氷の女神とラバーソール

阿賀直己 Illustration/久米田康治

“靴と人”が織りなす秘密の物語。新鋭・阿賀直己×久米田康治によるロマンティックワールド、開幕!

『はじめまして。

読んでもらえるかわからないけど、どうしてもお礼が言いたくて手紙を書きました。

あなたの歌を聴くまで、わたしは毎日さびしい思いをしていました。

 ここじゃ、わたしのことを見てくれている人なんて誰もいないんだって思っていました。

だからあなたの歌にすごく励まされたし、少し驚きました。

歌詞の中の〝おれ〟が、わたしそのものみたいだったから。

 口じゃ上手く伝えられないので手紙にしたけど、手紙も難しいですね。

 素敵な曲を、ありがとうございます。

 応援しています。』

『手紙を書くのは、二度目だね。

 二度目だけど、これが最後の手紙です。

 もし、口だけじゃなくてほんとうに、あたしのことを選んでくれるなら

 3月14日の日曜日、ライブ前に、会いたいです。

 あたしの言葉が、伝わりますように。』

「あたし、あなたみたいな格好してる人って嫌い」

 氷の女神そのあだ名に相応しいつめたさで、彼女は言った。

「好きです」と告白したのは数分前のことだ。

計画的な告白ではなかった。というか、告白する気なんてなかった。いつか気持ちくらいは伝えられたらいいなあなんておとチックなことを考えては、そのシチュエーションを妄想するだけでお腹がいっぱいになっていた小心者の俺である。自分の口から飛びでた言葉に一番驚いているのは自分だ。

 数分前仕事が一通り終わり、溜まったごみをてるために裏口のドアを開けた俺は、ごみ箱の前に佇む彼女を発見したのだ。彼女は、肩にかけていた小さなバッグからなにかを取りだし、それをごみ箱にぽとんと落とした。むしゃくしゃして放ったというのではなく、それは力のない、ひどく投げやりな動作だった。

 夜で、街灯のあかりもほとんど届かないくらやみではあったけれど、それが大学の同級生であるくにたちだということはすぐにわかった。

いつもの俺ならそのままドアを閉めてしまったと思う。年単位で片思いを続けるうちに存在が大きくなりすぎて、実物と話すことなんて恐れ多いような気になっていた。自分でも気持ち悪いとは思うけど。

だけど、このときの俺はそうしなかった。と言うより、できなかった。彼女の横顔が、すごく寂しそうに見えたからだ。声をかけなかったら、そのまま消えてしまいそうなほどに。

「あのっ」

 と、無意識に飛びだしていた。国立がもともと大きな目を更に大きく見開いてこちらを振り向き、その瞬間に俺の頭はショートした。大学では同じ講義を取っていたし、食堂で偶然会ったときは、わざわざ国立の姿が見えやすい席(それでいて向こうからはこちらが見えない席)を選んで座ることもしばしばだ。だけどこんなふうに、自分から声をかけたことはなかった。つまりこの時点で、俺のキャパシティを完全にオーバーしていたのだ。

 それからなんて言ったのか、なぜそれが突然の告白に至ったのか、自分でもよく覚えていない。しかしこの言葉が、俺の意識を現実に引き戻した。

あたし、あなたみたいな格好してる人って嫌い

建物と建物のすきまの、光の届かないうす暗い裏路地でも、国立のぼうは輝いて見えた。き上げた細く柔らかそうな髪が、きゃしゃな肩の上をするするとすべっていく。つるりとした白いひたいにはしわ一つなく、もちろんけんにもそれはない。そのせいだと思う。自分の告白に対する返事が、「嫌い」だったことに気付くのがワンテンポ遅れてしまったのは。

「え?」

「嫌いなの。そういうごてごてしたロック系のファッションって」

国立の顔には、およそ感情というものが表れない。これが、眉間に皺を寄せ、それこそ気持ち悪いものを見るように「嫌い」と言われていたらすぐに反応できたはずだ(ただ、ショックすぎて固まってしまうという可能性もあるけれど)。

「で、でも、じゃあなんでここに、」

 ロック系のファッションが嫌いなら、こんなところにくるはずがない。

『関係者以外立ち入り禁止』と書かれた裏口のドアノブには、俺のアルバイト先であるライブハウス〝ROCK THE BOAT〟のロゴ入りプレートが掛かっている。

 もちろんライブハウス=ロックバンドと一概に言えるわけではない。ポップス寄りのソロ歌手だっているし、若い女の子バンドだと、テクノとかなんとか俺にはよくわからないシャカシャカした音楽をやってる子たちもいる。だけど、ほかの場所つまりライブハウス以外の場所よりは、ロック系のファッションに身を包んでいる人に出会う確率は高くなる。今日だって、ロックバンドの対バン公演だったわけだし。

真っ当つこの状況ではやや間抜けな質問に、国立の表情筋がぴくりと動いた。

「知り合いに誘われたからきただけ。もうこない」

 言いながら、革のロングブーツに包まれた細い脚をくるりとひるがえす。先程よりも強く拒絶の意思が感じられた。

「え、あ、あのそれって、俺と顔合わせるのが気まずいから!? それなら気にしなくても、」

 慌てて言うと、背を向けていた彼女が腰をひねって振り返った。表情にほとんど変化はないが、呆れたのだということは次のせりふでわかった。

「今日はじめて会った人のこと気にするほどいい人じゃないから、あたし」

 この言葉で、気付いた。どんな格好をしていても、地味な人間は地味だし、やっぱり埋もれてしまうんだってことに。

 勝負する前から負けているんだってことに。

 国立芽以美に一目惚れをしたのは、大学の合格者発表掲示板に自分の番号を見つけたとき、まだまだ寒い春の始まりの日のことだった。

思えば辛く険しい人生だったと言ったら、両親も弟も友人も声を揃えて、「どこが?」と言うだろうけれど、本人的にはちょっと辛くてちょっと険しい人生だったと思う。ポイントはこの、〝ちょっと〟ってところだ。

 ふじあき。東京生まれ東京育ちだが、悪そうなやつは大体友達ではないし、オシャレな街とかファッションとかカフェとか、そういうものからはかけ離れた場所に属して生きてきた。物凄いがり勉で成績優秀というわけでも、物凄い〇〇オタクで専門知識があるわけでもない。女の子に「キモイ」と言われたことはないが、「カッコイイ」と言われたことももちろんない。かけっこは七人中四位か五位で、教室でプリントを回すときは「一枚足りませーん!」と叫ばなければいけないし、遠足の点呼に一分でも遅れれば、バスは俺をのせずに発車してしまう。

いじめられっ子というのとは違う。理不尽な悪意を向けられたことは生まれてこの方一度もないし、少ないけれど友達はいる。むしろ、集団にむことはどちらかと言うと得意だ。

しかし、馴染みすぎる。そして埋もれる。

俺は目立たないのだ。ただ地味で、ただただ忘れられがちなのだ二十年近く生きてきて辿りつく結論がこれっていうのは、やっぱりちょっと辛く険しいと思う。

だけどまあ、これが俺だし、と思っていた。忘れられたり見落とされたりするたびがっかり感は否めないが、不都合があるわけではない。自分にはこういうポジションがお似合いだ、と。

でもあの日、かわりたいと心から思った。

掲示板の前にたたずむ一人の女の子に、心を撃ち抜かれた。裸木の枝を揺らす、まだ冬に近い風が彼女の髪をもてあそぶようにでていき、彼女がそれを押さえながらこちらを振り向いた。

そのときだった。国立は俺を見て、にっこりとほほんだのだ。あれは錯覚なんかじゃない。

忘れられたくない。埋もれたくない。この出会いを逃したくない。

あの子の目に留まるような人間に、なりたい。

「なにそれ! マジで告白したの!? そして振られたの!?」

 着崩した制服、茶髪にピアス。いかにも軽そうな男は、ぎゃははと品のない大笑いをしながら人のベッドの上で脚をばたばたさせている。じろりとにらみつけてから、やつが手に持っていた漫画を一まとめに引ったくって叫んだ。

