吐田家のレシピ#2『サニーサイドアップ』

渡辺浩弐

「最前線」のスペシャル企画「最前線スペシャル」。期間限定公開のカレンダー小説第15弾は、優しく苦しい、小児病棟の物語。『2013年のゲーム・キッズ「謎と旅する女」』で文学界を震撼させた渡辺浩弐がおくる、とっておきの短編。

初めてうそをついたのは5歳の春だ。その瞬間のことを吐田はんだ君は克明こくめいに覚えている。

「今日は映画会です」

先生の一言で、教室がワッとわいた。

講堂の固い床に体操座りで見せられたのは魔法少女のアニメや特撮とくさつヒーロードラマではなく、交通安全の教育映画だった。それでも、みんなはしゃいでいた。いつもと違う体験ならなんでも大歓迎なのだ。

短いエピソード仕立てで身近な危険や交通ルールを教える実写映画だった。その中で、やんちゃな子供が、走っている電車めがけて石を投げるシーンがあった。

石は運悪く窓ガラスを割り、乗客のおばあさんにケガをさせる。

そんな場面でもまわりのみんなは大喜びしていた。「やったー」なんて叫んでいる男の子もいた。映画の教育効果は疑わしかった。

ただ、吐田君は違った。おばあさんが頭から血を流してうずくまる姿に衝撃を受けてしまい、それで具合が悪くなった。

映画はほどなく終わった。教室に戻る列から吐田君は一人外れてトイレに行った。洗面台で吐いているところを通りがかった先生が気づいてくれた。

幼稚園には保健室はなくて、ケガをしたり具合が悪くなったりした子供は職員室の隅にあるソファに寝かされた。

お湯をもらって飲み、しばらく休んだら、具合が良くなった。起き上がったところに、清水しみず先生が近づいて来た。がりがりにやせていつも傷だらけの吐田君を遠回しに気遣きづかってくれる、優しい先生だ。

先生は冷たい手を吐田君のおでこに当て「もう大丈夫だよね」と言った。

「そうだススムくん、映画は最後まで見られたのよね、よかったね。面白かった?」

先生の問いかけに、

「はい」

と吐田君はうなずいた。

その時の先生の手の冷たさ、うつむいて見ていた自分の指先に付いた赤いクレヨンの色、遠くから聞こえるオルガンの音色と子供達の歌声、そういうもの全てを吐田君はありありと思い出すことができた。

あの時、自分は生まれてはじめて、意識的に噓をついたのだ。

もちろん今なら、そんなに気に病むようなことではないと思える。けれどその時の自分にとっては、とんでもなくつらいことだった。

それが大したことじゃないと思う大人の自分と、罪の意識におしつぶされそうになっていた幼稚園児の自分は、完全な別人なのだ。

大人はたくさん噓をつきながら、噓は悪いことだと言う。そして子供に「噓だけは絶対につくな」と言う。噓つきは泥棒のはじまりなんだそうだ。子供はそれを真に受ける。

サンタクロースの正体を知った子供に、つまり自分達は犯罪者だと思われてもいいと世間の親は思っているのだろうか。今でも吐田君は不思議に思う。

「わたしのお母さんって、どんな人だった?」

グミコが聞いた。いたコーヒー豆にお湯を注ぎながら、吐田君が答えた。

「お姫様みたいにきれいな人だったよ。それは本当に」

「もうちょっと具体的にないかなあ」

「写真見せたでしょ」

「あんなにぼけぼけの写真じゃ、よくわかんないよ」

グミコの母親メグミは、一人語りを自分撮りした DVD を吐田君にのこしていた。けれど、それを最初にグミコに見せていいのはグミコが10歳になる時と決まっていた。

「うーん。グミコさんに似てたよやっばり」

「それは知ってるから。見た目とか、ふんいきとか、性格とか」

「グミコさんを2倍にして、そこからススムさんを引けば、お母さんになるよ」

「えええ?」

「ほらこないだ勉強した“平均算”だよ。グミコさんはメグミさんとススムさんの平均だからね」

グミコは目をくるくるさせていた。真剣に考えているのだ。

自分×2−ススムさん。

そして「もう!」と言った。

「お母さんとはどこで出会ったの」

舞踏会ぶとうかい

「なんで噓つくの。そんなこと、本当のこと言えばいいじゃない」

子供というものは母親がいないことでめそめそするわけではないし、クラスでも特別扱いされるわけでもない。不安いっぱいでグミコと暮らしながら、手をつないで幼稚園や小学校に行きながら、そのことを吐田君は知った。

