約束の国前日譚 蒼旗を掲げて

カルロ・ゼン 巖本英利

祖国解放と首都奪還のため、パルチザンの青年二人は戦地へ赴くーー。『約束の国』前日譚、カレンダー小説で期間限定公開!

此処ここで見上げた空も、あおかった。

地名を書けないのは、何時いつもと同じく軍機ぐんきなのでご容赦ようしゃ願いたい。

さて、つまりは僕の近況は相変わらずということ。雲ひとつないその群青色ぐんじょういろの空の下で、僕達は今日もまた戦争をやっている。言葉に厳密さを求めるならば争いを終わらせるために、銃を手に取っているんだろうと僕は考えることにしている。

たぶん、詩的に過ぎるとコレを読んで君は笑うことだろう。

君は何時だって僕の事を夢見がちな若者だとそのどこか困ったような笑顔でたしなめていたのを覚えているかな? 案外、言われた方は覚えているものなのだね。だから、たぶん、今でも、君は僕の事をどうしようもないロマン主義者だとあきれ果ててしまっているんだろうなぁと思いながら、それでも秋空の蒼さばかり眺めている。

さてさて、ロマン主義についてはお互い様さ、と僕は君に前の手紙で書いたけれど、急な事情で書き始めているためにこの手紙を書いている時点では前の手紙に対する返事をまだ受け取れていない。(なので、君が前の手紙になんと応じるつもりなのかは分かっていないし、手紙の到着が前後していたらご容赦を)

だから全てが憶測だけど、僕が先に送った手紙が無事に届いていれば、君から返されているのは案外、そうなのかもね、と笑いとばす手紙かもしれないし、逆に『一緒にしないで』と苦笑する反駁はんばくの手紙かもしれない。

ひょっとしたら君のことだから、あるいは緻密な理屈で僕の感情から出てくるへっぽこ理屈を再会したときに凹ますと意気込みつつ、文面だけはもっともらしいことを書いて、僕が忘れたころに一杯食わせるなんて深慮遠謀しんりょえんぼうを企んでいるかもしれないけどね。

いずれにしても便りが届けばの話。なのでちょっと困惑しながら書く羽目になっている。変な文章じゃないのかとも案じるばかりで上手くかけないなぁともう降参。

いや、なんだか、変な気持ちになるものだね。

入隊して、ヒルトリア・パルチザン部隊の兵士としてそれなりに経験を積んだつもりだったんだけど、こういうのは初めてなんだ。

変なもので、何を書けばよいのか見当もつかず、さりとて何も書かないわけにはいかない。だから、案じるよりもいっそ行動あるのみと初めて手紙を書くような気持ちでペンを握ったものの、結局、取りとめもない文章になり文才が僕にはないのだろうと諦めるほかなさそうだ。

まったくこの遺書、というヤツは困りものだね。

自分の死後に届けられる手紙だからね。遺書に返信を求めるのも変だし、さりとて箇条書きに何かを伝達するというのも違うらしい。だから、こうして支離滅裂な系列で手紙を書いているんだ。初めてで、何を書けばいいのかなんて正直よく分からないし。

そういう次第で、ペンの進むままにこの手紙を書くに至った経緯でも説明しようかな。

僕達の中隊長、ああ、名前は書いちゃいけないらしいので、B中尉と書くことになっているんだけど、彼から、僕らが一番自分の思いを伝えておきたい相手に最後に伝えたいことを思い残すことがないよう書いておくように、といわれているんだ。

何か、僕が君に言い残すことがあれば、とね』

そこまで書いたとき、彼はふと文面を読み返し、あまりのずかしさに思わず握り締めていたペンを止めて悶絶してしまっていた。

きちんと、遺書だと分かるように『この手紙が貴方の手元に届くころには、私は死んでいると思います』とか、そういう一節でも冒頭に入れておくべきだったのだ。

これでは、まるで愛の告白だ。

まるでというか、まんま、告白文そのものだ。

そりゃ、彼女だって分かってくれるだろうけど

駐屯地のバラックに設けられた衛生兵らの宿直控え室。そこで書き物を行っていた彼は、机の上に広げられた書きかけの手紙を前に自分の黒髪をむしって煩悶はんもんに苦しんでいた。

