ボカロ界のヒミツの事件譜 八月三十一日のバースデー

泉 和良 Illustration/ヨリ

伝説のリン廃・ジェバンニPと、『いーあるふぁんくらぶ』のヨリのタッグで送る、すべてのボカロ好きに向けた“ボカロ×本格ミステリー”ノベルを、“初音ミク誕生祭”スペシャルバージョンで期間限定・無料公開!

1

昼になってから、外出した。

部屋の扉を開けた途端、セミのうるさい鳴き声が聞こえてくる。道路へと出ると、悲鳴が出そうなほどギラギラと輝いた太陽の光が降り注ぐ。

最寄りの駅までちょっと歩くわずかな時間に、全身から汗が噴き出た。半袖はんそでのTシャツからはみ出した腕の肌が、じりじりとがされていく感じがする。

でも、俺はそういうのがきらいじゃない。昔から俺は夏が好きだ。子供の頃の夏休みの楽しい記憶が、きっと今でも夏を好きでいさせているんだろう。

だから、盆が過ぎて、八月の終わりが見えてくると、少しだけさびしさを覚える。八月も、あと十日ちょっとで終わりだ。

まだまだ暑い日は続いていて、九月になっても当分はこのままだと分かってはいても、これから夏が来るぞとわくわくしていた七月とは正反対の、少し焦るような気持ちになる。

俺は空に浮かんだ岩みたいな入道雲を見上げて、その大きさに頼るように、「あんなでかい入道雲が浮かんでるんだから、まだまだ大丈夫。夏はもうしばらく続くよ。心配すんなって」なんて心の中でつぶやいて、自分を安心させる。

そんなことを思っているうちに、駅に着いて、電車に乗り込んだ。

途中、池袋で一旦降りた。

クーラーの利いた西武百貨店の地下に入り、和菓子屋に立ち寄る。編集部へ持っていく土産みやげを買うためだ。

丁度夏らしい水饅頭みずまんじゅうが売っていたので、それを包んでもらった。

それから再び電車に乗り、出版社のある護国寺駅で降りた。

出版社のビルは駅のすぐ傍だが、まずは駅名にもなっている護国寺の方へと向かう。

俺は出版社へ行く時はいつも、その直前にその寺へ立ち寄ることにしている。まあ、ゲン担ぎみたいなものだ。寺も、駅からはそんなに離れていない。

寺に着くと、長い階段を昇ってお参りをした。境内にいる猫が俺の方をじっと見ていた。

それから、寺の敷地内にある富士塚の富士浅間神社の方にも参拝する。相変わらず日差しは強く、階段を昇り降りしているうちにTシャツがれた。

そして、ようやく出版社のビルへ向かった。

ビルに入ると、エレベーターに乗って四階で降りた。そこに編集部がある。

「失礼します。こんにちは」

入り口でそう挨拶あいさつして、中へと入った。

何人かの人がこちらを振り向いた。部屋の一番奥の席に座っている、一番背の高い人が立ち上がり、

「ああ、泉さん。ええと、打ち合わせですか」と俺に聞いた。

この出版社の社長の、Sさんだ。俺がこの編集部を訪れると、大抵いつも、そのSさんが最初に丁寧ていねいに対応してくれる。人の良さそうな優しい顔をした人だ。

「そうです。十五時にKさんとお約束を

「そうですか。Kは今日はまだ来ていないんですが、今すぐ連絡を入れますので。どうぞ、こちらの会議室の方でお待ちになって下さい」

社長はそう言って俺を会議室へと通してくれた。手土産を渡し、会議室の椅子いすに座る。

そして、れてもらったお茶を飲みながら、俺はKさんが来るのを待った。

俺の名前は泉和良いずみかずよしという。小説家だ。

そして今日は、編集者であるKさんとの打ち合わせの日だった。

Kさんは、俺が小説家になった時から、俺の担当をしてくれている編集者だ。小説家になったのが数年前だから、付き合いもそこそこ長くなっている。

だが、俺はいまだに、Kさんと会うとなるとてのひらに汗をくほど緊張する。

というのも、俺の今の収入源のほとんどが小説に依存していて、その小説の原稿にOKを出すのが、担当編集者であるそのKさんだからだ。つまり、Kさんの判断一つで、俺の生活の根底が左右されてしまう。

その上、Kさんは業界では知らぬ者のいない超大物編集者なのだ。本来は俺のような未熟な小説家と付き合うような次元の人ではない。だが、少し風変わりな人で、どういうわけだか俺のことを気に入ってくれている。

すると、そのKさんとこうして会う時には、どうしたって神経がピリピリと張り詰めるというわけだ。

俺は背筋を伸ばし椅子に座って、会議室の壁に掛けられた時計の針を見ながら、Kさんの到着をじっと待った。

だが、Kさんは十五分を過ぎても現れなかった。Kさんは多忙な人だから、こういうことは初めてではない。

三十分が過ぎた。まだ現れなかった。淹れてもらっていたお茶は既に空になっている。するとスタッフの人がやってきて、「すみません、もうしばらくお待ち下さい」と言って、再びお茶をそそいでくれた。

ついに一時間が過ぎた。椅子に座ったままなので、そろそろお尻や腰が痛い。

さすがに遅刻し過ぎだろう、とは思う。だがしかし、「これは仕方がないことなのだ」と、俺は心の中で自分に言い聞かせた。こんな状況でも、辛抱強く受け入れるしかない。何故なら、俺はまだ、大した実績のない小物の小説家だからだ。

小説家という肩書きだけを聞けば、普通の人なら、それだけで凄いと思うかもしれない。だが、小説家という肩書きに相応ふさわしい待遇を受けられるのは、有名で人気のあるほんの一握りの小説家だけだ。それ以外の実績のない多くの小説家は、実際にはこうして、平気で遅刻されても、文句一つ言えない身分なのである。

いや、むしろ、大した実績もないのに、打ち合わせの約束をもらえるだけでもありがたいのが現実だ。Kさんの方からしてみれば、実績のある小説家ばかりと会った方が効率的に決まっている。現に、売れっ子の小説家達との打ち合わせで、そのスケジュールは既にびっしりと埋まっているはずなのである。しかし、そんな状況であっても、俺のような小説家のために時間を作ってくれたのだと思えば、それだけでもおんというものだ。

だがまあ、みじめであることだけは確かだ。その惨めさが嫌なら、小説家を辞めるか、それとも、少しでも多くの小説を書き、少しでも売れて、実績を残すしかない。俺はそんな風に受け止めている。

それから更に十五分が過ぎた頃、ようやくKさんは現れた。

「ヘイユー。待たせたな」という太い声が会議室に響いた。

赤いテンガロンハットを被り、首には銀色の髑髏どくろの付いたチョーカーを巻いて、体の至る所にジャラジャラとくさりらしている。それが、俺の担当編集者のKさんだ。

全く通常の編集者とは思えないような尋常じんじょうならざる風貌ふうぼう。だがその実態は、俺など足元にも及ばないような数多くの大物作家達を世に送り出してきた、凄腕すごうでの編集者である。

俺は立ち上がって気をつけをすると、「い、いえ。全く平気です」と答えた。

Kさんは会議室の椅子にドカッと座ると、テンガロンハットを脱ぎ、するどい眼光で俺をにらんで聞いた。

「で、次の小説のアイデア、思い付いた?」

「そ、それが、あの、まだでして」と、俺はどもりながら答えた。

ただでさえ、生活が掛かっているということから来る緊張がある上に、更に、Kさんからただよう威圧的な雰囲気ふんいきに圧倒される。

「へぇ。まだか。まあじっくり考えればいいさ。俺はいつでも待ってるからよぉ」

「は、はい。頑張ります」

「よし、打ち合わせは以上だ」

一時間十五分も待ったというのに、打ち合わせはたったそれだけで終了となった。まだ一分と経っていない

なんだそりゃっ。そんなんなら電話かメールで済むだろう、と思ったが、口に出せるわけがない。い、いや、きっと会うことに意味があったんだ。そう自分を納得させる。

Kさんは鎖をジャラリと鳴らしながら立ち上がると、何かを思い出したように俺を見た。

「ヘイユー。そう言えば、ボカロの方はどうだ」

ボカロとは、ボーカロイドの略で、PC用の音声合成ソフトのことだ。簡単に言えば、人間の代わりに歌ってくれるアプリケーションである。近年ネット上では、そのソフトを使った曲、即ちボカロ曲が多くの人によって作成され、一つの流行となっている。

そして、実は俺も、小説を書くかたわら、たまにそのボカロを使って曲を作っているのだ。ちなみに、そうやってボカロ曲を作る人間のことを、ボカロPと呼ぶ。Pとはプロデューサーの略だ。

俺は数年前から、ニコニコ動画において、『ジェバンニP』という名前で、ボカロ曲を投稿して活動している。

Kさんは、それらのことを知っているのだ。

「え、ええと、小説の合間に、時々やっております」と、俺はビクビクとしながら答えた。

「そうか。ま、その辺は好きにやればいいさ。分かってるだろうが、俺はな、ユーが書き上げてくる小説の中身さえ良けりゃぁ、他でボカロをやっていようが、何していようが、それでいいんだ。小説の中身さえ良けりゃぁな。だが、万が一、もし中身が良くなかった時は、ヘイユー、その時は分かってるだろうな」

「分かっております

「よし

Kさんはテンガロンハットを被ると、会議室から出て行こうとしたが、再び何かを思い出したのか、くるりと俺の方を振り返った。

「ヘイユー。そう言えば、初音ミクの日というのがもうそろそろだと、風の噂に聞いたんだが、ユーはそういうのは知っているか」

初音ミクとは、ボカロのソフトの名前である。ボカロは、ソフトでありながら、その種類ごとに、『初音ミク』とか、『鏡音リン』などというキャラクターが設定され、ソフト名としてその名前が付けられている。

Kさんの口から、初音ミクの日という単語が出てきたことが少し意外だった。だが、昨今では、ボカロ曲を元にした小説が売れているらしく、編集者であるKさんも、その辺のことについて情報を仕入れているのかもしれない。

「あ、はい。初音ミクの日というのは、八月三十一日のことですね」と、俺は答えた。

「多分それだ。でも、なんで八月三十一日なんだ? ミクなら、三月九日じゃねぇのか」

「その日は39ミクの日で、その日も記念日になっています。八月三十一日の方は、初音ミクが発売された日なので、誕生日ということになっているんです」

「ほう。そういうことか」

「ニコニコ動画なんかでは、その日に、ボカロP達がミクを使った動画をたくさん投稿して、ミク誕生祭として祝ったりもします」と、俺は誕生祭についても説明した。

「誕生祭か

そう言うとKさんは、何かを考えるようにうつむいた。そして、ゆっくりと顔を上げると、テンガロンハットのつばの下から、黒い目をギラリと光らせた。

「ヘイユー」

「な、なんでしょうか」

「もうじきその八月三十一日だな」

「そうですね」

「よし。短編を書け。それも、ボーカロイドに関係した短編だ」

「えっ」

Kさんは、ブロンズの指輪を付けた人差し指を、俺にぐに向けた。

「それを八月三十一日のミク誕生祭で、うちのサイトに公開する」

「ええっ、Web公開ですか」

「そうだ」

なるほど。ミク誕生祭に短編小説という形で参加するということのようだ。

ボカロPが動画で誕生祭を祝ったり、絵師がネットに絵を公開して祝う、などというのはすでに当たり前となっているが、プロの小説家が小説を公開することで祝うというのは、あまり聞いたことがない。面白いかもしれない。

そう思ったが、Kさんの考えはそれだけではなかった。

「そして、短編ができあがったら、ユー、曲を作れ」

「え? 曲ですか? な、何の曲でしょうか

「決まってるだろ! その短編の内容とリンクした、ミクを使ったボカロ曲だろが! そしてそれを動画にして、同じタイミングで公開するんだよ」

「ど、同時公開ですかっ」

短編だけでなく動画まで作り、その両方で誕生祭に関わるということのようだ

「そうだ。昨今さっこんボカロ小説が売れ行きを伸ばしていることは知っているだろう。人々は動画だけに留まらず、その世界観を違う形においてももっとほっしているのかもしれない。しかし、ボカロと小説の両方を作れる人間はなかなかいない。だがユーにはそれができる。そして俺は、編集という立場からそのステージを用意できる。更にそこに、ミク誕生祭がからみ合うわけだ。面白い化学反応が起きないはずがない!」

「た、確かに

しかし、その両方を完成させるとなると、それなりに時間は掛かる。誕生祭の八月三十一日までは十日ほどしかない。果たしてそれまでに間に合うだろうか

だが、俺の心配などよそに、Kさんは言った。

「締め切りは今週中だ。できるな?」

こ、今週中。あと数日しかない。できるだろうか。短編だけならまだしも、曲と動画までなんて。だが、弱気な発言はできない。そこまでの小説家だと思われてしまったら、今後のKさんとの仕事にどんな悪影響が出るか分からない。

