2013年のゲーム・キッズ
第二十三回 編集者の鑑み
渡辺浩弐 Illustration/竹
それは、ノスタルジックな未来のすべていまや当たり前のように僕らの世界を包む“現実(2010年代)”は、かつてたったひとりの男/渡辺浩弐が予言した“未来(1999年)”だった——!伝説的傑作にして20世紀最大の“予言の書”が、星海社文庫で“決定版”としてついに復刻。
第23話 編集者の鑑
WORK LIKE A DOG
「ええと、私、XX出版の後藤と申しまして……」
「フロントで止められなかったのか。このマンションの警備は厳重なはずだが」
「あの、監視カメラの死角を……住民の方の出入りに紛れて……」
「なかなか器用な編集者だ。女性にしては度胸も据わっている。ここに来ることは上司には言ってあるのか」
「いいえ。すみません、私の独断です。失礼を承知で、最初から不法侵入をするつもりで来ました。どうしても一度、直接お目にかかりたくて。先生になんとかまた小説を、書いて頂きたく……」
「つまり君は完全に自己責任で、犯罪者となる覚悟までしてここに来た、と。なるほど、編集者の鑑だ。確かに今の私に会おうとするならそんな手段しかあり得ない。電話番号もメールアドレスも公開していない。手紙も開封せずに全て廃棄している。言っておくが大御所を気取っているわけではない。書けない。本当に1行も、書けなくなってしまったのだ」
「スランプはどんな作家にもあるものです。執筆できるようにお手伝いするのが私どもの仕事です……」
「立ち話もなんだ。そこに座りなさい。……これがなんだか、わかるかね。そう、サイレンサーを装備してあるからとても静かに君の頭蓋骨を撃ち抜くことができる。ああ、まだ殺すと決めたわけではない。しばらく話をしよう。ちょっと体調が悪くてね、それに女性に手荒なまねをするのも気が引ける。自分でやってくれないかね。ほら手錠が二つある。一つは両手に、もう一つは両足に。そうだ。勘がいいね、さすが編集者だ」
書けなくなってから4年……いやもう5年か。そんな私を君は助けてくれようと思ったのかもしれないが、はっきり言って余計なお世話だ。なぜなら、私は自分が書けなくなった理由をわかっているからね。
気づいてしまったんだよ。自分の小説の最も大切な部分が、噓だということに。
私の作品の中ではとても多くの人が殺されている。しかしね、みんな、噓っぱちだった。私は本当は知らなかったのだ。殺人というものを。
毎朝テレビをつければ、どこかで誰かが殺したり殺されたりしているのがわかる。犯人は皆とるに足らない奴らだ。しかし私よりも、いろいろなものが見えているはずだ。絞殺。銃殺。刺殺。死体損壊、死体遺棄。それを自分の両手で行っている。断末魔を耳で、血しぶきを顔で、匂いを鼻で、感じ取っている。それに引き替え、私はどうだ。私の小説は、最も大事なシーンにさしかかるたびに、ままごとになる。童貞が女性経験を自慢しているようなものだ。
もちろん努力はしたさ。死体の解剖に立ち会ったことも、家畜の処理場を見学したこともある。しかし、どれも違ったんだ、自分の手で人を殺す体験とは。
私にはわかっていた。自分で、殺すしかないと。
もしそれで刑務所に入っても、せいぜい3、4年で仮出所できるだろう。大学を一つ卒業するくらいの時間だ。きっと、どの大学のどの学部に通うよりも有意義な経験となるはずだ。私の心は決まった。
しかしね、全く驚いたよ。やってみたら、わけもない。冷静に丁寧にやりさえすれば、捕まることも、なかった。
「先生、鍵をください。そろそろ手錠を外したいので」
「いったい何を言っているのかね」
「死ぬのは私ではなくあなたです。私は、殺し屋です。あなたのようなアマチュアではなくプロです。違いを教えましょう」
「君は頭がおかしくなったのか」
