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第2巻 人形使いのペトルーシュカ 第一回
野中美里 Illustration/えいひ
“すべてを支配する女”VS.“オカルト部”——!ネットにアップされた、黒戸(くろと)サツキの超常(ちょうじょう)の身体能力を捉(とら)えた動画が上代雪介(かみしろ・ゆきすけ)ら“オカルト部”を新たなる大事件に巻き込んでゆく——!星海社FICTIONS新人賞から飛び出した俊英・野中美里、満を持しての受賞後第一作!
プロローグ
夏休みをどう過ごすかは、毎年僕にとってとても悩ましい問題だった。中学生のころは父の実家で蟬やカエルを捕って遊んでいるか、一人で川で遊んでいた。
日によっては夏祭りのにぎわいが聞こえてきたり、花火の打ち上げの音が聞こえてきたけど、すべて無視した。そして夜中にふらふらと町を散歩した。
高校一年生一学期最後の日、学校は解放感に溢れているようだった。放課後のホームルームで時間があまり、教室はクラスメイトたちのにぎやかな会話に包まれている。
返されたテストの答案を持ちよっているグループや、遊びにいく予定について話しているクラスメイトたちが、明日から始まる休みにテンションを上げていた。
そのクラス内の空気に、僕はなんとなく肩身が狭くなった。やることの決まっていない時間はすごく長く感じる。早く家に帰りたい。
ようやく放課後のホームルームが終わり、僕は教室で話している岡田さんや黒戸を残してそそくさと教室を抜け出した。
明日から夏休みだ。今年も予定はない。
夏のはじまり
クラスを出ると、僕は部室の方に歩いていった。教室を出るときに、岡田さんに「部室で待ってて!」と呼びとめられていたからだ。黒戸と岡田さんはまだ教室に残っていたけど、部室には姫髪さんがいるかもしれない。そう思うと歩くスピードも自然と上がるのだった。期待して部室のドアを開けるけど、残念なことにまだ誰も来ていない。
僕はバッグを長机に放って、窓を全開にする。今は七月二十八日、夏の盛りである。旧校舎二階にあるこの古い部室は、コンクリートで固められた熱帯ドームさながらの暑さだった。
僕はスチールイスに座りぼけっとして、なんとなくちょっと前のことを思い出していた。
約三ヶ月前の入学して間もないころ、僕は相変わらず友達を作ることもせずに、一人でざくざくと地面に穴を掘るような生活をしていたのだけど、ふと思い立ち深夜の校庭にいったことで黒戸と出会ったのだ。惹かれ合うようなロマンチックな出来事はなかったけど、たぶん僕らはファーストコンタクトで分かっていた。お互いに自分の能力を使って、過ちを犯していること。だから黒戸は僕に興味を持ち、僕も黒戸に興味を持った。そして僕は、シマウマ男に殺されてしまった黒戸を再生能力を使うことで生き返らせた。でも結局、その行為がさらに大きな問題に繫がっていってしまう。黒戸を生き返らせたことで、運命の歯車、物事の因果が変わってしまったのだ。
もしかしたら、人を生き返らせることは、人を殺すことと行為の重さが似ているのかもしれない。誰かが生き返れば、生きている人間になにかしらのしわ寄せがいってしまう。
僕と黒戸は、岡田さんに勧められたことでオカルト部に入部し、他にも能力を持っている人と出会うことになる。因果を見ることのできる姫髪葵さん、それから僕らの能力を分析できる副部長の岡田恵美、透明化の能力を持っている三年生の染谷先輩。僕らがそんな能力を使えるのは、ネクタールといったバラバラになった宇宙船のパーツが寄生しているからだけど、ネクタールには元の船の形に復元しようとする自己修復プログラムという機能が備わっていた。感情を利用して宿主の殺し合いをさせる機能。宇宙人の妙生が元の世界に帰るために必要な機能だけど、働いたら僕らはみんな死ぬことになる。結果的に僕らは自己修復プログラムを回避することができたけど、ネクタールの寄生した猫と戦ったり、システム自体をとめるために走り回ったりした。あれからもう二ヶ月以上経つけど、すごく昔のことを回想している気がしてしまう。ただ宇宙人の妙生は染谷先輩のなかに住み着いてしまっているので、これはいかんともしがたいのだけど。
