聞きながら、犬の方を窺う。しばしの後の匂いからして小便であろう。良造は我慢していたのだろうなと思いつつ、汲み置きの水で犬の小便を洗った。裏切りと言うよりは賢い犬の所作だろう。たいしたものであった。
「顔を洗いますか」
「それが出来ると嬉しい。あと、飲み物はないだろうか」
オレーナは大変な恥ずかしがりようだった。背を向けてもなお恥ずかしそうにブラウスを引っ張っている。おそらくは皺が出来ているのを心配しているのだろう。
良造は井戸に向かって連れて行った。馬に水をやるための樋に水を流しつつ、井戸端で顔を洗っているオレーナを見た。前髪とブラウスの裾が濡れたのを気にしているようではあった。犬が足元で、樋の水を飲んでいる。
「水はその柄杓から吞んでください」
貴族の令嬢にはいささか難しい注文だったようだが、オレーナは慎重に吞んだ。
「冒険小説のようだ」
そう言って笑った。
手ぬぐいを渡し、荷物を持ち帰った旨を告げる。
「風呂には入りましたか」
「あるのか?」
荷物を持ち帰ったことよりも嬉しそうにオレーナは身を乗り出して言った。
「用意します」
「もう、二度と風呂には入れないと思っていた。木と紙の家では湯を沸かせば燃えてしまう」
「日本は毎日でも風呂に入りますよ。まあその前に飯にしましょう」
歩く良造の裾を、摑むオレーナ。背筋を伸ばし、全力で向こうを向いている。
「一度しか言わない。トイレはどうすれば良いのだろう」
「厠ならあちらです」
厠は離れにある。離れに置かねば臭くてたまらないのである。
「場所は知っている」
「厠に違いはあるのですか」
「鍵がないのだ。昨日、私は外から開けられそうになった」
それで、人々を追い返し、ずっと我慢していたのだという。
珍しいから興味しんしん、眺めに来ることもあるだろうが、今回は違う気がした。
果たして厠の前に行くと紙が重ねて置いてあった。世話を頼んだ隣人は、紙を持って入らなかったオレーナを見て仰天し、これを届けに来たのであろう。
「紙を届けにきていたんでしょう。紙はわかりますよね」
「そこだけは貴族のようだな」
「紙は中に箱があるんで使ったらそちらに入れてください」
では、と歩く良造は再び裾を引っ張られる。振り向けばオレーナは、全力で顔を背けている。
「鍵がないと言った」
「大丈夫ですよ」
「見張りが必要だ」
まさか騎兵大尉が厠の番をするなんてないだろうなと思ったが、まさにオレーナはそれこそを望んでいるようだった。顔は真っ赤だ。
犬がいるでしょうと言いかけて、犬の姿がないのに気付いた。
犬は厠が嫌いなようであった。臭いに我慢出来ないのかもしれない。番犬の用をなさない駄犬であった。
「分かりました。今度鍵をかけられるようにしておきます」
「耳を塞いでいてくれると嬉しい」
そんなことを気にしていて生きていけるのだろうかと思いつつ、聞こえないふりでごまかすことにした。起き抜けに下より胸を隠そうとしていたあたりに、巨大な文化の違いを感じもした。胸を隠してどうするんだと思ったが、貞操の観念がそも違うのであろう。
長く我慢していたのか、終わらない音を聞きつつ、明けてきた空を見る。おそらく糞尿の引き取りで高値がつくだろう。貴族の糞尿は高く売れる。肥料用途である。ケチなことを考えると思いつつ出てきたオレーナはこちらの顔も見ず、小走りに井戸に戻った。手を洗うのであろう。
鼠に囓られぬよう、箱に入れていた長瀬商店の花王石鹼を渡し、食事の準備をする。中座した割に炊きあがった米は中々の出来であった。
ちゃぶ台で二人、差し向かいで食事する。オレーナはうまく座れなかった。
「背もたれがないのだが」
実際傾きながら、オレーナは言った。
「そういうもんです」
「ピクニックと思えばそうでも不思議もないが、難しい」
そうか、正座をしないから体が傾くのかと、良造は思った。
「これから軍を辞める手続きをしますが、数日はかかると思います」
「分かった。このひからびた魚は悪くない」
「干物です。干肉の魚版です」
「チョップスティックで食べるのだな」
「箸といいます」
「日本人はこんなものを毎日食べて、飢えて死ぬのではないか」
「米を沢山食べるのです。和食の基本は米を食べるための全てと言っていい。料理の内容もです」
少女とはいえ美女を相手に、なんとも心躍らぬ会話で食事であった。もう少し女性が心躍る話をしたいものだ。
「トウゴウにやる肉はないだろうか」
「トウゴウですか」
「シベリア犬だ。眼が青い」
あの犬の名前かと良造は行儀良く座る犬を見た。青い眼の三白眼。耳は綺麗な三角で、狼に良く似ていた。目の色といい毛が白と銀なのといい、陽光の弱いはるか北の生き物だからであろう。人間も獣も、陽光が弱いとあらゆるところの色が薄くなる。
名前は東郷平八郎からであろう。どんな気持ちで名付けたのかは分からないが。
「日本では犬にも米や魚をやります。あとであげてみましょう」
「うん」
オレーナはじっと良造を見ている、食事の所作を見て学んでいるようではあった。
良造が微笑むとオレーナは表情に困った。
「からかっているのなら悪趣味だぞ。大尉」
「いえ。そんなつもりはないですが」
ごちそうさまでしたと食事に感謝し、外でも食事の時に祈るのだなと言われて不思議な気分になる。オレーナは日本の家の中を、外の延長線で理解しているようだった。普段のなにげないあれやこれやに多く気付かされる朝になった。
本当に生まれ変わったかのような気分だな。そんなことを思った。
異国のお姫様が一人いるだけで、世界はがらりと変わって見える。
「ところで、気になっていたことを尋ねても?」
「なんだろう」
姿を見られぬようにか、隣室で取り戻した荷物を検めつつ、オレーナは言った。大事そうに綺麗な青と赤と白のスカートを抱いている。その姿を見ないように顔を背けて口を開いた。
「一つに。何故顔を最初に洗ったのかです」
「朝はそういう物だからだ。それ以上詮索するなら、たとえ大尉であろうとも、許さない」
厠よりも顔を洗い、身を整えるのが大事かと感慨を覚えた。貴族というものはそれが没落貴族でも大変らしい。
「ああ、いえ。日本では最初に荷物を検めるところだからです」
うまい言い訳であった。オレーナは大事に服をしまい直しながら、口を開いた。
「確かに。だがアポーストルは違う。母の形見は大切だ。だがもっと大切な形見が、この胸の中にある。教えと家訓、生き方と誇りだ。物よりも教えを守る方を優先した。これで伝わるだろうか」
「なるほど、よく分かりました」
