エトランゼのすべて
第五話 暑い夜には魔女の静けさ
森田季節 Illustration/庭
注目の新鋭・森田季節が贈る青春小説。ようこそ、京都へ!
第五話 暑い夜には魔女の静けさ
あっ。
という間に夏休みが来てしまった。
入学当初の予定では、初めてできた彼女と京都近辺をまわる予定だった。嵐山、祇園、大原、高雄、宇治、伏見、洛東、洛西、洛南、洛北、京都在住という地の利を活かしてあらゆるところを舐め尽くすようにめぐり、覚えきれないほどの思い出を作る予定だった。家のすぐ近くのバス停から金閣寺にも上賀茂神社にも行ける。平安神宮なら三分で行ける。スフレの有名な店なら、一分で行ける。デートのために今のマンションに居を構えたようなものだ。ただし、まだ肝心の彼女はできていない。
この程度で悲観していたら、高校生の時にとっくに心がぽっきりいっていただろう。高校時代の当然のごとく男子しか在籍していなかった科学部と比べれば、サークルの半数以上が女性という京都観察会に所属している自分はものすごく進歩している(大村先輩は滅多に来ないし、けんどうさんは一度も来ないため)。古墳時代と平安時代ぐらいに違う。
だが、そこには高校とは違う苦しみがあった。平安時代なかばに律令制の崩壊という体制における危機的状況が現出したようなものだ。荘園制への移行や武士の登場という生みの苦しみを十世紀を生きた人は味わったのだろうか。
具体的にどういう苦しみかというと、暇だった。
一回生はゼミもなければ研究室に行くこともなく、二か月まるまる休みが続く。ここまで休みが多いと、ありがたみもない。「大学生という名のニート」という言い回しをウェブで見たことがあるが、言い得て妙だとは思う。勤労意欲があるわけでもなく、部屋で転がっている。実際には転がれるほど広くないので、部屋でじっとすることになり、余計に健康に悪い。六畳一間の部屋に本棚、ベッド、テーブルを置くと、座る場所ぐらいしか残されてはいない。京都はなんて狭い街なんだろう。
十一月にあるという学園祭も、調子に乗ってサークルで参加するということにしてしまった。もちろんながら、駄弁るだけの観察会が過去に参加したことなどない。しかも四回生を実動部隊にするのは酷なので、企画・進行は僕がやることになっている。写真の掲示という、中学生でもできる内容だから、現像したすべての写真に霊が写っていたりしない限り、さすがに大丈夫だろうが、夏休み後の申請書提出までまだまだ練らないといけない。
無聊をかこつ日々が続くことが確実だったので、ちょっとバイトのシフトを増やした。旅行や帰省などで抜けるメンバーが多いので、店長にはありがたがられた。店長が十七歳の美少女ならうれしくもあるのだが、五十四歳のおじさんなので、そこまでうれしくはない。
シフトはだいたいドルさんと一緒だった。中国人留学生は実家に戻っていて、しばらくいない。土産を持ってくるよと言っていたが、忘れずに何か買ってきてくれるだろうか。
だが、その学食のバイトすら暇な時間が多かった。夏休み効果で近辺の学生の数が減っているからなのか、客の数も明らかに少ない。客が少ないと、皿洗いの仕事も少なくなる。四人のシフトが三人に、三人のシフトが二人にされたりしたが、それでも楽なほどだった。噂によれば一台で一千万円するという高熱洗浄機もいつもは三回動かしているのが二回に減った。
自然、ドルさんと二人きりになる時間が増えた。こういう場合、お互いに無言で突っ立っていたり、細かい仕事をしたりしている。ドルさんはさほど日本語が得意ではない。しかし、沈黙の時間があるからといって、苦痛ではなかった。言葉はそこまで通じないけれど、なんとなく互いに信頼しているということがわかるのだ。勝手知ったる男同士が、ぺちゃくちゃしゃべる必要などない。
八時を過ぎ、ただでさえ少ない客のピークも落ち着いてきたころだった。
「暇だなあ」
僕はひとりごとをつぶやいた。話す相手がいなくなると、どうしても出てきてしまうものだ。一度、まるまる二日近く外出しなかった時があったのだが、あの時は部屋の中で妙にひとりごとが増えて、これはやばいぞと焦ったものだった。とくに買うものもないのに、二条通にあるイオンに行ったほどだった。
だが、ひとりごと以上に心の中に危険信号がともった。
――暇でいいのか?