「貸してやらねえぞ!」

 そうすると、軽くてチャラそうな男見た目も中身もまったく似ていない実の弟、ふじけんは、「ああーお兄さまスミマセンッ」とすぐに態度を翻した。

つんつんとあちこちに立てた明るい茶色の髪を上から見下ろし、仕方ないなあというふうにため息をついて漫画本を机の上に置く。そろりと顔を上げた憲人は、また取り上げられてはかなわないとばかりに素早く自分の学生かばんに漫画を仕舞った。

膨らんだ学生かばんには、〝Seijo〟のしゅうほどこされている。有名大学への高い進学率を誇る、関東ではそれなりに名の知れた男子校だ。弟が現在通っている高校であり、俺が受験に失敗した高校でもある。弟は、軽そうでチャラそうで馬鹿そうでも、俺よりずっと出来がいい。

「それにしてもさすが彰人だよな。ほぼ初対面なのに突然告白って」

「ほぼ初対面じゃない!」

「でも喋ったことはなかったんだろ? それって一般的にはほぼ初対面だと思うけど」

ツッコミと言うより単純な事実として言われ、「そうかもしれないけど」と口元をまごつかせた。

憲人が俺のことを〝お兄ちゃん〟ではなく名前で呼びだしたのがいつだったのか、あまりに遠い記憶すぎて思いだせない。はじめは「ちゃんとお兄ちゃんって呼びなさい」と言っていた母親も、あまりの自然さにわりとすぐ注意しなくなった。なにもかもかなわないのだ。

「だ、だってお前が、って言うかお前の彼女が言ったんだろうが。〝まずは自分をアピールしなきゃ駄目ですよおー〟って」

 茶髪に巻き髪、大きな目と高い声、顔はめちゃくちゃ可愛いけれど、ちょっと苦手なタイプの憲人の彼女を思い浮かべながら文句を言った。

ちゃんのこと悪く言うなよー。モノマネ全然似てねえし。そもそもアピールと告白は別物だろ」

 ごもっともな意見にぐっと言葉を詰まらせると、憲人は胡坐あぐらの体勢になりながら水を向けてきた。

「で、理由は? 彼氏がいるって?」

 大爆笑には腹が立ったが、どうやら憲人なりに話を聞いてくれるつもりらしい。俺も床に座りなおし、あのときのことを思いだしながら答えた。

 国立のつめたい声色。表情ではわかりにくかったけれど、強い拒絶。それが自分に向けられたものなのだということが、時間が経ったいまでは、ずんと心に影を落としている。

「格好が、嫌だって」

 うつむいてぼそりと答えると、「カッコウ!?」と、まるではじめて聞いた単語を口にするようにとんきょうな声で憲人が繰り返す。

「格好って、なに、ファッション的なこと?」

 つり上がった意志的な目を大きく見開いて、瞬きを繰り返しながら憲人が言う。そう驚かれると恥ずかしいやら情けないやらで、俺の声は無意識に小さくなった。

「そう。ロック系のごてごてしたのが嫌いなんだって」

「え、なに、だってお前のバイト先のナントカロックの裏で会ったんだろ?」

 げんな顔で言われ、俺もこくりと頷いた。

「ロック・ザ・ボートだって。そう、対バン見にきてたみたいなんだ。知り合いに誘われたとか言ってた。今日のバンドはそこそこロックなのばっかりだったけど」

「それ見にきておいて、ロック系の格好が嫌いってなんだよそれ」

 さっぱり意味がわからない、という憲人の表情に、少しだけ救われた。

「そうなんだよ」

兄らしくないとはわかりつつ、いまさらなのでくちびるとがらしてこぼす。考えてみれば不自然だ。断るのにわざわざそんな理由をつける必要なんてない。国立のあの態度なら、「付き合う気ないから」とか「興味ないから」と言って終わりにするほうが余程しっくりくる。

「格好ねえ」憲人はひとりごとのようにつぶやき、「うーむ」と腕組みをして唸った。すがるように見上げながら、なぜこの部屋の主である自分が床に正座していて、漫画を借りにきた弟がベッドの上で偉そうに胡坐をかいているんだろう? という疑問が頭の片隅にちらつく。だが、二十年間彼女がいない、というか誰かを好きになったことすらない俺にとって、一番身近な恋愛アドバイザーは弟なのだった。

「それが理由っていうのは確かにちょっと納得できないけど、まあ、わからんでもない。彰人の格好、はっきり言ってビミョーだよ」

「なんで!? カッコイイだろロック!」

 みつくように詰め寄ったが、憲人は身体を後ろに引きこそしたもののひょうひょうと続けた。

「いや、そりゃ、ロックバンドやってる人とかが革ジャン着たり破けたTシャツ着たりしてんのは様になってるし格好いいよ? でも彰人、バンドマンじゃねーじゃん」

 うっ、と言葉に詰まったあと、「でも、」と口からでそうになったせりふを我慢してのみこんだ。でも、歌詞とか書いたりしてるんだぜというせりふだ。

 ロック・ザ・ボートはそこそこ歴史のあるライブハウスで、固定客も多く固定のバンドも多い。見かけはおっかないけれど結構気さくな人もいて、バイトを続けるうちにある程度親しくもなる。中でも年の近いあるバンドのメンバーにこっそり詞を書いていることを打ちあけたら、オリジナル曲に使ってくれた。バンド自体はこまかなメンバー交代を繰り返しているものの、俺の詞が採用されたその曲は、いまでもしばしばそのバンドのトリを飾っている。

 バンドマンじゃないけど、俺だってこの格好をする権利があるんだ、という小さな主張を俺がのみこんだなんて知らない憲人は、続けて言った。

「楽器けないし」

「それは

おんだし」

そうです」

 ぐうの音もでないとはこのことだ。

「それにさ、彰人がいっつもいてるあつぞこぐつ? あれ、なんか逆効果じゃねえ?」

 憲人が言っているのは、ロック・パンク系のファッションの必須アイテムである革靴、ラバーソールのことだろう。ひものタイプもそうでないものもあるが、ゴム製ラバー靴底ソールで、全体にどっしりと厚みがある、というのが共通点だ。

「逆効果?」

「あの靴さ、全体的にフォルムがデカいじゃん。がぽっとしてるっていうか。彰人みたいなチビが履いてると、靴に履かれてるって言うか、父親の靴履いてるみたいな感じ」

 我が弟ながら、人が気にしていることをよくもずけずけと。

 一理ある、とは思う。背が低く、身体つきもひょろっと頼りない俺が履くとラバーソールはひどく重そうに見えるだろう。そして実際、重くもある。そのせいか、つまずいたり靴ずれしたりするのも珍しいことではない。

だから憲人の言いたいことはわかる。わかるけれど、口にだしていいことと悪いことがある。恨みがましい気持ちで下からじとっとねめつけると、憲人もやっと言いすぎたことに気付いたらしい。あからさまに「ヤバい」という顔をして、ベッドからひょいっと降りると俺の隣に座った。それでも目線は憲人のほうが高い位置にある。どうして同じ親から生まれたのに、身長が十センチ以上も違ったりするのだろう。

「まあまあ! そんな性格の悪い女のことなんか忘れろって。彰人にはもっと純朴って言うか、優しい感じの女の子が似合うと思うぜ。洋服なら俺が一緒に選びにいってもいいし、ファッション誌とか貸してやるからさ!」

 突っこみたいことはあったが、軽いノリでも励ましてくれているのはわかった。それに、ある意味手がかからなさすぎて親にすら後回しにされたり忘れられがちな自分のことを、「彰人はどうする?」とか、「だから彰人は」と言いながら気にかけてくれるのが憲人だということもわかっている。でも

「おう。ありがと」

 性格の悪い女というところが引っ掛かった。国立は、ほんとうにそうなんだろうか。そりゃあ、いまの話を聞いても、実際少し喋ってみても、性格がいいという印象はないけれど。