田畑にしがみつく農民だった父祖の考えとはまた違うが、それもまた立派な生き方であるように思えた。貴族が立派なのは服だけではないとも思う。思えば貴族というものを勝手にバカにしていた気がする。農民の出のひがみだなと、良造は思った。
「あともう一つ」
「なんだろう」
「貴方を幸せにするには、自分は何をすればいいのでしょう」
寝転がっていた犬が耳を立てて青い眼を開いて良造を見ている。ゆっくり尻尾を振っている。賢い犬なのか駄犬なのか、判断しかねた。
開いた襖から顔を出したオレーナは、顔が真っ赤だ。見れば服を着替え終えている。
「私を幸せにしたいのなら、結婚をしよう」
「それ以外で」
オレーナは顔を真っ赤にしたまま怒った。横を見る。
「それ以外なら、ええと。我々の住むウクライナ・コサック再興のために戦って欲しい」
「分かりました」
オレーナは顔を戻した。目をさまよわせている。座敷童か妖精でも見えているかのような目の動きだった。
「ええと。ええと、簡単に受諾するのはいかがなものかと思う。正直に言う。実際のところかなり大変なんだ」
「少女が一人で海を越えて来なければならないくらいですからね」
オレーナは動揺して正座している良造を見た。深呼吸する。
「私と一緒に来て欲しい」
「分かりました。他には?」
あっさりした回答にオレーナは言いよどんだ。下を見る。
「私は、勇敢な騎士に与える物がなにもない。この身くらいしか」
「何もいりません」
長い沈黙。
「乙女として重大な試練を受けている気がする。私には、その、価値はないのだろうか」
ため息をつく良造。藤子もそんなことを考えていたのだろうか。自分はそう思われていたのだろうか。だとしたら、嫌な話だ。良造は目線をあげてオレーナを見る。
「自分は戦争で中隊を率いて戦いました。その時に人や物の価値とやらがとんと分からなくなってしまいました。どんなに価値がある者も、一発一銭の弾でただの死体になるのです」
上を見る。
「それで、価値とやらをいちいち考えるのはやめました」
「それは投げやりというのだ」
「いえいえ。よくよく考えた結果です。自分は女を抱くために戦うのではありません」
微笑み、言葉を続ける。
「でも女の幸せのために戦うというのなら、それは素敵な話だと思っています。風呂を立てます。入浴をされたら自分は軍に行ってきます」
立ち上がった際にオレーナを見る。存外に可愛いものだなとその顔を見て考えた。膨らんだ頰が栗鼠のよう。
条件付きながら湯を自由に立てるための施設を家に建てることが出来るようになったのは御一新の後だったが、それから何年経っても湯屋が銭湯と名前を変えたくらいで家屋に浴槽を持つのは流行らなかった。掃除し、薪で火を焚き湯を立てるのが面倒だったのである。湯屋に往復するほうがずっと楽だし、社交場でもあるということで、下男下女を大量に持つ余程の金持ち以外は普段湯屋を使うのが普通だった。
もっとも、それは銭湯があちこちにある都市部の話。田舎では家の外に大桶を置き、湯を入れるのが普通であった。面倒だとこれが湯をはった盥になり、さらには行水になる。
井戸横に置いた大桶を見た瞬間、オレーナは良造の袖を摑んでその身の後ろに隠れた。なぜ隠れる。
「む、無理だ」
全力で下を向いてオレーナは言った。
「ちゃんとお湯を入れますから」
「そんな話ではない! 外だ。外じゃないか!」
犬まで吠えた。
「生け垣がありますよ」
「だだだだ駄目だ、駄目。大尉は私を辱めようとしているだろう。そもそも服はどこに脱いでどこに置くのだ。そもそも鏡がない上に風が吹いている!」
「そりゃ風だって吹きますよ。外なんだから」
良造は当たり前の事を言ったが、オレーナはそれどころではなかった。
「とにかく駄目だ。絶対駄目だ。私の靴下を見たからこれも大丈夫などと思ってはならない」
「激しく動揺しているように見えます」
良造はひっぱたかれた。学歴もあっていずれは士官にと形だけの兵として最初入営した時、教育係から敬語を使われながらひっぱたかれたことを思い出した。この年でひっぱたかれるとは思わなかった。
オレーナは遠く離れて犬を抱き、建物の陰から涙目で睨んでいる。
良造は参った。そんな目で見られても困るのである。
「ちなみに服はそこの縁側に……」
「駄目だ!」
結局、病人のように盥に湯を張って手ぬぐいで体を洗うことになった。襖を閉め、番犬を置き、覗いたら夫婦の契りを交わしたと見なす、音を聞いてはいけない。他の人物を近づけてはならないなどと事細かに説明を聞いて良造は家の外に出された。敷居の向こうでは犬が尻尾を振って番犬をしている。いや、尻尾を振る番犬は駄目だろうと思ったが、厠に続いて良造は護衛に立つことになった。空を見上げればコチドリが飛んでおり、高い雲が姿を見せていた。
緩やかに吹く風に、いっそではなく愉快になり、良造は笑った。塹壕で射撃を命令していた自分を思い出し、なんだ生きていればこんなつまらん事もできるじゃないかとまた笑った。一五の頃より初心な気がして面白かった。
笑ってると髪が濡れたオレーナが襖から体を隠すようにしてこちらを見ていた。恨みがましい顔をしている。
「大尉は変だ。私を苛めて笑うかと思えば、ひどく優しい。それとも日本人が変なのだろうか」
「今笑ったのは貴方ではなく、空をゆくコチドリを、ですよ」
「そうか……そうだなすまない。私は過敏になっているようだ。謝罪を受け入れてくれると嬉しい」
「謝らないでも。確かに文化の違いが、意地悪にみえるかもしれません」
オレーナは左右を見た後、犬を抱いて近寄ってきた。
「ありがとう」
「いえ。さて、軍に行って参ります。食事などは簡単につくっておきますので」
「分……かった」
なぜそこでつまるのか分からなかったが、さておき良造は出かけることにする。もはや仕事を辞めることに関して後ろ髪を引かれることはなかった。今なら気持ちよく、辞められそうな気がした。
頼ってくる金髪碧眼の美少女が一人いるとはしても、良造は全体から見れば日本陸軍の傍流もいいところの出世とは縁のない人間である。閑職にあって勲章の件でさらに肩身が狭くなってもいる。若くして大尉の座を得てはいたが、これはもう戦争で活躍したのと、尉官が不足したためだった。
だから簡単に辞められるだろう。そう思っていたが、当てが外れた。
辞表を出しても少し待てなどと言われ、午後から本人抜きの会議が始まってしまっている。
今週に限って辞める人間が多いのかなと思いつつ、乗馬教育をしていたら不意の呼び出しがかかった。秋山少将だった。