「すきだった?」

「えっ」

「お母さんのこと、ススムさん、好きだった?」

吐田君は口ごもった。適当に答えればいい時にかぎって吐田君はひどく本気になってしまう。それをグミコはもう気づいていた。

吐田君は結局、変な大人になった。まじめな顔で噓をつく。

それがいつものことだ。友達がいないのはそのせいかもしれないとも、思っていた。

すごく昔の話だけれど、付き合っていた女の子に金を盗まれたことがあった。

その子と会うたびに財布からおさつが明らかに減るのだ。気づいた吐田君は、ある時1万円札ではなくジョークグッズの「1兆円札」を入れておいた。薄暗い喫茶店でトイレから戻ったら、案の定、バッグが開けられた形跡があった。

レジの前であわててみせると、彼女は平然と聞いてきた。

「どうしたの」

「いや、お金持ってきてたつもりだったんだけど」

「いいわ、今日はあたしがおごっといてあげる」

彼女は自分の財布から1兆円札を取り出し店員に渡した。店員の手が止まった。吐田君は笑いながら自分のお金を出して、固まったままの店員から1兆円札を取り戻した。

彼女も一緒に笑ってくれると思ったが違った。店を出ると彼女は真っ赤な顔で目をり上げた。

「私を犯罪者にするつもり?」

「ごめん。けど、あのさ君、もしかして僕の財布からお金盗ってる?」

彼女は一瞬目を泳がせてからすぐに立ち直って、強い口調くちょうで言った。

「盗ってないよ!」

さすがの吐田君も言い返した。

「それって、噓だよね? だって今」

「あなただっていつも噓ばっかりついてるじゃない。親はもともといないとか。自分はロボットだったとか。噓つきの吐田君に、私を責め立てる資格ないわよ」

いや別に責めてないし、と言いかけて吐田君は口ごもった。

もっと大事なことがある。その噓とこの噓って、全然違うものじゃないかということだ。

そう思った。けど、口には出さなかった。苦労して説明するより、相手と二度と会わない方が楽なのだ。

吐田君は考えた。もしかして、彼女の言い分の方が世間的には正しいのかと。

世間では、噓というものはぜんぶ同じ、噓はただ噓であるということになっているのかと。

そして吐田君は一人ぼっちになった。そんなふうに吐田君は何度も何度も一人ぼっちになってきた。

「ススムさんには、お父さんとかお母さんはいないの」

「いないよ」

「生きてた頃の思い出でいいから話して。どんな人だった?」

「最初からいないんだ」

「ススムさんがまだ赤ちゃんの頃に死んじゃったってこと?」

「違う。もともといないの。ススムさんは工場で作られたから。ススムさんはロボットなんだ」

吐田君の返答が真実からほど遠いとわかっていてもグミコは問いかけをやめようとしない。だから会話はどんどんでたらめになっていく。

相手の話をちゃんと聞かずに口からでまかせに返事をする。それは、料理や洗濯せんたくをしながら、それからここ数年は物書き仕事もしながらグミコを育ててきた吐田君に、自然に身についてきた技術である。

よちよち歩きを始めた頃からグミコはつたない口調でとにかく話しかけてくるようになった。今ちょっと忙しいからだまっててくんないかな、とは吐田君は言えない。しかし、目の前にある作業をいちいち止めていたのでは生活が成り立たない。

だから脳のメイン部分ではアイロンの温度に気を配ったり、パソコン画面上の文節を検討したりしながら、残りの部分でなんとか話をしようとする。それはたいてい、おかしな、おとぎ話のようなものになった。

「最近はあまり見なくなったけど、昔はロボット人間、クラスに一人か二人はいたんだよ」

吐田君の父親は小学校の頃に女を作って出ていった。顔も覚えていない。アル中気味だった母親とは、18歳で家を出て以来、二度と会っていない。二人とももう死んでるんだろうなあと何の感慨もなく吐田君は思う。

