エトランゼのすべて
第六話 休暇の終わり
森田季節 Illustration/庭
注目の新鋭・森田季節が贈る青春小説。ようこそ、京都へ!
第六話 休暇の終わり
度が過ぎると感覚がマヒするものだ。
たとえば、一兆円くれると言われて一千億の十倍ももらえてラッキーなどとは人は考えないだろう。長期休暇もそれに準じるらしい。六十連休を三十連休の倍お得だとは思えない。もう少し分割払いができないものだろうか。日数だけが冷酷に経っていく。
おかしい。二か月以上もあったのに、どうして五日しか残っていないのだろう。新手の詐欺に引っかかった気分だ。七日目あたりから、五十日ほど記憶を失ったりしてないだろうか。あるいは、これは夢なのかもしれないと、ほっぺたをつねってみるが、なぜか目が覚めない。
念には念を入れて、カレンダーを何度も見返してみたが、日付は九月の末だった。
せっかく休日がこれだけあったのに、何もやれていないし、何も成長していない。まともに就職すればこんな休みなどないだろうし、もしかして自分はとんでもない損失をしてしまっているのではないだろうか。しかも、それでも今日も夏休みには違いなく、とくにやることはないのだった。
五枚切り八十八円の食パンにバターを塗りながら、僕はうめき苦しむ。これが、無聊に苦しむ夏休み地獄か。あらゆる大学生はこの地獄に落ちて、暇で暇で耐えられなくなるのだ。
また自転車でどこかへ行こうかと地図を広げたが、市内のほぼすべての寺社の門前には顔を出しているようだ。山川出版社から出ている歴史散歩シリーズを広げたところ、ほぼすべてにチェックマークが入っているので間違いない。京都と呼ぶのがおこがましいような北部の寺社は未踏だが、どうせ阿呆ほどバス代がかかるとか、そんなオチなのでパス。
こうなると、行く先は一つしかない。
九時過ぎ、僕は自転車を大学に向けて走らせていた。
向かうは大学構内の附属図書館である。ルネからほぼ東に百メートルほどの位置にある。いまだに何に「附属」している図書館かよくわかっていないのだが、大学内でも最大の蔵書数を誇る、いわば知の殿堂と言っていい場所だった。といっても、お世話になるのは新書コーナーぐらいだが。一度、地下の書庫に入ったことがあるが、迷路のようになっていて半泣きになった。あそこに閉じこめられたら、紙を食べて飢えをしのぐしかないのだろうか。
早速、学生証のカードを自動改札系のゲートに通して入館する。今日も新書でもだらだらと読む予定だ。残り五日で自己変革を起こす方法は悲しいかな、思いつかない。五日ぶっ通しで腕立て伏せでもすれば、腕だけなら改造できるかもしれないが、そんな偏狭なマッチョイズムで誰に自慢できるだろう。
それと、これは極めて重要な点だが、図書館は涼しい。九月も末だというのに相も変わらず、京都の気温は三十度よりも高い。冬季五輪でアナウンサーが「K点を超えてきた!」と絶叫するあのノリが二か月以上にわたって続いていた。しかも、京都の暑さはたんなる高温というだけではなく、蒸す。神戸の南京町でセイロに入れられている点心のたぐいを想像してしまう。先週、阪急を乗り継いで人生二度目の神戸に行ったせいだろう。チケット屋で安い阪急の切符を買えば四百円で神戸まで行けるのだ。
神戸も暑かったけれど、京都よりはマシだった。
瀬戸内の気候のせいか、向こうのほうがカラッとしていた。それに波止場から出港していく船をぼんやりと見ていると、気分的にも涼がとれた。同行者を確保できず、北野異人館街に立ち寄れなかったのが残念だが。知り合いの神戸人が驚くほど北野について何も知らないので、情報も収集できなかった。勝原さんも実家は西宮の門戸厄神という駅の近所らしいが、「幼い頃に一度行ったらしいけど、覚えてない」とのことだった。神戸近辺の人間は法的に北野に入ってはいけないのだろうか。市街地から徒歩で行ける範囲のはずなのに。
いつの間にか、新書をめくりながら、舟をこいでいた。北野の考察をしていたのは、夢心地の中でのことだったようだ。やはり、目的のない人間というのは弱いな。僕はよくわからない敗北感を覚えた。せめて、このイスラームに関する新書ぐらいは読み終えるぞ。ちょっとでも勉強した気分になるぞ。どうせ夏休みというのはどう過ごしたところで、「もっと、ああしておくべきだった」と後悔するようにできているのだけれど、少しでもその後悔の度合を下げるように努力しなければならない。
新書コーナーのソファは危険だ。どれだけ睡眠時間をとっていようと寝てしまう。そういう化学兵器なのだ。六人がけのテーブルに移動する。公務員試験の勉強でもしているのか、やたらと参考書を出している御仁の横で読書すれば少しは気が入るだろう。
そして、ちょうどいいテーブルはないかなと物色していたところ、意識が一点に収斂した。
会長が優雅に読書をしている。
館内は飲食禁止なので飲み物などないが、是非とも紅茶を机に載せておいてほしい光景だった。美しい人が本を読めばそれだけで一枚の絵になるのか。会長との図書館での遭遇はこれが二度目だが、よく通っているのだろうか。
盗み見はよくないと思いながらも、僕は何を読んでいるのだろうかと、そうっと視線をおろした。もっと僕は会長のことが知りたかった。肝試しの時にもあらためて誓ったのだ。かといって、声をかけたものかどうか。読書を自分ごときのせいで中断されたら、嫌な気分になってしまうかもしれない。
どうやら文庫本らしい。やはり、会長に似合うのは海外文学だろうか。だが、妙に表紙が派手だぞ。
その本には『安倍晴明占い』と書いてあった。
えええっ!?