まだ何の構想も浮かんでいないし、自信もなかった。しかし、俺は生唾なまつばを飲み込むと、

「できます」と答えた。

「よーし。スタートだ。頑張ってくれ」

そして、今度こそKさんは会議室から出て行った。

どっとめ息が出た。

強引過ぎる。ここへ来た時に真っ先に丁寧な対応をしてくれた社長とは正反対。社長が天使なら、Kさんは鬼か悪魔。だがこっちに拒否権などない。やるしかない

2

次の日、短編のアイデアは、全く浮かばなかった。

既に昨日の打ち合わせの直後から考え出し、そして今日も朝早くから頭を振り絞っていたが、まるで脳が石にでもなったみたいに、ちっとも考えが生まれてこなかった。

その理由は、自分でも分かっていた。

取り扱うテーマが、初音ミク誕生祭だからだ

言い換えれば、初音ミクだからなのだ

俺はこれまで、ジェバンニPという名のボカロPとして長らく活動してきたが、投稿した動画において、実は初音ミクをほとんど使っていないのである。

そもそも、俺が一番初めに買ったのは、初音ミクのあとに発売された鏡音リンというボーカロイドだ。

それも、鏡音リンの発売日当日に入手し、すぐにそれを使って初めてボカロ動画を作り、翌日にニコニコ動画に投稿した。それが俺のボカロPとしての始まりだ。

以来、俺は鏡音リンばかりを使い続けた。初音ミクを買って曲を作ったこともあるにはあるが、その数は多くない。ほとんどの曲で、鏡音リンばかりを使ってきた。

やはり、最初に買った鏡音リンの方に、愛着あいちゃくが湧いたからだろう。

だから、俺の中では、ボーカロイドと言えば、初音ミクよりも鏡音リンだった。

鏡音リンへの愛情を表現した動画をいくつも作り続け、いつしか、『伝説のリン廃』と呼ばれ出すようにもなっていた。

リン廃とは、正確な定義などはないが、恐らく、「鏡音リンを愛し過ぎるあまり、廃人のようになった人」という意味だと思われる。

やがて俺は、自分がそんなリン廃であることを自覚し、それを心のどこかではほこりにさえ思って、これまで活動してきた側面があるのだ。

『リン廃宣言』という名の曲を作って投稿したこともあるし、逆に、鏡音リンへの愛情の反動からか、ボーカロイドの象徴的存在となっていた初音ミクを敵視するような動画さえ作ったことがある。

たかだかボーカロイドなどというキャラクター化されたソフトに、そんな感情を抱くのは屈折くっせつしている、と普通なら思うかもしれない。だが、多くのボカロP達が、ボカロ動画を作る中で、それぞれが使用するボーカロイドキャラクターに似たような感情を持ったのではないかと俺は思う。実際、ボカロPとボーカロイドキャラクターとの関係を歌ったボカロ曲は少なくない。俺の場合は、その対象が鏡音リンだったのだ。

そして、今までそういう経緯を辿たどってきたリン廃である俺が、突然、初音ミク誕生祭に合わせ、ミクに関連した短編を書けと言われて、そう簡単に書けるわけがないのは、至極しごく当然のことではないか。

これが鏡音リンが発売された十二月二十七日の、鏡音リン誕生祭なら、話は全く違っていただろう。だが、今回の話は、初音ミク誕生祭

それが、俺が今回の短編のアイデアを全く考えることができない理由だった。

そこで俺は、心の視点を初音ミクから少し引き、ボーカロイドという広い枠組みで、短編のアイデアを考えてみようとこころみた。初音ミク誕生祭ではあるが、初音ミクだけにしぼるのではなく、ボーカロイド全体をとらえるような話にすれば、テーマから逸脱いつだつせず、しかも、初音ミクと鏡音リンの違いにそこまで執着せずに済むのではないか、と思ったのだ。

だが、それでもアイデアは浮かばなかった。

やはり、いくら視点をボーカロイド全体まで引いたところで、その短編を公開する日が、初音ミク誕生祭である以上、どうしても鏡音リン誕生祭ではないのだと意識してしまい、思考が意地を張るみたいに硬直化してしまうのだ。

それはまるで、俺の中のリン廃であることへの自負のようなものが、ミク誕生祭に合わせて短編を書くことに強く反発し、その物語を考え出すことをがんとしてはばんでいるかのようだった。

昼を過ぎた頃、俺が頭を抱えていると、突然、玄関の扉が開いて、一人の女の子が部屋に入り込んできた。

彼女は、長い黒髪をしていて、女子高生の制服を着ている。だが実は、高校生ではない。名前はエレGYジィという。十九歳の大学生で、何故か未だに高校の制服を着る、少し変わった女の子だ。

彼女と知り合ったのは、俺が小説家になるちょっと前で、もちろんまだボカロPにもなっていない頃だった。その頃、俺は自作ゲームをネットで公開するアマチュアのゲーム作家だったのだが、彼女はそんな当時の俺のファンで、まあ色々あって知り合った。以来、一応、俺と彼女は付き合っているということになっている(というのも、まだキスしかしてないという、いや、まあそれはいい)。そして、『エレGY』というのは、知り合った頃から彼女が使っているHNハンドルネームである。

エレGYに会うのは一週間ぶりだった。八月に入ってから、あまり俺の部屋に遊びに来ていなかったのだ。

別に仲が悪くなったとか、倦怠期けんたいきに入ったから、というわけではない。

彼女は一学期の間にあまりに講義を休み過ぎていたため、大学側から、このままでは一年から留年だと言われ、特別補習講義への参加を要求されてしまったのだ。

それだって、彼女のことだからすっぽかすのかと思いきや、さすがに留年は困ると思ったのか、きちんと通っていた。

「うわ〰〰! こんな暑いのに、この部屋クーラーいてない!」

彼女はセーラー服の胸元を引っ張ってぱたぱたとさせながら不満を漏らした。

「クーラー苦手なんだよ」

「知ってる。じすさんすぐ風邪かぜ引いちゃう弱っこだもんね」

じすさんというのは、ゲームを作っていた頃の俺のHNだ。正確には『ジスカルド』というHNで、それを縮めて『じす』というわけだ。

小説家としては本名である『泉和良』を名乗り、ボカロでは『ジェバンニP』と名乗り、そしてゲームの方では『ジスカルド』と、ややこしいったらありゃしないが、各分野でそれぞれの名前で定着してしまったため、今更統一することもできずにいる。

「あ〰〰駄目、我慢がまんできない!!」

エレGYはそう言うと、クーラーのリモコンを手に取り、スイッチを入れた。そして更に、リモコンのボタンを連打する。

ピッピッピッピッピッピッ。設定温度を限界まで下げているようだ

「苦手だって言ったんだが

すると彼女は、人のクローゼットを勝手に開け、そこから俺のフリースを取り出し、それを俺に投げて寄越よこした。寒いなら着ろというわけだ。やれやれ

まあ、ずっと部屋にいた俺とは違って、炎天下を帰ってきたばかりだから、クーラーくらい点いていないと耐えられないのだろう。

エレGYはクーラーの真下に立ち、そこから吹き出す冷風に向かって両手を広げて、「あ〰〰〰」と、気持ち良さそうに声を上げた。

汗でセーラー服が透けて、ブラジャーのひもうっすらと見える。

夏になってから、彼女はセーラー服を着るようになっていた。それは彼女の高校の時の制服とも違う。ネットで買ったらしい。どれだけ制服きなのか。

「その服で大学行って、大丈夫なのか」

「夏休みだから大丈夫」

彼女はクーラーの方を向いたまま答えた。夏休みでも大丈夫ではないと思うのだが。まあ本人がそう言うのだから、別に問題もないのだろう。

「じすさん、何やってたの?」

そう聞かれ、俺は、ミク誕生祭に合わせて公開する短編と動画のことを話した。アイデアがまったく浮かんでこないことも付け足す。

すると、相談に乗ってくれるかと思ったのだが、

「思い付かないならいいじゃん。それはひとまず置いといて、『Sea tree』のバージョンアップしてくれない?」と彼女は言った。

『Sea tree』は、俺が一年前に作って公開したフリーのオンラインゲームだ。最近では小説やボカロが忙しく、ずっと放置したままになっている。そして彼女はそのゲームの廃人プレーヤーだ。

「はぁ? 話聞いてたのかよ。誕生祭まで時間がないんだよ」

「でも、思い付かないならしょうがないでしょっ。今『Sea tree』でバグがあってみんな困ってるの! ちょーちゃんも最近『Sea tree』始めてね、そのバグで合成スキルが上がらないって困ってるし」

「え、ちょーちゃん? 誰だそれ」

鳥類ちょうるいさんのことっ」

「ああ

鳥類さんとは、エレGYと同じく、俺が小説家になる以前からのファンの一人だ。鳥類というのももちろん本名ではなくネット上のHNである。

付き合いはエレGYと同じくらい長いが、会う機会はあまりない。とはいえ、ここ数年は、時々、俺のボカロ曲用の詞を書いてもらったりしていた。

エレGYに鳥類さんを紹介したのは半年ほど前だ。以前、鳥類さんに作詞を頼んだ際、その打ち合わせにエレGYを一緒に連れて行って、その時に紹介した。歳が近いせいか、やけに気が合ったらしく、そのあと時々二人で会ったりもしているようだ。

「え、っていうか、鳥類さんも『Sea tree』やってんのか」

「うん。さそったの」

「いや、鳥類さんがやっていようが、今は忙しいんだよ。バージョンアップは今回のことが終わってからだ」

「ええええ。じゃあ早くやって!」

そう言ってエレGYはその場で地団駄じだんだを踏んだ。

「だから、アイデアが思い付かないって言っただろ。おまえはさっき俺の話の何を聞いてたんだ

するとエレGYは渋々といった感じで腕組みをし、何かを考えるように目を閉じた。いい案でも考えてくれるのだろうか。そして、再び目を開くと、目の前でぱんと手をたたいて、

「よし! 分かった! 先に曲を作りなよ!」と言った。

「え、曲を先に? なんで」

「だって短編の方は思い付かないんでしょ? だったら先にボカロ曲の方を作って、そっちから逆にストーリーを考えてみたら?」

なるほど。確かにこのまま考えても、いいアイデアが出てきそうもない。それなら、時間を効率的に使うという意味でも、曲を先に作るのはいいかもしれない。だが

「詞はどうすんだよ。曲から逆にストーリーを考えるってのは分かるが、その元となる詞はどうやって考えるんだよ。適当に考えろとでも言うのか」

「無理?」

「無理っていうか、ミク誕生祭って部分を意識してしまったら、短編だろうが詞だろうが、頭が回らないんだよ

そう言いながら、困った頭だと自分で思う。

「そっか。うーん」

再びエレGYは考え込んだ。考え込みながら、暑いのか、スカートの両端をつかみ、バサバサとあおいで太股ふとももに風を送っている。スカートのすそがほんの少し持ち上がり、汗でキラキラと光る白い太股が見え隠れする。

すると、エレGYは突然、ぱっと目を大きくし、

「分かった! 詞は違う人に書いてもらおう!」と言った。

「へ?」

太股にいっていた視線を慌ててエレGYの顔に戻した。

「じすさん以外の誰か別の人に、ミクが出てくる詞を書いてもらうの!」

「べ、別の人に?」

「そう」

言われて頭の中でシミュレートしてみる。確かに、先に詞ができているなら、あとはそこから、詞の世界観でストーリーを広げるだけだ。詞の中にミクを登場させるようにとひとこと言っておけば、テーマから逸脱することもないだろう。それなら、そんなに悩まずに済むかもしれない。

少なくとも、今は0から話を生み出す段階で、頭が完全に硬直している。その最初の段階を、他人に詞を頼むことでスキップできるなら、そのあとは何とかなるかも

「でも、その詞を誰に書いてもらうんだ? まさかおまえが書くって言うんじゃ」と俺は聞いた。

「だーかーらー」エレGYはその声に合わせるようにスカートで扇いだ。「私なんかより、それに適した人の名前が、今、会話の中に出てきたでしょ?」

「あ」

「そう。ちょーちゃんに頼むの! これで詞はできるし、そこからじすさんがストーリーを広げて短編も完成! 詞に曲を付けて動画も完成! はい万事解決! それで晴れてめでたく、じすさんは『Sea tree』の特大バージョンアップ作業に取り掛かることができるのでーす!!」

最後の部分はともかく、鳥類さんに詞を頼むというのはいい案に思えた。

俺は鳥類さんの詞を気に入っていて、今までにもいくつか書いてもらっている。鳥類さんはジェバンニPにとっての専属作詞家のようなものだ。

そして、これまでにも、ボカロ曲を作る際、曲のテーマが思い付かないという時に、鳥類さんに作詞を依頼したことがあり、できあがった詞を見ると、インスピレーションがぱっと湧き、いい曲が作れた、というようなことが、実際に何度かあったのだ。

鳥類さんの詞は、直感的で、感覚的な言葉でつむがれたものが多く、それを読むと、頭の中を刺激されたような感じになる。そんな鳥類さんの詞なら、そこからイメージを引き出し、短編の物語を組み立てることだって可能なように思えた。

「なかなか名案かもしれない。でも、鳥類さん、引き受けてくれるかな」

今回はそれが短編の元になる。状況がいつもとは少し違う。

「きっと大丈夫だよ。だって、それが上手くいったら、バージョンアップでバグが直って、ちょーちゃんも万々歳だもん」

どうしたってバージョンアップがワンセットになっているようだ。まあ、それで鳥類さんが受けてくれるというのなら、バージョンアップくらい大したことはない。

「よし。じゃあ早速今夜にでも、スカイプで鳥類さんに話し掛けてみるよ」

俺がそう言うと、エレGYはスカートの端を両手で持ったまま、

「やったやった。バージョンアップ♪ バージョンアップ♪」と、バレエダンサーのようにその場でくるくると回りながら歌った。

こいつはゲームのバージョンアップさえあれば、なんでもいいのか

しかし、エレGYのちょっとした提案で、今朝からの停滞状態が少しだけ動き出した。これで鳥類さんが詞を書いてくれて、そこからイメージを膨らませ、短編へとつなげることができれば、エレGYの言うように全て万事解決になる。

