エトランゼのすべて
第二話 四月のバラ
森田季節 Illustration/庭
注目の新鋭・森田季節が贈る青春小説。ようこそ、京都へ!
第二話 四月のバラ
人生初のバイトを始めることにした。
仕送り額が九万円で、けっこうギリギリというのもあるが、理由はそれだけではない。大学デビューのためには積極性が必要なはずだ。これは勝手な憶測だが、大学生活を楽しんでいる人間は、おそらくバイトぐらいやっているだろう。仕送りだけで生活というのは、いよいよ非社会的な気がする。人間は社会的な動物である、だとしたら非社会的な人間というのは「お前なんて人間じゃねえ!」と否定されているのに近い。そんなひどいセリフは動物園の檻の前ですら吐く勇気はないが、現実問題、そう思われかねない。そんなのは嫌だ。
だが、ここで、また例のつまらない躊躇と逡巡が再発した。バイトといっても何をやればいいのか、わからない。できれば楽でお金が儲かるところのほうがいいが、うまい話を今日からバイトを始めようと思った人間が見つけられるわけもないだろう。時給千五百円でだらだらしているだけでいいとか、そういった天国のようなバイトはバイト界のプロたちによって、すでに回収されている。僕らバイトビギナーは回収の終わった荒れ地から探すよりないのだ。
まず、コンビニはナシだ。給料が低いし、悪そうなヤツと一緒にシフトに入ると気疲れしそうだ。それにコンビニ強盗がやってこないという保証はない。時給七百五十円とか八百円で命を懸けるのはナンセンスだろう。「あなたの命はかけがえのないものなんですよ」と、できれば会長のような美しい女性に言ってもらいたい。この年頃の人間にありがちなことらしいが、「自分なんていてもいなくてもどうでもいいよね」ということにふっと気づいて、いたたまれなくなることがあるのだ。これが三十歳の手前あたりになると、人間の九割なんていてもいなくてもどうでもいいんだと開き直るらしい。長くなったが、以上のような理由でコンビニはナシだ。
では、大学生のバイトの定番、家庭教師はどうか。これは割はかなりいいのだが、その分、時間拘束が長く、高いなりに疲れるらしい。予習や準備という時間外労働もあるから、そこまで効率がいいわけではないとも聞く。それに、中学の授業なんてはるか昔のものを教えられるのかという気もする。こんな僕に教育を受ける中学生は不幸すぎる。僕が中学生だったら悲しいだろう。よって、家庭教師もパス。
そんな調子で終始後ろ向きに大学生協で求人票を見ていた。褒められたものではないが、夢と希望に満ちあふれた顔でバイトを探すのもおかしな話だろう。そして、夢も希望もなさそうだが、悪くはないバイトがあった。
学生食堂 五時から九時半(営業時間終了まで)週二〜三回ほど
まかないつき 連絡先TEL(以下略)
楽しい仲間たちと元気に働いてみませんか!
時給八百十円 交通費支給
コメント欄がどこの流用だというぐらい何も語っていない。ある意味豪気な求人広告である。もう少し、いいように書いてもいいのではないかと思うが、その分信用できる。
時給の十円の端数が気になるが、ないよりはいい。決して高くない値段だが、仕事柄、確実に食事にありつけるだろうから、食費も浮くだろう。小遣いも少なかったので、僕はこういうオマケ要素が大好きなタチである。おかげで財布には会員証の類がものすごく入っている。
それに、学生食堂のバイトなら、人員はうちの学生ばかりだろう。新しい出会いが待っているかもしれない。もちろん待っていないかもしれないが、可能性が高くなるのは大事なことだ。
早速、その日の昼過ぎに「中央食堂」に行った。名前だけ聞くと、国の機関のようだが、キャンパスの中央にあるから、そんな名前がついたのだろう。
面接は五分で終わった。いかにも料理人ですという空気を醸し出しているガタイのおじさんにバイトをしたい旨を話すと、明日から来いと言われた。これで明日から同僚の女の子との出会いが待っているかもしれない!
結論から言うと、思惑ははずれた。
「ハジメマシテ、ワタシ、ドル。バイトガンバロ」
「よろしくお願いします」
頭を下げてから、そういえばモンゴルの人と会話するのは生まれて初めてということに気づいた。その出会いが食堂の更衣室であるのだから、大学とはさすがに国際的な場所である。
モンゴル出身のドルさんは、お国柄なのか、背は百六十八センチの僕よりだいぶ低かった。頭にバンダナを巻いているので髪形はわからないが、多分短髪なのだろう。色黒のメガネ姿は、戦前の日本人に少し似ている。
それからその日のシフトの曹さんと柳さんからあいさつを受けた。柳さんは東北地方の出身と言っていたが、地名を聞いたら瀋陽ということだから、おそらく中国の東北部のことだろう。
その日の僕の持ち場には日本人がいなかった。
僕がどう見ても日本人に見えなかったとか、そういうわけではない。
配属された場所が、皿洗いだったためだ。皿洗いは客と顔を合わせることもない⇒日本語が多少苦手でも問題ない⇒外国人留学生でもいい、そういう流れだ。
ほかにも、生ゴミを捨てにいくとか、バックヤードの掃除だとか、裏方の仕事全般をこなす。なんだかんだで力仕事も多い。そのせいか、原則男性のみの勤務である⇒女性との出会いはない。
もしかすると、僕は不幸な星のもとで生まれたのかもしれない。
もっとも、感慨にふける暇もなく、皿の載ったトレイはわんさか流れてくる。これが桃ならドンブラコと流れてくるのだろうが、オートメーションな時代なのでベルトコンベヤーでやってくる。とくに七時過ぎが一番混み合う時間で、まったく切れ目なく皿の載ったトレイが運ばれてくる。
では、皿洗いの仕事の流れを説明しよう。
