ハイヒールは嘘つきのはじまり

阿賀直己 Illustration/久米田康治

“靴と人”が織りなす秘密の物語。新鋭・阿賀直己×久米田康治によるロマンティックワールド、開幕!

岸本きしもとたまみ 様

お世話になっております。小畑おばたです。

次回の打ち合わせですが、14日ですと時間的にも余裕がございます。いかがでしょうか? 打ち合わせ場所は前回と同じ駅前の喫茶店でいいでしょうか?』

『小畑たけし 様

お世話になっております。岸本です。

それでは、次回打ち合わせは2月14日でお願いいたします。

場所ですが、日曜日ですしバレンタインデーなので、駅前だと少し混んでいるかもしれませんね。

もしよろしければ、駅から少し歩きますが静かなカフェを知っているので、』

というところまで打って寒気がした。たったいまあたしのこの指から出力された文字たちがひどく汚らしいものに見えてきて、慌ててバックスペースキーを長押しする。ものの数秒で真っ白になった画面を見ながら、デジタルは便利だなと改めて思う。手書きじゃこうはいかない。書いては消し書いては消しするたびに紙はよれるし、筆圧が強い場合、消してもなおなにを書いていたのか解読することは難しくない(そしてあたしは筆圧が強い)。

その点デジタルはいい。キーを一つ押すだけで、跡形もなく綺麗きれいに消え去ってくれるもの。

そこに書いてあった文字も、そこからうかがえる気持ちも。

誰にも気付かれないように小さなため息をついて、ふたたびメールを打ちはじめる前に、デスクのわきに常備しているチョコレートの包装を一ついて素早く口に放りこむ。口の中で溶かして味を楽しんでいる余裕はなく、奥歯で三回ほどんだあとは、これまた常備してあると言っても過言ではないミルクコーヒーで飲み下す。ほんとうはもっと味わいたいところだけれど、仕事中なのでそういうわけにもいかない。まあ、こういう雑な食べ方ができるのもこのチョコレートのいいところだと思う。なんたって近所のスーパーでは、ファミリーパックが年がら年中大特価三百九十八円なのだ。

こうばしいピーナッツがこれでもかというくらいぎっしり詰まったこのミルクチョコレートは、なんとあたしの両親が生まれるよりも前から存在している商品だという。デパ地下で売っているような、フランス帰りの有名パティシエが手掛ける、とか、ナントカコンクール最優秀賞受賞、とかいうチョコレートだってもちろん美味おいしいけれど、結局戻ってくるのはこの素朴さと手軽さだ。いつでも手に入る、あたしでも手が届く、ということが重要。

ただ一つ、気になるというか気に食わないところは、普段は色気もへったくれもないパッケージが毎年ある時期になると妙にラブリーになってしまうことだ。

手の中の包みを見ながら、二度目のため息をつく。二月十四日ねえ。

「おーい、岸本ォ! こないだ言ってた白井しらいさんの件どうなってんだあ!」

腰を折ってデスクの下のごみ箱にチョコレートの包みをてた瞬間、真後ろで無意味にデカいだみ声が響いた。

内場うちばさん、そんなに大声ださなくても聞こえますから」

椅子いすをきゅるっと回して身体からだごと振り向き、低い声で答えた。先輩にこんな口のきき方をするようになるなんて、数年前のこの出版社にピッカピカの新入社員としてやってきた頃のあたしには考えられなかったことだ。時間の流れってなんて残酷ざんこくなんでしょう。

「白井さんにはいまメールするところです」

「お前いっつもそれだなあ。いまするところです、じゃなくて、もうしましたってせりふを一回くらい聞いてみたいもんだ」

失礼な! 一回くらいは聞いたことあるでしょ! というせりふは心の中に留めた。内場さんがどれだけ嫌なやつだとしても編集者として大先輩であることは事実だし、悲しいかな、「いまするところ」「やろうと思っていた」っていうのがあたしの口癖くちぐせみたいなのも事実だ。

三度目のため息をどうにか飲みこんで、椅子をきゅるっと逆回転させた。ついさっきまでメールを打っていたときの、むずがゆい、だけどどこか甘い悩みはどこへやら、視界に入ってくるのは雪崩なだれを起こしている資料の紙束や書籍と、数時間前から指先以外はまったく動いていない先輩編集者(机の片隅にはレッドブルの空き缶が数本)だ。無言でメール画面を起動させるあたしに向かって内場さんが言う。

「お前あれだろ? ダイエットは明日からってタイプだろどうせ」

わははと笑いながら通り過ぎていく後ろ姿にデスクの上の広辞苑を投げつけたくなったけれど、余計な体力を使うだけだとにらみつけるに留め、ぱしぱしとキーボードを叩きはじめる。

それにまたまた悲しいかな、あたしはそういうタイプなのだった。事実。

小畑さんに出会ったのは、人生初の婚活パーティーの会場だった。

岸本たまみ、二十六歳。自分の口から大手と言うのははばかられるけれど、本好きなら「聞いたことはある」と言うであろう出版社に勤めている。婚活パーティーに参加したのは、親に結婚をせっつかれているからでも、彼氏いない歴=年齢だからでもなく、あたしが担当している作家の取材に付き合ってのことだった。

「しゅ、取材費はでますから、白井さんお一人でいかれてはどうでしょうか?」

次回作の打ち合わせで提示された〝婚活パーティー取材〟に、あたしは及び腰だった。婚活とかそういうのはちょっとひかえめにNOの意思表示をしてみたけれど、目の前の女性はピンクベージュの口元にくっきりした笑みを浮かべて首を横に振った。道ゆく人百人に写真を見せて「この人の職業は?」とたずねても、「小説家」と答える人は一人もいないだろうと思うような派手はでな女性今作から担当させてもらうことになった作家、白井潤子じゅんこ先生だ。

「っていうか、むしろ岸本さんにぜひ参加してほしいのよ。ほら、あたしと岸本さんって全然タイプが違うから、同じパーティーに参加しても体験はかわってくるでしょ? そこが面白おもしろいと思うの。両極端の取材ができそうじゃない?」

にこにこと笑う白井さんに、空笑そらわらいで応えた。ああハイハイ。T大出身で美人でモデル体形で、作家としてもノリにノッている白井さんと、食生活をコンビニに支えられていていつもすっぴんで上司や作家に怒鳴られながら真夜中まで走り回っているへなちょこ編集者のあたしとでは、あらゆる市場での扱いが雲泥うんでいの差なんでしょうねというせりふが、ほんの一秒くらいの間にバババッと頭に浮かんだ。

とは言えあたしだって、二十六年間誰にも言い寄られない人生を歩んできたわけではない。大学までずっと共学だったし、出会った男の人の中にはあたしみたいな太め、もといぽっちゃり型をわざわざ選ぶ人だっていた。

だけど結局誰とも付き合えなかった。理由は単純で、男の人が苦手だから。

初対面のとくに男の人によく言われる言葉に、「意外と大人しいんだね」というのがあった。たいてい、大勢が集まる食事会や飲み会のときだ。その次にくるのが、「意外と食べないんだね」である。

一体どこの誰が、ぽっちゃり女子はよくしゃべりよく食べるなんてイメージをつけてくれたんだろう? そんなに単純に、体形と性格が比例するものだとほんとうに思っているのだろうか。世の中の人は。

どうしても見た目と中身を結びつけて考えられる。そうなってくると今度は、おしゃれをするのが恥ずかしくなる。たとえば、いつもよりきちんとメイクをしている、スカートを穿いている、それだけで、「合コン?」「彼氏できたの?」「デート?」ってかれることは不可避だ。幸い、いまの職場じゃ誰もあたしの格好なんか気にかけていないんだけど。

とにかく、そんなあたしが婚活パーティーなんて冗談じゃない。

しかし、曖昧あいまいに笑ってどうにか逃げようとしていたあたしに、白井さんがとどめの一言を放った。

「岸本さんが婚活パーティー付き合ってくれたら、絶対面白い本書くから!」

あたしは、へなちょこでも編集者である。それを言われてしまっては、答えは一つしかない。

「わ、わっかりました!」だ。たとえ白井さんの「絶対」に、先輩編集者が何度も泣かされているのを見ていたとしても。

男性二十名、女性十八名が参加したその婚活パーティーは始終システマティックにり行われた。事前にネットで回答しておいたプロフィールカードを元にそれぞれ自己紹介を行う。

