2WEEKS
第2巻 人形使いのペトルーシュカ 第三回
野中美里 Illustration/えいひ
“すべてを支配する女”VS.“オカルト部”——!ネットにアップされた、黒戸(くろと)サツキの超常(ちょうじょう)の身体能力を捉(とら)えた動画が上代雪介(かみしろ・ゆきすけ)ら“オカルト部”を新たなる大事件に巻き込んでゆく——!星海社FICTIONS新人賞から飛び出した俊英・野中美里、満を持しての受賞後第一作!
冷たいオーロラ
「それで、不審者ってどんな人だったんだ?」
「なんていうか、見られている感じがしたんだけど。……よく分からなかった」
「見られてるって、家の中を?」
「……んんー。周囲を?」
「え? 周囲をって、家の周囲を見られている感じなのか?」
「うん、そんな感じ」
電話から二十分後に、黒戸は僕のアパートについていた。話を聞いているけど、なんとなく歯切れが悪い。
「なにか他に分かったことないのか? 黒戸なら足音で人数が分かったり、殺気でどんな人相か知ったりできると思っていたんだけど」
「私は犬じゃないんだけど」
「ごめん。言葉を選ばなかった」
「はぁ……、夏休みなのに」と黒戸は珍しく元気のない顔をしていた。
「そうだよな。黒戸だって夏休みにこんな被害に遭うなんて思ってもいなかっただろうし」
「上代君のアパートに来ることになるなんて」
「なんだその言い方……。夏休み前は普通に来ていたのに。とりあえず明日、岡田さんに電話してみるけど、今日はうちに泊まっていくだろ。みぞれも喜んでいるし。ほら」
みぞれはロフトから降りてきて、プレステを用意しているところだった。
黒戸は「そうさせてもらうね」と言った。それから僕に向かって小さく謝った。
「迷惑かけてごめんね」
「迷惑じゃないよ。ぜんぜん」
「……本当に? 気を遣ってない?」
「てか僕に連絡してくれていなかったら、逆に悲しかった。嬉しいくらいなんだ。黒戸、ありがとう」
黒戸はなにも言わないでテレビ画面に向き直ってしまう。
みぞれが黒戸を見て「ん? 笑ってるの?」と呟いた。
翌日、岡田さんに電話で事情を話すと「私の家においでよ、寝るところもちゃんとあるから!」と明るく言ってくれた。僕のアパートは狭いし、女同士の方が黒戸も気が楽なんだろう。黒戸はすぐに岡田さんの家に向かった。僕のアパートにはいつでも来られるように、合い鍵を渡している。
一人になると、黒戸の言っていた不審者のことが気になりだした。黒戸は視線を感じるとしか言わなかったけど、黒戸に居場所を摑ませないでどこからか見ているなんて、望遠鏡や、まさか監視カメラまではないと思うけど、どこか遠くから見ていたんじゃないだろうか。黒戸は考え過ぎだと言っていたのだけど。
それから三日が経ったころ、岡田さんから家に来るよう電話があった。すぐに準備をしてアパートを出る。みぞれはこの日も起きなかったので、僕は一人で自転車をこいで岡田さんの家に向かった。
インターホンを押すと、岡田さんのお母さんが玄関に出た。この三ヶ月で、僕は岡田さんのお母さんと顔見知りになっている。岡田さんのお母さんは明るくて、僕やみぞれに優しくしてくれた。両親のいない僕らに気を遣って、帰りに料理を持たせてくれることもある。その振る舞いからは家庭内暴力なんて想像ができなかった。
岡田さんの部屋では、黒戸がスエット姿で雑誌を読んでいた。姫髪さんも来ていて、部屋に入ると挨拶のように笑顔でちょこんと頭を下げてくれた。
岡田さんはPCに向かっている。機嫌はひとまず直っているけど、まだ染谷先輩との喧嘩を忘れているわけではないのだと思う。
「あれからまだ、動画サイトは盛り上がったまま?」
そう訊くと、岡田さんはデスクに置いてあるPC画面をこちらに向けた。
「全然落ち着いていないよ。それどころか、どんどん閲覧数伸びてる」
黒戸は深いため息をついた。うんざりしたような黒戸の様子を見て、僕はなにも言えなくなった。その雰囲気を感じてなのか、岡田さんが口を開く。
「なにか大きな事件でも起きれば、みんな忘れるんだろうけど」
たしかにそうかもしれないけど、あまり期待するわけにもいかない。
「もう、家に帰ろうかな」
黒戸がぽつりと言った。
「どうして?」
と岡田さんが心配そうに訊く。
「逃げ回っているのも馬鹿みたいだし」
その言葉に岡田さんは黙ってしまう。僕もなにも言えなかった。
「迷惑もかけているし」
「そんなことないよ、私はぜんぜん構わないよ」
黒戸は首を振った。
「ごめん、帰ってみる」
その口調は断固としたものだった。岡田さんは困ったように黒戸を見て、諦めたように「いつでも来ていいからね」と言った。黒戸はもう嫌なんだ。もともと心配されるのが好きじゃないのだから、今の状況は辛いに違いない。
「そういえば黒戸、おじさんにはなんて言ってあるんだ? 四日間、家空けてるわけだけど」と僕は訊いた。おじさんは最近退院したはずだ。
「なにも言ってない。電話はしたけど」
帰りたいと言ってるのは、黙って出てきたからでもあるのか。
「じゃあ帰った方がいいかもな」
そう言うと、黒戸は小さく頷いた。
僕らは一度その話題から離れることにした。集まった目的は新聞作りをするためでもあったので、僕はバッグから荷物を出して準備を始めた。みんなもそれぞれ必要なものを出していく。僕は岡田さんからPCを借りて、怪談を集めて記事を埋めていった。なにかしている方が落ち着いたし、それはたぶん、黒戸も同じなんだと思う。
六時ごろに、僕らは新聞作りを一区切りさせて岡田さんの家を出た。
歩きで来ていた姫髪さんと玄関で別れ、僕と黒戸は二人で自転車で家路に就いた。
「念のために、僕も黒戸の家までついていくよ」
「来なくていいよ。もしかしたら、まだ見られているかもしれないから」
「だったら尚のこと一緒にいった方がいいだろ」
黒戸はため息をついた。
黒戸の家についたけど、僕には視線も気配もなにも感じられなかった。黒戸もとくに違和感はないらしく、ひとまずはほっとしているみたいだ。自転車を玄関の脇に置いた。
「考え過ぎだったかな。周りには誰もいないみたいだから」
「そうみたいだね。上代君、またね」
「ああ、また」
黒戸が玄関に入ろうとしたところで、背後からの視線を感じた。一気に体が強ばり、同時に男の声がかかった。
「ちょっと待ってくれる」
僕と黒戸が振り返ると、二十代後半の男が立っている。よれたYシャツにスラックスを穿いていて、表情は能面のようで感情が読めなかった。それとたぶん、黒戸も近づかれるまで男がいることに気がついていなかった。
黒戸の睨むような視線を気にすることもなく、男は口元だけ動かして声を出した。
「黒戸サツキさん?」
名前を知られていることに僕は動揺してしまう。黒戸は気にすることなく話した。
「誰だか知らないけど、ずっと家を見てましたよね?」
男は警察手帳を見せて言った。
「県警の加西だ。一緒に来てもらう」
男は千葉県警察に勤める警部補だった。
僕の名前も知っており、ついてくるよう言われた。
任意同行ということになるのだろうけど、僕らは黙ってついていき、用意されていた車に乗った。車種はクラウンだと分かったけど、これは覆面パトカーなんだろうか。普通のパトカーに乗せられるものと思っていたけど……。会ったときからおかしい人だと感じていたけど、この人は本当に警察なんだろうか。
「あの動画のことで、黒戸を連れていくんですか?」運転する男に、僕は訊いた。
「動画ってなんのことだ?」
「いえ、なんでもありません」
「黒戸さんは四日間一体なにしていたんだ? お義父さんに訊いても居場所が分からないなんて、最近の高校生はみんなこうなのか?」
「……それは、すみません」
なんだか普通の言葉を返されてしまい、僕はバックミラー越しに頭を下げた。
「君は最近の高校生にしては礼儀正しい方なのか?」
「は?」
「礼儀は大切だ」
「はあ、どうも」
バックミラーから見える警部補の表情から、感情や目的はなにも読み取れなかった。その警部補の雰囲気に僕は既視感を覚えるけど、それが誰かどうしても思い出せなかった。
車はM市の警察署でとまり、僕らは男に続いて建物に入っていった。
警察署に来るのは初めてだけど、足音にまで神経がとどくような張り詰めた空気があった。こんなに緊張するものなのかと僕は思ってしまう。他の職員は僕らに関心がないようだけど、スエット姿の女子と暗そうな男子を見てどう思っているのだろう。夏休みに家出した少年少女といったところだろうか。
署長室の前で男は立ちどまり、ノックをしてドアを開ける。警部補に指図されて室内に入ったのだけど、内装を見て僕は口を開けてしまった。
床には赤い絨毯が敷かれており、中央奥には署長の使用するであろう木製のデスク、その後ろには大きな本棚がある。壁には賞状が飾られて、棚には盾が置かれていた。その風景には控えめな厳格さを感じるけど、部屋の一角に置かれているソファーとテーブル、模様が光を反射させている絨毯が部屋の雰囲気を変えていた。
重厚な革張りのソファーと、アンティークのような木製のテーブル、宝石でも埋め込まれているようなバタフライ模様の絨毯。その一角だけ宮殿のような調度品が置いてあり、部屋の雰囲気をすごくアンバランスにさせていた。
その革張りのソファーには、外国人の女性が脚を組んで座っていた。外国人の年齢は分かりにくいけど、女性の年齢は二十代後半に見える。腰まで届くロングの金髪で、はっきりとした顔立ちの美人だ。格好はラフな感じで上はタンクトップ、下はレザーパンツ。ロングのライダーシューズを履いている。その女性しか部屋にいないようだけど、警察から特別な待遇を受けていると僕でも一目で分かる……。
女性はテーブルを指で叩く。たぶん僕らもソファーに座れということだ。女性の雰囲気に近寄りがたいものを感じてしまうけど、黒戸が先にソファーへと歩いたことで、僕も女性の向かいに座った。
僕らをここまで連れてきた警部補は、頭を下げて部屋を出ていく。
近くで見ると改めて美人だと思わされる。だけど黒戸以上に目つきが鋭くて、女性と目が合ったときに背筋がひやりとした。真っ暗な洞窟に迷い込んでしまったような心細さを感じる。
ドアが閉まる音がすると、女性は聞いたことのない言葉で話した。
「――ス、ヴァミ――ナコー――ミ――ザヴート、ア――シア」
英語には思えないけど、フランス語とかだろうか。発音がほとんど聞き取れなかった。女性の顔を見るかぎり、西欧の人だと思うけど。黒戸もその言葉が分からないのか、なにも言わなかった。
「……すみません、あの、言葉が分かりません」
なんだか恥ずかしかった。日本人とすら意思疎通できないでいるのに、異国間コミュニケーションなんて尚更無理だ。
女性は真顔のまま言った。
「安心しろ。話せる」
「……日本語、話せたんですね」
「あんたは理解したことを訊き返すのか?」
「えっ」
意表を突かれた。
女性の日本語は綺麗だけど、返す言葉に困ってしまう。
「あんたたちのことはもう調べてある。……私の言っている意味は分かるな?」
前置き無しの言葉に、僕は戸惑う。
「あなたは警察の方なんですか?」
そう訊くと、女性は短く「違う」と首を振った。
「じゃあ黒戸に用があってここまで連れてきたんですか?」
「用があるのは、あんたの方だ」
僕? 黒戸をここまで連れてくるために、黒戸の家を見張っていたんじゃないのか。
「僕なんかに、どんなご用ですか?」
「アナフェマと聞いて、なんのことか分かるか?」
「……いえ、初めて聞きました」
「それなら忘れていい」
女性はなにか、会話がわずらわしそうな口調でそう言った。
「できれば、そちらの素性を教えてもらえませんか?」
僕がそう言うと、女性はポケットから銀の煙草ケースを取り出して、一本くわえると火をつけた。女性の煙草を吸う姿は、神経を無理矢理抑えようとしているように見える。女性は僕の顔に煙を細く吐いた。
「余計な質問はなしだ。死霊術師。あんたは人間を生き返らせることができるな?」
とっさに返す言葉が浮かばなかった。僕が人を生き返らせることができると知っている。それに死霊術師ってなんだ?