「じゃあもう帰るね」とエレGYは言った。

「え、もう帰るのか。まだ早いだろ」

「ちょっと買い物があるの。それに明日も補習講義あるし

いると何かと騒がしいが、うちに来たのは久しぶりだったので、もう帰ると聞いて、少し寂しくなった。

エレGYは、スカートのポケットからiPodを取り出し、イヤホンを耳に付けた。音楽を聞きながら帰るようだ。

「そうだじすさん。またお勧めのボカロ教えて」

「ああ、いいけど」

実は、エレGYは、これまで長い間ボカロにさほど興味を持っていなかったのだが、先月辺りから、俺が勧めたボカロ曲をiPodに入れて聞いている。

高校の時には音楽をやっていたから、いつ興味を持ったとしても不思議ではなかったのだが、あまり流行はやり物が好きではない彼女は、ずっとボカロとは距離を置いていたのだ。

しかし、どうやら、俺がボカロPであるために、彼女も少しずつボカロに触れる機会を持ち、そのうち彼女なりに興味を持ち始めたようなのだ。

俺は自分が気に入っている何人かのボカロPの名前を教えてやった。

「分かった。帰ったら聞いてみる。じゃあまたね」

彼女はそう言って部屋から出て行った。

彼女がいなくなると、部屋の静けさが際立きわだった。外で鳴くセミの声がかすかに聞こえる。

俺はリモコンを手に取り、彼女が点けたクーラーを消して、羽織はおっていたフリースをクローゼットへと戻した。

3

横浜駅に着き、近くのケンタッキーに入った。そこが、鳥類さんとの待ち合わせ場所だ。

飲み物だけを注文して、客席に座った。

数分もしないうちに、鳥類さんはやってきた。

鳥類さんと会うのは、半年ぶりくらいになる。その間、鳥類さんとエレGYは二人で何度か会っていたようだが、俺が鳥類さんと会うのは、基本的にはこういう歌詞を頼む時くらいしかない。

そして今回も、歌詞の受け渡しだけだから、本当はメールで済むのだが、編集者のKさんとの打ち合わせではないが、やはり直接会って顔を合わせた方が、そこで生まれる作品もよりいい物になるような気がする。それに、鳥類さんとは普段から会っているわけじゃないから、こういう時にでも会っておかないと、顔を見る機会がなくなってしまう。

「よお、久しぶり。じすち」

そう言って鳥類さんは俺の向かいに座った。

黒いおしゃれな帽子ぼうしかぶっていて、フレームに細かな装飾のほどこされた眼鏡めがねを掛けている。服は紫のTシャツに、黒いロングパンツ。肩からげたかばんひもが、丁度ちょうど胸の谷間を通って、その大きさを強調させている。

帽子を脱ぐと、少しボーイッシュなショートヘアが現れた。

歳はエレGYより一つ上の二十歳だ。デザイン系の学校に通っているというだけあって、その外見はどこかかっこいい。

「あれ、エレちゃんは」と、鳥類さんは俺の隣の空いた席を見て言った。

「大学の補習講義なんだよ」

俺がそう言うと、

「なんだそっか。来てないのか」と、どこか寂しげに言った。

どうやらエレGYも付いてきていると思っていたらしい。一人で行くとはっきり伝えていなかったので、がっかりさせてしまったようだ。

「ごめん伝えてなくて」

「んーん、いい」と、鳥類さんは言ったが、すぐに、「なんだよ、ちぇ」と、口をアヒルのくちばしのような形にして、落胆するように言った。よほどエレGYに会いたかったのだろう。

「ごめんごめん」

もう一度謝ると、

「しょうがないな。許してやるか」と鳥類さんは言った。

彼女の言葉遣いは、少しだけ男っぽい。男っぽい部分を除けば、横柄な部分が、なんとなくエレGYと被る。この世代は皆、年上の男に対して高飛車なのか、それとも、そういう性格の女の子が俺のファンには多いのか

「それで、歌詞だけど」

「あー、うん。書いてきた」

鳥類さんはそう言って、鞄から二つ折りにされたピンク色の紙を取り出して、俺に差し出した。

昨晩スカイプで話し掛けて頼んだら、了承してくれて、すぐに書いてくれたのだ。

鳥類さんの差し出した手は、絵の具で汚れていた。その指に目をやっていると、

「ああ、これ。私もさっきまで学校だったから」と鳥類さんは言った。

絵の具がついたままの白い指を見て、なんだかお絵描きで遊んだあとの子供みたいに見えて、俺はちょっとだけ笑った。そう言えば、半年前に会った時も、同じように手に絵の具が付いていたのを思い出した。絵の具を使った創作が好きなのかもしれない。

差し出された紙を受け取り、それを手元で開いて中を見た。

小さな文字で歌詞が書かれている。

「読んでいい?」

「いいよ。私もちょっと飲み物買ってくる」鳥類さんはそう言って席を立った。

書かれていた歌詞は、恋をうたった内容だった。

どうやら視点が男側で書かれていて、それが少し意外だったが、リアルな口語体で紡がれた言葉が、妙に迫力があった。

相手の女性がミクということだろう。歌詞の中の『長い髪に触れたい』という言葉を見て、ミクのツインテールが浮かぶ。また、どうやらミクが学生という設定らしく、『制服のスカートをひるがえす君』という言葉もある。

そして、歌詞の最後の部分は、そのミクへの切迫したような告白の言葉で締めくくられていた。

感情に訴えかけるような、いい歌詞に仕上がっていた。甘酸あまずっぱくて、どこか照れ臭いけれど、読んだだけで、少し心がじーんとした。

さすが鳥類さんだ。

その詞を見ながら、そこからイメージを更に広げて、短編のストーリーを考えてみる。すぐにいくつかのシーンが頭の中に浮かんだ。これなら短編も書けそうだ。

そう思っていると、鳥類さんが飲み物を手に戻ってきて、再び椅子に座った。

「凄く良かったよこれ」と感想を率直に伝える。

「本当か?」

「うん、男視点なのが意外だったけど、それはそれで面白いし、最後の告白の所なんて、ちょっと感動した」

すると、鳥類さんはわずかに目を大きくして、

「あー。うん。そんなにめられると思わなかった」と、動揺するみたいに言った。

照れているようだった。

「短編のイメージも浮かんできた。いや、本当にありがとう」

俺はそう礼を言った。

そして、歌詞の書かれた紙を自分の鞄に入れ、代わりに、この春に出版した俺の小説本を取り出した。

「これ持ってる?」

「んーん、持ってない。何? じすちの本か?」

「そう。お礼の代わりと言うと変だが、もらってくれよ」と言って本を手渡した。

発売してから既に数ヶ月が過ぎていたが、半年会わなかったので、新刊を渡せないままになっていたのだ。

「サンキュー。読んでみる」

そう言って鳥類さんは本を受け取ろうとした。すると、その一瞬、鳥類さんの伸ばした手が少しだけ震えているように見えた。

かと思うと、俺の手から鳥類さんの手へと移動し掛けていた本がガタンと机の上に落ち、飲み物の入ったカップが本に当たって倒れ、その中身がこぼれた。

「わ」と、俺と鳥類さんの両方が同時に声を出した。

慌てて二人で紙ナプキンでこぼれた飲み物をいた。

机の上には、鳥類さんの帽子や、俺の鞄があったので、それらも少しれてしまった。

念のため、鞄の中に入れた歌詞の紙が濡れていないかを確認した。中までは濡れていないようだ。歌詞の紙も大丈夫だった。なくすといけないと思い、鞄の中の内ポケットへと移した。

「ごめん、手が滑った」と、鳥類さんは謝った。

「いや、俺がちゃんと渡さなかったから」

そのあと、俺はトイレに手を洗いに行って、そして、俺と鳥類さんとの会合は終わりとなった。

店の前での別れ際、

「エレちゃんにまた遊ぼうって伝えてくれ」と、鳥類さんは俺に言った。

「ああ。伝えとく」

そう答えて別れた。

一人になってからは、短編のストーリーを考えながら、横浜駅そばのゲーセンと書店に立ち寄った。そのあと電車に乗って帰宅した。

マンションに着いた頃には夜になっていた。

部屋に入り、電灯を点け、まず風呂に入った。それから、帰り掛けに買っておいた弁当を電子レンジで温め直して食べた。

食べ終わると、その頃には既に頭の中でまとまり掛けていた短編のプロットを、パソコンのメモ帳に書いた。

途中、昼間に鳥類さんからもらった歌詞をもう一度見ようと、鞄から取り出そうとした。

そして、その時になって初めて、鞄に入れたはずの歌詞の書かれた紙が、どこにもないことに気付いた。

鞄の中の内ポケットに確かに入れたはずだったが見つからず、ポケットの中や財布の中などもさがしたがなかった。

俺は青ざめた。

鳥類さんに書いてもらった歌詞を、俺はいつの間にかなくしてしまっていたのだった。

4

!? !?

エレGYの声が俺の部屋に響いた。

窓を閉めていて良かった。エレGYが、俺が嫌がるのも聞かず、またクーラーのスイッチを入れたので、さっき窓を閉めたばかりだったのだ。開けたままだったら、彼女の大声が外まで響き渡っていただろう。

今日も補習講義は午前中までだったらしく、つい今しがた彼女は俺の部屋に来たところだった。そして、鳥類さんに書いてもらった歌詞をなくしてしまったことを話すと、そんな反応が返ってきたというわけだ。

「でも、鳥類さんだって元の歌詞を持ってるでしょ? テキストファイルとか、原本みたいなものを」

「それが

昨夜、鳥類さんからもらったはずの歌詞が紛失していることに気付いた俺は、すぐさまスカイプで鳥類さんを呼び出し、なくしてしまったことを告げて、原本の有無を確認した。

すると鳥類さんは、「ない」と答えた。

なんでも、あの紙に直接書いて、それをそのまま俺に渡したらしい。つまり、歌詞はあのピンク色の紙にしか書かれていないのだ。

!!

それを話すと、エレGYは再び大声を上げた。

「だから困ってるんだよ。短編の方は、もうプロットまではできた。あとは書き上げるだけでいい。でも、肝心の詞がないと、今度は曲が作れない

「ちょっと、私のバージョンアップはどうなるの! どうなるの!」

エレGYはそう言いながら、俺の首を絞めて揺さぶった。

俺はき込みながらエレGYの手をどかした。

こいつ。やはりバージョンアップのことしか考えていない

「あれ、でもプロットができて、短編が書けるんなら、別にもう詞なんていらないじゃん」とエレGYは言った。

「それは俺も考えたよ。このままなら短編は仕上がるから、そのあとなら、詞だっていくらでも考えられる。最初の計画とはまた逆になるけど、俺が詞を作ってしまえば、それで済むことは済む。でもそれって、鳥類さんのことを考えると、それでいいのかなって思うだろ」

「あ、そうだよね。ストーリーの元となった詞とは別の詞が曲に付くってことになるわけだから、なんか、作詞頼んでおいて失礼だよね。っていうか、なくすこと自体が失礼じゃん! あああ、じすかるどのばかあああ! バージョンアップどうするんだよおおお」

いい加減バージョンアップのことは横に置いて欲しいんだが

「いやだからさ、鳥類さんに、できる限り歌詞を思い出してもらって、もう一度書いてもらうように頼んだんだよ。そしたら

「そしたら?」

「しばらくして連絡がきて、思い出せないって言うんだ」

「ええっ」

「なんとか思い出しながら書いてみたけど、全然違う歌詞になっちゃうって」

「そんなぁ」

「俺も一回は読んだから、自分でも思い出して書いてみようとしたんだよ。ところが、大雑把おおざっぱには思い出せるんだが、細かな所が再現できなくて。ほら、鳥類さんの詞って、直感的な言葉が魅力だろ? そうするとさ、一文字違うだけで、なんか全然違うイメージになっちゃうんだよ。言葉の順序とか、語尾とかが違っちゃうと、もう別物って感じでさ。だから多分、鳥類さんもそういう意味で思い出せないって言ったんだと思うんだ」

「じゃあどうするの? 私にバージョンアップあきらめろっていうこと!?」

俺は溜め息をついた。バージョンアップのことばかりを言う彼女にあきれる。

しかし、そんな彼女に、俺はこれから頼ろうとしているのだった。

「だからそれでな、おまえに手伝ってもらおうと思って」と、俺は言った。

「え? 何を?」

エレGYは少し驚いたようにきょとんとした。

「つまり、こうなったら残された手段は二つだけなんだよ。鳥類さんにできる限り思い出してもらった詞を使うか、それとも、なくした歌詞をどうにかして見つけ出すか」

「見つけ出す? そんなことできるの?」

「分からない。でも、おまえってそういうの得意だろ?」

実は最近、エレGYは妙に鋭い所があったりする。そんな彼女なら、ひょっとしたら、なくし物を見つけ出すこともできるのではないか、と俺は思ったのである。

「昨日鳥類さんと別れたあとからの俺の行動を全部話すから、どこでなくしたか考えてみてくれよ。それでもし何か気付けば、見つけ出せるかもしれない」

「えーできるかなぁ」とエレGYは自信なさそうに言った。

「どうせ駄目元なんだ。頼むよ」

可能性は低いかもしれないが、やって損はないはずだ。

するとエレGYは、俺の顔をぼんやりと見て、何かに気付いたように言った。

「そっか。じすさん、その歌詞、よっぽど気に入ったんだね」

俺はエレGYの顔を凝視した。

図星だったからだ。

そう。俺はそんな低い可能性にけたくなるくらい、鳥類さんが最初に書いたあの歌詞を気に入って、どうしてもそれを曲に使いたかったのだ。

昨日、ケンタッキーで一読しただけで、心に響いた。いっぺんでその歌詞が好きになった。だからこそ、あれだけミク誕生祭に合わせて短編を書くことに心が反発していたのに、その詞を見ただけで、すぐに短編のイメージが浮かんだのだ。