誰が話しかけているのかはわからないが、そんな質問が不意に自分に向かってきた。
こうやってトレイが流れてくるのを待っている間にも、自分の大学生としての時間は、刻一刻と減っているのだ。もちろん高校生の時も、中学生の時もそのルールは同じなのだろうが、あの頃はやることが盛り沢山で暇だと感じることなど、そうそうなかった。受験が近づいてくることにはターミネーター的な怖さがあったが、暇であることに怖くなることはなかった。
ここでトレイの上に載っている皿の処理をすれば、一時間あたり八百十円がもらえる。でも、その一時間は永久に取り戻せないのだ。もしかしたら、その一時間で感動的な経験がどこかでできていたかもしれない。皿を洗っている間に、彼氏彼女と泣いたり笑ったり、部活で汗水流したり、必死に資格の勉強をしている連中がいるのだ。僕はそんな経験をしてきた人に向かって、皿を洗ってきたんだと向き合うことができるだろうか。全国の皿洗いには悪いが僕は無理だ。
――おいおい、青臭いことを言うなよ。
また、誰かが僕に話しかけてくる。
――じゃあ、バイトを今月いっぱいで辞めるのか? 辞めた翌日から彼女ができるとでも思っているのか? 仮に彼女ができたとして、遊ぶお金はどこで捻出する? お前の家の仕送り額なら毎月二万五千円はバイトで稼いでおきたいだろ? 脱サラして漫画家になるとでも言ってるようなもんだぞ。
そうだよな。誰だってビッグになりたい。武道館で一万人を前に歌ったり、オリンピックで金メダルを取ったりしたい。将来の夢が皿洗いの小学生なんていない。でも、この世から皿洗いがいなくなったら、食堂はパニックになる。縁の下の力持ちだって大切な仕事で、自分は縁の下にいる。ただそれだけだ。あまり深く考えるな。
解決策も出ないまま怖くなるだけだから。
「ハリヅカサン、ドコ生マレ?」
突然ドルさんが話しかけてきたので、驚いた。物言わぬ地蔵に話しかけられたような気分になった。ここは日本昔話の世界ではない。気づくと、自分の目の前にトレイが流れてきていた。やたらと考えこんでいたらしい。
「奈良県です」
実は和歌山県なのだが、奈良と言った。和歌山の説明は難しい。ちなみに、その後、ドルさんもお返しとばかりにモンゴルの地名を言ったが、もうどこだか覚えていない。
「大学出テ何スル?」
ドルさんの日本語は単純な分、はねのけられないような大きな力があった。
「正直、まだ決められていないです」
情けない思いを感じながら、そう答えた。今をどうしたらいいかもわかっていないのに、将来のことなどわかるわけがない。足もとに地面がなければ跳びだすことだってできやしない。くそ、情けない!
「こんなご時世ですしね。いろいろと難しいんです」どうせ僕はいつ生まれても、「こんなご時世」と言うのだ。「ドルさんは将来やりたいことって、ありますか?」
「俺、夢ナイ」
え、そんなこと堂々と言っちゃうの!?
考え中だとか言うのならわかる。でも、ドルさんは「ない」と断言してしまったのだ。どういうことだ。生きている意味自体が消滅しかねない発言だぞ……。
もっとも、僕の混乱はドルさんの補足説明のおかげで避けられた。
「ダカラ奥サンノ夢ノタメ、バイトシテル」
そこで僕は初めてドルさんの身の上を知った。ドルさんは留学生でもなんでもなく、三十二歳のバイトだった。奥さんが日本の大学に留学していて、それで一緒に来日したらしい。留学生と言っても国費でいたれりつくせりというわけではないらしく、家族の暮らしを支えるためにやたらとバイトしているらしかった。子供も一人いるとか。
ドルさんが僕の出身地や夢を聞いてきた理由がわかった。彼は自分の夢や未来を話したかったのだ。そのためのクッションとして僕にそんなことを聞いたわけだ。
きっと、もっと日本語に堪能になっても、ドルさんは「夢ない」と答えただろう。それは家族のために生きると決意した男の生き様そのものだ。
高校の中で、軽くアウェーな気持ちを味わっていた自分だが、そんなもの、比べ物にならないほどのアウェーの環境でドルさんは生きている。周囲にモンゴル人などいないし、景色も気候も故郷とは全然違うだろう。そんな中でろくに話もできずに生きていくというのは、ちょっと想像を絶しているし、わかったつもりになることすら不謹慎な気がした。
