2013年のゲーム・キッズ
第三十一回 恋と毒
渡辺浩弐 Illustration/竹
それは、ノスタルジックな未来のすべていまや当たり前のように僕らの世界を包む“現実(2010年代)”は、かつてたったひとりの男/渡辺浩弐が予言した“未来(1999年)”だった——!伝説的傑作にして20世紀最大の“予言の書”が、星海社文庫で“決定版”としてついに復刻。
第31話 恋と毒
LOVE AND POISON
「ああ、疲れた」
公園のベンチで体を伸ばしたひょうしに、つい独り言が出てしまった。
「お疲れ!」
背後からいきなり声がした。振り返ったけれど、誰もいない。
と思ったら、下から顔がひょいと出てきた。
「なら、ちょっとサボってみたら?」
ジーンズをはたきながら立ち上がったのは、ほっぺたのつるんとした、目の大きな女の子だった。芝生に寝そべっていたらしい。長い髪を無造作に束ねている。草が一筋残って、緑の髪飾りのように見える。
僕は一瞬で、頭が冴えていた。疲れなんてふっとんで、胸がどきどきしていた。つまり、一目ぼれってやつだ。
「一眠りしてったら? 草がひんやりして、気持ちいいわよ」
「けど、こんな格好だし、あと10分くらいで行かなきゃなんないし」
初対面なのに僕も、友達口調になっていた。彼女の柔らかい声は不思議と気持ちを落ち着かせてくれる。
「そんな窮屈な上着、脱いじゃいなよ。ほら、首輪も取っちゃって」
「首輪?」
彼女は僕の胸元に手を伸ばしてきて、ネクタイを、手品のように鮮やかに引き抜いた。それから芝生の上を指さした。バスケットがあった。
「作り過ぎちゃったんだけど、食べる?」
キュウリとハムのサンドイッチだった。とてもおいしかった。昼食用に栄養カプセルを持っていたが、飲む前でよかった。
一緒に、あっという間に食べ終えてしまった。彼女は僕の心を読んだみたいに「まだ足りないでしょ」と言った。
「じゃ、お茶しに来る?」
午後の仕事はサボることにした。僕一人くらいいなくても、実際、誰も困らないだろう。仕事なんてそんなものなんだ。
彼女の部屋は古いビルの屋上のペントハウス、というかプレハブ小屋だった。 紅茶を淹れている後ろ姿に見とれていたら、彼女はふいに振り返った。
「どうしたの?」
「あ、髪、きれいだな、と思って」
慌てていたせいで、思っていたことをそのまま言ってしまった。
「ありがとう」
「どんなカプセル飲んでるの?」
髪のケアのために、よほど高価なカプセルを飲んでいるだろうと思ったのだ。
「カプセルなんて、私飲んでないよ」
「ああ、なら食事がいいんだね。栄養カプセルは何番を使っているの」
「だから、全然飲んでないって。カプセル」
冗談だと思って僕は笑った。けれど、彼女の目は真剣だった。
「カプセル飲んでないってどういうこと? 栄養はどうしてるの。ビタミンは?」
「そんなの、普通にパンとか野菜とか食べてれば十分よ」
「けど、朝は? 目覚ましのカプセル口に入れなきゃ起きられないでしょ。それに、外にいたらいろんなばい菌が体に入ってくるよ。殺菌用のカプセル飲んでないと、ねえ、病気になっちゃうよ」
彼女は笑った。
「しょうがないわね。あなたも、だまされてるのよ。本当のこと知りたい?」
僕は少し頭が混乱していたけれど、頷いた。
「私、古代文明の研究をしているの。昔の文献を調べるだけじゃなくて、いろいろな人に会ったり遺跡に行ってみたりもしたわ。それで面白いことがわかってきたの」
彼女は戸棚を開け、細長くて黒いものを運んできた。ガラス製の瓶だった。金属の道具を使って器用に栓を開け、中身をグラスに注いだ。
血液そっくりの液体だった。匂いをかぎ思わず僕は顔をそむけた。
「大丈夫、毒じゃないから。飲んでみて」
彼女はまっすぐ僕を見ていた。覚悟を決めて、一口だけすすった。