不思議ふしぎなのは、席を移動するのは女性ではなく男性と決まっていたことだ。女性は同じ椅子に座ったまま、回転寿司よろしくくるくる回ってくる男性を迎え入れる。回ってくる男性は少し年上が多い印象で、でも想像していたようなえない見た目の人は意外と少なかった(まったくいないっていうわけじゃないけど、まあ)。

「小畑剛です。よろしくお願いします」

その人小畑剛さんのことは、回ってくる前からちょっと意識して見ていた。

かっちりした格好の男性が多い中で、オフホワイトのセーターに紺色のデニム、足元はスニーカーという学生みたいな格好の小畑さんは目立っていたし、まあ、単純に顔が好みだった。

しかし、あたしの向かいに腰を下ろした小畑さんに笑顔はなかった。仏頂面ぶっちょうずらとか適当な感じなら、あたしが恋愛対象外だからだろうと思うところだけど、小畑さんはあきらかに緊張していた。その証拠に、自己紹介の次のせりふは、

「あの、えーっとあ、可愛かわいくつですね」

という、いささか唐突とうとつすぎるものだった。

「え? あ、ありがとうございます」

あたしがいていたのは、数年前に友達の結婚式用に買った黒のパンプスだ。小ぶりなリボンのついたちょっとレトロなデザインは確かに可愛いけれど、普段履き慣れないヒールなのですぐにつま先や横幅が痛くなる。ただ、いくらカジュアルを売りにした婚活パーティーでもスニーカーで参加するわけにはいかない(白井さんに睨まれそうだし)。そんなことをあれこれ考えて、しぶしぶ履いてきたパンプスだった。

あたしが余程不思議そうな顔をしていたのだろう。小畑さんは頭をきながら、

「いや、実は今日、友人に無理矢理連れてこられたんです。こういうところはじめてなので、なにを話せばいいのかわからなくて。しかもなんだかすっかり普段着できちゃって。すみません」

と言い、申し訳なさそうにぺこっと頭を下げた。

確かに男性の参加者はほとんどの人がスーツだ。ネクタイをしていない人でも、ジャケットくらいは着ている。

「あ、いえ。わたしも、ふ、普段着ですし」

噓つけ! と心の中のあたしが言う。パーカーやシャツ、スウェットに穿き古したデニム、足元は絶対にスニーカーという、「小学生男子」みたいな格好があたしの普段着だ。会社に服装の規定はないし、通勤に自転車を使うこともあって、とにかく動きやすさを一番に考えた服装を心掛けている。この日着ていったカシミヤのセーターは、帰省するたびあまりにも適当な格好をしている娘にあきれたお母さんが買ってくれたものだし、パンプスに至っては友人の結婚式以来箱に仕舞いっぱなしになっていた。

「そうなんですか。普段からきちんとされてるんですね」

目をぱちくりさせて、嫌みでもお世辞でもなく、心から感心しているようすで小畑さんが言う。

いえ、それほどでも」

対するあたしは、後ろめたさのあまり素っ気ない答え方になった。

なんとなく気まずい沈黙が落ちた。

このぶんだと沈黙のままタイムオーバーになりそう。取材にならないなあ。そう思ってちらりと視線を上げると、意外なことに、小畑さんはひどく真面目な顔であたしのプロフィールカードを読んでいた。

ちょっといいな、と思ったのはそのときだ。限られた時間なのだから、気まずさを緩和するためになにか喋るなら、「趣味は?」とか「お仕事は?」とか適当に訊いておけばいい。実際、それまであたしの向かいに座った男の人は得てしてそうだった。プロフィールカードにあらかじめ書いてあることでも、平気で訊いてくるような。端っからあたしのことなんて眼中に入れていないのがまるわかりの人ばかりだった。

真面目まじめな人なんだな。っていうか鼻高いな。うつむいてるとまつ毛も長いし。超美形とかイケメンっていうんじゃないけど、最近流行はやりの顔だなあなんて言うんだっけえーと

塩顔?」

ぼそ、とつぶやいたら、「ハ?」と小畑さんが顔を上げた。

優し気な一重瞼ひとえまぶたの中の瞳と真正面から目が合った。瞬間、頭が真っ白になった。

あ! す、すみません! じっと見たりして! なんでもありません! ひとりごとです!」

あたしの大声に、小畑さん、及び周囲の人たちが一斉にこちらを見た。恥ずかしくなって俯くと、むっちりしたももが視界に入った。少しでもすっきり見えるようにと選んだ、手持ちの中で一番細身の黒のパンツだったけど、こうして座ると肉の広がりがダイレクトにわかる。スカートにすればよかった、と思い、思った途端恥ずかしくなった。スカートにしたって同じことだ。中身はあたしなんだもん。

あのう。もしかして、」

小畑さんがおずおずとつぶやく。話しかけてくれたことを嬉しく思う気持ちよりも恥ずかしさのほうが勝って、顔を上げることができなかった。ちらっと目線だけ上向きにして答えた。

「は、はい?」

「岸本さん、内場さんと一緒に働いてらっしゃいます?」

「へ!?」

あまりにも予想外で、その上あまり聞きたくない名前だったので妙な声がでた。周囲の視線がふたたびあたしに向けられる。決して静かではないが、大声で喋っている人もいない。「すみません」と誰ともなしに謝って、まるい肩をなるべく縮こまらせる。そんなあたしを見て、こらえきれずにという具合に小畑さんが「ふっ」と笑った。

あ、いいな、とまた思った。目尻とほおにくっきりとしわが寄り、くしゃくしゃと表現するに相応ふさわしい飾り気のない笑顔だった。

「あ、あの、確かに、職場の先輩に内場という者がいますけど」

「やっぱり! 僕、内場さんとお仕事させていただいたことがあるんです。ほら、内場さんって以前週刊誌の編集されてたでしょう? 数年前になりますけど。文芸のほうに移られたことは聞いてたんですが、最近はご一緒する機会がなくて」

プロフィールカードの職業欄には、出版社名のあとに〝文芸部〟とも書いておいた。そう書いておけば自然と小説の話になったりするかな、と思ったのだが、回ってきた十人以上の男性の誰一人として、好きな本や好きな作家を訊ねてくる人はいなかった。

ともあれ、予想していた切り口ではなかったけれど、どうやら無駄ではなかったらしい。小畑さんが気付いてくれたのだから、〝文芸部〟と書き添えたことに意味はあった。

「お仕事って

慌てて小畑さんのプロフィールカードにしるされた文字を追う。あたしだって人のことは言えない。顔と年齢しか見ていなかった。

職業の欄には、『デザイナー』の文字があった。こざっぱりしたセンスのいい人には見えたけれど、ファッションデザイナーという感じはしない。もちろん内場さんがファッション関連の仕事をしたという話も聞いたことはない(想像するだけで笑える)。

「もしかして」

「はい。本の装丁家そうていかをしております、小畑と申します」

合点がいった、というふうに顔を上げたあたしに、小畑さんはわざと硬い口調で言った。あたしが目をまたたかせていると、まるで営業みたいに、「岸本様、以後お見知り置きを」なんてつけ加える。ギャグのつもりだったのだろう。芝居しばいがかったそのようすがおかしくて噴きだしてしまったあたしを見て、小畑さんも恥ずかしそうに頭を搔いた。