腰の高さあたりにお湯を流しているステンレスの溝が通っているので、ここで軽く皿の汚れを落とす。茶碗はご飯がこびりついているので、湯をためている巨大なステンレスの箱に入れておき、しばらくしてから、ぬめりを落とす。簡単に洗った皿は空の巨大な箱に入れておく。この箱も湯をためていたものと同じヤツだ。ここまでが下準備。まだまだ衛生的とは言えない状態だ。これを高熱洗浄機とかいういかにも工場にありそうな機械に載せる。皿をはめる部分に投げこむようにどんどん入れていき、洗浄部分を通過したものを消毒した手で回収する。この皿をどんぶりコーナーだとか、おかずコーナーだとかいった所定の位置に戻してやるまでが一セット。
言葉で説明すると何のことだかわからないかもしれないが、本当にこういうことをしています。
そんなわけで、お手軽海外留学体験を僕は学生食堂の裏方にて行うことになった。もっとも、公用語は日本語なので、あまり意味はなかった。ドルさん(本名なのかニックネームなのか判断できない)は勤勉という二字熟語を背中に張るべきなほどによく働くし、中国人ペアも手際よく高熱洗浄機に皿を入れていく。
なお、裏方は客の目の届くところではないので、暇な時はのんびりしてもいい。厳密には暇な時間でも私語禁止のはずなのだが、五分後には僕もだらけ組の中国人に混じってだらだらやっていた。中国人は休める時は必ず休む。出身地を聞かれたので、奈良と和歌山の間だと答えたら、曹さんに「和歌山は何あるの?」とすごく本質的で致命的な質問をされた。つまり「奈良県に何があるかはだいたいわかるが、和歌山県はそのかぎりではない」とこの中国人は言っているわけだ。迷った挙句、「高野山」と答えた。高野山は曹さんにも通じた。
後で曹さんが厨房からもらってきた、から揚げ入りカレーをみんなで食べた。業務中の飲食は表向きはナシなので、なんらかの裏ワザが使われたのだろう。ちなみにこんなメニューは食堂にはない。ちゃんと隠し場所も決まっていた。棚に置いて、目の前にバケツを置いて視界から遮るのだ。店長の隙を見つけて一口食べてはそこに戻しておく。どうしてこういう盗み食いというのは、やたらとおいしく感じるのだろう。罪の味は蜜の味なのか。
閉店して皿洗いが終わったら生ゴミを捨てて、作業終了。早く帰りたい時は閉店五分前に「本日の営業は終了いたしました」と食べ終わってもだべっている客に言いにいくのがコツである――と曹さんが言っていた。実際は十分前に残りの客五人に終わりですと言いにいっていた。食堂で閉店まで粘るような客は、閉店だと言わない限り、いつまでも居座り続ける上に、どうせ重要な話をするために来ていることもありえないので、問題はない。最後に生ゴミを捨てにいったところで、一日の業務は終了した。これでまかない料理にありつけるぞ!
ただし、まかないはさほどおいしくなかった。
食中毒対策のためか、大半のおかずがフライ系だった。小皿のおかずは大量に余るようには作らないのか少ない。仕方ないので、ごはんにコロッケを三つ載せて食べた。少し胃が重たい。
それでも、余っているメンチカツやコロッケをビニールに入れて持って帰るのが貧乏人の辛いところだ。みんな、みんな、貧乏が悪い、自分は悪くないと思って、翌日もチーズクリームコロッケをほおばって、白米をかきこむ。甘いかぼちゃコロッケはすぐに飽きることがわかったので、もう持って帰らない。
もっとも、だからといってまかないに興味がなくなるかというと、そんなことは全然ないわけで、二度目のバイトの日も、僕は終了一時間前あたりからずっと食事のことを考えていた。余った小皿を大量に食べて、八百円分ぐらい食べてやるぞ。通常の利用で八百円分も食べるなんて不可能に近いんだぞ。そもそも小皿がトレイに載りきらないんだぞ。ブルジョワジーだぞ。
そんな調子だったので、九時前に居座る客に閉店を告げる役も買って出ていた。さあ、早くまかないにありつかせろ。
人が少ないためか、食堂はいつもよりも薄暗く感じた。地下にあるせいか、それとも、経費節減のために弱い蛍光灯を使っているためか。二人でしゃべっている連中が三組、それと一人で本を読んでいるのが――あれ?
「あら、針塚君、ここで働いていたんですね」
ほかに誰もいない八人掛けのテーブルで、会長は読書をされていた。今日は漆黒のワンピースではなく、白いやわらかそうな服だった。布を複雑に折ったようなスカートを着用されている。トレイはなく、コップが置かれているだけなので、食事はほかですませてきたのだろう。セルフサービスなので悪くはない。
「バイトは今日で二度目なんですけどね」
まだまだ、会うのは数回だから、緊張がとれない。女子と二人きりだと、とりあえずアガる。このあたりが高校時代、不遇だったことを物語っている。
「お疲れ様です」
会長の白い手がコップを包む。ああ、あの手でそっと抱きしめられたい。そして会長は言うのだ。「あなたの不安だけでなく、あなたの心のすべてを溶かしてあげます」と。もし、そんなことが起きたら、翌日から一年不幸が続いても構わない。いけない、いけない、破廉恥な妄想を描いていた。
「会長、夜もここ、使うんですか?」
「はい、家からも遠くないですしね」
会長はいったいどんなところにお住まいなのだろう。魔女が出てきそうな洋館に暮らしているイメージなのだけれど。お呼ばれの機会を作れないものだろうか、たとえば、サークルの引き継ぎで聞きたいことがあるとか。でも、何もしないことが信条のサークルで引き継ぐこともないな。
「今日はパパが食事会をしていて、騒がしいもので」
庶民には理解できないような言葉が飛び出してきた。食事会っていったい何だ?