昔、痛かったりつらかったりした時よく、「自分は機械だ」と思うようにしていた。

あるいはこの世界で生きているのは自分だけで、他の全ての人々はロボットなのだと空想していたこともあった。

「ごめんなー。ススムさんはロボットだから、君にはおじいちゃんとかおばあちゃんがいないんだ」

「じゃあわたしもロボットなの?」

「ちがうよ。グミコさんはススムさんとメグミさんの子」

「メグミさんは人間でも、ススムさんはロボットでしょ。子供なんて作れるの」

「うん、ロボットだったけど、メグミさんに会って、いろいろ教えてもらって、だんだん体が柔らかくなってきて、とうとう人間みたいになった」

「ふーん、そう」

グミコももう小学3年生だ。噓だとわかっていないはずがないのである。

いつか正直に話す日がくるのかどうか、吐田君にはまだわからない。本当はメグミと初めて会ったのは、当時吐田君が住んでいたマンションの一室だった。最初は、お金を払って来てもらったのだった。満月の夜に来て、それから満月になるたびに来て、そしてグミコを妊娠にんしんした。

フライパンに玉子を落としている吐田君の背中に、グミコが聞いた。

「目玉焼きってかっこよく言うとなんだっけ。スクランブルとかボイルドじゃなくて」

「サニーサイドアップのこと?」

「そうそうサニーサイドアップ。それってどういう意味」

「だから目玉焼き」

「じゃなくて」

「ああ、サニーがお日さまでサイドアップが上側だから、つまり“お日さまが上”ってことかな」

「へえ。目玉焼きって、太陽に見える?」

「うん、見えるよ?」

「うどんに入ると月なのにね。ほら月見うどん」

「なるほどね。欧米おうべいでは太陽で、日本では月なんだ」

「わたしは太陽より月に見えるなあ。ススムさんは?」

「どっちでもない。やっぱり目ン玉に見えるよ」

「あっ」

グミコが吐田君の手元を指さした。それで吐田君は我に返った。

話に気を取られて玉子を割りすぎていた。フライパンの中は玉子だらけだった。

仕方ないからそのまま焼いた。ピザみたいに大きな丸い目玉焼きができた。

「まあ、たまにはいいでしょ」

盛りつけはグミコに任せた。トースターからパンを取り出し振り返ると、大型目玉焼きを取り分けようとしているグミコの様子が変だということに気づいた。目をぱちぱちさせながらフライパンに顔を近づけたり離したりしている。

「8個だから、4個ずつでいいんじゃない」

「わかってる。けど8個もあると同じ丸いのが16個も見えちゃうから、どこからどこまでが本当の8個だか、わかんなくなって」

「え? どういうこと」

理解するのに時間がかかった。つまり、グミコは視覚に異常があったのだ。全てのものが二重にぶれて見えていた。1個の玉子は2個に見える。8個なら16個、見えていたのだ。

そういえば同じようなことがこれまでにも何度かあった。いつもグミコがさらりと言うので、つい聞き流していた。

それが心の中に少しずつたまっていて、今初めて浮上してきた。単に目が疲れやすい体質だとか、物を見るのに変な癖があるとか、そういうことではない。明らかに何かが彼女を困らせている。そう吐田君は思った。

放課後、眼科に連れて行った。本人にしかわからないような症状をきちんと伝えられるか、吐田君は不安だった。しかし医師の判断は早かった。グミコは両目玉の方向がわずかにずれていた。内斜視ないしゃしというものだと告げられた。

その影響で、複視ふくしという症状が出ていたのだった、右目で見たものと左目で見たものがうまく一つに重なりあわない。信号も、黒板の文字も、人の顔も、いつも二つずつ見えていたとグミコはこともなげに言った。そのうちのはっきりしている方を注視することで特に不便を感じずに、暮らしていたわけだ。ただし目玉焼きのように同じものがたくさん並んでいるものを見る時など、戸惑とまどうことがたまにあったという。

そういえばグミコは母親に似てちょっと寄り目気味だった。これまでも、本を読む時にまゆをしかめることがあった。ちゃんと見えてるかと聞いたらいつも、大丈夫はっきり見えてるよと答えた。左右別々に調べる視力検査では両方とも1.5という数字が出ていたから吐田君は安心していた。

グミコは噓をついていたわけではない。本人にとってはそれが普通で「大丈夫」だったのだ。世の中はそういうものだ、いつも二重なんだと、そう思い込んでいたのである。

それで不思議だとは思わなかったのかと聞いたら、だって人間って目が二つあるから、二つ見えるのはあたり前だと思ってて、とそう答えた、

確かに人それぞれで、見えている世界は違う。生まれつき見えている世界がその人にとっての現実だということもできる。

ただし、複視は病気だ。自然治癒ちゆすることはないし、放っておけば進行し、やがて視力が落ちていく可能性もある。できれば早めに手術した方がいい。と、そう言って医者は、専門の診察を受けられる大病院への紹介状を書いてくれた。

