2013年のゲーム・キッズ
第八回 出会わない系
渡辺浩弐 Illustration/竹
それは、ノスタルジックな未来のすべていまや当たり前のように僕らの世界を包む“現実(2010年代)”は、かつてたったひとりの男/渡辺浩弐が予言した“未来(1999年)”だった——!伝説的傑作にして20世紀最大の“予言の書”が、星海社文庫で“決定版”としてついに復刻。
第8話 出会わない系
CHANCE ENCOUNTER
女が臆病なのは、冷静だからだと思います。例えば女は幽霊を怖がります。それはリアリストだからなのです。内心ではそんなものの存在を信じてはいないからこそ、現実のものとして、現実的に自分を害する存在として、恐れるのです。
特に一人暮らしをしていると警戒心がとぎすまされます。部屋に、誰かの気配を感じ始めたのは最近のことです。
今日もありました。帰宅した時、部屋に残る生暖かさに気づきました。ほんの少し前までそこに人がいた、そんな感覚がありました。鍵はしっかりかけていたのに。
キッチンで、買ってきた食パンをしまおうとした時、疑問が浮かびました。古い食パンの残りは、どうしたのだろうか、と。捨てた記憶がないのです。
ふと、誰かに見られているような気がしました。
私は瞳を見開きました。一目で見渡せる、狭い空間です。隠れるような場所などありません。窓はカーテンで閉ざされています。
耳元にかたりと音が聞こえました。息を止め、耳を澄ませました。
かたり、かたり。
それは上方から響いていました。上階の足音にしては近すぎます。天井裏をネズミが走るようなマンションではありません。
すう、と、今度はすきま風の音を聞きました。いや風ではありません。すう、すうと、これは呼吸のリズムです。人間が息をしているのです。それもとても近くで。
すう、すう、すう。虚空から聞こえてくるように思え、私は思わず宙を見上げました。そして……気づいたのです。作り付けのクロゼットの真上、天井に、四角い枠があったことに。跳ね上げ戸です。クロゼットに足をかければ、そこから天井裏へ出入りすることは容易です。
私はそこから目が離せなくなりました。
みしり、とまた音が聞こえました。
男は勇敢なのではない。ただ、馬鹿なのだ。男が幽霊を怖がらないのは、ロマンチストだからだ。自分の近くにいる幽霊に限っては絶世の美女なんじゃないかとか、そんな都合の良いことばかりを考えている。
俺もそんな一人だ。幽霊と暮らしている……つもりになっている。俺の妻だった女の、亡霊だ。
この部屋で暮らしている限り、その面影は四六時中いたるところに出没する。おかげで俺は寂しさを感じることはない。
帰宅すると、家の中は今日もがらんとしていた。けれど深く息を吸えば、俺は妻の匂いをありありと感じることができた。クロゼットを開けると、妻の服がたくさん掛けられたままになっている。俺は指を伸ばし、その表面をそうっと撫でた。
キッチンには、妻が揃えたカラフルな食器が並んでいる。ケータイの画面を指で叩く。「テーブルの上の食パンと、冷蔵庫の中のタマゴが、そろそろ賞味期限です。フレンチトーストを作ってください」……声は、妻の肉声を元に合成されたものだ。そしてレシピが、妻が昔よく作ってくれたフレンチトーストの作り方が、表示された。
妻と一緒に暮らしていた頃と、何も変わらない。変わっているのは、たった一つ、妻が「いない」ことだけだ。今、妻は、思い出の中にだけ存在する。いつまでも、出会った頃の素敵な女性のままで。
フライパンが温まるのを待つ心地よい時間の中、俺はその面影に酔っていた。
その時、がちゃり、と、音がした。振り返るとドアが開いていた。
そこに妻が立っていた。
……いやそれは幽霊ではない。本物の、妻だった。俺は現実に戻る必要があった。俺はケータイを覗き込んだ。コンピュータは、万能ではない。システムが狂ったのだろう。
結婚生活においていちばん不快だったのは、妻がそこに「いる」ことだった。
この矛盾、所帯を持ったことのある人ならわかってくれると思う。妻というものは、概念だけなら素敵なものだ。実体があると、倦怠が、憎悪が、生まれてしまう。
好き合って、結婚する。ところが一緒になったら、すぐに相手がイヤになる。一人の暮らしが恋しくなる。しかし、ならばといって別れるとなると、躊躇してしまう。「あんなやつでもいないと寂しい」って気にもなる。
一緒に暮らしているメリットも、大きいのだ。家賃は半額。掃除洗濯も料理も、協力すれば半分の手間で済む。
ならばいちばんいい方法は、別れずに相手の実体だけを消してしまうことだ。お互いに相手を幽霊にしてしまう。そんなことが、今は可能なのである。
ソーシャルスケジューラー、俗に言う『出会わない系』サービスだ。
例えば共働きの夫婦では、お互いの生活サイクルがずれていたら、同じ家に住んでいてもほとんど顔を合わせないなんて例が、よくある。オンラインのスケジューラー機能を使って、そういう状態を作りだそうというものである。
起床時間、帰宅時間、入浴時間など、生活サイクルをコンピュータが緻密に設定してくれる。そしてケータイを通して、次にすべきことを的確にアドバイスしてくれる。
これは通常はルームシェアリングする人々のために提供されているサービスだ。部屋を使う時間帯を完璧にずらすことにより、いつでも一人暮らしのように空間を独り占めできるのだ。
一人が買いすぎて使い切れなくなった食材の残りをもう一人に消費するよう勧めたりといった機能もあって、二人暮らしのメリットもちゃんと盛り込まれているのがミソだ。
相手の姿は見えないが、その雰囲気だけは時々感じることがある。まさに、妻は幽霊になったのだった。
俺たち夫婦は、これを活用することにして以来、とてもうまくいっていた。相手のことをまるで早世したパートナーを懐かしむように思い出しながら、のびのびと暮らしていた。
こんなふうに顔を合わせることは、なかったはずなのだった。
「や、やあ」 俺は、実体化した妻に、声をかけてみた。
こわばった表情のままで、妻は口を開いた。
「この人です」
その背後から、制服姿の警官が現れた。妻は続けた。
「私の前夫です。別れてからストーカーになりました。それにしても私の部屋に潜んでいたなんて、本当に薄気味悪いわ。きっと、別れる前に私のケータイをこっそりと使って、出会わない系サービスに登録していたんです……」