室内の温度に耐えられなくなり、僕はバッグから大学ノートを出して団扇の代わりにした。
あおいでいると、ふいにガラガラと部室のドアが開いて、僕は入り口に視線を向けた。
反射的に体が固まってしまう。ドアを開けて入ってきたのは、黒戸でも岡田さんでも姫髪さんでもなく、染谷先輩だった。
染谷先輩は室内を見回したあと、僕の方に視線を向けて「一人なのか?」と言った。
背筋が伸びる。僕は「はい」と答えて、頷いた。
「他の部員はどのくらいで来る?」
「もうすぐ来ると思いますけど。委員会や用事があるわけではないので」
「そうか。急いで来るんじゃなかった」
「……すみません。あの、先輩はどうして部室にいらしたんですか?」
「休みの前に訊きたいことがあったんだ。ちょうどいい」
一拍おいて、染谷先輩は「外に出よう」と続けた。
僕の返事も聞かずに、染谷先輩は大股でドアから離れていった。すこしためらったけど、僕は染谷先輩を追いかけた。
外は太陽が高くて、歩いているだけで汗が流れてくる。素肌に着ているYシャツが背中にくっついて、先輩の後ろを猫背になって歩いていた。校庭では体育会系の部活が自主練習を始めていて、染谷先輩は練習している野球部員のそばによってミットとボールを借りていた。
校庭のすみまで来ると、染谷先輩は僕にミットを投げた。なにをするつもりなのかと思っていると、染谷先輩は「キャッチボールをしよう」と言った。
僕は呆気に取られてしまう。それからしばらくボールのやりとりをしていると、染谷先輩は「気持ちいいな」と叫んだ。
「野球好きなんですか?」と僕は訊く。
「ああ」
このキャッチボールを十分くらい続けたあと、僕らは木陰に腰を下ろして休憩をした。僕の全身には汗がだらだらと流れていたのだけど、染谷先輩は涼しい顔をしている。気温は四十度近いのに、超人なんじゃないかと僕は思う。
「体力がないな」
と染谷先輩はさらりと言った。
「先輩がすごいんです」
「ネクタールが寄生しているんだ。鍛えれば、身体能力は常人よりも高くなる。身体能力テストの結果は周りよりもよかったんじゃないか。五十メートルのタイムは何秒台だ?」
「六秒台後半でした。そういえば、普段なにもしていないにしてはよかったかもしれないです」
「もうすこし頑張れなかったのか?」
「これでも必死に走りましたよ。周りと比べても、そんなに遅いとは思いませんでした。……染谷先輩のタイムはどのくらいだったんですか?」
「四秒台だ。非公式のタイムだけどな」
人間じゃない。
それにしても染谷先輩はなにを考えているんだろう。僕はすこしいぶかしんでいた。染谷先輩は心の裡で僕を憎んでいるはずだ。でもそうかと思えば助けてくれたこともあり、一概に敵視はできないのだけど。
緊張して黙っていると、染谷先輩は続けた。
「キャッチボールをしたのはリラックスしてもらうためだ」
「……ありがとうございます」
「本題に入ろう。君は俺たちの他にネクタールの寄生した人間がいると思うか?」
「たぶん、いると思います。……そう考えた方が自然ですから」
「もし能力を持った人間が襲ってきたら、どうするつもりだ?」
「相手がどんな能力を持っているかによります。でも僕らの能力はわりと万能というか、バランスがいいような気がしてるんです。黒戸の運動能力と僕の治癒能力、あと姫髪さんの能力は索敵に使えると思いますし、岡田さんは他者の能力を分析できますから」