家に帰って検索してみると、経験談がいくつか見つかった。手術は吐田君が予想していたものよりも大がかりで、費用も80万〜90万円くらいはかかるそうだ。

吐田君には貯金はあったけど、今のところ収入はとても少ない。80万はなかなか痛い。

翌週、電車とバスを乗り継いで、大きな病院に行った。

担当医は30代なかばだろうか、化粧けしょうっけはないけど目はぱっちりしている、感じのいい女医だった。

自然な雑談をしながら万華鏡まんげきょうのようなつつを覗き込ませたり、小さなライトを眼球の片方ずつに当てたりして、あっという間に検査を終える頃には、グミコはすっかりその先生のファンになっていた。

手術は難しいものではありません。笑顔できっぱり言ってもらえて、吐田君もありがたかった。

ひそかに不安に思っていた費用については、帰りがけにカウンターで概算を教えてもらった。その数字を聞いて吐田君は口をぽかんと開けた。

「に2800円?」

受付の事務員が、パソコン画面から顔を上げた。

「治療費の自己負担額はゼロです。ただ、入院中の食事代の一部など、いくつか保険の適用外となる部分があります。それを全て足すとこの金額となります。必要ならお見積書を作ります」

同じ内斜視でも病気と認められるものとそうでないものがある診察室で女医が説明してくれたことの意味がようやく理解できた。複視の症状が手術を必要とするレベルと認められたら、健康保険が使えるということらしい。症状がひどくなくても見た目をよくするために手術する人も多いが、そういう場合は審美しんび医療、つまり美容整形と同じ扱いになるから全て自己負担となる。吐田君がネットで見た体験記はこちらに該当するものだったようだ。

春休みを利用して、入院手術することになった。

全身麻酔ますいした上で目の内側を切り開いて、眼球に繫がっている筋肉を切り、少しずらした場所に繫ぎ直す。医者にとっては「難しくない」範疇はんちゅうらしいが、説明を聞いているだけで吐田君は貧血ひんけつを起こしそうだった。

前日から泊まって麻酔の準備、手術に1日。そしてその後2日ほどは安静にする。4日間の入院だ。

子供のための入院病棟に、吐田君は初めて入った。

エレベーターが開くとテーマパークの一角にでも紛れ込んだような気分になった。廊下も待合室も、床も壁も、カラフルに彩られていた。待合室のテーブルはひまわりの、ベンチはイモムシの形をしていた。そしてあちこちにぬいぐるみや積み木などの玩具が置いてあった。ベランダにはちょっとした遊具まであった。

ただし指定された部屋に向かって進んで行くと、あちこちから小さな泣き声が聞こえてきて、吐田君もグミコも現実に引き戻された。

病室の扉はどこも基本的には大きく開け放たれていて、それぞれの事情を抱えた子供達が寝かされているのが自然と目に入ってくる。子犬のような声でくんくんうなっているのは、ベッドにベルトで押さえつけられている子供だった。寝返りしたり手術した部位を触ったりしてしまわないようにするには、そうするしかないのだろう。

頭と腕を包帯でぐるぐる巻きにされ、片足をベッドの上につり上げられている3歳くらいの子が、大声でぐずっていた。ママ、ママ、とって、これとって、はずして、ねえ。

「大丈夫、もうすぐだからね。すぐ外してあげるから。もう少しで退院だからね」

長い廊下ろうかを、吐田君はうつむいて歩いた。がんばって、がんばって。やさしい噓で、なんとかのりきって。そんなことを、心の中で繰り返しつぶやいていた。

病室の中から幼児が歩み出てきた。1歳か2歳の、立ち上がり歩き始めたばかりの足取りでとことこ進んだ。

一瞬心がほっこりして、ついその様子をじっと見ていた。ところがその子がこちらを向いた時、吐田君は驚いてしまった。

その顔の半分以上が赤黒く、れていた。火傷やけどあとだろう。片目が白い絆創膏ばんそうこうおおわれていた。

その子の顔をまともに見てしまったことにも、そして内心でぎょっとしてしまったことにも、吐田君はひどい罪悪感を覚えた。だからさりげなく目をそらし、ペースを変えずに歩き続けた。何ごともなかったかのように、その子の脇を通り過ぎようとした。