だから、自分の背中には面白いことを嗅ぎ付けることにかけては中隊随一の相棒がやってきていたのだ、ということをウッカリ失念してしまう。

「おや、同志ケリーちゃん、そんなに顔を赤らめてどうしたんだい」

言葉と同時にひょいっと背後から忍び寄ってきた手。

その俊敏しゅんびんかつ意外にもしなやかな手は書きかけの手紙をあっさりとつかむなり、さっとひったくる。そうして、その盗人は白昼堂々の戦利品に眼を通すなり、クスクスと耐えかねたように笑い出していた。

「おやおや、これはこれは。なんとも、濃厚な愛の語り合いですかな? 読んでいるこっちが恥ずかしくなるほど随分と情熱的なお手紙だな、君のは!」

その面白がる声はもう聞きなれたものだ。なんなれば、ペアであるミハイル衛生兵の何時もの笑い声は聞き間違えようがない。

彼は、自分と殆ど同年代でありながらずっと先に解放闘争に加わった練達の戦士だとケイリーは一応知っている。尊敬すべき同志なのだが、悲しいかな、そのミハイル衛生兵にはたった一つだけ性格に重大な欠点がある。

「また、君はそうからかう気か!」

「おいおい、そう熱くなるなよケリーちゃん。マナーが大事だってママは教えてくれなかったのかな?」

いつものことだが、その稚気ちきはやはりケイリーにとってしゃくさわるのだ。だから、彼、ケイリー・カラジョルジョはむすっとした表情で出来るだけ自分の不快感を伝えようと硬い声で手紙を返すように、と応じていた。

「同志ミハイル、同志の手紙を勝手に読むものじゃないし、僕はケイリーだ。そして、それは書きかけなんだ、はやく、返したまえ」

「はいはい、同志。君の恋路を邪魔しようとは思わないからね。その情熱的なラブレターはなるべく早めにきっちりと仕上げて、投函とうかん封筒でも用意したまえ」

手紙をケイリーの側に差し戻しながら、次の定期軍用郵便は明日の朝集荷だったはずだぞと口にするミハイルはどこか呆れ顔だった。その呆れ顔に混じっているからかいの色合いに溜息を漏らしつつ、こんなミハイル相手だからこそケイリーは殊更ことさらに真剣な態度でペースに巻き込まれないように自分の立場を確固として引き締めて反駁する。

これは司令部に預けるやつの書きかけだから、と。

「おいおい、正気か? こんな熱々のラブレターなんだ。早く送ってしまえ」

もちろん、ケイリーとて自分の手紙がいまひとつ遺書としては甘酸っぱすぎると冷かされずともその程度は既に理解してしまっている。誰だって告白文を無意識のうちに書いていれば、気恥ずかしくもなろうものだ。

それをさっさと投函しろとおちょくられれば意固地にならざるをえない。

「同志、正直なところ、君が同志であることが僕にはたまに理解できない」

意地を張っているという自覚がこぼした言葉。

「同志ケイリー、それは単純に君がまだ年若く、世事に通じていないからだろう。断言しておくが、年長者の助言というのはその歳にならねばありがたみが分からないものなのだよ。私自身、若いころは

「ミハイル! 君と僕の歳は、たった一ヶ月しか、違わないぞ!」

だが、それでも。

いかにも、真理を若者に告げようという風体で重々しい口調を敢えてとるミハイルの稚気には流石さすがにケイリーも言わざるを得ない。幾らなんでも、一年の殆どを同じ歳で過ごす君に若輩者じゃくはいもの扱いされたくはないぞ、と。

「だが君はまだ未成年なのだぞ。そして、この私ことミハイル・バルトンはえあるヒルトリア共産党の成年党員である。であるからして、党のうるわしい伝統に従えば君を善導する義務が私にはあるというわけだ」

そのくそ真面目な表情で、淡々と語る有様の胡散臭さといったら詐欺師さぎしそのものだ。だから、噓だろうと条件反射的に叫びかけたところで、しかし、ケイリーは少し考え直す。確かに胡散臭いが、ミハイルは自分よりもいくらかは経験豊かな古参だ。案外、伝統についてだけは真実を語っているのかもしれないと。

いつから、そんな伝統が出来たんだ?」

「つい五分前から、ヒルトリア・パルチザンの同志達が保持する実に由緒正しい麗しくそして英知に富む実に示唆的な伝統だ」

「つまりそれは、君のでっちあげだろう!」

少し、真実を見つけてやろうと虎視眈々と相手の様子を窺うつもりで訊ねるケイリーの鋭鋒えいほうは、あっさりと手ごたえのないミハイルの笑みにかき消されてしまっていた。

頭を絞ったつもりが、結局、盛大な空回り。そう分かっているからこそ、少し声を張り上げてしまうケイリーだが、その程度ではミハイルの面の分厚さには一ミリも損傷を与えることはできないらしい。

