2013年のゲーム・キッズ

第二十七回 黄泉の国から

渡辺浩弐 Illustration/竹

それは、ノスタルジックな未来のすべていまや当たり前のように僕らの世界を包む“現実(2010年代)”は、かつてたったひとりの男/渡辺浩弐が予言した“未来(1999年)”だった——!伝説的傑作にして20世紀最大の“予言の書”が、星海社文庫で“決定版”としてついに復刻。

第27話 黄泉の国から

DEATH DRESS

突然の事故で妻を亡くした。駆けつけた病院で遺体を目の前にしても、悲しみすら湧いてこなかった。あまりにも突然のことで、事実を受け入れられなかったのだ。

呆然ぼうぜんと突っ立っているところに、男が声をかけてきた。最初は葬儀屋の名刺を出し、儀礼ぎれい的な言葉を並べた。

ところが霊安室で二人だけになると、彼は小声で、本来の目的を告げてきた。葬儀屋というのはカムフラージュであり、実体はクローニングや人工冬眠技術のノウハウを持つベンチャー企業だという。

このサービスには倫理的な問題があり公認されていない。だからこんなふうに秘密裡ひみつりに行っているのです。と、彼は説明した。

葬式はダミーのボディーを使って行われ、遺体は密かに男の会社に運び込まれた。妻の体はひどく損傷していた。しかし各部位から細胞を採取して培養したものを素材として、妻の体のパーツは修復された。

1ヶ月後、私は妻の姿を見て、息を吞んだ。傷一つなくなり、肌はつやつやと輝いていた。目は閉じてはいたが、まるでただ眠っているだけのようだった。

ただし、覚醒に必要な脳の部位を培養するためにかなりの時間がかかる。そこだけは2〜3年は待たなくてはならない、と言われた。

そのあいだ老化を止めるため、妻は人工冬眠させられることになった。彼らは、眠り姫となった妻が、私と一緒に暮らせるような手はずまで整えてくれた。

妻は、巨大な水槽の中に飾られた。人体を冷凍保存するために特別に作られたカプセルだ。私は人里離れた山奥の別荘を購入し、地下室にそれを設置した。強化ガラス1枚へだてた向こう側に、彼女を、見ることができた。

照明を当てると彼女はきらきらと光った。目がくらむほどの美しさだった。妻と僕の時間が、そこで凍って、静止していた。

しかし、やがて妻を補修し冷凍したその会社のことがニュースになった。死体を生き返らせると約束して多くの遺族から多額の金を巻き上げた手口が、連日ワイドショーで報道されるようになった。

詐欺だった。代表者は、iPS技術をわずかに聞きかじったことがあるという程度の研究者で、医師免許すら持っていなかった。死化粧しにげしょうを施された遺体は、見た目は美しくても脳髄のうずい溶解ようかいしていて、蘇生そせいは不可能ということだった。

僕はそんなにショックではなかった。その頃には、氷の彫像となった妻にガラス越しに話しかける、そんな生活に慣れていたから。

ねえ君、君は生きているよね。そんなにきれいなんだものね。

そうよ。私は生きているわ。と、彼女は答える。

どうしよう。君をこっちに連れ戻すことが、難しくなっちゃったよ。

ねえあなた。どんなに科学が進んだとしても、許されないことって、あるんじゃないかな。ねえ、このままで、何がいけないの。

いやと、僕は言う。足りないんだよ。だって僕は生身の人間だ。生きている。君をまた触りたい。君を抱きしめたいんだ。我慢ができないんだよ。

ため息をつき、わかったわ、と、彼女はとうとうそう言う。

では、神様に相談してみます。少しだけ、待っていて。ただし、一つ条件があるの。そのあいだは、絶対に私の姿を、見ないでください。

うん、と僕がうなずいたその瞬間、ばしゅんと音がした。いや違う。今までずっと聞いていた機械音が、消えたのだった。そして部屋が真っ暗になった。

停電だった。僕は闇に取り残された。

僕はじっとしていた。ずっと、そのままで。地下の密室は、とても、暑くなってきた。上の方から、せみの鳴き声が、かすかに聞こえてくる。そうだ今頃は夏の真っ盛りなのだった。

長い長い時間が流れた。僕は辛抱強く待ち続けた。絶対に見ないでと、彼女はそう言ったのだ。

しかし、ふと魔が差した。壁を手探りして非常灯を見つけ、レバーを上げた。

光。水槽の中が照らし出される。何か白いものが、動いていた。

それは積み重なった大量のウジ虫だった。腐敗し、変形した死体が、湯気を発していた。

黒ずんだ肌のところどころから、どろどろの血肉が見える。その一部分が粘りながら変形し、口を開けた。そこから声が発せられた。見たのね、と。

半分き出しになった頭蓋骨ずがいこつから右の眼球がぼろりとこぼれ落ちた。これは神話だ、と僕は思った。夫婦の神、イザナギとイザナミ。死後のイザナミは、自分のみにくい姿を覗き見したイザナギに激怒し、黄泉よみの国から追いかけてくる。

僕はガラスに歩み寄り、両手をつけた。そして、間近に見た。あちこちのひび割れから赤黒い粘液やあぶくを噴き出しながらどろりどろりと身をくねらせる彼女の姿を。

君。と、僕は言った。

あなた。と、たれ下がった眼球から白く濁った視線を僕に向け妻は言った。

本当は私、ずっと、こうだった。生まれた時からもう、死に始めていた。あなたも、同じよ。人間は、みんな、そう。

人には死の瞬間なんてないの。人はいきなり死ぬんじゃなくて、ゆっくりと、死んでいくものだから。それは大げさに悲しんだり惜しんだりするものではないの。

けれどあなたは、私が急に死んだように思ってしまったのね。かわいそうに。私がゆっくり歳をとり、汚らしくなっていくさまを見るべきだったのにね。それで少しずつうとましくなり、おぞましくなる。それが大事なことだったのに。

そうか。だから、君は、戻ってきてくれたのか。僕のために。僕を残して、ちゃんと死んでいくために。

そうよ。だから、ねえお願い。目をそらさないで。私を見て。見続けて、もう少しで私は、本当に、いなくなってしまう。あなたは、そこにとどまるの。そのためには、しっかり見ないといけないのよ。

僕は必死で目を見開き、見た。見続けた。今は自分自身のこともはっきりと意識できた。酒と薬でぼろぼろになり、それでも生き続けている、自分の肉体を。

私を見て。ねえ。どう? 私を見て、どう感じる? そこまでで、声はとだえた。その口から、げぼっと音を立てて黒いかたまりが吐き出された。大量のハエだった。それがわっと拡散した。煙のようなハエの群れに包まれながら彼女の上半身は、ゆっくりと前のめりになっていった。ぐちゃり、日を浴びた雪だるまのように、彼女はそこに崩れ落ちた。

「ありがとう」

僕は久しぶりに声を出して、はっきりと、そう言った。