「俺が訊きたいのは君のことだ。君は弱いだろ。俺が襲ったときもあっけなく捕まっている」
「……う。先輩がそれを言いますか」
「あまり危険に対して不安は持っていなさそうだからな」
「そんなことはないですけど……。むやみに見えないものを怖がっていたら生活できないです」
交通事故を避けるために車に乗らないのと同じ。そのくらいには図太く考えているかもしれない。
染谷先輩はこちらに視線を向けて言った。
「君は言ったな、もし俺がまた襲ってくるのなら今度は戦うと。もしも本当に誰かが君たちを襲ってきたら、また黒戸君に助けてもらうつもりか?」
僕は言葉に詰まってしまう。染谷先輩は正しかった。たしかに僕は、黒戸の格闘能力を頭のすみで頼りにしている。
それにしても、どうしてそんな話するんだ。
「もしかして、染谷先輩は僕らの他にも能力を持っている人を知っているんですか?」
「いいや、そうじゃない」と首を振り、染谷先輩は僕を見る。「雪介君は、ここ最近なにか周囲に違和感を感じることはないか? 肌に刺さるような空気とか、誰かの視線といったものだ」
染谷先輩の言葉にしては曖昧な気がした。僕はすこし悩んで答える。
「いえ、僕にはなにも」
「じゃあ他のメンバーもなにも言ってないのか?」
「言ってないと思います」
「そうか。分かった」
染谷先輩は関心を失ったように、話を切り上げてしまった。その場から立ち上がり、バッグを持った。
「すみません。なにか期待外れな答えだったみたいで」
「いいんだ」
染谷先輩は大股で歩いていってしまった。染谷先輩の持っている空気に触れて、僕はなんだか狐につままれたような気分になっていた。歩いていく染谷先輩の背中を見て、そのままぼんやりとしていると、ふいに部室にいくことを思い出した。あれからずいぶん時間が経っている。僕はミットとボールを野球部員に返して、急いで旧校舎の方に向かった。
部室にもどってくると、オカルト部のメンバーはもうみんな集まっていた。岡田さんは教科書を団扇の代わりにしていて、僕を見て「どこいってたのジュースおごって!」と叫んで、長机を教科書で叩いた。
「ごめん。ちょっと校庭にいた」
「もう! 部活があるって言ったのに。それにしてもこの部室の暑さ酷すぎだよほんと。ホイル焼きにされる魚の気持ちが分かるわ」
「今日は一段と暑いからね」
「じゃあジュースはあとでおごってよ。そんなことより部活しよう部活。えーっとね、とりあえず新聞はみんなでチャチャッと終わらせよう! それからお祭りと花火大会と海水浴とUMA探しをするつもりだから空けておいてほしい日があるの」
さらっと言ったけど、UMA探しってなんだ。
「危ないイベントはやめよう」
岡田さんは「えぇ」と顔を歪める。「ネクタールの入った生き物がいるかもしれないのに、上代君はほっとくの?」
「やぶ蛇のような真似はよくないよ。変な生き物を刺激したら、事故に繫がるかもしれないから」
「そうかなぁ。姫髪ちゃんに協力してもらえれば二、三匹捕まえられると思うんだけどなぁ。夏休みでも利用しないとなかなかできないよ」
残念そうに岡田さんは言った。姫髪さんを見ると微笑を浮かべている。
あれから姫髪さんの因果を見る能力は失われたままだけど、勘の鋭さは以前と変わらない。岡田さんはそれを期待して言っていた。姫髪さんの能力が使えないのは、本人が無意識に能力を使うことを避けているからなのかもしれないし、いまだに未来が不確定のままだからかもしれない。どちらにしても、姫髪さんは能力がなくなって悲しんでいるわけではなかった。僕らもあまり気にしていない。
「本当にお祭りとかいくの?」
と僕は訊いた。部活の延長とはいえ夏休みに友達と過ごすことになるので、感慨深くもなるのだった。