古参の人間は、これだから苦手だと頭を押さえてケイリーは嘆くしかないのだ。いや、自分に限らず新しくパルチザンに参加した面々は全員だろう。良くも悪くも、パルチザンではその手の軽い冗談が奨励しょうれいされているので誰もが慣れるしかない。

「いやいや、始めは誰かの創意工夫もよい習慣として年月を重ねていけば、麗しい伝統となるわけだ。それが、たとえ始まったのが五分前であったとしても、だぞ」

「ミハイル。こんなときなんだぞ、もう少しデリカシーを考えてくれないのか、君は」

だから、素直に書き直すから終わるまで放置しておいてくれよと机に向かいなおそうとしたところでしかしケイリーはミハイルに肩をつかまれて引き止められていた。

「ケイリー、そりゃ、こっちの台詞せりふだよ。正直、君は自分が書いているのをなんなのか理解しているのか?」

「見て分からないのか? 遺書だよ、遺書。君だって書いただろう? 中隊長が、パルチザン司令部に預けとけっていうから、今のうちに書こうとしているんじゃないか」

闘争と抵抗の歴史において、潮流が変わって以来、パルチザン部隊はようやく確固たる聖域を確保し、組織機構の整備も行い始めつつあった。ケイリー自身、部隊が頼もしくなるのは結構だし、共に戦う人々に何がしかの語り告げる思いを大切にしたいという上の心配りには大賛成だ。

が、それは原則論である。なにしろ、彼は手元で散々苦悩する羽目になっている遺書という難物にはほとほと手を焼いている。

漸く、組織が整ってきたパルチザン部隊でせめて遺族に何がしかの言葉でも残せないのかと発案されたとき、遺書を保管する体制を整え始めることに誰もが賛成した。それは、いいことだろう、と。だが最初こそ任意であったそれも遂に今月から全員が提出しろと義務化された瞬間に大多数の兵士達はハタと困惑するのだ。そうか、自分も書くのか、と。

それでも、年長者らは割合順当に家族への言葉を、子供達に語り継ぐ思いを、自分の言葉で綴れるものは自分で、出来ないものは戦友に頼んで、各々書き記したものだった。

そうして、若い独身の兵士達だけが遺書を残していないことに気が付いた上のお節介屋がせっついたのだろう。お陰で、まだ未提出だったケイリーを含めた若者達に中隊長からお節介な催促が出され、期日までに提出を求められて困惑しながら取り組んでいるのだ。

「大変結構。君、実は、馬鹿だろ? それとも、恐ろしく陰湿なのか?」

「意味が分からない。なぁ、僕らは同じ衛生兵としてやってきた仲だろう? 変に絡むのはやめてくれよ」

「はぁ

そうして、深々と溜息を漏らした後、ミハイルは天を仰いで大げさに神よ、と頭を支えて嘆くという器用なそぶりをやってみせる。ケイリーのみるところ、この戦友ときたらまったく、つくづく人を苛立たせるのが上手な男だと思わざるを得ない。

「あのな、遺書なんだぞ、遺書

「いや、言われずとも分かるよ、それくらい」

当たり前だろう、君は何を言っているんだとまじまじと問う視線をミハイルにぶつけるケイリーにしてみれば、逆に彼が戦争神経症でも患っているんじゃないかと本気で案じ始めていた。

突然、変なことを言い出す同志だなぁというケイリーの視線を浴びせられたミハイル。しかし、彼は逆にケイリーにお前こそ正気かという問いを目線に載せて投げかえす。

「ミハイル、説明してくれ。君は、何が言いたいのかな?」

そうして『理解できないぞ』と再び目線で問われていたことを悟ったミハイルは遂に諦観と共に同志ケイリーの肩に手を伸ばすと重々しく真理を告げてやる。

「遺書で告白する馬鹿があるか! そんなモノを渡される相手の身にもなってみろよ。第一、君の片思いならまだともかくだ、この文面だと割合深い仲の子がいるんだろう? なんて残酷なことをやらかす気なんだ、この唐変木とうへんぼく

「え? あっ!?」

はぁ、と溜息をこれ見よがしに漏らしつつ、自分が何をやらかしているのか理解していなかったと思しき間抜けに対して彼はぽんぽんと肩を叩きながら言葉をかける。

「せめて、普通に告白するか、解放が終わるまで黙ってろよ。相手のことを大切に思うなら、どっちかを考えておくのがパルチザン兵士の義務だろう? 個人的には、後悔しない様にさっさと告白してしまえと思うがね」