ところが。

「こんにちはー」

背後をついてきたグミコが、大声を出したので吐田君はびっくりした。

「お散歩かな? あ、そうか廊下のゴミ拾ってたんだ。えらいねえ」

グミコが笑いながら歩み寄った。さらにその幼児の顔をのぞき込んで、言った。

「お名前は? ゆうたくん。まぁどうしたのその顔。痛くない?」

吐田君はあわててグミコを制止しかけたが、幼児がうれしそうに笑っていることに気づいた。

「そうか、あっついあっついしちゃったのね。けどもう痛くないよね。お医者さんが治してくれるよ、よかったね、もう大丈夫だね」

幼児の言葉はまだ明確ではなかったが、グミコとのコミュニケーションはしっかりと成立していた。

「お姉ちゃんはね、今日から入院で、明日手術。ここ、目。目玉の手術なんだ。こわいけどね、がんばるよ。がんばろうね、ゆうたくん」

気がつくと母親らしき女性が廊下に出てきて、にこにこと微笑みながら二人を見ていた。

吐田君は恥ずかしくなった。あの子の焼けただれた顔は、心を映す鏡だった。自分が目をそらしてしまっていたのは、逃げようとしていたのは、自分の心からだった。

二人部屋だった。10畳くらいのスペースにベッドが二つ。それぞれの周囲にテーブルやラックが機能的に設置されていた。テーブルは可動式で、食事の時にはベッドの上にスライドすることができた。ベッドサイドからアームが伸びその先にはモニターが付いていた。角度を調整すれば座った姿勢でも寝たままでもテレビが見られる。番組はケーブルテレビのキッズチャンネルに固定されていた。

同室窓側の女の子は、笑顔ではきはきと挨拶あいさつした。佐知子さちこという名だった。幼稚園に入ったばかりくらいかなと吐田君は思ったが、枕元に置いてあった国語の教科書をグミコが見て、わたしが使ってたのと同じだと言った。それで小1とわかった。

佐知子ちゃんのテーブルの上に置かれたオレンジに一個一個かわいい顔が描いてあることに気づいてグミコが笑った。女の子の母親は、袋から新しい一個を取り出し、器用にグミコの似顔絵を描いて、手渡してくれた。

「この並びの子供達はみんな目の手術みたいです。グミコさんも?」

母親は吐田君にそう聞いた。

「はい。複視ということで、明日手術です。佐知子ちゃんも、目ですか?」

「ええ、目から広がる全身の病気です」

母親をよそに女の子はオレンジを手にグミコとけらけら笑いあっていたし、会話の流れがあまりに自然だったので、吐田君はその言葉をさらっと聞き流してしまっていた。

身長体重を計ったり、体温を測ったり血液を採ったり、レントゲンなど大きな機械を使った検査もいろいろ受けて、明日への準備は着々と進められた。普通においしいよと言いながらグミコは夕食を残さず食べた。順番でお風呂も入り、ベッドで少し勉強してから早々にもう寝ると言った。その寝息を確認してから吐田君はいったん家に帰った。

翌朝一番でまた病院に来た。午後1時から手術だ。

グミコはもう起きていた。ベッドのリクライニングを上げてキッズチャンネルを見ていた。手術の前ということで朝食はビスケットだけで、水分もお茶一杯だけに制限されていたが、別につらくはないようだった。

昼頃に麻酔が効きやすくなるという薬をもらった。暗示もあってか飲んだ瞬間にグミコの目がとろんとしてきた。

ベッドには車輪がついていて、ストッパーを下げると、そのまま移動できる形状になった。薬や麻酔が効いている間は歩くのは危険だから、ベッドごと運ばれるのである。

時間が来て、ベッド移動。廊下から、そのままエレベーターにも乗り込む。手術室の前まで、吐田君もついていくことができた。

「眠いかな? 手術室に入ったら、麻酔をかけて、それで完全にぐっすりになります。ああ、麻酔は注射じゃなくてガスを吸うだけだから痛くないよ。そして眠ってる間に全部終わります。安心して」

看護師が、グミコと吐田君に交互に話しかけた。

「麻酔で寝ちゃうまで、あと何分くらいですか?」

ふいにグミコが聞いた。眠気が覚めたのか、しっかりした声だ。

「そうですね、もうそこ曲がったら手術室ですから、入って、ガス吸引して眠るまで、5分か6分かな」

「ススムさん、麻酔で眠ったら、その5分前までの記憶が消えるって知ってた?」

「そういえばそんな話、聞いたことがあるかも」

「つまり今こうしてる記憶、なくなるってことなのよ。すごいと思わない。こんなにはっきり見えて、聞こえてるのに。手術終わって目が覚めたら、このこと、今のこと、わたし忘れてるのよ。ていうか、なくなってるの、今のこと、わたしから」