いかにもブックオフで105円で売っていそうだ。三条京阪のブックオフで見つけたんじゃないのか? あんなの、古本屋でしか見たことがないぞ。本当に定価で売られたことがあるのだろうか。会長のはす向かいでは、理系の学生が黙々とノートにペンを走らせている。科学とオカルトの戦いが蔵書の山の一角で行われているのだ。
できれば、会長の隣のテーブルにまわりこんで、背後から様子を窺いたいのだが、さすがに横を通ったらばれてしまうだろうか。いやいや、人は本に集中していると、意外と気づかないものだ。とにかく、通り過ぎて座ってしまいさえすれば、声をかけられても、知らないうちに近くの席に座っていたという設定にできる。それに、『安倍晴明占い』を読んでいるところに声をかけるのは、男としてどうなのかという気もする。官能小説を読んでいるところに声をかけられるよりマシかもしれないが、また別種の「触れてほしくない感」があるだろう。
背後から、僕は会長を観察した。観察と無理矢理に漢語化したが、ようはストーキングだと思う。無論、新書は八十七ページから進んでいない。イスラーム問題はやはり自分にとっては遠い異国の出来事であり、目の前の会長ほど重要ではないのだろう。
だが、どういう経緯であんな占い本を図書館で読むことになったのだろうか。
冷静に考えてみると、相当に特殊なシチュエーションだ。おそらくあの占い本も、日本屈指の巨大図書館で読まれるとは思っていなかっただろう。しかも、卒業を半年後に控えた四回生に。就活本でも読めよとあの本も言いたいのではないだろうか。いや、普通はもう内定は決まっているのか。そういえば、会長の進路なんて聞いたことがない。
かすかな疑念が湧いた。
やがて会長はそばにたてかけていた傘をとって、席を立つ。あの傘を持っている以上、人違いではありえない。僕はトイレに行くふりを装って、立ち上がった。これはストーカーだとしても、悪いストーキングではなく、良いストーキングだ。疑念を晴らさないといけないのだ。幽霊の正体が枯れ尾花だと証せねばならない。
会長は人文系の本棚に移動する。おそらく、何冊か借りるということなのだろう。ちなみに占い本は黒の小さなバッグに収まった。宗教のコーナーにもあんな本はないだろうから、私物に違いない。民俗学のコーナーで会長は本を探している。読み物として一般人でも楽しめるジャンルの学問なので、たまに僕もお世話になった。さて、何を借りるのか。
『日本全国獅子・狛犬ものがたり』
を会長は手に取った。
どうして、それを! 実は僕も一度借りてみたいと思っていた本だったのだ。ただ、自分はそこまでは暇ではない、前途ある人間だ、もっと有益に時間を使え、という変なプライドが邪魔をして借りるのを止めさせた。すごく内容が気になるんだけど……。
そして、その狛犬についての稀有な専門書をためらいなく会長は借りるつもりなのだ。ほかにも何冊か取ったようだが、どういうものかはわからない。どうせ、狛犬のインパクトを超えることはできないだろう。
依然として会長はこちらにいっこうに気づく様子がない。これなら、一階の貸出機の前で偶然会ったことにでもして、そのまま帰ればいいか。十メートルほどあけて、会長の後ろをついていく。本当に狛犬を借りるのか気になったのだ。まさか陰陽道で狛犬を式神として使役するわけではないだろう。
だが、会長は自動貸出機ではなく、その横の有人の貸出カウンターに並んだ。たしかにそちらでも本は借りられるが、すでに二名が立って待っている。自動貸出機でバーコードを読み取れば三十秒ですべて完了するだろうに。機械がそんなに苦手なのだろうか? いやいや、一度学生証のカードを会長に貸したことがあったが、あの時は貸出機を使っていたはずだ。
何だろう。何かが不自然だ。まだ、それが一本の線にならないのだが。外出前に忘れ物を思い出せない、あのもどかしさに似ている。
ごそごそとバッグを漁り、会長は質のよさそうな紙を出す。あれは仮入館証だろうか。
次の瞬間、会長が不安げに後ろを振り向いた。その目は瞬時に僕をとらえた。ヤバイと思いつつ、その憂いを帯びた顔も美しいなと思ってしまう自分はずれているのだろうか。
「あれ、奇遇ですね」
まさか、「ばれてしまっては仕方がない。尾行していたのです」と言うわけにもいかないので、僕は無難な言葉を選んだ。
会長は少し言いあぐねているようだった。追跡がばれていたなんてことはないだろうな? そんなことになったらおしまいだとふるえていると……、
「針塚君、ごめんなさい、学生証を忘れてきちゃって。針塚君のを使わせてくれませんか?」
ほかの誰でもない会長の頼みだ。断るわけがない。
断るわけはないが、その会長の言動で、僕の中に嫌な仮説ができた。
僕は会長が学生証を出すところをいまだに見たことがない。
――会長、もしかして、学生証を持っていないんですか?