当事者感覚を無くして歩く駐屯地の廊下は、もはや他人の好奇の目も気にならぬものである。自分が大尉にまでなれたのだから、秋山少将こそ昇進すべきだろうと思いつつ、歩いた。もっとも尉官と違って高級将校は人的損害を被っていない。被っていないと言う事は席に空きがないわけで、それが幼年学校出身者でないこともあって秋山少将の出世を遅らせているのだろうと推察した。
部屋に入った瞬間、少将以外にもう一人いるのに気付いた。皮肉そうに笑い、手を軽くあげて挨拶する。
「よう。色男」
イトウだった。嫌味なほどスーツがよく似合う。老婆だったりスーツだったり、忙しい男だ。
「内務省に知り合いがいたとはな」
秋山少将はため息。
「知り合いというか、以前取り調べを受けただけですよ」
「そういうなよ。新田ちゃん。俺とお前の仲じゃないか」
馴れ馴れしくも芝居がかった風に言うイトウ。良造はこれが証拠だとばかりに少将を見た。両眉をあげ、辞表を机の上に出す少将。
「これの受理だが、できなくなった」
「なぜでしょう」
「日本の敵にはならないんじゃなかったのかい?」
口を挟んだのは、イトウだった。口は笑っているが、目は笑っていない。
「なりませんが、家に転がり込んできたロシア少女を家に送らないといけません」
「ロシアじゃない。ウクライナだ」
冷静に、そして冷酷にイトウはそう言った。良造はイトウを見る。それのどこが訂正するほど重要なのかよく分からない。
「ロシアのウクライナでしょう」
「よさんか」
秋山はそう言った。ため息。先ほどからため息が止まらないように見える。顔を傾け、良造を見る。
「内務省の方から、新田大尉を借り受ける話が出た」
「猫の子じゃあるまいしと、思うのですが」
「上の方で話がついた。と言っている」
「了解しました」
良造は頭を下げてそう言った。上の決定に異を唱えていたらこの商売はできなくなる。死ねと言われたら死ななければ、戦争に勝つのは難しい。
もう辞めるという時なのに身に染みついた服従の癖が出た。ある意味情けないことだった。
イトウが言葉を続けた。皮肉そうに笑っている。
「で、内務省としては新田大尉、貴君の特殊な事情、特殊な人脈を利用して国益を確保出来るのではないかと考えている。お国のためにもう一働きしてくれないだろうか」
「自分は馬に乗る位しか芸がないのですが」
「刀の方はかなり腕が立つらしいじゃないか」
「腹を銃で撃ち抜かれましたがね。平壌の野戦病院の天井を見ながら銃には勝てないなあと思いました」
「いやいや、塹壕ではその刀が随分役立ったそうじゃないか」
このイトウという人物はどこまで知っているんだろう。良造は内心舌を巻きながらそう思った。陸軍の中にも部下が紛れ込んでいるのだろうか。
何も言わずにイトウを見ていると、イトウは人の悪そうな笑顔で口を開いた。
「まあ、とにかく。うちはお前さんの人脈を見込んだわけだ」
「細い人脈ですが」
目の前を歩きながら、イトウは笑う。
「いちいち突っかかるねえ。お姫様一人をたぐり寄せる弱い人脈なんてないさ。いいかい、そろそろ本題に入っても。本題というのはね。あのお姫様の願いを聞いてやってくんないか。送り返すだけじゃなく、な」
意味が分からず黙っているとイトウは笑った。
「ああ、もちろん、大尉。敵に塩を送るって話じゃない。大尉の愛国心はよく知っている。大丈夫。ウクライナってところはロシアに併合され弾圧されているところでね。我が日本は、敵の敵は味方という理念に則って彼らを支援することにした」
「ロシアを刺激して、また戦争になりませんか」
「露見すりゃな」
職業的犯罪者の口調でイトウは言った。目は、笑ってない。
良造は秋山少将を見る。秋山少将は半分瞑目して腕を組み、何も言わない。それを許可だと思ったか。イトウはゆっくり言葉を進めた。
「ということで、こっそりやる。最悪は元陸軍大尉が勝手にやったことで事を終わらせるわけさ」
「なるほど」
陸軍がこの手の秘密任務をやっていることは、噂では知っていた。実際、前の戦争で手伝った馬賊は田中義一という陸軍軍人の名前をあげていたものである。
それはそれとして勝手なものいいもあったもんだ。うまくいったら国のお陰、最悪はお前のせいという。
もとよりオレーナ嬢の幸せを願う自分はともかく、普通の軍人はそんな申し出を受けるんだろうか。イトウはどうやって自分を説得するのだろう。そこが気になって仕方がない。
「お話は分かりました。しかし」
良造が口を開くのを、イトウが止める。目には真剣な輝きがある。
「大尉なら分かるだろう。ロシアは手強い。外で浮かれているぼんくら国民を見て危機感を持たなかったかい? 中村屋や資生堂パーラーあたりでうまいものを食うことしか考えてない奴らの政治談義に腹を立てたことはないか? あいつらは夢遊病だ。事実は違う。大尉。塹壕を覚えているだろう。今回はうまくいったが、次はどうか分からない。日本はいつ滅んでもおかしくはない。この国は俺たちの血でただ少しだけ、また寿命を延ばした。ただそれだけだ。これまでもそうだった。維新で、日清戦争で、我々は血を流した。血を流して少しだけ命永らえている。今度もそうだ。何も終わってはいない。次なる出血の準備が、国を守る準備が必要だ」
なるほど。国を守れか。国を守れと言われたら、確かに大抵の日本人ならそう虫の良い申し出だろうと受けるだろう。先人だろうと自分だろうと、そう言われれば納得して死にもする。幕末から今にいたるまで、外国からの蹂躙は恐怖だった。死ぬよりも。
その上で国を守れと言われたら、説得以前の話である。ぼんくらのために戦うのはいやだが、国のために戦えと言われれば、故郷を想って納得もする。
「分かりました。どんな準備をすれば?」
「コサックと戦って向こうの強さは身に染みたろう。あの中にもウクライナ系が大勢交じってる。上が目指しているのはこのウクライナ・コサックによる独立国、東ウクライナ国を極東で作り、日本の楯とすることだ」
「国を作れ、ですか」
「そうだ。ま、そこまでいかないまでも単に反ロシアの村をいくつか作れればそれでいいんだが。その村の青年がようは陸軍の騎兵隊の増援になるって寸法だ。馬を分けてくれるならなお嬉しい。資金や資材は可能な限り用意する。どうだい、やってくれないか」
「家に転がり込んできたロシア少女を不幸にしない範囲でなら」
「そうだろうな。分かった。その範囲でいい」
「あっさりと言いましたね」
イトウは笑っている。