合格発表の日、風とともに振り向いた国立の笑顔はちっともつめたくなんかなかった。

ほんとうの国立って、一体。

 考えこんでいると、目の前に憲人がぬっと顔を突きだしてきた。鼻先が擦れそうな距離に思わず飛び退く。

「うわ! なんだよ!」

「兄想いの弟に、ちょびっと援助してくれないかなあ」

「はあ?」

 神社でお参りをするときよりも真剣に、憲人が両手を重ねて打った。ぱん! と乾いた音が弾ける。

「お願いします! 金貸して!」

「嫌だ」

 答えるのに一秒もかからなかった。

「次の小遣いが入ったら返すから!」

「俺だって金ないよ! それに小遣い貰ったばっかりだろ。なにに使ったらこんなすぐになくなるんだよ」

「使ってないよー。でも足りないんだって」

 なんで、という疑問を口にする前に、憲人は学生かばんのジッパーを勢いよく開けた。教科書よりもワンサイズ大きめのぶ厚い雑誌を取りだし、せんのついているページをばっと開く。そこには大きな文字で、『ホワイトデー♡ 本命の彼に貰いたいお返しギフトランキング!』という見出しが印刷されていた。文字の下には、指輪やネックレス、時計など、目が潰れそうなほどまぶしく高価な品々が並んでいた。キラキラ加工が施された紙面には、赤いサインペンであちこちにマルがつけてある。

「デート資金やらプレゼントやらでカツカツなんだって! 彰人には関係ないイベントだろ?」

 最後の一言が余計だということに、なぜ気付かないのだろう。思いながらも、怒りの言葉よりあきらめのため息が先にでてしまうのは、確かに俺には関係のないイベントだからだ。ホワイトデーは、バレンタインデーとついになっている。

 三月十四日に挑むためには、その一ヶ月前の勝負に勝っていることが前提となる。

 俺は机の引きだしの三段目そこにこっそり仕舞いこんだあるものに視線を遣って、部屋の二酸化炭素が一気に濃くなりそうな長いため息をついた。

 昼にはやや早い時間の学生食堂は空いていた。いともいとも言いかねるラーメンをはしで持ち上げながら、どうしたもんかなあ、とかばんの中のそれについて考える。

 机の引きだしに仕舞いこんだあるもの。かばんの中のそれ。二つは同じものを指している。国立にはっきり「嫌い」だと言われたあの日、彼女がごみ箱に棄てていたものだ。

 言い訳をするのもなんだけど、国立が去っていってしまったあとにそれを拾ったのはほとんど無意識だった。寂し気な横顔と、棄て方が気になったのだ。手の中からするりと落とすようなしぐさは、なんだか心残りがあるように見えた。

 家に持ち帰り、我に帰ってから青ざめた。これはとんでもないものを拾ってしまったと、慌てて仕舞った。彼女が棄てていったのは、シンプルなうすむらさきの便箋手紙だった。

「渡しそびれてかばんに入ってた、とかかなあ」

 言いながら胸が痛むのは、ちらっと見てしまった宛名面にあったそれが、どう見ても男の名前だったからだ。もちろん中身を見たわけではないのでどういう内容かはわからないけれど、女の子が異性に送る手紙の内容なんて限られているだろう。

 どこで切ったらいいのかわからないゴムみたいな麵をもごもごと水で飲み下してあてどもなく考えていると、目の前にふっと影が落ちた。

「藤田、おはよー。なんか大学で会うの久しぶり」

 見上げると、同級生のえんどういちろうがいた。彼の後ろには、肩まである髪にゆるいパーマをかけた、いかにもいまどきという感じの女の子が二人立っている。どちらも知らない子だったけれど、片方は見覚えのある顔だ。同じ講義でも取ってたかな、と少し考えてみたが、明日髪型をかえた彼女らに声をかけられてもわかる自信がないので気のせいかもしれない。

「ここいい?」

あ、どーぞ」

 断わる理由もなくてそうは答えたものの、居心地はよくない。遠藤とは家が近所で、中学が一緒だった。つまり地味で埋もれ気味だった昔の俺を知っているのだ。からかわれたことはないけれど、大学デビューをした身としてはデビュー前の外見を知られているのはそれだけで恥ずかしい。それに、女の子と話をするのもあまり得意ではない。とくにこういう、ふわふわした女の子っぽい女の子とは。

「いや、こいつらがさ、〝あ、ロックの人だー〟とか言うから、誰かと思って見てみたら藤田だったから。声かけてみた」

 他人事みたいに遠藤が言う。「こいつら」と呼ばれた女の子たちは、なぜか恥ずかしそうに身をくねらせながら「やだー」とくすくす笑った。女の子たちのその反応が、俺をからかっているものちょっと馬鹿にしているものだというのはすぐにわかった。この格好をするようになってから、ロックの人、とか、漫画からでてきたみたい、とか言われるのには慣れている。いい気分はしないけど、「あれ? いたの?」って言われるよりもずっといい。なんだか情けない話だけれど。

「ねえねえ、そういうのって重くないの? 革ジャンとか靴とか」

 それぞれにフルネームを告げる簡単なあいさつをしたあと、見覚えがあったほうの女の子加藤という名前だったが机に身をのりだすようにして言った。

「買い物とかどういうとこでするの? 結構高いんでしょ?」

 と名のったもう一人の女の子も同じようにして言った。

 正規品が欲しいけれど、新品は目が回るほど高価だ。買い物は主にネットオークションだと答えたら、この子たちはきょうざめするのだろうな。

「そういえばさ、藤田くん、ライブハウスでバイトしてるんでしょ?」

答えかねていると、加藤さんが質問を重ねてきた。身をのりだしてはいたが、さっきのはしゃいだようすとは違い、少し声を潜めるようにして。

そうだけど?」

 なぜ彼女がそんなふうにトーンを落とすのかがわからず、俺は怪訝な顔で答えた。

「そこで、国立

 会話をさえぎるように、江田さんが「あ、ねえ」と声を上げた。

「噂をすればだよ。〝氷の女神〟」

 女神。その単語につられて女の子の視線を追うと、食堂のドアを押し開けて入ってくる一人の女子学生の姿が目に入った。国立芽以美だ。

 胸の下まで届く長いストレートヘアが、ドアを開けたときの風圧でふうわりとなびく。腕に抱えた本にちらりと視線を下げるだけで、長いまつ毛が頰に影を落とす。

 適度にざわめいていた空間が、ほんの一瞬静まる気配がある。ほんとうにほんの一瞬だけど、彼女が視界に入ってくると、そこにいる皆が彼女に吸い寄せられてしまう。もちろん俺もその一人だ。

「女神って私生活謎だよなー」

 自分から声をかけてきたわりにまったく会話に入っていなかった遠藤が、国立を見ながらそんなことを言った。決して大声ではなかったが、おいおい、ととがめる視線を遠藤に送った。国立が、通路を挟んで隣のテーブルに掛けたからだ。

 食堂は広いしテーブルの間隔もそこそこあるけれど、遠藤の視線はややしつけで、彼女が気付くんじゃないかと内心冷や汗をかいた。いくらあだ名で呼んでいるとは言え、そんなに見たら不自然だろう。

 そう、〝氷の女神〟というのが、国立のあだ名だ。神々しいくらい美人だから〝女神〟で、恐ろしく愛想がなく、ツンとした表情が崩れないから〝氷の〟というわけだ。色白だし、噂によると出身は北のほうらしいので、言い得て妙だなとは思うけれど。

「だってさー美人なのに彼氏がいるって話も聞かないしさ。まあ聞かないだけでいるんだろうけど」

 さくっと遠藤がだした結論に、俺は心の中でうなれた。そりゃそうか。断るときに彼氏がいるって理由を言わなかったからって、いないという証明にはならない。いるに決まってるよな。

「男子の耳に届いてないだけだって。女神とか言って、なんか神秘的なものみたいに扱ってるけど、全然そんなことないよね」

 聞こえてきた加藤さんの声は、さっきよりも更にワントーン低く、というかつめたくなったように感じられた。驚いて見遣ると、女の子たちは肩を寄せ合って笑っていた。それははっきり言って、すごく嫌な感じのアイコンタクトだった。

「女子の間では結構噂になってるよー。週末はライブハウスで派手に遊んでるって」

 ライブハウスのなにが悪いんだよ。そう反論しようとした(口からでるときはたぶん、「そんなに派手じゃないし物騒なところでもないよ?」みたいな弱い感じになるだろうけど)。だけど彼女たちの会話は打ち合わせでもしてきたかのように淀みなく続き、口を挟む隙はなかった。

「そうそう。なんか大学にいるときと服装とかも違って、ケバい感じなんでしょ?」

「いっつも違う男の人連れてるんだって」

「すごーい。まあ女神とか言われちゃうくらいの美人だし、二股とか日常的なんじゃない?」

 ちらちらと動く視線に、途中から気付いた。遠藤はどうか知らないけれど、女の子たちはあきらかに自分たちの会話を国立に聞かせようとしている。たとえここで国立が彼女らを睨んでも、〝女神〟というあだ名を使って話していることで、「国立さんのことなんて言ってない」と逃げることができる。そもそも俺に話かけてきたのだって、国立の噂を確かめたかっただけなんだろう。カチンときた。大学生にもなって、あまりにも幼稚なやり方じゃないか?

