星の海にむけての夜想曲

佐藤友哉 Illustration/笹井一個

「最前線」のスペシャル企画「最前線スペシャル」。「奇跡は起きるよ」未来。日本。佐藤友哉が七夕の夜に向けて願う、たったひとつの“奇跡”。星海社設立一周年&佐藤友哉十周年記念企画「カレンダー小説」第一弾。7/7〜7/14期間限定公開!

そして少女は、星の海に吸いこまれて消えた。

1

自動的にながれていた涙をぬぐい、僕は体を起こした。どうやら、いつのまにか眠ってしまったらしい。

窓の外を見ると、今日も暗闇が君臨している。昼夜とわずこの調子なので、体内時間は狂いっぱなし。テーブルに置いたしなびた夏みかんにだけ、ただしく時が刻まれていた。

今は夜。

静寂だけが周囲をつつんでいる。

ねずみのため息すら聞き取れそうなくらいに静か。

僕はそのような中、学校にいた。

外出していることが軍に知れたら、殺されても文句がえないのを知りつつ、宿直室でお茶をのんでいた。

だって今日が、七月七日だから。

命をかけてまで学校にいる理由はほかに見当たらなかったので、そういうことにしている。

僕ははなをかむと宿直室を出て、校舎の見回りをはじめた。その必要は当然ないのだが、非日常の中に日常をねじこむと、生きるのが楽になるのだ。それは今、地球に生きる者なら、だれもがしている逃避作業だった。

夏の湿度に占められた廊下は、むっとして暑くるしい。僕は汗をぬぐいつつ、理科室や音楽室といった普遍的な部屋を点検していく。この高校は、ここ数年の急激な復興の中で建てられたものだが、デザインだけ見れば前世紀のそれと変わらなかった。平和だった時代にも、ここと同じような学校を、僕と同じような新米教師が、のんびりと夜回りしていたことだろう。

不意に物音が聞こえた。

のんきな話だが、こんな世界になっても学校には部活動があり、校舎には文化部の部室ぶしつがならんでいる。

物音は、その中から聞こえた。

息を殺し、いそがしく視線を動かす。

天文部のドアから、わずかな光がもれているのに気づいた。

僕のやるべきことは通報だった。それだけで、警備兵が五分もたたずにやってきて、侵入者をたちまち拘束してくれる。

だけど今日は、すべての一般国民が『診察室』に避難しなければならない『花粉の日』だ。

警備兵どころではなく、完全武装の正規兵が針の山となって監視している『花粉の日』だ。

自分のためにも侵入者のためにも、通報ボタンを押すのはやめて、かわりに天文部のドアに手をのばした。

一気に開ける。

女子生徒がペンライトをくわえながら、双眼鏡をみがいていた。

僕もおどろいたが、相手はそれ以上だったらしく、椅子いすからひっくり返った。暗闇にうかぶ白い脚がみだれ、ペンライトと制服のスカートがふわりと舞う。それでも双眼鏡は死守したらしく、しっかり胸に抱いていた。

残念なことに、この侵入者とは知りあいだった。

江波えなみ」僕はライトの光を当てる。「おまえ、学校で何をしている」

「先生え、と。どうしてここに」

「それはこっちの台詞せりふだ」

「あの、ティッシュをいただけますか。びっくりして」倒れたまま鼻先にふれた。「びっくりして鼻が切ないことに」

「学校で何をしている」

「星を見にきたんです」

二人は逃げるつもりはなかった。

本当に逃げるつもりはなかった。

夜の中をひたすら走った。

どこにもあてはなかった。

それなのに二人少年と少女は、まよいのない足取りで、笑顔さえうかべて、小高い海岸沿いを駆けていた。闇の中。手をつないで。笑って。

身寄りのない二人は地下を転々とする中、地下孤児院でであったが、おたがいの名前を知らなかった。脱走の計画を立て、実際に抜けだすときになっても名前を聞かなかった。

自分たちに未来がないこと。

にもかかわらず長い人生が待っていること。

それらを痛感した者にとって、名前など意味を持たない。

二人が背負うザックには、ナイフやランプがつめこんであったが、それでも逃げるつもりはなかった。

行く場所も、逃げられる土地もないことを知っている以上、逃亡は原理として不可能なのだ。

ただ、星が見たいだけだった。

消えた星が見たいだけだった。

二千一桁年代が終了してまもなく地球は狂い、空は消えた。

そのような混乱の中で二人は生まれ、混乱の中で両親を失い、混乱の中で育った。

二人は若かった。

若く、そして若く、さらに若かった。

すんなりのびた手脚。ふくらんだ胸。とがった喉仏のどぼとけ。つややかな髪。かたく発達した筋肉。十八年間かけて成長させた心と体。しかし、それらをただしく使う機会は世界から消滅していた。二人にはそれが耐えられなかった。

生ぬるい風が吹き抜ける。

夏だった。

暑い夏だった。

星も太陽もない夏だった。

やがて風に潮の香りが混ざる。

岸の下には海が広がっていた。

際限なくつづく海が、際限なくつづく波を岸壁に打ちつけている。

水面は何も照らさず、ねばっこい漆黒だけが貼りついている。

二人は海が嫌いだった。

暗闇に支配された海が嫌いだった。

二人は空が嫌いだった。

永遠に閉ざされた空が嫌いだった。

2

室内の明かりをつけてやると、洟をかみ終えた江波は双眼鏡をみがく作業にもどった。僕はそんな問題児を、とほうにくれた視線で見つめることにした。

「部活動に熱心なのはけっこうだが、今日が何の日か知ってるのか」

「はい先生。今日は『花粉の日』です」授業中には見せない優等生的な態度だ。「花粉病の拡大をふせぐため、予報が発令されたらただちに『診察室』こと地下シェルターに避難しなければならないという、当時の暫定ざんてい政府が発効した命令です」