まったく、甘酸っぱい若造の恋愛には胸焼けする思いだねと軽口を叩きながらミハイルが煙草たばこくわえて一服する合間、フリーズしきっていたケイリー。

ケイリーが漸く再起動し、手紙を始めから書き直し始めたところでふとミハイルはたずねていた。それこそなんと言うこともないちょっとした好奇心によって発せられた他愛もない雑談の延長にある問いかけ。

「それで? 折角だから、故郷に残してきた相手のことぐらい聞かせてくれよ」

どうせ、のろけ話なんだろう? と好奇心もあらわに野次馬根性丸出しで一切合財を聞き出そうと声をかけてくるミハイルに少し辟易としつつも、まあ、隠すことでもないかとケイリーも口をあっさりと割る。

「ああ、まあ、幼いころからの友人なんだよ」

別に、珍しくもない話だ。同郷で、その縁で小さいころから一緒に遊んだ仲だった。

彼の故郷の村は、それなりに大きい方であったがとはいえやはり規模は村だった。同じ年頃の遊び仲間なんて、限られていて、遊び場も自然と重なる。そうであるが為に、気が付けば何時の間にか遊ぶ仲間として彼女と遊んでいた。

農閑期のうかんきの雪合戦や、農繁期のうはんきの助け合いといったところでたまに一緒になっていくうちにお互いを意識し始めるという平凡な恋愛の始まり。だが、当人達にとって見ればそれはお互いに大切にしたい感情だった。

そのことまでをケイリーがやや照れながらも口にし終えたとき、ミハイルはつくづく呆れ果てた声で吐き出していた。

「さっさとくっ付けよ、馬鹿野郎」

「色々あるんだ」

「色々っていったって、肝心のところは相思相愛だろ?」

そこまでお膳立てされているならば、はやく安心させてやれよというのがミハイルの正直な感想だった。ミハイルにしてみれば、話を聞く限りにおいて両想いの相手で躊躇ちゅうちょして逡巡しゅんじゅんするのは馬鹿げている。

「ケイリー、考えてみれば分かる話だぞ。今伝えなければ、いつ、伝えるんだよ」

むしろ、こんな時代だからこそはっきりと想いのほどを伝えておかねば、後悔することになりかねない。

「彼女の名前、ナタリアっていうんだよ、ナタリア・ジェラード」

「ああ、良い名前だな」

だから。

なんなら、今からでも手紙を書けよと促しかけていたミハイルはその言葉の意味を一瞬だけ、理解しそびれていた。

って、それは?」

が、ナタリアかぁと頭で反芻した彼は漸くそこで気が付き今までとは違った視線をケイリーに向ける。

その名前はつまり。

「うん、僕はカレード。彼女はナーシュだ。ご近所だけどね、だからこそ、小さいころはともかく、歳を取ってからは

後は、言われずとも察しがつくというやつだ。

ミハイルは漸く、自分が無意識のうちにケイリーの想い人がカレード系の人間だと思い込んでいた事実を認め、こみ上げてくる苦々しい感情に向き合わざるを得なくなっていた。

まったく、と半ば自己嫌悪さえこもるその感情。

「どこもしかり、か」

だから、ミハイルは肩をすくめてやれやれとぼやく。それは実に根が深い問題だ。ヒルトリア地方、と呼ばれるヒルトリア全域に住まう諸民族。その諸民族にとって、長らく隣人というのは信用の対象ではなく、警戒すべき他者だった。

だった、と過去形で語れることを喜ぶべきか、悲しむべきか、大多数のヒルトリア地方の住人は未だ決しかねることだろう。

しかし、パルチザンに参加するヒルトリア人は違う。今やかつての隣人を『敵』と見做みなす違う国々の尖兵せんぺいとして相争い、そして、遂に隣人同士で武器を向け合い、血を流すことの不毛さを悟ればこそ諸外国からの干渉を退けようという点で団結し始めている。

だが、同時に彼は否応なく民族間の不信がどれ程根深いものかも実感して生きてきた。他民族の友人にはなれる。戦友にもなれる。だが、最後に信じる兄弟として頼れるかという最後の一線で壁は厳然として今なお聳え立っていた。