前に図書館で会った時、会長は「忘れた」で済ましていた。新歓の時も学生証を出さなくて追加で二百円払っていた。そりゃあ、二度ぐらいなら偶然かもしれないし、二度あることが三度あることも珍しくはないだろう。僕も高校時代、定期を忘れて家に戻って遅刻した経験がある。ローカル線は一本逃すとおしまいなのが辛い。
けれども、ここは図書館の中だ。学生証を通さなければ、自動改札系のゲートの先にはたどり着けない。学生証がない人間は長ったらしい入館手続きをしなければならない。電車で通学している人間ならともかく、近所在住の人間なら急ぎの用事でもない限り、またの機会に譲るだろう。ちなみに会長が近所に住んでいるのは、例会に自転車で乗りつけてきているので、間違いない。肝試しの時も、電話が終わってから十五分ほど、長く見積もっても二十分で会長はやって来た。しかも、会長がしていたことといえば、私物らしい安倍晴明を読むだけじゃないか。借りた本も狛犬じゃないか。学生証を忘れたまま突撃するような用件ではない。
そういった状況証拠から考えるに、学生証がそもそもないと考えたほうが正しい。どうですか、ワトソン君。
では、会長は実は四回生ではなく、院生ということか? ワトソン君、ところがね、院生だって学生証は発行されるのだよ。勝原さんが言っていた。
――つまり、会長は(少なくともこの大学の)学生ではない。
えらいこっちゃ。
僕は知ってはいけないことを知ってしまったのかもしれない。
だって、他大学の学生が名前まで隠して、僕らの大学でサークルをやっているって、尋常なことではないぞ。事件のにおいがするぞ。
「針塚君? カードを貸してくれませんか?」
いけない、いけない。こんなところで気を動転させるわけにはいかない。ひとまずはこの場をやり過ごさないといけない。
「いいですよ。会長って、よくカードを忘れますよね」
「ごめんなさいね。家が近くて、ついお財布を入れずに出てしまうのです」
会長はゆったりと列から出てきた。
「学生証の会長の写真、気になりますよ。今度、見せて下さい」
「ダメですよ。化粧っけがない写真ですから。ところで、中道さんとは鞍馬には行ったのですか?」
「いえ、まだです」
一度期間が開くと、いよいよそんな話はできなくなってくる。あくまでも僕からの視点にすぎないが、さほど中道さんが気にしているように見えないのがせめてもの救いだ。しかし、このタイミングで中道さんとのことを持ち出されるとは。人のことを考える余裕などないだろうに……。
「そういうところのリカバーは大事ですよ」
「はい、近いうちにどうにかします。あ、この近所に学生証を見せると安くなるランチの店ができたんです。今度みんなで行きませんか?」
「あんまり安くなることばかり考えていてはダメですよ。発想が安っぽくなってしまいます」
「貧乏下宿生にとっては切実な問題なんですよ。ところで、学生証を忘れてまで借りるっていうと、よほど卒論に大事な本なんですか?」
「いいえ、たんなる趣味の本ですよ。何度も図書館に来るのが面倒ですから」
「そういえば、会長の卒論は何のご予定です?」
「ええとね、嚙み砕いて言うと、歯の研究ですかね」
「まさか、医学部ですか? 医学部歯学科ですか!」
「はい、そうです」
「無茶苦茶に偏差値の高い学部じゃないですか! 会長、おみそれしました」
僕の中で会長の守っていたものの一部が嚙み砕かれた。
医学部でも、歯医者の研究はしていません。歯学科のある医学部もあるのかもしれないが、うちの大学にはない。例外的に歯の研究をしている人間もいるのかもしれないが、歯学科は存在しないのに会長は否定しなかった。
会長、完全にウソをついてしまっています。
バーコードを読み取るだけの作業を三冊分やって、僕は本を会長に渡した。
「ありがとう。本は期限以内に図書館前のポストに返却しますからね」
どうして図書館の外を強調するのですかなどとは、もはや聞くまい。
いつもどおり、明朗な会長と別れて、図書館前の階段に僕は座りこんだ。「たそがれる」という胡散臭い動詞の意味を理解できた気がする。しかし、このことをほかの四回生たちは知っているのだろうか。僕よりはるかに会長と付き合いが長いのだから知っていそうだが、聞くに聞けない。仮に誰かが知っていたとしても、全員が知っているとは限らない。長月さんだけが知っていて、口裏を合わせていたとか、そういったケースも考えられる。
そんな時、まるで僕の心を読んでいるのかというように、携帯がポケットでふるえた。我らが頼れる兄貴分のヒモ島先輩からだ。だとすると、おおかた内容も見当がついた。
「はい、針塚です」
「昼から暇? ジャンカラ行かない?」
カラオケと言えばジャンボカラオケ広場、略してジャンカラであって、カラオケ館でもシダックスでもないらしい。ヒモ島先輩いわく、一番気楽に入れるからだそうだ。カラオケに気楽も何もあったものではないだろうと思われるかもしれないが、意外とこの差は大きい。