「だったらどうして、ここにいる」

「逃げてきたから。誰にも迷惑はかけていませんよ」

「僕の迷惑になってる」

「今年は、天文部として最後の夏ですからね。やっぱり成果を残したいじゃないですか」

江波は笑顔をうかべ、視線を部室に広げた。

つられて僕も見渡してみる。

天文部といっても、その活動を示すアイテムはすくなく、星座のポスターすら貼られていなかった。

江波は本だなから雑誌を取りだす。それは僕と江波でかき集めた天文雑誌だが、こまったことが二点あった。一点は、何十年も前に刊行された古本であること。もう一点は、文章と写真の大半が黒く塗りつぶされていること。色あせた表紙には、『検閲済けんえつずみ』と判が押されていた。

徹底的な規制。

僕たちは軍によって、星を思い出せないように管理されていた。

星に住んでいるというのに。

天文部がやれた唯一にしてぎりぎりの抵抗は、窓にかけたカーテンを、青地に白の水玉模様にしたことくらいだろう。

天文部を立ち上げたのは江波だった。

「ねえ先生。この学校には天文部がありません。さっそく作りましょう」

入学早々、僕にそう談判したのだ。

教育委員会とは一悶着ひともんちゃくはおろか、二悶着や三悶着はあったが、何とか許可はおりた。ただし、責任を問われるかたちで、学級担任にして新米教師の僕が顧問になった。