「少し前に業務用の冷凍庫を購入なさいましたね。既に4人以上の人間を殺害されています。私に先生の処分を依頼してきたのは、被害者の一人の関係者です。ただし、そんなことよりも大きな問題は、何人殺しても、先生は小説を書けるようにならないことです。殺せば殺すほど、また次の誰かを殺したくなるだけでした。そうでしょう? 自覚されていますね。覚醒剤中毒と同じです」
「……」
「そう、先生は殺人だけでなく覚醒剤の、常習者でもあります。私は手が動きませんから、先生ご自身でその鞄を開けて、中に入っている白い袋を見てください」
「狂犬病ワクチン……なんだ、これは」
「私は、お留守の時にこの部屋に来たことがあります。そして先生が覚醒剤を溶かすのに使っている蒸留水に仕掛けをしたのです。わかりますね。あなたは狂犬病のウィルスを自分に注射したのです」
「おい、それはどういうことだ!」
「すぐにワクチンを打つ必要があります。方法を教えますから、手錠を外してください。ええ、もちろん今すぐ私を殺して、自分の足で病院に行くのもいいでしょう。しかし狂犬病といったら特A級の法定伝染病、しかも国内の発症例は過去50年間に1例しかない。ワクチンがすぐに届くか、間に合うか、怪しいですね。それだけではありません。保健所と警察は感染源をつきとめるために大騒ぎを始めるでしょう。この部屋も、すぐに徹底的に調べられる。私も、そして冷凍庫の中の誰かさんも、きっと見つかります。そんな厄介に巻き込まれるより、私の助けを借りて今ここでワクチンを打った方が得策です」
「わかった。……ほら外したぞ。す、すぐ打つんだ。打ってくれ、ワクチンを」
「腕を出して。そう。これがワクチンです……ちくっとしますよ。はい」
「これで大丈夫なのか」
「ええ、これであなたは、苦しまずに死ぬことができます」
「死ぬ?」
「実はこれはワクチンではありません。鎮静剤です。さっき、体調が悪いとおっしゃいました。既に発熱症状が出ているようです。あなたが狂犬病ウィルスに感染したのは2週間も前なのです。そして、発症はたぶんこの24時間以内。この病気は発症したらもう手遅れです。あなたの状況からみて、3日から5日後には昏睡状態になります」
「お、おい、きさまっ」
「私を殺しても意味はありません。落ち着いて。銃を置いてください。まもなく鎮静剤が効いてきます。これがあれば、症状が進んでも苦痛は最低限に抑えることができます。全身にけいれんや麻痺が現れ、時々幻覚も見るでしょうが、感覚はむしろ鋭敏となり、意識は冴えわたるはずです。執筆は可能です、いやむしろ捗ることでしょう」
「し……執筆……ど、どういう……ことだ……」
「私はあなたを殺しに来ました。それが私の仕事です。ただし、私はあなたの小説を愛する人間の一人でもあります。あなたの堕落を惜しんでいます。殺すだけではなく、生かすこと、すなわち傑作をまたお書きになる手助けができればとも思ったのです。先生、書いてください。少なくとも3日間、72時間。あなたには残されている。それだけあれば小説を1本書けるでしょう」
「……薬が、効いてきたようだ……体が楽になってきた……ああ……実は今私も思っていた、小説を書きたい……と……」
「注射は慣れておられますね。あとは自分で4、5時間おきに打ってください。注射器の4の目盛です。ブドウ糖も入っていますから、3日間体力ももつはずです」
「手を貸してくれ。デスクに行きたい……時間が惜しい……ああ、こんな気分になったのは、これほど小説を書きたいと思ったのは、本当に久しぶりだ……」
「先生、きっと傑作が書けます。私はまたここに戻ってきます。そして、作品は必ず世に出します。それはお任せください」
「ありがとう。君に感謝するのはおかしな話だが、なぜか本気でそう思っているよ。これはいったいどういうことなのだろうか」
「先生、あなたには確かに、殺人が必要でした。ただし殺す側の快楽ではなく、殺される側の、恐怖が」