「わかりました。いつものように、一時に三条の京阪改札前で。大村先輩も来るんですよね?」
「うん、そうだ」と言って、電話は切れた。すでに泣く子も黙る有名企業への内定をもらっているヒモ島先輩は僕とは違う立場で暇を持て余している。軽く髪を染めていて、あんまり真面目そうには見えないが、こういう人間ほど、就活を上手くやるものだ。もっとも、先輩はチャラい人種では断じてなく、人間力とでもいうべきものが極めて高い人なのだが。
いつもどおり、学食のおかずと解凍した米で昼食をとって、三条に出た。二条通を西に行って、鴨川河川敷を降り、そのまま南下するのが三条への基本コースだ。
待ち合わせの五分後にヒモ島先輩と大村先輩が来た。相変わらず、大村先輩は名前に忠実なサイズの、大きなTシャツ姿だった。
「よお。浮かない顔してるな。夏休みの残り日数が少なくて心配か? どうせ、講義が始まっても夏休みみたいなもんだよ」
気安くヒモ島先輩は僕の肩をぽんぽんと叩いた。こういうなれなれしさは嫌ではない。タバコの臭いがするのにも、もう慣れた。一方、大村先輩は遠くから右手を軽く挙げていた。「よお」という意思表示なのだろう。
僕らは駅のすぐ横のジャンカラに入った。平日昼なら歌い放題が安いので数百円で夕方まで粘れる。その分、サービスに難はあるが、学生はどうせサービスよりも安さを選ぶ。
カラオケはいい。歌っている間、心を空っぽにできる。このままじゃまずいかもという危機感を少し忘れることができる。
ヒモ島先輩が英詞の曲を熱唱している横で、大村先輩は新曲の薄いパンフを見ながらため息をついた。
「いよいよ音楽で飯が食えない時代が来たよな。もっとも、ドラマとかとのタイアップ効果でヒットさせてたマーケティング手法がいきづまるのはわかってたんだけどさ」
「そうですよね」
どこまで的を射ているのか不明だが、反駁できるようなソースもないので、全面的に同意しておくことにする。おそらく、大村先輩のほうも僕が反撃してこないのがわかっているからこんなことを言ってきているはずで、その関係を悪化させるメリットは双方ともにない。
「ほら、大垣典文も言ってるでしょ、カリスマが死んだ時代だって」
きっと評論家か何かの名前らしいが、とくに評論業界に興味がないので誰かわからない。でも、ここで「大垣って誰ですか?」と聞くと、多分大村先輩は二度とこっちに話を振れなくなってしまうので、そこは知ったかぶりでカバーするのだ。
何であれ、文句をつけるのが大村先輩のスタンスだということは、今では僕も了解している。
大村先輩は例会にはあまり顔を出すタイプではない。たまには出てくるのだが、会長・長月さん・勝原さん・中道さんあたりが醸し出す女子会的なムードの中で明らかに息苦しそうにしていた。僕だってたまに話の輪に入れていないと思うことがある。ヒモ島先輩はジョーカーのような存在なので、どんな人種を相手にしても上手く立ちまわれるのだが、大村先輩のほうは不器用な、自分と同じタイプの人間としか仲良くできないタイプだ。高校時代の自分をムスッとした顔にさせて、知識量を三倍に、ついでに体重も一・五倍にすればほぼ大村先輩と等しくなる。
そういった似た属性は先輩のほうも気づいたのだろう、五月あたりから土日に飯でも食わないかと誘われるようになった。そこからいつの間にやらカラオケにも行こうということに話が発展し、いつの間にやらヒモ島先輩も混ざっていて、今に至るというわけだ。
ただ、この関係も倦怠期に入りつつある。
こう書くと男女の仲のようだが、かけらもそんな要素はない。むしろ、恋愛論みたいなものが出てきたこともない。
最初のうちはこの大男の先輩の知識量に舌を巻いたものだった。政治・経済・文化(サブカルチャー含む)の多方面に渡って博識であり、その舌鋒も快刀乱麻の趣があった。どれだけ多くの典籍にあたれば、これほどの情報を入手できるのかと不思議に思ったほどだ。こっちは文系なのに、哲学者の話についていけなかったのははっきり言って恥ずかしかった。帰宅後、ウィキペディアでクリプキについて調べた。
だが、一流レストランの料理も一週間通えば飽きるものである――という言い回しはよく見るが、そもそも一流レストランに一週間通う人間などいるのだろうか。ただのバカじゃないのか。おっと、話がそれた。
大村先輩の話は一言で言うと、ワイドショーの立ち位置と同じなのだ。遠く離れた安全な場所から石を投げているだけなのだ。石というのがミソで、基本的に何かをけなしているのだ。もちろんこの世の中にはおかしいものも間違っているものも腐るほどあり、そういったものは糺さなければいけない。「和をもって貴しとなす」と言った聖徳太子は一方で古代の大改革者でもあったのだ。現状を褒めるだけでは何も変わらないこともある。でも、すべてが悪いものばかりだったら、この世はもっと生きにくい。なんだかんだでいいところもあるから、それは続いているのではないか。そんな疑問が胸に湧くようになり、そして、先輩が言いたい放題言えるのは、先輩がしょせん工学部の一学生に過ぎないからだということに気づいた。