とはいっても、今のような世界で天文部のやれることは皆無だ。当然のごとく部員は江波だけで、当然のごとく何もしないまま三年間を終えようとしていた。

「天文部の成果なんて残せない」僕は真実を言葉にする。「空も星もないんだから。ボールのない野球部くらい成果を残せない」

「私の三年間を消すようなこと云わないでください」

江波はわりと真剣に抗議した。

「人生まで消したくなければ、さっさと『診察室』に行け。花粉を浴びた人間がどうなるのか、今さら説明を受けたいわけじゃないだろ」

「先生が特別授業してくれるなら、私、受けてもいいですよ」

「生死にかかわる話をしてるんだぞ」

「ねえ先生」

江波がそう云うときは決まって、悪さをする前の猫のような表情をうかべる。

天文部を作るために僕を使ったときも、ちょうどこんな顔つきだった。

「何だよ」

僕は用心してたずねた。

「先生はどうして学校にいるんですか」

「校内のセキュリティを切ったの、先生ですよね」しかも追撃がきた。「花粉を浴びた人間がどうなるのか、今さら説明を受けたいわけじゃないでしょう」

無言がつづくのもまずいと判断し、宿直するように軍から命令があったと噓をいてみたが、江波は返事のかわりに雑誌をもどし、はなをかんだ。

どうも、回数が多い気がする。

「大丈夫か」

僕は話をそらすというより、むしろ花粉の話をするために聞いた。

「洟をかむのも命がけです」江波はティッシュをすばやく丸める。「先生、女の子が洟をかむとこ、あんまり見ないでほしいな」

「『花粉の日』に出歩くのがわるい」

「どうして正規兵は、『花粉の日』に見回りをするんでしょうか。彼らの身は安全なんでしょうか」

「防護服とマスクを着けている」

「私、遮蔽しゃへい効果については何も期待してません」

「軍の装備は一級品だ」

「だったら、私たちにも配るべきでは」

「軍をうたがっているのか」

「信じるのはむずかしいですよ。私たちが地下にもぐってるあいだに地上を制圧して、管理して、規制するような

「そういう話を、外でするなよ」

「非国民って呼ばれますからね」

「良くそんな言葉を知ってるな」

軍が台頭した結果、百年ほど前に起きた戦争については、カリキュラムから除外されるようになった。当然、非国民なる言葉も教えていない。

「最近、学生たちのあいだで、とっても流行ってるんですよ」

「知らなかった」

「先生たちは何も知りません」江波はスカートからのびた脚を見下ろす。「私たちがふだん、どんな話をしてるのかも」

「ガールズトークには立ち入らないことにしているからな」

「賢明なことで」

「なあ江波、僕はほんとうに心配してるんだ。今すぐ『診察室』にもどってくれないかな」

「そのことなんですが、もう無理です。外には見はりの正規兵がうじゃうじゃしてるんですから」

たしかに、『遭遇エンカウントを避けて目標に到達せよ』というのは、一介の女子高生にはむずかしいだろう。

「見つかったら、軍に連れて行かれるだろうな」

僕は思ったことを口にした。

「もしそうなったら、先生が庇ってくださいね。部員を守るのも顧問のつとめですから」

馬鹿ばか云うな」

「私は本気ですよ。さっきからずっと。だって、天文部が終わるんですから」

江波が来春、この高校を卒業すれば、天文部は消滅する。

江波にとって、天文部にとって、今年は最後の夏だった。

永遠に星を見ることができない江波の、最後の夏だった。

「私、今日は帰りませんから」江波はとんでもないことを云った。「ほらこれ、お泊まりセット」

そして机の下からザックを引っぱり出し、中身を僕に見せた。みがき道具。洗顔道具。缶詰パン。花粉量計測器。電子ランプ。水筒。自動寝袋

軽い頭痛とともに、なつかしさが嵐のように押しよせる。

「この物体は一体何だ」僕はザックを指差した。「何のつもりだ」

「さっき云ったじゃないですか。先生、人の話はちゃんと聞いてくださいよ」

「星を見ようとしてるんだろ。くだらないことを」

「天文部の顧問なのに、良くもまあそんな、部員の士気を下げるようなことを

「星なんて見えるわけがない」

「見えます」

「見えるわけがない」

「見えます」

「見えるわけがない」

「見えます」

「くどい」

「見えます。何度でも云いましょうか。見えます。見えます見えます。私はそのために、この天文部を作ったんですから」

「見えるわけがない。見えないんだよ」頭痛が激しくなってきた。「おまえどうして今さら、そんな話をするんだ。何も知らない子供みたいなことを云うんだ」

「先生、もしかして怒ってますか」

江波は片目だけを大きくさせた。

「カーテンのかかった窓の外側を見ることはできない」僕は早足で窓際まで歩く。「江波天文部を作ったところまではいい。そのくらいの現実逃避なら、僕も一緒になって遊んでやるよ」

「ちがいます。現実逃避じゃありません。私、遊びのつもりなんか

「今この世界には、星もなければ空もない。四半世紀、ずっとこのままだ。ずっと変わらないんだ。何一つ変わらないんだ。ほら良く見ろ。おい江波、見ろ。見たくもないだろうが見ろ。しっかり見ろ」

僕はカーテンを開けた。

空一面に、満開の花が咲いていた。

比喩ひゆではない。

本物の花が本当に咲いているのだ。色とりどりの花が咲き、咲きみだれ、咲きこぼれているのだ。

花。

空に。

世界中。

隙間すきまなく。

びっしりと。

暗い岬のてっぺんに二人はならび、はずむ息を整えて空を見上げる。

そこには当たり前のように花が咲き、咲き切っていた。

赤。蒼。橙。黄。白。紫。多種多様な色の花が、多種多様な花弁を開かせていた。

撩乱りょうらん

花々の密集はすさまじく、針の穴ほどの隙間もない。空のすべてを花が支配しているため、本来であれば見えるはずの星空が見えない。

二人は失望しなかった。

失望などできなかった。

この異様な風景を、日常のものとして育ってきたからだ。

十八年前一切の前ぶれもなく、世界の空に花が咲いた『開花日』に生まれた二人は、何も知らないのだ。

自然光を知らない。

朝と夜を知らない。

空の広さを知らない。

星の輝きを知らない。

銀河の美しさを知らない。

星雲のきらめきを知らない。

月の心許ない蒼さを知らない。

太陽の快い目映まばゆさを知らない。

天体の運行を、星々の光輝を、大空の広がりを、闇夜の濃さを、知らない。

頭上では花が重々しく咲き、大気には花粉がまじり、なすすべなき人々は、洟をかみつつ不満そうに空を見上げるだけ。二人にとってはこれが日常であり、現実だった。

それでも、『開花日』からの数日間は冷静だった。云ってしまえば空に花が咲いただけでほかに害はなく、人々は思いつくかぎりの仮説をカタログのようにならべる余裕さえあった。集団幻覚。化学兵器。環境問題。新種発生

カタログに『宇宙怪獣』や『審判開始』が追加されたころ、次の異変がはじまった。

花粉を吸いこんだ者らが、虐殺ぎゃくさつをはじめたのだ。

のちに、花粉病と名づけられるその症状を患った者らは、営むための町を壊し、逃げるための車を壊し、伝えるための報道機関を壊し、生きるための人間を殺した。地上は瓦礫と火焰の地獄になり、花粉に冒された人間たちの天国になった。無政府状態におちいるのに、さして時間はかからなかった。

やがて生き残った者らは、地下へともぐるようになる。

二人は本当に若い時代を、暗い地下の中で生きた。空には花が、地上には花粉病患者が、天井には岩がつねにあった。こう云って良ければ、二人の心は空虚が支配していた。

そのような穴に、まだ見たことのない星空が、きわめてうまくはまった。

「星を見せてあげるよ」

少年は地下孤児院の穴ぐらで出会った少女に、そう云った。意識することなく、その言葉が口からながれた。

「連れていって」

少女は答えた。

こうして関係は完成し、二人はすべてを捨てて抜けだした。

『開花日』から十八年が経過した地上は、軍による花粉病患者掃討そうとう作戦の只中にあった。二人は死が蔓延まんえんする地上をあてもなく走り、開けた海岸沿いを進み、やがて岬にたどり着く。