「答えろ」
「すみません。あなたがなにを言っているのか、分かりません」
女性は鋭い視線をこちらに向ける。
ごまかせるところまでごまかした方がいいと、とっさに思う。この女性は信用できないと、僕でも容易に思えるほどの異質な存在感があった。
今はなにもしゃべらないでいることだ。
「時間の無駄だな」
女性は煙草を持った手を、黒戸に伸ばした。そうされたとき、この女性もなにかしらの能力を使えると直感した。女性のただよわせている圧迫感から、針で刺されるような痛みを肌に感じ、額から汗が流れた。
「黒戸」
僕はとなりにいる黒戸にささやいた。
反応がなくて、様子がおかしいと思い黒戸の方を見る。
黒戸の全身は力が抜けていて、気を失ったように頭をたれて、髪が表情を隠していた。その姿に、僕は目をむいてしまう。
「黒戸! どうしたんだよ!」
口元に手をそえると、かすかだけど呼吸はしていた。
「黒戸になにをしたんですか?」
「心配しなくてもいい」
考えてみれば、黒戸の様子は部屋に入ったときからおかしかった。女の能力でなにかされていたんだ。
「質問に答えろ。下手な噓をつくな」
この人が黒戸になにをしたのか訊き出さないといけない。僕は黒戸をソファーに横たわらせて、女の方を向いた。
「あんたは、死人を生き返らせることができるな?」
この女性の目的は人を生き返らせること。
でも死んだ人間を生き返らせるのは、因果に大きな負担をかけてしまう。その結果は必ずよくないことに繫がっていってしまう。それを説明して、分かってもらえるのか?
「……はい」
「今まで、何人生き返らせた?」
「二人」
「誰を生き返らせた?」
「……母親と」僕は黒戸に視線を向ける。
女は初めて関心を見せた。黒戸を見て、言った。
「すると、彼女は一度死んでいるのか?」
僕は頷いて、女性の言葉を待って黙っていた。
女性はふいに口元を笑顔に変えた。
「私の子供も、生き返らせてほしい」
声の調子を明るくさせてそう言った。
「子供、ですか?」
女の感情の変化に戸惑ってしまう。
「十歳の男の子だ」
「……人を生き返らせたくないことには、理由があるんです。絶対によくないことに繫がってしまいます。話を聞いてもらえれば――」
「分からないのか」と女は言葉をさえぎる。
女は背後から拳銃を出して、銃口を黒戸に向けて言った。
「今ここで、彼女の頭を吹き飛ばしてやってもいい。そのあとでまだ、人を生き返らせたくないと言えるか?」
黒戸を操るなんて、どんな能力を使っているんだ。
「…………」
女性は銃をテーブルに置き、抑揚のない声で言った。
「息子を、生き返らせることができるな?」
テーブルに置かれた銃は、アンティークのようなリボルバー式のものだった。グリップには頭が二つある鳥の模様が彫り込まれている。僕は銃を見つめていた。
この人は僕らのことを調べているし、黒戸は人質のままだ。それに警察署でとんでもない待遇を受けるような人になにかすれば、その場で僕は現行犯逮捕される。怒りが徐々に虚しさに変わる。僕は女性に視線をもどした。
「やってみないと」
「礼はする。ほしい物は、なんでも用意する」
黒戸をすぐに元にもどしてほしいと喉まで出かかる。僕は言葉を飲み込み、女の言葉を待った。女は煙草を吸って、言葉を続けた。
「だが失敗は許さない。必ず成功させろ」
黒戸は目を閉じて意識を失ったままだ。
「黒戸は本当に大丈夫なんですか?」
「今は眠っているだけだ」
この女性にもネクタールが入っている。対象を昏睡状態にさせることができるみたいだけど、はっきりとしなかった。それと子供を生き返らせてほしいといっているのは、この女性の私情のような気がするけど……。どうして警察が協力しているんだ。
女性は煙草を吸い終えると灰皿でもみ消し、立ち上がった。
「ついてこい」
そう言われて、僕は黒戸を残して女の後ろをついていった。
通路を進み、警察署の地下へ降りていく。古い鉄製のトビラがあり、束ねられた鍵の一つを使って入っていった。
その場所は、使われていない留置場のようなところだった。
壁面のコンクリートは茶色く汚れており、狭い通路には冷たい空気が流れている。照明の光度もあまりなくて、ここに閉じ込められたらと想像すると息が苦しくなる。
女性は最奥部の牢屋の前でとまり、鉄格子を開けてなかに入る。僕にも牢屋のなかに入るよう、手で指示した。
牢屋のなかには、僕の背丈ほどの木製の棚が設置されていた。
棚に載っているものは、……いくつもの容器だ。もしかして、これを生き返らせようとしてるのか。
容器のなかには、色々な部位に分けられて液体に漬けられている、外国人の子供の標本が入っていた。切り開かれた胴体と、空洞の頭、脳、眼球、いくつもの内臓、脊髄、両手、両足。一つ一つの容器には外国語で注釈が書いてある。
見た物を認識して、胃が痙攣を起こし、吐き気がこみあげた。
女は標本を見たまま、ゆっくりと言った。
「私の、子供」
女の顔には、優しさや慈愛のようなものすら感じる。母親が子供にたいして与える表情だ。
僕はその優しさのある表情に不自然さを感じた。
「あの、お訊きしていいですか?」
「なんだ?」
「この子は、どうしてこうなっているんですか?」
容器のなかの子供の顔は白く、いびつに歪んでいた。閉じられた瞼は左右の大きさが違い、鼻は潰れて口は曲がっていた。
女は子供の頭が納められている容器に触れた。
「人質にされて、その後は能力の研究に利用された」言葉に泣き声が混ざっていた。「私に特別な力があったせいで、この子は連れていかれた。国では混乱が続き、終戦後に私は容器に入れられたこの子を見つけた」
「……終戦後って、なにを言っているんですか?」
「一九○一年、まだロシアが帝政だったころに、私は生まれた」
言葉がしばらく飲み込めなかった。
一九○一年に生まれたのなら、この人は百歳を超えている。女性の外見はどう見てもそんな高齢には見えなかった。この子供の標本だって本当にこの人の子供か分からない。どこかから盗んできたのかもしれない。
「僕には、あなたがそんな高齢には見えないんですけど……」
「この子が生き返ったとき、私だけ歳を取っていたらこの子が悲しむ」
そういった問題じゃない。整形や外科手術で、どうにかできる範囲の若さじゃない。
でももし女性の話が本当なら、若さを保つのも能力の一つなのか。
驚いている僕の様子を見て、女は楽しそうに言った。
「若さを保つための努力は大変だ。だが美人の母親は子供だって嬉しい」
信じられるわけのない話なのに、なぜか噓をつかれている気がしなかった。この人から優雅な感じというか、「僕なんかに噓をつく必要などない」といった、普通の人にはないきらびやかさを感じていた。
「それもこの子ともう一度暮らすためだ。早く生き返らせてくれ。それともなにか、儀式や道具が必要か?」と女は言った。
僕は思考をとめて、話の内容に急いで焦点を合わせた。
「容器から出さないといけないんです。それにここで生き返らせてもいいんですか? 目を覚ましたとき牢屋にいるなんて、可哀相ですから」
「分かった。場所を変えよう」
女性がそう言うと、地下に数人の警官が入ってきた。その人たちの目はうつろで、無言のまま子供の入った容器を持った。そのまま女性の指示を待っているようにたたずんでいた。
「場所はどこがいい?」
そう訊かれてすこし悩む。できるだけ土地勘のある場所を思い巡らせて、僕は自分の学校名をあげた。
「まあ、いいだろう」
僕は地下を出ると、署長室にもどり、ソファーに寝かしていた黒戸を抱きあげた。
「すぐに元にもどすよ」
呼びかけても、黒戸は目を閉じたままなにも言わない。黒戸の弱っている姿は見ていたくなかった。女に急ぐように言われ、僕は黒戸を抱いたまま外に出た。
外には黒塗りの高級車がとまっている。初めて乗るベンツがこんな機会になるとは思わなかったけど、黒戸を横にしておくにはいいかもしれない。女は助手席に乗り、僕は後部座席に黒戸を乗せて自分も乗り込む。車は静かに発進した。
後ろからは、子供の容器を載せたパトカーが二台ついて来ていた。
学校についたころには、夜の八時を過ぎていた。
閉まっている門の前で車が停まると、校舎から人が出てきた。宿直の先生だと思うけど、なにも言わずに門を開けて、車の誘導を始めた。
車は校庭まで進み停車した。女に降りろと言われて、僕は黒戸を車内に残したまま車を出る。
女にこれからどうするかと訊かれた。
この人体標本がどうやって作られたのか分からないけど、容器のなかの液体はホルマリンかアルコールだ。ホルマリンであれば毒性の強い劇薬だったはずだ。以前オカルト関係の本で読んだことがある。
子供が生き返ったときに、ホルマリンに漬かったままにはすることはできない。
僕は学校のプールを指さして言った。
「容器をあそこまで運べますか?」
「あんたの言うとおりにするよ」
女性の無言の指示で、容器を持った警察官はプールの方に歩いていった。僕も女の後ろを歩き、確認するように言った。
「僕はこの子を生き返らせるために能力を使います。だけど、それで絶対にこの子が生き返るかは分からないんです。容器に入れられたのもずいぶん昔みたいですから……」
女は僕を振り向いた。
「いい加減にしろよ。冗談は休み休みにしろ」
鳥肌。目を見ただけでナイフを突きつけられているような感覚におちいってしまう。
誤解を解くように、早口になっていた。
「再生能力はちゃんと使います! でも、それで絶対に生き返らせれるかなんて分かりま――」
女は一歩踏み出して、片手で僕の首を摑んだ。そのまま体を持ち上げられて、足が地面から浮く。呼吸ができない。呻き声。女の手を両手で引きはがそうとした。くそ。できない。力が尋常じゃない。
「……ヴヴゥ」
首から手を離されて、僕は地面に倒れた。
空気を求めて、思い切り呼吸をした。女はガラクタでも見るような視線を僕に向けていた。
「成功させろ。あんた自身のためだ」
「でも、この子、人体標本にされているんですよ。ある程度体の部位がなくても、治せたことはあります。だけど、この子は無理かもしれません」
「これ以上つまらない台詞を吐くな。あんたがどう考えているかなんてどうでもいいことだと、どうして分からない?」
僕は女を見上げて言った。
「努力は、します」
「努力はしますじゃない。失敗すればあんたの彼女はあのままだ、目が覚めることはない」
「…………」
うつむくと、女は言った。
「そうだ。成功させればいい」
学校のプールの周りはブルーシートで外から目隠しをされ、操られている警察官の手で子供の入れられた容器の蓋は外された。刺激臭が空気に混ざり、目や鼻に痛みが走った。
容器から出された子供の体は、ゆっくりとプールに入れられた。
僕はプールのへりにしゃがんで、浮いている胴体に両手で触れた。肉のぶよぶよした感触に鳥肌が立つ。ホルマリンに漬けられていた子供の肉は、とてもモロくてすぐに崩れてしまいそうだった。注意しながら両手に意識を集中させ、手の平に力を集める。
しばらくして手の平が温かくなっていき、再生能力を使えていることは分かるのだけど、子供の体にネクタールが移っていくような感触がなかった。
クジラを生き返らせたときも、早い段階でもうすこし手応えはあった。
この子はたぶん生き返らない。僕のキャパシティを超えているんだ。
焦りが生まれてきていた。
「なにをしている?」女が後ろから言った。
汗が流れて、頰を伝って水面に落ちた。
「どうして生き返らない?」女は静かに言った。
生き返らないのは、この子に生き返るだけの体の部位が残っていないからだ。
「あんたが手を抜いているからか?」
「生き返るのなら、もう生き返ってます!」
「彼女を連れてくれば、やる気も出るか?」
黒戸になにかするつもりなのか。
背後に立つ女が、得体の知れない化け物のようだった。この人はたぶん、人を殺したりいたぶったりすることを、なんのためらいもなくやる。他人の命に興味がない。肌に刺さるような女の気配が、僕にそう感じさせた。
「もし黒戸に手を出すなら、僕はすぐにこの子を放り出します」
「それがなにを意味しているか、分かっているだろ」
「あなただって、僕がこの子を放り出したら困るはずです」
「……あんた、本当は彼女を愛していないだろ? あとで生き返らせればいいと高をくくっているのもそのせいか」
「そんなこと考えていない! この子が生き返らないのは仕方ないことなんです、僕は手を抜いていない!」
なんで諦めないんだ。どうして分からない。
「あんたの仲間は他にもいたな? カチューシャをつけた女もそうだ」
岡田さんのこと? ……この人、みんなのことも調べているのか。
「眼鏡をかけた女もいるな。しかし殺したところであんたは仲間を生き返らせるか」
姫髪さんまで巻き込むつもりなのか。ふざけるな。僕らをめちゃくちゃにして、そんなに楽しいのかよ。
「ここに連れてきていたぶっていくか? あんたの想像にまかせるが、生き返るまで続けさせる」
胸のなかに強い圧迫感が生まれてくる。
そんな露骨に脅しをかけられて、言うことを聞くと思っているのか。みんなを人質に取られれば、僕だって抵抗する。
僕は振り向いて、一息に女に飛びかかろうとした。
だけど体の向きを変えたと同時に、警官が僕の肩を押さえて銃口を頭に当てていた。
「生き返らせることに集中しろ」
全身から汗が噴き出た。女は僕の行動など見抜いていた。黒戸がいなければ自分の身も守れないのに、不用意な行動でみんなを危険にさらしてしまった。
鼓動が速くなり、呼吸が乱れて、思考がまとまらなくなった。
「十分だ。過ぎれば車のなかの女から殺す」
全身の血が凍るようだった。……そんなことをしても意味はないのに。能力を使っている両手が痺れていた。
どうして今の状況があるんだ。……呪うのは、世界のくだらなさや、理不尽さだ。一人では身を守ることもできない、自分の非力さや無力さだ。胸が苦しい。僕にこの事態をどうにかする力や知恵があればよかったのか?