ドルさんはその日、卵の空きパックを二つほど持って帰った。「コレデ子供遊ブ。オモチャナル」とのことだった。どうやって、あれがおもちゃになるのかわからないが、ぜひとも楽しいおもちゃを作ってくれと心から応援したい。
でも、応援している場合ではなかった。自分のスケジュールは何も埋まっていないままだった。たまに大村先輩やヒモ島先輩からカラオケの誘いなどが来るが、それを除けば、まさにニートのようなものである。なにせ、大学には夏休みの宿題だってないのだ。
学食バイトだけでは時間がつぶせないので、ほかにもいろいろと実行した。その一つが観光である。
朝昼はぶらぶらと自転車で近所の有名な観光地などに出没している。ちなみに節約のため、よほどのことがないかぎり、移動は自転車だ。嵐山ぐらいまでなら丸太町通をひたすら西に行けば一時間強も乗れば着く。これまでの最長記録は長岡天神だ。
あとはデジカメをぱしゃぱしゃとやれば、観光客気分になれるし、写真のストックも増えるというものだ。そのうち、和歌山と奈良の写真を京都の写真の枚数が追い抜くだろう。なお、寺院の写真より神社のものが多い傾向にある。おそらく、寺院は拝観料がいるところが多いからだろう。巨大な禅宗寺院には、いくつも塔頭という小さいお寺がテナントのごとく入っているが、そういう場合、一個一個がそれぞれ拝観料を徴収する。当然、コンプリートしようとすれば、相当な額になってしまう。年配の夫婦の旅行なら気にならなくても、こちとら四百円のところに二箇所入ろうものなら、それだけで時給が吹き飛ぶのだ。もともと神仏習合していたのだから、お寺も神社にならって拝観料を設けないでほしい。
とにかく何かをしておかないと、どんどん取り残されていくようで怖かった。僕は無理矢理目的を決めては自転車で出発した。大村先輩とヒモ島先輩から河原町をぶらつこうとお誘いがあれば、八割以上の確率で参加した。一日一日に具体的な意味までは求めなかったが、何かをしていたという言い訳になるものがほしかった。
できれば、もう少し大々的なイベントがほしいところだが、僕自身にはそんな企画力はない。出せと言われてもないものはないのだ。青春18きっぷでローカル線の旅でもしようかと思ったこともあるが、地元がローカル線なのにわざわざ田舎の風景を見ても仕方ない気もした。時刻表を買ってはみたが、京都市の北のほうは完全に未知の世界だ。針塚という苗字を持つ者として鍼灸大学前という駅名に惹かれるものはあったが。
だが、イベントというのはえてして唐突にやってくるものである。部屋のレンジで学食の残りのコロッケを温めていたところにメールが来た。勝原さんからだった。女性とは思えないシンプルなメールにはこうあった。
肝試しを今日やります! 夜十一時半に正門前集合! 出欠のメール入れてね。
僕に断る理由などあるだろうか。いや、ない。
バイトの後、帰宅して入浴すれば、ちょうどいい時間になっていた。再び、自転車で出発する。
正門前には、発起人の勝原さんをはじめ、ヒモ島先輩、長月さん、中道さんが来ていた。会長はいなかった。
「よしよし、ちゃんと来たね。でも、これじゃ、奇数か」
勝原さんは軽く苛立っているようだった。肝試しよりそんな勝原さんのほうが怖い。
「会長は来ていないんですかね?」
「少なくとも、行きたくないってメールが戻ってきた。でも、大丈夫。絶対に連れてくるから」
勝原さんは慣れた手つきで携帯をいじった。
「あ、こんばんは、理沙です。みんな、来てるよ。せっかくだから出てきなよ。ちゃんと二人組で行くからさ、樹海に行くわけじゃないじゃん。吉田山じゃん。ほら、今からだってそんなにかからないでしょ?」
電話の相手は間違いなく会長のようだ。たしかに、会長がいない行事というのは何か締まらない。しかし、勝原さんはよくあの会長と気楽に話せるものだと思う。いくら同い年で同性でも、自分は会長とざっくばらんにタメ口を使える自信がない。
「だめ、だめ。ちゃんと来なさい。会長がいないまま、始められないでしょ。いわば、会長のためにやっているようなものなんだよ。会長に立派になってもらうために、いろいろと企画しているわけ」
いくらなんでも、恩着せがましいだろうと思ったが、僕は日本人なので何も言いません。