「内場さん、お元気ですか?」

「ええ。まわりから気を吸い取ってるんじゃないかってくらい元気ですよ。お盆前も年末も食欲と声のボリュームが落ちないのはうちの編集部では内場さんくらいです」

無意識に苦い顔になっていたのだろう。あたしのようすに、小畑さんが「ははっ」とさっきより快活に笑った。

「想像つくなあ。パワーのかたまりって感じの方ですよね。一緒にお仕事したときも、注文があんまり難しいんでデザイン案持っていくたびに冷や汗かきましたよ」

「でしょうね。いっつも言ってること意味わかんないんだから。抽象的すぎて。デザイナーさんも困るでしょう?」

苦い顔のまま続けたあたしに、小畑さんは「うーん」と首をひねった。考えるときの癖なのか、くちびるがちょっととがっている。

「いや、意外と、抽象的なほうがありがたいんですよ。具体的に色やモチーフを指定されたりすると、それに縛られてしまって発想の幅が狭まりますし」

「えっ! そういうものなんですか?」

思わず身をのりだしたあたしに、小畑さんがやや驚いたように目をまるくした。その表情にあたしも慌てて腰を落ち着かせる。

「あ、すみません。その、いま、新刊の表紙デザインのために色々資料を集めているところなんです。わたし説明が下手くそなので、デザイナーさんには具体的なフォントや色をある程度こちらからご提案したほうがいいのかなって思っていて」

「いや、まあ、本の種類やデザイナーのタイプによって多少差はあると思います。でも何度か一緒にお仕事されているデザイナーさんなら、たとえ抽象的でも岸本さんの言いたいこととか好きそうなデザインってなんとなくわかると思いますよ」

あたしがしょんぼりして見えたのか、小畑さんはフォローするように早口で言った。

その、今回がはじめてなんです。作家さんを一人で担当するのも、デザインを頼むのも。いままではアシスタントとして先輩についていただけなので、作家さんにもデザイナーさんにも自分の意見をだしたことってなくて。がんばらなきゃって思うんですけど、どうがんばればいいのかもよくわかっていなくて」

身近な職業の人だとわかると、思わず本音がでた。初対面の人に、しかも婚活パーティーで話すことじゃないなと思い、「情けないお話ですが」と空笑いをしながら顔を上げると、小畑さんはなぜかにこにこと笑っていた。あんまり優し気な笑顔だったので、変な勘違いをしそうになった。

「幸せですね、その作家さん」

「え?」

「誰かのはじめてになれるなんて、幸せですよ。その作品は、作家にとっては数あるうちの一つでも、岸本さんにとってははじめての担当作なわけでしょう? わたしのデビュー作です、がんばりますって言われたら、嬉しいんじゃないかな」

そうでしょうか」

重くないでしょうか? 経験もないのに、ただ熱い気持ちをぶつけるだけじゃ逆に迷惑じゃないでしょうか?

そう質問を重ねたかったけれど、それこそ重く感じられるかと思って口をつぐんだ。耳の端がじんわりと熱くなるのを感じて俯いた。

幸せ、なんて。

嬉しい、なんて。

有り得なさすぎて考えたこともなかった。経験も実績もないんだから、とにかくお荷物にだけはならないようにしなくちゃって、そんなふうに考えていた。

目線を落としたあたしを不思議に思っているようすもなく、

「そういうお気持ちでのぞんでらっしゃるなら、きっと素敵な本になりますよ」

と小畑さんは笑った。

そのとき思ったのだ。この人は、どんな本を作るんだろう? いままでどんな本を作ってきたんだろう?

あたしのはじめては、この人がいいなって。

『小畑剛 様

お世話になっております。岸本です。

それでは、次回打ち合わせは2月14日でお願いいたします。

打ち合わせ場所も前回と同じ喫茶店でお願いできればと存じます。最寄駅の改札をでたところでお待ちしております。

ご都合のよろしいお時間帯などありましたら

国民的イベントには触れず事務的なメールを送信し、続けて白井さんへのメールを打ちはじめる。こちらはちょっと気が重い。白井さんは筆がのると早い人なのだが、設定やプロットの段階でなかなかつまずく。あたしだってただ原稿を待っているだけではなく、取材に付き合ったり、興味をきそうな資料をメールで送ったりする。しかし新人ということもあって、案をだしても全却下。却下の返信があればまだいいほうで、音信不通になることもしばしばである。とりあえず返信だけでもくれたらいいのに、と毎回ため息がでる。

あたしが白井さんに対して弱気になっていることがわかっているから、内場さんも自分の担当でもないのに連絡するように催促するのだろう。口うるさいけれど、先輩として心配してくれているという側面がないわけでもないのだ(たぶん)。

そもそも、たった一ヶ月ほど前、婚活パーティーで出会った小畑さんとこんなふうに仕事ができているのは内場さんのおかげとも言える。

婚活パーティーのあとの話だ。興奮しながら職場に戻り、小畑さんの名前を告げたあたしに、内場さんはすぐに名刺めいしを探してきてくれた。「小畑くんは女性より女性らしい繊細せんさいなデザインする人だから、白井さんの読者層には合うんじゃないか? まあ、結構売れっ子のデザイナーだから受けてくれるかはわかんないけどな」と言いながら。

『岸本たまみ 様

かしこまりました。それでは2月14日、午後2時に駅前でお願いします。

当日、とっても寒いみたいなので温かい格好できてくださいね(^^) 

変更などありましたらご連絡ください。

小畑剛』

すぐに届いた折り返しのメールに、あたしは小さくため息をついた。〝とても〟じゃなくて〝とっても〟なところが可愛い。顔文字も可愛いし、その上「温かい格好で」という気遣いもある。メールや打ち合わせを重ねるうちに、わかったことがある。小畑さんは女子力が高い。洋服や持ち物のセンス、食べ物の好み、言動、等々。

視界の端にどかっと鎮座しているチョコレートの袋に書いてある文字を見て、パソコンのキーボードにしたい気持ちになった。

『バレンタインデーは手作りチョコで気持ちを伝えよう!』

そんなコピーとともに、商品をアレンジして作れる簡単なレシピがっている。

打ち合わせは二月十四日。仕事相手としてチョコレートを贈るくらいなら、迷惑にならないだろうか。

付き合いたいなんて夢は見ない。「ありがとう」って言葉も、笑顔も期待しない。気持ちを押しつける気もない。

ただ、小畑さんの目に女の子として映りたい。きちんとした格好をしたり、チョコレートをさり気なく渡したりできるような女の子として。恋愛対象外のぽっちゃりの岸本たまみじゃなく、怒られてばっかりの編集者の岸本たまみでもなく。

その場しのぎでいいから。噓でも、いいから。

婚活パーティー以来の再会編集者とデザイナーとしての初打ち合わせがとどこおりなく終わろうとしたとき、小畑さんが言った。

あ、そうだ。可愛いですね、今日のネックレス。きらきらで。

その日つけていたのは、靴同様友達の結婚式用に買っていたパールのネックレスだ(こちらもまた、箱からだしたのは結婚式以来である)。

あなたの笑顔のほうがきらきらですという感想を胸に秘め、「あ、ありがとうございます」と一瞬嬉しくなって答えたが、次の瞬間ハタと気付いた。手持ちのカードはすべて使い切ってしまった、と。つまり、もう綺麗目の服なんてない! と

そんなわけで、とにかく服を買わなければいけないのだ。『FINAL SALE!!』という赤い文字がプリントされた駅ナカの特大ポスターを、ほとんど睨むようにして見つめた。二月十四日は、三日後に迫っている。

いつもより早めに仕事を切り上げて寄ったファッションビルは、思いのほかいていた。

学校帰りの高校生や大学生の姿はちらほらあるものの、商品をじっくり見ているというよりはひまつぶしをしているという感じだ。年末年始にゆるんだ財布さいふのひもをふたたび緩めるには二月はまだ寒い。

べつにカジュアルな格好でいけばいいじゃん、いつも通りの自分で大丈夫だよ、とささやくあたしが右側に。

でも、初対面のときも二回目も、靴やネックレスをめてくれたってことは女性らしい格好が好きなんじゃない? っていうかいつも通りの自分で勝負できると思ってんの? と囁くあたしが左側に。

その両方を振り払うようにぶるぶると頭を左右に振り、とりあえず売り場を進む。エスカレーターのそばにフロアマップを見つけたので婦人服売り場を確認していると、背後から高い声が聞こえた。