「そ、そんなのただの噂だろ? 自分の目で見たわけでもないのに」

 ここでどもってしまうところが俺クオリティだけど、女の子たちはぴたりとお喋りを止めた。しかし、それは一瞬のことだった。彼女たちはまたしてもちらりとくばせをすると、

「藤田くん、ライブハウスでバイトしてるんだよね?」

 と、先程と同じ質問を繰り返した。それから少し声を大きくして、

「そこで、国立さん見たことある?」

 そう言った。

 人もまばらな食堂で、その質問は周囲によく聞こえたと思う。名指しだったし、その上聞こえてきたのが国立の名前とあれば、皆の視線はなんとなく俺たちに集まった。もしかしたら加藤さんの言う通り、女の子の間ではそういう噂が広まっているのかもしれない。

なんとなく周囲から向けられる視線。その中に、国立の視線もあった。目が合ったのは、錯覚じゃないと思う。今回は錯覚であってくれたほうがよかったんだけど。

 ここで「見たことがある」と言ってしまったら、さっきの噂の片棒を担ぐことになりかねない。なぜか勝ち誇ったようなずるがしこい笑みを浮かべている女の子たちを前にまたしてもどもりそうになりながら、俺は首を横に振った。

「見たこと、ないよ。俺は」

 女の子たち主に加藤さんのほうが、眉をひゅっと吊り上げる。

「噓。なんでそんな噓つくの? 藤田くん」

 静かな声ではあったが、先程よりも少し感情的だった。俺の言ったことが噓だということに確信を持っているらしく、鋭い目で見てくる。その態度には、いままで同じように意地悪そうな顔をしていた江田さんもやや怪訝なおもちだった。傍観者だった遠藤も眉をひそめている。俺はと言えば、自分の一言で空気がかわるという事態に慣れていないことと、なにがそんなに加藤さんを刺激したのかがわからず、あわあわと口元をまごつかせるばかりだった。

「いったよ。ライブハウス」

 妙な空気を断ち切ったのは、会話の中心人物である国立だった。

 机に広げていた自分の荷物をまとめると、ジーンズに包まれた細い脚をさばいてこちらに近づいてくる。

「ライブハウスにいったし、あなたの彼氏にも会った。だけどあたしはあの日にちゃんと別れた。電話がかかってきても無視してる」

 加藤さんの前で立ち止まった国立は、やはり感情の読めない顔で淡々と言った。座っている加藤さんを見下ろしたときの、まつ毛の長い精巧な顔立ちは、ごくりとつばを飲みこんでしまう美しさだった。

「別れた? 噓ばっかり言わないでよ。ケンイチの携帯に女の声で電話がかかってきてるの、あれあんたでしょ? ケンイチだってしつこくされて困ってるんだから」

 がたん! と勢いよく加藤さんが立ち上がる。その剣幕に及び腰になりつつも、ケンイチ、という名前に引っ掛かるものを感じた。どこかで聞いたことがあるような。でも、よくある名前だし。

「それはあたしじゃない。ほかの女の人でしょ。あなたの彼氏向こうはあなたのこと、彼女だって思っているかわからないけど、あの男、ほかにも付き合ってる女の人いるよ」

 国立の言葉に、加藤さんが顔を真っ赤にして唇を震わせている。なにか言い返したいのだろうが、加藤さんがなにを言っても無意味な気がした。きんきん声で叫ぶ加藤さんと、いつも通り冷静に話す国立とでは、状況がまったくわからない俺から見てもどちらのほうがすじが通っているかはあきらかだった。

 くるっと背を向けた国立に、加藤さんが叫んだ。負け犬の遠吠えというベタな言葉が頭に浮ぶ。

「なによ! 冷静ぶってるけど、あ、あんただって遊ばれてたんじゃない! いまどきあんな手口で純情っぽさアピールして!」

 加藤さんの剣幕に、遠藤や江田さん、そこにいる誰もが引いていた。それと同時に、まったく動じずに立ち去っていく国立に憧れや尊敬のまなざしを向ける人たちもいた。だけど俺はまたしても見てしまった。どうしてだろう、見えてしまうのだ。

 加藤さんの言葉に、国立の横顔がいきどおりではなく悲しみに歪んだところを。

食べかけのラーメンもぐちゃぐちゃの状況も放りだして、駆けだしていた。

あの日と違ってスニーカーを履いていた国立に追いつくのは結構大変だった。校舎に入っていく後ろ姿を慌てて追い、ばたばたと階段を駆け上る。声をかけることができたのは、たぶん呆れたのであろう国立が階段の踊り場で立ち止まってくれたからだ。

「あのっ」

ここにくるまでに何度かつんのめりそうになった。情けないことにほんの少しの距離で息が切れてしまう。

「あの

「噓なんかつかなくてもよかったのに」

「え」

「べつに、あの日ライブハウスにいたことはほんとうなんだし、あなたが噓つく必要なんてなかったでしょ」

 でも、と思ったことが表情で伝わったのか、国立は小さく息を漏らした。

「予想外の答えが返ってきたから、あの子逆上しちゃったんじゃない。それに、あなたが噓ついたくらいじゃあたしの噂はなくならないと思う」

「噂って」

 馬鹿みたいにぽかんと口を開けた俺に、国立の眉根がわずかに寄った。

「さっき、あなたたちが言ってたでしょ。遊んでるとか、いつも違う男の人といるとか」

 あなたたち。そうひとくくりにされたことが、心にちくっと刺さった。だけど言い返す言葉はなにもなかった。「俺はあそこに座っていただけで、噂話なんかしていないし、なにも悪くない」そう国立に言うことが、格好悪いってことくらいは俺にもわかる。いつもそうだ。いじめられたりしないかわりに、誰かを助けたこともない。

 俯くと、まるいつま先の足元が目に入った。何度も何度も躓いて、ぶ厚いゴムが擦り減っている。俺には似合わないラバーソール。こんなとき、憧れのミュージシャンならどうするだろう。なにかあるたびそう思い、思うたびに自分が彼らからは遠くかけ離れた存在であることを思い知る。

「これ」かばんの中から、あの日勝手に持ってきてしまったうす紫の便箋を取りだした。「大事なものだと思ったから」

 これだけは渡さなければ、と思っていた。

 少し距離があったから、俺がさしだしたものがなんなのか、国立は一瞬わからなかったようだ。それが自分の捨てたものだということに気付くまでに数秒かかった。

なに、勝手なことしてるの」

 いらない、とか、棄てておいて、とか言われることは予想していた。だけど俺の耳に届いたのは氷の女神のつめたい声ではなく、一人の女の子の、頼りなくか細い声だった。驚いて顔を上げると、大きな瞳に捉えられた。うるむそこには、怒りとしゅうにじんでいた。

「え? 国立、あの」

「あたしが棄てたものでしょう? なに勝手に持ってきてるの?」

「それは、だって、大事なものだろ? 国立の気持ちが、」

 言葉を重ねれば重ねるほど逆効果だったようだ。国立は俺の言葉を最後まで聞こうとせず、震える声で言った。

「気持ちって読んだの?」

 まさか! という否定を口にする隙は与えてもらえなかった。

「だから嫌い」

「え?」

「あなたたちみたいな人は、そうやってずかずか踏みこんでくるから嫌い!」

 いまにも泣きだしそうな声で言うと、国立は俺のわきを通り抜け、素早く階段を駆け下りていく。まるで十二時の鐘を聞いたときのシンデレラのようなんてロマンチックなたとえはまったく似合わず、その背中は全身で俺を拒否していた。

 俺を? この格好を? 違う。国立は、なにをそんなに嫌がっているんだ?