だからこそ、彼はケイリーの微笑ましい恋愛感情を笑いながらも決して否定する気にはなれないのだ。

「ふむ。じゃあ、いい機会だ。折角だしな」

「ミハイル?」

「ケイリー、なあ、君はミハイルという名前をどう思う?」

だから、彼は無意識のうちに同類意識とも仲間意識とも形容しがたいある種の親和感のままに、あまり話さない身の上話を始めていた。

「どうってあんまり、聞かない名前だとは思うけど、特には。ううん、強いて言えば、異国の名前かな?」

「やっぱりか。いや、よかった」

自分の名前。ヒルトリアにあっては、異例とも言うべき民族識別が可能なパターンを含まない個人名。ミハイル、というのはヒルトリアにあってはなるほど異郷の響きに満ちた名前だろう。

「そのよかった、ってのは一体なんなんだい?」

「いやな、そのもともとの名前は、シュルツだよ、シュルツ・バクスターが本名だ。改名したんだよ」

サルニア系の家族の下に生まれた倅、それが、親から与えられたシュルツの名前に付きまとう符丁だ。それは、ミハイルと名乗っている男にとってみれば別に忌み嫌うべき理由がある名前じゃない。

家族は愛していたし、父と母から与えられた名前には愛着と誇りもあった。たぶん、両親も自分のことを誇りに思ってくれると思う。祖霊それいの土地、家族と先達の遺骨が眠る故郷の村は、今でも、自分がパルチザンに身を投じたときと同じままであると耳にする。

できることならば、自分もその一人として墓守はかもりを一族の男達と同じように務めることも真剣に考えた。先祖の眠る土地を守る、という意識。だが、だからこそ、彼は悩んだ末にシュルツの名を埋めてミハイルと名乗っている。

「え? そりゃ初めて聞いた。君とは、けっこう長い付き合いだと思っていたけど、いつ変えたんだ?」

「第一次対パルチザン攻勢で、解放区が崩壊したときからさ」

それは、苦渋の経験からの結論。ヒルトリア・パルチザン部隊が結成された最初期に、彼は、当時のシュルツ・バクスターは隣人に武器を向けるよりずっと未来が明るそうだ、と歳を偽って意気揚々と入隊していた。

幸か不幸か、その時、彼の年齢詐称は今にして思えば見抜かれていたのかもしれない。お陰で、衛生兵という自分の志望とは真逆な仕事を割り当てられたのだろう。それでも最前線に出たいとぶうぶう言いながらも、同じくパルチザンに参加していた数少ない医師たちの下で衛生兵としての訓練を泥縄式ながら受けていた。そうして、初めての解放区が陥落するその現場で彼は砲火の洗礼を浴びる。

「その時、決断したんだよ」

「そりゃまた、何で?」

だからこそ、『まだ理由を理解していない』ケイリーのあり方にミハイルは素直に感動し、かつ、どこかで困惑さえできる。昔のパルチザン仲間ならば、或いは、あの最初期を経験している人間ならば誰でもピンと来るのだが。

「ケイリー、実家は農家かい?」

「そうだよ。というか、だいたい皆、ほとんどが都市労働者かそれこその農家のせがれなんだから、何を今更」

「察しが悪いやつだなぁ。シュルツなんてサルニア系だって分かる名前だろう?」

「僕だってそれぐらいは分かるよ」

分かるよ、と自信満々に言われたところでケイリーの回答は実にピントがずれていて、だからこそ、それは、彼にとっては『感激モノ』なのだ。

「衛生兵だったからだよ、その時も」

「は?」

それが、だから、どうしたんだろうかというケイリーの反応。衛生兵だったんだよ、第一次対パルチザン攻勢を受けたときも、と口にする側にしてみれば苦悩の告白のつもりなのだが。

とはいえ、それはある程度経験を積んで初めて理解できる色々な側面があるものだ。

「まあ、呼ばれる側だからなぁ、こっちは。やはりなかなか気が付かないものか」

自分達は、衛生兵。つまり、良くも悪くも、誰かが負傷しない限り、前線の仲間たちからは呼ばれない。誰だって、衛生兵に機関銃手を務めろとか、工兵機材をかついで敵の火力点を爆破してこいなんて普通は要求しない。中隊の衛生兵とは、万難を排して小隊や中隊の仲間の下に駆けつけて彼らを救い出すのが仕事なのだ。

だから、逆説的ながらもミハイルにしてみれば察しが悪いケイリーの姿にはいっそ微笑ましい感情さえ抱くことができる。自分でさえも、無意識のうちに同族同士でくっ付くものだとばかり思い込んでいた障壁をひょいと隣の戦友が乗り越えているという事実。それこそがミハイルにとってこの戦いが無為でないことを教えてくれるのだから。