「えー? こっちのパッケージのほうが可愛くない? ほら、かおりもいい感じだよ。ローズだって!」

「こっちも可愛いよ。お菓子かしのかおりシリーズ。パンケーキとか」

振り返るとそこは、色とりどりの品物が所狭しと並べられているはなやかな空間だった。衣料品、文具、コスメや珍しい海外のお菓子などが幅広く取り揃えられている輸入雑貨のチェーン店だ。声の主は制服姿の女の子たちで、それぞれ手に取っているのはどうやらハンドクリームのようだった。

「いや、お花とかお菓子とか、可愛いのはちょっと」

まわりの子たちよりあきらかに低めのテンションで答えたのは、輪の中でもひときわ背の高い女の子だった。すらりと長い手足も目を引いたけれど、彼女が目立つのはそのせいだけではなかった。

グループの女の子たちが若く綺麗な肌にわざわざファンデーションやらリップやらマスカラをほどこしている中、彼女だけがほとんどすっぴんだった。よく見ると唇がやや艶めいているという程度で、それも色がついているわけではない。同級生の中で際立って目立つ美人というのではないが、大人になれば皆がその綺麗さに気付くだろう。そういうタイプの子だ。

「なんで? 未来、無香料派?」

柔らかそうな茶髪をくるんと巻いた、可愛らしい女の子が上目遣いに訊ねる。こちらは、たとえ同じクラスにいても挨拶あいさつすらわさなそうな、あたしとは無縁むえんのタイプだ。

「あたしが使うんじゃないから。かおりとかって好みあるし」

「あ、プレゼントなんだ? 誰に?」

茶髪の巻き髪ちゃんがなんの他意たいもなさそうに続けて訊ねた。

まあ、ちょっと」

「なになにその反応! あ、さては未来彼氏できたんでしょ! さっきもチョコのコーナー結構真剣に見てたし!」

いかにもそういうことに目ざとそうな、ちょっと派手な女の子が大きな声で言う。

「か、ちが、彼氏とかじゃないから!」

「でもさー彼氏にハンドクリームってどうなの?」

「だから彼氏じゃないって! 男の人なんて一言も言ってないじゃん」

「じゃあ女の人なの?」

〝ミライ〟と呼ばれた女の子は、どうやら噓のつけないタイプらしい。訊き返され、物凄くわかりやすく、「うっ」と口ごもっている。もちろん恋愛ごとに興味津々きょうみしんしんの女の子たちがそれを見逃すはずもなく、口々に「いつの間に」とか「どんな人」とかはしゃぎだす。まわりの人たちがやや迷惑気に彼女らを避けていくけれど、そんなことにはちっとも気付かない。

「言っておくけど、彼氏じゃない。それは絶対ない」

ごほん、と物々しい咳払せきばらいをし、ミライが声を低くして言う。

「でも、その、お世話になった人だから。いちおうバレンタインデーだし、なにかちょっとしたお礼でもしたほうがいいかなって」

二の句は歯切れが悪い。まだプレゼントをするかどうか迷っているようだ。

「そうなんだー。でもなんでハンドクリーム? チョコじゃ駄目なの?」

「甘いものはあんまり好きじゃないみたいだから。あと、手の綺麗な人だから、いいかなって」

一瞬、ほんの一瞬、女の子たちがぴたりと止まった。「手の綺麗な人だから」と言ったミライが、とても大人びて見えたからだろう。

ミライの相手は大人の男の人なんだろうな。年頃の女の子があんなふうにあこがれるなんて、きっと素敵な人に違いない。

エスカレーターにのり、徐々に遠のいていく華やかな輪を横目でちらりと見ながら思った。少女漫画まんがの恋が、世の中にないわけじゃない。あたしにはなかった、ってだけの話だ。

「いらっしゃいませーえ、どうぞお手に取ってご覧くださいませーえ」

ファッションビルやデパートの婦人服売り場にくるたび、この独特な声かけには辟易へきえきしてしまう。あきらかな作り声と奇妙なリズム。

「そちら、春の新作なんですよおー」

店に入ってちょっとでも商品を触ろうものなら、「いいカモがきた」と言わんばかりに販売員があたしに近づいてくる。

「あ、そ、そうなんですか」

格好はきらびやかだけどどこか張りついた感じの笑顔に、応対するこちらも引きってしまう。

「よかったら広げてご覧くださーい」

その言葉に従って服を広げれば、どうぞどうぞと強引に鏡の前に連れていかれるだろう。そこに映っているのはきらきらの販売員と、淡いピンクの春物ニットと、先輩にどやされて疲れ切った顔をしているあたしだ。冗談じゃない。

数軒店を回ったけれど、そんな調子で苦手意識ばかりが先に立ち、服を買うどころか手に取って広げることもほぼできなかった。

やっぱりネットで買おうかな、とあきらめかけたところで目に飛びこんできたのは、靴売り場だった。

それぞれに看板を掲げている専門店ではなく、色んなブランドが一ヶ所に集められたタイプの売り場である。専門店に比べると売り場面積のわりに販売員が少ないし、見たところその数少ない販売員も顧客の対応や事務的な作業に没頭している。

とりあえず、商品を手に取る程度では声をかけられることはなさそう。あたしはそう思いながら、ふらりと靴売り場をうろついた。三回連続で同じ靴を履いていくのもどうかと思っていたし、なによりあのパンプスだと少しヒールが高くて辛い。打ち合わせのあとには、あちこちにできた水ぶくれに絆創膏ばんそうこうを貼ったりして大変だった。

値段も手頃で使い回しがきいて、ヒールはあんまり高くなくて

「でも、先は尖ってるほうがいいかな」

そのほうがちょっとでも足が綺麗に見えるかもしれないし、等々、頭の中であれこれ考えながら手に取って眺める。ありがたいことに足のサイズは二十三・五センチと標準なので、セールの名残という感じの棚でもそこそこ種類を選ぶことができた。

三十分近くじっくり見て、これならと思う一足を手に取った。全体の色はうすいベージュ。真ん中にちょこんとついた蝶々結ちょうちょむすびのリボンと履き口部分は黒で縁取ふちどられている。ヒールは四センチほどで、先はすっきりと尖ったかたちだ。

ヒールにもう少し太さがあれば言うことなしなんだけど、という思いも、50%OFFの赤い文字を見れば頭の片隅にいってしまう。ま、これだけ安くなってるんだから、とりあえず買っておけばいいよね、と。

くるりと振り返り、パンプスの置いてあった棚が“23・5”のコーナーであることを確認する。よし、と小さくうなずいたあたしは満足の息をらした。

疲れた身体にムチ打って慣れない場所に出向いた甲斐かいがあった。やっといい買い物ができそうだ。

会計にいこうと一歩踏みだしたけれど、近くにはそれらしいカウンターが見当たらなかった。

「セールだからかな?」

この売り場自体がセールの特設会場で、少し離れた場所にレジがあるのかも。

首をかしげながらあたりを見渡すと、思った通りやや遠いところに“CASHIER➡”の案内板がでていた。やっぱり、と思うと同時に、それにしてもずいぶん主張が控えめだなとも思った。普段とレジの場所が違うなら、もっと大々的に案内したほうがいいのに。

矢印の方向に向かって歩きだしたあたしの目に飛びこんできたのは、さっきと同じ“CASHIER➡”の案内板だった。今度は右方向に矢印がでている。

「また?」

心の声が小さく漏れた。だけど、靴売り場は確かに広いし、靴だけでなくほかのセール品もまとめて会計する専用の場所が設置されているのかもしれない、と思いなおす。

一つ目の矢印に続き、二つ目の矢印に従って進む。すると、またしても“CASHIER➡”の案内板が見えてくる。

さすがにおかしい、と気付いた。でもそれは、看板のせいだけではない。

時間も距離も結構歩いたはずなのに、いつまでも靴売り場が続いているのだ。こんなに広いはずがない。それに、この奇妙な静けさは

恐れ入ります。お嬢さん」

ひやりとした風が耳元をでていくような、つめたい声。目をつむっていたら、人間じゃないものにりつかれたように感じたかもしれない。

!」

驚いて息を吸いこみながら顔を上げると、背の高い男の人が立っていた。

ぱりっとアイロンのかかった清潔そうな白いシャツに、長い脚を際立たせる黒の細身のパンツ。そのまま視線を下ろせば、足元にはいかにも高級そうな革靴が光っている。

「まさか、御試着なさらずにお買い求めになるおつもりで?」

従業員証や名札はなかったけれど、声をかけてきたということは販売員なのだろうか。

「あ、え、はい。急いでるんで。大丈夫です。サイズはちゃんと確認しましたから」

もちろんそれは口をついてでた噓だった。もうこの靴を買うと決めたのだし、販売員とはなるべく話をしたくない。華やかな女性店員も苦手だけれど、男性店員なんてもっと嫌だ。しかもこんな素敵な男性なんて。