「でも、ここ、本を読むには薄暗くないですか?」
「そうですか? 私にとっては十分ですけれど」
「そういえば、会長にとって闇は味方みたいなものでしたか」
僕の頭には暗い閉め切った部屋にいた会長のイメージが消えていない。
「私だって、本当の闇は嫌いですよ。でも、闇自体に罪はないですし、怖くもないのですけどね」
「どういう意味ですか?」
会った途端、闇について語るサークルって、いったい何なのだろう。会長はゆっくりと小さなバッグに本をしまってから口を開いた。
「闇は過去とつながっているのですよ。濁って、どろどろとした過去と。だから、闇を見ると、昔の嫌なことを思い出してしまうのです。そのせいで、みんな、闇を嫌うのです」
科学的な真理のように会長は言う。
それと、今、気づいたのだが、腕のあたりが透けている。白いふわふわした服はかなり薄いらしい。もちろん、そういう効果を狙ったもので、下に何枚か着ているから、ブラが見えるなんてことはありえないのだが、腕だとしても透けているのは、どうにも気が散って仕方ない。
「闇についてお詳しいのですね」
僕は腕から視線をそらしながら言った。あの腕に抱きしめられたくはあるが、また別の話だ。
「褒められたことではありませんけどね。闇に苦しめられたことがある証拠ですから。だけれど、おかげで闇との付き合い方も学べましたし、悪いことだけではないのかもしれませんね」
僕は自分なりの「どろどろとした過去」を思い出して、ブルーな気分になっていた。明らかにクラスから浮いていたのに、浮いている人という扱いさえしてもらえず、スルーされている。もう、あんな思いは二度としたくない。
会長、僕に力を貸して下さい。
「ああ、ところで」
会長がぱっと表情を明るい笑みに変えた。僕はその変化に心を引きずられるのを感じた。この笑顔を僕は守りたい。そんな僕にできれば惚れていただきたい。
「デザートはどこで選ぶのでしょうか?」
「申し訳ないですが、ラストオーダーは八時半です」
その日の帰り、僕は自分のマンションを通過して、円山公園のほうから八坂神社に入った。妙にそわそわして、すぐに帰宅する気分ではなかったのだ。花見の喧騒ももはやなく、寂しさだけが漂っている。一円玉を財布から出すと僕は社殿の賽銭箱に投げて祈った。僕に幸せを教えて下さい。
「ちなみに昨日も学食の揚げ物でした」
そんな食堂の話を会員相手に語っていた(会長と話した内容は適当にぼかした)。場所はカフェテリア・ルネである。生協の本屋の上の階にあるので、ゆったりと読書にふけることも可能だ。名前ほどオシャレな店内ではなく、基本はただの食堂だが、たしかにパフェなど喫茶系のメニューも多い。少なくとも大学で彼女ができたら、中央食堂よりはルネで食事をするべきだろう。バイト先を悪く言うのはポジショントークのようで嫌だが、地下にある中央食堂は照明も暗く、どことなく盛り下がるのだ。もっとも、ルネでの例会は火曜・金曜の午後六時からなので、さほど太陽の恩恵は受けられない。
今のところ、バイトの話は僕が提供できる唯一の面白そうな話題であり、クラスメイトなどにも執拗に繰り返している。あだ名がコロッケの人になるのも時間の問題かもしれない。でも、コロッケばかり食べているのは誇張ではなく事実です。
「どんな業界でも裏方はのぞいてみないとわからんもんだな」
ヒモ島先輩は自分の人生経験で思うところがあったのか、神妙にうなずいていた。なんとも聞き上手な人だ。ホスト風だが、本当にホスト経験があるのかもしれない。
会長は聞いてるのか考え事をしているのかも定かではなく、ずっと微笑んでいた。あの笑みを自分だけに向けていただけないものだろうか。結婚したら炊事も洗濯もすべてこちらでやるから、ただ笑って、やさしい言葉をかけてほしい。
また、あからさまに会長のほうばかり見ていてキモいので、視線をそらす。
さて、今日の例会の参加者は、会長、ヒモ島先輩、長月さん、勝原さん、中道さん、それと僕である。出席率の高いメンバーはこのあたりだ。男はヒモ島先輩と僕しかいない。どうやら、大村という巨体の人はあまり来ず、「けんどう」というTシャツ一枚の大将という言葉が似合う人はめったに来ないらしい。
「面白かったですよ。掃除の話をライトにしてくれたのも、食事中ですし、よかったです」
これは、僕から見て会長の右、ちょうど対角線に位置するところに座っている長月さんの言。いかにも、そのとおりだと思う。大事な仕事の一つである掃除はほとんど語っていない。排水溝のふたを開けた話を克明に描写したら、サークルの誰かによって、翌日僕は琵琶湖疎水に浮かべられているかもしれない。
長月さんはその日も、ファッション誌の中で見かけてもおかしくないような、見事な着こなしと笑みで場に花を咲かせていた。会長と同じように大人っぽい女性だけれど、あまり動かない会長の代わりに八面六臂の活躍をしていた。誰かのお茶が減ってきたら、いつの間にか新しいものを持ってきてくれる。体育会系ではないとしても、そういうのは一回生の僕や中道さんがやるべきではないだろうか。だが、僕らがそういうことに気づくのは長月さんが席を立つ瞬間ばかりなのだ。
「飲食系のバックヤードはどこもすごいよ。アタシのバイトしてたファミレスもすごかったし」