 なにをそんなに、こわがっているんだ?

「待って!」

 ストーカーだと思われてもいいから、気持ち悪いって言われてもいいから、いま国立と話をしなきゃって思ったのだ。とんちんかんな告白なんかじゃなくて。

 上ってきたばかりの階段をふたたび駆け下りるため、勢いよくきびすを返した。その瞬間、ずるっ、と、足元が滑る感覚があった。

え、」

 視界がぐるんと回る。そう言えば、交通事故にうときがこんな感じだと聞いたことがある。なにもかもがゆっくりと感じられ、頭の中では物凄く冷静に、「あ、車」とか、「あ、かれる」とか思うそうだ。

 いまの俺の場合、

 あ、落ちる

音楽が鳴っている。足元が一定のリズムで揺れる。皆が突き上げるこぶしが見える。

ああ、そうか。俺はいま、ライブハウスのステージに立っているんだ。赤や青や黄色にかわる照明が、飛び跳ねたり右へ左へと走る俺と追いかけっこをしているみたいに動き、照らす。客席は物凄く盛り上がっているけれど、まだまだこれからだ。最後はあの曲なんだから。

 おい

 うるさいなあ。いま集中してるんだから声をかけないでくれ。それにしても、なんだか身体がふわふわして気持ちがいい。すごくいい夢を見ているみたいな気分だ。ステージの上ってこんなふうなんだな。注目されるってこんな感じなんだ。もう少し、このまま

 ドン! と顔面になにかがぶつかる衝撃に、俺は目を開いた。

「いってぇ」

鼻の頭を擦りながらまわりを見わたすと、見慣れた建物が視界に入った。第一校舎に、創立者の銅像、上半身を捻って後ろを見れば、噴水や食堂が見える。間違いなく自分の通っている大学だ。だったらさっきまでの、夢を見ているみたいなあの感じはなんだったのだろう。はくちゅうというやつだろうか? それに、誰かにしきりに話しかけられていたような気がする。

おい」

 後頭部にすさまじい殺気を感じて捻った身体を元に戻すと、真正面に見知らぬおっさんの顔があった。

「ぎゃっ!」

 思わず叫んで飛び退いたのは、おっさんが物凄くこわい顔をしていたからだ。表情だけじゃない。目のわりようといい、どすのいた声といい、うす汚いしょうひげといい、どの角度から見てもヤのつく人にしか見えなかったからである。

 バイト先の周辺にもこういう人が多い。たいていは礼儀正しくて、無関係な人間に対してはむしろ優しいくらいなのだが、俺みたいな格好をしていると下っ端の若いやつらにはからまれてしまったりもする。

「す、すみませんぶつかってしまって!」

 からまれるのは、でも格好のせいだけではない。気をつけてはいるのだが、立ちっぱなしのバイト帰りで疲れているときなどは足元が怪しくなって、よく躓いてしまう。そのときに、運悪くぶつかってしまうのだ。

 いや、でも待てよ?

 ここは俺の大学の校内だ。夜でもない。なんでヤクザのおっさんにぶつかることがあるのだろう? そもそも、俺はどうしてこんなところに一人で突っ立っているんだっけ? それに、昼間の大学にどうして歩いている人が一人も見当たらないんだろう?

お目覚めですか?」

 背後ほとんど耳元と言っていい場所から聞こえたその声は、背筋が凍るほどつめたかった。えりくびつかまれて、キンキンに冷えた氷をポトンと放りこまれたみたいな、心臓が止まりそうなつめたさだ。

 忙しなく振り向くと、ガラの悪いおっさんとは対照的な、清潔感のある背の高い男が立っていた。白いシャツに、黒のパンツ。足元はよくみがかれた黒い革靴。制服かなにかかと思う素っ気なさだが、すらりと長身の男が着ると妙に様になって見えた。

「え?」

 お目覚めって、と口にしかけたとき、記憶が映像になって巻き戻された。なぜか国立を怒らせてしまって、よくわからないけどとにかく誤解を解きたくて追いかけようとしていたのだ。そして、階段で滑って

 そこまで考えて、さぁっと血の気が引いた。さっきのふわふわしたあの感じ。願望が反映された有り得ない光景。室内にいたはずなのに、突然屋外にでているのもおかしい。

 もしかして、俺、死と思ったところで、いやでも待てよ待てよ? と、心の中のいくぶん冷静な俺がまたしても言う。そろっと振り返り、ガラの悪いおっさんがいるのを確かめる。さっき俺はこの人にぶつかったし、後ろから声をかけてきたぎれなこの男も、俺に話かけているみたいだ。死後の世界と言うには風景がリアルだし、じゃあなんなんだと言われたら困るけれど、とりあえず最悪のことを考えるのは止そう。

「だって、脚あるしな! 靴、履いてるしな!」

 青ざめつつも、自分をはげますために笑顔で叫んだ。そんな俺に、おっさんは眉間の皺を深くし、男はなぜかにっこりと微笑んだ。

「そう、靴です。しかし青年。まさかその靴でシンデレラを追いかけようとしていらっしゃるわけではありませんよね?」

「は?」

 一瞬、なんの話をされているのかさっぱりわからずに首をかしげた。しかし、靴とシンデレラという男の言葉が、さっき国立を追いかけようとしたときに一瞬思い浮かべたイメージとまったく同じだということに気付いて、少し背筋が寒くなった。

「あ、あの。なんだかよくわかりませんけど、俺授業とかあるので」

 とりあえず一番近くにあった第一校舎に向けて走りだそうとした俺の肩を、大きな手がぐっと摑む。引っ張られたわけではないが、全力で逃げようとしていたぶん後ろに反っくり返りそうになった。

「待てよ」

 どすの利いた声の主はもちろん、俺の肩をぐっと摑んでいるその人である。

「その靴じゃ、いつかほんとうに階段から落ちて死ぬぞ」

!?」

 靴のことといい階段のことといい、このおっさんたちがどうして知っているのか。というか、死ぬってどういうことだ。

「やめないか四辻。いたずらに物騒なことを言って人をこわがらせるものじゃない。もちろん一つの結末として死があることは否定できないけれどね」

 おっさんを咎めているふうに見せかけて、男も結構なことを言っている。はじめ見たときは笑顔だと思っていたその表情も、のっぺりと顔に張りついたお面のようで不気味に見えてきた。それならガラの悪いおっさんのほうがまだましとは、やっぱり思えない。一体、このおっさんたち、

「なんなんですか! あんたら!」

 泣き声みたいな俺の問いかけに、男は唇の両端をきゅきゅきゅっと三段階ほど吊り上げて、言った。

「僕は靴屋のおうです。その物騒な男はつじ。愛想はありませんが腕のいい職人です」

「おうじと、しつじ?」

 なにそれ、なんかりのスマホゲーム?

つぶやく俺に、三段階上がった笑顔的なものを固定したまま、男は言った。

「さあ、死にたくなければ靴を脱ぎなさい」

 男否、王子がひらりとちゅうを撫でるように手で示した先には、普段あるはずのないものが、あった。

 強くなれる気がしたのだ。こういう格好をすれば、かわれる気がした。

 もちろんロックは好きだ。大学受験の追いこみで心身ともに疲れていたとき、大好きなバンドの、ヴォーカルのしゃがれた声や投げやりで乱暴なのになんとなく切ない歌詞、心にずしんとくる演奏に、何度となく励まされた。

 中学に入る頃には、憲人に身長を抜かされていた。勉強もがんばったけれど、やってもやっても中の上止まり。中の上のなにが悪いって開きなおることもできないまま、高校受験に失敗した。数年後に、弟はいとも簡単にその高校に合格した。その頃にはでも、開きなおったように見せる術を身につけていた。まわりのやつらは俺のことなんて見ていないから、俺自身の目を誤魔化すすべを、身につけたのだ。

 創立者の銅像の下に、突然現れた妙にきらびやかなアンティークの。俺はいま、なぜかそれに座っている。

しっかりと弾力のある革張りの座面ともたれ。一人掛けとは言え、俺みたいなチビが座るには立派すぎる作りだ。

 広がる景色は、見慣れた大学のそれである。業者がやってきて綺麗に手入れしている花壇。その中央にある噴水からは、いつも通りしゃびしゃびと水がでている。足元が寒いのは、三月と言っても気温は冬並ということと、靴を履いていないせいだ。