「もちろんいくよ! 楽しみだなぁ、浴衣着ていくんだ。みぞれちゃんも絶対に連れてきてね」
「分かった。連れていくよ」
今まで友達のいなかった僕にしてみると、祭りや花火大会はとても新鮮なイベントだった。小学生のころに数人でいったことはあったけど、途中で喘息の発作が起きてみんなとはぐれ、置いていかれて一人で帰った。
僕は思い出を振り払うように首を振り、言った。
「浴衣姿、楽しみにしてるよ」
「なに言ってるんだよ、そういうことは黒戸さんに言ってあげるんだよ」
黒戸を見ると、爪をいじっていて聞いてないのだけど。
「暑いからもう出ようか」
岡田さんが暑さにうながされるようにそう言って、僕らはみんなで部室を出た。
校門を出ると、僕と黒戸は自転車に乗って帰る。僕らが一緒に帰るのは、たんに家の方向が同じだからだ。黒戸と付き合い始めてもう二ヶ月経つけど、恋人らしいことはなにもしていない。たまにみぞれに会いにアパートに来ることはあるけど、ゲームをしてすぐに帰ってしまうし、会話もあまりなかった。
「夏休みはなにして過ごすんだ?」と僕は横並びで自転車をこぐ黒戸に訊いた。
「べつに、予定はないけど」
黒戸はそっけなくそう返す。
できれば夏休みの間に、すこしでも距離を縮めたいのだけど。黒戸はその辺どう考えているんだろう。
「どこか遊びにいく?」と僕は訊く。
「どこかって?」
「あまり人が多いところは避けたいから、動物園とか水族館は? 黒戸は動物好きだろ」
「動物園かぁ」
黒戸が動物園に反応したのを見て、僕は間を置かず言った。
「夏休みの間ならコアラが抱ける」
「コアラって抱かれるとストレス溜めるらしいよ」
「本当に? でも可愛いよ」
「ストレスで死ぬかもしれないよ?」
動物園はいきたくないといった、黒戸なりの遠回しな意思表示なんだろうか。それとも黒戸の動物への愛情が変な形で出ているだけなのか。なにを考えているのか分からなかった。
「……抱くのはよすよ。コアラを苦しめたくない」
「それに結構臭いらしいよ。でも臭いのは仕方ないのよ。コアラは悪くない」
「コアラはなにも悪くないよ。動物園はよそう」
黒戸は頷いて、言った。「動物って可愛いけど、飼えるわけじゃないし」
「それはそうだけど。だから見にいくような気がするけどな」
「悲しくなるじゃない。ライオンとかワニを一度でいいから飼ってみたい」
「冗談に聞こえないけど。じゃあ映画は? 今は面白そうな映画が多いから」
「上代君、いつも家で観てるじゃない」
観てるけど、映画館にいきたいんだ。二人で遊びにいきたいんだけど。他に誘えるところはあるかと悩んでいると、黒戸は思い出したように言った。
「それに映画は、この前三人で観にいったから」
「え、そうなの?」
僕は声をかけられていないけど。
「なかなか面白かったよ」
僕はおおらかに笑った。
「それ、いつ観にいったの?」
「試験が終わったあとだけど、いきたかった?」
「いきたかったよ。女子に混ざっていくのも悪いかもしれないけど」
「上代君、補習していたから誘えなかったんだよ」
「……そうなのか」
期末試験の結果も悪くて、僕は放課後に補習していた。とくに英語と数学が壊滅的だった。担任の先生に「高校一年の期末からこれじゃあ、夏休みも補習するか」と呟かせてしまったことで、僕は目を覚まし、部活を休んで必死に課題を終わらせていたのだ。
みんなと映画にいきたかったと、ため息をついてしまう。自転車のハンドルによりかかってうなだれていると、道ばたの掲示板にあるプロレスのポスターが目に入った。新日本プロレスの試合が近くの体育館ホールでおこなわれるといったものだ。プロレス観戦に誘いたいけど、黒戸は格闘技は嫌いだ。僕はもう正直に言った。
「二人でどこか遊びにいきたいんだけど」
「いきたい場所はないかな」
「……ないのか」
そんなはっきりと言うのか。