薬のせいでグミコはむしろ元気に、饒舌じょうぜつになっているようにも見えた。吐田君の不安な気持ちがそれでいくぶんまぎらわされた。

手術室の前に到着した。自動扉がゆっくりと開く間も、グミコは喋り続けていた。

「不思議だなあ。ねえ、今のこの自分、死んじゃうってことなんだよ」

死という言葉に吐田君はぎょっとした。グミコはしかし、とても楽しそうだった。

「そうだ。ねえススムさん、何か言って。普段だったら言えないようなことを一つ言って。どうせ忘れるからさ」

その時、吐田君の頭がいきなりすごくハッキリした。なにか。本当のことを伝えなくちゃ。

「あの、グミコさん、僕はね、ススムさんはね」

グミコはにこにこしている。

「メグミさんのことが本当に好きだったんだ。それでね実はね、今もまだ好きなんだよ」

それで吐田君の顔がぱっと赤くなった。自分の子供に向かって、妻のことが好きだなんて言う父親が、はたしているものだろうか。

グミコが手を差し出した。握り返そうとして、その手がオレンジを持っていることに気づいた。受け取るとそのオレンジには、顔が描かれていた。

「描いてもらったの。さっちゃんのお母さんに。わたしのお母さんの顔。似てる?」

吐田君は驚いて目を丸くした。

「グミちゃんのお母さんならこんな感じでしょって、描いてくれたの。手術室までは持ってけないから、預かってて。じゃ、がんばってくるね」

看護師から、いいですね、と確認するように言われて吐田君は身を引いた。がらがらがら。ベッドが、手術室の奥に進んでいった。

オレンジを大事に持って部屋に戻ると、お隣は来客中だった。

母親とテーブルに向かい合っていたのは、地味だけどきちんとしたブラウスにスカートといったいでたちの中年女性だった。見舞客でも医師でもないようだ。

少女はベッドで眠っていた。

吐田君は軽く会釈すると、部屋から出て廊下のベンチに座った。手術が終わったらグミコのベッドはここに運ばれてくる。あるいは何かあったら看護師が吐田君のことをここまで呼びにくるだろう。病室からは離れないよう注意されているのだ。

中の会話が、聞く気がなくても聞こえてしまう。

丁寧に、今後の費用の見通しや、そのうち保険でまかなえる金額などの話をしていたから、保険会社の人なのかなとも思ったが、どうやら違うようだった。

「これからはとても大変だと思いますが、病院側も、最大限の努力をします。治療はもちろんですが、ご家族の生活の組み立てまで、スタッフが協力できることはなんでもします。一緒にがんばりましょう」

そういえばこの病院の中で、「ソーシャルワーカー相談窓口」という表示を見かけた。

その中年女性は、専門のカウンセラーなのだ。とても重篤じゅうとくな病気の場合そういう人が派遣はけんされるということを吐田君は初めて知った。

“目から広がる全身の病気です” その言葉を思い出して、吐田君の胸がずんと鳴った。少女は明日が手術だと言っていた。しかし、それで終わりというわけではないらしい。まず目の部分を調べ、それでわかったことを手がかりに、次の治療に進むということなのだ。

「ご主人様のお仕事は何ですか。ええ、どれくらい時間が自由になるか、必要があれば休むことができるか、その点をできるだけ明らかにしておいて下さい。それから、他に頼れる親族の方はいらっしゃいますか」

「明日の手術の結果を受けてから、しっかりしたプランを組みましょう。ですからお母さん、今日はご自宅に帰って、少しでもお休みください」

「上のお子さんは、中学生と、小学2年生ですね。お母さんが3、4日戻れなくても、困ることのないような準備をしておいた方がいいでしょう」

「ご自宅まで電車とバスで3時間以上ですから、往復を繰り返すだけでも負担は大きいですね。お母さん、この病院の近くにサポートハウスがありますが、ご存じでしょうか。病気のお子さんを看病する親族が泊まることができるチャリティー施設で、