 夢なのだ、と思うことにした。と言うか、このシュールな状況で平常心を取り戻すためにはそう思いこむしかない。この若さで(しかもあんなきっかけで)お空の上にいってしまったとは思いたくないし、お空の上にこんなおっさんがいるとも思いたくない。

 俺の脱いだラバーソールをまじまじと眺めているのは、〝四辻〟という名のガラの悪いおっさんだった。〝おうじとしつじ〟だから〝しつ〟かと思ったが、どうやら違うらしい(王子いわく、「数字の四と、辻斬りの辻と書いて四辻です」とのこと。もうちょっとほかにも伝えようがありそうなものだが)。

あまりの顔のこわさにさっきはそこまで見る余裕はなかったが、四辻のおっさんは妙な格好をしていた。

 デニムシャツにジーンズ、足元はワークブーツ。と、ここまではいいのだが、その上からせた黒っぽいエプロンをつけている。エプロンについたポケットはごつごつと膨らんでいて、なにかの柄のようなものが飛びでていたりもする。とやらが「腕のいい職人」と言うのだから靴を作る職人なのだろうけど、この見た目からじゃ大工ぐらいしか思い浮かばない。でも、もちろん大工のよそおいではない。

「そ、その靴、最近買ったばっかりなんだから、」

 ていねいに扱えよ、という俺の心の声は届かなかったのか無視されたのか、四辻のおっさんは大きな手でがしっと摑んで遠慮なくあちこちを見たあと、無言で俺の靴を王子に手渡した。

 その扱いには、ややはらはらした。綺麗なものではないけれど、実は俺の持ちものの中で靴が一番高い。革ジャンもそこそこ高かったが、こちらに関しては「絶対にこのブランドのものじゃないと」という気持ちがあったわけではない。だけど靴には、それがあったのだ。

「GEORGE COXのブローセルクリーパーズミュージシャンたちに愛された歴史ある靴ですね。とてもいい」

王子は両手で俺の靴をそうっと持ち上げると、そう言ってにっこり笑った。

 そのせりふから、ブランドをちゃんと知っているのだということがわかり、笑顔の不気味さも半減とまではいかないが、三割減くらいにはなった。

 意外と話のわかる男じゃないかと思った瞬間、王子は笑顔のままこう続けた。

「靴は、とてもいい。しかし青年、きみでは駄目です」

「ヘッ!?」面と向かって言われた「駄目」という言葉にきょを突かれた。

なんでだよ」

 やっとのことで口からでた声は、怒りを含んだものではなかった。途方に暮れてしまったし、情けない気持ちになっていた。きちんと靴の価値を知っている人だからこそ、そう言うのも無理はないかと思ってしまう自分がいた。

 だけどと、俺は思う。だけど、憧れるのは、そんなにいけないことなのだろうか。

自分でもわかっている。俺はロックが好きだけど、憲人の言うようにバンドマンじゃない。大学のやつらが俺を見てちょっと笑うのは、俺の体形やキャラに、これが似合っていないからだ。

 国立は、こういうファッションが嫌いだと言った。でも、あの日ライブハウスにきていたし、あの女の子たちの言うことにほんの少しでも真実が雑ざっているなら、こういう格好をした男と付き合っていたんじゃないのだろうか。

 じゃあ、俺を拒絶する理由なんて、一つしかない。

 それは、俺が、俺だから

 落ちこんだ気持ちで地面に穴が開きそうになった頃、靴下姿の足元に、ふっと影が落ちる。

「僕はなにも、きみ自身を駄目だと言っているわけではありませんよ」

顔を上げると、王子と正面から目が合った。黒い瞳に映る自分の顔を見てはじめて、背の高い王子が跪いているのだということに気付いた。年上の人にそんなことをされて驚いたし、心を読んだような言葉には正直びびった。

そして次の言葉には、頭が真っ白になった。

「しかし、?」

「え

 間抜けな顔で見つめ返す俺をねてか、王子の後ろに立っていた四辻のおっさんがため息じりに言った。

「もっとわかりやすく言ってやれ」

いいだろう。では青年、この靴を、誰かきみ以外の人が履いていたのではありませんか?」

「な、なんで?」

 首を左右に動かして、王子、四辻のおっさん、王子、というふうに見遣る。喋っているのは主に王子だが、四辻のおっさんも展開がわかっていたところを見ると、この靴が、厳密に言えば俺だけのものでないことを知っていたのだ。

「靴底の減り方」

 ぼそっと四辻のおっさんが言い、

「それと、きみの歩き方です」

 立ち上がりながら王子が続けた。

 靴底の減り方と、歩き方? ぴんとこない顔の俺に、王子が言う。

「それにきみは、〝最近買った〟と言いましたね。最近買ったのに

「最近買ったのにくたびれてんのはなんでって言いたいんだろ? そんなの、俺の最近がどれくらい前かわかんないじゃん」

 クイズの正解がわかったときの子供みたいに早口で遮ると、笑顔で首を横に振られた。

「少し違います。最近買ったのにくたびれていて、くたびれているのに履き慣れていない。だからきみの靴ではない、そう思ったのです。そのくたびれ及び靴底の減りは、きみがその靴を手に入れる前に履いていた方によるものでしょう」

「つまり」ラバーソールをひょいと持ち上げて、四辻のおっさんが眉間に皺を寄せた。「最近買った、ってことだろ」

 届いてからまだ一週間も経っていないそれは、二人の言う通り中古品、ネットオークションで購入したものだった。しかしなにも、値段のことだけを考えてオークションを使っているわけではない。実際いま履いていたラバーソールの落札価格なら、あと一万ちょっと足せば一番ベーシックな新品が買えた。

「中古で悪かったな! そのタイプはもとの値段が高くて新品じゃ手がでなかったし、いまはもう作ってないみたいだし、」

 嚙みつくように言ったが、四辻のおっさんは靴のほうしか見ていない。中に手を入れてなにかを確認したかと思えば、エプロンのポケットからこてのような道具を取りだした。

「なにそれ」

ほうちょうだ」

「包丁!?」

 よく見ると、確かに鏝の先はものが切れそうな具合にきらりと光っている。彫刻刀の平刀みたいな感じだろう。それはわかったけれど、エプロンから怪しげな包丁がでてくるってどういうことなんだ。

 青い顔をする俺に、「ご心配なく。先程も申し上げました通り、四辻はああ見えて腕のいい職人です」と王子が微笑む。ああ見えて、のところで四辻のおっさんの太い眉毛がぴくりと動いたが、どうやら反論はしないらしい。

「中古が悪いとは申しません。まあ感心はしませんし、おすすめもしかねます。しかし手に入れたいと思うこと、憧れることは、きみの自由です」

 憧れ。またしても俺がさっき思い浮かべた言葉が王子の口から語られた。ここまでくると、気味が悪いのを通り越してただ驚いてしまう。

 この人は、王子という名の魔法使いなのだろうかそんな馬鹿な考えが浮かんでしまう。

「ただ僕が気に食わないのは」

 ここで王子の声の温度が下がった。なんとなく危険な予感がしたけれど、椅子ごと後ずさりすることはできない。

「合わせる努力をしないこと。こういうものだと思いこんで放っておくこと。そして靴を傷つけること!」

「す、すみませんっ」

 三段階に分けて徐々に近づいてきた笑顔のお面がこれでもかというくらいアップになったとき、「おい」と四辻のおっさんがマイペースにつぶやいた。相変わらず靴を見ている。

「この靴を履いていると、よく躓くだろう」

「躓くけど、それは重いからで」

「もちろんそれもある。だが、サイズが合ってないんだよ。靴が重い上に中で足が泳ぐから、歩くときに一体感がなくて躓いたり滑ったりする」

「サイズが合ってないって言われても、それより小さいのだとつま先があたって痛かったし」

 申し訳ないとは思いつつも、ネットオークションで買う前に実店舗にいって試着をしてみたことがある。そのとき、いま履いているサイズの一つ下のものだとひどくきゅうくつに感じたのだ。