仲間をいたぶる? 殺す? なんでそんなことされなくちゃいけないんだ? 胸の裡からヘドが出る感覚。気持ちが悪い。僕らはただ普通に生活していたいだけだ。どうして邪魔をする人間が出てくるんだ!
「生き返れよ!」
両手で、子供の胴体を握り潰すと、ぼろぼろとロウのような肉片が水のなかを散った。
頭の裏がびりびりと痺れていた。
「さっさと生き返れ!」
水面が波立った。鼻血が、水面に落ちた。
僕はなにかわめいていたのかもしれない。
能力を使っている両手の血液が沸騰したように熱を持ち、ボコリ、と触れていた子供の体が膨らんだ。膨らんだ部分の肉が弾けて、内側から新しい組織ができていた。
子供の肉は、次々と膨らみができては弾けた。ホルマリンに漬けられていたロウのような体から、新しい体に生まれ変わっている。
水中に散らばっていた脳や、臓器や、目や、手足は、徐々に僕の握っている胴体に向かって集まってきた。
それらの部分も、脱皮を繰り返すように膨らんでは弾けて、新しい組織ができていく。
子供の体には弾力が生まれて、バラバラだった体の部位は繫がっていった。
体の再生は続いていた。
子供は人間の姿を取りもどし、全身は新しい皮膚で覆われていく。
古い爪は剝がれ、新しい爪に変わる。金色の髪の毛や、眉が伸びていく。
心臓が脈打ち、体温が生まれた。
「プールからあげろ!」
女が叫んだ。僕は言われたとおりに、子供をプールサイドに引きあげた。タオルが用意されていて、僕はその上に子供を寝かせる。
心臓はゆっくりと動いているけど、まだ弱かった。
「能力を使え! 休むんじゃない」
僕はもう一度子供に触れて、再生能力を使った。
徐々に血の気を帯びてきて、子供の指がピクリと動いた。
次に子供は、うっすらと目を開けて口元を動かした。
女は子供の顔をのぞき込んで、外国語で必死になにか呼びかけていた。
僕は子供から手を離し、立ち上がって二人からすこし離れる。子供は本当に生き返ったのだと、自分の両手を見つめてしまう。こんなことをしてよかったのだろうかと、改めて恐怖心が生まれていた。
男の子は母親の呼びかけに反応して笑顔になった。人形のように顔立ちの整った男の子で、その笑顔はとても可愛らしかった。この女性がもう一度この子の笑顔を見たいと思っていたのなら、その気持ちはすこし分かる気がした。
男の子は上半身を起こしてなにかしゃべった。外国語で言葉の意味は分からないけど、たぶん「僕の体はなんともない」というようなことを言っている。自分の体に触れて、そのようにアピールしていた。
女性は子供を抱きしめて、涙を流していた。
それから外国語で、なにかずっと呟いていた。たぶんこの子の名前だ。
すぐに黒戸のことが心配になった。女のプレッシャーが解かれたことへの虚脱感を覚えながら、僕は子供と話している女のもとから離れて、黒戸を寝かしている車へ向かった。校庭を走っていくと、車から出て伸びをする黒戸の姿が見えた。緊張がすこし緩む。僕は「大丈夫か?」と呼びかけた。
黒戸は首を捻っていて、あわてて走ってきた僕を気味悪がって見ていた。
「私たちなにしてたっけ? なんで学校にいるのか分からないんだけど」
「色々とあったんだ」
「どうしたの? 鼻血出てるけど」
僕は涙と鼻血をTシャツの袖で拭いた。
「あとで説明するよ。それより体に違和感とか、痛いところはないか?」
「え? ないよ。調子いいくらいだけど」
「よかった。早くここを離れよう」
黒戸は困惑したように僕を見ていた。
僕は説明を求める黒戸を連れてその場を離れた。黒戸の意識がもどったのは、あの女性がもう僕に用がなくなったからだ。あの人の顔を思い出すだけで全身に鳥肌が立ってしまう。自転車を置いたままにしていたので、二人で黒戸の家まで歩いていた。黒戸にはその途中で、なにが起きたかを話した。
どうやら警察署に入ったところで黒戸の記憶はなくなっているようだった。そのころからもう、女の能力がきいていたのかもしれない。そのあとネクタールの入った外国人の女と話したことや、黒戸がその女の能力で操られていたこと、女の子供を生き返らせたことなどを僕は話した。
「その女は、子供を生き返らせるためにそこまでしたんでしょ? 私には悪い人とは思えないんだけど」と黒戸は不思議そうに言った。
僕は驚いてしまう。反射的に言葉を返していた。
「悪い人だよ!」
「岡田さんや姫髪さんを人質に取ろうとしたのは、気にくわないけど」
黒戸のことも操っていた。
殺すとまで言っていたんだ。
「あの人は化け物だ」
そう言うと、黒戸は足をとめて言った。
「ごめんね」
僕も足をとめて黒戸を見る。黒戸は静かに言った。
「守ってあげられなかった」
「……違うよ」
そんなことで怒っているんじゃない。
「今度その女が現れたら、私が守るから」
黒戸の家に着いたころには、もう夜の十時を過ぎていた。
明日みんなで集まろうと、僕は黒戸に言った。
「岡田さんと姫髪さんに、すぐにこのこと伝えなくていいの?」
「明日、落ち着いてからの方がいいよ」
二人に夜中に集まってもらうのは、家族に心配をさせてしまう。それも不安だ。
黒戸は頷いて「おやすみ」と言った。僕も「おやすみ」と返した。
自転車に乗って僕は自宅に向かった。みぞれがお腹を減らしているはずだと思い、コンビニでお弁当二つとチョコレート菓子を買って、自転車のカゴに入れた。
アパートの近くまで来たときに、後ろから車が来て僕の進路をふさぐようにとまった。
黒塗りの高級車だ。僕の心臓は鼓動を速める。後部座席の窓が開き、顔を出したのはあの女性だった。
女性は口元だけ笑みを浮かべて言った。
「なんで帰ってしまったんだ?」
「まだなにか用があるんですか?」
「私は礼をすると言ったはずだ」
「お礼ならいりません」
「なにかされたままというのは、私は好きじゃない」
「……妹がいるんです。早く帰らないと心配しますし、夕飯も一人だと食べないので」
「夕飯を抜いても死なない。車に乗れ」
断り切れなくて、僕は車の助手席に乗りこんだ。自転車には鍵をかけて、お弁当は手に持っておくことにした。
後部座席に座る女性のとなりには、生き返らせた子供が乗っていた。
子供は女性の膝に頭を埋めて、寝息を立てている。車は静かに発進した。
向かった場所は、M市のビジネスホテルだった。この町に豪華な旅館やホテルはないけど、ビジネスホテルでよかったのかと疑問に思う。
女はフロントから鍵を受け取り、子供を部屋で寝かしてくると言った。
「あの、このホテルでよかったんですか?」
僕が後ろから訊くと、女は振り返り言った。
「どうしてだ?」
「あなたが、庶民離れしているように見えていたので」
「そんなに悪くないホテルだ」
さっきまでの態度からは、想像しにくい言葉だった。
「……すみません、呼びとめてしまって」
女性の表情にはさっきまでの恐ろしさはなくなっていた。
「私はいつ死ぬか分からない。明日か、数年持つか」
寿命のことを言っているのか。
「…………」
「その間、もう一度この子と暮らすのに、贅沢は必要ない」
子供は眠そうに舟を漕いでいた。「ママ」とぽつりと呟いて、女性の服の袖を摑んだ。女性は子供の髪を梳くと、子供を連れて部屋へ歩いていった。ロビーのソファーに腰掛けて女性を待っていると、まばらにいた人が徐々にいなくなっていった。女性がもどってくるころには僕しか残っていなかった。
「待たせてしまった。たしか食事がまだだと言っていたな。場所を変えよう。あんたは、酒は好きか?」
ふいにそう訊かれて、僕は「いえ」と首を振る。
「シャンパン、ウォッカ、ヴィノー、ビール、コニャック。私は日本の文化にうとい、好きなものがあれば言ってほしい」
「あの、お酒は飲んだことないので」
「飲まないのか。まあいい。考えたが、食事は、あんたの妹も連れていってはどうだ?」
「あの、お心遣い感謝します。でもお腹も減っていませんから」
女性は奇妙なものを見るような目をこちらに向けて、対面のソファーに腰掛けて脚を組んだ。レザーパンツのポケットから銀の煙草ケースを取り出して、一本くわえるとケースをテーブルに放った。ここはいちおう禁煙席なのだけど……。
「謙虚な姿勢は好ましいな。だがパンと塩は断れないものだ」
「パンと塩、ですか?」
「歓待を受けて断るものはいない。もてなしを受けたからには、頼まれごとを断れないという、国のことわざだ」
「……ことわざですか」
女性は「あんたはもう客人だ。なんでも遠慮なく言っていい」そう言って、煙草を吸った。
僕が緊張で黙っていると、女性は話を切り出した。
「実際には、この目で見るまで疑っていたよ。あんたの力は素晴らしかった」
僕は小さく頭を下げた。
「あの子が生き返ったとき、生きてきてよかったと思えた。あんたのおかげだ」
「……喜んでいただけて嬉しいです」
「約束通り、望むものは用意する」
僕らに、もう関わらないでいただければ。
そう言おうとして、言葉を飲み込んだ。直接的な言葉は、たぶん好ましくない。黙っている僕に、女は言った。
「たしかに、どんなものでもその能力があれば手に入る」
なにか勘違いしている。僕は無理になにかを手に入れることを望んでいない。僕が口ごもっているうちに、話は変わってしまう。
「あんたが能力を使っているときに、『普通に生活していたい』そんなことを言ったな?」
「僕は、声に出していたんですか?」
「あんたは、平凡な暮らしに憧れている。それでいいな?」
「できれば、こんな能力もいりませんでした」
「人を生き返らせることに罪悪感を覚えるか?」
「そうです」
