エレGY

CHAPTER 1-8『碁会所』

泉 和良 Illustration/huke

「最前線」のフィクションズ。破天荒に加速する“運命の恋”を天性のリズム感で瑞々しく描ききった泉和良の記念碑的デビュー作が、hukeの絵筆による唯一無二の色彩とともに「最前線」に堂々登場! 「最前線」のフィクションズページにて“期間無制限”で“完全公開中”!

8『碁会所』

バイトを始めて二日目の昼、僕は碁会所に向かった。

碁会所は、大井町駅から歩いてすぐの、古いビルの二階にあった。

暗い階段を昇って、開き放しにされた入り口を通り、店内に入った。

煙草たばこの匂いと、碁石を洗った洗剤の匂いが混じって漂っている。

「お、いらっしゃい、ああそうだ、今日はレッスンだったか」

椅子いすに乗った初老の男性が部屋の奥から現れ、愉快ゆかいそうな顔をして言った。

彼はこの碁会所の席亭せきていである。

僕は彼から週に一回、指導碁のレッスンを受けており、彼の事を先生と呼んでいた。

お客はまだ誰も居なかった。

壁に掛かった時計はまだ一時を指している。

お爺さん連中がやってくるのはもう少しってからだ。

時計の隣には、日本棋院きいんより発行された六段の免状と、アコースティックギターが飾られている。どちらも古くほこりをかぶっていた。

先生は若い頃はミュージシャンだったそうだ。フォークブームの頃にバンドとしてデビューし、三十歳の時に引退してこの碁会所を開いたらしい。そのせいか、喋る言葉もユーモアと知性に溢れ、他の大人達とはどこか違って見える。

数ヵ月前、僕が初めてこの碁会所に来た時も、先生は同じように車椅子で部屋の奥から現れた。

「どれくらい打つの?」

生まれて初めて碁会所という未知の場所を訪れ、極度に緊張していた僕は「ま、まだ碁盤で打った事がないんです、ルール覚えてまだ浅くて、ネットで打ったりしてます」とおどおどしながら答えた。