身体を縮めて背を向けたあたしの前に、男が立ち塞がるように回りこんだ。まるで自然についてくる影みたいに、音もなく。そうして頭上から降ってきたのは、ややわざとらしいため息だった。

「いいですか? この世に同じ人間は一人として存在しないように、同じ靴も一足としてありません」

は?」

ぽかん、と口を開けた間抜け面で疑問符を浮かべるあたしに、男は微笑ほほえんで続けた。

「御試着もなさらずに、どうして大丈夫だと言えるでしょう? その靴がああ、決して靴に罪はありませんけれど、その靴があなたを傷つけないとなぜわかったりするでしょう」

〝素敵な男性〟前言撤回。

見た目は確かにちょっと素敵かもしれないが、これはどうやら春になったらでてくる、できれば関わりたくないタイプの人だ。って言うか、いまは二月。春はまだ先。だとしたらただの変人? 咄嗟とっさに販売員だと思ったけれど、そう言えば最初に声をかけてきたとき、あたしのことを「お客様」ではなく「お嬢さん」って言った気がする。

「あの、だ、大丈夫ですから」

いずれにせよ、逃げるが勝ちだ。変に応対して「相手をしてくれる人」だと認識されては困る。あたしは靴を抱え、一歩また一歩と後ろに下がった。

「お待ちください、シンデレラ」

いやいや、なにこの人売れない役者!? いまどき、女性向けのロマンス小説だってそんなせりふはでてこないんじゃないだろうか。あたしが担当編集者なら速攻没にする。

本格的に逃げようと決めてきびすを返した。だけど怪しい男の次の言葉が、踏みだしたあたしの足をその場に留まらせた。

「その靴では、また絆創膏を貼る羽目になりますよ」

「え?」

青い顔をしているあたしを面白そうに眺めながら、「ああもちろん」と男は続けた。

「わざと足を絆創膏だらけにして、王子様の気を引きたいと思っていらっしゃるのなら止めはしませんけれど」

「な

なんで、あたしの足が絆創膏だらけになったことを知ってるの?

口をぱくぱくさせるあたしに、怪しい男はにんまりと笑って言った。まるで、声にならなかったあたしの質問が聞こえたみたいに。

「靴を見れば、わかります。あなたの足のことも、あなたがなにを考えていらっしゃるかも」

「靴、って」

反射的に自分の足元を見下ろした。見下ろして、ちょっときまりが悪くなる。一ヶ月ほど前に気に入って買ったスニーカーは、早くもつま先や内側が汚れていた。動きががさつなせいだろうか。

「さあ、先ずはいまお履きの運動靴を脱いでいただきましょう」

男は笑みを浮かべたまま、あたしに魔法をかけるみたいに長い腕をすいっと動かした。

あやつられるように視線を滑らせたあたしは、息みたいな声でつぶやいた。

「なに、これ」

動きの先にあったのは、椅子ううん、ただの椅子ならたいして驚かない。靴売り場に試着用の椅子があるのは当たり前のことだ。

驚いたのは、それがおよそファッションビルの靴売り場に相応しくないものだったからだ。重厚感のある木製の、愛らしい猫脚。滑らかな線を描くひじ掛け。膨らんだ座と背凭せもたれは、深紅のベルベットだ。ロココ調とでもいうのだろうか。

「い、いいですって」

その椅子に座ったが最後、なにか恐ろしいことが起こる気がする。ぶんぶんと首を横に振ったが、男は唇の両端を数ミリ持ち上げただけだった。

「そうご遠慮えんりょなさらずに。こちらに御試着用の新しいストッキングもございます」

なにも入っていなさそうなぺたんこのポケットから、几帳面に折りたたまれたストッキングがでてくる。男の長い指がストッキングをくるくると広げるさまは、はっきり言って物凄く不気味だった。

「結構ですってば! あんまりしつこいと人呼びますよ! なんなんですかあなた!」

人を呼ぶもなにも、これだけ大声をだせば誰かが異変に気付くだろう。そうだ、さっき通り過ぎた棚のそばに販売員がいたはずと、勢いよく振り向いたけれど、そこには誰もいなかった。靴がぎっしりと並べられた棚があるだけだ。

慌てて左右を見回す。靴売り場ではなく、廊下を挟んで洋服の専門店が並んでいる。だけどさっきまで「いらっしゃいませーえ」と叫んでいた販売員も、洋服を広げていた女性客も、一人も見当たらない。

「え?」

なにが起こっているのかわからずに混乱するあたしをよそに、男はお面のような笑みを張りつけたまま言った。

「なんなんですかと言われても。僕は靴屋の王子ですから、合わない靴を買っていかれるお嬢さんを見過ごすわけにはいきません」

広げたストッキングの両端を持ち、ぱん! と伸ばして男は言う。

「大丈夫です。手荒な真似はいたしません」

どう考えても、大丈夫じゃないんですけど! 心の中でそう叫び、逃げだそうとした瞬間だった。自分のことを王子と名のった男は、不気味なくらいよく通る美しい声で言った。

「いつまでそうして、ご自身を偽るおつもりで?」

その言葉が、胸にぐさりと刺さったのは言うまでもない。

ほとんど固まるように立ち止まったあたしの肩に、男の手がそっと触れる。決して強引ではないのに、なぜかあたしはへなへなと椅子に座らされていた。突如現れた豪奢ごうしゃな椅子は、あたしを場違いなパーティーに招かれた一般市民みたいな気持ちにさせる。

力なく見上げると、片手にストッキングを掲げた靴屋の王子が微笑んでいた。

物心ついた頃から、ラブストーリーが好きだった。

小学生のときは少女漫画に夢中になったし、中学生になってからはちょっと大人の恋愛小説にのめりこんだ。

最初は憧れているだけだった。そのうち、いつかこんな恋をすることがあるだろうか、と考えた。年齢を重ねるだけで、ごく自然に、いつか。

だけどいつの頃からか、お小遣いで全巻揃えた漫画も、撮りだめしていたドラマも、大好きなシリーズものの恋愛小説も、棚の隅に追いやられたままほこりを被っている。

現実は甘くない。それを知ったのは中学三年生の冬。

受験シーズン真っ只中だった。タイミング的にも、自分の外見的にもキャラ的にも、その男の子と付き合えるとは思っていなかった。それでも、彼が県外の私立高校に進学する予定だと聞いたとき、十五年分の勇気をふりしぼる決意をしたのだ。チョコレートを渡して、気持ちを打ちあけるだけでいい。思えば、そんなひとりよがりで小さな行動でも漫画やドラマのヒロインになるような気分だったのだろう。

「え、ごめん俺自分より重そうな女とか無理だわ。あと、手作りとか勘弁して」

差しだしたチョコレートの包みにちらりと視線を落とすだけで、触れることすらなく彼は言った。

これが少女漫画なら、あたしの憧れの男の子たちなら、繊細そうな小さな顔にうれいの表情を浮かべて言うだろう。「ごめんね。付き合えない。でも、ありがとう」と。もしかしたら、「嬉しいよ」とも言ってくれるかもしれない。それが

「そうだ。恥ずかしいから俺に告ったことまわりのやつに言うなよ」

まさか、そんなふうに締めくくられるなんて。

現実は、甘くないどころか辛い。激辛だ。

その記憶がこの歳になるまでトラウマになっていると言ったら、ちょっと大袈裟おおげさかもしれない。思春期にはよくあることだよって人は笑うかもしれない。あたしだって、世の中に優しい男の人がいるってことはわかっている。でもそれと同じくらい、そうじゃない男の人もやっぱりいる。

「べつに大丈夫ですから」「興味ありませんから」「こういうの慣れてますから」

一体何回、そうやって笑ってやり過ごしてきただろう。

口にだして言い続けていると、それがいつの間にかほんとうの気持ちみたいに思えてくる。

あたしは誰に噓をついているんだろう?