「気にする必要はない。その能力は素晴らしいものだ」
「……たしかに、この能力があればたくさんの人を救うことができると思います……でも」
「救う必要はない。その能力が知られればいずれ人から疎まれる。世間に黙っているのは正解だな」
「……どうしてこの能力がそんなことに結びつくんですか?」
「人を生き返らせることができて、自分も死なないんだったな。最初のうちは医師のように大事に扱われるかもしれない。だがその能力が広まれば、あんたの周りには大勢の人が集まってくる」
「治せない傷を治せるから、ですか?」
「それだけじゃない。目の前で奇跡を起こせば、あんたを聖人扱いする人間も出てくるかもしれない。その能力には人を寄せつける特殊な部分がありそうだからな」
「聖人? 僕はそんなものになれないし、なりたくもない」
「あんたがどう思おうが、周囲には関係ない。人が集まれば、次に起こるのは対立や分裂、利害関係による諍い、それはあんたの意思とは関係なく進んでいく。あんたを快く思わない人間も出てくる」
「僕には、よく分かりません」
「教会にはイコンと呼ばれる聖画を置かなければ認められないといった事情がある。神聖なものを置くことで、信者を納得させることもできる。あんたの能力が大勢に神聖視されてしまえば、どの宗教のどこの宗派が管理下に置くかも問題になるかもしれない」
「僕はどこの宗教にも属していませんし、興味もありませんけど」
「それなら、余計に扱いに困る。もともと、神なんてものは、人が人のために作り出した道具にすぎない。管理し、操ることができなければ意味がない。しかし管理するには、あんたの能力は厄介だ」
宗教が人を救った歴史はないとは……誰の言葉だっただろう。
「……聞くべきじゃありませんでした」
「怖いと思うか?」
もし僕らのことが明かされてしまえば、たぶんあの動画みたいに一気に広まる。それくらいの想像はつくけど。
「それは、怖いです。逃げ場がなさそうですから」
「その内、バレてしまうかもな」
「……あの、あなたはどこで僕の能力を知ったんですか?」
「どうしてそんなことを知りたがる?」
「僕らの能力の情報の出所次第では、あなた以外にも能力を知っている人がいるってことですから」
「あんたたちのことを知ったのは、ヴァチカンの秘密文書に書かれていたからだ。能力のことが載っていた」
「なんでそんなものに、僕らのことが書いてあるんですか……?」
「知らないよ。私は、どんな風にあんたたちのことが書かれていたのかは分からない。翻訳させたものを読んだ。日本に死霊術を使うものや、狂戦士や、預言者が生まれると言っていた」
死霊術を使うものって、……僕のこと? 狂戦士はもしかして黒戸だろうか。預言者は姫髪さんかもしれない。
「でもそれだけだと、僕らが能力を持っていると分からない」
ふと不気味な考えが頭をよぎった。黒戸の蹴り飛ばしたトラック。もしかしてあのトラック事故は、僕らの能力をたしかめようとしてこの人が起こしたのか。
「あんたたちが預言書に書かれた人物だと調べることは難しいことじゃない。とくにあんたには、私の能力がきかなかったからな」
「どういうことですか?」
女は答えることなく、話をさえぎるように言った。
「もうおしゃべりは終わりだ。私を息子のところにいかせてくれ」
「……そうしてあげて下さい。いきなり異国で目を覚まして、母親のあなたにそばにいてほしいと思っているはずだから」
女は怪訝そうな表情で僕を見た。
「あんたの望みは平凡な生活だな。能力のバレる心配のない安全な生活。それでいいな?」
「そうです」
「つまらない望みだ。どうしてもっと欲を出さない?」
「欲?」
「あんたは現実から目をそらしているんだよ。逃避というやつだ。大きな能力を持っているのに、小さな場所でしか暮らせない」
「そんなんじゃない」
「人間の進化に脳の構造がついていかなかったんだよ。多くの精神病はそのせいだ。こんな能力を持ってしまったからなおさら苦しむ」
「……違います」
僕は苦しんでいるわけじゃない。ただ自分に能力がなければ、この人も僕に会いに来ることはなかった。みんなが危険にさらされることもなかった。だから今のような状況は、自分の能力が生み出していると思ってしまう。
女性はつまらなさそうに言った。
「まあ、私にも平凡な暮らしに憧れるのは理解できる」
「平凡というか、平和のようなものだと思います……」
女性は僕から顔をそらして、煙を吐いた。
「分かった」
そのあと、僕はすぐに解放された。
黒塗りの高級車でアパートまで送られた。路上に置いてきた自転車は、アパートの駐輪場に運ばれていた。部屋に入るとアニメのDVDを観ていたみぞれが、笑顔で「帰ってきたー」と抱きついてくる。みぞれを見ていると、自分の生活にもどってこられたような気がした。もう夜の十二時を回っている。みぞれに遅くなったことを謝り、コンビニの弁当を電子レンジで温めた。
僕も食事を取ろうと思ったけど、両手にはまだホルマリンに漬けられていた子供の感触が残っていた。食欲がなくなり、僕はそのまま床に倒れるように眠った。
翌日、起きたのは昼過ぎだった。みぞれがかけてくれたのか、僕はタオルケットにくるまっていた。起き上がると後頭部にすこし頭痛が残っている。
僕は服を着替えて、部屋のカーテンを開ける。外は雨が降っていて、プールに残ったホルマリンの臭いは、この雨で消えてくれるだろうかとふと思った。僕は自宅の電話から、岡田さんの携帯に連絡を入れた。
「上代です。岡田さんですか?」
「どうした上代君? 今日は一段と声が暗いけど」
「岡田さんに話したいことがあるんだけど」
「いいニュース? それとも悪いニュース?」
「悪いニュースです」
「どんなことなの?」
「昨日、ネクタールの入っている能力者と会った」
「おお! それはいいニュースだよ。どんな人だった?」
「ロシア人の女性だったよ」
「面白そうじゃん! 今すぐうちに来てよ、詳しく聞きたいから」
「姫髪さんと、黒戸も来られるかな?」
「呼んでおく!」
通話が切れた。受話器を置いて、岡田さんの家に向かおうと準備していると、ロフトからモゾモゾと動く音がした。見ると、みぞれが顔をのぞかせて目をこすっている。
「お兄ちゃん、今日もどこかいくの?」
「岡田さんの家だよ。今日はそんなに遅くならないから。もし遅くなっても、ご飯作って食べるんだよ」
みぞれはキョトンとしていた。
「……わたしはいっちゃ駄目?」
「雨が降ってるから留守番してた方が……」
なんだかみぞれの表情は寂しげだった。
「やっぱり、一緒にいこうか?」と僕は言い直した。
みぞれは目をこすったまま笑顔で頷いた。すぐにロフトから降りてきて顔を洗い、歯を磨いていた。
外着に着替えて髪を簡単にとかすと、準備のできたみぞれは先に長靴を履いていた。湿気のせいか、みぞれの頭にはまだ寝ぐせがはねていて、手で整えても直らなかった。岡田さんの家にいくだけかと思い、僕らはそのままアパートを出た。
僕らは傘をさして、岡田さんの家に歩いていく。岡田さんの家までは徒歩だと三十分くらいだ。歩くのはみぞれも僕も結構速い。
岡田さんの家のインターホンを押すと、すぐにドアが開き岡田さんが出た。
「みぞれちゃんも来たんだ! お菓子あるから一緒に食べよぉ」
みぞれは嬉しそうに頷いた。
部屋にあげてもらうと、手作りのクッキーとハチミツの入ったハーブティを岡田さんのお母さんが持ってきてくれた。
それからぼんやり待っていると黒戸が来て、すこし遅れて姫髪さんも到着した。姫髪さんは「雨がすごいですね」とタオルで服や髪をポンポンと拭いている。黒戸の服や髪がまったく濡れていないのはどうしてなんだろうと疑問に思う。それからみんな、みぞれを加えておしゃべりを始めた。みぞれが楽しそうなのは喜ばしいけど、僕は会話のテンポについていけなくてその様子をぼんやりと眺めていた。
三十分くらいして僕は会話についていくのを諦め、マンガを読んで一人の世界に入った。それからもう三十分くらい経ったころ、岡田さんがこちらを向いて言った。
「上代君、そろそろ話してよ!」
僕はビクリとして、ページを閉じた。
「会話の邪魔しちゃ悪いと思っていたんだけど」
「上代君の話を聞くために、みんなに集まってもらったんでしょ!」
「そうだった。聞いてほしいことがあるんだ」
すこし詳しく話そうと思った。
出来事の他に、あの女性の性格も伝えた方がいい。昨日、岡田さんの家を出た僕と黒戸は、警察署に連れていかれ、ロシア人の女性と会った。子供を生き返らせたあと、ホテルのロビーに連れていかれた。
「あの女性は僕らの能力のことを知っていた。それになにか能力を持っていて、黒戸を昏睡状態にしていたんだ。子供を生き返らせるために、みんなを人質に取るつもりだった」
岡田さんが難しい顔つきで言った。
「んー恐ろしい話だね。でももう、その女は上代君に用がないわけでしょ?」
「たぶん、……そうだと思うけど」
「じゃあ心配しなくて大丈夫だね」
……なんだか、僕が思っているほどみんな驚いていないのは気のせいかな。
岡田さんは明るい調子で続けた。
「その女の人って、ツングースカ大爆発でネクタールが入り込んだわけだよ。私としては、そっちに興味があるな。どうにかして会えないのかな?」
「あの人は化け物だよ!」
「でも色々と話を聞けるかもしれないじゃん」
「そうかもしれないけど。やめた方がいいよ」
岡田さんはちょっと残念そうにしていたけど、気を取り直したように言った。