「はい?」

「君の故郷で考えてくれよ。何か一族に不幸があったとき、呼べたとしたらだが、医者や神父、あるいは墓堀人はかほりにんは誰を呼ぶ?」

「そりゃ、親戚

他方、その深い感動を表面上はなんともないように包み込んで説諭せつゆするかのような口調で言葉をミハイルがつむいだが故にケイリーは少しだけ、ピントがずれた解釈をしてしまう。というよりは、誘導された、というべきだろうが。

またやらかしたのか、とそこでケイリーは自分がどうも頭の回転が遅くなっているというか、ピントを上手く捉えられていないことに困惑しつつも、しかし、少なくともコレまで『ミハイル』と呼んでいた隣の戦友の言わんとするところを漸くおぼろげながら理解し始めていた。

本当に、困ったとき。

或いは、どうしようもなくなったとき。

人間というのは分かっているつもりでも、つい、疑ってしまうものだ。

果たして、彼らは自分を、『違う民族の自分』を『本当に、自分達の兄弟と同じように』助けてくれるだろうか、と。だから、つい同族を頼ってしまう。

「仲が良かったつもりでも、気が付けば案外、そういうときに本音が出るんだよ。まあ、単に習慣かもしれないけどな」

「ミハイル、その」

「行けなかった時の言葉はいつまでも思い出してしまう。あいつは、『サルニア』だから助けに来てくれなかった、と思われたくはないんだ」

衛生兵にとって、いかに最善を尽くそうとも戦場で助けられる仲間と助けられない仲間が出てきてしまう。極限では、不信の呼び水となりえるのだ。民族の違い、という一滴は。

その一滴が普段ならば決壊することのない良識や兄弟愛、同志愛を乗り越えて噴出させるものなのだ。

古い、憎悪を。

不信を。

そして、どうしよもない自己嫌悪を。

なんとなく、分かった気がする」

「だろ? だからさ、あの時、解放区から脱出した後だったかな、僕らは皆でヒルトリア・パルチザン司令部に言ってやったんだ。全員、改名して民族名が分からないようにすべきだ、ってね」

だから、その時初めてケイリーは今までとは違った視線をミハイルに向ける。同じ衛生兵として、同じ戦場で、同じ釜の飯を食らった戦友。だからこそ、彼の意外な一面には大真面目に天地がひっくり返ったような衝撃を受けてしまう。

「本当かい?」

「大真面目さ。上で散々議論した挙句、改名の強制もまた良くないが、個々人でやる分には差し支え無しだとさ。まあ、政治というヤツなんだろうな」

「道理で昔からの衛生兵たちには外国名が多いと思っていたんだ」

だが、言われてみれば釈然とする部分が多いのだとケイリーはふと悟る。むしろ、指摘されるまで何故自分はそんなことにも気が付かないでいたのだろうか? とケイリーとしては本気で自分のお気楽さに悩みたいほどだった。

実はミハイルにとってその無造作な対応こそが喜びであり、斬新な驚きなのだが。

「まあ、積極的に喧伝する話でもないからなぁ。それに、ケイリーは歩兵からの転属というか、パリウス軍医に徴募ちょうぼされた元歩兵だろ? 知らなかったのは無理もない。だけど、だからこそ、本当にすごいことなんだ」

そのケイリーの困惑を彼の顔面で読みとればこそ、そうさ、と頷いてミハイルはケイリーの推察が正しいことを肯定して説明してみせる。医療関係者には、取り分け妙な響きの名前が多いだろ? と。そうして、だからこそ珍しくまっすぐな眼差しで何のてらいもなくミハイルはそれを口にする。

ケイリーが無邪気に示す無頓着さが、それこそ自分達にとっては奇跡なんだ、と。

「最近の衛生兵が、そういう民族名に無頓着になれるってことは逆に戦友意識が民族意識を超えて普遍化されているって証左なんだ。誰も、大きな声じゃ言わない。でもたぶん、本当にこれはすごいことだ」

「うーん、妙に話が壮大になるなぁ。ミハイル、君、僕を何時ものようにからかっているんじゃないかい?」

それこそなんのてらいもなく本音を話せる人間などいる訳がないだろうと心の底で舌を出しつつ、そうして笑ったミハイルはそこで表情をクルリと戻し、何時もの口調でちゃらけた雰囲気を取り戻す。