これは僕のちょうど向かいの勝原さんの言葉だ。いわゆるパンクファッションというのだろうか、髪を茶色に染めて今日も攻撃的な服装をしていた。とくに何か攻撃するつもりも反逆する気もないのだろうが、近づいたら嚙むぞというようなアグレッシブさが服装から表現されていた。別に言動まで反社会的なわけではないが、どう考えても僕みたいなタイプはつまらなく見えるだろうなと考えると申し訳ない。
二回ほど顔を合わせたので、勝原さんのプロフィールもある程度はわかっている。この人は底辺高校を中退して、大検を経て、一浪のあと、この大学に受かったという苦労人だった。「ある日さ、このままじゃアタシ、ヤバイって気づいたの」と、勝原さんはその時の心境の変化を語った。それは、もはや形而上学的な悟りと言ってもいいのかもしれない。なぜなら、その感覚を行動に移せているからだ。僕にそんなパワーはない。無責任な言い方しかできないが、おそらくこれから先、何があってもこの人はたくましく生きていけるのだろう。
勝原さんのせいで、しばらくファミレスのバイトに話題が移った。ヒモ島先輩もファミレスでのバイト経験があるらしい。
「ファミレスは勉強になる。大学じゃ見れない人間をたくさん目撃できる。なつかしいなあ、夜中、店の下の駐車場でたむろしてる連中に文句を言いにいったら、ナイフ出されたこともあったし、高校生ぐらいの髪染めたちゃらい男が、スーツのコワモテのおっちゃんの前で何十回も頭下げてるのを見たし、変な医薬品をネズミ講的に業者が売りつけようとしてるのも、よく見た。騙す側が二人で騙される側の主婦が四人ぐらいかな。複数人にまとめて買わせることで安心させるんだよ。上手くできてると思った」
人間は学校の授業だけでは賢くなれないのだとしみじみと感じた。かつて酔った親父が「人生はサバイバルだ。したたかに生き延びろ」と不自然な日本語を口走っていたが、今ではなんとなく意味がわかる。
「それって、いつごろの話だっけ? 住むところがなくなってたころだから、二年半前?」
こういう話には勝原さんがよく似合う。むしろ、ほかの誰が参戦できるのか。
「そうそう。家賃を払い忘れてたら、カギが閉まって入れなくなってるんだよ。仕方ないから、その日は廊下で寝た。翌日、業者を部屋に呼び出して文句言ったんだけど、言葉だけは丁寧語だけど、もう、どうしようもない野郎でさ、最後は俺、『今月一杯で解約するから出てけ!』って叫んだな。あそこで業者を殴ってたら俺はここにいないかも。住む場所を決めようにも金がないから、一週間ぐらい住所不定の生活だったわ。普通だったら、親に頼るんだろうけどさ、親はこれまたどうしようもないバカ野郎でさ、なかば絶縁状態だったんだよ。俺、健康保険加入してなかったから、風邪も引けなかったんだよね。そんな調子で、金の入るアテもないのに、そのくせタバコだけは買っちまうし、俺も人間のクズになってた。そいで、ふてくされた顔のまま、久しぶりにゼミに顔を出して、家がなくなったって泣きついたら、女の子が部屋を貸してくれたんだよ。家の中ってあんなに温かかったんだなって思った。その子とは半年で別れたけど」
ヒモ島先輩のあだ名の由来がこんなところで明らかとなった。この人たちは平坦な道のりを歩いてはいけない運命でも背負っているのだろうか。
「まずは金を集めないといけないから、夜中にファミレスで働きだしたんだけど、完全に昼夜逆転で講義どころじゃないし。ほんと、三日おきに自殺考えたよ」
「そこで、いっそホストでもやったら人生、変わったかもね」
こういう見た目の人が夜の街を歩いているのはテレビなどの情報で知っている。
「そういう仕事しようかと思ったこともあったけどさ、一回そっちに行ったら、たぶんそっち側から戻ってこれなくなるだろ。浮かぼうとしているのか、沈もうとしているのかもわからないままの片道切符は気持ち悪くてさ。とにかく、仕事、職だよ、職。あと、食べるほうの食。二つの『しょく』がどうにかなれば、人間は生きていけるんだよ」
ばんばんとヒモ島先輩はテーブルの本を叩いた。すべて、就活関係の本である。それで、元の話題が「仕事」であったことを思い出した。そういえば、このサークルはほとんど四回生で、就職活動はまさにホットトピックなのだ。
ちなみにヒモ島先輩と長月さんが就活中なのは知っている。勝原さんは院に進学するのでどうでもいいらしい。そうでなければ今の時期に髪を染めたりはしないだろう。もっとも、就活のためなんていう理由だけで髪を黒くする勝原さんというのは、どこか残念な気もするし、ちょうどいい。かぶく人間はとことんかぶいてほしいと願うのが一般人の心情である。なお、僕が少しだけ染めてみた髪はすでに黒に戻している。背伸びは疲れた。人間は自然体が一番なのだ。添加物はよくない。
だが、就活トークばかりなのは考えものだった。どういう展開になっても、気分がダウナー系になる。やはりというか、サークルが四回生だらけなのは問題がある。いずれ、自分も他人事ではなくなるのだろうが、今は忘れていたい。楽しい大学生活はどこへ行ったのか。あるいはそんなものは幻想なのだろうか。
ヒモ島先輩をはさんで奥の中道さんにも聞いてみたかったが、若干青い顔をしていた。ヒモ島先輩の話にショックを受けて、まだ立ち直っていないらしい。
「すごいですね、みなさん」
笑顔は笑顔なのだが、賞賛なのか皮肉なのか読みきれない声で、中道さんは言った。漫才で爆笑した時のような顔をするわけにもいかないだろう。きっと彼女ももっと平和なサークルを求めていたはずで、あまりどぎつい話は胸に悪いはずだ。
各人がヒモ島先輩の言葉によって、将来を考えだしたのか、話題が一度途切れた。それを復元するように、会長が口を開く。