手術は2時間ほどで終わった。ベッドごと戻ってきたグミコはすでに目を覚ましてはいたが、もうろうとしている様子だった。

「なんでわたしここにいるの?」

吐田君は笑ってみせたが、グミコはふくれた。それは冗談ではなかったのだ。

それからしばらく静かになっていた。眠ったのかと吐田君が思ったころ、思いついたように叫んだ。

「そうか、手術終わったんだ。麻酔ってすごい。手術の前のこと、完璧かんぺき忘れてるー」

麻酔の前に、忘れると予想したこと自体を、すっかり忘れているわけである。

談笑だんしょうできたのはそのひとときだけだった。麻酔が引くにつれて痛みがひどくなり、普段は我慢強いグミコが、痛い痛いとうなり出した。

看護師を呼んだらすぐに痛み止めを持って来てくれた。グミコはそれを飲むと眠ってしまった。

看護師は、顔を強くかきむしったりうつぶせになろうとしたら止めてあげてくださいと指示して去った。吐田君は、その夜はずっと付き添うことに決めた。

小児病棟は、保護者なら二十四時間出入りができるし、申請などせずに泊まることもできるのだ。ただし来客用のベッドはないから、イスを並べて横になるくらいしかできないのだけど。

お隣はというと、母親は少女が夕食を終えると「じゃあ行くね」とあっさり言った。少女は抗議していたが母親は構わず、明日また10時に来るから、とそれだけ言ってさっと出ていった。あっけらかんとした態度だった。

今の吐田君にはその気持ちがわかるのだった。こういう時はなぐさめたり謝ったりしては逆効果だ。そして、少女にとって、母親にとって、本当に大変なのは、これからだ。少女のためにも、母親はここにとどまってはいられないのだ。

消灯後の暗くなった部屋の中では、壁際の小さな LED だけが点灯していた。ほたるのような小さなあかりだったが、その真下で本を開けばかろうじて文字が読めることを知って安心した。これで一晩退屈することもないだろう。

ただ、集中することはできなかった。少女が泣き始めたからだ。

吐田君はそのベッドに向かって小声で聞いてみた。

「看護師さん呼ぼうか?」

すると、割としっかりした声で

「大丈夫。さびしいだけ」

と、返ってきた。

「さびしいけど、佐知子、泣かない。泣かないってママと約束したから」

こんな時、どんな言葉が適切なのだろうか。

「そうだね夜はさびしいね」

迷いながら、そう言ってみた。

「泣かなかったらミッキーのお店に連れて行ってもらえるんだから。だから絶対泣かないもん」

そう言いながら少女はもう完全に泣いていた。

慰め方がわからなくて、吐田君はあきらめることにした。

吐田君は、母親に対しての愛情を感じたことがなかった。とても小さな頃はもしかしたら感じていたのかもしれないが、だとしても全く思い出せなかった。

だから泣いている少女の気持ちがよくわからなかったのだ。自分で自分がひどい人間だなあと思うのはこういう時だ。

少女はいつまでも泣いていた。困りながら、本を手にしたまま、吐田君はいつしか眠り込んでしまっていた。

ふと、すごく懐かしい声が聞こえた気がして目を開けた。

「大丈夫、すぐに治るよ」

少女のベッド脇に、女の人が立っていた。看護師ではない。もちろん少女の母親が戻ってきたわけでもない。

「治ったらおうちに帰って、そしたら毎晩お母さんと一緒に寝られるよ」

ガラス窓に映ったその姿を見て、吐田君の全身を電撃でんげきつらぬいた。

(メグミ

それはメグミだった。

グミコを産んですぐ死んだメグミが、そこにいた。

ベッドの中を覗き込んで、横たわる少女の胸のあたりに片手をそっと置いていた。そしてあのおだやかな声と笑顔で、慰めていた。

これは夢だ。そう思った瞬間、はっきり目が覚めた。

目が覚めたのに、まだそこにメグミはいた。

違う。

メグミではなく、それはグミコだった。今日手術したばかりで、まだ頭を包帯で巻かれている、グミコだった。

目が慣れてきた。がらんとした空間。目の前にベッド。その向こうにもベッド。その間に人影があった。

泣いている少女の脇に立って話しかけている。

そう気づいてからも、吐田君の驚きはおさまらなかった。

いつのまに、こんなに大きくなっていたのだろう?