「こんな話を受けてくれるようなお人好しだ。お人好しってのはな、誰に向かっても大抵お人好しなのさ。それに俺が守りたい日本ってのはそういう心意気だと思ってね。ほら夢遊病の奴らのために仕事をやってると思うのは萎えるだろ。だが立派な夢遊病のためにやってると思えば腹も立たん。その心意気は立派な夢遊病だ。だから了解した。分かったか」
存外自分と似たことを考えるものだと良造は笑った。
「分かりました。これから何をすれば?」
「まずは没落貴族のお嬢さんの話に乗ってくれ。偽装商社を一個建てて、そこを通じて連絡する。注文がありゃそっちに回してくれりゃいい。暗号の授業は今日から三日でやる。お前さんは形式上、陸軍をやめたことになる。肩書きは大陸浪人だ。いいな」
「了解しました」
良造は最後確認するように秋山少将を見た。秋山はうなずいた。内務省と陸軍の間で何らかの取引があったのかもしれないが、それを詮索しても答えは返ってこないだろう。
帽子をかぶり、では失礼しますと言って出るところで、秋山はようやく口を開いた。
「大尉」
「は」
「またいつか、轡を並べて一緒に走りたいものだな」
それは騎兵には分かる相手への好意の表明である。良造は敬礼し、楽しみにしておりますと言って部屋を出た。
辞めるつもりが辞められなかった。いや、形式上は辞めたということになるのだろうか。軍というか職場は勝手なもので、冷遇しておいて辞めるというと困ると言い出す。そんなことを考えた。
とはいえ、今回の件で懐が多少潤うであろうことは確かである。そこは素直に喜ぼう。藤子に多少なりとも金を残してやりたかったので、これは好都合であった。
それにしても国を作るというのは想像もしたことがないことである。一介の騎兵大尉になにが出来るのだろうと思いつつ、受けたからには努力をせねばなるまいとも思った。
遙か凍土に国を作る。
考え事をしながら仕事をし、明日から別室にて教育を受ける旨を聞く。表向きは退職に当たっての残務処理である。
引き継ぎ用の資料作成をしつつ、オレーナがどんな風になっているか心配でもあるので早めに帰る。
馬を走らせ、家の前に行くと野次馬が数名立っていた。良造というよりも馬の姿を見て逃げ出した。ロシア女とかいって遺族に石を投げられるかもしれないので、それとなくの警護も考えねばならないと、今更思った。戦争になればお互い様と自身に恨みはなかったが、遺族、家族はそうでもないことを良造は知っている。
加納が黒溝台会戦で死んだ事を教わったのは弾を摘出した後、医者の口によってである。そうかと呟き、いい拳銃だったんだがなと偽悪的なことを言って目をつぶった。以後、平壌で治療に専念し、帰国後加納の最期をその部下などから聞いて書き留めた後、話と共に遺族へ刀を返しに行った。戦争が終わって直ぐのことだった。加納の妻は助広はどうぞ中尉が持っていてくださいと涙ながらにいい、それでロシア兵を一人でも多く殺していただければこれに勝ることはありませんと言った。戦争が終わっていたのに、そんなことは全部彼女も分かっていたろうに。それでもだ。
相手を殺した罪悪感がなければ、いつまでも恨みを持つ事ができると、良造は思う。
夏なのに襖と障子が閉められている。犬が盛んに吠えていて、良造は慌てて襖をあけた。部屋の真ん中で犬に抱き付いたオレーナがいる。慌てて顔をあげた。涙目だった。
慌てて顔を隠した。泣いていたという自覚はあったらしい。
「ノックをするものだぞ。大尉!」
「ノックしたら襖が破けます」
「知らない」
知らないとはなんだと思いつつ、オレーナを見る。オレーナは犬に抱き付いて背を向けている。犬は迷惑そうである。少女の肩が小さく揺れている。
まあ、珍しい動物のように見物されれば泣きもするか、異国で一人、言葉も通じなければ心細いのは確かだろうと襖と障子をあける。涼しい風が通りはじめた。
「すまない。大尉、私は弱気のようだ」
「誰にでもそういう時はあります」
「大尉にもそういう時はあったのか」
驚いて思わずオレーナは顔をあげた。鼻の頭が赤くなっている。良造は微笑みながら口を開いた。
「子供の時は」
オレーナは不意に怒り出した。
「はっきり言っておく、私は子供ではない」
「鼻を赤くしている間は大人だなんていいません」
オレーナは慌てて両手で鼻を隠している。良造は手ぬぐいを出してきた。受け取り、涙を拭くオレーナ。
「ここは暑いからそうなるんだ」
「はいはい」
長い髪を振ってオレーナは不満そうな顔をあげた。犬はこの隙に逃げ出し、腹を見せて寝ている。余程暑苦しかったに違いない。
オレーナは良造の袖を三度引っ張った。一度目は不満、二度目も不満、三度目は自分を見るように引き寄せた。
「この地で頼りに出来るのは大尉だけなのに、大尉は意地悪だ。私が困っているところを喜んでいる」
「意地悪なんかしませんよ。貴方は泣き虫なんだから。自分の方ですが軍を辞めるのはできました。出国の準備等であと数日はかかります」
「泣き虫なのではない。大尉がいないのが悪いのだ。……何と言った?」
「ですから、辞めるのはできました、と」
「では、明日から家に居るのだな?」
それが何より重要なように、オレーナは言った。鼻を隠しつつ大きな青い眼ですがるように良造を見ている。
「いえ。この数日は準備で外出することになります」
「私もついて行く。好奇の目で見られるのは耐え難い」
良造は困った。流石に暗号を教わるのに連れて行くのは難しい。
「ついて来ることはできませんが、かわりに好奇の目で見られぬよう、明日からでも人を手配しましょう」
良造はこの辺りの面倒をイトウに全部押しつけようと考えた。まあ、それぐらいはいいだろうとも考える。これから苦労することになるのだろうし。
オレーナの瞳が、不安そうに陰る。
「嫌だ。ついて行きたい」
「子供ではないと自分で言っていたでしょう」
オレーナは手を下ろして横を向いた。
「大尉の見ていないところでは大人なのだ」
そんなことを言いだした。
困ったものいいだが可愛らしくも見え、思わず笑ってしまう。睨まれる。目をさまよわせる。
「野次馬などを追い払い、困ったときの話し相手がつくまでは傍にいますから」
「本当だな」
「大丈夫です」
オレーナは歯を見せずに嬉しそうに笑った。笑った後で不意に恥ずかしそうにした。
「だから、大尉の見ていないところでは大人なのだ。そこは理解すべき事項だ」
はいはいというと怒るのだろうなと思いながら、笑っても怒られそうなので口元をなでて笑顔を隠した。
「暑かったでしょう。風呂でも立てましょうか」
一瞬喜び、次に悩んだ後、オレーナは口を開いた。
「見られるのは嫌だ」
しかし、つくづく残念そうではあった。