「そうそう、私からいいニュースがあるよ! 今日の朝、ネットで黒戸さんの動画を見たら全部綺麗に消えてた。黒戸さんの事件で盛り上がってた掲示板もなくなってたよ。それもその女と関係あったりして」
「動画とか掲示板って簡単に消せるの?」
「私も動画の削除依頼を出したり、掲示板で事件の火消しをしてみたけど、効果はなかったかな」
「あの女かもしれないけど、……でもどうやったんだ」
「いいじゃん気にするなって! なんにしても、よかったよかった」
「そうかな」
「だって黒戸さんの事件をもみ消してくれているなら、やっぱり悪い人じゃないよ、そのロシア人女性」
なんだか変な感じがする。いくらなんでも、こんなに緊張感がないものだろうか。それとも僕の説明の仕方が悪かったのか。
またしばらく女子トークが始まり、僕は手持ちぶさたになった。
ちょっとした疎外感がある。
僕がまた岡田さんの部屋にあった雑誌や漫画をパラパラと眺めて、もう帰ろうかなと思い始めたころに、岡田さんは机に向かってノートを開いた。
ぴりっと空気が張り詰めたと思ったら、岡田さんは能力を使い始めていた。
ネクタールの分析能力だ。ノートに向かってすごいスピードで自動書記をする。僕らには判読不能の文字や数式でノートを埋めていく。
岡田さんの分析能力は、なんでもなさそうな会話から精度を上げることができると言っていたから、さっきの会話は能力を使うための準備だったのか。
岡田さんはピタリと腕をとめると、つや消しをしたような表情で口を開いた。
「その女の能力は洗脳みたいなものだね。それとも印象操作とでも言うのかな。警察や黒戸さんは、女の洗脳にかかって操られていたんじゃないかな」
岡田さんの言葉に、僕は頭がついていかなかった。さっきまで普通のおしゃべりをしていたのに。
「上代君は、女の洗脳にかからなかったでしょ?」
「え? ……どうだろう」
「みぞれちゃんに頭に手を入れ込まれているはずだけど、覚えてない?」
「そういえば、そんなことあったよ。覚えてる」
みぞれに頭を触られたとき全身にショックが走って、僕は驚いて叫び声をあげていた。
「みぞれちゃんってさ、他人のネクタールに影響を与えることができるんだよ。以前、自己修復プログラムを回避したときも、みぞれちゃんのその力を借りたの」
「ああ、そうだったね」
「私たちの能力は、ネクタールの力が働いて起きる現象なんだ。普通は見ることも触れることもできないネクタールだけど、体の半分がネクタールでできているみぞれちゃんなら、触れることができるの」
「うん」
「みぞれちゃんは、上代君の頭に手を入れ込んだときに、女にかけられていたネクタールに触れて影響を与えて、女の洗脳を解いた」
みぞれは岡田さんを見て「マジックキャンセルだよ」と言った。
「たしかゲームのなかに出てくる魔法だよねぇ。私もやったことあるよ」
と岡田さんが言うと、みぞれは納得いったように頷いた。岡田さんはこちらに向き直って、話を続ける。
「たぶんだけど、女の能力は一度マジックキャンセルされると、同じ人にはきかなくなるんじゃないかな。だから上代君のことを操れなかった。黒戸さんを待ち伏せしていたのは、やっぱり人質にするためだったんだと思う。能力がきかないなんて、そのロシア人女性は経験したことなかっただろうから」
「……たしかに、黒戸が意識を失っているのを見たとき、僕は怖かったよ。人質としてなら最大の効果があった」
黒戸に睨まれて、僕は肩をすくめた。
「とにかくさ、もしかしたら私たちも女の能力がきいているかもしれないから、みぞれちゃんにマジックキャンセルを使ってもらいましょう。そうすればまた女が来たときに対処できるしさ」
みぞれは岡田さんに「いいの?」と訊いていた。
岡田さんは「もちろん!」とみぞれに言って、僕を睨む。「上代君さ、みぞれちゃんにマジックキャンセルを使われたときにひっくり返ったんでしょ? みぞれちゃんは上代君の驚いた様子を見て、黒戸さんが遊びに来たときにはマジックキャンセルするの遠慮していたんだよ。みぞれちゃんに謝って」
「みぞれはどんな能力がきいているかまで分かっていたの?」
首を傾げているみぞれの様子を見て、岡田さんが言った。
「みぞれちゃんは、女の能力までは分からなかったと思うよ。上代君の様子がなんだか変だなって思ったくらいじゃない?」
「そうだったのか」
「上代君を操れないから、女の方も警戒していたんだよ」
「みぞれ、ごめん」
僕が謝ると、みぞれは微笑を浮かべて「許してあげる」と言った。
それから、みぞれは僕のそばに来て頭をなでた。
みぞれはこんな可愛らしい仕草をどこで覚えてくるんだろう。抱きしめたくなったけど我慢した。岡田さんが笑顔で言った。
「じゃあみぞれちゃん、みんなにもマジックキャンセルをかけてちょうだい!」
そう言われて、みぞれは一人ずつ頭に手を入れ込んでいった。マジックキャンセルを使っているときのみぞれは、目が赤く染まって、光の膜が体を包んでいた。その光景はなんだか神秘的で、こんなときのみぞれの可愛さは人間らしくなかった。
作業が終わると、みぞれはぺたりと座る。
岡田さんがみぞれに「お疲れ様! ありがとぉ」と言うと、みぞれはコクリと頷いた。
「マジックキャンセルされて、なにか変化があった?」と僕は訊いた。
「スッキリしたよ。やっぱり女の能力がきいていたのかな」
「どんな洗脳がされていたのか分かる?」
「女の印象が自分のなかで変化したのは、分かるんだけど。無条件で女を信頼していたのかもしれない」
「……なんにしても、みぞれがいて本当によかった」
岡田さんは真剣な目をこちらに向けて、言った。
「上代君さ。子供を生き返らせるのって、本当に上手くいった?」
「生き返ったよ。間違いなく」
「そもそもさ、子供の死因ってなんだったの?」
「研究に利用されたと言っていたから、漠然と殺されたものかと思っていたけど」
「もしまた女の子供が死んでしまったら、上代君はどうする?」
「なにもできないよ」
「女の性格を聞く感じだと、怒り狂って上代君にもう一度生き返らせるよう言ってくるかもしれないよ」
「無理だ。それに、もう生き返らせたくない……」
「うん。そのときは、女と戦う必要があると思うよ」
これは僕の責任だ。僕に能力を使わせようとして脅しをかけられていた。
「みんなは巻き込みたくないよ」
「でも女はそう思っていない」
僕はあの女に会うまで、同じネクタールの入った人間なら分かり合えると期待していた部分があった。でもそれは甘い考えだったのかもしれない。
「……岡田さん、アナフェマって言葉知ってる?」
「アナフェマ? 調べてみようか」
そう言って岡田さんはPCに向かう。キーワードを入れて検索していた。
「語源はギリシア語。意味は呪いとか、呪われたものだって。破門って意味でも使われるらしいけど。その言葉がどうしたの?」
「女がアナフェマって言葉を使っていたのを思い出したんだ。ちょっと気になって」
「アナフェマって、聖歌でも使われる言葉らしいからたぶん誰でも知ってるんじゃない?」
「……なんのことなんだろ?」
「それよりもその女性はもっとなにか言ってなかった? それから女性の名前は? 特徴的な持ち物とか覚えてないの?」
「そういえば名前を訊いていなかった。訊く機会を逃していて。ただ古い銃を持っていたのを覚えているよ。グリップに頭の二つある鳥が細工してあったから、印象的だったんだけど」
「その鳥の絵を描いてみて」
そう言われて、僕は渡されたルーズリーフにシャープペンシルで絵を描いた。
「こんな感じだった」
と言って、僕は岡田さんに絵を渡した。
「これはまた芸術的だけど、まあ特徴はなんとなく摑めたよ。面白そうだから調べてみる」
六時ごろに僕は岡田さんの家を出た。
外は雷雨になっていた。みぞれを含めた三人は、岡田さんの家に泊まっていくらしい。僕も女に生まれていればよかったのに。
傘がほとんど役に立たなくて、全身を濡らしてアパートにもどってきた。
服を洗濯機に放り込んでからお風呂に入り、部屋にもどって格闘技の雑誌や本を広げた。
キックボクシングの練習方法を調べて、テーブルをはじに寄せて、カーペットをくるくる巻いた。ガラス戸を鏡の代わりにする。
基本的な構えは、両足を肩幅に広げて、腕は顎のガードをするために上げておくらしい。お腹をすこしへこませて、攻撃の際のタメを作っておく。テレビに出ている派手な選手のなかには、基礎をおろそかにしている人もいるためあまり参考にはしない方がいい。僕は本を見て一人頷いた。
まずは基本的な動きであるジャブやストレート、フックの練習をした。これをつなげればコンビネーションになる。それから体の軽い僕でも、肘や膝を使えば一撃で相手を倒せる威力が出せるそうだ。色々と繰り出してみる。
しばらく練習をして、ふと一朝一夕で身につくような技術じゃないと思った。
女に襲われて、格闘技の練習を始めるなんて僕は単純だ。虚しくなって、僕は部屋を元にもどし始めた。
相手は拳銃を持っているし、他人を操れる。
カーペットを床に敷き直しながら、武器でも携帯した方がいいだろうかと思っていると、電話がかかってきた。
電話の表示を見ると、田舎の祖父からだ。僕は受話器を取って電話に出た。
「雪介、元気か?」
「お久しぶりです。元気でやってます」
「もう学校は夏休みに入っただろう。今年は遊びに来ないのか? 顔を見せに来なさい」
「ごめん、部活があるから」
「高校生にもなると忙しくなるな。元気でやっているならいいんだ」
「はい」
「妹も元気か?」
「なに?」
「みぞれも元気でやっているのか?」
「……みぞれも、元気だよ」
なんで祖父が、みぞれのことを知っているんだ?