「さっちゃん、じゃあ、お母さんがいない時、さびしくなくなる方法おしえてあげようか」

声だって、ほとんど大人みたいだ。

「さっちゃんのてのひらのにおいかいでみてごらん。どう」

静かな時間が流れた。

「ほらね。お母さんのにおいするでしょ」

「ほんとだ」

「ね。さびしくなったら、手のにおいかぐといいんだよ。いつでもお母さんそばにいるよ」

二人はしばらくそのまま動かなかった。グミコを映した窓の向こうに丸い月がぼんやりと見えた。

「じゃあそろそろおやすみね」

すっとグミコが身をひくと、その向こうに少女が見えた。両手を顔に当てて、匂いをかいでいる。

グミコは自分のベッドに戻ると、すとんと寝た。

「メグミ」

と吐田君はつい口に出して、呼んでしまった。

グミコはもうすやすや寝息をたてていた。

翌朝、珍しいことにグミコは朝食を断った。痛みがひかないようだ。

栄養も水分も点滴でとれていますから、大丈夫ですよ。けれど少しでも食欲が出たら、食べてくださいね。そしたら点滴外せるから。看護師はそう励ましてくれたが、痛み止めの薬もあまり効かないようで、グミコはずっとうんうんうなり続けた。

そんな様子を見ていると、ゆうべ大人のような口調で少女を慰めていたあの姿が、やはりまぼろしだったように、吐田君には思えるのだった。

昼食もジュースを少し飲んだらもういいと寝ころんだ。午後に診察があり、点滴を引きずっての移動を吐田君も手伝った。

診察室の前で待っていると、あの女医さんがひょいと顔を出した。

「狙った位置です」

「えっ?」

いきなり言われて、意味がわからなかった。

「狙った位置に、つながりました。手術、ばっちりうまく行きました」

「あ、ありがとうございました」

女医さんは顔をひっこめた。診察の途中で、わざわざ吐田君に一声かけてくれたのだ。検査はそれからまだしばらくかかった。

部屋に戻ると、隣のベッドが空になっていた。そういえばグミコのことで大変だったから気にとめていられなかったが、今朝は、あの少女の手術だったはずだ。

グミコは女医さんと話して安心したようで、おやつのゼリーはなんとか食べて、そしてまた眠ってしまった。

おやつのトレイを回収しに来た看護師に、吐田君は小声で聞いてみた。

「お隣さんはどうされたのですか」

「そうそう、グミコちゃん具合悪そうだったから声かけないことにしたけれど、よろしくと伝言を頼まれました。手術の後そのまま、別の病棟に移られたんですよ」

病状の深刻な患者のための棟に回ったということなのだろう。

吐田君は小さい頃、母親と兄に虐待ぎゃくたいされていた。母親の目の前で兄にバットで目を殴られ、失明しつめいしかけたことがある。後年、兄は母に「目が見えなくなってすすむが地べたをはいずりまわるようになったら面白いと思ったんだよね」と、笑いながら話していた。そういう人達だった。

それは公園での出来事だったので、親切な他人のおかげで病院に行くことができた。目の下を8針縫はりぬった。抜糸ばっしの時もとても痛かったし、それから何ヶ月も顔半分がひどく腫れていた。

今の縫合糸ほうごうしは傷がふさがっていくのと同時に、自然に溶けて涙と一緒に出てくるのだった。それがまたゴロゴロして痛いんだとグミコは文句を言っていたけれど、その口調はずいぶん明るかった。

翌日。退院の日だ。包帯を取り眼帯がんたいをしてもらった。

目玉全体が真っ赤でまだほとんど何も見えないらしいが、痛みはだいぶひいてきたようだ。後は処方された目薬をさしていれば数日で眼帯は外せるし、視力もじわじわ回復してくるそうだ。

荷物をまとめながらふとグミコが聞いた。

「ねえ、あの女の子どうしたの?」

「治ったんだって」

と、吐田君は反射的に答えた。

「手術うまくいって、お母さんと一緒に退院したらしいよ」

「メアドとか聞いてないけど、また会えるよね」

「うん、あとで看護師さんに聞いとく。きっと会えるよ」

「そうか。あ、それから手術の前に預けたオレンジ、どうした? 食べちゃった?」

「あっ、ごめん。忘れるとこだった」

冷蔵庫の奥からオレンジを取り出しながら、吐田君はあれっと思った。

グミコは、覚えていたのだろうか。これを手渡してくれた時のことを。

神様はお願いを聞いてくれる存在ではない。

だって全員のお願いを聞いていたら、世界はおかしくなる。

けれど神様はその代わりに「噓」を作った。

一人一人の願い事と、この現実の、隙間に。

そう吐田君は思っている。神様はきっと、噓を許してくれていると。

片目だけでは歩きにくいだろうと思い手をとろうとしたが、グミコは恥ずかしがっていらないよと言った。

それで気づいた。いつからか、グミコとはもう手をつないで歩いていなかったことを。

吐田君は無意識にてのひらの匂いをかいでいた。そんな自分にふと気づいた。