「それに、お金ないし」
お金はあまりない。二人とも。僕の貰う仕送りはみぞれとの生活、主に食費に消える。
黒戸がお金ないといってるのは、お義父さんとの暮らしに気を遣っているからだろうな。家事をしているからバイトもできないし、毎月いくらか小遣いを貰っているみたいだけど、その額も遠慮してあまり多くないはずだ。
僕は落ち込んだ顔をしていたのかもしれない。そんな様子を黒戸が見て、気を遣うように言った。
「私は朝マックが夢なの」
僕の想像力が足りていないのだと思うけど、黒戸の考えが分からなかった。
「……いけばいいんじゃない?」
「一緒にいく?」
「朝マックって、二人でいくところなの?」
僕は具体的にいうと、デートの約束をしたいのだけど。
「私はいきたいよ」
「じゃあいこうか。駅前にマクドナルドあるから」
「いいね」
と嬉しそうに黒戸は言う。
「駅前の朝マックメニューはたしか十時半までやってるから、明日の九時くらいに駅で待ち合わせでいい?」
黒戸は「うん」と頷いた。これは初デートでいいのかな。朝マックってデートに入るのだろうか。そんなことをモヤモヤと考えていると、黒戸は微笑を浮かべて言った。
「みぞれちゃんも連れてきてね」
「ああ、分かった」
黒戸と別れたあと、夕飯の材料を買ってアパートに帰った。ゲームをしていたみぞれは「帰ってきた、おかえりー」と言ってコントローラーを放り出し、買い物袋から好物の森矢プリンを取り出して、すぐにスプーンをくわえてゲームにもどる。
僕はとりあえずクーラーをつける。
みぞれはあまり気温を感じないらしくて、扇風機すらつけないでいることが多かった。着ているものもずっと黒猫のきぐるみだったけど、一週間ほど前に違和感を覚えたらしく、きぐるみを秋までしまうと言っていた。
みぞれの夏用の部屋着を買わないといけないけど、ひとまず僕のタンクトップやTシャツを着て、ショートパンツの裾を折って穿いたりして代用している。それから黒戸と岡田さんに色々と言われたこともあり、インナーやブラジャーはつけるように言っているけど、面倒くさがってあまりつけていなかった。
僕は冷蔵庫から麦茶を出して、コップにそそぐ。
最近みぞれはプレイステーション2のRPGに凝っている。みぞれがストーリーやキャラクターについて説明をしてくれるので、僕はみぞれの進めるストーリーを眺めていることがよくある。シャワーを浴びてから、僕はみぞれのゲームをぼんやりと眺めて、七時になると夕飯の準備をした。みぞれに教えてもらいながら、この日は焼きそばとホットサラダを作り食卓に載せた。
夕飯を食べていると、みぞれが僕のことを首を傾げてジッと見た。
「どうしたの?」
と訊くと、みぞれは「えっと」とはにかむ。ちょっと謎めいていたけど、その仕草はとても可愛かった。夕飯を終えたあと、二人でリズム系のゲームで対戦をしていた。
「明日から、夏休みだよね」とみぞれが言った。
「そうだよ。祭りとか花火大会もあるから一緒にいこう」
みぞれはコクンと頷いて、言った。
「楽しみー」
みぞれの無表情の横顔を見ていると、本心が分からなくなるのだけど。
「お祭りってどんなものか分かるの?」
「えー、と。知ってるよ?」
語尾にはてながついていた。一緒に暮らしていてもみぞれのことが不思議になることがある。
「楽しみにしていていいよ。僕も一回しかいったことないんだ」
「そうなんだ」と言って、みぞれは楽しそうに笑った。
それから、みぞれはコントローラーを下げてこちらを向いた。
「お兄ちゃん、最近なにか変わったことあった?」
僕はゲームをポーズ画面にした。
「変わったこと?」
みぞれがジッと見てくる。
なにかあったかなと思考を巡らせていると、みぞれがこちらにちょこちょこと移動してきて、僕の前で膝立ちになった。みぞれの胸が僕の顔につきそうになり、なんだかどきどきする。それから、みぞれは僕の額に触れた。手の平の冷たい感触が伝わってくる。
