2013年のゲーム・キッズ
第二十八回 責任を問いません
渡辺浩弐 Illustration/竹
それは、ノスタルジックな未来のすべていまや当たり前のように僕らの世界を包む“現実(2010年代)”は、かつてたったひとりの男/渡辺浩弐が予言した“未来(1999年)”だった——!伝説的傑作にして20世紀最大の“予言の書”が、星海社文庫で“決定版”としてついに復刻。
第28話 責任を問いません
A FORTUNATE GUARANTEE
彼は胸ポケットからタバコの箱を取り出した。封を切ったところで、手を止めた。その小箱が喋り始めたからだ。
「喫煙は、あなたにとって肺がんの原因の一つとなります。疫学的な推計によると、喫煙者は肺がんにより死亡する危険性が非喫煙者に比べて約2倍から4倍高くなり、心臓疾患により死亡する危険性が……」
彼は箱を神妙な面持ちで見つめながらその警告を聞いていた。刑事が読み上げるミランダ条項を聞く犯罪者のように。
「そんなの、いちいち最後まで聞く必要があるの?」
きっちり横分けにした頭をこちらに回転させ、彼は微笑んだ。
「ごめん、忘れるところだった。君にもお許しをもらう必要があったね」
「タバコなら別にいいわよ。気にしな……」
「受動喫煙によって冠動脈心疾患のリスクが25%~30%増加するという統計結果が出ていますが……」
彼は別のポケットから取り出したケータイの画面を読み上げていた。
「あなたはそれを了承の上で私の喫煙を許可し、以後、いかなる健康被害についてもこれを理由に私の責任を追及しないことを誓いますか」
「だから、吸ってもいいってば。私が訴えたりするわけないでしょう」
「ありがとう。ならこのボタンを押して。そうYESの方」
私は、目の前に差し出された画面の、確認ボタンを指でつついた。
ホテルの一室。やっと二人きりになれたのに、なんだか気分がそがれてしまった。けれど彼が紫煙を深く吐いたとき、私はまた、うっとりとすることができた。私はこのタバコの匂いが、彼の匂いが、大好きだった。
いつの間にか彼と私の肩がぴったりとくっついていた。彼がこちらを向いた。私は体を硬くしてそっと目を閉じた。
「これからキスをします。あなたは、これを双方合意の行為と認めますか」
目を開けると、彼が真顔でこちらを見ていた。
黙っている私に、彼はいらついた声で言った。
「あのさぁ、返事してくんない? 認めますとか、いいですとか」
「い、いいけど。こんなところで、いったい、何のために」
「こんなところでも、ほら、監視カメラはあるんだ。ちゃんと段取りを映しておかないと」
「えっ。今私たち、誰かに見られているの?」
「大丈夫。撮られていても、カメラは完全に自動化されているから。事件が起こって裁判沙汰になるまでは映像を誰かに見られることはない」
「事件? 裁判? それって、どういうこと」
「もしも君が、むりやり襲われてキスされたとか訴えたりしたら……」
「ちょっと、ねえ、私があなたを訴えるって言うの!?」
「だから、もしもの話だよ」
私はため息をついた。それから棒読み口調で「いいです、キスを許可します」と、言った。彼はほっとしたように続けた。
「伝染病に感染した場合など直接的、間接的に生じた損害について、お互い相手に対して一切の責任を問いません。これは復唱して。問いません、のとこだけでいいから」
「問いません」
彼はケータイの画面を見ながら、さらに早口でまくし立てた。
「ではこれから、性行為を行います」
「えええっ!」
「その中で双方にて許諾すべき行為、体位などにつきまして、確認をしておきます」
「ちょ、ちょっと待って」
私は叫んだ。
「あのさ、私……無理! やっぱり無理」
「えっ。どういうこと。こんなところまで来て」
「ええと、ほら、私、酔ってしまっているから。もう、頭くらくらで」
「ああ」
彼は頭を抱えた。
「それはまずい。刑法第178条の2項で、女性を心神喪失もしくは抗拒不能にさせ姦淫した場合は、準強姦罪が成立することになっている。僕は犯罪者になんかなりたくない。仕方ない」
彼はすっくと立ち上がった。
私も、つられるように立った。
帰るのか。もう、だめかも。そう思った時、彼は言った。
「結婚してください」
やっと、キスをすることができた。
彼だって本当はこの状況がとてもつらかったんだということが、それでやっとわかった。無粋なのではなく、ただ、真面目なだけなのだ。
そう、結婚して一緒に暮らせばいいのだ。もちろん夫婦にだって、セクシャルハラスメントやドメスティックバイオレンスが行われていないか、定期的に調査は入る。けれども、二人だけの時間、二人だけの空間での行為については、いちいち事前に確認する必要が、なくなるはずだ。
行為責任の確認が厳しくなってから、結婚と出産に踏み切る年齢の平均がぐっと下がったらしい。出生率も上がった。そうか、これはもしかしたら良い状況なのかもしれない。社会にとっても、私にとっても。
経歴証明書、健康診断書など膨大な書類を交わす必要があったが、私たちはなんとか結婚式にこぎつけた。私は白いドレスに包まれて、式次第に、夢心地で身を任せていた。
「良いときも悪いときも、富めるときも貧しきときも、病めるときも健やかなるときも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くすことを誓いますか?」
はい、と彼が答え、微笑みながらこちらを見た。それから奇妙な間があった。
「誓いますか?」
牧師がもう一度そう言って、促すように私を見た。
その時、みんなの視線が私に向いていることに気づいた。
目が覚めたような気持ちになった。次の言葉は、自然に出てきた。
「イヤです」
啞然としている大勢の人々を尻目に、大股でドレスの裾を蹴りながら、私は会場を後にした。