まだ言ってないはずだけど。
「考えたんだが、その部屋じゃ二人で生活するには狭い。同じアパートに二人部屋があるから、そっちに移りなさい。もう大家さんには頼んであるから、まかせておけばいい」
なんだ、この話の流れ。
「おじいちゃん、みぞれのことなんで知ってるの?」
「孫を忘れるわけないだろう。おかしなことを言うな。じゃあ雪介、部活頑張りなさい。たまには連絡をするんだよ」
「…………」
祖父は電話を切った。
僕はしばらく呆然としていた。
黒戸の動画が消し去られたことも不自然だった。祖父がみぞれのことを知っているのもおかしい。
思いつくのは、あの女の能力だった。
岡田さんは、女の能力を洗脳と言っていた。祖父も女に操られているのか。
でもなんで、こんなことするんだ。
女はなにを考えているんだ。
嫌なことが頭をよぎっていた。女の言っていたお礼をするとは、このことなのかもしれない。それなら意味が違う。僕が平和な生活を望んでいると言ったのは、あの女にもう僕らに関わらないでほしいと思ったからだ。
アパートのインターホンが鳴り、思考がとまった。僕の体は強ばっていた。あの女が外にいる気がしたからだ。
僕は足音を立てないようドアに近づき、ドアスコープから外を見た。
立っていたのはアパートの大家さんだった。緊張が解けて、僕はドアを開けて挨拶をした。大家さんが来たのは引っ越しの内容について話すためだったけど、やはりみぞれの名前を出した。大家さんは祖父の知り合いで、僕のことも昔から知っている。僕に妹がいないことも知っているはずなのに。
大家さんは二人で暮らすには部屋が狭かっただろう、ととがめる様子もなく話して、明日の朝に引っ越し業者が来るから準備をしておくようにと言って出ていった。
僕は呆気に取られたまま、玄関に立っていた。
気持ちが悪かった。
知らない世界に飛ばされてきたようだった。
女の監視している世界で、飼われているような気持ちだった。
翌日、引っ越し業者が来て荷物をすべて新しい部屋に移した。大家さんが大きな冷蔵庫や二口のガスコンロ、食器棚などの家具まで用意してくれて、それらも運び込んであった。お昼ごろにはすべての作業が終了して、業者は帰っていった。僕は新しいアパートの鍵を持って、一人でキッチンに立っていた。
部屋は2DKで、六畳二間と八畳ほどのキッチンがあり、風呂トイレが別だった。自分の荷物の置かれた部屋には、古い茶色のカーテンがかかっていて、フローリング張りの床のすみに、布団だけ折りたたんである。
僕は自宅の電話から、岡田さんの携帯電話に連絡を入れた。
「岡田さん?」
「どうしたの? みぞれちゃんが心配になった?」
「いや、引っ越しして、……みぞれに新しい部屋を伝えようと思って」
「引っ越し!?」
「同じアパートで、部屋が変わっただけなんだけど」
「なんで引っ越ししたの?」
そう訊かれて、僕は起きたことを岡田さんに説明した。
おじいちゃんや大家さんがみぞれのことを知っていたこと。昨日電話があり、あっという間に二人部屋に移されたこと。
「ひとまず、みぞれちゃんには伝えておくよ。上代君も混乱してると思うけど、今は黙って様子を見ていよう。たぶん女の方から上代君に接触してくると思うから」
「うん。そうするよ」
僕は電話を切ると、そのまま床に座りこんだ。
頭の裏側が金槌で叩かれているように痛かった。
なにか考えようとすると、貧血を起こしたみたいにくらくらする。
目を閉じると女の顔が浮かんだ。
女は煙草の煙を僕に吹きかけ、首に手を伸ばした。容器に入れられていた子供の姿や操られた警官のうつろな表情が浮かび、頭から離れなかった。
部屋に布団を敷いて横になっていると、電話が鳴った。岡田さんかもしれないと思い受話器を取ったけど、電話の声はあの女のものだった。
「喜んでくれたか?」
「……おじいちゃんや大家さんを操っているんですか?」
「そんな小さな規模で能力を使ってない。あんたには人間一人を世の中に増やすことはできないな。面倒なものだよ。平凡な生活というものを考えると、用意してやるのに色々と難しいことに気づく。一度周囲との足並みを乱してしまったものは、平和を手に入れることは困難になるんだろう。そういった意味じゃ、人殺しとあまり変わらないな、あんたは。それにしてもあんたの妹はなんだ?」
「……みぞれ?」
「どこかで死体を見つけて生き返らせた。そんなところだろ」
「そんなんじゃない」
「あんたたちの身の回りのことは調べたが、妹はいないはずだ。死体を生き返らせたと考えるのが妥当だ。都合よく兄妹にしてやったことに不満があるのか?」
「人を操るだなんて馬鹿げてます! 僕らのことはほっといて下さい。僕はもうあなたに関わってほしくないだけなんだ……」
受話器の向こうで、沈黙があった。
「まだ終わりじゃない」
「なに、言ってるんですか?」
「あんたや、あんたの彼女の能力を知っている人間がいる」
「どういう意味ですか?」
「始末した方がいい」
僕は絶句してしまう。
始末ってなにをするつもりなんだ?
人を殺すつもりなのか。
「やめて下さい! そもそもどうして始末する必要があるんです!? あなたの能力でもう解決したことじゃないですか」
「なにかの弾みで思い出してしまうものもいるかもしれない。なかにはあんたのように能力を受けつけない人間もいるだろうからな」
「だったら平和な暮らしなんていりません」
「あんたは愚かだ。よく考えろ。平和な生活も平凡な生活も、ほしいのなら自分で手に入れるものだ。足並みを乱して生きているあんたが平和な暮らしを望むのなら、それ相応の犠牲がいる」
「お願いだからそんなことはやめて下さい! 人を殺すつもりなんでしょ?」
「どうして怖がっているんだ? 私はあんたの味方だ」
「怖がるに決まっています」
女は喉の奥から笑い声を出した。
「そうか、分かった」
女からの電話は切れた。
みぞれが帰ってきたのは夜の八時ごろだ。
夕飯は岡田さんの家で食べてきていて、眠いのを我慢しているのか瞼が閉じたり開いたりを繰り返している。みぞれに新しい部屋の合い鍵を渡して、二つある部屋のどちらがいいか訊くと、みぞれはどっちでもいい、と言った。僕らの布団や衣類は、業者が部屋を分けて置いていたので、自分の荷物がある部屋で分けることにした。
新しい部屋をキョロキョロと見回しているみぞれに、僕はお風呂の使い方を説明した。浴室に入ると、みぞれはすぐに服を脱ぎ始めた。
「一緒に入る?」とみぞれは言った。
僕はその言葉が意外で、呆気にとられてしまった。
「なに言い出してるんだ……。もしかして岡田さんのところで覚えてきたのか?」
「みんなで入ったよ」
みぞれが服を脱ぐので、僕はあわてて浴室から出た。みぞれの白い肌が綺麗で見とれてしまいそうだったけど。
みぞれはお風呂から上がると、すぐに自分の部屋に入った。うつらうつらしていたから、もう寝ているのかもしれない。
僕はキッチンで一人、真夜中までテレビを眺めていた。
深夜の三時になって、自分の部屋にもどり床についた。
女の夢にうなされて、睡眠が上手く取れなかった。
みぞれが同じ部屋にいてくれたから、今までは気分が落ち着いていたのかもしれない。
キッチンに置いてあるテレビをつけて、その日の朝八時に岡田さんから電話があるまで、僕はずっと画面を眺めていた。
「あ、おはよー! 今日は起きてたみたいだね」
「うん。どうしたの?」
「お祭りだよ! 夏休みの前にみんなでいくって言ったのに、まさか忘れていたの?」
「ううん、忘れてないよ」
「みぞれちゃんは浴衣持ってる?」
「持ってないけど、みんな浴衣でいくの?」
「そうだよ。上代君は黒戸さんの浴衣楽しみにしているんじゃないのか!」
「ごめん、そうだった。寝不足でぼんやりしてて。みぞれに浴衣買ってあげたいけど、結構高そうだね」
「物によるけど、なんなら私の貸すよ? あわてて買うより今度デパートにいってゆっくり見てくれば?」
「その方がいいかな」
「じゃあ着付けするから、四時にうち来て」
「分かった」
電話を切ったあと、目を覚ましたくて浴室で冷水を浴びた。お風呂場の鏡を見ると、目の下にはくまができている。不死身体質でも寝不足になるのかと自嘲してしまう。
風呂から出ると、お金を引き出しておこうと思い、自転車で銀行に向かった。
銀行のATMでお金を引き出したあと、残高を見て目を疑った。
百五十万円振り込みがされている。預金通帳を見ると、振り込みは祖父からだった。いくら僕でも不自然だと思い、通帳を握る手に汗がにじむ。
急いでアパートにもどり、田舎の祖父に電話をかけた。
祖父に話を聞くと、引っ越しで必要なものを揃えるための費用だと説明された。金額が多すぎると言うと、残ったらみぞれと分けなさいと言われた。
祖父は昔気質な人で、必要以上の贅沢は好まない。多くのお金を一気に振り込むことはしないはずだ。それに仕送りは貰っているし、必要な家具や電化製品は揃っている。これは貰ってはいけないお金だ。祖父は女の洗脳を受けて操られている。祖父の気質を知っている僕がこのお金を貰ってしまえば、女の好意を受け取ったことになる。僕の行動を女はどこかで見ているはずだ。あの女は僕の行動次第で本当に人を殺すかもしれない。
ただ祖父はいくら断っても納得せず、僕が受け取らないことに機嫌を悪くしていた。強い口調で受け取りなさいと言われたことで、僕は言い返せなくなった。普段なら喜んでいるところだ。祖父もそれを期待していると分かって、悲しくもなった。
使わなければいいと思い、大切にしますとお礼を言うと、祖父は電話を切った。
二時になってみぞれは目を覚まし、ふらふらと部屋から出てきた。
「おはよう」
と言うと、みぞれは目をこすって「おはよう」と返した。
みぞれがシャワーを浴びている間に目玉焼きを作り、食パンをトースターに入れた。
テーブルに目玉焼きとトーストの載った皿を置いて、部屋を見渡した。広々とした部屋は二人で住むには必要かもしれないけど、この部屋も女が用意しているのと変わらない。結局のところ、僕は周囲を騙すような形でも平和を望んでいるのかもしれない。
そう思い憂鬱な気分になる。
三時半になると、僕らは岡田さんの家に向かった。
岡田さんの家には、もう黒戸と姫髪さんも来ていた。みぞれと別れて、僕はそのまま近くのコンビニに時間を潰しにいく。
着付けを終えて四人が出てきたころには、五時をすこし過ぎていた。
みんなの浴衣姿はよく似合っていた。もともと美少女揃いなのだから、なにを着ても似合うのかもしれないけど、浴衣姿はとても新鮮だった。
黒戸の浴衣姿も綺麗だ。浴衣に合わせたサンダルを履いて、長い髪をアップにしていた。
みんなの着付けは岡田さんがしたというから、黒戸の髪も岡田さんがセットしたのかもしれない。岡田さんも髪をアップにしていて、なんだか自然な感じがした。
僕は今度こそ周りから浮かない格好をしようと思っていたけど、悩んだあげくにいつもと同じ格好をしていた。
みぞれは姫髪さんと手を繫いでいる。二人の後ろ姿に僕はなにか安心していた。たぶん、その姿が平和なんだと思った。僕は四人の後ろを影のようにてくてくとついていった。
三駅分電車に乗って、ついた駅から十分くらい歩くとお祭り会場だ。並木道を歩行者天国にして、道の両端に屋台が出ている。久しぶりに来たお祭りに、なんだか元気が出た。一番初めに屋台のあんず飴が目に入り、みんなで買って神社の境内で食べた。
「さあどんどん祭りを楽しんでいこう!」
と岡田さんが楽しそうに言った。
「あまり目立ったことは避けよう」
と僕は不安を隠さずに言う。
「目立ったことはしないよ。ほんのちょっとくらいハメを外してしまうかもしれないけど!」
「……大丈夫かな」
「楽しまないと、祭りになにしにきたか分からないよ!」
僕らはあんず飴を食べてから、境内を出た。
すこし歩くと射的屋を見つけた。みぞれが景品のぬいぐるみを見ている。岡田さんがそれに気がついたのか、浴衣の袖をまくって言った。
「私の射的の腕を見せてあげるね」
岡田さんが店主に訊いていた。
「ぬいぐるみの的って赤いやつですか?」
店主は頷いた。店主はやや強面の人で、頭をそり上げ顎にはヒゲをたくわえている。人を見た目で判断してはいけないかもしれないけど、こちらを向いたときに目が合ってしまい、僕は表情を引きつらせてしまった。
射的の的は木材を立ててあるような形になっている。景品によって的の大きさが違い、高価な景品だと当てるのは難しそうだ。景品の札と同色の的に当てれば、見事ゲットできる。
「じゃあ五百円」