「高校生かい?」

「い、いえ、もう大学も卒業してて

「ああ、じゃあもう社会人かっ。仕事は何してるの?」

「無職です

「あははは、じゃあ金ないな。月謝安くしてあげるから、ここでやってる子供教室に通いなさい」

そうして僕はこの碁会所に通うようになった。

二十代の年齢で碁会所に通う人はほとんどいない。

僕は珍しがられて、先生をはじめ、先生の奥さんや碁打ち仲間のお爺さん達など、大勢の人によくしてもらっていた。

僕は先生と向かい合って席についた。

碁盤の上から黒石の入った碁笥ごけを手前におろす。

指導碁で僕が先生にハンデとして置かせてもらう置石は三つ。ここに来て間もない頃は九つだった。その数が少ないほど、僕と先生の実力差が縮まっている事を意味する。

「お願いします」

対局が始まった。

レッスンは二時間ほどで終わった。

その頃には、お爺さん連中も現れ、店内で対局し合っていた。

お茶を飲みながら、お爺さん達の対局を横から覗いていると、上着のポケットの中で携帯がブルルルと振動した。

エレGYからのメールだった。

『じすさん、今日も遊べにゃいんですか? どうなんですか? どうなんだ! おい! 答えろ! 殺すぞー!』

殺されては困るので、返事を書く。

エレGYと会った日から、似たようなメールを二度もらった。

しかし、自分の気持ちをまだ落ち着かせられずにいる僕は、二度とも断った。

『今日は碁会所にいるからだめさ』と打って送信。

これで三度目。気がとがめた。

複雑な感情が僕を悩ませていた。

彼女には魅力的な要素が多い。

強烈無比な性格の上、美人だ。

会えば自分の気持ちが揺らいでしまいそうで怖かった。

彼女はただのファンだ。

それ以上ではない。

僕のことなど何も知らない。

ネット上のジスカルドを見て、幻想を抱いているに過ぎない。

今はまだ、僕をジスカルドと同一視しているだろう。

だが、「リアルの泉和良はジスカルドとは違う」と、彼女もいつかは気付く。そうなれば彼女は僕に失望し、去っていくに違いないのだ。

だから、ファン以上の関係を求めてはいけない。

距離を置くべきだ。

彼女に気持ちがかたむかないようにしなくては

再び会うにしても、もっと冷静になってからの方が安全だ。

僕はそう自分を納得させた。

「兄ちゃん、打つかい?」

お爺さんの一人が僕に声をかけた。見覚えの無い顔だった。頭もひげ白髪しらがだらけの、背の低い優しそうなお爺さんだ。

夕方からの郵便局のバイトにはまだ時間がある。

「はい、打ちます」と答えた。

「兄ちゃん、どんくらいじゃ?」

「えーと、二段くらいです」

「強いのうっ。わしが黒で、センでもいいかい?」

「はい」

『先』とは、ハンデなしで先に打つ事を言う。

囲碁は一手ずつ交互に打つため、先に打つ方が若干有利となる。

そこで通常は、後から打つ側に、最初から六目半の持ち点を与えて、平等な対局とする。

ところが、これが『先』になると、両者共に零点のままスタートする。

当然、後から打つ側は不利になるのだが、対局相手が自分よりほんの少し強い場合などには、この『先』で丁度良くなる。

囲碁は先に打つ方が黒石を持つので、お爺さんが黒番。『先』であるため、白番の僕が不利。

つまり僕が二段なら、このお爺さんは初段くらいだと予想できる。

「お願いします」と、しわがれた声でお爺さんが言った。

僕も挨拶あいさつを返す。

お爺さんは、一手目を右下の星に打った。謙虚さの表れる初手しょてだ。

右上隅から打つのが多いのだが、右下隅は、打つ者にとって最も近い場所になる。逆に言えば、相手にとって最も遠い場所。そうした初手は、謙虚さや警戒心を感じさせる。

反対に、これが敵意き出しなら、左上隅から打つ。左上隅とは、相手にとっての右下隅つまり相手に最も近い場所だ。相手の懐へいきなり初手を打てば、敵意もしくは、やる気満々と受けとめられる。

お爺さんにならい、僕も手前隅の星に打った。

三手目・黒番。お爺さんは、右下の星から大ゲイマの位置へシマリ。右下隅の陣地を囲う手。

星から大ゲイマへと、すぐにシマる手は珍しい。を囲うにはやや中途半端で、中央の戦いに対してもシマリが消極的となる。

四手目・白番。僕は、手前のもう一方の隅の星に打った。

すると、五手目で黒は、その白の石にすぐにカカってきた。

地を囲うかと思えば、五手目で空き隅を残したまま突然のカカリ。初手からは一転し、鋭い気迫を感じた。

変わった布石を見て、このお爺さんと以前に対局した事があるのを思い出した。

改めて顔を見たが、なんとなく記憶にあるような無いような。しかしその後の手を見ても、石筋には確かに憶えがあった。

碁会所には毎日大勢のお爺さんが来るし、同じような格好の人が多いので、なかなか見分けも付きにくい。

だがこうして対局すれば、石の流れが全てを教えてくれる。

相手がどんな人なのか、前に打った事がある人なのか

対局は中盤で唐突に終わった。

お爺さんがポカをし、大石の死活が問題になる難しい戦いが発生した。それ以前に争っていた箇所との絡みとなり、数手で局面が破綻はたんする。

お爺さんは、自分の取り皿の中の石をジャラジャラと盤上に落とした。それは投了の合図だ。

囲碁は実力差がはっきりする苛酷なゲームである。スポーツのように体力を必要とはせず、年齢や性別に関係なく誰にでも真剣勝負が可能ではあるが、その分勝敗には有無を言わさぬ厳しさが伴う。だれにも対等に勝負ができるということは、大人が子供に負けることもあるし、図体の大きな男がかよわそうな女の子に打ちのめされることもある。そしてその結果は対局者の力関係を容赦なく明確にさせてしまうのだ。

このお爺さんは、七十歳はありそうな風貌だったが、半世紀近くも年下の僕に「ありがとうございました。また教えて下さい」と礼儀正しく言った。

見ると、対局中の気迫からは想像もつかないようなほぐれた笑顔で、にっこりと僕の顔を見ていた。

神経が極限まで研ぎ澄まされた後の、対局直後のこの感じが好きだ。

まるで今まで別の空間にいたような気がする。

終わってみれば、命懸けの激闘を繰り広げた相手は、すぐ目の前に座っていて、ほがらかに微笑んでいる。

僕はかしこまって「こちらこそありがとうございました。また打って下さい」と頭を下げた。

その後も、何人かのお爺さん達と対局した。

時計が五時をまわって、一区切りがついた。

今からここを出れば、六時からの郵便局のバイトに間に合うだろう。

先生やお爺さん達に挨拶をして、店内から出た。

ビルの下へ降りる階段は、夕方のせいで来た時よりも暗くなっていた。

足元を確認しながら降りて行くと、オレンジの反射光が下方からしてくる。外は夕焼けだ。

出口が見えると同時に、女の子の足が見えた。黒いソックスを穿いていた。

一段降りるごとにフレームが上がり、やがて短くした制服のスカートが見えた。薄い臙脂えんじと紺のチェックの入ったスカートが夕方の風に揺られ、そこから夕日を反射して輝く太股が覗いていた。更にフレームが上がると、黒いカーディガンが見えた。胸元にはねずみ色のリボンが垂れ、隙間から中のブラウスの白が見えた。