「デザートに、ヨーグルトパフェをとってきますね」
場の空気がぐにゃりとだれた。
「会長は気楽でいいよな」
ヒモ島先輩が、腕を縦に伸ばしながら言った。いわゆる「のびをしている」姿勢だ。決して腕の長さを誇示しているわけではないだろう。そんなヒモ島先輩のこともかまわずに、会長は席を立った。
「別にいいんじゃない? 命をとられるわけじゃないんだし」
勝原さんも疲れた声だ。ここが喫煙スペースだったら、口から紫煙が出ていただろうというようなため息だった。
会長は楽しそうに喫茶コーナーでパフェが出るのを待っている。甘いものが好きな魔女というのもいいのではないだろうか。カエルやヤモリをばりぼり食べられるよりは確実にいい。三百円前後のパフェなら僕の経済力でもおごってあげられるし、何かにかこつけてプレゼントできないだろうか。
「針塚君って、元気な人よりもとらえどころのない変わった人のほうがタイプなんですか?」
中道さんから突然パスがやってきた。
「恥ずかしながらまともにデートしたことがないんで、恋愛自体がミステリーなんです」
しまった。わざわざそんな弱点まで伝える必要もなかったか。
「針塚君って、真面目でなんだか、かわいいですね」
中道さんは僕の顔を見てくすくすと笑った。どことなく先輩が後輩にするような表情だった。少し侮られているのだろうか。でも、中道さんが僕をいじるのはそれで終わりになった。
「もし、会長が奈良時代の権力者だったら、遷都を繰り返していたでしょうね」
まだ数回しか会っていないが、この子の独特の感性は何に由来しているのだろう。
「そういえば、聖武天皇が遷都した恭仁京ってどこなんだ? 絶対、日本一マイナーな都だろ」
見事にヒモ島先輩が話を拾った。さすが見た目がホストなだけはある。
「奈良から数駅の、JRの加茂駅から歩いていけます」
この表現は実際に歩いていったことがあるらしい。
「本当は、ああいうタイプの人は上に立つのはあまりよくないんですけどね。動乱が起きます」
いつもいつも中道さんからは小動物的な見た目に似合わない物騒な言葉が飛び出てくる。あるいはハムスターだって人間の指を嚙むということか。
「そういえば、中道さん、実家の最寄駅はどこ?」
加茂という駅を知っているということは、奈良やその近辺の人間ではないかと思い、声をかけた。同志が同郷ならこれほど心強いことはない。
「西山公園駅です」
何県だよ、それ。
「急行も停まらない小さな駅です」
僕は、急行も停まらない小さな駅でたたずむ中道さんを想像した。なかなか絵になる風景だった。遠くからデジカメで撮影したい。
いつの間にやら、僕と中道さんの功績なのか、就職の話は途切れてしまっていた。
よし、ここはこのまま話題をそらしてしまおう。
一回生の冒頭から就職活動について議論するのは嫌だ。もちろん進路の大多数を占める就職を考えないのもよくないが、ここまでいくと大学が学問をするところだという本来のありかたを愚弄しているような気さえする。こういったところで、話術も磨かれるというものだ。
「あ、そういえば、靴を買わないといけないんでした。もう、ストックがないんですよね。ははは」
言ってから、なんだこれはと思った。いくらなんでも唐突すぎる。こんなことで話題が切り替わるわけないだろう。実際、勝原さんが、冷たい顔でこっちを見ている。なんでそんなことを言い出したんだ、こいつ、という顔だ。僕だって反対の立場なら顔に出さないとしても似た感想を抱く。サーフィン談義中においしいワラビの取り方を説明するようなものだ。
「君って、けんどうみたいなタイプ?」
勝原さんが低血圧の人の寝起きみたいな目で言った。けんどうというのはこの場に来ていない先輩の名前だが、状況からして褒められているのではないだろう。かといって、「けんどうなんかと一緒にしないで下さい!」とキレるわけにもいかない。けんどうって人とは一回しか会ったことがないうえに、どんな漢字を書くかすらわからないのだからこきおろすわけにはいかない。となると、僕は頭の悪そうな半笑いを浮かべて、その場をやり過ごそうとするしかないわけで、そういうダメな日本人の典型のような態度が勝原さんの最も軽蔑して蛇蝎のごとく忌み嫌うものであるということも、だいたいわかるのだった。つまり、どうしようもない!
ここで話題が収束するのはまずい。常連のサークルメンバーから愚鈍の烙印を押されたまま毎回出席できるほど僕は面の皮は厚くないのだ。非常事態宣言と言っていい。自分の話が続いているという前提で言葉を継ぎ足すしかない。どうにか、全員に乗ってもらわないと、僕は鴨川に飛びこむしかなくなる。
「いやあ、靴だけじゃなくてですね、なかば着の身着のままで下宿に来たもので、衣類が足りてないんですよね。男ばっかりの高校にいたら、そういう感覚がまるでなくてですね。本当に、高校は試験に出る教科だけでなく、ファッションだとか冠婚葬祭のマナーだとか、日常に必要な知識を学ばせるべきですよ。いや、ほんとに」
誰も乗ってこない。原因はわかっている。しょうもない、拾いづらい話をしてしまったせいだ。関わった時点で自分まで寒くなるような話題の提供をしてしまった。これでは、負けを取り返そうとして、さらにパチンコで負けるのと同じ状況ではないか。もう、誰かの慈悲にすがるしかない。僕はすがるように目を泳がせた。中道さん、一回生の片割れの君の出番だ。リリーフをしてくれ! 僕の岩瀬になってくれ!