守るものがないから、失うものがないから、この人は好き勝手言えるのだ。
僕だって会長を大切にする気持ちがなければ、あの場で学生証の秘密について突っついたかもしれない。あるいは、カラオケボックスに入るなり、会長についてこの四回生たちに質問したかもしれない。僕がそうしなかったのは、会長を失いたくないからだ。
そして、大村先輩が音楽業界の文句を言ったところで、音楽業界が夜な夜な化けて出ることなどありえないだろう。物を粗末に扱えば祟るかもしれないが、業界という概念に祟られることはよもやあるまい。
それって恰好悪いことと紙一重じゃないのか。そう感じてしまい、言葉が心に響かなくなりはじめている。ついでにヒモ島先輩の歌も聞き慣れない洋楽なので、言葉は心までは響かない。
僕はやけ酒のように薄いオレンジジュースをあおった。酔うことはなかったが、頭は痛くなった。
ヒモ島先輩が一曲目を歌い終えて、大村先輩の番になる。僕はさほど歌が得意でもないし、とくに音楽に一家言あるわけでもないし、どちらかというと人が歌っているのを聞くほうが好きなので、何が言いたいかというと最後に順番がまわってくるのだ。客観的に評価すると、僕はカラオケにさほど向いてない人種かもしれない。
ヘビーメタルやハードロックなどの洋楽(両者の区別はよくわからない。ついでにハードとヘビーの違いもよくわからない)をヒモ島先輩が得意分野としているのに対し、大村先輩の歌うのは観念的で象徴的なロックが多い。なかには、歌というより語りではないのかというのもある。メッセージ性のない歌詞は許さないというこだわりでもあるのだろうか。そういう確固とした信念などない僕は中高年でもご存じの有名なロックバンドでお茶を濁す。ただし、有名すぎるシングル曲は白けられるリスクがあるので、アルバム収録曲を中心にしている。だが、同じアーティストの曲を連投すると、これまたカラオケの席では白けられるので、多様なアーティストから一曲ずつぐらいは歌えるものがないといけない。カラオケは意外と面倒くさい。
「俺にとって音楽って現実逃避の手段だったんだよ」
やたらと歌詞に「冷凍」という単語が出てくる歌を大村先輩が歌っている横で、ヒモ島先輩が言った。
「親がバカで、長い間、家庭環境もむちゃくちゃでさ、かといってグレたりクスリやったりしたら、もっとバカになるじゃん。それで安価に逃避できる手段が音楽だったんだよ。だから、音楽はとことん派手で現実離れしてくれているほうがいいんだ。音楽ぐらい嫌なことを忘れさせてくれてもいいだろ。どうせ、現実からは逃げられないんだからさ」
それは大村先輩に当てた皮肉なのだろうか。ちなみに、少なくとも大村先輩は自分の歌のほうに真剣で聞いていない。この四回生二人はお互いに歌を聞かせようなんて意識はなくて、自分の好きな歌を思いきり歌うだけだ。むしろ、その点で利害が一致したから、一緒にカラオケに来ているのだろう。どうせ、合コンや入社式の二次会では、場に合わせた歌しかヒモ島先輩も歌わないのだ。筋肉少女帯の「釈迦」なんて絶対に歌わない。
そういえば、大村先輩の進路はどうなっているのだろう。いつも、政治・経済・文化について何時間も語っているはずなのに、進路については聞いた覚えがない。これが中学生の時なら「将来何になるんだよ」と気楽に聞けるのだが、大学生になるとそういうわけにもいかなくなる。とくに四回生にまでなると、「お前の人生はどうなるの?」と言っているようなものだからだ。週に三日は遊んだ大親友でもないかぎり、そんなことを聞く勇気はない。
「はい、次」
マイクが向けられていた。いつの間にか、自分の番になっていたのだ。とりあえず、十八番の曲を歌おう。シングルはシングルだが、シングルカットの曲だから、アルバム曲だと解したい。サビのところの高音で苦しみながら、僕はこのサークルの共通点がいかに少ないかを実感した。同じキャラが一人としていない。いや、そもそも会員数がひと桁なのだから、かぶらないのも不思議ではないのかもしれないが、それでも普通は似たようなカラーが出てくるはずだ。
では、このサークルをつなぎとめているもの、このサークルのアイデンティティとでも言えるものは何か。
僕はカラオケで歌っている間、珍しく頭を使っていた。
歌っていない時間はどちらかが話しかけてくるので、かえって思考する余裕がないのだ。ここまで歌を聞かないカラオケというのも新鮮かもしれない。
わかっていたことだが、「会長のカリスマ性」というところに行きついた。
京都観察会というサークルを一言で表すとするなら、あの会長のいるサークルですとしか言いようがないのだ。だって、本当にサークル活動らしきことをしていない。京都も観察も何の関係もない。だとしたら、そのサークルのリーダーである会長をもって説明に代えるよりない。
でも、カリスマ性が虚偽によって成立している場合、虚偽であると指摘してもいいのか。