「こいつはUKサイズだし、ハーフの展開もない。なんの手間も加えずにぴったり合うわけがない」

 そう言った四辻のおっさんが手にしていたのは、足のかたちをした、うすっぺらい黒いものだった。

 王子のややまわりくどい物言いとは対照的に、四辻のおっさんの言葉はほぼひとりごとだ。こちらを見ようともしないし、なんとなくはわかるけれどなんとなくしかわからない。ちらっと王子を見上げると、彼も同じように感じているらしい。両手を軽く持ち上げて首をすくめるという、ちょっとクサいポーズで「仕方ないですね」という顔をする。

「イギリス基準のサイズである上に、ハーフサイズ日本のものに置き換えると0.5㎝刻みのものがないのです。ですから、中敷きを入れるなどの工夫をして履かなければ靴擦れなどが起こりますし、靴自体の劣化も早いでしょう。たとえばですが、よく躓くということは、爪先のゴムを必要以上に擦っているということになります」

わかりますね? と言う王子は、ぴん! と嬉しそうに人さし指を立てた。

「その、黒いうすっぺらいやつが中敷き?」

 この格好をするようになるまで適当に選んだスニーカーしか履いてきたことのない俺には、靴に中敷きを入れるなんていう習慣はなかった。

俺の質問に、四辻のおっさんは包丁と呼んだ道具を片手に面倒くさそうに振り返りながら、

「見ればわかるだろ」

と素っ気なく答える。いつもの俺なら大人相手にムッとするなんて面倒なだけだと思うところだけど、四辻のおっさんの態度は中学生並で、なんだかこちらもつられてしまう。

「市販の中敷きの場合自分の靴のサイズに合わせてカットするときははさみで十分です。ただあちらはうちのオリジナルですので、四辻が調節するときはあのように包丁を使います。彼の個人的なこだわりなのでしょう」

ふうん」 

ああ、ほんとうに妙な夢だ。でもこれもまた、俺の願望の表れなのかも。

合わないって言われたラバーソール。実際に、履き心地のいいものじゃない。だけど俺はそれが好きで、それを大事にしている。そうして、大事にしていることを誰かに知ってほしいって思っていた。

ほんとに死んじゃったのかも、俺。階段でずっこけて死ぬなんて間抜けにもほどがあるけれど、笑い話としては結構インパクトあるかなあ。

「おい」

 不釣り合いに豪華な椅子の上でひざを抱えていた俺を、四辻のおっさんが困惑気味に見下ろしている。

「なに泣いてんだ。履いてみろ」

 足元にラバーソールが置かれる。どうやら、四辻のおっさんが言うところの〝手間〟というのが施されているらしい。

 そっと足を入れてみると、足裏がふんわりと柔らかく包まれる感覚があった。立ち上がり、一歩二歩と歩いてみる。重いことにかわりはないが、足への負担が少し減った感じがする。中敷きの素材のためか、中で足が滑る感じもましになっていた。

「応急処置だ。本来ならソールをかえたほうがいい。前に使っていたやつの履き癖がついたままだと危ないだろう。底が新しくなれば、それはお前の靴になる」

「俺の、靴」

ひとりごとのように繰り返すと、四辻のおっさんは少しだけ気まずそうに黙った。いいせりふだと思ったから言ったのであって、決してからかったわけではないが、四辻のおっさんの目の下は少しだけあかに染まっている。

「へえ。きみにしてはなかなか気のきいたことを言うじゃないか」

 真剣なのかからかっているのかいまいちわからない表情(というか笑顔)で王子が言い、それに関しては四辻のおっさんは本格的に嫌そうな顔をした。なんか、変なコンビ。

「ときに、青年」

 しばがかった口調で王子がくるりと振り向く。

「その靴はきみにぴったり合うようになりましたか?」

「ぴったり合うように?」

 改めてたずねられ、俺は足元を見て考えた。クッション性のある中敷きを入れてもらったことで、楽にはなった。がぽがぽと中で動く感じも少しましに思える。だけど

ぴったりでは、ないかな」

 つぶやいてからハッとした。調節してくれた本人を目の前に言うのは失礼だ。

 だけど、四辻のおっさんは現れたときとかわらない仏頂面のままだったし、王子に至ってはなぜか満足気に頷いていた。

「では、きみはなぜその靴を履くんですか?」

 三日月形にふちどられた王子の目が、じっと俺を見つめている。

「先程も申し上げましたが、外国製でぴったりと足に合う靴を探すことは難しい。その上、ラバーソールは底が厚く重さもある。ゴム底とは言っても、運動靴のようにしなりがあって足裏についてくる靴とは違い、歩くときに違和感が生じる靴としては、大変履きにくいものです」

 俺を映し、そして問う。

「デザインは魅力的でしょう。しかし人によってはちっとも合わない。上手く歩けない。持て余してしまう。それならばなぜ、選ぶのですか?」

 目立ちたいから? なめられたくないから? 少しでも印象に残りたいから?

 違う。

「好きだから、かなあ」

ぼんやりと、俺は答えた。靴のことを考えていたはずなのに、脳裏には国立の姿が浮かんでいた。

「釣り合わないし、全然上手く話せないし、話せたとしてもどうせ俺なんか相手にされないって思っちゃうんだろうけど、でも、好きだからなあ」

 あの日はじめて人に見てほしいと思った。国立に一目惚れした日だ。

好かれたいとか付き合いたいとかじゃなくて、とにかく見てほしいって思ったんだ。

 ここにいるよ。ここに、きみのことを好きなやつがいるよって。

 知ってほしいと思ったんだ。俺を。

「努力なさい、青年。努力すれば王子さまになれる、とは言いかねますが、きみはきみのままでシンデレラを追いかけられるようになる。自分の靴で、一歩踏みだせば」

 つめたい、だけどどこか甘い声で、靴屋の王子が言った。それはまるで、魔法使いの唱える呪文のようだった。

 さらさらとしたきぬみたいな、心地いいものが頰に触れている。

 うす目を開けると、今度はおっさんではなくて本物の天使が俺をのぞきこんでいた。長い髪に、白い肌。赤い唇はよくれた果物みたいにみずみずしい。

あのおっさんたちも色々と教えてくれたいい人たちではあったけれど、やっぱり天使は女の子じゃなきゃね。

 っと、ちょっと、ねえってば

 顔だけじゃなく、声も素敵だ。天使と言うより、女神と言ったほうが似合うかもしれない。神々しくて、温かくて

「ちょっと!」

 ばちん! と頰を誰かにぶたれる衝撃に、俺は目を開いた。

「いってぇ」

 頰を押さえながら身体を起こすと、俺の横にへたりこんでいる女神、もとい国立と目が合った。

「よかった。ぴくりとも動かないし、名前もわかんないし、誰も通らないからどうしようかと思った」

 俺を平手で殴ったことで、力を使い果たしたらしい。国立はか細い声で言うと、もういちど「よかった」と繰り返した。

「あれ? 俺、どれくらい倒れてた?」

 見上げると、国立を追いかけて上った階段があった。踊り場の窓からさしこむ光の眩しさから推察するに、日がかたむくほどの時間が経ったわけではなさそうだ。能天気な俺の質問に気が抜けたのか、さらさらの髪さっき頰に触れていたのはこれだったらしいを無造作に、乱すみたいに搔き上げながら、

「一分くらい」

 と国立は言った。

「え!?」

 これには、俺が大声をだす番だった。夕暮れどきではないにしろ、一分ってことはないだろう。だって、あんなに長い夢を見ていたのに。否、夢どころか、お空の上までいっていた可能性もあるのに。それがたったの一分とは。

 大声に一瞬ひるんだ国立は、珍しく素早い瞬きを繰り返しながらこちらを見ていた。それは、はじめて見る表情だった。年相応の女の子らしい表情。彼女の目に映る俺はいま物凄く不審なやつだろう。それでも、目が合っているというだけでどきどきした。

