2013年のゲーム・キッズ
第十一回 美しい沼の話
渡辺浩弐 Illustration/竹
それは、ノスタルジックな未来のすべていまや当たり前のように僕らの世界を包む“現実(2010年代)”は、かつてたったひとりの男/渡辺浩弐が予言した“未来(1999年)”だった——!伝説的傑作にして20世紀最大の“予言の書”が、星海社文庫で“決定版”としてついに復刻。
第11話 美しい沼の話
SWAMPY
どす黒い泥の世界が、どこまでも広がっていた。そこに点々とほぼ等間隔に、サルがいた。何千いや何万匹ものサルたちが、ばらばらに動いていた。神経質にわめきながら飛び跳ねたり、足踏みをしたりして、たえず泥の飛沫を上げていた。つんのめったり尻餅をついたりしている者もいた。皆、全身泥だらけで、ほとんど沼と一体化していた。かれらが暴れ回り、叫び狂う様子は、全体を見るとまるで沼の表面が沸騰してるようだった。
無秩序でありつつもお互いは微妙にけん制しあっているのか、ぶつかりあわない程度の間隔が常に保たれていた。その怒りは上方の何かに向けられているようで、皆、つかんだ泥を繰り返し真上に投げていた。しかし泥は必ず投げた者の顔の上に落ちていた。
どうやら僕もそんなサルの一匹らしいのだが、記憶は完全に消えていた。いきなりこの場所に、沼の中に立っていたのだ。夢を見ているというより、夢から覚めたような気分だった。これは、バーチャルの世界なのだろうか。僕は考えた。するとそれに応えるように声が聞こえた。違います。これはあなたにとってのリアルです。あなたは自分自身で希望した形で、現実世界を見ているのです。時がくるまであなたはここで生きるのです。
試しに叫んでみた。きいという声が出た。足下の泥を触ろうとしたが、その汚らしさに気づき、僕は思わず手をひっこめた。いろいろな色の粒や固形物が入り混じり、小さな虫もわいていた。ひどい悪臭もあった。
見上げると空には豊かな緑が点在することに気づいた。見回してみると沼のところどころに、とてつもなく立派な木々がそびえているのだった。それらはまっすぐ空に伸び、そしてとても高いところでいきなり枝葉を広げていた。
サルたちはそこに向かって怒り、汚い泥を投げつけようとしていたのだった。誰かがいるのだろうか。目をこらそうとした時、ざばあと雨が降ってきた。いきなり冷たい水を全身に浴びた。口の中にも入った。ところがその水は甘くて、濃厚で、なんともいえないおいしさだった。ごくりと飲み込むと、それだけで、おなかの中から全身に元気が広がり満ちた。周囲を見れば、サルたちはそれぞれ動きを止めて、皆一様に天を仰いで口を大きく開け、水を受け止めることに専心していた。
その水はどうやら緑の茂みから放出されているようだった。降りやんでもサルたちはしばらくの間、陶然と目を閉じ口をむちゃむちゃと動かしていた。やがて我に返ると、また騒ぎが始まった。上に向かって牙を剝きだし、手をふりあげ、きいきいと叫んだ。「とめるな」「たりない」「もっとくれ」そんな文句を言っているのだとわかった。そしてまた泥を投げ始めた。さっきの雨でせっかく少しきれいになっていた顔に体にまた、自らの放った泥を浴びた。
彼らはこの雨を飲んで生きているのだ。この汚らしい世界で。特に何もせずに。それでいて、いつも不平不満を感じている。施しをくれている相手に対して、ただただ怒り、攻撃しようとしているのだった。
まだ泥に触れていない僕の手は、白かった。見下ろしてみると足も、体も白かった。僕は、周りの黒い奴らとは違うサルなのか。そうではない。皆、泥を投げつけようとして、泥を触るせいで、黒くなっているのだ。投げた泥は上空には届かないし、近くにいる他のサルにすら当たりはしない。自分を汚しているだけなのだ。わざわざ他人を汚そうとさえしなければ。そもそも自分はきれいなのだ。皆そのことに、気づいてないのだろうか。
背中が何かに当たった。振り向くと、大木の一本がそこにあった。手で触れてみた。まっすぐ伸びているが、表面にはかなりの凹凸があった。でこぼこをしっかりつかみ、足をかけてみた。簡単に、登れた。ひょいひょい、僕はその木を登った。周囲できいきい言う声が激しくなった。周りのサルたちが、怒りを僕に向けている。一人だけ他と違う行動をしている僕に。しかし近づいてくる奴はいない。
僕はあっと言う間に緑の茂みまで到達した。その上に頭を出すと、別世界があった。
枝葉はそこで平らに厚く広がっていた。それはまるで草原のような空間だった。花が咲き乱れ、そして果実がなっていた。不思議なことに様々な色と形の実があった。
ここにもサルがいた。ただしこちらのサルは皆、真っ白だった。ゆったりと寝そべったり、ゆっくりと歩いたり、花の匂いをかいだり、果実をもいで食べたりしていた。暴れたり奇声を上げている奴は一匹もいない。
枝と葉だけでできている地面なのに川も流れていた。さらさら流れる水は透き通っていて、いい匂いがした。それを、道具を使ってすくっているサルがいた。そして、緑の地面の端から、下に向かってぶちまけている。そうだ、これが下の世界に降り注ぐ雨なのだ。
僕は理解した。この木は、あの泥で育っている。あの泥は下の世界の汚らしいサルたちが怒り苦しみのあまりまき散らしている体液や排泄物なのだ。それを肥料にしてこの木は生育し、ここにこんなに美しい花を咲かせ、果実をたわわに実らせているのだ。下のサルどもが泥をこねくりまわしながら暴れ狂うことが、地面を耕し、木の根の一本一本にまでまんべんなく空気や栄養を行き渡らせているのだ。そのおかげで上の世界の環境は維持されている。奴らは泥まみれになり怒り狂うことで、この上のサルたちの優雅な生活を助けているのだった。
ふと一匹の白サルが手招きをしていることに気づいた。僕は緊張した。僕は下界の汚いサルの一匹だ。叱られて、退去を命ぜられるのか。突き落とされるのかもしれない。
もじもじしていると、その白サルは自分から近づいてきた。そして足下からとても大きな赤い果実を一個もいで、僕に手渡してくれた。僕がまごついていると相手は優しく頷いた。歓迎する、という表情だった。
僕はちらりと下を見て、そしてもう一度相手を見た。僕のような者を許してもいいのか。気がつきさえすれば、ここに登ってくるのはたやすいのだ。こんなふうにして下からどんどんサルが上がってきたら、やがてここも下と同じような世界になるのではないか。
気持ちを察したように白サルはある方向を指さした。そこでは別の白サルが、緑の縁から下を覗き込んでいた。その様子は他の白サルたちとはちょっと違っていた。手を振り上げ、なにやらきいきい叫んでいたのだ。
どうやら下のサルたちを見ているうちに、そのおぞましい様子を見物しているうちに、興奮してしまったようだった。やがて下に向かってつばを吐いたり、あたりの葉っぱをむしって投げつけようとしはじめた。下からかすかに聞こえてくる叫びに対しても、いちいち怒鳴り返していた。
じだんだを踏んで暴れたはずみに、やがて彼は足をすべらせた。そして、真っ逆さまに落ちていった。