昔の漫画で、知らず知らずのうちに空の上を走っていて、気づいた途端に地面に落下するという表現技法があるが、みんなはそんな空の上を走っている状態なのかもしれないのだ。
僕たち問題児は、会長という「母」に庇護されているのだ。その「母」が本当のお母さんじゃないと末っ子が言い出したらどうなることか。
自分だけで解決できる問題ではないのに、自分だけで考えるしかない。
毎度ながら我々は六時まで統率もなく、ばらばらに好きな歌を歌った。地下の店舗から出ると、わかってはいたことだがタバコの臭いが服にしみついていた。あれを個人的にカラオケボックスの洗礼と呼んでいる。
夕飯は商店街の中にあるとんかつ屋「かつくら」になった。キャベツ、味噌汁、ご飯。とんかつ以外ほとんどすべてがおかわりできるので、学生にも人気がある。その分、混んでいて、長居がしづらいのが難点だけれど。
先輩二人はやけに高度な政治上の問題について話をしていた。大村先輩がそんな話題を出し、ヒモ島先輩もついてくるという流れだ。いつも思うが、そういう情報はどこから入手できるのだろうか。新聞を読むだけでは不可能なレベルだ。話に加われず蚊帳の外の僕は、とんかつをゴマだれにつけながら、こんなことを思った。
こんな調子で大学生活、いいのだろうか。
たしかに大学で孤立するという最悪の事態は僕は回避できたように思う。こうやって誘いの電話が来て、カラオケをして夕飯を食べている。四回生二人だから、ある程度はおごってもらえて、おそらく自分は五百円も出せばとんかつを食べられるのではないだろうか。いや、そういう浅ましい考えは今は脇に置こう。
自分は一歩も前進していない。あえて「かもしれない」みたいな弱い語尾にはしない。今日、何か成長すると感じたようなことがあったか。新書だってろくに読めていない。カラオケで未知の偉大なアーティストの名前を知ったなんて出会いもない。こんなことを続けていると、あっという間に就活に追われる日々が来てしまう。そして、あの時、もっと真面目にやっていればと取り返しのつかない日々に嘆くのだ。
知らないうちにとんかつが一切れになっていた。あんなにおいしいとんかつを味わう余裕さえなくなってきた。ここはキャベツに移って持久戦に入ろう。
ほんとに自分はこのままではダメだ。会長だって来年いなくなるのに。そうだ、自分は来年の京都観察会を支えないといけないのだ。契約書に実印を押したわけではないが、会長に対してそう約束してしまった。そんじょそこらの証文よりはるかに重い誓いを僕は取り交わしている。僕と中道さん、手勢わずか二人でサークルの法灯を守らないといけないのだ。
なのに、サークルの根幹である会長の秘密に気づいてしまった……。
僕の目の前ではまた大村先輩が近頃の文学賞について批判を加えていた。下手をすると自分もこうなってしまうぞ。僕は恐怖と近親憎悪に似た感情を抱いた。遠方から石を投げるだけの人間になって社会に投げ出されるぞ。
先輩、違うだろう? そんなことのために、京大に入ったんじゃないだろう? もっと夢や希望があって京大に来たんだろう? 国や法人や企業や権力者への悪口のためじゃないだろう?
その証拠に、先輩、いつも不満があるような顔をしているじゃないか。まるでその舌で自分自身を傷つけているみたいじゃないか。実は誰かを悪く言うことなんて面白くもないと知っているんだ。だって、そんなこと、とっくに気づいている程度には先輩は聡明だからだ。
先輩のために、自分が前に出るために、先輩に一言物申そう。
とんかつを嚙み締めながら、そんな決意をした。嚙み締めたから、ゴマだれのゴマが口でぷつぷつとつぶれた。
十五分後、混んできた店内から僕らは出た。僕は端数の三百円を出すだけでよかった。後から、文句を言うなら自分の分をちゃんと払うべきだったと気づいた。わざわざ敷居をあげてどうするのか。
これで「じゃあ、俺は京阪で帰るから」なんて言われたら、さらに難易度があがるところだったが、幸い、自転車を押しながら鴨川の東側の河川敷を北上するルートになった。三条より北にあがれば、人はほとんどいない。その人気がないのをいいことにキスをしているカップルと出くわすこともあるが、見ないふりをするのが京都のルールだ。
「だからさ、今の政治家は統計学を本当に理解していないんだよ。統計を無視しているわけじゃない。統計学の基礎がないから、統計を誤読するんだ。最初が間違っているから無茶苦茶な政策が実行に移されるわけ。そのコストは国民にのしかかるわけだ」
やはり、大村先輩は苦言を呈していた。文句言いめ。麻雀で毎回自分の初手が悪いと嘆く手合いがいるけれど、ああいうのに近い。確率論的には公平なはずなんだから我慢しろよ。そこまであがれないなら、お前の手作りに問題があるんだよというヤツだ。
でも、この統計云々の話は正しいことを言っている気がする。自分も納得してしまうようなことで、文句を言うわけにもいかないだろう。もうちょっと、なんとでも言えるような意見が来てくれないだろうか。道は御池通を経て、二条通にかかろうかというあたりだ。丸太町通まで来ると下宿方面に進路を変えないといけないので、そろそろ話しださないといけない。