スッと僕の頭に、みぞれの片手が入り込んだ。全身にゾクリと鳥肌が立つ。
「なにしてるの?」
と僕は訊くけど、みぞれは一生懸命な様子で手をぐるぐるとかき回して、声は聞こえていないようだった。全身の鳥肌が治まらなくて、できれば手を抜いてほしいのだけど、みぞれはとても真剣な様子だったのでなにも言うわけにはいかない。しばらく我慢していると、みぞれはピタリと手の動きをとめて言った。
「すこし痛いかも」
「ん、え?」
僕の全身に電気でも流れたようなショックが走った。僕は反射的に「ひゃぁぁぁ!」と叫び声をあげていた。冷静になると痛みはなかったけど、驚きが強かった。
みぞれは僕の声にびっくりしたように、サッと頭から手を引き抜き、ぺたりとその場に座って僕を見た。
僕は指を動かす。大丈夫そうだ。とくに、体にはなにも変化はなかった。僕は恐る恐るみぞれに訊いた。
「今の、なんだったの?」
みぞれは首を傾げて、なにか言いたいけど言葉が見つからないといった風に困った顔をしていた。
「ごめんなさい」
とみぞれは謝った。僕はみぞれの可愛さを見て、なんでもいいかと思った。
そのあと、僕は遅くまでみぞれの進めるゲームを眺めていた。
翌朝、僕はみぞれを連れて駅前に向かった。
みぞれは私服姿で、目立たないように帽子を被っている。それでもみぞれの青い髪や容貌は、人目を引いていた。九時に黒戸が来ると、三人でマクドナルドに入りメニューを注文した。黒戸の分も一緒に支払うと言ったけど、「いいよ、自分で払う」と断られた。
僕らは店のすみにある四人がけの席に座り食べ始めた。みぞれは嬉しそうにLサイズのコーラを両手で持ってすすっている。
「おいしい?」
と訊くと、みぞれは頷いた。もっと他のところに連れていってあげたいとしんみり思う。
黒戸はこの日も制服姿だ。黒戸はつねづね制服は楽でいいと言っており、家では学校ジャージを着ていることが多いらしい。美人なのにもったいないとすこし思う。
トレーにのっているチラシをぼんやりと眺めていると、黒戸が「ねえ?」とこちらを見た。
「なんだ?」
「みぞれちゃん、普段なにしてるの?」
「普段はゲームをしているか寝てるかな。エアコンが切れてても寝てるときがあるから、たまにもう目を覚まさないんじゃないかって心配になるよ。それから家の掃除とか、料理もしてくれる」
「やっぱりすごいな、みぞれちゃんは」
と言って、黒戸はみぞれの頭を撫でた。
みぞれはちょっと照れていて、頰を赤らめていた。僕まで嬉しくなって言った。
「お兄ちゃんも嬉しいぞ」
みぞれは笑い、黒戸は無視した。
しばらく黒戸とみぞれは話をしていた。それはハッピィターンの味を作るトリビアであったり、みぞれが両目を真ん中に寄せることができることについてであったり、黒戸も真似していたり、最近やったゲームの内容であったりした。
僕は二人のやり取りを眺めていた。この二人はとても絵になるから、周囲の視線を浴びてしまっている。黒戸はその視線に照れてる様子も、気分を害している様子もなかった。周囲の注目に慣れているといった感じがする。
僕はさしずめ遠い親戚とか、荷物持ちくらいが似合うのかもしれない。僕は黒戸から目をそらして飲み物をすすった。
二人の会話がいったん途切れると、黒戸がこちらを向いて訊いた。
「もうみぞれちゃんの体は平気なの? また消えたりしない?」
僕はホットドッグをくわえて小さく頷いた。
「今のところは大丈夫だよ」
黒戸は髪を耳の後ろにかきあげて、マフィンを一口食べる。ゆっくりと飲み込み、口を開く。
「みぞれちゃん、外に出たりする?」
「あんまりしないかな」
「学校にもいってないんだよね?」