二人はザックから双眼鏡を取りだし、空を見上げた。

絶望に近い観測がはじまる。

その日は、七月七日だった。

3

「あの花のことは、いまだに何もわかっていない」僕は窓のむこうを見ながら云った。「何もだ。二十五年たったのに何も」

暫定政府が軍に取って代わられたこと。国民はきびしく管理され、花粉病患者は無慈悲むじひに殺されるようになったこと。空や星にまつわる文化が消されつつあること。

確かなことはそれくらいで、あとは『開花日』から一歩も進んでいない。空に花が咲いた理由も、花粉病の治療も、花を枯らす方法も、まるでわかっていない。

「しょんぼりすることありません」江波も同じく窓のむこうを見た。「二十五年間わからなかったことが、二十六年目にわかるかもしれないし」

「すさまじくポジティブだな」

「絶望するほど老いてませんからね。だから、星を見ることができるんです。先生にも星を見せてあげましょうか」

「早く帰れ」僕はため息を吐いた。「こうしているあいだにも、花粉は飛んでいるんだから」

「そんなに心配なら、先生こそ『診察室』に行けばいい」

「花粉病は過去の病じゃない。発症者数が減っているのは、軍が殺してるからだ」

「知ってますよそんなこと。何です、今の。ふざけないでください」

「江波」

「急にえらそうに。突き放すようなことを云って。大人おとなは、私たちが能天気だと思ってるみたいですね。私たちがいつも何を考えて

江波の口を手でふさいだのは、その声に奇妙な嫌悪けんおがふくまれていたからではなく、声そのものを消すためだった。

僕は窓の外をすばやく見ると、部屋を飛びだした。

ペンライトをつけ、黄色く光る円だけをたよりに江波の手を引く。

「どうしたんです」江波が聞いた。「私、乱暴なのはわりと好きですよ」

無人偵察機UAVだ」

僕が答えたのと、窓ガラスの割れる派手な音が響いたのは、ほぼ同時だった。

ヘルメットに短翼をつけたような形状のそれは、町の子供たちからハンバーガーという愛称をつけられていた。小型機銃を装備していることをのぞけば、たしかにかわいらしいとは思う。

「ハンバーガーは私たちのことを、好ましく思ってはいないみたいですね」江波は僕の手をにぎり返した。「とりあえず、距離をとりましょう」

云われるまでもない。

そうしなければ僕たちははちだ。

暗い階段を駆け上がり、全力で廊下を走った。

「ねえ先生」

「だまって走れ」

「先生は、織姫おりひめ彦星ひこぼしをごぞんじですか」

「何をごぞんじだって」

「織姫と彦星。今日は七月七日です」

「まさか七夕たなばたに全力疾走しっそうするハメになるとは思わなかったよ」

「織姫と彦星は、結婚生活があまりにも楽しすぎて、どちらも仕事をほったらかすようになりました。それを知った織姫の父である天帝は怒り、二人を引き離します」

「良くも走りながら、そんなにしゃべれるもんだ」

「ただ、年に一度、七月七日だけは天の川を渡って会うことがゆるされ、二人はまさに今、短くも貴重な時間をむさぼっているのでした」

「江波はもの知りだな」

「私、天文部ですから」

「むしろ文学の領域か」

「というか常識ですよ」

江波はそう云うが、星にまつわるたくさんの物語が、軍によって消されているのも事実だった。

廊下を端まで突っ切り、階段を駆け下りた。これで一階部分に戻ることになるが、ぐるぐる回るのも能がない。廊下を折れ、体育館につづく通路に入る。

「ねえ先生」

「だまって走れ」

「先生は、織姫と彦星との距離をごぞんじですか」

十四・四光年。メートル換算で、百三十六兆二千二百四十億キロメートル」

「先生は、どう思います」

「大した遠距離恋愛だな」

「そうでしょうか。十四・四光年なんて、宇宙の尺度から見ればとても近い気がします」

「近いものかよ。光の速度で十四・四年かかるのに」

「織姫と彦星が、そして私たちの太陽系がふくまれた天の川銀河の直径は十万光年です。端から端に行くまで、光の速さで十万年かかります。スケールが違います」

「スケールの定義を議論する気はないよ」

僕はふり返る。

UAVの姿は見えないが、独特の飛行音は確実に近づいてきていた

このまま追いかけっこをつづけても、悲惨ひさんな結果が待っているだけだろう。追いつかれる前に手を打たねばならない。

「ちょっと楽しいですね」

江波が笑顔を浮かべる。

二人は空を見ていた。

ずっと空を見ていた。

視界に映るのは花ばかりで、あとは何もない。空は隙間ほども見えない。夜空の暗さも、星々の瞬きも、すべて花が隠してしまっている。

星は見えなかった。

二人はそれでも双眼鏡から目を離さず、観察をつづけた。丘の岸壁に打ちつける波音を聞くともなく聞きながら、じっと観察をつづけた。夜の中、胸躍むねおどらせ、ひたすら空をながめた。

二人は待った。

延々えんえんと待った。

二人は逃げるつもりはなかった。

本当に逃げるつもりはなかった。

時がながれる。

ただながれる。

星は見えなかった。

星は見えなかった。

星は見えなかった。

星は見えなかった。

星は見えなかった。

星は見えなかった。

星は見えなかった。

星は見えなかった。

星は見えなかった。

いや、

唐突に空が、

突然に花が、

そして星が、

4

僕たちのやったことは、シンプルな暴力だった。

体育館の奥にある用具室に隠れ、UAVがやってきたところで、バレーボールだの踏切り板だの得点表だの競技用ハンマーだのテニスラケットだの室内にあるものを、手当たりしだい投げつけて叩き落としたのだ。まったく原始的で野蛮やばんなやり方だったが、幸いにしてUAVのセンサはつぶれ、追跡能力をうばうことができた。もう二度とやりたくない。

僕たちは疲労を口から吐き出しながら、夜の廊下を歩いた。僕にしゃべる気力はなかった。

「疑問に思っていることがあるんです」江波は手荒に洟をかんだ。「どうして軍は、星を隠そうとするのでしょう。星の話をしたり、空を調べたりするのが、まるで悪だというような検閲をするのでしょう」

「さあな」

「星空が普通に見えていたころの画像すら、今は出回っていないんですよ。そんなの過剰だし、異常です」

「たしかに」僕は廊下の隅をペンライトで照らす。「そのうち、『空を見上げたら死刑』なんて命令がやってきそうだ」

「空には、美しいものしかありません」江波は見てきたように云った。「月や太陽といった天体は美しい。かに座やいて座といった星座は美しい。きらきら光る銀河も、ひたすら真っ黒な夜空も、みんな美しい」