だけど、対岸の火事ではすまなくなった。
「今から順番にメンバーに替わるからね。はい、針塚君」
携帯を勝原さんは僕のほうに向けた。話せということだろうが、心の準備ができていなかった。しかし、勝原さんは僕の都合のことなど一切おかまいなしで、ぐいぐいと携帯をマッサージ器みたいに押しつけてくる。このまま放っておくと通話料がかかって申しわけないという思いもあって、僕はその携帯をとった。
「あ、こんばんは、針塚です」
少し耳から遠ざけ気味にあいさつした。電話で話すというのは、直接会うのとはまた違った緊張がある。
「こんばんは」
会長のやわらかい声が耳に当たる。ぞくりぞくりと電気が走った。電話による声だけ使った卑猥な遊びがあるということは、風の噂で聞いたことはあるが、そういったものが成り立つ素地がなんとなくだが、わかった。肉体がなく、声だけがあるというところにかえって興奮があるのだろう。バカか、電話に集中しろ。
いつの間にか、背筋を伸ばしていた。自分でも肩がつりあがりすぎているのを感じる。人目がなければ、このまま敬礼のポーズもやりかねないところだ。
「あの、来てもらえるとうれしいです……」
「針塚君も来ているのですね」
失望されたように聞こえて、僕は反射的に「すみません」と答えた。いやいや、ここで謝罪すると、この場の全員を裏切ったことになりはしまいか?
後ろから勝原さんの、「ほら、早く来いって言っちゃいな。会長がいないと始まりませんって言って」と声が聞こえる。どことなく、はやしたてるようなのは気のせいだろうか。勝原さんはどんなハプニングも役得程度にしか考えないだろう豪傑だから、理解はできる。
「ええと、せっかくだから、会長にも来てもらえるとうれしいなあ……」
勝原さんの要請に応じる。遠くの宗教的権威よりも、近くの実体的権力に従うのは、人類が培ってきた生きる知恵である。
「でも、夜の吉田山なんて……」
どうやら、会長も思想信条による理由とかそんな強い反対の意思があるわけではないらしい。純粋に怖いのだろう。初対面の人間の個人情報をつらつらと並べるというモダンホラーを実践しておいて今更肝試しを怖がるのも変だろうという気もするが、人間、怖いものは怖いし、痛いものは痛い。中学時代、近所に住んでいたクマのような巨漢の学生は結石の痛みで泣いていたという。
この会長の態度なら押せばなんとかなるかもしれない。押してもダメなら引いてみろと言うが、たいていの場合、押してダメならもっと押すしかない。
「お願いします、お願いします」
僕はお願いを連呼した。無力な自分は人に頼むのには慣れている。会長は何か言いあぐねているようで、「ううん」とか「ああ」とか弱い息を吐いている。その声がどうにもなまめかしくて変な気分になってきたので、頭の中で高校の校歌を流すことにした。
「あぁ、うぅ、えぇと、うぅん、はぁ」
これでは本当に電話を使った卑猥なサービスではないか。しかも、野外で女性の電話を借りてというのは、ひどすぎる。僕はそんな卑劣な人間に育った覚えはない!
「長月さんに替わります!」
勝原さんの電話を無断で長月さんにまわした。さすがに料金を請求されることはないだろう。長月さんも慣れた調子で、二言三言会長と話していたが、やがて通話を切って、僕らにこう言った。
「十五分で来ます」
十数分後、自転車のライトがだんだんとこちらに近づいてくる。大トリはかなりしぶしぶといった顔をしていた。
「みんな、本当にやるんですね」
会長は下克上でも起こったかのように言った。しかし、会長は会長以外の呼び名がないので、その地位を明け渡されると困ったことになる。元会長というのは、過去の名声にすがっているようで、あまりいい響きがしない。
「じゃあ、くじを引いてね。二人ずつペアな」
いつの間に用意していたのか、勝原さんは手帳にあみだくじを書いていた。ただ、縦棒の数は三本しかない。つまり、棒の下に名前がある人同士でペアになることも、名前を書く側同士でペアになることもないという、かなり恣意的で強引なあみだだが、誰も文句を言わなかった。まず、ヒモ島先輩が選んで、次に僕の番だった。
その結果は、ヒモ島先輩が中道さんと、僕が会長、勝原さん(残ったくじのところに該当)が長月さんという組み合わせ。えっ、会長とですか?