「そういえばそうでした。じゃあ、夜に風呂を立てましょうか。それなら誰にも見られないでしょう。月でも見ながら風呂に入るのもいいものですよ」
真剣に悩み出すオレーナ。考え、口を開き、閉じ、また開く。
「……大尉が見張りに立つなら」
「分かりました」
「その前に湯が欲しい」
「仰せのままに」
「結婚を考えたりは」
「しません」
オレーナは残念そうに良造を睨んだ。その顔が可愛らしいので望みを叶えてやろうかとも一瞬思ったが、苦笑してやめる。
曲がりなりにもこの件は、国の秘密任務という形になってしまった。彼女を利用することになる。この上〝もの〟にするなどとても出来たものではない。自分は悪い人間だが、そこまで悪くもないと信じたいのである。
残念そうに肩を小さく寄せるオレーナは、良造をこっそり見る。どこか悲しそうに。
「何か報酬を渡せればいいのだが」
「幸せになってください。それを以て我が報酬とします」
それだけは確保してやりたい。少し沈黙が続くオレーナは不意に顔を赤くし、背筋を伸ばした。おそらくは本人でもよく分からない所作であった。
「大尉はなぜ一人なのだ? ええと、下男を雇ったりしないのか?」
「軍を辞めようとしていた矢先でして」
目をさまよわせるオレーナ。顔はまだ赤い。両手で顔を挟み、冷やしながら口を開いた。
「そうか。それは良かった。いや、そうだったな。クロパトキンから私のことを手紙で聞いていたのか?」
イトウあたりが握りつぶしていたなと、良造は考える。まあ、だが人間万事塞翁が馬だ。手紙を貰っていたら直ぐに断りの返事を出していたろう。
「いえ。でもまあ、何の問題もありません」
オレーナは犬を抱きしめて言った。
「その手紙には私について紹介を書いていたと思う。多少の美化はあるかもしれないが、概ね本当だと思う」
「なるほど」
「だから、もっとちゃんと読むように」
聞き取れるかどうかの小さい声でオレーナは言った。
「はい」
「私が幸せになる件だが、家の中に風呂を作ると幸せになれると思う!」
勢いよくオレーナは言った。笑う良造。
「その前に出国すると思いますよ」
「そうか……残念だ」
本当に残念そうではある。オレーナは不意に何かに気付いたように顔をあげた。
「そもそも家の中でなぜ頑なに風呂に入らないのだ。木と紙では燃えるかもしれないが風呂だけは煉瓦でもいいと思う。それとも宗教がこれを禁じているのか?」
「土間に風呂を作る人もいますが、掃除が大変で湿気が凄いらしいです。後はやはり火事ですね。木の家は良く燃えます。煉瓦で作るのはどうでしょう。銀座ではやってますが、こっちはまだやってません。住みにくそうに見えるからでしょう。他に理由はないと思います」
「私は、掃除が大変でも、いつも風呂に入れる方がいいと思う」
なぜかしょげてオレーナは言った。考える良造。
「そうですね。居留地が廃止されてこっち、あっちこっちに外国人が移りはじめましたから、そのうちそうなるかもしれません」
「私は早く来すぎたかもしれない」
「そうですね」
「私は、何でも急く性質らしい。昔から良くそう言われる」
独り言のようにオレーナは言った。犬を撫でている。犬は半眼で眠そうな顔。オレーナは何故か面白くなさそう。胸を張った。
「そこは慰めてくれれば私は幸せになれると思う」
「なるほど。さて、どう慰めましょう」
「それは……殿方が考えるべき事項だ」
「分かりました。考えておきましょう」
「うまくはぐらかされた気がする」
「大丈夫。自分は貴方の幸せを願っていますよ」
オレーナがよろめいた。良造は湯を立てるために立ち上がった。
湯を立て、盥に入れ、部屋に差し入れる。障子が閉まり、ちょっと開いた。犬が出された。尻尾を振っている。番犬であろう。青い片目だけを見せてオレーナは、何かを言いかけたが、何も言わずに恥ずかしそうに障子を閉めた。
大根を味噌で煮るかと思っていると、また障子が少しだけ開いた。オレーナはつとに真剣そうな片目を見せて、
「紹介されたのが大尉でよかった」
と言って、勢いよく障子を閉めた。反対の障子が少し動いて、慌てて閉めようとするのが分かった。
いよいよ行水をはじめるのかランプの光で影絵のようになっている様は無視して、良造は夕餉の準備をすることにした。毎日米を炊くのは藤子が居るときくらいのもので、その際は自分で米を炊くことはなかったから、これは珍しいことと言えた。竈に蜘蛛の巣がはるようなことはないにせよ、独り身で食事を真面目に作ると一日はあっという間に終わる。そこで、食べない日が出来る。それがこの頃の田舎の一人暮らしだった。実質上、一人暮らしなど都市でしか出来ない状況である。
米のとぎ汁で大根を煮る。昆布で出汁を取る。マコガレイの干物を焼くための準備を始める。干物は外で焼かないと煙が大変である。
大根を竹串で刺しながら、大尉でよかったと口の中で言った。秘密任務の事が思い出され、俺はいつもロシア人にひどい事をしているなと考えた。いや、話によればウクライナとロシアはまた違いそうではあるが。
夕餉の支度をする間、オレーナは熱心に汗をぬぐっているようではあった。
オレーナが障子を開けて出る頃には、飯も良い感じに炊け始めている。長い行水だなと良造はちらりと思ったが、それもそのはず、藤子の浴衣を着ていた。
「大尉の子供の頃の服が出てきた。どうだろうか」
藤子の洋服が出てこなくて良かった、いや、何が良かったのだと思いつつ、良造は目を走らせた。
左前なのはもちろんのことお端折りもなく帯の結び方が腹になっていた。何より肌襦袢がないので激しく動くと危険そうである。
事細かく言うべきかと思ったが、結局何も言えなかった。袖から見える腕やシャンとしていない襟から覗く首筋が細すぎること位は注意したかったが、この辺りは年を取れば改善するかもしれなかった。
「その格好で外出などしないように」
「似合わないか」
「可愛らしいとは思います」
オレーナは顔を赤くして黙った。
「あの、なにか」
「いや、それならいいんだ」
少女というものは無自覚に色気があるからいけない。良造はそう思いながら食事を皿に盛り始める。
説明しながら食事をするのは中々楽しい。ただ、辞書にもない言葉をどう説明するか、困る事はある。例えば大根である。一応カブの仲間と言う事で説明したものの、少し悔いが残った。
「袖をこうやって押さえながら手を伸ばして箸を使うのです」
大皿に手を伸ばそうというオレーナに言うと、オレーナは見よう見まねで袖を押さえて箸で大根を突き刺した。
「フォークやナイフをなぜ日本人は使わないんだ。あんなに便利なのに」