似たような他の詞ではなく、あの詞に曲を付けて、それと合わせて短編も公開したい。その思いが、なんとかして、あの歌詞を書いた紙を見つけ出したい、と俺に思わせていた。

そして、そんな俺の気持ちを、早速見抜いたエレGYに、俺は感心した。やっぱり、こいつにはそういう鋭い所があるのだ。

「分かった。しょうがない。但し、条件が二つありますよ」と、エレGYは言った。

「えっ。条件?」

「一つは、バージョンアップで、私とちょーちゃんのジョブを、他のジョブよりちょっとだけ有利にすること」

そんなことなら簡単だ。

「分かった分かった。で、もう一つは」

「もう一つは、こう言って。『お願いします。名探偵エレGYちゃん様。どうかお助け下さい』、さんはい」

それに素直すなおに従うのは簡単ではなかった。これも鳥類さんの歌詞を見つけ出すため。そして、その詞で曲を作り、短編と合わせたこの創作を完成させるため。心の中でそう呟いて自分を納得させる。俺は息を吸い込んでから、ぼそりと言った。

「お願いします。名探偵エレGYちゃん様。どうかお助け下さい

そう言うと、エレGYは満足げにケラケラと笑った。

羞恥心しゅうちしん屈辱感くつじょくかんに襲われたが、なんとか耐えた。

「歌詞の紙は鞄に入れてたんだっけ?」と彼女は聞いた。

「そう」

「分かった。じゃあ話してみて」

俺は、鳥類さんと別れたあとからの行動を細かく話し出した。

5

昨日 十五時 ゲームセンター

鳥類さんと別れたあと、俺はゲームセンターに立ち寄った。

せっかく横浜まで来たし、このまま帰るのは勿体無もったいない気分になったのだ。

昔、働いていたゲーム会社の一つが横浜にあった。当時は毎日ここまで通勤して、帰りはよくゲームセンターに立ち寄っていた。その頃にいつも遊んでいた駅前のゲームセンターが今でも健在だったので、そこへ入った。

昔とは店内の様子はだいぶ変わっている。他の多くのゲームセンターと同様に、内装は随分と明るい感じに変わり、客層も女の子が増えていた。

向かったのは二階にある音楽ゲームコーナーだ。

エスカレーターを昇ってすぐの所に、初音ミクのポップが立っていた。

見ると、ボーカロイド曲を扱った音楽ゲームである『Project DIVA』の筐体きょうたいが三つ並んでいて、その前に人だかりができている。

『Project DIVA』は、最初は携帯ゲームとして発売されたが、すぐにアーケードゲーム化されて、多くのゲームセンターに並ぶようになった。その後もシリーズを重ね、今では不動の人気ゲームとなっている。

筐体の前には、小学生や中学生くらいの若い女の子の姿が多かった。

筐体ごとに三人ずつほどの列ができている。そうやって自分の順番を待っているのだ。

俺は、一番手前の列の最後尾に並んだ。

(「ええっ、やったの?」と、エレGYが意外そうに言った)

(「悪いか? 滅多めったにやらないんだが、その時はなんとなくプレーしてみようと思ったんだよ」と俺は答えた)

十分ほどで、俺の番は回ってきた。

筐体の前に立ち、鞄を台の横に置いて、コインを入れる。

俺の番になった時も、俺の後ろには順番待ちの小中学生の女の子が並んでいた。後ろから見られているのではという気がして、ちょっとだけ緊張した。

選曲の画面になり、ボタンを操作して曲目を見る。有名P達の曲が、きらびやかな絵と共にずらりと並んでいる。

そんな中に、ぽつんと紛れ込むように、その曲はあった。

『恋ノート////』

今ではすっかり古くなってしまった曲だったが、実はそれは、俺の曲だった。

数年前、このゲームがアーケード化されて間もない頃、ゲーム会社SEGAの主催により、ニコニコ動画上で、『Project DIVA』用の楽曲募集企画として、ボカロ曲コンテストが開催されたことがあった。そのコンテストで選ばれれば、『Project DIVA』に採用されるという内容だ。俺はそのコンテストに応募したのである。

だが、その時の応募条件では、初音ミクを使った曲に限る、とされていた。

当時の俺は、鏡音リンしか持っていなかったので、そのコンテストのためにわざわざ初音ミクを購入した。本当は鏡音リンで作りたかったが、条件がそうである以上仕方がない。

初音ミクを初めて触りながら、初めての初音ミク曲を作り、それを動画にして応募した。

すると、最初の選考には漏れたが、十曲の予備エントリー枠には入り込むことができた。

そして、その一ヶ月後に、予備エントリー枠に選ばれていた十曲全てが採用となることが決まり、なんと俺の曲が『Project DIVA』に入ってしまったのだ。

その決定の電話をもらった時、俺は丁度エレGYと一緒にファミレスにいて、「うおっ、ドワンゴから電話きたっ。まさかっ」などと言って興奮したのを今でも覚えている。

しかし、俺のその曲『恋ノート////』がいよいよ実装されると、俺の曲の譜面は、音を取るタイミングの非常に難しい高難易度の曲に設定されていた。そのせいで、なかなかフルコンプができず、その難しさから、一部では『デスノート』などと呼ばれて敬遠されたこともあった。

その後もSEGAは、何度か『Project DIVA』の楽曲募集を開催し、その都度俺は曲を作って応募したのだが、全て不採用に終わった。採用されたのは最初の一回目だけだったというわけだ。

その間、有名P達のメガヒット曲がどんどんと採用されていき、そんな名曲達の中に俺のその曲はもれていった。

だから、今の筐体で『恋ノート////』を見ると、豪華な曲達の中に、古い曲が紛れ込んでしまっているように見えて、俺はちょっと切ない気持ちになる。

だが、今でもその曲を収録してもらっていることはとてもうれしい。おかげで去年、JOYSOUNDのカラオケでも配信された。

そして、そんな自分の曲を、俺はその時、ちょっと久しぶりにプレーしてみたくなったのだ。

俺は、その『恋ノート////』を選曲した。難易度も、今までにまだ一度も試したことのなかった一番難しい『エクストリームモード』を選んだ。後ろに順番待ちをしている小中学生の視線を意識して、つい背伸びをしてしまったのだ。

ふふ。これは俺の曲なんだぜ? しかもエクストリームモードだ。御嬢ちゃん達、作者本人による大人の腕前というやつを見せてやるぜ

みたいなことを心の中で思う。

(「わー。ナルシストっ。きもーい」と、エレGYが言った)

(「ナ、ナルシストって。べ、別にそれくらい思ってもいいだろ」)

そうこうしているうちに曲は始まった。

ところが、自分の作った曲であるにもかかわらず、全くタイミングが合わず、俺はミスを連発した。エクストリームモードなどと、背伸びをしたのが間違いだったようだ。

曲の終盤でライフゲージが底を突き、強制終了となった。自分の曲をかっこよくプレーしたかったのだが、全く正反対の結果となってしまった。あまりに恥ずかしくて後ろを振り向けなかった。そして、そそくさとその場を去った。

筐体から少し離れた場所まで移動した時、突然、後ろから声を掛けられた。

「あ、あの、もしかしてジェバンニPさんですか」

振り向くと、中学生の女の子が二人並んでこちらを見ていた。

(「え〰〰! じすさんのこと知ってる人がいたの!?」)

(「俺もびびったよ」)

確かに俺は、自分の顔を色んな動画でさらしているし、それらの動画の多くで、星マークの付いた黒のニット帽を被っていて、それをその日も被っていたから、もし俺を知っている人間がいたら、見掛けだけで気付くかもしれない。

しかも、その日は、『Project DIVA』というボカロのゲームで、ジェバンニPと名前の表示される自分の曲をプレーしていたのだ。周りにいたのは全員ボカロファンだろうし、そんな中に、俺のことを知っている人間がいれば、簡単に気付いただろう。

「そうですけど」と答えると、二人の女の子ははしゃいで、「サインしてくれませんか」と言ってきた。

「いいですけど、どこにしますか」と聞くと、片方の女の子が『Project DIVA』用のIDカードを取り出した。どうやら、そこに書いて欲しいということのようだ。

だが、書くものがないというので、俺は自分の鞄に入っていた油性ペンを取り出して、それでサインをした。

「ありがとうございます。応援してます」と言って彼女達は去っていった。

なんだか他の客の視線も気になったので、俺は逃げるようにそのゲームセンターをあとにした。

「う〰〰〰ん」と、その話を聞いたエレGYが、首を傾げながら言った。「ゲームする時に筐体の横に鞄を置いたんだよね」

「ああ、うん」

「でも、置いただけで、中身が出ちゃうなんてことはないよね」

「そうだな」

「じゃあ、その女の子二人組に声を掛けられて、サインするためにペンを出した時に、歌詞を書いた紙を落としたとか?」

「可能性は否定できないが

「鞄にペンを戻す時に、歌詞の書かれた紙が見えたりはしなかったの?」

そう聞かれて、その時の鞄の中の様子を、一枚の写真のように切り取って、頭の中で凝視してみた。

記憶の中の鞄の中は、くもりガラス越しのようにぼやけていたが、ノートと、バンソウコウの箱と、ポケットティッシュが見えた。それらは普段から入れているものだし、今でも入っている。だが、そこに歌詞の書かれたピンク色の紙は見えなかった。

そこで俺は、そう言えば歌詞の紙を内ポケットに移したのだと思い出した。

鳥類さんから歌詞をもらって、最初はそのまま鞄に入れたが、あとで、なくさないようにと、鞄の内側に付いているポケットの中へ入れたのだ。

内ポケットに入っているなら、鞄を開いただけでは見えない。だから、ペンを出した時にも、仮にその時まだ歌詞の紙がなくなっていなかったとしても、記憶の中の視界にそれが映り込んでいないのは当然だ。俺はそのことをエレGYに話した。

「内ポケットはもちろん捜したよね?」

「当たり前だろ。俺だってそこまでドジじゃないよ。だいたい、内ポケットに入れたのだって、何かを出し入れした時なんかに落としてしまうといけないと思って入れたんだから。だからそういう意味じゃ、ペンの出し入れで落とした可能性もかなり低いと思う」

「うーん」とエレGYはうなった。「それで、ゲームセンターを出たあとはどこに行ったの?」

「書店へ行った」

俺はそう言うと、今度は書店でのことを話し出した。

昨日 十六時 書店

ゲームセンターのあと、俺は駅ビル内にある書店へ入った。

初めて訪れる書店で、店内はかなり広そうだった。

すぐにライトノベルが置かれているコーナーを探す。

そこに自分の本が並べられているかどうかを確認するためだ。

(「うわっ、ナルシストの次は、リアルエゴサーチだっ」)

(「リ、リアルエゴサーチって。これだって仕事のうちなんだよ」)

(「どうせゲームセンターで味しめたもんだから、今度は書店に行って、可愛い女の子から声を掛けられるのを期待したんでしょ」)

(「そんなわけないだろっ。さすがに書店で俺を知っている人に出会う確率は低いだろうし」)

(エレGYは疑うような目で俺を見たが、構わず続きを話した)

ライトノベルのコーナーを見つけると、俺は胸の奥が少しだけ重くなった。

ここは結構大きな書店だ。ライトノベルもかなりの数がそろえられているように見える。だが、もしここに俺の本がなかったとしたら

書店には自分の本の状況を確認するために普段からよく行く。しかし、行くたびに、自分の本がないかもしれないことを考えて、気持ちが憂鬱ゆううつになってしまうのだ。

いや、きっとある。頼む、あってくれ。そんな期待を抱きながら、棚を探す。

見覚えのある背表紙が目に留まった。俺の本を出してもらっている出版社の本がまとめられている棚だ。ぱっと目に入ってきたのは、俺もよく知る名のある作家さん達の本だった。最近出たばかりのものは、手前に平積みにされている。