「男同士とかになると寒いから、ちょっとだけ手を加えた」
すべてが決まった後に勝原さんがくじについて説明を加えた。こういうのを後出しじゃんけんと言うのだと思う。だが、事の本質は後出しじゃんけんにあるのではなく、不正を力技で認めさせるだけの勝原さんの力にある。そして、勝原さんに文句を言えるような力など僕にあるわけもない。
「ちなみにルート。まず、神社の階段を上までのぼったら、右回りの広い道であがっていく。大元宮ってところを過ぎたら、舗装された道が右に続いていくから、そのあたりで山のほうに左折。左折するところは赤いテープを地面に貼っておくから、最後のペアがはがしといて。少し間違っても、そのうち頂上のほうに出るからいいよ。吉田山の頂上あたりに出たら、そこから左に行くと茂庵ってカフェがあるので、そこに入らずにまっすぐ行くと、展望台がある。ゴールはそこね」
そんな説明だけでわかるのかというような説明だったが、京都に住み慣れた四回生たちはこれだけですべて理解したようだった。樹海ではないのだし、一本道を間違えても帰れないことはないだろう。淡々と説明を終えると、勝原さんと長月さんが早々と出発してしまった。
「なんだかんだで夜中は怖いな。ファミレスより怖いかも」
「よろしくお願いします」
五分後にヒモ島先輩と中道さんも出ていってしまった。急にヒモ島先輩が狼になったりしないだろうかと失礼なことを考えたが、こっちはこっちでそんな場合ではなかった。六引く四は二。会長ともう二人きりなのだ。
「当たり前かもしれないけど、夜の大学って静かですね」
会長が周囲を見回しながら言った。くしくも、あの衝撃的なファーストコンタクト同様、光はろくにない。ミステリアスという会長の重要なパラメータの一つが大はばに上昇していた。
「そうですね。といっても、僕の出身地はもっともっと暗かったですけど。地元民以外がいることがありえないですから。夜に歩いているだけで通報されたかもしれない」
会長は何も言ってくれなかった。会話のキャッチボールは早くも失敗してしまった。どうしよう、どうしようと一人でパニックになっていたが、会長のただならぬ様子に気づき、話す内容云々など吹き飛んでしまった。
かすかに会長はふるえているように見えた。まさか、会長にだけ地震が来ているわけではないだろう。
「こんな強い闇はダメなのです」
自分の闇とは格が違う、そんな様子がその言葉から漂っていた。
「まだ五分経ってないけど、行きましょうか」
僕のイレギュラーな対応に会長は少しほっとした顔で、「そうしましょうか」と微笑んでくれた。今のはファインプレーだ。よくやった。
平地の砂利道をしばらく歩くと、やがて、広い石段が現れる。その両側には、「日」「月」と書いた石灯籠が置いてある。単なる漢字だけでも、夜中に見ると気持ち悪い。僕は思わず、石段の前で立ち尽くしてしまった。ここから先は聖域だぞという無言のオーラがあった。
「あの、手をつないでいいでしょうか」
落ち着かなげに会長は僕を見た。
もちろん二人の仲を深めたいがゆえではない。会長は藁をもつかむ思いなのだ。当方もたいへんに怖い。そういう、やむをえぬ事情を利用して、会長と手をつなげるならつなぎたいところでもある。でも、「とことん、おさわりしたいです」などと本心を言うわけにもいかず、逡巡していた。
「黙秘はイエスとみなしますからね。会長権限です」
強引に会長は僕の手を取った。今日はいい日だ。会長の手は夏だというのに、とても冷えていた。自分の熱が会長の冷えた手を穢してしまうようで、恐れ多い。とても静かな興奮が僕の頭と体に響いた。まるで地球の裏側で起こっている戦争のようだった。
「やっぱり怖かったんですか?」
この人と手をつないだまま、無言でいることなんて誰ができるだろう。
「当然でしょう。怖いから肝試しをするのですよ」
「それもそうですよね」
「あとですね、私の家は幽霊が出るのです」
その言葉は冗談として受け流すには重すぎた。幽霊が出ないほうがおかしいほどに、おどろおどろしい空気が流れていた。生暖かい盆地の風がいやがおうにもムードを増していく。
「幽霊って、どんな幽霊ですか?」
「きっと、何代も前の一族だと思います。どんな家だって、五代もさかのぼれば不遇の死を遂げた人の一人や二人いるでしょうから」
「僕は五代前の一族の歴史など知らない薄情者ですから、幽霊を見ないですむのかもしれません」
「難しいものですね」会長は雀のような小さなため息をついた。「幽霊は怖いですが、かかわってくるものがすべて消え去っても困りますからね」
「おっしゃるとおりです」
下衆と呼ばれてもいい。怖がっている会長はものすごくかわいい。
十分な幸せを僕が感じられていないのは、肝試しというシチュエーションのせいだろうか。あるいは、あまりにも大きな幸せを前にすると、人は何も考えられなくなってしまうのだろうか。
たとえば、僕が会長の許婚で将来結ばれることが決まっているとしたら、僕はそのためだけに人生をコントロールして、将来のためだけに今日も明日もどのように費やすか決めるのだろうか。ドルさんが奥さんのために生きることを選んだように。
僕に必要なのは目的だ。それが自分のためではなく、誰かのためのものであれば、なおいい。
でも、僕はまだ入学して数か月の新参者で、サークルのことも会長のこともよく知らないままだ。少しばかり長期滞在している外国人と同じレベルだ。
まさか、名前も知らない人に好きですなどと言えるか?