だが、助け船は違うところからやってきた。
「じゃあ、一緒にお買い物しませんか?」
長月冴子さんが社交辞令にしては見事すぎる笑顔で僕に言った。
ええと、これはどうしたらいいんだろう。「はい、喜んで!」とか、どこかの居酒屋チェーンの店員のように受け答えしていいのだろうか。
「ほら、バイトのお金も入るんでしょう。そのお金を服代にあてればいいじゃないですか」
もし、小学一年生の時などに、こんな先生に受け持ってもらえたら、人生になんらかの影響をおよぼすに違いないだろう。僕は初めて、長月さんをじっくりと見た。色白でもち肌で、肉感的というか、むちむちしていた。胸も大きくて、なんというか、グラビア体形だった。これが現役大学生の実力というものなのだろうか。
でも、だからこそ、話がうますぎる気がする。これは京都人が「近くに寄ったら来て下さいね」と言ってるようなものではないのか。本当に一緒に行きましょうとか言ったら、陰で「社交辞令も理解できないバカですよ。世の中生きづらくなりましたね」「サークルに来れなくなるように遠まわしにシカトするか」「でも、空気が読めないんだから無駄ですよ」などと言われる破目になるのではないだろうか。
だって、ほかに参加者がいなかったら、二人きりのデートということになってしまうぞ。三十分、老人の戦時中の話を聞かされるのとわけが違う。向こうにとったら一日がまるまるつぶれるのだ。慎重になれ。四月の段階で勘違い君だと思われたら、最悪だぞ。
「仏教系の高校だったので、ファッションセンスが壊滅的にないので……」
まずは様子見だ。すぐに参加の可否の話はしない。強引に仏教系の高校に罪を押しつけて、ダメさをアピールした。もちろん、宗教の問題ではないし、宗派の問題でもない。浄土宗よりは真言宗のほうがファッションセンスがあるみたいなコンセンサスは仏教界にはない。
「じゃあ、ワタシが見つくろいましょうか。予算さえ教えてもらえれば、三条と四条の間を数軒まわれば十分だと思いますよ。ユニクロでも、ちゃんとコーディネートさえできれば、まともに見えますし」
なんということだ、何度、ビルから飛び降りてもそこにはセーフティーネットが張られているではないか。長月さんは男とどこかに行くからデートになるんだとか、そんな発想はないのかもしれない。むしろ、高校時代にあまりにも男だけの世界で生きてきた僕が怯えすぎなのか? よし、この蜘蛛の糸で僕はどこまでものぼってやろう。
ちなみに、これは一緒に服を見るだけであって、恋愛関係はない。だから会長への裏切りなどでもない。
「ありがとうございます」
笑顔で、かといってキモくならないようにニヤケすぎず、僕は言った。
「ヨーグルトパフェを買ってきました」
心底楽しそうに会長がパフェを持って帰ってきた。
そして、約束の土曜日、午前十時。僕は三十分前に待ち合わせ場所の三条河原町の商店街に来ていた。待ち合わせの定番なのか、ほかにも携帯を持って連絡をしている女性がいた。あるいは横のジャンカラに入るかどうかの相談なのかもしれない。
時間を持てあましてしまったが、三十分のために喫茶店に入ったりするのももったいないし、新書を開く。経済問題についていろいろと書いてあるが、頭には入らない。文学部だからだろうか。途中からそばで世界平和を訴える団体らしき人が演説を始めたので、余計に頭に入らなかった。しかし、今の僕の恰好はアリなのだろうか。あまりにも暑いので、Tシャツの上から一枚はおっているだけなのだが、大丈夫なのだろうか。鼻毛は絶対に出ていないはずだが、それは加点される対象ではない。
「あ、待たせちゃいましたか? ごめんね」
待ち合わせ時刻の五分前に長月さんは来た。服装を描写する能力が僕にはないが、やはり素晴らしいと言うしかない。
「さて、ちなみにご予算はどれくらいでしたっけ?」
「諭吉二人です」
本当はもう少し財布に入れていたが、使い切る前提で服を買われると、後々の生活水準が下がるので、二万ということにしておいた。
「では、ユニクロから行きましょうか」
長月さんは河原町通を南下していく。まだ一月しか経っていないせいもあって京都の地理は、観光客より疎いレベルだ。おのぼりさん感覚でついていく。
結局、ユニクロで八千円ほど使った。
「そうですね、そのデニムと合うのは、このあたりですかね。あと、靴も計算に入れて下さいね。スニーカーに似合うパンツと似合わないパンツがありますから。むしろ、靴から考えていけばいいかもしれないですね。一つ目のマスが埋まると、次のマスも埋まっていって、全部決まるって感じです」
おそらく、ありきたりにもほどがあるだろうことを、長月さんはビギナーに楽しくわかりやすく教えて下さった。本当に天使だろうか、耶蘇教に改宗するべきか、僕は真剣に考えそうになった。
「長月さんのような人でも、ユニクロって使うんですね……」
教わる側が言葉少なになるのは仕方ない。知識がないから、ろくに話せないのだ。
「大学生が全部高いもので固めるのは大変ですから。そういう場合は、一点だけアクセントになるようなものにいいものを買ったりするんですよ。そこを目立たせればいいわけですから」
ファッションの世界もほかの世界に共通する戦略が見え隠れしているようだ。来世でモードを発信する立場にでもなった時に参考にしよう。
「まあ、全身を高いもので揃えている理沙ちゃんみたいな人もいますけどね」
「理沙ちゃんって誰ですか? ああ、勝原さんか」
勝原さんの雰囲気だと、表記的にはLISAあたりがしっくりとくる。
あの服は高いのか。僕には強そうという感想にしか結びついていなかった。RPGの鎧ではあるまいし、まさか強そうなものほど高いということはないと思うが。やはり、僕には見えない識別記号が、アトリビュートのようなものが存在していて、わかる人間には価値判断ができるということなのだろうか。
ひとまず、今よりは確実にかっこよくなるものを入手できた。レベルが低いうちはレベルもすぐにあがるのだ。
ユニクロが終わった時点では僕らの旅はまだ始まったばかりだった。店名がよくわからないお店を何軒かまわった。中には長月さんの服のための店ももちろん入っているので、そういうところで待たされるのは独特のプレッシャーがあったが、一方で彼女を待っている彼氏的な目で見られたいという、仏教系の学校を卒業したとは思えないような虚栄心もあり、まんざらでもなかった。
その後、河原町通の東側に移った。こちらには無印良品があった。同じビルにジュンク堂が入っていたので、新刊の文庫を買ってみた。本の話題なら、まだ自分に分があるかもと思ってのことだが、とくに話題として広がらなかった。かといって、音楽の話題はできるほど、詳しくないし、どうしようもない。