俺の本は

すると、一番端っこに、俺の本が二冊だけ並べられていた。ほっ

だが、新刊ではなかった。昨年末に出版した一つ前の本と、更にその前に出した本の二冊だ。俺は小さく溜め息を漏らした。

何故、そこに新刊がないのか。あるいは、何故もっと入荷されていないのか。答えは簡単だ。俺が小説家としてまだまだだからである。

俺はその二冊の自分の本の背表紙をしばらくじっと見つめた。

片方の本が、少し奥に入り込み過ぎていたので、それをちょっとだけ手前に引き出し、背表紙の位置を揃えた。今度は帯が僅かにずれたのが気になり、それも直した。

一人の大学生くらいの男性が棚の前に立ち止まったので、邪魔にならないように横に移動した。視界の端で、その男性がどの本を手に取るのかを見たが、俺の本ではなかった。

やや暗い気持ちになりながらも、そのあと、これから書こうとしている短編の参考にするために、恋愛モノのライトノベルを二冊買った。レジで支払いを済ませて、鞄に入れた。

「その時は? 鞄の中の歌詞の紙を見た?」とエレGYが聞いた。

「いや、鞄に本を入れただけで、内ポケットを開いたりはしなかったから見てない」

「内ポケットはずっと開かなかったの?」

「ええと、そのあとに開いたんだ。電車の中で」と俺は答えた。

「聞かせてっ」

昨日 十六時二十分 電車

書店を出た俺は、横浜駅から電車に乗った。

車内は夕方で込み合い出していて、座席には座らずに扉の傍に立った。

さっき買った本を早速見てみようと思って、二冊のうちの片方を取り出した。

車内には冷房は掛かっていたが、本を読んでいるとだんだん込み具合が増して、蒸し暑くなった。

それで俺は、本を読むのを中断して、本を鞄に戻し、そして、その時に内ポケットを開けた。

内ポケットには、歌詞の紙を入れてあったが、それと一緒に、普段からそこには、冷感タイプの汗きシートを入れていた。

俺は内ポケットを開けると、そこから汗拭きシートを取り出した。

「その時見た? 歌詞の紙」とエレGYはこちらに身を乗り出して聞いた。

その時の情景を頭の中に思い浮かべる。

内ポケットを開け、そこから汗拭きシートの入った袋を取り出す。袋を取り出したあとの内ポケットの中に、ピンク色の紙が見えたかどうか。そしてまた、袋からシートを取り出し、袋を内ポケットに戻す。その時はどうだったか。

「駄目だ。思い出せない。ほとんど無意識に汗拭きシートを使っただけだったから」と俺は言った。

するとエレGYは、俺の反応を見て少しだけ考え込み、

「その時にはもうなくなってたのかもしれないね」と言った。

「え、なんでそう言えるんだ?」

「そこまで自信はないんだけど、もし汗拭きシートを取り出す時に紙が視界に入っていたら、その時に、じすさんは歌詞の存在を思い出して、そのことを少しでも考えたんじゃないかなって思うの。例えば、いい歌詞だったな、とか」

「なるほど。何も覚えていないのは、何も考えなかったからってことか」

「うんそう。別の目的で内ポケットを開けたとは言っても、それが目に留まったら、少なくとも、嬉しいっていう感情くらいは湧いてもおかしくないような気がする。だって、すごく気に入ってたんでしょ? その歌詞」

確かに、その時に少しでも紙が視界に入れば、紙はピンク色で目立っていたし、そこに目が留まって、歌詞のことについて何かしら考えるのが自然かもしれない。そして考えていれば、そのことを覚えている可能性は高くなる。だが実際には、何も思い出せない。それは即ち、視界に入らなかったからだ。エレGYはそう分析したわけだ。

「一理あるな。でも、たまたま角度とかで視界に入らなかっただけかも。内ポケットなんてあんまり見なくても手探りだけで中身を取り出せるしな。それに、仮に見ていたとしても、なんにも考えなかったっていう可能性もある」

「まあそうだね」とエレGYは冷静な口調で言った。「じゃあ、そのあとは? もう一度内ポケットを開けたりした?」

「そのあとはもう開けていないと思う。本も読まなかったし、多分、家に着くまで鞄自体を開けてない」

「じゃあ、内ポケットを開いたのはその一回だけってことになるよね。もしその段階までになくしていないんだとしたら、落とした可能性があるのは、その時が一番濃厚かも。汗拭きシートを取り出した時に、袋に紙が貼り付いちゃってて、そのまま鞄の外に落ちたりとか」

「そうか。もっと注意していれば良かった」と俺はいた。

するとエレGYはすっと立ち上がり、俺の部屋の中をきょろきょろと見渡した。

「ねぇ、その鞄どこ? その内ポケットっていうの見せて。どんな構造になってるのか確かめるから」

俺は机の横に掛けてあった鞄を取ると、それをエレGYに渡した。

肩から提げるタイプの、小さな長方形の鞄だ。容量もそれほど大きくなく、単行本を二冊も入れると一杯になってしまう。

エレGYは鞄を開けると、口の中をのぞいて虫歯を確かめる歯医者さんみたいに、中をごそごそと調べ出した。

エレGYはまず、中に入っていたノートとバンソウコウの箱とポケットティッシュとペンを外に取り出した。そして、内ポケットを閉じているマジックテープをビリリと音を立ててはがした。

「マジックテープで閉じてるんだね。ならやっぱり、内ポケットを閉じてる状態で、偶然落ちるなんてことはなさそう

エレGYはそう言うと、内ポケットの中に入れてある汗拭きシートを取り出し、それを目の前でくるくると回した。

「この袋なら、静電気とかで紙がくっ付くこともあるかも」

「やっぱり、汗拭きシートを取り出した時に落としたのかもな

俺は弱々しい声でそう言うと溜め息をついた。

もしそうなら、紙はもう見つからないだろう。最初の鳥類さんの歌詞は諦めなければならない。

エレGYは鞄をひっくり返し、少し乱暴に上下に振った。落ちてきたのは、僅かなほこりだけだった。それから、さっき鞄の中から取り出したノートやバンソウコウの箱なんかを細かく調べ始めた。そんなものを調べても何かが分かるとは思えない

するとエレGYはノートをぱらぱらとめくる手をふと止めて、

「ねえ、じすさん。鳥類さんからどんな風に歌詞の紙をもらったの?」と聞いた。

「え?」

「ケンタッキーで会ったんだっけ。その時の様子、詳しく聞かせて。どんな会話をして、どんなタイミングで歌詞をもらって、どんな風に終わったのか」

ここまで話をして、俺はもうほとんど諦め掛けていた。エレGYとの話の中で、汗拭きシートを取り出した時に落としてしまった可能性が高いと分かり、実際にもそうだったのではないか、という思いが俺の中で強くなっていた。

だから、今更鳥類さんとの会合のことを話しても無意味なように思えて、少し面倒に感じられた。

だが、自分から頼んだ手前、ここでもういいよと言うのも、エレGYの気を悪くさせてしまいそうだ。どうせその話をしたところで、もう何かが分かるようなことはないだろうとは思いつつも、俺はその時のことを詳しく話して聞かせた。

そうすると、その話を聞いたエレGYは、何か引っ掛かることでもあったのか、もう一度ノートをぱらぱらと捲り出した。

するとその時、

「ピロン」

という音が、俺のPCの方で鳴った。

見ると、スカイプで鳥類さんが話し掛けてきていた。

『じすち、新しい歌詞書いたから、こっち使って。前とちょっと違うけど

(鳥類歌詞.txt ファイルを受信しますか? はいorキャンセル)』

どうやら違う歌詞を新たに書いてくれたらしい。

しかし、俺としては、最初の歌詞が気に入っていた分、別の歌詞を書いたと言われても、あまり嬉しい気分にはなれなかった。

ぼんやりとモニタを見たままでいると、エレGYが俺の隣に来て、勝手にマウスを握ってファイルを受信した。テキストがダウンロードされ、それが画面に映し出された。

それは、鳥類さんが言った通り、前とは異なる別の歌詞だった。

似たような恋愛の内容ではあったが、視点が女の子側のミクとなり、相手が男側になっている。最初の歌詞とは真逆だ。そして、気持ちを伝えたいが伝えられないというもどかしさが詠われていて、最後までそのもどかしさのままで終わっていた。

昨日見た歌詞の中にあった告白のシーンは、この歌詞の中には含まれていなかった。

それは、決して悪い詞ではなかった。いつもの鳥類さんらしい直感的な言葉でつづられていて、それなりにセンスも感じられた。

だが、やはり昨日見た歌詞の印象が、俺の中ではあまりに強過ぎて、どうしてもそれと比較してしまい、見劣みおとりした。

「やっぱり、前の方が良かった」と、俺は溜め息交じりに呟いた。

「前のはどんな詞だったの?」と、隣にいるエレGYが聞いた。

「男側の視点で書かれてたんだよ。相手がミクでさ。それで最後は感動的な告白シーンで締めくくられてたんだ。それと比べると、この詞は正反対だな

俺はそう説明した。

「ふーん

エレGYは何か思うところがあるみたいに、モニタに表示された歌詞をじっと見た。

まあ、この歌詞でも、既に組み上げていた短編のプロットと、そんなに食い違う部分はない。短編の物語は恋愛モノにする予定だったし、視点が入れ替わっただけで、詞の中に登場している人物像も、前の歌詞と似ている。

これでいいと鳥類さんが言うのなら、これで進めることはできる。大きな問題はない。ただ、俺の中にちょっぴり落胆が残るというだけだ。それに、歌詞を紛失してしまった以上、もう前の詞は消えてしまって戻ってこない。未練はあるが、現実的にはどうしようもないのだ。妥協だきょうするしかない。

俺はスカイプにメッセージを書いた。

『歌詞、なくしてしまったのに、また書いてもらってすみません。この歌詞でいこうかなと思います。この内容なら、既に組み上げていたプロットとも齟齬そごがありませんし。ありがとうございます』

『良かった』と、返事が戻ってきた。

すると突然、画面に俺の意図しない文字が入力され出した。

『ところで明日は時間ありますか? 日曜でエレGYも補習講義が休みなので

見ると、いつの間にかエレGYがキーボードを自分の方に引き寄せて、それを入力していた。

エレGYは俺の視線に気付いたのか、そこで手をぴたっと止めて、おそおそるという風に俺の方を見た。

「あの。じすさんに代わって返事をしてもよろしいでしょうか」と、エレGYは俺の様子をうかがうみたいに、変にかしこまった口調で聞いた。

エレGYは今までにも何度か、そうやって俺の振りをして無断でやり取りを進めたりしたことがある。そしてどうやら、またそうやって勝手にやり取りを進めてしまいそうになったようだ。しかも、今回は俺の見ている前だというのに。彼女のそういう癖(?)もいよいよ深刻化してきたな

まあ今回は途中とは言え、一言了解を求めてくれたので、良しとしよう

「いいけど」と答えた。

了解を得たエレGYは、再びモニタに向かってメッセージの続きを書いた。

日曜でエレGYも補習講義が休みなので、また昨日と同じケンタッキーで、二時に待ち合わせしませんか?』

すぐに返事があった。

『やった。エレちゃん来れるのか。いいよ。わー楽しみだ』

鳥類さんとのやり取りが終わったあと、

「会いたくなったのか?」と、俺はエレGYに聞いた。

するとエレGYは「あのさ」と言って、それからその続きを言うかどうしようか迷うみたいに言葉を止めた。

「なんだ?」と聞くと、エレGYはゆっくりと俺を見て、

「もしかしたら、歌詞の紙、ちょーちゃんが取ったのかもしれない」と、少し小さな声で言った。

「え? 鳥類さんが?」

俺は怪訝けげんな顔をして聞き返した。

「どうして鳥類さんが取るんだよ。そんなの意味が分からないだろ。考え過ぎじゃないか?」

俺がそう言うと、エレGYは床に置きっぱなしになっていた、鞄に入っていたノートを手に取り、それを俺の方に見せた。

「そのノートがどうしたんだ?」

エレGYは、さっき彼女がやっていたみたいに、ノートのページ側をこちらに向けて、ぱらぱらと捲ってみせた。

そして、彼女はある所でページを止めた。

そのノートは、俺がプロットやアイデアなんかを書き留めるために鞄に入れていたものだ。ノートの中には俺が書いた文字が並んでいる。

彼女が止めたそのページにも、俺の文字が書き込まれていた。特に何かがあるようには見えなかった。

俺が分からないという風に首を横に振ると、エレGYはそのページの端の部分を指差した。

よく見るとそこには、水色と桃色の混じったようなグラデーションの掛かった汚れが付いていた。一瞬、それが何なのか分からなかった。ただの汚れのようにしか見えない。

「鳥類さんにこのノート見せた?」

「いいや見せてないし、昨日は鞄から出してもいない」

「鳥類さんの手に、絵の具が付いてたんだよね?」

そう言われて、はっとした。

さっきエレGYに、鳥類さんに歌詞をもらった時のことを詳しく話すように頼まれた時、俺はそのこともエレGYに話していた。鳥類さんの手に絵の具が付いていて、なんだかお絵描き遊びをしたあとの子供みたいで可愛らしかった、と俺は彼女に話したのだ。

俺はエレGYの手からノートを奪い取ると、その汚れの部分を目の前まで近付けた。

それは、こすれてはいたが、指紋だった。そして、昨日、鳥類さんの手に付いていた絵の具の色が、水色と桃色だったのを思い出した。

「それって、じすさんが付けたものじゃないよね」と、エレGYは聞いた。

そんな覚えはない。仮にもし俺が知らぬ間に付けていたとしても、鞄に入れているペンは黒だけで、それなら黒色の汚れになるだろう。

「飲み物こぼしたって言ったでしょ? それで、手が濡れて、付いていた絵の具が溶けたのかも」とエレGYは言った。

俺はぽかんとしてエレGYの顔を見た。彼女がこの指紋に気付いたことに驚く。

そこで俺は、床に置きっ放しになっていた鞄の方を見やった。

もし、ノートに付いている指紋が鳥類さんのものなのだとしたら、鳥類さんは昨日、俺の鞄を開け、中にあったそのノートを手で捲ったということになる。

いったいいつだろう。飲み物をこぼしたあとということは、もしかしたら、俺がトイレに手を洗いに行った時かもしれない。

「でも、どうしてノートに指紋が」

「すぐに見つからなかったから」と、エレGYは即答した。

そして、床の鞄を拾って、中を開けて見せた。

「鞄を開けても、すぐには歌詞の紙が見つからなくて、ノートが目に入った。それで、ノートに挟まっているんじゃないか、って思ったんだと思う」

エレGYはそう説明すると、内ポケットを開けて見せた。

「すぐに見つからなかったのは、歌詞の紙は内ポケットに入っていたから。ノートを調べても見つからなかったちょーちゃんは、そのあとになって内ポケットの存在に気付いた。そして、内ポケットを開けてそこから紙を引き抜いた」