「そうだな。あの花のむこうは、綺麗きれいなものでいっぱいだ」

僕もまた見てきたように云った。

「私たちが暮らす天の川銀河のむこうには、もっと大きな銀河があって、さらにそのむこうには、もっともっと大きな銀河があって、千億の千億倍以上の星が数千億の銀河を作って、それが数億の銀河群となって、数百億年後には巨大な銀河にまとまってそのくり返しが、宇宙です。そんなにもすごい広がりの中に、自分は存在しているんです。私はそれを想像するだけで、生きる希望につつまれます。花粉を吸いこむだけの毎日だけど、がんばろうって気持ちになります」

「江波の云いたいことはわかるよ」

「私たちは、もっと星を想像するべきです。もっと星のことを考えるべきです。空に想いをせるだけで元気になれるのに、どうして軍は禁じるのでしょう」

江波の思考は、おとぎ話にすぎなかった。

僕たちの現実は、織姫と彦星よりも苦しい立場にある。あっちは一年に一度かならず会えるが、こっちはそういうわけにもいかないのだ。

一年待てば花が枯れる。

百年待てば花粉が消える。

千年待てば世界が回復する。

このような確約もない以上、星のことを考えれば考えるほどむなしくなる。五十六億七千万年後に救いにくると云われるより、永久に誰もこないと宣言された方が、しっかり前を向いて生きられる。

「ねえ先生」江波は静かに目を伏せた。「私たちがふだん何を話してるか、知りたいですか」

「教えてくれるのなら」

「大人になる前に死ぬんじゃないかってことを、話してます」

顔を上げた江波は、笑いをこらえて泣いたような、すこしこまっているような表情だった。

「花粉病のことか」

こんな言葉しか云えない自分に失望する。

「私たちみんな、花粉病にかかって死ぬんじゃないかって、もうだめなんじゃないかって、そういうことを話してるんです。知ってましたか、そのこと」

いや」

「私たちは若い。そのせいでこれから先、何年もかけて花粉を取りこみつづけることになります。花粉病のリスクは大人の数倍という報告もありますし」

「花粉病は解決する」僕はすぐ云った。「実際、花粉量は毎年減ってるじゃないか」

「軍の発表なんて、だれも鵜吞うのみにしてませんよ。そもそも、花は咲いたままなのに、花粉が減るはずありません。私、希望的観測はしませんよ」

江波は僕の前にでた。僕はその背中に、絶対大丈夫と声をかけてやりたかったが、だまっていた。

「先生、ちょっとびっくりとは思いませんか。私まだ、なーんにもしてないのに、花粉病にかかって、殺すか殺されるかだけは決まってるなんて」

「そんなふうに考えるなよ。きっとだれかが、うまいこと

「結婚もできないし、子供だって産めませんよ。この体じゃ」江波の背中が、ほんの一瞬だけふるえたように見えた。「それとも先生、私と結婚してくれますか」

結婚。

出産。

そして死。

楽しいことだけを考えて生きているように見えた学生たちが、そのような話をしている事実と、そこに気づきもしなかった自分自身の鈍感さに、激しく動揺した。

「私の姉は、星を見ました」

江波がそんなことを云ったので、僕の動揺は頂点をむかえて呼吸が止まった。

「姉は私を捨てて星を見にいきました」江波は言葉をつづける。「そしてほんとうに、星を見たんです」

「星を見たと、どうして断言できる」

僕は無理に口を開いた。

「姉が帰ってこなかったからです。ちゃんと星を見て、すっかり幸福になって、どこかで暮らしていることでしょう」

江波はふり返った。

笑顔だった。

どうすればいいのだろう。

たとえば罪を告白しようにも、僕には『罪』がなかったし、たとえば星を見せようにも、僕にはその方法がわからなかった。

何より、星を見てはいけなかった。

星は希望ではないから。

星は回復ではないから。

星は僕たちの空虚を埋めないから。

さらなる空虚しかあたえないから。

「星なんて見せちゃいけなかった」

自分でも気づかぬうちに云っていた。

云ってしまっていた。

星がどうかしましたか」

「星なんて、見ちゃいけない。見せちゃいけない。おまえは何も知らないまま、夢の中で星を想像していればいい」

「先生、何を云ってるんです」

「きみの姉さんは死んだ」僕は云った。「七年前の今日、僕たちは星を見た。たしかに見た。すさまじい数の星だった。星は海にも反射して、夜空と同じくらい輝いてた。そんな星が、星の時間が終わったとき、きみの姉さんは岬の先端に立った。そして」