「その辺はどうしようか悩んでる。みぞれのことをどうやっておじいちゃんに説明すればいいか分からないんだ。説明できても、きっと社会に出るために色々と手続きしなくちゃいけなくなる。もしかしたら、みぞれと離ればなれになるかもしれないだろ」
「どうなんだろうね」
「おじいちゃんには、いつか言わなくちゃいけないことなんだけど」
「ずっと家で留守番は可哀想じゃない。部活があるときは一緒に来なよ?」
「連れていってもいいの?」
「いいに決まってるよ。上代君の代わりに、みぞれちゃんが来ればいいよ」
と黒戸は笑顔をみぞれに向ける。
「みんながみぞれを大切に思ってくれているのは嬉しいけど」
「みんなみぞれちゃんのことは大好きだよ」
みぞれを見ると、美味しそうにホットケーキを食べている。僕はすこし考えて言った。
「みぞれは普段、一日の半分以上寝てるんだよ」
「寝顔可愛いよね」
僕は頷いた。
「みぞれが起きそうなら連れていくよ。熟睡しているときは、声かけても起きないから」
みぞれはちょっとずつホットケーキを口に運んでいる。たまに僕らの方に視線を向けて、黙って会話を聞いていた。
「一緒に遊ぼうね」
黒戸がそう言うと、みぞれは嬉しそうに頷いた。
朝マックを終えて僕らは店を出た。
これからなにをしようか考えていると、黒戸は「じゃあね」と言って自転車に乗る。そのまま帰ろうとする黒戸のあっさりした行動に、僕は意表を突かれていた。
「ちょっと待った!」
僕はあわてて自転車の荷台を摑んだ。
「もう帰るの?」
「朝マックは終わったから」
「本当に朝マックにいきたいだけだったのか……。うちに寄っていけば?」
「家でやることがあるから、やめておく」
「やることってなんだ?」
「パズル」
……パズル? ジグソーパズルのこと?
「五千ピースのやつ」
「…………」
僕はもう諦めることにした。
黒戸はパズルが好きなんだ。邪魔しちゃいけない。
「せめて歩いて帰りたい」
そう言うと黒戸は「暑いね」と呟いて、自転車を押して歩いた。その姿が僕といることを煩わしく思っているように見えて、一体付き合うとはなんだろうと心底感じてしまう。
あまり会話もなく、三人で大通りを通りかかったときだ。
三車線道路を走る大型トラックが視界に飛び込んできた。そのトラックは様子がおかしくて、蛇行しながらスピードを出して走っている。ふいに軌道を変え、トラックは歩道に突っ込もうとしていた。僕は大声をあげようとした。歩道には子供と母親がいて、二人はトラックに気がついていなかったからだ。
僕が声を出そうとしたとき、となりでつむじ風が舞いあがり、黒戸が飛び出していた。黒戸は親子とトラックの間に滑り込んで、突っ込んでくるトラックに回し蹴りを食らわした。僕が見た黒戸の動きは残像だったけど、トラックの正面に当たったのが分かった。風圧がこちらまでとどいて、突風が道路を通り抜けていく。
トラックは道路を滑るように半回転して、中央の分離帯にぶつかり横転した。
黒戸はすぐにその場から逃げて姿を消していた。人が集まりだして、道路では渋滞が起き始めていた。
僕とみぞれも、集まってきた人を避けるようにその場から離れた。それから黒戸の置いていった自転車を届けにいくために、みぞれと自転車に乗って黒戸の家に向かった。
黒戸の家について呼び鈴を押すと、黒戸ももう帰っていて玄関に出てくる。自転車を届けに来たことを言うと、黒戸は「わざわざ来てくれたんだ」と安心したように言った。
「さっきはすごかったよ」
興奮しながらそう言うと、黒戸は不安そうに首を振った。
「すぐに逃げたから、見られてないと思うけど」
「でもあのとき黒戸が動かなかったら、大事故になってた」
「……乗ってた人はたいした怪我はしてないと思うけど」
「そこまで、黒戸が気にすることなのか」
黒戸はまだ、なにか悩んでいた。