そう語る彼女の言葉を聞いて、俺は呆然ぼうぜんとした。

やっぱりエレGYは凄いかもしれない

俺から話を聞き、その鞄を調べただけで、ノートについた指紋を見つけ出して、それが鳥類さんのものである可能性を導き出してしまったのだ。

「いや、でも。なんで鳥類さんが取るんだよ」

俺がそう疑問を口にすると、エレGYはそこでニコリと微笑ほほえんで言った。

「分かんない。ちょーちゃんのことだから、何か理由でもあったのかも。でも、それも明日会って聞けば分かる」

その口調は意外にも軽かった。鳥類さんのことを少しも悪く捉えていないような言い振りだ。

「まあ、それはそうだが

俺がそう言ってぼけっとしていると、エレGYは手にしていた俺の鞄に、ノートやバンソウコウの箱なんかをてきぱきと戻して片付け、それを元通りに机の横に掛けた。

そして俺の方を見て、

「んじゃ、明日ね」と言った。

「え、帰るのか」

「うん」

なんだか毎回、彼女が帰ると言い出すたびに、俺はそれにびっくりして、同じような反応になってしまっている気がする

「気を付けて帰れよ」と言って、彼女を玄関まで見送った。

部屋で一人になってから、しばらく俺は放心した。

昨日のことをエレGYに話せば、何かしら彼女が気付くのではないか、と思ったのは俺自身だった。だが、実際に話してみると、改めて俺は、彼女の洞察力に感服してしまったのだ。

俺ははっと我に返ると、部屋の壁に掛けてあるカレンダーを見た。

八月三十一日まではもう一週間しかない。

それから俺は部屋の窓を開けて、そこからベランダに出た。

そして、また空を見上げて、そこに大きな入道雲があるのを確かめた。

「よし、まだ大丈夫」

心に湧いた不安を取り払うように俺は呟いた。

6

エレGYは今日も夏服のセーラー服だった。足には紺色のハイソックスを穿いている。横浜までの電車の中で、隣同士で座っていると、何人もの人に視線を向けられた。

「俺は立ってるから」と言ったが、エレGYが無理矢理俺を座らせ、その隣に座った。

仕方がないから、誰かの視線を感じるたび、後ろの窓の外の景色を見て恥ずかしさを誤魔化ごまかした。

横浜駅に着き、待ち合わせ場所であるケンタッキーへと行くと、鳥類さんは既に席に座っていて、チキンフィレサンドを食べていた。上に着ているTシャツが一昨日おとといとは違う白色になっていたが、他は同じ格好だった。隣の椅子の上には鞄と帽子が置かれている。

エレGYは鳥類さんの向かいに勢いよく座るなり、その姿を見て、

「わーちょーちゃんが鳥食べてる! 共食いだ!」と冗談を言った。

「そうだよ。共食いだよ。エレちゃんも食べなよ。この鳥美味うまいから」と鳥類さんは笑って言った。

俺とエレGYもチキンフィレサンドのセットを頼んで食べた。

そして、三人ともが食べ終わると、俺はいよいよ例の話を切り出そうとした。

だが、いざそのことを言おうとすると、俺は怖気おじけづいた。

何せ、歌詞の紙を取った容疑を、その容疑者である本人を相手に確認するのだ。しかも、その相手は、赤の他人などではなく、今まで長く俺のファンでいてくれて、時々歌詞まで書いてもらっていて、エレGYとも仲良くしてもらっている大切な友人なのだ。

俺の鞄から歌詞の紙を取っただろ! などと、そう簡単に聞けるものではない。

万が一、エレGYの予想が外れていて、鳥類さんが取っていなかったとしたら、それはそれでとても失礼なことにもなってしまう。

それを確認するためには、慎重しんちょうに言葉を選ぶ必要がある、と俺は思った。どんな風に聞けば鳥類さんが気を悪くしないかを考えながら、適切な質問の仕方をしなければならない。

そのように考えていると、隣に座っているエレGYが口を開いた。

「ねーちょーちゃん。ちょーちゃんが一昨日、最初にじすさんに渡した歌詞の紙、鞄から抜き出したよね?」

俺は隣のエレGYの方を振り向き、その横顔を啞然あぜんとして見た。

俺の苦心をあっさりと台無しにするかのような、単刀直入な質問の仕方だった。

「お、おい」

俺は焦ってそう言うと、恐る恐る鳥類さんの顔を窺った。

鳥類さんは目を丸くして、エレGYの顔を見つめていた。

ほんの一、二秒、時間が止まったみたいに、テーブルの上に沈黙が降りた。空気が凍り付くような緊張を感じて、俺は困惑した。

すると、鳥類さんは目をぱちぱちとさせ、それから、ゆっくりと息を吐き、

「あは。やっぱエレちゃんにはかなわないよ」と、笑みを浮かべながら言った。

「それにしてもどうして分かったんだ? じすちには絶対にバレてないと思ったんだけど」

緊張が解け、時間が再び動き出すような感じがした。鳥類さんが怒り出したりせず、落ち着いた笑みを浮かべるのを見て、俺はほっと胸を撫で下ろした。

「じすさんは何にも分かってなかったよ。私が気付くまで、落としちゃったんだって思ってるみたいだったもん」

どこか俺を小馬鹿にするような言い方が少ししゃくさわり、俺はエレGYの顔を横から睨んだ。まあ、言っていることは事実だからしょうがないが

「じゃあどうしてその場にいなかったエレちゃんにバレたんだ?」

エレGYは、俺の鞄の中のノートに絵の具によって付いた指紋があったことを鳥類さんに話した。見ると、鳥類さんの手からは、もう絵の具の跡は消えてなくなっていた。

「えー、そんなの付いちゃってたのかっ。ああしまった。でも、それだけで気付くなんて、やっぱエレちゃんはすごいな

鳥類さんは感心するようにそう言うと、両手であごを支えて、うっとりするみたいにエレGYの顔を見た。

「そんなことないよ」

エレGYはそうは言ったが、まんざらでもないみたいに指で鼻の下を擦ってニヤニヤとした。そんな二人の様子を見ていると、なんだか俺の無能さが強調されるような気がしたので、割り込むように俺は言った。

「でも、鳥類さん。どうしてそんなことしたんだ? 自分で書いた歌詞だし、それを俺に差し出したのだって、鳥類さん自身なのに」

そう。普通じゃ考えられない。自分で書いた歌詞を自分で渡しておいて、それを俺の目を盗んで取り返すなんて、まるで意味が分からない。

すると鳥類さんは、そこで笑みをすっと消して俯き、テーブルの上で両手をゆっくりと結んだ。やはり、何かの理由があったようだ。

「ちょーちゃん、話してみて?」と、エレGYがささやき掛けるみたいに言った。エレGYの方も、もうニヤニヤとはしていない。

鳥類さんは少しだけ顔を上げると、上目遣いでエレGYの方を見て、こくりとうなずいた。

鳥類さんは隣の椅子の上に置いていた鞄を開くと、その中からピンク色の紙を取り出した。それは、一昨日俺が受け取った歌詞の書かれていた紙と同じもののようだった。

ところが、鳥類さんがその紙を机の上に置くと、なんとそれは、まるで手品みたいに二枚の紙に分かれた。

どちらも同じピンク色で、同じ大きさで、同じように二つ折りにされている。

そして鳥類さんは、それらをテーブルの上を滑らすようにしてエレGYの手前に差し出した。

「見ていい?」

エレGYがそう聞くと、鳥類さんは頷いた。

エレGYは二つの紙を開いた。

片方は、一昨日俺が受け取ったのと同じ歌詞の書かれた紙だった。男側の視点で書かれていて、最後には告白のシーンがある。

そしてもう片方は、別の歌詞の書かれた紙だった。昨日、家にいる俺に、鳥類さんがスカイプで送ってくれた、新しく書かれた方の歌詞だった。

「こっちが、本当の歌詞なんだ」

鳥類さんはそう言って、新しく書かれた方の歌詞の紙を指差した。

「え? こっちじゃなくて?」と俺は思わず言った。

一昨日鳥類さんが手渡してくれた方の歌詞が、本当の歌詞ではないのだろうか。

すると鳥類さんは、首を横に振って、

「そっちは違う」と答えた。

「え、でも、その新しい方の歌詞は、最初の歌詞が思い出せないからっていう理由で、改めて新しく書いてくれた別の歌詞じゃ

俺がそう聞くと、鳥類さんは俺の方に頭を下げた。

「ごめん、じすち。新しく別の歌詞を書いたっていうのは、うそなんだ」

「う、噓?」

「そう。新しく書いたわけじゃなくて、本当はそっちが最初に書いた本当の歌詞なんだ。でも、間違えて、こっちの歌詞じゃない方をじすちに渡しちゃったんだよ」

あとからスカイプで渡された歌詞の方が、最初に書かれた本当の歌詞!? そして、俺が最初に受け取った歌詞が、歌詞じゃない!? いったいどういうことなんだ!?

俺はエレGYの前に並べられた二つの紙を見た。確かに二つの紙は同じ紙で、二つ折りにしてしまえば、どちらがどちらか分からなくなる。それで俺に渡す方を間違えたというのは分かるが、でも

「でも、じゃあ、一昨日俺に手渡した、その歌詞じゃないっていう方のは、歌詞じゃなかったらいったいなんなんだ?」

「それはさ

鳥類さんは、そこでまた俯いた。前髪で目が隠れる。

「最初はさ、じすちに頼まれたから、ボカロ曲用に歌詞を書いてたんだ

鳥類さんの言うその歌詞とは、スカイプであとから俺に渡した方の歌詞のことだ。

「でもさ、書いてるうちに段々気持ちがたかぶってきたんだよ。なんていうか、気持ちがもってきて、歌詞の中の人物に、自分を投影しちゃうっていうか」

そういうのは俺も自分で歌詞を書いたり、小説を書いたりしている時によくあることだが

「それで、その歌詞を完成させたあとも、なんだか昂ぶった気持ちが治まらなくなって、それで

そこで鳥類さんは前髪の下から一瞬だけ、こちらの様子を窺うみたいに目を覗かせた。一瞬だったからはっきりとは分からなかったが、なんとなく、鳥類さんが俺の方を見て、ほおを赤くさせたように見えた。

その反応にどきりとする。

「それで、その気持ちを、今度は違う紙にぶつけたんだ。今度は歌詞っていう創作じゃなくて、本物の言葉でさ

俺はエレGYの手前に並んでいる片方の紙を見た。鳥類さんはそこに、歌詞ではなく、本物の言葉で気持ちをぶつけたと言っているのだ。そしてそれは、鳥類さんの言うところの歌詞ではない方、すなわち、俺が最初に受け取った方の紙だ。

その紙に書かれている言葉と、もう片方の紙に書かれている歌詞との、一番大きな違いは、最後の部分にあった。

鳥類さんが本当の歌詞だという方には、告白のシーンがなく、そのあとに気持ちをぶつけて書いたという方には、それがあるのだ。

ということは、鳥類さんは気持ちをぶつけて、告白のシーンを書いた、というか、告白そのものを書いた、ということになる。

「え、そ、それって、歌詞じゃないってことは、つまり

俺がそう言い掛けると、それに繫げるように、

ラブレター」とエレGYは言った。

「えっ、ラ、ラブレターって、えっ?」

俺はエレGYの横顔を見て、それから、彼女の手前にある二つの紙を再び見た。

つまり、鳥類さんは歌詞を書いたあとに、全く同じ紙に、ラブレターを書き、そして、そのラブレターの方を、間違って俺に渡してしまったということらしい。

「最初は歌詞の方を渡したと思ってたんだ。ところが、それを読んだじすちが、『最後の告白の所なんて、ちょっと感動した』なんて言ってさ。それ聞いた途端とたん、え? 告白の所!? しまったって気付いて、私、ちょっとパニクったんだ。動揺がバレちゃいけないって思って必死に澄ました顔したんだけど、本もらった時も落としちゃって、飲み物こぼれてさ。でも、じすちがトイレに行ったのを見て、慌てて回収したんだよ。歌詞の方も持ってきてたから、それと差し替えようかとも思ったんだけど、そんなことしたら、私がこっそり差し替えたことがバレちゃうし、もう、抜き取ったままにするしかないと思って。ごめん