唐突に空が裂けた。

突然に花が枯れた。

そして星が現れた。

本のページを中心から破るように、上空にたての亀裂が走り、裂け目から花々が枯れはじめた。空に咲いていた花々が、音を立てて枯れはじめた。

一瞬にして色が失われ、しおれていく。

健康的な花弁が落下し、しなびていく。

永遠と思われていた花の時間が、終わろうとしていた。

花のない空に見えるのは星。

そして煌々こうこうと輝く蒼い月。

長い長い夢からめたように、次の夢がはじまったように、星空が広がった。

星の時間。

二人は双眼鏡を地面に落とした。そんなものは必要なかった。まなこを開き、ただ見るだけで良かった。今にも落ちてきそうな星々は、そうするだけで視界のすべてに入った。

丘の上に散らばる絢爛けんらんな星々は、目もあやな輝きを放ち、その一粒一粒は二人の視神経をつらぬき、脳髄のうずいをふるわせた。

そんな夜空は、水平線にまで浸食しんしょくしていた。

空と海の境界が曖昧あいまいになり、二人を中心とした全方位が夜空となっているのだ。

どこまでも夜。

どこまでも空。

どこまでも星。

それはまるで、星の海。

やがてはなやぐ夜空の中に、格段に美しい光の帯を見つけた。

横切るように伸びたそれは、ほかの星々とくらべると、ひかえめに仄白ほのじろく輝いていた。おだやかで静かな、しかし強い光。やわらかく白みのかかった、しかし激しい光。

銀河のすべて。

星のすべて。

二人は心をうばわれる。

天の川。

二人は放心したように星を見つめていたが、夜空が狭くなっていることに気づいた。

枯れたときと同じような急速さで、再び花が咲きはじめているのだ。

星の時間が終わろうとしている。

少女は空を見るのをやめると、静かな足取りで進み、岬の先端に立った。それから、まっすぐ少年に向き直り、幸福そうな笑顔を浮かべた。

そして少女は、星の海に吸いこまれて消えた。

5

自殺」江波はつぶやく。「なぜですか。せっかく星を見たのに。星を見たばかりなのに」

「そうだ。星を見たから死んだ。星を見たばかりだから死んだ」

「意味がわかりません」

「星の時間をほんとうに体験して、体験を終えたら、死ぬしかない」

「そんなわけ、ないでしょう。星を見た人が死ぬわけないでしょう」

激しく首をふった。

江波がわからない理由はかんたんで、実際に星を見ていないからだ。

星を見て、見尽くして、見終える。

夢をかなえ、叶え尽くして、叶え終える。

さあ、その次はどうする。

夢を叶えた次はどうする。

「彼女は星が輝くところを見た。空が開くところを見た。それらが再び閉じるところも見た。もう全部見た。星の時間を、全部見た」

まったく予期せぬところで、人生のピークがやってくる悲劇。

ささやかな前置きもなしに、人生の目的が叶ってしまう衝撃。

あのときの僕たちにとって、星を見るということは、すべてだった。すべてのすべてだった。

そうした夢を、希望を、目標を、計画を、一瞬にして叶えてしまった。

五十六億七千万年後がいきなりやってきて、いきなり去っていった。

これからは、待つことも進むこともできない。

明日からどうすればいいのか。

「星さえ見なければ、希望をいだいて生きられた。でも、星を見て、見終わったら、何もない。何も残ってない」

僕は無意識のうちに頰にふれていた。彼女のことを考えると、知らぬうちに泣いていることが多いからだ。

最悪の世界で星を見たばかりに、むしろ心が折れてしまった。

すばらしく美しい夢を叶えたばかりに、絶望にやられたのだ。

あのとき、星さえ見なければ、彼女は今も生きていただろう。

僕の隣でほほえみ、くるしい世界の中で幸福に生きただろう。

奇跡さえ起こらなければ。

ペンライトの明かりに照らされた江波は、見ようによっては彼女に似ていた。背丈せたけも髪型もまるでちがうのに、どことなく近いものを感じた。

似ていると思ったのは、今日がはじめてだった。天文部として一緒にすごした三年間の中で、今日がはじめてだ。

そういえば江波は今年、あのときの彼女と同じ年齢になるのか。

過去が過去になるのか。

すうっと、音がする。

吸いこんだのか吐きだしたのかは不明だが、それは江波の口から聞こえた。

江波は幸福そうに笑っていた。

あのときの彼女と、同じ笑顔。

「大っ嫌い」

そう叫んだ次の瞬間、江波はライトの範囲から消えた。

すぐ背後で、リノリウムの床を踏みしめる音が響いた。

「江波」

僕はいそいで追いかける。階段を駆け上がり、ぐるぐると空間が回転するように進み、一気に四階まで上った。

江波の姿は見えない。

屋上。

脳裏のうりにうかんだ言葉に従い、全力で廊下を走った。

四階の奥にある重いドアを開け、屋上に出る。

瞬間、生ぬるい風が体をすり抜けた。

僕は今日が七夕なのを思い出す。

「江波」

屋上の真ん中に江波が立っていた。

こちらに背を向け、空を見上げている。

どうやら双眼鏡をのぞいているようだ。

僕も空を見てみると、びっしりと咲きみだれた花が、空という空を占拠せんきょしていた。花下。それはいつもの光景だった。

いや、

唐突に空が、

突然に花が、

そして星が、

唐突に空が裂けた。

突然に花が枯れた。

そして星が現れた。

本のページを中心から破るように、上空に縦の亀裂が走り、裂け目から花々が枯れはじめた。空に咲いていた花々が、音を立てて枯れはじめた。

一瞬にして色が失われ、しおれていく。

健康的な花弁が落下し、しなびていく。

七年前と同じだ。

僕の中にわずかに残った冷静な部分が、そう判断した。あまりにも、あまりにも同じだった。なので次に何が起こるのかを知るために、空を見る必要などなかった。

花のない空に見えるのは星。

そして煌々と輝く蒼い月。

長い長い夢から醒めたように、次の夢がはじまったように、星空が広がった。

星の時間。

「江波」僕は叫んだ。「やめろ。見るんじゃない。星を見るんじゃない」

江波は双眼鏡を地面に落とした。僕の命令を聞いたのではなく、必要ないことに気づいたのだろう。七年前もそうだった。まなこを開き、ただ見るだけで良かった。今にも落ちてきそうな星々は、そうするだけで視界のすべてに入った。