ヒモ島先輩がその批判に二言三言加えた。持続可能性がどうだという話に、ちょっとスライドしている。よし、ここで話題が移ったところを狙おう。ラストチャンスだ。
「でもさ、持続可能性と言うと、このサークルも問題だよな。正直、そろそろ潮時だよ」
あれ。まさか、話題がサークルになるとは予想していなかった。
「もうさ、今年一杯で解体すべきだよ、ここは。いいかげんさ、人を飼うようなシステムは止めたほうがいい。あまりにも不健全だろ。これは人助けではなくて、飼い殺しだ。そりゃ、レトリックでなんとでも言えるよ。日雇い労働者を搾取しておきながら、弱者のための仕事の場を謳っている派遣業者だっているからな。でもその態様は見れば明らかだ」
いったい、何のことを言っているのだろう。どう考えても穏やかではなかった。遠くに石を投げているのではなくて、すぐ近くに石を投げてどうする。その石は先輩だけでなく、こっちにも当たる。そして、石を当てられた僕は怒る権利がある。
何の話か知らないが、このサークルのことを悪く言うな。来年も僕と中道さんでこの京都観察会は発展していくのだ。普段から何もしていないからのびしろは無茶苦茶大きいぞ。それをおわコンみたいに言うんじゃない。
あいまいな正義はいつしか苛烈な正義に変貌していた。僕にはこの人に文句を言う権利ができた。もはや、これは他人事ではなくなったのだ。
しかし、状況は唐突に激変した。
「黙れよ、六回生が!」
ヒモ島先輩がキレていた。修羅のごとき憤怒の相で。
最初は何に対する怒りなのかすらわからなかった。それぐらいヒモ島先輩の怒りは急だった。どちらかと言えば、いつも斜に構えたようにしている先輩がこんな大声を出したのが僕には信じられなかった。
もし、自分のことだったら大至急謝罪しようと言葉の解釈をしてみたが、僕が六回生なわけがないとすぐ気づいた。
「自立できていないのは、まさにお前だろうが。ぬるぬると既得権益にしがみついて、社会に出るのを先送りしやがって。みんな、裏でどれだけしんどい思いしてたか、お前にはわからないんだろ! そりゃ、俺だってまともに組織を動かしたことはないさ。なくても、裏方の苦労ぐらいは想像できるんだよ。お前には、想像力ってものがないんだ。自分で何かをやった経験がないせいだよ!」
これで僕が怒られていると認識する人間は国語力が小一以下だと思って間違いない。ヒモ島先輩は烈火のように大村先輩を怒鳴りつけていた。
ひどい修羅場になるぞ。僕はどうしよう、どうしようと心のほうだけ右往左往して、足が地面に固定されていた。批判好きの大村先輩はきっとそれらしい反論をするだろう。そうしたら、さらにヒモ島先輩はキレる。それらしいことを言う態度に先輩はキレているのだから。
これは宗教戦争のように終わりない戦いになる。
だが――。
「それは認めるしかない」
あっさりと大村先輩は敗北を認めた。
けれども、謝罪で熱が収まることはなかった。むしろ、逆効果だった。
「そんなに偉そうに言うなら、お前が何かを変えてみろよ。お前の正しさを証明してみせろよ。話はそれからだ!」
「いや、俺の話なんてどこかで仕入れただけのものだし、もっと偉い人間がちゃんと発信してる……」
「じゃあ、お前は自分でもたいしたことないと思っていた話を俺にずっとしてたってわけだな。お前、それがどれだけ俺たちに失礼だかわかってんの? 何、何なの? 俺たちへの嫌がらせ? お前にそんなことされるようなことしたっけ?」
これは公開処刑だ。そう言って差し支えないイベントが目の前で起きていた。傍観している観客は僕だけだが、これはやはり公開処刑だ。
お前の言っていることは間違っている。お前の言っていることには信念も何もない。それが(夜だけど)白日の下にさらされたのだ。僕みたいな有象無象が何人ここにいてもたいしたダメージはないが、大村先輩本人が自分の弱さを突きつけられたというのが大きい。大きすぎる。
「ごめん……」
「もう、いいよ、大村」
ヒモ島先輩はやることはやったという顔になり、自転車にまたがった。え? ここで僕だけ取り残されるのはあまりにもひどい。箱舟に僕も乗せてくれ。
「針塚、行くぞ。お前はついてこい」
僕は大村先輩にあいさつもせず、慌てて自転車を立ちこぎした。先に先にとヒモ島先輩の自転車が前に行ってしまう。後ろは振り返らなかったが、大村先輩が追いかけてこないのはわかっていた。丸太町通で河川敷から通りにあがると、「からふね屋でも行くか。全部おごる」と先輩は言った。夜になると異様に薄暗い川端〜東大路間の丸太町通を駆け抜け、熊野神社のところで僕らは左折した。もう、目的地はすぐそこだった。
「見苦しいところを見せた。すまん」
先輩は注文が終わると早々に手を合わせて頭を下げた。もう、顔は笑っていたので、僕もちょっとは気が楽になった。