そういうことだったのか、と思った。

そして、そこまで聞いて、じゃあそのラブレターはいったい誰にてたものなんだろう、と、ふと考えた時、俺はあることにはっと気付いて、一気に心臓の鼓動が激しくなった。

そう。鳥類さんはずっと前から俺のファンで、俺が作詞を頼むといつも書いてくれていて、会った時は、俺を見る視線には常にどこかしら好意のようなものが籠もっていた

そう言えば、ついさっきも、鳥類さんが一瞬前髪の間からこちらを見て、頰を赤くさせたような気がしたのを思い出す。

見ると、鳥類さんは俯いたままだったが、ショートヘアの間から覗く耳が、はっきりとに染まっているのが分かった。

やっぱりだ、と思った。

鳥類さんが書いたそのラブレターの対象は、俺なのだ。

だから、一昨日それを歌詞と間違って俺に渡してしまって、鳥類さんは混乱しながらも、それを俺の鞄から抜き取ったのだ。そして、あたかも、そのラブレターが歌詞だったかのように振る舞って、あとから、別の歌詞を書きましたと噓を言って、本来の歌詞の方をスカイプで送ってきたのだ。

つまり鳥類さんは、前から俺のことを好きだったということになる。

い、いや、しかし、俺にはエレGYがいる。ということは鳥類さんは、俺にエレGYという存在がいるのを知っていながら、更にそのエレGYとも仲良くしていながら、それでもやはり、俺への恋心が芽生めばえてしまって

そして、それを抑えることができずに、つい歌詞を書いている最中に気持ちが昂ぶり、歌詞を書いたあとから、その気持ちを紙にぶつけた

俺は自分の顔がカッと熱くなるのが分かった。

今までにも、俺のファンの女の子で、俺にそういう気持ちをぶつけてきた子は何人かいた。そもそも、エレGYがそういう女の子の一人だったのだ。

鳥類さんは俯いたまま、恥ずかしそうにじっと固まっている。まるで、俺からの返事を待っているみたいに思えた。そりゃそうだ。俺の鞄から紙を抜き取った理由を説明しただけとは言え、それはもう、告白をしたも同然のようになってしまったのだから。

即ち、ここで俺は何かしらの返事を言わなければいけないのだ。

だが、俺はどうしたらいいのか分からなくなって、それこそパニックになった。

だいたい隣には、俺の恋人であるエレGYがいるのだ。その目の前で、鳥類さんに返事をするなんて、あまりにハードな状況ではないか。

ひょっとしたら、エレGYだってもう、そのラブレターの対象が俺であるということに気付いているかもしれない。鳥類さんは、そのことをはっきりと口で言ってはいないが、ここのところ妙に鋭いエレGYなら、とっくに気付いているとしてもおかしくない。

だとすると、そのエレGYもまた、俺が鳥類さんに対して、何らかの言葉を掛けるのを待っているということになる。そう言えばさっきからエレGYは黙ったままだ。これはもう、確実に気付いていて、俺が鳥類さんに返事をするのを待っているに違いない

しかし、俺は完全に混乱していて、何と言えばいいのかなんて全く分からなかった。

俺は混乱の限界に達し、勢い良くその場で立ち上がると、

「ちょ、ちょっと、ごめん」と言って、エレGYの腕を摑み、彼女を店の隅の方まで引っ張って移動させた。

エレGYは目をまん丸にして、

「な、何!? 何すんのっ」と俺にうったえた。

その反応からすると、意外ではあったが、エレGYはこの状況の本質にまだ気付いていないのかもしれない。

「た、たたた、たいへんなんだ」と、俺はエレGYに言った。

「な、何」

俺は元の席の方をちらりと見た。席には鳥類さんが一人で座って、俯いている。

そこからは五メートル以上は離れていた。店内には他の客もいて、まあまあさわがしい。声は聞こえないだろうと思ったが、ついひそひそ声になって言った。

「ちょ、鳥類さんは、お、俺のことが、好きなんだよ

するとエレGYは俺の顔を凝視して、口をぽかんと開けた。

やっぱり気付いていなかったのだ。

「ど、どうしたらいい? も、もちろん断るよ。でも、おまえの見ている前で断ったりしたら、なんかそれはそれで残酷ざんこくだし、それに、なんて言えばいいのか

俺は取り乱しながらもエレGYに相談した。彼女なら、同じ女だし、傷付けずに済む上手な方法というのを助言してくれるのではないかと思ったのだ。

ところがエレGYは、突然、両手で俺の顔をぱちんと挟むと、唇が触れそうになるくらい顔を近付けてきて、

!!」と言った。

「は!? 勘違いってなんだよ。まだ分かってないのかっ。鳥類さんは俺のことを

ゴツンッ。

「痛っ」

俺は額を押さえてしゃがみ込んだ。エレGYが頭突ずつきをしてきたのだ。

「な、何すんだよ。この状況がどういうことか分かってないのかっ」と俺は立ち上がって言った。

するとエレGYは頭を抱えて溜め息をついた。

そして、

「分かってないのはじすさんなのっ。あのね、じすさんが最初にもらったのがラブレターなんだよ?」

「そんなこと分かってるよ」

「分かってないでしょ? その紙、さっきも見たよね? どんなことが書かれてた?」

「だから、告白の言葉が書かれてたんだよ。俺はてっきりそういう歌詞なんだって勘違いしたけどさ」

「そこもそうだけど、他にも気になる所があったでしょ?」

エレGYは呆れるみたいに言った。

そう言われて、書かれていた内容を思い出す。

それは、男視点で、相手が女になっていて

「あれ」と俺は呟いた。

それが歌詞ではなくラブレターだったのだとしたら、男視点だなんていうのはおかしい。書いているのは鳥類さんなのだ。鳥類さんは女の子である。いくらなんでも、視点を入れ替えてラブレターを書くなんて聞いたことがない

しかし、現にそれはラブレターだと鳥類さんは認めたのだ。

それがどういうことなのか、俺にはすぐに分からなかった。もしかして、そういう新手の技法を使うことで、相手への印象を強める狙いのあるラブレターなのか

考え込む俺を見て、エレGYは仕方がないなとでも言うみたいに、腰に両手を当てた。

「あのね、男視点で書かれてたってじすさんは言ったけど、男視点なんかじゃないの」

「は? 男視点じゃなかったらなんなんだよ。相手は、確実に女の子だったんだぞ。だって、『長い髪に触れたい』とか、そういう言葉が書かれてたんだ」

そう自分で言って、再び、あれ、と気付いた。

もし視点を入れ替えるという技法を使ったラブレターだとしたら、長い髪だなんていうのはおかしい。鳥類さんはショートヘアなのだ。

「まだ分からないの?」

エレGYは眉間みけんしわを寄せ、くたびれたように言った。

その様子を見て、違和感があった。

いつもだったら、もしこういう状況になった時、彼女ならニヤニヤとして、「教えて欲しい?」とか、「降参?」とか、「答えが聞きたかったら、名探偵エレGYちゃん様教えて下さいって言って」とか、嬉しそうに言ってくるのに

だが、目の前のエレGYは、そんな風には見えない。むしろ、どこか苦しげにも見えた。

エレGYは大きく息を吐いてから言った。

「じすさん。ちょーちゃんが好きなのはじすさんじゃないよそうじゃなくてちょーちゃんが好きなのは私なの

俺は耳を疑った。

「へ

「前からそうじゃないかなって気はなんとなくしてたんだけど、さっき、ちょーちゃんの話を聞いてるうちに分かったよ。何より、話を聞いた上で、あのラブレター見たら、もうそうとしか思えないもん」

そこに至ってようやく、俺はエレGYの言っていることが正しいのだということを理解した。

確かに歌詞には、『長い髪に触れたい』とか、『制服のスカートを翻す君』などという言葉があったが、それは学生という設定のミクではなく、エレGYそのままではないか。

そして相手が女性だから、てっきり視点は男側なのだと思い込んでしまったが、そうではなく、視点の方も女性だったということなのだ。

つまり、その視点というのは、鳥類さんで、相手は、エレGYだということになる。

「え、じゃあ。あのラブレターの対象っておまえってこと、えっ、てことは鳥類さんって

「だから言ってるでしょ? もう一回言う? 言わなくても分かるよねっ」

すると、俺はさっきまでとはまた違う意味で、自分の鼓動が激しくなるのが分かった。

「ちょちょ、ど、どうするんだよ、おまえ」と、俺は戸惑とまどいながら言った。

何故なら、エレGYは俺の恋人なのだ。しかし、その俺の恋人であるはずのエレGYに、鳥類さんがせまっているということになってしまう。鳥類さんは女の子ではあるが、女だろうが男だろうが、恋敵こいがたきとして俺からエレGYを奪おうとしている、ということになってしまうではないか。

つまり、エレGYをられてしまうかもしれない、ということなのだ。そう思うと、俺は不安な気持ちで一杯になって、再びパニックになった。

「どうするもこうするもないでしょ。じすさんっ」

「だ、だって、え!? ま、まさか、お、お、おまえまで、鳥類さんのことを!?」

ゴツンッ。

俺は再び額を押さえてうずくまった。さっきより痛かった。

「じすさん、ちょっとここで待ってて。私、ちょーちゃんにちゃんと返事しなきゃ」

「え、お、おいっ」

エレGYは額を押さえる俺を残して、鳥類さんの待つ席へと行ってしまった。

二人が向き合って何かを話す様子を、俺は胸に不安を抱いたまま遠巻きに眺めた。

すると、途中で鳥類さんが泣いているようだと遠目にも分かった。

そんな鳥類さんをなぐさめるように、エレGYが鳥類さんの隣の席へと移るのが見えた。

そして、二人は抱き合い出してしまった。

そこからは見てはいけないような気がして、心の中はざわめきっ放しだったが、後ろを向いて待った。

しばらくすると、エレGYが後ろから俺の肩を叩いた。

「もう大丈夫だよ」

「な、何が大丈夫なんだ!? どうなったんだよっ。まさか、おまえ、俺を捨てて鳥類さんと

エレGYは溜め息をついて、

「ばーか。私はじすさん以外の人とは、男だろうが女だろうが、そんなことしない」と言った。

それを聞いた俺は、それまで不安だったせいか、その場で思わず泣きそうになったが、周りの目もあるし、鳥類さんもこっちを見ていたので、ぐっとこらえた。

帰りの電車の中で、俺の隣に座るエレGYは意地悪そうに言った。

「でも、じすさんってほんっと、鈍感どんかんっていうか、女の子の気持ち全然分かってないんだね。自分が好かれてるとかって思い込んでたし」

俺はエレGYの顔を睨んだ。行きの電車の時と同じで、また周りの視線が気になっていたし、俺は腹が立って席を立とうとした。

するとエレGYに腕を摑まれて、再び隣に座らされた。

「ごめんごめん」とエレGYは謝った。

「ふん

「でも、私がちょーちゃんの物になっちゃうんじゃないかって心配してくれたんでしょ? それは凄く嬉しかったよ。ありがと

そう言うとエレGYは俺の腕に手を回した。

ますます周りの視線が気になったし、腕を回されたことで顔も熱くなったので、俺は背後の窓の外を見て誤魔化した。

7

そのあとどうなったかと言うと、横浜で三人で会ったその日の夜、鳥類さんは改めて新しく歌詞を書いて俺に送ってきた。それは最初に俺がもらったラブレターだったものでもなく、二番目にもらった歌詞でもない。横浜で別れたあと、帰宅してから鳥類さんが一から書いた、全く別の新しい歌詞だった。

内容も以前のものとは変わっていた。

恋愛モノではなく、いて簡単に言うなら、友情モノだ。

一人の女の子が、別の女の子とのいくつかの思い出を振り返るような内容で始まり、その二人の女の子の微妙な距離感が描かれていた。

楽しい思い出と、それを振り返る切ない感情が、鳥類さんらしい素朴そぼくな言葉で交互に表現されている。それらの二つの描写は、相手の女の子に対する好意と、その好意が故に、その女の子との関係が悪く変わってしまうことへの恐れとしても表現されていて、一見何気なく書かれた羅列られつのようでありながら、その女の子の内面をあざやかに浮き彫りにしているようでもあった。

その女の子というのが鳥類さん本人であり、相手の女の子がエレGYであるということは、その日の昼間の横浜でのことを知っている俺には、すぐにはっきりと分かった。

鳥類さんが、エレGYからの返事を聞き、そういう関係にはなれないと知ったあとの、彼女なりに整理した気持ちというのが、その歌詞には込められていたのだ。

しかしその歌詞からは、決してふさぎ込んだような雰囲気は感じられなかった。そういう経験や感情を経たあとにこそ芽生えた、相手の女の子に対する信頼や友情が、その歌詞からは伝わってきた。前向きな雰囲気に包まれていて、女の子同士の友達っていうのが、少しうらやましいな、と思うような素敵な歌詞に仕上がっていた。

それを読んだ俺は、その歌詞に深く感動した。前よりも鳥類さんのことが好きになった。もちろん、その好きというのは変な意味じゃない。エレGYとの関係をそのように捉え直した鳥類さんの心の大きさや優しさを尊敬し、また、自分の心の中のことを、そんな風に歌詞に表現できてしまう才能に感嘆かんたんしたのだ。

だから俺は、その歌詞を採用することを喜んで決めた。そんな歌詞を書いてもらえたことに、光栄だという気持ちが湧く。

既に恋愛モノの短編のプロットを組み上げてはいたが、俺はそれを何の躊躇ためらいもなく削除した。

そして、新しく受け取ったその歌詞を元に、新しいプロットを作り、それを元に短編を書いた。

どんな話にしたかと言えば、その歌詞の通りの、微妙な関係の女の子を二人登場させた。

初音ミクと鏡音リンだ。

そして、ミクの方には鳥類さんを当てはめ、リンの方にはエレGYを当てはめた。

二人の間にある微妙な距離は、時に二人を近付け、しかし時には引き離そうともする。だが、二人はそういう関係を経て、互いに、より信頼し合い、応援し合うようになる。

そういう友情の物語にした。

そのように書けば、これまで鏡音リンの方を多く使い続けてきた俺が、初音ミク誕生祭に合わせて創作をするということに対して、変な意識を持たずにも済んだ。

鏡音リンと初音ミクが、エレGYと鳥類さんのように、いい女友達同士の関係なのだと思うことによって、俺の中の固執した観念が取り払われたのだ。

そして、その物語の中の二人のように、あるいは、エレGYと鳥類さんのように、ミク誕生祭では、俺はリン廃として、ミクやミク使い達を応援してあげればよいのだ。もし鏡音リンというキャラクターが現実に生きていたとしたら、きっとそうするだろう。