「びっくりさせて、ごめん。えーっと、俺は藤田彰人といいます」

 名前もわかんない、と言われたのはちょっと傷ついたけど、名のったことがないのだから当たり前だ。名のらずに告白をしたなんて知られたら、憲人がまた笑うんだろうな。

「それから、これ」

 床に転がっていたかばんを手繰り寄せ、中からうす紫の便箋を取りだす。国立はふたたび表情を硬くしたが、俺は焦らずに小さく呼吸をしてから言った。

「なにか誤解してるみたいだけど、中を開けて読んだりはしてない。ただ、棄てたもの勝手に拾ったのは、ごめん。気持ち悪かったよね。でも、なんて言うか、棄てるのを迷ってるみたいに見え

 途中で言葉を失ったのは、ある点と点が繫がって線になったからだ。

手渡すときに改めて見えた便箋の宛名は『ケンイチくん』となっていた。それが、食堂で加藤さんが叫んだ〝ケンイチ〟で、あの日の対バンに参加していたバンドのヴォーカル〝KEN〟と同一人物であるということが、このとき突然繫がった。

「よく、わかったね。あたしが迷ってたこと」

 観念したようにうす紫の便箋を受け取りながら国立が言う。唇には、どこかちょう的な笑みがうっすらと浮かんでいた。

「さっき食堂では、格好つけてきっぱり別れたように言ったけど、ほんとうはすごく迷ってた。顕一くんに、彼女みたいな子が何人もいることは知ってたのに。この手紙には、いつも皆が言ってるようなつめたいあたしとは正反対の、弱いあたしを詰めこんだの。二股以上かけられてるってわかってても、それでも、期待しちゃうあたしを。でもあの日、もう無理だってわかったから、棄てたんだ」

 ケン、お前ちょっと遊びすぎじゃねえ? ずっと前から付き合ってるめちゃくちゃ美人の子、どうなってんだよ。

 あー。メイミ? あいつ駄目。つまんないんだよね。美人だけど、それだけっていうか。だってさ、最初のアプローチも手紙だぜ? いまどき!

 マジで? 清純派? いいじゃんいいじゃん。なんて書いてあったんだよ。

なんだっけ。『素敵な曲を、ありがとうございます』とか、ありきたりなやつ。見せてやりたいけどたぶん棄てちゃったからなー。って言うか、曲書いたのも詞書いたのも俺じゃねえって!

すごく嫌な会話、聞いちゃったの」

 無理して作った笑顔が歪む。

 俺も思いだした。あの日対バン公演が終わったあと、いくつかのバンドのメンバーたちは本格的な打ち上げの前に早くもビールを飲んでいた。そこに、KENケンイチと、加藤さんの姿があったのだ。化粧が倍くらいうすくなっていたから食堂ではわからなかったけど、あれは加藤さんだ。ビールの缶を片手にケンイチにもたれかかるようすは、はたから見てもただの友達同士には見えなかった。少なくとも加藤さんのほうは、ケンイチに気がある感じだった。

 ごめん、と言おうとした。色んな想いを嚙みしめて棄てる決心をした手紙を、勝手に持ってきたりしてごめん、と。

 だけど、先にその言葉を口にしたのは国立のほうだった。

「ごめんね」

え」

「告白のときも、さっきも。そういうファッションが嫌いなんて言って。完全に八つ当たり。見た目で人の性格がわかるわけじゃないのに、そういう人たちにからかわれてたって被害妄想が膨らんじゃってて。あの日はとくに」

 悲しい横顔のまま立ち上がり、「痛むようなら、医務室いったほうがいいよ。ほんとにごめんね」と国立は言った。

申し訳なさそうな顔でつけ足した言葉が、心にずしんときた。

「好きって言ってくれたのに悪いけど、あたしのこと知ったらがっかりするよ。面白い話もできないし、派手な遊びも好きじゃない。一緒にいて楽しいことなんか全然ないから」

 心にずしんときたのは、それがほんとうの、国立の言葉だったからだ。ずっと遠目に見ていた憧れの国立じゃなくて。

「国立さん!」

 勢いよく立ち上がると、少し頭が痛んだ。どうやらコブができているみたいだ。頭を擦りながら、一歩踏みだしたそのときだった。

 足裏が、ふんわりと柔らかかった。夢の中で、天使とは似ても似つかないおっさんたちがかけてくれた魔法。

「次の日曜日三月十四日!」

 国立が振り返る。いまにも泣きだしそうな顔でこっちを見ている。馬鹿だな。がっかりするなんて、自分で言うなよ。

「場所は、とりあえず掲示板の前!」

 第一校舎の前にあるのは、合格発表なんかを張りだす大きな掲示板だ。

 あの日と同じ場所で。

「み、見てほしいものがあるんだ! 待ってる!」

 知ってほしいことがあるんだ。

 そしてきみを、知りたいんだ。

 よくよく読んでみると、そんなにたいした歌詞じゃない。だって、二十歳やそこらの俺が、二十歳やそこらの気持ちをそのままに書いたんだから、たいしたものができるはずもない。

 この詞がついた曲がいまでも演奏され続けているのは、バンドに人気があるからだし、メロディがいいからだ。わかってるけど、このたいしたことないのが俺なんだから、仕方ない。いまはあの憎きケンイチがヴォーカルとしてこの詞を歌っているというのが玉にきずだけど、それも含めて、まあ、ね。

「うわ! 彰人その格好でいくわけ? 今日アレだろ? この前の子にもう一回告白する日だろ?」

 いつまでも洗面所を占拠して顔を洗ったり歯を磨いたり髪を立てたりしていた憲人が、玄関先までわざわざでてきて言う。うわ! とはなんだ、と心の中で文句を言いながら、玄関の姿見で最終チェックをした。革ジャン、ダメージだらけのニット、赤いチェックのパンツ歩きやすくはないけれど、一歩踏みだす力を秘めたラバーソールは、柔らかい中敷き入りだ。

 表面には金色の流れる文字で、〝Aschenputtel〟というプリントが入っている。ドイツ語で、シンデレラのことらしい。どこまでもクサい王子だ。

「いいんだよ! 勝負なんだから勝負服!」

 ドアノブに手を掛けながら振り返って言うと、憲人がにやっと笑って言った。

「まあ、せいぜい兄貴は兄貴らしくがんばれよ。なんだかんだ言いながら、いつも上手くやってんだから」

 自分より出来のいい、なんだかんだ言わなくてもいつも上手くやっている弟に言われても。そう思いながらも、

「おう! お前もな!」

 と手を振る。兄貴らしくね。

 ひと気の少ない大学の、なにも張りだされていない掲示板。

 まだつぼみしかつけていない裸木が、春のかおりを含んだつめたい風に吹かれて揺れている。

その風が、細く柔らかい彼女の髪を弄ぶように撫でていき、彼女がそれを押さえながらこちらを振り向いた。

「国立さん! よかった!」

 きてくれて! そう言ってぶんぶんと、結構な至近距離にくるまで腕を振っていた俺を見て、国立はにっこりと微笑んだ。目が合った。錯覚、とは思いようがない。待ち合わせ場所にきてくれたのだから。これは錯覚なんかじゃない。

 隣に並んだ俺の息が整ってもまだ、国立はくすくす笑っている。あんまり可愛いのでまたしてもどういきれが起きそうだけれど、心臓を押さえて耐えた。

「どうしたの?」

「ちょっと、懐かしいこと思いだしてて」

「懐かしいこと?」

 こくり、と国立が頷く。眩しいくらいに整った横顔は、寂しそうにも悲しそうにも見えなかった。

「大学の合格発表を見にきた日、合格して嬉しい反面、親とか地元の子たちと離れて暮らすんだとか色々考えだしたら、ちょっとゆううつでもあったの。それで顔を上げたらね、目が合ったの」

目が?」

 まだ冬に近い風が彼女の髪を弄ぶように撫でていき、彼女がそれを押さえながらこちらを

「うん。小っちゃい男の子。あたしと同じで、きっと地方からでてくる予定だったんだろうね。不安気にこっちをぼーっと見てるから、思わず笑っちゃったの。あの男の子、なに学部に入ったのかな」

 これは、錯覚なんかじゃない。

あれも、錯覚なんかじゃない。

っていうことで、ひとまずオッケーなんだろうか。

なんだか、思っていた感じと違うけど。

オッケー、だよな?

 王子さまになれるかは、これからのきみ次第ですけれど

 靴屋の王子流の応援が、風にまぎれて流れていった。

* fin *