「軍隊では道具に人が合わせるといいます」
「日本人は全員が軍人のようなものなのだな。親近感を感じる」
「ロシアはそうなんですか」
「コサックがそうだ。ロシアは……全部が悪いとは言わないが、余り好きではない」
「なるほど」
「米には牛乳があうと思うんだが、そういう料理はないのか」
「中々前衛的な食べ方のような気がします」
「そんなことはない。麦ではよくやる。出国したら食べさせてやるから、楽しみにしておくといい」
良造は牛乳を飲む以外で摂ったことがない。肉食に並んで体が大きくなるということで、金を得ては摂っていて学生時代は盛んに飲んだが、酪農が盛んな千葉にいるにも拘わらず、ここのところはとんと飲んでいなかった。
良造は牛乳料理を考えて、大根を食べるオレーナの気持ちを考えた。
「数日の辛抱です。直ぐに洋食がある横浜に行きます」
「うん。皆が大尉を見てどう言うかが楽しみだ」
オレーナは童女のような笑顔で言った。
良造は騙しているようで悪い気になり、軽く頷くだけに留めた。まあ、当面は戦うわけでもなく、国作りをするだけだと考えた。
「さしあたって必要なものは何かありますか。貴方と一緒に渡航するに当たって、必要な道具などがあれば今の内に準備しますが」
「勇敢な騎兵大尉がいて、それが日本帝国の者なら、それだけで私の家は一目置かれるようになる」
逆に言えばそれだけで立場が浮き沈みする程度の立場なのだなと、良造は考えた。
「一目置かれてからは?」
「一目置かれてからは、ええと」
オレーナは黙った。目の動きから察するに何も考えてなさそうだった。
若さだなと、良造は思った。自分がちょっと勉強が出来たと言うだけで上京したのと、余り変わらない無謀さであった。あれと同じ事は今の自分なら出来ないなあと思っていたが、オレーナはそれより遙かに大きな無謀、いや、賭けに出ている。
「子供を沢山作るつもりだった」
オレーナは食事の手をとめて、恥ずかしそうに言った。
「でも、直ぐに別の手を考える」
オレーナは安心してくれと言わんばかりに良造の目を見てそう言った。どこか悲壮な決意が瞳に見え隠れした。
良造は視線を下にやる。家なんてどうだっていいでしょう。貴方が幸せになればと言いかけて、それでは何の解決にもならないと思い直した。
「それがよろしいでしょう。ちなみに子供を沢山作ってどうするんですか」
「血が細くなった我がアポーストルには、まずそれが必要なんだ。縁組や養子で他家との関係や繫がりを持つ必要があるし、後継ぎもいる。軍事で活躍する者もいる」
良造は子が財産というのはどこの家も変わらんなと考えた。郷里秋田の農家だってだいたい同じ事を考える。家柄がよければ金策にも使えよう。
思ったよりずっとしっかりした、しかし悲しい考え方だなと良造は思う。藤子を思い出し、腹が立った。自分は見返りなど、求めてはいなかった。
「気を悪く……したろうか」
「いえ。貴方を幸せにしようという思いを強くしただけです。それ以外の手を考えましょう。自分も考えます」
秘密命令としての極東のウクライナ国家成立とオレーナの身売り行為の回避を結びつけながら良造は考える。イトウがそこまで考えていたのかは分からないが、確かにこれは一銭貨の裏表だ。
身売りをやめさせるとはオレーナに身売りしないでもいい立場と力を与えることである。東方ウクライナの建国に絡んで存在感をしめし、家名をあげていけばいい。彼女に婿候補が群がるようになれば好きに選べるだろうし、その中で恋愛も出来るのではないかと思う。
ウクライナにあるのかは分からないが掛歌くらいは経験させたいものだ。
食事の後に風呂を立て、見張りと称して外に出る。街灯もないこのあたりは、見上げれば天の川がはっきり見えた。天の川をウクライナではなんというのだろうと思いつつ、周囲を見回すと老婆が姿を見せた。ゆっくり寄ってくる。
「どうかしましたか」
「オレーナ嬢というか、公女は野次馬を好まない。どうにか出来ないだろうか」
「そうですね。分かりました」
「イトウさんですよね?」
「変装中なんだから、その名前で呼ぶな」
老婆は男の声で言った。顔は笑っている。
「ああいや、すみません。ついでに公女の話し相手が欲しいのですが」
「駄目だ。手回しが良すぎるように見える」
「なるほど。では手紙をください。黒鳩金将軍からの手紙。持っているんでしょう」
「ああ」
老婆は手紙の束を懐から取り出して良造に渡した。
「勝手ながら、この一年ばかり返事は勝手にだしておいた。届き始めてからずっとな。その内容をしたためたものも入れてあるから確認をしておいてくれ」
少々嫌な気分になりつつ、良造は頷いた。国のためと言われれば、怒ることも出来ないが、一言くらいは断りを入れてくれてもよさそうなものである。
「そういう顔するな。ウクライナ美女をものに出来る良い機会だ」
普通はそうだろうなと思ったあと、久しぶりに煙草を吸う。口から湧き出る煙の多いこと。
「ずっと代役にしなかったのは何故ですか」
「理由は二つある。一つにクロパトキンがお前の顔を覚えている可能性が僅かにある」
「なるほど。もう一つは?」
「お前ならうまくやると推挙があった」
「誰ですか」
「教えられない」
老婆は世間話をするようにそう言って、天の川を見た。背後では水の跳ねる音がする。
良造は気分を入れ替えてゆっくり煙草を吸う。
「しかし、よく少将がうんといいましたね。あの人は政治から距離をおいていましたが」
「少将はな」
「なるほど」
「こういうことを、俺が好きでやってると思うなよ」
「思いませんよ」
オレーナが大尉と呼ぶ声がする。良造は煙草をイトウに渡し、頭を下げて戻った。
自分が舞台俳優になった気分になる。それはそれで楽しい体験と言えなくもなかったが、自分以外が本物だとなると、楽しんでもいられなくなる。
周囲の目が気になるとべそをかいていた少女は本物だったからだ。良造は刀が強い時代だったら彼女を泣かす全部を一刀両断にしてやるところだと考えた。そんな時代は四〇〇年前にもなかったろうが。
オレーナのところに戻り、湯気の立っていそうな肌を見て目をそらした。
「どうした?」
「いえ。何も」
風呂上がりに色気を感じるのは日本人だけかもしれないなと思った。不思議と入浴中には色気を感じない。
「大尉」
「なんでしょう」
「人と話す時は、目を見て話すものだ。大尉はギリシャ人か」
「ギリシャ人ですか」
「彼の地では目を見るのが不作法とされている」
「物知りですね」
良造はオレーナを見た。オレーナの金色の髪が少し濡れている。