怪しい男自称・靴屋の王子は、椅子に座ったあたしの向かいに片膝かたひざをついてしゃがみこんだ。まさしくひざまずくという体勢そのものだ。呆気あっけに取られていたあたしは、次の瞬間「えっ」と小さく声を上げた。王子の長い指が、あたしのスニーカーのひもをするりと解いたからだ。靴を脱がせるために、いつの間にか足首にもそっと手が添えられている。

「ま、待って! なにするんですか!」

「しかし脱いでいただかないことには御試着が」

「自分で脱ぎますよっ。し、試着はちゃんとしますから、勘弁してください」

あたしはすっかり王子のペースにはまっていて、情けない声で懇願していた。男の人に靴を脱がされるなんて、素足を見られるなんて、恥ずかしいことこの上ない。同じ〝素〟ならすっぴんのほうがまだましだ。そもそも、激務に追われているときは基本的にすっぴんで出社しているし、打ち合わせすらすっぴんで出向くこともある。だけど素足なんか、大人になってからは親以外ほとんど誰にも見せたことがない。あるとしても、お互いの家に泊まりあうような仲のいい女友達くらいだ。

「御試着してくださるなら構いません」

にっこりと笑って王子が身体を引く。笑顔の重圧を感じながら、背中をまるめて靴ひもを解いた。靴下を脱ぐと、手入れをしていない爪と治りかけの水ぶくれの痕があちこちに目立つ、膨らんだコッペパンみたいな足があらわになる(自分で言うのもなんだけどなかなか的確な比喩ひゆだ)。隠すようにストッキングを穿き、買おうとしていたベージュのパンプスに足を入れる。

ん? というあたしの微かな表情のくもりを、王子は見過ごさなかった。不格好なあたしの足は、不格好ながらにきちんとパンプスに収まっているけれど

「立ち上がってください」

王子は言い、あたしの手を取って、

「そのまま、少し歩いてみてください」

と自分も立ち上がりながら囁く。声は甘く、涼し気な顔立ちと姿勢のいい立ち姿に、まるで本物の王子様にエスコートされているみたいな気分になった。一瞬だけね。

ぎこちなく一歩踏みだすと、ぱこん、という間抜けな音を立ててパンプスのかかとが落ちた。つま先だけでかろうじて足に引っ掛かり、だらんと脱げたスリッパ状態になっている。

「あれっ!? きついのになんで?」

無意識に口にだしてから、しまった、と思った。あたしの反応は、どうやら王子にはお見通しだったらしい。を描いていた唇から、「ふふふふふ」という世にも恐ろしい笑い声が漏れた。

ふたたび前言撤回。やっぱり変人!

「先ほど、サイズはちゃんと確認した、とおっしゃいましたね。靴を脱いで、もう一度裏底をご覧ください」

従うしかないと諦めたあたしは椅子に座りなおし、履いたばかりの靴を脱いで言われた通りに引っくり返した。

さんじゅう、ろく?」

靴の裏には“36”という数字が並んでいる。確かに二十三・五センチの棚から取ったものではあったが、“23・5”という表示はどこにもない。

「その靴はインポートシューズ、日本製ではありません。ですから、サイズ表記も日本製のものとは異なります」

「異なるってじゃあ36っていうのは何センチなんですか?」

インポートなんて知らないよそんなの、二十三・五センチのところにあったんだから、そうだと思って手に取るじゃない。やや不満に思いながら質問したあたしに、王子はまたしても満足気に微笑んだ。

「いい質問です」

ぴん、と人さし指を立てる。動きがいちいち胡散臭うさんくさい男だ。

「インポートシューズというのは、基本的に日本のサイズにあてはまらないものなのです。先ずお嬢さん、そちらの靴はどの国の靴でしょう?」

「え? えーっと、メイドインフランス、ですね」

底の印字を読み上げると、王子がウンウンと頷く。

「なるほどヨーロッパの靴なのですね。日本の靴のサイズは5㎜刻み、一方ヨーロッパのサイズは⅓㎝、約3・3㎜或いは約6・6㎜刻みで作られています。たとえば23・5㎝を36½としましょう。ではその次の24・0㎝はヨーロッパのサイズでいくつになりますか?」

さんじゅう、なな?」

なにか違う、と思いながら答えると、王子の目が嬉しそうにきらりと光った。罠に掛かった獲物を見つけたと言わんばかりに。

「では37は何センチですか?」

「え? ちょ、ちょっと待って」

頭の中に数字を思い浮かべたが、あたしの答えを待たずして(たぶんはじめから待つつもりなんかなかったと思う)、王子は続けた。

「23・5㎝+0・33㎝=23・83㎝ですごくわずかですが24㎝とは誤差が生じますその上どのメーカーでもハーフサイズが作られているとは限りません36の次が37という場合も多くあります更に同じヨーロッパでもフランスとイタリアのサイズがまったく同じというわけではありませんしイギリスに関しては前述した二ヶ国とも異なりますまたインポートシューズという大きな括りの中にはアメリカもあってそちらは

「ストップ! ちょっと、ちょっと待ってってば!」

放っておくとそのまま朝まででも続きそうな言葉の羅列を力ずくで断ち切る。脳みそに無理矢理押しこんでくるみたいな、ほとんど句読点のない王子のせりふに酸欠気味になった。そんなあたしに、王子はぱちくりと目を瞬かせる。

「失礼いたしました。少々、難しかったでしょうか?」

馬鹿ばかみたいにゆっくり言われ、そうじゃなくて、と言うのも面倒になった。「いえ。大変よくわかりました」と小さな声でぶっきらぼうに答える。

「その、インポートシューズって言っても色々あるっていうのはわかりました。えーと、つまりあたしがいま試着したパンプスは、サイズが小さいから合わないってことですよね」

だから買うのは止めたほうがいいということだ。変な男だけど、無駄な買い物をしなくて済んだという点だけはよかった。

だけどと、ふと思う。だけど、サイズが小さいならどうして踵が抜けてしまったんだろう?

首を傾げながら心の中で疑問を浮かべていたあたしの目の前に、いつの間にか王子の顔が近づいてきていた。

「ぅわっ!」

「そちらの靴がお嬢さんの足に対してやや小さいのは、確かです」

間近で見る三日月形の目からは感情というものがほとんど読み取れない。

「じゃ、じゃあ、ぴったりのサイズを買えばいいんで、」

「ぴったりのサイズというのは、果たしてどういうものでしょうか」

返事など聞く気はない、とでもいうように、王子の声があたしの言葉を封じる。

「欧米人と日本人では、そもそも足のかたちが違うのです。欧米人は踵にしっかりとまるみがありますが、足の幅は狭く甲もうすい。日本人の多くは、その真逆と言ってもいいでしょう。たとえお嬢さんが36½の靴を手に取っていたとしても、いまと同じことが起きたと思いますよ。足囲しゅういはきつく、しかし踵は抜けてしまう」

そう言えば、結婚式のためにと買った黒のパンプスは日本製のものだった気がする。ヒールの高さに慣れていないぶんすぐに痛くはなるけれど、さっきみたいに踵がぱこんと抜けてしまうことはない。

「わかりました。つまり日本製のものにすれば脱げないし、幅も痛くならないってことですよね」

「短絡いえ、素直なお嬢さんですねあなたは」

笑顔でさらっと失礼なことを言われた気がして、「はい?」と睨んでみたが効果はなさそうだった。

「そうして今度は、〝日本製〟という言葉だけを信じるのでしょうか? 先程数字を信じこんだように?」

王子の表情に変化はない。だけどあたしは、なぜかひどく痛いところを突かれたような気分になった。

「こ、今度はちゃんと試着し、」

ます、まで言い終えることができなかったのは、王子の言葉にふたをされたからだ。

「そもそも、痛くならないハイヒールなど、ほとんど言語矛盾です。痛くなりにくい、というのなら百歩譲って許しましょう。しかしながら、美しさに痛みはつきもの。それがわからないようなら、お嬢さんは何度御試着されても、どれだけたくさん御購入されても、また同じことをり返すでしょう」