でもどうして。

どうしてまた夜空が。

何もわからない僕は、江波に向かって叫ぶことしかできない。

やめろ。

見るな。

だがいくら叫んでも、江波は星を見ていた。

星の時間を味わい、味わい尽くそうとしていた。

やめろ。

見るな。

夢を叶えるな。

夢を終えるな。

明日から何を見て生きるんだ。

このくそったれな世界で、明日からどんな欲望を持って生きるんだ。

屋上に散らばる絢爛な星々は、目もあやな輝きを放ち、その一粒一粒は僕の視神経をつらぬき、脳髄を激しくふるわせた。

そんな夜空は、地平線にまで浸食していた。

空と陸の境界が曖昧になり、屋上を中心とした全方位が夜空となっているのだ。

どこまでも夜。

どこまでも空。

どこまでも星。

またしても、星の海。

やがて華やぐ夜空の中に、格段に美しい光の帯を見つけた。

横切るように伸びたそれは、ほかの星々とくらべると、ひかえめに仄白く輝いていた。おだやかで静かな、しかし強い光。やわらかく白みのかかった、しかし激しい光。

銀河のすべて。

星のすべて。

二人は心をうばわれる。

天の川。

江波は空を見るのをやめると、静かな足取りで進み、屋上の端に立った。それから、まっすぐ僕に向き直り、幸福そうな笑顔を浮かべた。

そして江波は、星の海に吸いこま

僕は飛びだした。

6

江波を抱きしめ、屋上に倒れこむ。

ひじと肩をしたたかに打ちつけたが、痛みを感じる余裕はなかった。

僕は江波を抱きしめ、その胸に顔を埋めながら、見るな見るなと叫びつづけた。いや、叫んではいなかったかもしれない。泣いていたかもしれない。江波の匂いの中、そういえば彼女の匂いを知らないことに気づきながら、ずっと抱きしめていた。江波の胸がふるえていることに気づくまで、とにかく強く抱きしめていた。

胸のふるえは激しさを増し、僕の体にまで伝わった。

江波は笑っていた。

今まで聞いたこともないような大声で。

とても信じられないような甲高かんだかい声で。

「先生」江波はわずかに口を開く。「いいんだよ。こわがらなくて」

「江波

「泣いてるのもしかして」江波はびっくりして聞いた。「私が自殺すると思いましたか」

「ちがうのか」

「先生に星を見せたのは私です」江波は僕の頭にそっと手を置いた。「七年前は、確かに先生が見せたのでしょう。先生が姉を引っぱり、星を引っぱったように。「でも今回は違います。先生が見せてくれたわけじゃない」

「何を云ってるんだ」

「積極性について話しています。私は星を見るため、星の時間を味わうため、必死に考えました。必死に動きました。その結果として、今ここに立っています。これは私自身が引っぱってきた結果です。天文部を作って、調べて、考えて、獲得したものです。今ここにある星の時間は、思いがけず手にしたものじゃない。計画して、推測して、予測して、手にしたものです」

江波は僕の下から這いでると、制服についたほこりを払い、満天の星々を仰いだ。

とても満足そうに。

とても幸福そうに。

「これは、奇跡じゃないのか」僕も起き上がろうとしたが、脚がけいれんしてうまく立てない。「星の時間は、奇跡じゃないのか」

「発生条件じたいは奇跡みたいなものですが、こうして予測できた以上、奇跡という表現は適切じゃない気がしますよ」

わかったのか」

「何がですか」

「星の時間のカラクリが。七年前と、そして今、どうして花々が枯れたのかが」

「隕石です」江波は即座に答えた。「先生は、地球近傍きんぼう天体をごぞんじですか」

たしか、地球の近くに軌道がある天体を示す言葉だな」

六千五百万年前に地球に衝突し、恐竜たちをけちらした残酷なかたまりも、その地球近傍天体だ。

「アポフィス」江波は聞き慣れない単語を口にする。「一桁年代に発見された小惑星の名前です。当時は、地球近傍天体の中でもとくに危険なものとして、注目されていたそうですよ。地球近傍天体は六千個以上が発見されていまして、そのうち、地球に影響をおよぼすほどの大きさを有したものは、千個以上だそうです」

「どうしてそんなことを知ってるんだ」

「調べたからです。調べて、調べて、調べれば、真実はうかび上がるものですよ」

「簡単に云うけども

「簡単なものですか」険悪そうに鼻を鳴らす。「私はこの三年間、検閲だらけの天文雑誌をひたすら読みました。墨の塗られた箇所でも、別の記事を参照すれば読み解けることが多くあったので、いくつも雑誌を照らし合わせて、それでも無理なら想像して妄想もうそうして、ようやくアポフィスの存在をつきとめたんですから」

「たいした熱意だ」

「アポフィスは地球の公転軌道をまたぎ、三百二十三日間かけて公転します。ものすごく砕いて云うと、三百二十三日に一回、地球の近くを通るわけです」江波は説明を再開した。「アポフィスはさらに、数年周期で地球に大接近します。ある年は、地球上空の約三万キロメートル付近を通過したそうです」

「約三万。ずいぶんな接近だ」かつて大量に打ち上げられた静止衛星と、距離としてはそれほど変わらない。「それでおまえは、そのアポフィスとかいう隕石と、花が枯れたことに、因果関係があると考えているんだな」