オレーナは唇を尖らせたあと、面白くなさそうに口を開いた。
「嫌味に聞こえるが、大尉は真面目なのだろうな」
「もちろんです」
「一つ覚えたぞ。ニタ大尉はいつも真面目なのだ」
オレーナは気分を取り直し自慢げに腕を伸ばして良造に見せた。
「すっきりしたっ」
「それはよかった。それと今近所に声をかけてきたので、野次馬は立たなくなると思います」
それを聞いてオレーナは何故か面白くなさそう。目を伏せる。
「そうか。それは嬉しい。でも大尉は早く戻ってくるべきだ」
「面白くなさそうですが」
口をとがらせ、オレーナは言う。
「別に。早く帰ってくるべきだ。心細いとかそういうのではないぞ。ただ、そちらの方が心強いというだけで」
良造の袖を引っ張りながら、オレーナは言った。良造は苦笑した。
「そんな調子でよく一人でここまでやってこられましたね」
「見せ物になったのは日本についてからだ」
「なるほど。分かりました。急ぎ戻るようにします」
「うん」
オレーナは嬉しそうに笑った。彼女を陥れようとする全部を助広で斬っていったら楽しかろうなと再び考える。ロシア人を斬り倒すよりずっと良さそうだ。
翌日。暗号を一通り教えられた。暗号は入れ替えと符牒で成り立っていて、主として覚えるのは符牒である。入れ替えは法則を覚えれば良かった。
古典である母音を何字ずつずらす……たとえば三なら〝ほ〟は〝ふ〟になる。〝ほがらか〟は〝ふげれけ〟になる……ほか、語順の入れ替えを行う。
さらに符牒を覚える。パン屋は日本、ほがらかなら順調という風にだ。パン屋へ、こちらほがらかなり。なら、日本へ、こちら順調の意味になる。
教育を受けた感じ、日本は入れ替えより符牒の方を優先しているようだった。入れ替えの方は意味のない文章にし、符牒を重要視するように教わる。符牒のメモは禁止され、数百の単語を覚えさせられた。
漢語のようなものだなと、良造は思う。覚えるだけというのは余り面白くもないが、これを覚えないと出国が出来ないという事でオレーナのために急ぎ覚えた。
普通より二時間早く、午後三時には帰宅の途につき、オレーナの出迎えを受けた。
オレーナは馬に不用意に近づかず、馬慣れしている事を窺わせた。流石コサックだなと感心しつつ、富士号を馬房に繫いだ。水をやり、馬草を与える。
「今日は漁港へ魚を買いにいこうと思います」
「私もついて行けるだろうか」
「もちろん」
オレーナは喜んだ。良造が出て行ってから戻るまで、オレーナは盥に水を張って縁側にて足をつけつつ、犬と遊んでいたという。朝方、涼を取るためにと渡した扇子を喜び、これは大尉から初めて貰ったものだなと言って涼しそうに顔を煽いでいたとも言った。
「ところでこの扇子は良い匂いがするのだが、どういう仕組みなんだろう」
オレーナは扇子に鼻を近づけて言った。顔が隠れる。そうすると本当のお姫様のよう。いや、実際貴族の娘なのは間違いないのだが。
「白檀で作ってありますから。良い匂いがする木です」
「香木か。焚くこともするのか?」
「ええ。面倒なんで日本では線香という形にしていますが」
「貴族のようだ」
「国によって、価値が変わるのかもしれません」
良造はそんなことを言って歩こうとした。オレーナは不思議そう。
「馬で行くのではないか?」
「一頭しかありません。ああ、そうか」
良造は馬を連れてきた。いたわり、鞍を載せる。
「手綱を引いていきましょう。どうぞお乗りください」
オレーナは難しい顔をした。良造の予想とは違った顔だった。
「その馬は」
「なんでしょう」
「軍馬に見える」
「ええ。それはもう」
良造はにこにこして富士号の首筋をなでた。なぜかオレーナは目を細めている。
「重いものを運ぶのも問題ないように見える。私はそれほど重くないが」
「そうですね」
「大尉が乗っても、なおだ」
良造はオレーナを見た。馬の二人乗りは、実のところ大変である。馬の背は平坦でないからだ。それでもやろうというのなら、二人乗り用の鞍を使うのが普通である。
「二人乗り用の鞍がないのです」
「頑張って乗ればいいんだ」
オレーナは折れなかった。良造は馬の背を見た。銃だの毛布だのを持つわけではないので重量的には出来るだろうが、いや、だがしかし。
「貴方が前になってしまいます」
「子供のようだな」
「そうなんですよ」
それで良造が歩き出そうとすると、袖を引っ張られた。
「横座りするのでうまく私を捕らえておくように」
「大変ですよ」
鞍がずれるほか、疲労が激しいのが馬の横座りである。乙女が座ると絵になるが、それは小さな馬でのこと。馬格が大きく、必然として揺れが大きい軍馬では、とても許されたものではない。落馬の危険がある。横座りは乙女座りとしてたまに小説の挿絵に出てくるが、良造からしてみれば以上の理由から滑稽であった。それをオレーナはやるという。良造は考え、これまでの会話から馬には暗くなさそうだと思い、ため息をついたあと、鞍を曲芸用のものに変えた。馬の嫌がらない場所におき、止め帯をしっかりまわす。
馬に飛び乗った。手を伸ばす。
「疲れたら言ってください」
「大尉の馬術、見せて貰う。ウクライナほどではないが、どこまで上手いのか楽しみにしている」
そう言ってオレーナは鐙を踏んで引っ張り上げられた。良造の前に座り、嬉しそう。しっかり左腕に摑まった。胸にくっついた頭の毛が近い。
思ったより恥ずかしいぞと思いながら、良造は馬を走らせた。オレーナは良造を婿にしようというのを、あきらめていないのかもしれない。
習志野は海に近い。総武線の線路を渡り、馬で少し走ればもう潮の匂いがしてくる。東京湾である。
かつて内海と呼ばれていたそのほとりには、漁を生業とする集落がいくつかあったが、御一新のあとも発展する様子はなく、かえって寂れようとしていた。商業的にうまみがないのが理由であった。どうせ水揚げするなら、大消費地である東京の方へ流れていくのである。
だからこのあたりの魚は、魚釣りや小さな小船で取ってくるものがほとんどであった。
田園を抜け、ゆるやかな円弧を描く海岸に出れば、遠くに富士山が見える。オレーナは小さく声をあげた。
「あれが山か」
「山はどこにでもあるでしょう」
「ウクライナにはないな」
それもそうか、大陸だものなと良造は思った。大陸にも山はあるが、広い土地である。見渡す限り山がない地形というのもある。
鉄嶺の先にはそんな地形もあったのだろうかと、そんなことを考えた。塹壕でいつも見ていた鉄嶺、その先にどんな風景があるのか良造は知らない。
「あの山の名から、この馬の名もつけています。富士と」