「夜って怖いですよね」また会長が口を開く。いつも以上に会長が饒舌なのは恐怖を紛らわすためなのだろうか。なのに、その内容は底なしの崖をゆっくりとロープ伝いに下っていく作業のようだった。「暗い闇から逃げようとしても、どこまでも広がっていて引き戻されてしまうのです。だから人は夜の怖さに気づいたら、いけないのですよ。逃げられる場所などないのですから」
やはり、この人の本職は魔法使いとか魔女とか、そういったうさんくさいものではないだろうか。ここまで闇について的確に答えられる人はそうはいない。
「ここまでが、ちゃんとした理由です」
魔法使いは空いたほうの手に持った傘で虚空に線を一本引いた。闇の中にその傘の動きが残像として目に焼きついた。
「こんなふうに夜に出歩いたりすると生活のリズムがおかしくなってしまうのです。明日に、疲れがたまってたいへんですね。人間はリズムを守らないといけないのです。リズムのずれた音楽が不愉快に聞こえるように、そういった生活は心も体もじわじわと壊してしまうのです。そのうち、部屋から出ることもできなくなります。しかも、それは古い壁に苔が張りつくように知らず知らずのうちにやってくるのです」
こんなにも熱く語る会長を僕は初めて見た。周囲は熱いどころかぞっと寒気のするような怪奇スポットなのが玉に瑕だが。いつか、手をつないで四条河原町を歩きたい。
「その気持ち、たいへんよくわかります」
これはリップサービスではなくて、本心だ。決してとりあえず「わかる」と言えばいいと思っているわけではない。不思議と僕には会長の気持ちが身近なものに感じられた。
今まで意味不明で、遠すぎて、よくわからなかった会長のことがようやく近くに感じられた。でも、これは危ない橋なのだ。
僕はその会長の遠さに憧れていたはずだから。
「僕も下宿に住み始めた頃は、しんどくてたまらなかったですから。毎日のように実家に帰りたくなっていました。あんなにホームシックを感じたのは初めてですよ」
「そうでしょう、そうでしょう」
会長は我が意を得たりといった声を出した。今日の会長は感情表現が激しい気がする。すべては夜の闇のおかげだ。これなら世界がいつまでも闇に閉ざされていてもいい。
「私もリズムを崩すと、すぐにおなかを壊すのです」
さすが美人は違う。体もデリケートなのだ。賞味期限切れが近い安売りのパンばかりイオンで狙っている自分とは違う。トップバリュのさらに安売りのものを狙う戦略を個人的にスーパートップバリュ作戦と呼んでいる。
さて、このまま会話で不気味さをまぎらわせたいのだが、敵もなかなかやるもので、得体の知れない不安は頭から離れない。石段をあがりきると、平たい場所に出る。右手には吉田神社本社の社殿が広がっているが、お参りするゆとりはない。神社で肝試しをしている時点で、かなり不敬なのだ。さらに神にケンカを売るようなことはしたくない。ここから右手にゆるい坂をあがっていく。
しかし、闇というのはどうしてこうも人の心をかき回すのだろう。自然と気持ちがネガティブになってしまう。こういう時に、不意に中高の時の赤っ恥を思い出したりするのだ。
僕の住んでいた街は市制を敷いてはいたが、夜になれば明かりはほとんど残らないようなところだった。あの寂しさを形にしたような風景は、中高の僕の心にさらなるダメージを与えた。ここにいてはダメなのだ、闇のないところに逃げなければならないのだという焦りを僕はずっと抱いていた。違う、違う。これは「逃げ」だなんて後ろめたいものではなく、「進展」だ。僕は僕なりに戦おうとしたはずなんだ。
しばらくすると、また会長が口を開いた。
「暗いところってどうして不安になるのでしょうか」
「太古に、祖先が夜行性の獣に怯えていた記憶の名残ですかね」
もっとムードのある答えはなかったのかと反省した。
「暗いところとお化けや幽霊、どちらが怖いですか」
「ええと、僕にとっては暗いところにお化けや幽霊は出てくるものって認識なんです。つまりセットなんですけど」