「アポフィスが発見されたとき、地球に衝突するとすれば、二〇年代後半であろうと計算されました」

二〇年代後半。

それはまさに七年前僕と彼女が星の時間を体験した年にほかならない。

「じゃあ」僕は言葉を受ける。「じゃあ今この瞬間もまた、この空をアポフィスが通過しているわけか」

空を見ると、星々が当たり前のように煌めいていた。本来の七月七日の姿。

「もし仮に」江波も空を見上げる。「花が枯れるのとアポフィスの大接近に因果関係があるとすれば、再び近づく今年とくに七夕の前後は、空を監視する必要がある。そして今日、軍は『花粉の日』を発令した。私は推測の正しさを確信し、こうして動いたわけです」

「軍がこの件を隠してることには気づいてたんだな」

「最初から、そう云ってたはずですよ。『どうして軍は、星を隠そうとするのでしょう』って」江波に悪びれた様子はなかった。「まさか、夢を叶えさせないためとは考えもしなかったけど」

「おまえだけじゃないさ。星を見て絶望する人がいるなんて、星を見て自殺する人がいるなんて、誰にも予想がつかなかった。僕にも、軍にも」

おそらくあの日、僕と彼女以外にも、星の時間を味わった者が大勢いたのだろう。そして彼女以外にも、死を選んだ者が大勢いたのだろう。

軍はあわてたはずだ。

ふたたび星を見るという、全人類が願っていた夢が不意に叶い、不意に終わることが、あんなにも人間の心を破壊することを知った軍は、『花粉の日』をたくみに使い、一般国民の目から星を隠した。

僕はそれについて、何かを云うことはできない。

彼女を喜ばせ、絶望させた僕には。

「隕石の接近で、花が枯れることはわかった」僕は僕のために話を進めた。「でも、どうしてなんだ。どういう理屈で、隕石が近づくと花が枯れるんだ」

「え。そんなの知りませんよ」江波はこともなげに云う。「私の情報源は、検閲済みの古めかしい天文雑誌だけですからね」

「それだけでアポフィスを見つけ、因果関係まで見つけるとは大したものだ。軍部もおどろくだろう」

「ええ。これが手みやげです」江波は自分の頭を指差した。「今こうして星を見ている以上、軍が見逃してくれるとは思いませんし」

「あ」

「どうしましたか」

「さてはおまえ、学校のセキュリティを戻したな」

「軍に行く手間がはぶけましたね。ほら」

江波は地面を見下ろす。

正面玄関には、完全武装した正規兵たちが集結していた。

「何てこった

僕は息を吐いた。

「ねえ先生」

「何だよ」

「私はただ単に、星空が見たかったわけじゃありません。こんな一瞬で終わらせる気はない。この一日で満足する気もない」江波は右足を踏み鳴らした。「この空を、すっかり戻してみせます。そのための資料がほしい。そのための研究がしたい」

「それで軍というわけか」

「悲観してても、何もはじまりませんからね。悲観したい人はすればいい。死にたい人は死ねばいい。私は誰にも同情しません」

「自分の姉にもか」

「私、何も知りませんでした」

「とても教えられる話じゃなかった」

「結局、先生は何も話してくれなかったわけですね。地下孤児院から姉を連れだしたことも。姉の死も。私を知っていることも。秘密だらけだ」

「わるかった」

「私は先生とちがって秘密主義者じゃないので、とっておきの秘密、教えてあげます」江波は僕の耳に顔を寄せた。「アポフィスよりはるかに衝突の危険性が高い小惑星があるんですよ」

「何だと」

「その惑星が衝突する確率はかなりのもので、また衝突した場合、生命絶滅を引き起こすのにじゅうぶんすぎるほどのエネルギーが発生します」

「それはいつやってくるんだ」

「西暦二八八〇年」

「は」

「今から約八百四十年後です」

「八百四十年後」思わず力が抜けた。「そんなの、もう死んでるじゃないか」

「でも未来はつづくし、意志もとぎれません」江波はほほえむ。「ついでに、もう一つ秘密を打ち明けちゃいますけど、私、花粉病にかかりました」

「先日、検査に行ったらステージ2でした。もうすこしで発症します。来週、隔離される予定です」江波は笑顔をくずさなかった。「とはいえ、あきらめませんよ。ぶじに軍に入れたら、秘密の特効薬なんかをってもらえるかもしれませんし。さすがに、希望的観測がすぎますかね先生、何か云ってくださいよ。こういうときにうまくフォローするのが、年上の仕事ですよ」

「その、何かしたいことはあるか」

気のかない言葉なのはわかっていたが、どうにもならなかった。

「したいこと、そりゃ、いっぱいありますよ。車を運転してみたいし、海水浴にも行ってみたいです。ほかにも花火をして、昔の映画をいっぱい観て、おさいほうの練習もあ、大切なことを忘れてました。天体観測がしてみたいです。これをまっさきに思いつけないなんて、天文部失格ですね。あとそれから

「わかった。やろう。全部やろう」

「その前に、空をもとに戻すのが大前提ですよ。それをやらずにほかのことやって死んでも、死にきれません。いや、死にませんけどね」

「もちろんだ」

「ねえ先生」

「何だよ」

「子供でも作りましょうか」

屋上のドアノブを撃ち破る音が響く。

正規兵が雪崩なだれとなってやってきた。

僕はもう一度、空を見上げる。

夜空には夏の星座と月が煌めき、僕たちを照らしていた。

予測できた以上、今回のことは奇跡と呼べないと江波は云っていたし、それならそれでかまわない。星の時間は奇跡じゃない。それならそれでかまわない。

だが、僕の存在は奇跡以外の何ものでもなかった。

星の時間を二度も、偶然に体験した僕こそが奇跡。

「奇跡は起きるよ」

僕は云った。

やがて、星空の中に花が咲きはじめた。色とりどりの花弁が広がり、また静かに空をつつんでいく。

(fin)