と岡田さんは財布からお金を出して渡していた。景品に高価な品が多く、五百円で二回撃てるようになっている。
「みぞれちゃん、欲しいものがあれば取ってあげるよぉ」
と岡田さんが自信満々で言った。
みぞれは景品を見て「あれがいいなー」と呟く。
熊のぬいぐるみだ。やっぱりほしかったんだ。でも他の的よりもかなり小さくて、五メートルくらい離れたところから、指二本分ほどの的を狙うようになっていた。
岡田さんはライフルを構えてぬいぐるみの的に狙いをつけていた。そう簡単に取れないだろうと僕は思っていたけど、岡田さんの撃った弾は一発で的に当たっていた。
「……すごい、当てた」
となりにいた姫髪さんも、驚いているのか、浴衣の袖で口元を覆っている。
岡田さんはやったぁ、と喜んでいた。だけど、的を落とさないと景品はあげられないと店主に言われてしまう。
「当てただけじゃ駄目だね」
騒ぐ僕らをうっとうしそうに見やり、店主はそう言った。
岡田さんは「おっかしいなぁ」と呟いて店主を見る。「あの的、本当に落ちるの?」
店主は頷いて、的の角を指さした。射的のコツは景品の角に当てることらしいけど、この板でできた的なら、どこに当てても落ちそうなものだ。
岡田さんはもう一度ライフルを構えて、狙っていた。岡田さんの射的の技術は並々ならぬものがあり、今度は角に命中したのだけど、やっぱり的はピクリともしない。
店主は岡田さんからライフルを取り上げた。
この店は怪しいと、僕以外のみんなも思ったに違いない。お祭りに初めて来るみぞれですら、なにかおかしいと感じたのか的をじっと見ていた。
「あの、岡田さん射的がすごく上手なんですね。他のお店で挑戦してみませんか?」
姫髪さんが、ムッとしている岡田さんに声をかけた。
「もう一回やる!」と岡田さんは悔しそうに店主を見て「はい五百円!」と台の上にお金を置く。
店主は新しいライフルを岡田さんに渡して、ちょっと表情を崩して言った。
「もっと取りやすいもの狙いな」
岡田さんは店主の言葉を無視して、ライフルを構えてぬいぐるみの的を狙っていた。
今度は的に当たることもなかった。なんだか、ライフルの弾が真っ直ぐに飛んでいなかった気がするのだけど……。
岡田さんはガクリと頭を下げて、残念そうに店主に言った。
「残りの一回は、友達にやってもらってもいい?」
店主が頷いたので、岡田さんは黒戸にライフルを渡そうとしていた。
「黒戸さんも挑戦してみて!」
「私はやめとくよ」
「あの熊のぬいぐるみを取ろう!」
「でもいいの?」
「目には目をってやつだよ」
黒戸は諦めたように岡田さんからライフルを受け取って、構えた。
「的を落とせばいいんだよね?」
と黒戸は店主に確認した。店主は頷く。二人はなにをするつもりだろうと疑問に思った。
黒戸は狙いをつけてライフルを撃つ。シュン、と音が聞こえて、僕らの髪が逆風で持ち上がる。黒戸はなにか能力を使ったんだ……。弾は木製の的を直撃して、屋台の後ろまで吹き飛ばした。吹き飛んだときに見えたけど、的の裏面は紐のようなもので固定されていた。たぶん普通のライフルの威力では落ちないように細工がしてあったと思うけど、これはやりすぎなんじゃ……。
「取ったぁ!」
と岡田さんが喜んだ。みぞれとハイタッチをしていた。
黒戸が、驚愕している店主に「景品は?」と訊く。
店主は怪訝そうに僕らを見ていたけど、しぶしぶと熊のぬいぐるみを紙袋に入れて黒戸に渡した。僕は黒戸からその袋を受け取る。
「みぞれちゃん他に欲しいものはあるかい? お姉さんたちがなんでも取ってあげるよぉ」
これ見よがしに岡田さんが訊いていた。たぶん岡田さんはこの店に腹を立てている。
みぞれは「あれがいいかも」と指をさした。最新のゲーム機で、これも取れないように細工がしてありそうだ。
「よし、まかせておきなさい! はい五百円!」
岡田さんはお金を台の上に置いた。
店主は顔をしかめながらお金を受け取って、さっきとは違うライフルを岡田さんに渡した。まず岡田さんがライフルを撃つけど、今度も弾は真っ直ぐに飛ばなかった。岡田さんはライフルを黒戸に渡した。
「黒戸さんお願い!」
店主の表情が変わり、ライフルを取り上げようとしているのか黒戸に近づく。黒戸はノーモーションでライフルを撃った。ゲームの的は吹き飛び、屋台の鉄骨にピンポン球のようにぶつかって、店主の足下にぽとりと落ちた。店主が呆気に取られた様子で、的を手に取っている。
「ゲーム機ゲット! やったー!」
と岡田さんが叫んだけど、店主はゲーム機じゃなくてゴムバンドの腕時計を持ってきた。おめでとう、と言って黒戸に渡した。
岡田さんと黒戸が、カチンと来たのが分かった。二人は黙ってゴムバンドの腕時計を見つめている。喧嘩を始める前に僕は言った。
「僕らゲーム機を取りませんでした?」
「あれは時計の的だよ」
「時計ではなかったような」
「お前ら、今回は見逃してやるからもう他にいけ」
店主は苛立ったようにそう言った。なにかズルしてるとでも思われているのかもしれない。たしかに黒戸の能力を使っているから、間違いではないけど。でもその前にこの店がインチキをしていたわけで……。どこかに妥協点があればいいのだけど。商品はいらないから二人にインチキしたことを謝ってくれれば、そう期待して僕は言った。
「的が落ちないように細工してませんでした?」
「お兄さん、迷惑行為だよ?」
と店主は低い声で言った。……考えてみれば、謝るくらいなら初めからインチキしない。その一言でさらに険悪な空気になってしまい、黒戸がつまらなさそうに口を開いた。
「上代君、お金貸して。全部落とすから」
店主がピクリとして、黒戸の方を見た。
「だから、他いけって言ってるだろ」
僕は千円出して、さっと店の台に置いた。
「ライフル」黒戸は店主を見てさめた声で言った。
店主はモンスターに出会ってしまったような表情で固まっていた。目が合っただけで、本能が恐怖する黒戸の眼力だった。髪をアップにして浴衣を着ているけど、黒戸は可愛いなんてもんじゃなかった。
店主は顔をゆがませてぽつりと言った。
「ゲーム機はやるから、もう帰れ」
岡田さんが追い討ちをかけるように言った。
「みぞれちゃん、欲しいものまだある?」
店主が「帰ってくれ!」と叫んだ。
みぞれは景品をしげしげと見ていたけど、残りはラジコンや腕時計などしかなく、「ないなぁ」と呟いた。岡田さんは店主にビシッと言った。
「今日はこの辺にしてあげるけど、明日も来るかもね! 今日のところはみぞれちゃんに感謝しな!」
店主は金縛りから解けたように頷いた。
僕はやりすぎなんじゃないかと思って、ハラハラしながら姫髪さんを見たけど、姫髪さんもこちらを向いて「お祭り、楽しみましょう」と言ってくれる。その台詞になんだか安心してしまった。
みぞれの貰った景品は僕が持っていたので、両手が塞がっていた。
みんなで金魚すくいに挑戦したときは、黒戸がお椀いっぱいに金魚をすくい、岡田さんはもともと上手いのかデメキンを二匹すくっていた。姫髪さんはでかい金魚を一匹すくって、みぞれは一匹もすくえなかった。僕は寄ってきたのを一匹すくった。
僕らは金魚をお店に返して、そのあとスーパーボールすくいや、ヨーヨー釣りや、輪投げや、型抜きなどをした。
歩行者天国の終わりまで来て、岡田さんが満足げに言った。
「祭りを制したわ!」
「お店の人、驚いていたけど」
「祭りは楽しんだもん勝ちなの! 細かいことは気にするなよ!」
黒戸もだんだんノってきていたし、姫髪さんも意外とリラックスしていた。みぞれも終始笑顔で、頭には魔法少女のお面が載っている。
僕らはかき氷を買って、休める場所を探した。祭りの会場からすこし抜けたところに小さな公園があり、ベンチに座ってみんなでかき氷を食べていた。
祭り会場の賑わいが少なくなり、虫の鳴き声が聞こえてくる。人混みから離れたことで、みんななんとなく落ち着いた気分になっていたのだけど、サイレンが聞こえてそわそわとした気分がもどった。公園沿いの道路を、消防車と救急車が通っていく。
かき氷を食べたあと、祭りの会場にもどってゴミを捨てた。
そのときに、屋台の人たちの様子がおかしいことに岡田さんが気づいた。
岡田さんはなにがあったのか屋台の人に訊きにいき、帰ってくると眉をひそめて言った。
「なんか、近くのビルで火事があったらしいよ」
「消防車のサイレン鳴ってたね」
「いってみようか」
「救助活動の邪魔になると思うけど」
「遠くからなら平気だよ。見ておこう」
岡田さんが「早く!」と先を歩いていく。岡田さんに続くように、僕らは火事の現場に向かった。
火事があったのはビジネスホテルだ。建物の窓から火が吹き出て、灰色の煙が上っていく。僕は炎の熱を感じながら、女の顔を思い出していた。ここは僕が連れていかれたビジネスホテルと同じところだ。
何台もの消防車が消火活動をおこなっていた。サイレンの音が響いて、怪我人が救急車に運び込まれている。
そのなかに、黒戸の助けた男の子と、その子の母親がいるのを見つけた。二人に意識はなく、タンカに載せられて、救急車に運ばれていた。
目を覆いたくなった。
あの女がこの火事を起こしたんだ。僕らの能力に気がつきそうになった人間を殺そうとしている。
ビジネスホテルの火事は広がっていた。まだ犠牲となった人がホテルのなかにいるのかもしれない。そう思うと目眩がしてきて、その場に倒れそうになった。
消防隊員に注意されて、僕らはその場から避難した。
祭りの会場にもどる途中で、僕は気分が悪くなったからと言って、みぞれを残して先に帰らせてもらった。
アパートにもどり、みぞれの貰った景品をキッチンのすみに置いた。吐き気がして、僕はその場にしゃがみ込んだ。炎の熱の感覚が肌から離れなくて、体が震えていた。
僕がアパートにつくのを見計らったように、電話がかかってきた。ディスプレイには非通知の文字が出ていて、コールは続く。僕は一息に受話器を耳にあてた。
電話の声は、あの女のものだった。
「祭りは楽しかったか?」
「…………」
唇が震えていた。
「あんたに頼みがある」
と女は静かに言った。
僕が黙っていると、女は悲愴感のある声で続けた。
「子供が、目を開けない」
「……待って下さい。僕になにをさせるつもりですか? ……僕にはもう、なにもできないんです」
「車は用意してある。すぐにこい」
女は電話を切った。僕が受話器を置くと、アパートのインターホンが鳴った。その場から動かずにいると、インターホンは鳴り続けた。
僕は用意されていた車に乗った。車はM市の市立病院に向かい、僕は入り口で降ろされ、病室の番号を告げられた。
もう時刻は夜九時を過ぎている。病院は閉まっている時間のはずだけど、入り口の自動ドアは開いた。僕は教えられた病室まで歩き、個室のドアを開けた。
室内には、腕を組んで部屋のすみに立っているあの女性がいた。子供はベッドに寝かされて、全身を毛布で隠されていた。
「あれから、目を開けなくなった」
僕は子供の寝かされているベッドに近づいた。毛布に手をかけて、めくる。
可愛かった男の子の姿は、肉と水分がなくなり、ミイラのように全身が縮んでいた。瞼は半開きで虚空を見つめている。髪の半分は抜け落ちて、皮膚は茶色く変色して乾いていた。
初めから無理があった。ホルマリンに漬けられていた子供を生き返らせることができるはずなかったんだ。
「この子はもう生き返らないです」
「もう一度、奇跡を見せてくれ」
「もう楽にしてあげた方がいいと言ってるんです!」
「あんたならできる。生き返らせてくれ」
僕がこの人を責められるのだろうか。ふとそんな疑問が生まれていた。
僕は自分のために母や黒戸を生き返らせている。僕にはこの人を責める資格はないのかもしれない。……でもこんなことおかしい。
「分かって下さい」
「……どうしてこの子は死んだ? あんた私を騙したのか?」
「違います、騙してなんていません」
「子供を生き返らせるつもりは、初めからなかったんだな?」
「そんなわけない」
呼吸が苦しくなった。暗い洞窟のなかにいるような感覚。女の言葉に、偏執的な怖さを感じた。
「なぜ生き返らせるのを嫌がる。忘れたわけではないだろ?」
「…………」
いつでもみんなを人質に取れること。……ホテルの火事を起こしたのもやっぱりこの人だ。
僕はミイラになった子供に、片手を触れた。
再生能力を使おうとして手が震える。
能力を使ったとしても、子供の体はきっと耐えきれない。黒い粉になるか、たとえ生き返ったとしても、またすぐ死んでしまう。僕はそれが分かっているのに、能力を使うのか?