「はっはっはっ、案外そうかもな。僕らが真面目腐って、ありがたい道徳の会話を延々と行うということの方が、どうかしていると君はもっと早く気が付くべきだろうよ」

「ということは、やっぱり、冗談か!」

いきり立って来るケイリーの調子に合わせつつも、そこでミハイルは壁にかかっている掛け時計で時刻を悟りおや、と慌てて立ち上がっていた。

「さてね? おっといけない、こんな時間だ。そろそろ、旗の掲揚けいようだぞ」

「あの例の妙な旗の?」

「おいおい、妙な旗とは失礼な言い草だな。我らパルチザン精神を表す旗じゃないか」

「だったら、そりゃ、前までの赤旗あかはたでいいじゃないか? なんでまた、あんな妙な蒼い旗になったのか僕には良く分からないよ」

そして、ケイリーにしてみれば理解しがたい情熱を示してぜひとも立ち会いたいなどと口にし始める始末だ。どころか、奇妙な旗だなぁというケイリーの素直な感想にえらくご立腹とくれば今日の相棒はどこか妙なのは全部あの旗がらみか、とケイリーとしても漸く原因を理解しえたつもりとなるものだ。

「はぁ、リシュタイン政治委員が聞いたら泣くぞ。彼、散々説明していただろ?」

「僕は夜勤だよ。誰かに聞こうと思っていたら、今まで、聞きそびれていたんだ」

「あのなぁ。何の為に、頑張ったのか悲しくなるじゃないか」

「どうしてだい?」

「融和の色だよ、あの旗は。小恥ずかしい陳腐な君のお手紙から引用するとしたら、群青色の空の下というべきかな? 我ら、生まれは違えども、同じヒルトリアの空を仰ぎし兄弟、という宣言文を読んでないのか、君は」

「あー、そういえば、そういう紙をリシュタインさんが持ってきてくれたような」

そういえば、と思い起こしてみれば確かに夜勤をねぎらわれて缶詰を差し入れに貰ったとき、是非にと政治パンフレットの紙を貰ったような気もする。

缶詰を開けることしか考えていなかったので、今一よく覚えていないのだが確かに、なんか、そういうことが書いてあったような気もしないでは、なくもないようなと自分の記憶力を総動員しつつもその実、いや、記憶にないぞとケイリーは白旗を揚げるほかにない。

眠かったし、空腹で、なにより、負傷者の看護で疲れていたときに政治パンフレットへ真剣に視線を向けなかったというのは、別にパルチザン兵士にしてみれば、珍しくもないのだ。政治委員達が頑張っていることは理解しているのだが、ちょっと、たまには休んでもいいじゃないか、と。

「ということは、ちゃんと読んでいないな?」

「おいおい、ミハイル、何時もは君だってちゃんと読んでいないだろう!」

だからこそケイリーにしてみれば何時もは自分と同じ穴の狢であるはずのミハイルがまるで優等生じみた声でさぞ当然だろうとばかりに『そのパンフレット』とやらを読んでいるべきだ、との口調で語ることには反駁したくもなるものである。

「だからといって、コレを君は読んでいない。自分は読んでいる。これは厳然たる事実として存在することを革命的に認めるべきではないかな、同志? ほれみろ、迂闊うかつな未成年には、やはりしっかりとした年長者の善導が必要だとわかるだろ?」

「はいはい、降参、降参だよ。その紙はどこに?」

それでも、まあ読んでいないのは事実だからと手を挙げてケイリーは素直にミハイルが拘っている紙は読んでいないことを認める。ちょっと決まりが悪いなぁと思いつつ後で、時間があるときにでも読み直しておくから、ぜひとも渡してくれよ、と一言添えて。

「理解していないのは把握したから、これについては歩きながら話そうじゃないか。第一回目なんだぞ、あの我らの旗が掲揚されるのは。折角だから、遅れたくない」

「ちょっとは待ってくれよ、そんなに急がなくてもいいじゃないか」

立ち上がりながら、書きかけの手紙を後で書き直そうと行李こうりに突っ込んだケイリーはぶつぶつ言いつつ、それでも一応最低限の身なりを整えて駆け出す。気が急いているらしいミハイルの背を追うケイリーはだから、結構な距離を割合本気で走る羽目になっていたほどだ。

「君らしくもないなぁ。形式ばるのは嫌いだ、が口癖のくせに」

「形式そのものに意味はないよ。だけど、今回は意義があるのさ」

「まあ、折角だし説明してくれよ」

だから、基地の宿舎を飛び出したケイリーは三々五々と掲揚台に向かう人の中に紛れながらミハイルにいぶかしんで訊ねていた。少しは、戦友に対する相互扶助の一環として知っていることくらい説明してくれていいじゃないかとあわせて。