そうして、俺は無事、短編を書き上げた。

担当編集者であるKさんに提出すると、「ユー。よく頑張ったな。これを当日公開するから、ユーは動画を投稿して、同じ日に公開しろ」という返事が戻ってきた。

俺は鳥類さんの歌詞に曲を付け、初音ミクに歌わせて、その動画も完成させた。あとはミク誕生祭である八月三十一日を待つだけだ。

その日は、学生なら夏休みの最終日だ。

まだ暑い日は続いていたが、子供の頃の記憶のせいか、その日付を見ると、なんとなく夏が終わってしまうような寂しい感じがする。

だがそんな夏休み最後の日に、ネットでは、ちょっとしたお祭りがある。

初音ミク誕生祭。

その日、ネット上には、日付が変わると同時に、初音ミク誕生祭を祝うための作品がいくつも投稿された。ボカロ動画もあれば、初音ミクを描いた絵もある。大勢のボカロPや絵師が、一斉いっせいに初音ミクの誕生日を祝うための作品をネット上に公開したのだ。

そんな中で、俺もまた、鳥類さんの歌詞を元に作った動画を、ニコニコ動画に投稿した。そして、同じタイミングで、短編の方も出版社のサイトで発表された。

鳥類さんが書いてくれたあの素晴らしい歌詞を元に、曲と短編の両方を作ることができたこと自体に、俺は満足したが、ミク誕生祭での動画と短編の同時公開は、思っていた以上の反響を呼んだ。

ボカロと小説の両方でミク誕生祭を祝うことのユニークさが、多くの人の関心を引いたようで、公開直後からまたたく間にツイッター上で話題となったのだ。想像以上の人の目に留まることになり、賞賛の呟きをいくつも見ることができて、俺は嬉しい悲鳴を上げた。

するとすぐに、Kさんからメールが届いた。メールの前半には、短編が公開されてすぐに多くの反応があったことを報告する内容と、その礼が書かれていた。そして、後半の部分には、次のようなことが書かれてあった。

とはいえ、全ては俺の予想していた通りの展開だ。読みが当たっただけで、俺的には当然のことだ。驚くようなことではない。

だが、そんな俺の予想で、一つ、まだ達成されていないことがある。

それは、ユーのことだ。

何故俺が、ユーのような未だ実績のない小説家と仕事をするか、分かるか。

それは、俺がユーの中に、将来ウルトラベストセラー作家になるような、ビッグダイヤモンドの原石を見ているからに他ならない。そしてその原石は、俺によって着実に磨き上げられている

そのビッグダイヤモンドが、目がくらむほど輝き、世の中を照らす日。それが俺のユーに感じている、まだ達成されていない予想だ。

だがな、その日が訪れるために必要な最後のピースを埋めるのは、他の誰でもない、ユー自身だ。

ヘイユー。これからも、もっともっと最高の小説を書いて、俺の予想を完全的中させてくれ』

今回の短編や動画が予想以上に話題になったことだけでも、やはりKさんは凄い編集者だと感銘かんめいを受けていたのだが、そのメールを読んで、俺は思わず体が震えた。

何故Kさんのような大物編集者が俺と仕事をしたがるのか不思議に思っていたが、そこにもまた、Kさんの長年の経験からくる読みがあったからなのだ。即ち、俺の可能性を信じてくれているのである。そして、メールにも書かれていた通り、その読みを当てさせるのも外れさせるのも、最後は俺自身にかっている

俺はKさんに感謝すると同時に、その期待に応えるためにも、もっといい小説を書かねば、という堅い決意を胸に抱いた。

Kさんからのメールを読んで十五分ほどした頃、エレGYから電話が掛かってきた。

電話でエレGYは、俺の短編や動画に対する感想を語ったあとに、次のようなことを俺に言った。

「私、ボカロって、ただの流行りものだと思ってたけど、最近、じすさんのおかげでボカロに色々と触れるようになって、ちょっとずつだけど印象が変わってきたんだ。

今回だって、じすさんがちょーちゃんにボカロの歌詞を頼んだのがきっかけで、ちょーちゃんと今まで以上にいい関係になれたし。そしてそれをまたちょーちゃんは歌詞にして、じすさんがボカロの曲や短編にしたんだよね。そういうのって、なんか凄いなって」

それからエレGYはこんなことも言った。

「ねえじすさん、私もちょっとボカロ作ってみたいなって思ったよ。だって、じすさんはちょーちゃんの歌詞をボカロにしたり、一緒に創作したりして楽しそうだし、今日なんて、色んな人がみんなでミクのお誕生日を祝ってて、なんだか羨ましいもん」

こないだまで、彼女がボカロにさほど興味を持っていなかったことを思うと、少し意外な言葉ではある。でも実は、彼女がボカロに関わったのは今回だけのことではないのだ。この数ヶ月の間に、彼女の考えをそんな風に変えてしまうほどの、色んな出来事が俺達の周りでは起きたのである。

彼女のその言葉を聞き、俺はそれらのことを振り返って、感慨深い気持ちになった。ただ、それはまだ、ここではヒミツの話だ。

しかし、エレGYがあんまりボカロの方に興味を持つのも、それはそれで少し心配になった。何故なら、ボカロに興味を持ち過ぎて、俺のゲームをやってくれなくなるんじゃないかという気がしたからだ。

エレGYは日頃から、俺に新しいゲームを作れ、とか、バージョンアップしてくれ、とうるさかったが、それは裏を返せば、それだけ俺の作るゲームを好きだってことだろう。

でも、これからエレGYがボカロに興味を持って、自分でも作るようになったら、もしかしたら今までみたいに、俺のゲームで遊んではくれなくなるかもしれない。我儘わがままな気持ちだとは思ったが、それはそれで不安になった。

「じゃあ、もうバージョンアップはいいか」

俺は彼女の気持ちを探るみたいに電話口で言った。

「はあ?」

「だって、ボカロの方に興味が湧き出して、ゲームはもう別にいいんだろ?」

わざと皮肉っぽく言った。少々ひがんでいるような言い方にも聞こえたかもしれない。

すると、彼女は急に大声を出して、

「私のことなんだと思ってるの? 私は世界一のじすさんのゲームのファンなの!! ボカロに興味が湧いても、そこは譲れないの!! 分かった? 約束通り、有利なジョブにして!!」と、やや怒るように言った。

「ははは、はいはい

そんな風に面倒臭そうな口振りで答えはしたが、内心、その言葉を聞いて少しだけ安心した。

そして、電話は終わった。深夜二時になろうとしていた。

寝る前にもう一度、俺が投稿した動画を見た。既にコメントには、ミクの誕生日を祝う言葉がたくさん書かれていた。短編が良かったというコメントもあった。

ミク誕生祭は、次に日付が変わる翌日の0時まで続く。

ブラウザを閉じ、布団を敷いた。部屋の電気を消す前に、思うところがあってクローゼットを開けて中を見た。それから部屋を暗くして横になった。

誕生日おめでとう、ミク。心の中でそう呟いて寝た。

翌朝、早起きした俺は、部屋の窓を開けてベランダに出て、外の空を見上げていた。

夏休み最後の日ではあったが、せみはまだうるさく鳴いていた。午前にも拘わらず、既に強い日差しが降り注いでいて、むっとした暑さが漂っている。

頭上にはさおな空が広がっており、そこに巨大な入道雲が山みたいにそびえている。

「よし

と俺は確認するように呟いた。まだ夏は終わっていない。

本当は、子供の頃の記憶のせいだけで、夏が過ぎてしまうことに焦っていたわけではない。実は、もう一つの理由が俺にはあったのだ。

先月は書き下ろしの小説で忙しかったし、八月に入ってからは、エレGYの方が補習講義であまりうちに来られなくなっていた。

だから、今年は夏に入ってから、せっかくの大好きな夏だというのに、俺はエレGYと遊ぶ機会が減ってしまっていた。

そこで俺は、どこかで機会を見つけて、エレGYと海に行きたいと、ひっそりと心の中で計画していたのである。

どちらかが忙しく、なかなか遊べないというのなら、そういう大きな特別な思い出を、一日でいいから、夏の間に作りたかったのだ。

だが、タイミングのいい日はずっと訪れていなかった。何度かエレGYの補習講義が休みになる日はあったが、そういう日に限って別の予定が入ったりしていた。

それに、俺はその計画のことを、エレGYには話していなかった。

もし話したりしたら、彼女のことだから、補習講義なんて一発で放り出して、「行こう行こう」と言って聞かなくなるだろう。そんなのは駄目だ。いくら夏の思い出を作りたいからとは言え、それを理由に彼女を留年させるわけにはいかないのだから。

また、いくらそれなりの時間が取れたとしても、やはり、彼女が補習講義を受けている期間中に行くのも、あまり良くないと思った。海に行ったことがきっかけとなって、解放感に歯止めが利かなくなり、そのあと補習講義に行かなくなってしまう可能性があるからだ。

だから、俺は彼女の補習講義が終わるのを辛抱しんぼう強く待つことにした。終わってから、それでもまだ暑い日が続いていたら、その時になって、思い切りハメを外せばいい。そう思っていたのだ。

そういうわけで、外に出るたび、空に浮かぶ入道雲を見上げては、「まだまだ大丈夫」などと言って、暑さが健在であることを確かめていたのである。暑い日が少しでも長引いて、彼女の補習講義が終わるまで夏が続いてくれるように、俺は願っていたのだ。

そして、エレGYの大学での補習講義は、昨日でついに終わりとなっていた。

ただ、もうこの時期になると、海では海月くらげが出るだろう。波も高くなっているかもしれない。でも、暑ささえ残っていれば、海に入らずとも、砂浜で水着になって遊べる。

ガチャリと扉が開いて彼女が部屋に飛び込んでくるのを、俺は今か今かと待っていた。彼女には、今日は朝早くから来て欲しいと、昨夜の電話で伝えておいた。しかし、海へ行く計画はまだ秘密にしたままだ。

すると、扉が開く音ばかりを予想していたのだが、突然、ベランダの外の方から声がした。

「じすさん、おっはよ」

見ると、ベランダの塀の向こう側にエレGYが立っていて、掌で日差しをさえぎりながら、こちらを見ている。

今日も彼女は夏服のセーラー服を着ていた。背中にはリュックを背負っている。セーラー服の白い生地が、太陽の光を受けて眩しい。

「今日は窓から入ろうとでもたくらんでたのか」

と、ちょっと意地悪く言う。

「違うもん。ベランダにじすさんが出てるのが見えたんだよ」

エレGYはそう言って少しむっとするみたいに頰を膨らませた。

俺は一度部屋に入り、クローゼットの中から買っておいた浮き輪を取り出した。急いでベランダに戻ると、それをエレGYの方にえいっとかかげて見せて言った。

「海、行かないか」

エレGYはぱっと表情を明るくさせて、

「やった! 行く!」と言った。

喜んではいたが、思っていたよりも反応が薄かった。もっと驚くと思っていたのだが。

すると、

「へへ、きっと今日くらいにじすさんが誘ってくるんじゃないかって思ってたんだ」とエレGYはニヤニヤとしながら言った。

「ええっ。噓だろ?」

さすがにそこまでバレるはずがない。俺は一度も海のことなんて口にした覚えはないのだ。いくらエレGYが最近は鋭いと言ったって、テレパスでもない限り、一度も口にしていないことを予測できるわけがない。

そう思ったのだが、

「だって、前にクローゼット開けた時、その新しい浮き輪が入ってたんだもん」とエレGYはあっさりと言った。

「えっ」

そう言われて、エレGYがクローゼットを開けた時などあっただろうか、と考えた。

あった。彼女が俺の部屋のクーラーを勝手に点けて、俺が文句を言った時だ。それで彼女はクローゼットから俺のフリースを取り出して、それを俺に寄越した。その時に見られてしまっていたのだ

「なんだ

俺はがっくりと肩を落とした。もっとしっかりと隠しておけば良かった

エレGYは、そんな俺の反応を見て、すまなそうに言った。

「ごめんごめん、そんなに落ち込まないでよ」

どこか俺を励ますみたいに笑みを浮かべると、背中のリュックを下ろしながら、

「実はもう買ってあるんだっ。そのクローゼットを開けた日、買い物があるからってすぐに帰ったでしょ? あの時、買いに行ったの」と彼女は言った。

そして、リュックを開けると、中のものをさっと取り出した。

「ほらね? 早く行こっ」

それを見ると、計画がバレていたことへの落胆など、夏の空へといっぺんにすっ飛んでいった。

それは、頭上に広がる空と同じような水色をした、ビキニの水着だった。

iPodに入れたボカロ曲を、イヤホンを片方ずつ分けて二人で聞きながら、バスに乗って海へ向かった。

いい夏の思い出になりそうだった。