「闇のほうがはるかに怖いですよ」確信を持って会長は言う。「闇の中にいると、なんだか自分の弱さみたいなのが広がってるみたいで嫌な記憶が蘇ってきたりして、何もできなくなります。あのやるせない気持ちのほうが、お化けなんかより何倍も何倍も怖いです。お化けも幽霊もこの世界にはいなくて、ただ闇だけが広がっているということのほうが、ずっと恐ろしいです」
どうして自分の気持ちがわかるのだろう。
それはリアルタイムで僕が考えていたことと瓜二つだった。本当にこの人は魔法使いなのかもしれない。あるいはいつの間にか相手の心の声が聞こえてしまう体質なのか。
やはり、この人は本物だ。偽物の会長がたくさんいて、銭形警部が「ルパンめ、はかりおったな!」とか言うような意味ではなく、すごい人だという意味である。この人は本物だ。
「夜は、孤独であることを再確認してしまいます。音が少ない分、気持ちが紛らわせないのです。あくまで一般論ですが」
僕には会長がしゃべっているのか、この吉田山の闇の集合体が語りかけているのか、それすらわからなくなってきていた。自分が山の中を歩いているということすら、忘れそうになっていた。
「会長、どうやって僕の心、読んでいるんですか?」
もはや、お化けなどよりも会長の力のほうがホラーだった。あの夜の怖さを会長は見てきたように知っている。一人で部屋にいると、それは徐々に忍び寄ってくる。十時より十一時、十一時より十二時、夜が深まるに連れて、それは力を増す。日が変わる頃にラジオをつける習慣ができていたのもそのせいだ。
「私は魔法使いなんです、とでも答えておきましょうか」
会長は不安を殺すために笑ってくれた。真相ははぐらかされたままだったが、その笑顔が見れただけでも十分だと思った。会長との間の壁を一枚壊せた気がした。
「あの、どうして会長はこういうサークルを作ったんですか?」
僕はもっと会長のことを知らないといけない。右も左もわからないエトランゼのままでは、いけない。たとえ、それで会長の魅力が減ってしまうとしても、僕は会長のことを知りたい。
「ほら、半年後には僕か中道さんが新会長になるじゃないですか。なのに、僕らはサークルのことを何も知らないんです。これは少しまずいと思うんです」
「それは針塚君が新会長になる時に教えてあげましょう」
会長の余裕が僕の余裕にそのままつながっていた。正の相関関係がここにはある。
「なんとなくはわかりますよ。会長は、なんていうか、残念な人たちのよりどころになりたかったんですよね?」
いつもより、自分の言葉も強くなっていた。それぐらい、真剣になっていたのかもしれない。
数か月の間、サークルのみんなと過ごしていて気づいたことだ。むしろ、それぐらいしかこのサークルには共通点がないのだ。このサークルのメンバーはみんないい意味で善人だ。だけど、ちょっとばかり、問題のある人ばかりだ。みんな少しずつやりすぎなのだ。その「少し」のせいで、きっとほかのどこかに属するのが難しかったのだ。何を隠そう、自分もその要素を持っている。
「このサークルはいい人ばかりですよ。でも、いい人というのは、社会的にまっとうに生きるのが難しいことと同じなんです。だって、この世は海千山千の悪人ばかりじゃないですか。だからこそ、いい人は苦労したり嫌な思いをしたりして、居場所までなくなってしまうんです」
今度は僕が熱くなる番だった。僕は憤っていた。いい人を苦しめるありとあらゆる障害物に。悪よ、爆発しろ。たとえばマクドで前にこんな若い男女の話を聞いたことがある。「○○さんって真面目な人だけど、ちょっと変わってるよね」「うん、付き合いづらいっていうか」僕はマックシェイクを頭にかけてやろうかと思った。あなたたちみたいな普通の人が「ちょっと変わってるよね」とか、さも正しい者のような顔をして言うからちょっと変わってるだけの真面目な人はいよいよ付き合いづらい立場に追いやられてしまうのだ。