「けっこう、いい時間になりましたね。どこかでご飯を食べましょう。いいパスタのお店があるんですよ」
僕たちは商店街から少し西のほうに入っていった。そこにいかにもしゃれた感じの店舗があった。自分一人で歩いていたら、永久に目に入らない店だった。どう安く見積もっても千五百円を超えてしまうのだが、そこは諦めるしかないだろう。
「それじゃあ、無事に買い物ができたことを祝して乾杯」
長月さんが水の入ったグラスを僕のグラスにこつんとぶつけた。口には出さなかったが僕はものすごく感動していた。筆で礼状でも書かないと割にあわないほどだった。はっきり言って僕のような取るに足らぬ存在に長月さんのような人が時間を割くメリットなど何もないのだ。なのに、まったく厭わずについてきてくれる、これでありがとうと思わなければ人ではない。
「どうですか、観察会に入って」
長月さんのアサリのスパゲティ、僕のルッコラという何か(ピッコロの親戚だろうか)が入ったスパゲティが来たところで、長月さんがそんなことを聞いた。最初は、上手く漢字変換できず、「監察界」なんかに就職しただろうかと思ってしまった。もちろん、所属するサークルの名前だ。
「長月さんみたいな人に出会えただけでも、最高ですよ」
「リップサービスはしなくていいですよ」
巧言令色ではなく事実。今の僕はある意味、大学デビューをしっかりと果たせている。しかもまだ四月なのだ。ここまでスピーディーな結果が出せるだなんて、神すら予想していなかったのではないか。
「ちなみに、会長さんやほかのメンバーはどうですか? 会長も理沙ちゃんもアクが強いから。ヒモ島君も言いたいこと言うタイプだけど、すごくいい人です」
勝原さんはまだ少し怖いです、と心の声で発言。
「ええ、みんないい人だってことぐらいは、わかります。会長もなんていうのか、ミステリアスで」
これも口に出しては言えないが、こんな変なサークルでまともな出会いがあるだなんて、まともに信じてなかった。美しさにも階級というものがあり、自分のいるようなところに、長月さんのような人がいるとは考えもしていなかった。
冴えない男のいるところに可憐な少女がたくさんいるというのは、武田君がやっていたようなゲームの世界だけのことであり、現実は甘くないのだぞと自分を戒めていた。むしろ、武田君のやっていたようなゲームは男の容姿がどう見てもそれなりにイケメンなのであり、ゲームだろうがどこだろうが容姿に恵まれている者がモテるという普遍的事実があるのみだ。武田君があんなに恰好いいわけがないのだが、武田君は主人公と自分を正しく自己同一化できたのだろうか。もちろん、武田君だけの問題ではなく、僕にとっても彼女なんてものをどうやって獲得するのかというのは大学に合格するよりはるかに難しい壁だった。
なのに、この幸運はどうだろう。美しさの階級で考えれば勝原さんも会長もみなブルジョワジーだ。もし、違う世界に無理してテニサーに入っている自分がいたら、バカにしているところだ。「遠くを見て近くを見落とす人間は搾取され続けるのだよ」などと言ってやったかもしれない。
「そうですか。本当によかったです。やっぱり、常識がちょっとずつずれているサークルですから」
常識人の長月さんが言うと説得力があった。スパゲティもさすが四桁という味だったし、満足して僕らは店を出た。
しかし、幸せというのは突然に崩れてしまうものなのだ。
店を出て、商店街方面に歩いていると、長月さんが学生らしき男に呼び止められた。
「おい、冴子、その男、誰?」
どこか険のある声だった。もしかして、長月さんの彼氏か何かと勘違いされているのだろうか? というか、この男は長月さんの彼氏なのか?
「サークルの一回生の子です。引っ越してきたばかりだから、見つくろってあげていたの」
その説明とユニクロ等の袋で男は納得したのか、二分ほど世間話をして、どこかに行った。僕のほうにまで顔だけは笑って、「これから暑くなるから覚悟したほうがいいよ」なんてことを言った。僕も「ははは、保冷剤を枕に敷いて寝ます」などとしょうもないことを言った。
その一件は二分ほどで終わったのだが、嫌な汗をかいていた。軽い修羅場臭みたいなものがあそこにはあった。早く、次の目的地であるボウリングにでも行こう。
しかし、嫌なことはだいたい連なる。ぶっちゃけ、長月さんと二人きりでいたいので、どんな他者との遭遇も楽しくないのだが、とくに面倒な手合いが来た。
長月さんがトイレに行くといって、席を外したところだった。二つ横のレーンで投げていた、これまた大学生ふうの男が声をかけてきた。
「君も苦労するよ。俺はもう、どうでもいいけどね」
妙な上から目線に僕はいらっとして「どなたでしょうか?」と尋ねた。
「ある意味、元カレと言えなくもない存在。いや、元カレなのかな?」
奥歯に物のはさまったような言い方で、男はあっさり去っていった。絡む気もないらしい。せめて、元カレなのかどうなのかはっきりさせてほしい。
元カレと会っていない長月さんはまったく表情を変えずに僕のところまで戻ってきた。
「お待たせしました」
「いえ、ちっとも待っていませんよ」
その笑顔を僕は信じている。
次に、僕らはサーティワンアイスクリームに寄って時間をつぶした。つぶすからには、その後にも予定があるということだ。ボウリングの最中に、「夜もどこかで食べましょうか」と長月さんが提案してきたのだ。これで断ったら、阿呆と言ってやる。
「酔っちゃうかもしれませんが、心配しないで下さいね」
むしろ、酔った長月さんが見たいですとは言えなかった。
お店はいわゆる先斗町と呼ばれている、鴨川の少し西側の狭い通りの「創作京おばんざい」のお店だった。座敷席がいくつかあるだけの小さなお店だ。ちょっとしたおかずに七百とか八百とかいう数字がついていて、ぎょっとした。学生食堂でこんな値段のものを並べたら暴動が起こるぞ。
「飲み物はそうですね、烏龍茶を……」
「あれ、お酒を頼まないのですか?」
お酒まで飲んでいけば、財布が死ぬとは言えなかった。むしろ、こんなお店を平気で使うなんて、よほど長月さんはふところが温かいのだろうか。店のランクが気の合った男と入る時ぐらいしかありえないレベルだと思うのだが。さすがに自分が男として見られているなどと勘違いするほど愚かではない。おそらく、親の年収が倍ぐらい違うのだろう。
「針塚君って真面目そうな人だと思っていましたけど、一日過ごして、ワタシの目に間違いないことがわかりました」
「褒め殺しはやめて下さいよ」