「うげー。ひどい味だ。絶対腐ってるよこれ!」
「そう。腐ったブドウ汁よ。オサケ、というものらしいわ。昔の人達はこういうものを喜んで飲んでいたみたい」
「信じられない。水の方がずっといい」
「昔の人も、そうだったはずよ。最初はね。けど、恐ろしいことにこの飲み物には、中毒性がある。我慢して何度も飲んでいるうちに、飲みたくて仕方がなくなってくる。毎日飲まないとイライラが止まらない、そんな人もたくさんいたらしいわ。それで昔の人達は、たくさんのお金をこのオサケに使っていた」
「ばかな。それがわかっていて、なぜ最初、我慢して飲むんだ」
「次は、これを見て」
彼女は指先で、小さな木の棒のようなものをつまんでいた。いつの間に点火したのか、その端から細い煙が立っていた。
「こうするの」
彼女はその棒の、燃えていない方の端に口をつけて息を吸い、煙を吐き出してみせた。そして僕にそれを渡した。
僕もまねしてみた。が、すぐにひどく咳き込んだ。
涙を流しながらしばらくむせていた。僕が落ち着くのを待って、彼女は言った。
「タバコというものよ。昔の人はこれと、わざわざ小型の点火装置まで持ち歩いて、どこでも燃やしては煙を吸い込んでいたらしいの。これもオサケと同じ。最初はおぞましく感じられるけど、そのうち、吸っていないと具合が悪くなる。みんな、専用の葉っぱを、高いお金を出して買っていたの。ある年齢になったら、上の世代の人に勧められて、最初は無理をして吸う。そしてすぐに中毒になってやめられなくなる。昔は、そういう文化があった。オサケ。タバコ。どうしてだかわかる?」
僕は涙を拭きながらかぶりを振った。
「為政者側が仕組んでいたことなの。国民を中毒にして、それに対応した薬物を売る。効率的に税金を徴収するためにね、これは一番の方策ってわけ」
「そんな。なんてバカだったんだろう、当時の国民は」
その時、彼女の腕が伸びてきて、僕の手を押さえた。僕は自分がポケットからカプセルを取り出していたことに気づいた。
「今は、誰もが一日中、カプセルをぽいぽい食べ続けている。それだって、おかしいことだとは思えないかしら……」
僕ははっとした。確かに僕は今、無意識のうちにカプセルを口に入れようとしていた。
「私の言ってることの意味がわかる?」
彼女は僕の目を見ながらてのひらを差し出した。その中に白い錠剤が一粒。
「裏ルートから手に入れた薬よ。飲んだらカプセルの中毒症状が、消える。二度とカプセルを飲まなくてよくなる」
僕は迷わなかった。錠剤を受け取り、言われるまま、嚙み砕いた。
すぐに効果が現れた。周囲の空気がいきなり透き通ったような気がした。ずっと聞こえていた空調機の音に、それが途切れて初めて気づいたような感覚。
鼻腔に、なんともいえない素敵な香りが広がってきた。紅茶の匂いだ。今まで気づかなかった。
すでにぬるくなっていた紅茶も、そえられていたパイも、とんでもないほどにおいしかった。味覚が鋭敏になっているのだ。がつがつ食べながら、窓の外を見ると、空の色も、雲の形も、素晴らしく美しく感じられた。
爽快だ。体の中に元気がもりもり湧いてくる。
今まで僕は、だまされていた。自分の本当の感覚を失っていた。その代わりに化学物質の塊『カプセル』に、収入の大半を注ぎ込んでいたのだ。
「気分はどう?」
そんな声がした。見ると、そこに、女がいた。
やせぎすの、薄汚い、女が。化粧っ気はなく、髪はぼさぼさ。服はセンスのない洗いざらし。ホームレスのように見える。
わけがわからなかった。僕はなぜ、ここにいるのだろう。こんな汚らしい女に誘われて、なぜこんなところまでのこのこついて来てしまったのか。
僕は立ち上がった。急いで帰ることにした。そんな僕のことを、彼女は黙ってじっと見ていた。気持ち悪い。
もう二度と、会うこともないだろう。