「そして、そんな追いやられた人を救済する天国のような機関が、会長だったんです」
会長の手を僕は強く握りしめすぎていたかもしれない。
「ちょっとしたことで、折り合いが悪くなった人を会長は京都観察会というサークルを作って集めたんですよね。安住の地をみんなのために提供したんです。そうですよね?」
才色兼備だが男を何人も勘違いさせてしまっている長月さん、危うく人生をドロップアウトしかけたところから逆転したヒモ島先輩、見た目で周囲の人間を怖がらせて損をしている勝原さん、どこも悪いところなんてないのにおそらく一般人の間に入れば埋もれてしまうだろう中道さん、そして僕、そんな人間を救ってくれるのは会長しかいなかった。
会長はくすくすと上品な声をたてて笑っただけだった。正しいとも違うとも言わなかった。いつの間にか、恐怖なんてものはどこかに飛んでいた。会長といられる時間を堪能するだけで満足だった。
自分は何一つとりえみたいなものもない。それでも、どうせなら会長のように、人を導く力を持った人間になりたい。
「針塚君がそう思うのなら、それが真実なのです。私もその真実を壊さないように頑張りますね」
「お願いします。会長は僕にとっていつまでも会長なんですから」
「わかりました。たいへんですけど、やれるだけやってみます」
「あの、会長、携帯電話の番号とメール教えてもらえますか?」
僕たちは闇の中で揃って携帯電話を開いた。
山頂近くのなだらかな道をしばらく行くと、ゴールに着いた。残りの二ペアも無事に着いていた。
「ハプニングがなさすぎるのも面白くないよね」
勝原さんがいささか問題のある発言で締めた。この人はいつも奈良公園の鹿よりも不羈奔放なのだ。木陰でパンを食べている観光客を見つけようものなら不敵に接近を試みるあいつらより、大胆な者などそうはいない。
まさか、復路まで肝試し大会をするわけにもいかず、みんなでだらだらと下山することになった。ちなみに住宅地に出るだけなら、神楽岡方面(つまり裏側)に降りればあっという間らしいが、帰路がとてつもなく大回りになるのでオススメはされなかった。そもそも自転車が大学にある。できれば帰りも会長と二人で、というのはわがままがすぎるだろう。
その帰り道のことだった。ぽんぽんと肩を叩く人がいる。その叩き方で勝原さんだとすぐにわかった。家の中で母親の足音か父親の足音かすぐにわかるように、勝原さんの空気も簡単にわかる。遠慮という概念が一般人と異なっているのだ。
まるで睦言を囁くように、勝原さんは僕の耳もとでこうつぶやいた。
「会長をよろしくな」
その言葉が意味深に聞こえてしまったのは、言う側ではなく聞く側に問題があったのか。おそらく、二対八で後者だろう。けれども、勝原さんが僕の気持ちを汲んで、会長と引き合わせたという可能性もなきにしもあらず。
「そんなの無理ですよ」
誰かに聞こえてもかまわないように、無難に答えた。ちょっとしたことだが、僕の対人能力も少しは向上しているようだ。
「君にならできる」
前に大学構内で「無責任」とプリントされたTシャツを着ている欧米の留学生を見たが、それよりもさらに無責任さを感じるほどに気楽におっしゃった。
大学のほうに戻ってきた時には一時に近くなっていた。
「それでは、さようなら」
会長はお肌の荒れが気になるのか自転車ですぐに消えていこうとする。
「ありがとうございました」
客を見送る店員のように僕は頭を下げた。
「私たちって似たもの同士かもしれませんね」
その会長の言葉は録音して目覚ましの代わりにでもしたい。
さて、残った我々も解散だ。勝原さんは三日ぐらい寝なくても平気そうだが、僕は最低でも五時間は寝たい。
だが、最後に勝原さんに確認しておきたいことがあった。
「あの、まさか会長って本当に相手の心が読めるとか、そんなことないですよね?」
戻ってきた答えは、近所迷惑なほどの爆笑だった。
「君は将来大物になるね」
これが褒め言葉に聞こえるほど、僕は鈍感ではなかった。