「あの、変な言い方かもしれませんが、ありがとうございます。僕もああいったことを言おうと思ってたんです。あんな威力はなかったでしょうけど」
「お前は後輩なんだから、そこまでしてやる義理はないけどな。まあ、俺も学年的には後輩だけど」
つまり、あくまでもあれはヒモ島先輩なりの義理であり、誠意だったわけだ。それはなんとなくわかっていた。
「もちろん、ウザいならお前も言ってやればいい。ああいう無敵の場所にいるヤツは直接攻撃しかない。あれで理解できないほどバカなら一言も口をきくな。バカがうつる」
「ああいうタイプの人がネット言論とかで発言してるんですかね?」
「違うよ。大村みたいなのは匿名の場所ですら何も言わん。人間ってのは知識だけが先行すると、どんどん自信を失っていくんだ。世の中にすごいヤツが腐るほどいるってことと、自分がしょぼくて、どうしようもない人間だってことがわかってくるからな」
結果、誰も傷つかないシャドーボクシングを大村先輩は何ラウンドも続けることになった。試合が終わっても、観客がみんな帰っても、会場のライトが消えても、彼は虚空を殴る。たとえ疲労で倒れても、何かを殴る夢を見る。
「あいつがどうしようもないバカなら、一生吠えてればいいんだ。だけどな、頭だけはいい人間が社会のどこにも関わらないのはその時点で社会悪なんだよ。だから、俺はムカついたし、キレたんだ」
ストレスの種がなくなって、先輩も僕も見事に饒舌になっていた。
「ここまで保っていられたのが、奇跡かもな。俺、ずっと爆発しかけてたから。その爆発が今日だったってわけだ」
「イライラしていたんですね、ずっと」
「ただでさえ、ばらばらな人間ばっかりで成り立ってるサークルだしな。気も遣うし、ストレスもたまる。理沙が島内さんにキレた時よりはマシなんじゃない? ああ、島内さんって知らないよな。去年の前半までいたけど、理沙がキレて怒鳴ったら来なくなった」
やはり、サークルに歴史ありだなと僕はしみじみと思う。まだまだ新しい固有名詞が登場しそうだ。
「けんどうにも、みんなムカついてたけど、そもそも大学辞めたのか、来なくなったな。何人か教育しようとしたけど、バカすぎて無理だった」
「けっこう、トラブル起こってますね……」
「人間が集まれば愛し合ったり、憎しみ合ったりするんだよ」
ヒモ島先輩が言うから許されるセリフだが、僕が言ったら断頭台行きだろう。だが、ヒモ島先輩が過去を話してくれたおかげで、サークルの流れが少しはつかめた。
「そんなばらばらなサークルを会長の求心力というか、カリスマ性でまとめていたんですよね」
あの、どこの学生かもわからない謎の人物が、という部分は伏せておいたが、つまりはそういうことなのだろう。会長は問題のある人間の庇護者として振る舞っていたのだ。
しかし、その返答は想定の範疇にないものだった。
「はははははははは! ツボに入った! お前、地元でおっとりしてるって言われてただろ!」
先輩は爆笑した。酒でも入っているのではないかというほどに、童心にかえったように、笑い転げた。抱腹絶倒とはこういうことを言うのかというほどだった。
「あの、会長が学生証を持っていない気がするんですが、正しいでしょうか?」
僕はおずおずと会長の学生証問題について、勝手口から入るかのように尋ねた。
「やっとわかったか」
ああ、小学生時代のイタズラっ子もこんないい顔をしていた。
「教えてやろう。このサークルの創立秘話を。今明かされる衝撃の、割と予想のつく真実」
目から鱗が落ちると言うが、その時の僕の目から落ちたのは何だったろう。もっと、大切なものを失って、それ以上のものを得た気がする。少なくとも、それ以上のものを得る権利ぐらいは得た。
僕の予想は半分、う〜ん、いくらなんでも半分は言いすぎか、三分の一ぐらいは正解していたのかもしれない。三分の一しか合っていないなら、テストでは追試レベルなわけで、事実も相当異なるが。
「あの、ところで、どうして新歓の時、僕の情報が漏れていたんですかね……? まさか、このサークルに僕の友達の友達がいるとか?」
「それはお前が見つけろ」
こちらはおあずけか。先輩はがつがつとチーズケーキを食べながら言った。ここまで野性的なチーズケーキの食べ方を僕は初めて見た。あのしっとりとしたチーズケーキをスナック菓子のように食べようなどと誰が思うだろうか。
つまりは先入観のせいなのだ。チーズケーキの食べ方を無意識のうちに決めつけてしまうように、僕はそのサークルのシステムを無意識のうちに決めつけていた。
「でも、来年からのサークル、どうしたらいいんですかね」
そもそも、このサークルを延命させる意味が今の僕には見当たらない。
「お前の好きなようにしたらいいんだよ」
今日だけはヒモ島先輩のことをグルと呼ばせてほしい。
「そのための前哨戦がもうすぐあるだろ。ちょうどいいじゃん」
「前哨戦?」
「学園祭だよ、学園祭」
お前、もう忘れたのかとヒモ島先輩は呆れた顔をした。
「締め切り、夏休みの直後だぞ」