この痛みはなんだろう? 頭にきたのではなく、胸になにか尖ったものが刺さったみたいにずきりと痛む。むくむくと湧きでてきた怒りはむしろ、それを隠すための防御のように思われた。

「なに、それ。失礼じゃないですか? まるであたしにはヒールの靴なんか履けないって言ってるみたい」

あたしはやや震える声で言った。睨みつけても、王子の笑顔はお面のように崩れない。

「履きたいんですか?」

「は? 決まってるじゃない。必要だから買いにきてるんじゃ

勢いよく嚙みつくようにそこまで言って、ハッとした。誘導尋問でも受けたみたいに、あたしは自分で答えをだしていた。王子もまた、表情をかえたあたしに「ほらね」と言わんばかりに目を細める。

「必要だから。そのほうが見栄みばえがいいから。とりあえずその場しのぎができるものを買っておけばいい。とりあえずばれなければいい

びくりと肩をすくめたあたしに、王子の声はやや優しく変化した(ように感じられた。願望かもしれない)。

「あなたがほんとうに欲しいものはなんですか?」

なにも言えなかった。

とりあえず、会える数時間だけでも小畑さんの目に〝女の子〟として映れば。

とりあえず、こんなずぼらなあたしを隠せたら。

気持ちを言えなくてもいい。受け入れてもらおうなんて思わない。とりあえず、ただ

その〝とりあえず〟は、小畑さんに対してだけじゃない。

とりあえず先輩から怒鳴られるのを回避できたら。とりあえず今回の原稿を白井さんからもらえたら。とりあえずって言葉を都合よく使いながら、あたしはその場から逃げることばかり考えている。

俯き黙りこむあたしの前に王子がふたたび跪いた。それから、さっきまであたしが履いていたスニーカーを手に取る。

「なかなか可愛らしいデザインの運動靴ですね」

あたしに対してというより、ひとりごとのように言った。決して綺麗ではないスニーカーを、王子は丁寧ていねいに両手で包みこむ。

見上げると、所々黒ずんだ靴ひもをおもむろに指先でまんでそのままするすると引き抜いた。

ストッキングが入っていたぺたんこのポケットから、今度は柔らかそうな布がでてきた。王子がそれで全体を軽く拭うと、こまかなごみやほこりが取り払われたスニーカーはやや生き返ったように感じられた。ストッキング、布に引き続き、次にポケットからでてきたのは、くるりと一つの束にまとめられた新しい靴ひもだ。王子のポケットは、どこかべつの時空と繫がっているのだろうか。

「失礼いたします。足を」

口をぽかんと開けながら見ていると、すっと手のひらがさしだされた。舞踏会でお姫さまに向かって、「お手を」と言う王子様みたい。間抜けな顔のまま視線を下に遣ると、細長い指の、物凄く綺麗な手があった。

「えっ」

「お嬢さんの足を、ここに」

「ええっ。き、汚いですよ」

「ここに」

まごつくあたしに王子はきっぱりと言った。大声ではないし怒ってもいないのに(それどころか笑顔なのに)、なぜか断れない迫力がある。

なぜそんなことができたのか、自分でもわからない。ただ、王子にみちびかれたとしか言いようがない。あたしは真っ赤な顔できょろきょろと視線をさ迷わせながら、そっと足をさしだした。お世辞にも綺麗とは言えない、ずんぐりした足だ。

王子は慣れた手つきでストッキングを脱がせると、あたしの素足をじっと見つめた。

「美しい足ですよ。きちんとサイズの合った運動靴を履かれて、守られてきた足だ。あなたはせっかくのそれを傷つけてしまった。その傷や痛みがあなたの自信にかわるなら構いません。ただ、あなたはそれを望んでいない」

下からじっと見つめられ、あたしも見つめ返した。どきどきしたけれど、それはときめきではない。あたしの目の前にあるのは、男の目ではなく一枚の鏡。曇りのないそこに映っている自分を、どきどきしながら見つめていたのだ。

あたしが望んでいること。

言ってほしい言葉。

伝えたい気持ち。

よく考えて、と鏡の中の自分が言う。とりあえずじゃなくって、逃げずに、噓をつかずに、よく考えてみて。

あたしの思っている女の子っていうのは、好きでもない服を着て、履き慣れない靴を履いている子のことなんだろうか?

王子が瞬きをする。鏡が、男の目に戻る。その段になって、恥ずかしさから目をらした。

「これは僕からの、ちょっとしたプレゼントです」

そっと足を離すと、王子は先程ポケットからだした新しい靴ひもをあたしに握らせた。

「美しい靴は、素敵な場所に連れていってくれますよ。もちろん、お嬢さんの足に似合う、美しい靴でなければなりません」

「そんな靴

あるのかな? 心の中でそう問いかけると、王子は立ち上がってからにっこりと笑った。

「ございます。美しい靴というのはそもそも、シンデレラのために作られたものですから」

それでは幸運を祈ります。

甘い、つめたい、夢の中に誘うような声で王子が囁く。目の前がすぅっと暗くなる。

あたしは、眠りに落ちていく直前のような、やや長い瞬きをする。

ん、お姉さん!」

その可愛らしい声は、どうやらあたしに向けられているようだ。

ハッと目を見開くと、目の前には色とりどりの靴がずらりと並んでいた。

ファッションビルの靴売り場は、ぎりぎりまで値下げされたセール品がごったに集められている。奥の棚の前では女性の販売員が「そちらの22・5㎝は最後の一足なんですよおー」と奇妙に高い声で言っていた。

混乱する頭でがばっと自分の足元を見下ろした。少しくたびれてはいるけれど、履き慣れたスニーカーはきっちりあたしの足を包んでいる。

どういうこと? さっきまで試着をしていて、だから素足で

「ねー。ちょっとーお姉さんってば」

あたしを覚醒させた可愛い声の主が、若干怪訝けげんな声をだした。慌てて振り返ると、そこには揃いの制服に身を包んだ、高校生の女の子たちが立っていた。

「あ

見覚えがあった。さっき、エスカレーターのそばの雑貨屋で騒いでいた女の子たちだ。

声をかけてきたのは、中でも目立って可愛い茶髪の巻き髪の子だった。ピンク色の唇をつんと尖らせ、綺麗な眉を寄せて首を傾げている。

「ご、ごめんなさい。なんですか?」

高校生のときには縁遠かったタイプの女の子たちの視線を一斉に浴びて、情けないけれど思わず丁寧語で答えてしまう。自分がいまどれだけ挙動不審かはわかっていたが、それでも笑顔を作ることはできなかった。

だっていまのいままで、あたしはロココ調の椅子に座って試着をしていたはずで、まわりには誰もあの男以外は誰もいなかったはずなのに。

青い顔をしているあたしに、「あの」と言ったのは茶髪の巻き髪ちゃんではなかった。その隣に立っていた、すらりと背の高い女の子。

確か、〝ミライ〟だ。

「大丈夫ですか? これ、落としましたよ」

ミライにさしだされたものを見て、更に言葉を失った。女の子たちがいっそう不審げに表情を曇らせる。

それは、靴ひもだった。くるりと束ねられた、真新しい靴ひも。

「ありがとうございます」

背の高いミライを見上げ、かろうじて言いながらあたしはそれを受け取った。

靴屋の王子からの、ちょっとしたプレゼントを。

駅の中のトイレに入り、鏡の前で髪を整える。隣の手洗い場を使っている大学生くらいの女の子も、鏡に顔をくっつけんばかりにして化粧けしょう直しに精をだしていた。彼女もいまから、誰かと会うのかもしれない。二月十四日菓子メーカーの陰謀いんぼうだと囁かれても、意識せずにはいられない日だ。

昨日美容院にいって染めなおした髪は、トリートメントをしてもらった甲斐あってつやつやと綺麗な栗色に輝いている。あまりに久々の訪問だったため、伸びきった根元を見た美容師が、「これもうプリンって言うかツートンですよ!」と叫んだほどだ。