「……できません。お願いだから」
女は僕の言葉を予想していたように口を開いた。
「仲間のことを見捨てるのか?」
「……見捨てるつもりなんてありません、でもこんなこと間違ってる」
「奇跡を起こすには、仲間の命では足りない。そういうことだ」
「僕の能力は奇跡じゃない。限界があります」
「子供が生き返らないのなら、私は世界を終わらせる。私の指一つで、核を飛ばせると思え。あんたでも、それがなにを意味しているか分かるだろ」
すぐには、頭がついていかなかった。核? 核ミサイル?
「そんなもの簡単に飛ばせるものじゃありませんよ」
「噓だと思うか?」
「だって、あなただって死にますよ!」
「今から中国が日本に向けている核ミサイルを飛ばす、あんたもその目で見れば信じる気になるだろ」
なに言ってるんだ。
「子供一人のために、大勢の人を殺すんですか?」
「あの子が生き返るなら、いくら死んでも構わない」
「……いくらなんでも、信じられません」
女は右手を胸元にまで持ち上げる。親指、人差し指、中指の三本が赤く光っていた。
本当にできるのか。……噓でも脅しでもなく。
僕は女から目を離して、もう一度、子供の皮膚に片手で触れた。縮んだ体、乾燥した肌、可愛らしかった男の子の面影はなかった。僕は集中し、能力を使い、でも今度こそ、この子は生き返らないと確信する。
「雪介が生き返らせたくないなら、生き返らせないでいいんじゃない?」
部屋のすみから声がして、僕は反射的に視線を向けていた。
徐々に、目出し帽を被った染谷先輩の姿が現れてくる。人格は妙生だと、口調で分かった。僕が目を丸くしていると妙生は言った。
「いやいやいつ声をかけるか迷った迷った!」
「お前、なにしてるんだ。透明化してこの部屋にいたのか?」
「黙ってるのは大変だったよ!」
女は突然の来訪者に能力を使うのをやめていた。妙生を見て、不愉快そうに言った。
「あんたは、なんだ?」
妙生は女の言葉を無視して、子供の寝ているベッドに近づいた。背中から缶を取り出して、液体を子供に振りかけた。
液体の臭いは、嗅いだことがある。ガソリンだ。僕は呆気にとられる。妙生はガソリンをかけた子供に、火をつけたジッポーライターを投げた。
ミイラになった子供の全身に火が回る。火はカーテンや毛布に燃え移り、室内には煙が充満していく。
「お前なにしてんだよ! 子供燃やしてどうするんだ!」
「どうせもう生き返らないだろ」妙生は背中からゴルフのドライバーを出して僕を見る。
「それじゃあな雪介」
「なにしに来たんだ! それにそのドライバーはなんだよ」
妙生は透明化して消えてしまった。
女は燃える子供の姿をなにも言わずに見ていた。取り乱すことも、声をあげることもなく、その場にたたずんでいた。
その女の姿は、なにか諦観しているように見えた。子供の死を受け入れたような……。
僕は考えるのをやめて、女から目を離して部屋から逃げた。病室では火災報知器が鳴り、スプリンクラーが作動し始めていた。でも騒ぎで駆けつける人はいない、たぶん病院のスタッフも女の洗脳にかかっている。僕は廊下を走って、床を蹴って階段を降り病院を出た。
公衆電話を探して、岡田さんの携帯に連絡を入れた。前置きなしに僕は言った。
「今からみんなを集められる?」
「どうしたの? あわてているみたいだけど」
「僕のアパートに集まってほしいんだ。できるだけ急いでほしいんだけど」
「いいよ。上代君、今外だよね?」
「そう。僕もすぐにもどるよ」
「なにがあったのか分からないけど、落ち着いてね」
「分かった。落ち着く」
「じゃああとでね」
岡田さんとの会話を終えて、僕はタクシーをつかまえて自宅まで帰った。
アパートについてしばらくすると、岡田さん、姫髪さん、黒戸、みぞれが一緒に来た。もう浴衣は着替えていて、私服姿だ。
キッチンスペースに腰掛けてもらって、僕は起きたことの説明をした。女が僕に能力を使わせるためにふたたび接触してきたこと。でも妙生が現れて、子供は燃やされてしまったこと。
岡田さんが怒っているような、悔しがっているような表情で口を開いた。
「上代君はさ、なんで女と戦おうとしなかったんだよ! 上代君が子供を生き返らせたくないなら、きっぱりと嫌だって言えばよかったんだ!」
「僕はあの人が怖かった。……核を飛ばすとまで言ってたよ」
姫髪さんが不安気にこちらを見て、そろそろと口を開いた。
「核ミサイル、本当でしょうか……?」
「なんとも言えないけど、噓を言っているようには見えなかったから」
岡田さんが「それにしても」と切り出した。「妙生君はなんで子供に火をつけるなんて真似をしたんだろう?」
「……分からないよ」
妙生としては、僕らが死んでくれる方がありがたいのだから、女を挑発して僕らに差し向けようとしたのかもしれない。
「黒戸ちゃんすこし優しくなった?」
と部屋のすみから声がした。僕らが声の方を振り向くと、目出し帽を被っている妙生が徐々に現れてくる。玄関近くの壁に寄りかかって、腕を組んでこちらを見ていた。また透明化して部屋にいたのか、いつ部屋に入ったんだ。
岡田さんは複雑そうな顔をして覆面男を見ていた。染谷先輩とは喧嘩をしていて、まだわだかまりが残っている。
「なにしに来たんだ?」と僕は訊いた。
「まあまあそう怖い顔するなってば」
妙生はみんなを見渡して、ゆっくりと言葉を続けた。
「俺は染谷君のなかで考えたんだ。色々と考えた。そして気がついた。考えるのは面倒だってな」
「どういう意味だ?」
「そのままの意味だな」
岡田さんが期待を込めるように言った。
「ねえ、妙生君は、上代君を助けようとしてくれたんでしょ? だから子供に火をつけたんじゃないの?」
妙生は首を捻って言った。
「俺はやりたいからやったんだ。理由なんてないんだ。人間みたく余計なことは考えたくない。人間ってさ、不完全な脳があるから、苦しんだり余計なことをごちゃごちゃ考えるんだよ」
「よく分からない」
と岡田さんは唇を尖らせて呟いた。
「俺のことは気にしないでいいよ。どんどん話しなよ」
と妙生は手を差し出して言った。
僕はみんなの方を振り向いて言った。
「女はこれから僕らを襲ってくると思う。だけど僕は今度こそ戦うよ。決着をつける。だからみんなは――」
「よしやろう!」
と岡田さんが叫んだ。
姫髪さんも言った。
「私たちも、なにかしたいんです」
頭痛がした。みんなをどんどん危険にさらしている。岡田さんが確認するように訊いた。
「その人百歳を超えているのにまだ二十代後半くらいの容姿なんだよね? 日本語もペラペラで、力も強いと」
「力は凄かった。女は片手で僕の首を摑んだけど、両手でも引きはがせなかったよ。日本の文化をあまり知らないと言っていたけど、日本語は何年も住んでいるみたくとても流暢だった」
「ネクタールが入っているから若いままでいられるとか、力が強いってのはあると思うけど、それ以外にその女は自分に能力を使っているんだと思うんだよ」
「女の能力は洗脳じゃないの?」
「自分を洗脳しているの。能力を自分に向けて、暗示をかける。私は若いとか、私は日本語が話せるとか、私は力が強いって。脳が暗示を受けて、実際に暗示の内容を体現するようになった」
「洗脳で、そんなことができるの?」
岡田さんは自信なさそうに「うぅん」と悩んでいた。それから僕の方を向いて言った。
「その女は自分の能力で、無理矢理、脳のプログラムを変えてしまっていると思うんだ。もともとネクタールには潜在的な力を引き出す性質があるから、強い暗示を受けた状態でいれば、できると思うよ」
染谷先輩の運動能力や、姫髪さんの直感も、ネクタールで潜在的な力を引き出しているから起きる現象だ。そういえば、僕はネクタールが入ってから喘息が治った……。
「たしかにあの人の執念なら、どんな目的でも力業で成し遂げてしまう気がする」
ただ僕には、あの人の執念みたいなものが一番理解できなかった。
どうして子供を生き返らせるだなんて一点に、自分の人生を注ぐことができるんだ。いくら子供の死が悲しいからといっても、百年近い時間のなかで、生き返らせたいといった気持ちがなくならずにいられるものだろうか。忘れることの方が簡単だったはずだ。
「それから女の能力についてだけど、能力の効果範囲が広すぎるんだよね。中国の核ミサイルを飛ばそうとしたら、女は海を越えてネクタールを放射しないといけないわけだけど、そんなこと無理だよ。自力で能力の効果範囲をカバーできるのは、せいぜい町一つくらいだし」
「どうにかして直接、国の指導者に連絡をして『核ミサイルを発射しろ』って洗脳をかけることができれば、飛ばすことができるかもしれない。……電話とか」
「それだと洗脳できる対象が一人だけだよ。一人を洗脳したくらいじゃ核ミサイルは飛ばせないと思うんだけど。それにその女って黒戸さんの動画を忘れさせたり、みぞれちゃんのことを社会に溶け込ませたよね。離れたところにいる人たちを、一度にたくさん操ってる」
「そう言えば、そうだね」
「電波やインターネットに、自分のネクタールを混ぜていると思うんだけど」
「電波って、ラジオとかテレビのこと? インターネットってイメージしにくいんだけど」
「女が能力を使って、ネット上になにか書き込みしたりキーワードを入れれば、勝手に洗脳が拡散するとかかな。実際にどうやってネクタールを使っているのかは、会ってみないと分からないけど。それにしても人を操ったり潜在能力を引き出したり、とんでもない能力だね」
「勝てないわけだ」
「そこでだ」と岡田さんがみぞれの方を向いた。「みぞれちゃんに活躍してもらいたいんだ……。みぞれちゃんには申し訳ないんだけど」
「女にマジックキャンセルを使うのか。そうすれば、女の能力を押さえ込むことができるかもしれない」
「そうじゃなくて、女はたぶん、自分のことを何度も洗脳していると思うの。執拗に子供を生き返らせようとするのも、そのせいだと思う……」
「……どんな洗脳を自分にかけているの?」
「子供を生き返らせるための気持ちが失われないようにするためにさ。私は必ず子供を生き返らせる。そのためならなんだってする。そんな風に自分を洗脳していたりしないかな」
「女が自分にかけた洗脳をみぞれのマジックキャンセルで解ければ、女は正気をとりもどすかもしれないってこと?」
「……うん。救ってあげてよ」
子供と会えることだけが女の生きる意味だった。だから女は、子供が容器に詰められているのを見たとき、絶対に気持ちが変わらないように、自分を洗脳した。子供を絶対に取りもどす。もしできないのであれば、残るのは憎しみだけになる。子供への愛が世界を滅ぼす。