「そうか。富士号。これから世話になる」
オレーナは馬の鬣を優しく撫でた。
馬を走らせると子供たちが寄ってくる。遠目でオレーナを見て、その金髪や青い目を見て驚きの声をあげた。お姫様のようだという、感想を述べるものもいた。
「何と言っている」
「お姫様のようだと」
オレーナはちょっと笑って小さく手を振った。見世物になるのは嫌いだが、子供の注目を浴びるのはさほど嫌いでもないようだった。
「貝は食べることが出来ますか」
「貝とはなんだろう。分からない」
良造は馬から降りて夕餉の準備のために買い付けに来る主婦たちに並び、露店にて浅蜊を買った。干物ではない魚も買う。アオサも買い、それで引き上げることにした。
青菜も売る者がおり、そこからも買い求めた。これはお浸しにして食べるのである。
「今日は深川飯を食べましょう」
「良く分からないが分かった」
オレーナはうなずいた。
「貝も海の物だろう。魚ばかりを食べるのだな。キノコは食べないのか?」
「キノコは食べますが山奥になりますね」
「森に生えているだろう」
「日本では山に生えるものなのです」
日本の里山と比較して森はさほどキノコがとれない。枯葉が多く、栄養が豊富だとキノコはかえって育たないのである。里山なら枯葉を腐葉土にするため定期的にかき集めてもっていくので、キノコ類は種類が豊富で量も多かった。だから日本ではキノコと言えば山のものであって、枯葉の少ない針葉樹林が多い欧州では森のものである。
「山というのは凄いのだな」
オレーナはそう言ったが、少々残念そうである。
「キノコを食べるのですか」
「食べる。たくさん食べる。色々食べる」
「キノコ鍋のようなものですか」
「良く分からないがそれは食べてみたいな」
「秋のものなので、難しいかもしれませんね」
そんなことを言いながら帰った。良造はうまく振動を抑えて馬を走らせ、馬は主人の意を理解して走った。
「疲れましたか?」
「いいや。大尉は馬を走らせるのがまあまあうまいな。驚いた」
「そりゃどうも」
オレーナは上機嫌そうに笑った後、腕に摑まって、噓だ。大尉は見事な腕前だと言った。
良造は苦笑して馬を繫ぐ。この人物といるのが楽しい。同時に騙しているという意識があって、それで胸が痛んだ。
浅蜊のむき身を作り、葱を切る。これらを味噌で味付けし、飯にかける。深川飯とは漁師料理の一つである。ごく最近、炊き込み飯として浅蜊を使うものもあり、これも深川飯という。こちらの方が人気があるとのことであったが、良造は昔ながらの深川飯こそを愛した。これより海の向こうに渡るなら、もはや食うこともないであろうものを、順番に食べている。
オレーナは魚の塩焼きを喜んで食べたが、深川飯については不思議すぎて評価が出来ないと言った。
良造は苦笑し、単純な味付けのほうがいいかもしれないと考えた。
夕食の後には扇子を持って夕涼みに出た。オレーナが望んだのである。トウゴウというオレーナの飼い犬の散歩のためという。留守番が堪えてしょげていると言う話であった。
青い三白眼の犬は、散歩を喜んだ。狼のような毛をなびかせて走っている。時々人間臭く動くときのある犬だが、この日は少し走るたびにオレーナを待って座っていて、忠犬ぶりを披露した。
空には天の川が輝いている。
「空はどこに行っても同じだというが」
扇子をゆっくり動かしながら、オレーナは言った。後ろで髪を結び、良造の隣を歩いている。
「違いますか」
「違うな。大尉は中国で戦ったのだろう? 違うと思わなかったか」
「一緒にいる人による気がします」
そう言うと、オレーナはよろめいた。手を貸した。
「足下も良く見ないと」
「そういうことでは……ない」
オレーナは扇子で顔を隠した。目をちらりと出して、良造を窺う。下を見る。
「私と一緒にいることで、この空が綺麗ならばいいのだが」
「天はいつも綺麗です。ただ、心への入り方が違うだけで」
「私が言いたいのはそんなことじゃない」
「背伸びをしているとまた転びますよ」
オレーナは背伸びしながら横を向いた。どこか不機嫌そう。
「大丈夫だ。大尉がいる。助けてはくれるのだろう? 私を妻にしなくても」
「助けますよ。ただ、何も要求はしません」
「クロパトキンは大尉を親しみやすい俗物だと言っていたが、噓だった。大尉は修道士のようだ」
良造はオレーナの言っている事の意味がよく分からなかった。周囲に蛍が出ている。
「星が動いている」
呆然とオレーナが言った。
「蛍といいます」
話題を変えてくれた蛍に感謝しつつ、良造は元部下だったかもしれないそれらに向かって手を伸ばした。蛍が指の先に止まり、また飛んでいく。こんなことになったよと、心の中で言った。もう戦争は終わったし、もういいだろうかとも。
「日本は本当におとぎ話の国だな!」
オレーナは驚くときは大声で驚く。ロシアには貴族的な驚き方、というものがないらしい。良造はそっちのほうがいいなと思った。元気がいい方が一番だ。元気が良ければ年齢相応に見える。実際が幾つなのかは知らないが、二〇歳は過ぎて居らぬであろう。
「そうでしょうか」
「そうだ。私は今、何年も覚え、子や孫に話し続けるであろう出来事に遭遇している」
「蛍ならば中国にもいますよ。満州にも」
「それも見てみたいな」
オレーナは口をあけて蛍の舞を見た。青い瞳に蛍の光が映っている。自然と、扇子を畳んで手の指を組んだ。
「おとぎの国なのに、神のご加護を近くに感じる」
「おとぎの国の住人ですが、貴方に加護が沢山あることを願います」
長い沈黙。オレーナは何故か瞳を潤ませて良造を見上げている。
「大尉は」
「何か」
「女性は嫌いなのだろうか」
よく分からない質問である。悪い言い回しだったろうかと良造は首をひねった。考えても分からぬので当たり前の事を口にする。
「普通のような気がしますね」
「日本人の普通はあまり信用出来ない気がする。ここはおとぎの国だからだ」
「なるほど」
「私は今幸せではない。慰めるべきだ。大尉」
そしてどう慰めるかは殿方の考えるところ、オレーナはそう言うに違いない。良造は少し考えた。頭をなでる。
「よしよし」
盛大にひっぱたかれた。犬が吠えている。
良造は笑った。気が強いのだな、この公女はと、そう思った。それに裏表もない。藤子と余りに違うので、それがとても好ましく思えた。
「それは子供に対する慰めだ」
「それは失礼。次までに考えます」
「そうしてくれ」
犬は鼻に皺を寄せて良造を怒っている。飼い主も同じような顔をしているだろうかと思った。暗いのが残念だ。白昼でみたら可愛かったろう。