気に入りの、黒のG-SHOCKで時間を確認する。“13:50”。小畑さんは五分前には待ち合わせ場所に現れる人だ。

よし! とリュックを背負いなおし、トイレをでようとしたときだった。

「あ、お姉さんちょっと」

隣でおしろいをはたきなおしていた大学生が、コンパクトをぱちんと閉じながらあたしを振り返る。

「忘れてますよ! チョコ!」

鏡の前に置いてある水色の紙袋を指して言う。「あ! すみません!」とあたしが慌てて戻ると、「いえいえ」と微笑まれた。袋に店名が入っているわけでもないし、もちろん中身が見えるわけでもないのに、大学生が迷いなく「チョコ」と言ったのがなんだかおかしかった。彼女もまた、腕に小さな紙袋をたずさえている。

改札から吐きだされる人の数は、平日のそれに比べるとやはり多い。中でもカップルが目立つように感じるのは、今日という日を意識しすぎて緊張しているせいかもしれない。

「岸本さん、こんにちは」

紺色のダッフルコートを着た、やっぱりどことなく学生みたいな小畑さんが手を振りながらやってきた。格好についてどう思われるだろうかと心臓をばくばくさせながら、

「お疲れさまです」

と頭を下げる。会った途端お疲れさまですは変だったかな、と顔を上げると、やや上のほうから「はい、お疲れさまです」という温かな声が降ってくる。ああ、結構背の高い人だったんだな、と思った。ヒールを履いていたら、気付かなかったことだ。

「あの、今日、え、駅前の喫茶店でもいいんですけど、混んでるかもしれないし、日曜日だから、」

会話に伏線を張ってしまうのはあたしの癖だ。回りくどいってわかっていても、なるべく誤解のないように伝えたくてそうなってしまう。それで結局しどろもどろになって、上手く伝わらないっていうのがオチなんだけど。

ああ、気合い入れてきたのに。スムーズにカフェに誘うためのせりふだって考えていたし、なんなら原稿まで書いて赤も入れたのに。

「つまり、その、」

「ゆっくりでいいですよ」

尻すぼみになりかけたあたしの言葉をすくうように、いつもより少し遠い距離から声が聞こえた。

へどもどとさ迷わせていた視線を合わせると、小畑さんがにこっと笑った。寒さのせいか、頰と鼻の頭がじんわり赤くなっている。そう言えば、寒いのは苦手だって言っていたはずだ。それなのに。

優しいなあ、って思ったら、鼻の奥がツンとした。あたしに向けられた笑顔に、一ミリも恋が含まれていないってことがわかっているから。

このままなにも言わずにいれば、いつまでもこの笑顔を向けてもらえることがわかっているから。

だけどあたしはもう、なにも言わずに逃げだすことはしたくない。

訊いてみたいことが、話したいことが、たくさんある。どんな女の子がタイプかとか、どんな服装が好きかなんてことじゃない。

小さい頃、一番好きだった作家を教えてください。おうちにはどんな本がありましたか?

あたしは恋愛小説が好きなんです。あたしの家に、小畑さんのデザインした本がありました。知らずに買ってたんです。びっくりでしょう?

小畑さんの作る本、好きです。小畑さんのことも好きです。だから

ゆっくり、話がしたいです」

明日にしようとか、今度会ったときにっていうのはもうやめる。

うっかり涙声になってしまった。小畑さんはやや不思議そうに首を傾げていたけれど、「寒いですね」と鼻をすすって誤魔化したら、「ほんとうに」と言って微笑みなおした。

「お店、入りましょうか」

歩きだした小畑さんに、あたしは思わず「あっ」と叫んだ。告白する前から感傷に浸っている場合ではない。落ちついた場所でチョコレートを渡すというミッションを果たさなければ。

「え?」

「あのっ! ですから!」

軌道修正にかかったあたしの後ろを、いかにもやんちゃそうな男子学生の集団がぞろぞろと通っていった。

その中の一人が大きな声で言った。

「っていうかうちのクラスの女子さー友チョコとか言って自分らではチョコ渡しあったりしてんのに、俺らには一個もくれないんだぜ。まじケチじゃねえ?」

あまりにタイミングのいい話題に、思わず固まってしまった。そんなあたしをよそに、男子学生の会話は続いた。

「ばーか、お前の見てないとこで渡してるよ、男にも!」

「お前が貰ってないだけだって!」

げらげらと笑い声が広がるが、最初に話しだした男の子が不服気に言い放った。

「じゃあなんだよ、お前ら誰か貰ったのかよ」

そこでいったん沈黙が落ちた。わかりやすく勢いをなくした会話に、小畑さんがたまらずといった具合にくすくす笑う。

「そうか、バレンタインデーなんですね、今日。あんまり縁のないイベントだからすっかり忘れてました」

え、意外、という気持ちと、デカい声の男子学生に救われたような気持ちとで、やっぱり治まらない心臓を押さえながらあたしは言った。

「そ、そうなんです。だから駅前の喫茶店じゃなくて、素敵なカフェを知ってるんでいきませんか! 少し歩くんですけど!」

きょとん、と不思議そうな顔をする小畑さんを見て、あたしは自分のせりふが支離滅裂しりめつれつになっていたことに気付いた。「だから駅前の喫茶店じゃなくて」って、その言い方じゃあバレンタインデーだから素敵なカフェにいきたい、というふうに聞こえてしまう。

いやほんとうはそうなんだけど、そうじゃなくて、混んでるかもしれないからって先に言わなきゃいけなかったんだ。

ぐるぐると頭の中で考えていたら、小畑さんがのんびりした声で、「カフェか。ゆっくりできそうでいいですね」と言った。

「あ、でも、結構歩くんだったら岸本さん靴

気遣わしげに言った小畑さんの視線の先には、白いスニーカーがあった。あたしは背筋をしゃきっと伸ばして、大きな声で言った。

「大丈夫です! いつでも、どこまででも歩けるように、普段はスニーカーですから!」

小畑さんの瞳に映っているであろう、本日の自分を思い浮かべる。

裏地に温かなボアのついたカーキ色のモッズコート。クリーム色を基調としたカウチンセーターに、ネイビーのワイドデニムパンツ。ノートパソコンがしっかり入る大きなリュックはスポーツブランドのもので、足元も同じブランドのいつも履いているスニーカーである。

全体的にもこもこと着ぶくれしているし、色気も女の子らしさも全然ない。だけど、これがあたしの勝負服だ。重い本も原稿もリュックに仕舞ってしっかり背負えるし、いつどこから呼びつけられても走って電車に飛びのれる。

新しいものは、白いスニーカーの靴ひもだけ。でもそれだけで、靴が少し綺麗に見えるから不思議だ。

あたしの勢いがおかしかったのか小畑さんは一瞬目をまるくしたけれど、目尻に皺をきゅっと寄せる彼特有の笑い方で笑った。

「いいですね、たくさん歩けるスニーカー。編集者! って感じで、岸本さんによく似合ってますよ」

女の子として、小畑さんの目に映りたい。いつかは、映れたらいいなって思う。

だけどその前に、編集者として言うんだ。

あなたがあたしのデビュー作です。あなたがあたしのはじめてですって。

いままで見てきたラブストーリーの主人公は、いつでも可愛い女の子だ。たとえ最初は冴えなくても、恋をするだけでたちまち美人になる。

だけどいまの時代、そんなのちょっと物足りない。眼鏡めがねを外せば美人? メイクをかえれば美人? いやいや、読者の目って肥えているのだ。一筋縄ではいかない。「可愛ければいいってもんじゃないですよ。人生って甘いばっかりじゃなくて、結構辛いんですから」あたしが夢見た編集者・岸本たまみなら言うだろう。「だけど必ず、最後は素敵な物語にしてみせましょう」そうつけ加えることも、忘れずに。

そんなラブストーリーなら

こういう靴を履いたシンデレラがいたって

いいよね?

もちろんですよ、シンデレラ

靴屋の王子の声が、あたしの背中をそっと押した。

* fin *