顔に至る前に、その女の子が誰であるか察しがついた。

相手もそうだったに違いない。

僕が階段を降り切る前に、彼女の方からビルの中へと飛び込んで来た。

「じすさん、いた!」

ビルの外からの逆光で、彼女の顔が薄暗い。そのせいで余計に笑顔が印象的に見えた。

黒髪と赤いマフラーを揺らしながら階段を昇ってきて、僕の右手をつかんだ。

彼女の手は小さくて冷たかった。

手を摑まれただけだというのに、胸奥の琴線きんせんが振動した。

彼女がニヤリとする。

次の瞬間、僕の手は強い力で下へと引っ張られた。

「うわっ」

それを全く予想していなかった僕は、慌てて左手で手すりを摑んだ。

しかし落下の勢いを完全には止める事ができず、僕は彼女の頭の上におおいかぶさるように倒れこんだ。

「きゃっ」と言って彼女は僕の体を受け止めた。

冷や汗が出た。

そのまま止まらなかったら、彼女もろとも数段下へ落下していた所だ。

手すりを取った左腕に全力を込め、なんとか彼女への負担を軽くしようとする。

「あははは、じすさん、落ちろおおおーーー!!」

「おい、ちょ、まっ」

僕の左腕の努力は虚しく散った。

彼女は僕の体を鷲摑わしづかみにすると、自ら階段の下方へと重心をずらしたのだ。

僕の体は彼女の腕に振られ、彼女の真横を通り過ぎて、ビルの入り口へと落下した。

「うっ」と、うめいて数秒、僕の体の上に更に彼女が落ちてきた。

二度目の「うっ」は、彼女の笑い声でき消された。

彼女の髪の毛が僕のあごのすぐ下にあった。

いい匂いが鼻まで到達する。

僕の体の上で笑い続ける彼女を押しのけ、なんとか立った。

彼女を無理矢理立たせ、ケガをしていないかすぐに確認した。

彼女の手首に、僕が以前貼ったバンソウコウがまだそのままあった。

それ以外に目立った所はなく、胸を撫で下ろす。

「おまえ、殺す気か!」

「怖かったね! あははははは」

「なんでこんな事っ

「あははははははは」

彼女は本気で笑っていた。

怖さと驚きと安堵あんどがごちゃ混ぜになる。

「はは、もう、なんだこいつ、あはは

彼女につられ、僕も笑いが込み上げた。

二人で笑った。

感情が溶けて流れていく。

心の中で、再度凍結。笑うのを止めた。

冷静さを失うな、泉和良。

彼女が求めているものはジスカルドであって、おまえではない。

ごめんなさい、探してみたら碁会所が見つかったの」

僕の表情の変化に気付いたらしく、彼女は笑うのを止めてそう言った。

「え、い、いや、いいんだよ。痛っ」

見ると、左手のてのひらを大きくりむいていた。ひじもだ。

「わ、傷。じすさん、バンソウコウまだある?」

「え、あー、ポケットにある」

取り出すと、彼女はさっと僕の手からそれを奪った。

「砂落として。貼ってあげるね」

言われたとおり砂を払い落とすと、血が一斉ににじみ出てきた。

彼女は、その上に何枚ものバンソウコウを覆いかぶせていく。

接近した彼女の横顔を見て、長い睫毛まつげにうっとりした。睫毛は彼女が視線を動かす度、ミツバチの羽のように小刻みに揺れた。

掌から側面にかけて、バンソウコウのよろいが完成した。

「あれ? 泣かないの?」と、彼女は首をかしげ、いたずらっぽく微笑んで言った。

大きな目がぱちりと瞬いた。黒く深い瞳にはオレンジの光点があった。

彼女の可愛かわいげなしぐさや、挙動一つ一つが耐えられない。

心の中の鍵を掛ける端から、錠が弾け飛んでいくようだ。

僕は彼女の顔を見ないように下を向き、ビル前に止めてあった自転車の所へ数歩移動。

黙ってガードレールと自転車を結んであった鍵を外した。

「今から、バイトなんだよ。じゃあな」

「えっ、バイト?」

目を見開いてぼんやりと聞き返す彼女を無視し、自転車を走らせた。

バンソウコウの箱を渡したままだと気付くがもう遅い。

後ろを振り向くと、彼女が手を振っていた。

手を振るなと自分に言い聞かせたが、バンソウコウを貼られて買収された左手は、僕の命令などききもしなかった。

当然、郵便局のバイトは遅刻した。