長月さんは日本酒をゆっくりと飲んでいく。顔も少し赤いし、酔いに強いほうではないのだろう。その仕草がいちいち色っぽいので、肉じゃがの味がよくわからない。学食で消費する額の倍以上するというのに。
「謙遜はしなくていいですよ。針塚君なら、このサークルのこともいろいろと任せられるなと思います」
酔っても長月さんの人のよさは変わらなかった。この人は性善説で生きているのだろう。とても恵まれた環境で育ってきたから、人間はみな自分のように心がきれいだと信じているのだろう。現代日本にもこんなダイヤよりまぶしい魂を持った女性が生きているのだ。世の中捨てたものじゃない。正義の味方はこういった人たちを守るために日夜戦っているのだろう。
そこから先も長月さんは僕のことをやたらと評価してくれた。これはドッキリではないかと疑いだしたほどだ。すべてが自分に都合よくまわりすぎていて、気味が悪いのだ。
そして、自分本位の流れは来るところまで来た。
「あの、針塚君、付き合っている人いますか?」
いくら、恋の場数を踏んだことのない自分でも、それが「付き合いたい」という意味に変換できることぐらいはわかった。
「付き合っている人なんて、いるわけないです」
声が我ながら恥ずかしいほどにふるえていた。
「それじゃあ、付き合ってもらいたい人がいるんだけど」
これは夢だと僕は断定してもいい。この僕が告白されるわけがない。まして、数回会った程度の女性に告白されるわけがない。これで、「大学デビュー来た! よしっ!」という反応はできない。彼女の目がとろんとしているのも、酒のせいでしかない。
「少し、お待ちいただけますか?」
座敷の隅で、過呼吸気味の息を整えた。ここで、飾ることもなく「付き合いましょうか」と言えるように、僕もいつの日かなれるのだろうか。とにかく、断るということはありえないのだ。自信なさそうに「僕、付き合った経験もないんですけど」などと言っておけば、後は先輩が優しく導いてくれるさ。阿弥陀浄土へ導いてくれるさ。
だが、僕は会長のことが気になっていたのではないのか? ほかの人と付き合えるから、そっちにしますってまるで信念なき政治ではないか。でも、とくに会長に脈があるわけでもないし……。
三分ほど沈思黙考していた。心の声を聞かれるわけにはいかないから、黙考するしかなかった。結論は出た。長月さん、お願いします。「僕、付き合った経験もないんですけど」と自信なさそうに言うのだ。そこから先はアドリブで。
体を長月さんのほうに向けながら、口を開く。
「僕、付き合った経験――」
すべて言い終わる前に長月さんの様子がおかしいことに気づいた。
どうも、頭が下がりすぎている。何かあったのだろうかと顔を近づけてみると、寝息が聞こえてきた。なんのことはない。この三分の間におねむになられたのだ。お酒も進んでいたし、おかしくはない。問題はここからの処置である。
ここは家まで連れて帰ってあげないといけないのだろうか? 少なくとも、このままほったらかして帰るわけにはいかない。しかし、起こして家の場所を聞き出してもいいのだろうか。かといって、自分の部屋に連れていくのは、ありえなかろう。でも、僕は彼氏になるのだから、これぐらいのことは……。もしや、酔っても心配しなくていいというのは――好きなようにしていいということか?
人相が変わるほどに悩んだ。こんなに真面目になったことは人生で一度たりとてなかった。何万人の命を預かる指揮官になった気分だった。だが、苦悶の表情を浮かべるような悩みではない。むしろ、静かな興奮がさざめいている。これが青春なのか? 今、自分は青春と密着しているのか?
財布の中を見て、覚悟を決めた。残った福沢諭吉で勘定を済ませ、広い通りまで出て、タクシーを拾おう。通りまで出る時点で、長月さんは目を覚ましているだろうから、行き先はその時に決めればいい。長月さんの家か、僕の家か。大きな出費だが、なあに、これぐらい、自分の生涯年収に比べればたいしたことはない!
でも、嫌なことは、続くんだよ、これが。
そこに、僕の帰りを促すような、店の引き戸が開く音がした。背が高く、髪が短い、いかにもスポーツの得意そうな学生風の男だった。つまり、僕とはあまり接点のない人種だ。どうせ彼女を連れてきての来店だろうと思ったが、後ろからは誰も入ってこない。まさか、生意気にも常連さんなのか? しかし、今日の僕は負けた気などしない。これから長月さんと帰るのだ。元カレ以外はどんな人が来てもかまわない。
「また、寝ちゃってるのか、冴子のやつ」
最初、それが長月さんの下の名前だと認識できなかった。認識できた時点ですべてが終わった。
「ごめんな。冴子のやつ、酒を飲むとすぐに寝るんだわ。後は彼氏の俺が面倒見るから」
自称彼氏は、おそれおおくも長月さんの背中をゆすぶった。重い頭をあげた長月さんは、「ごめん。飲みすぎちゃった」と言った。書割にすぎなかった板前さんまで、「また彼女おねむになっちゃったね。彼氏も大変だ」と言う。なんでも、ここで食事をする時はいつも彼氏が迎えに来るらしい。
その後から今度は屈託ない顔をした同世代の男性と女性が追加で入ってきた。女性のほうは「あらあら、冴子ちゃん、また寝ちゃったんだ」と、これまた世界に自分の敵なんているわけないだろうという高い声で言った。ああ、いわゆる自分たちとは住む世界の違う人々だ。どうして、この人たちはこんなにも自信を持って生きていけるのだろう。祝福して下さる神様がじかに見えるのだろうか? 僕にはわからない。きっと、一生わからない。
「あの、すみません」僕は彼氏に一つだけ聞いた。「付き合ってと言われたことあります?」
「正式にはないけど、それなりにラブラブ」
僕はそれなりにお金を置いて帰るしかなかった。
酔っても心配するなってこういうことだったんですね、長月さん。事前にメールを送っていらっしゃったわけですね。
それじゃあ、付き合ってもらいたい相手って、誰のことなんですか――そんなことを言える空気でもないので、鴨川河川敷をふらつきながら歩いた。意外と寒かった。
だがな、「彼氏」よ、あまり調子に乗るなよ。
長月さんは、お前のことを友達としか認識してないかもしれないぞ。
一日、長月さんと一緒にいてわかった。
長月さんは恋多き女性なのだ。むしろ、恋など意識せずに男と出歩いてしまう人間なのだ。だから、自称元カレが出てくるというわけだ。そういう人は、たしかにたまにいる。
お前もそのうち、あの自称「元カレ」になってしまう。覚悟しておけ。
ところで、夜風に吹かれながらこう自問自答してしまった。
僕のあの不安と興奮は何だったのだろう。