「じゃあ、道すがら、少し説明するとしよう。でもまあ、今回はたぶん誰かが演説で説明してくれると思うけどね」

だが、まあ、その時点でケイリーは素直に結論付けていた。

「そっちに期待するよ。いつものことではあるんだけど、ミハイル、君の話は今一、肝心なところが信用できないからね」

「随分なことを言うやつだなぁ

溜息交じりの友人には悪いけれど、誰かがしっかり説明してくれるならば、まずはそれを聞いてから話そうじゃないか、と。だから、話をしてくれる人間が姿を見せるのを待つ間にも周りの人影が続々と増えていき、最終的に集った人間の多さには改めて驚くほかなかった。

ケイリーにしてみれば、一つのイベントぐらいの軽い心持ちで顔を出した集会場だが、その場にはどこか期待感と厳粛な面持ちで大勢の仲間が集っているのだ。

有態に言えばほとんど、手隙の全部隊員が出てきたんじゃないかと思うほどの群衆。それは部隊の仲間たちが周囲一面に思い思いの格好で繰り出し、特設された掲揚台の周囲で場所を取り合っている光景だ。

党の政治集会だって、全員こんなに真面目には参集しないだろうという参加度合いにもかかわらず、そういえば、これは別に集合が強制されていなかったなぁという事実はケイリーにとってもう一度驚きをもたらすものでもある。

これは俄然がぜん、面白いことになりそうだと好奇心を刺激され始めたケイリーは、だからこそ、掲揚台の前に設けられたひな壇にヒルトリア・パルチザン評議会の評議委員が登ったときには何があってももうびっくりはしないぞ、と誓っていた。

「ヒルトリアの同志兄弟諸君!」

朗々たる声を張り上げる党の評議委員殿の声は意外と軽やかなバリトンでよく通った。

妙に演説慣れしていることといい、彼はヒルトリア五族の重鎮だろうと当りをつけるケイリーだが、実を言えばケイリーは評議委員については良く知らない。衛生兵で政治担当じゃないだけになおさらおざなりにしていたという側面もまあ、無視はできないだろうけど。

だが、それでも彼はいくつもの事実は知っている。ヒルトリア・パルチザン評議会の評議委員といえばヒルトリアでは融和と和解を呼びかけた五族の指導者達。

そんな彼らの一人が、珍妙な旗について演説のために壇上だんじょうに登ることはちょっとケイリーにしてみれば信じがたい。だから、これは、さぞ面白い話がと期待感が膨らまされたところで頃合よく評議委員は全員の期待するような視線に頷いて言葉を紡ぎ始める。

「今日、此処に我々は新たに旗を手に入れた。旗、しかし、これは単なる軍旗ではない」

一瞬、場に広がる困惑するような空気。では、しかし、何のための? と声にない疑問を一身に浴び、その評議委員はしかり、と頷き次の言葉を場に投げ出す。

「諸君、そう、これは軍旗掲揚式などではないのだ」

その言葉が十二分に行き渡った頃合を見計らうと、彼は短くそれを指摘する。

「では何だ? と同志兄弟諸君は問うだろう」

そして、それに対して幾人もがそうだ、とばかりに頷き、ケイリーもまたうんうんと無意識のうちに首肯していた。

評議委員は一体、何を発表しようというのだろうか、と釣られた彼らの好奇心。それらが最高潮に達するその時。

国旗だ!」

その一言が、一瞬、砲撃を受けたかのような衝撃を全員に走らせ、その言葉の意味を理解したときに、ヒルトリア・パルチザン部隊の面々は感情を、随喜の歓声を爆発させていた。

「これは、ヒルトリア人の、〝約束の国〟の、ヒルトリアの国旗なのだ!」

国旗!

そう、それは、国旗だ。軍旗ではなく、国旗!

ヒルトリア人の国旗!

「そう、これは我々の、他ならぬ我々に〝約束された国〟の国旗掲揚式なのだ!」

それは、喜びだった。国土を、ヒルトリアを諸外国からの干渉と支配から、解放しようと、兄弟たちの争いを乗り越え、一つの家族にならんという党の目的と理念。

「同志兄弟よ、我々は遂に家を取り戻すあと一歩のところまで来たのだ!」

それは、叶うのだ。

「さて、今日、この素晴らしい日を迎えるにあたって今一度、思い出して欲しい。我々が、同胞が、兄弟が、お互いに相争わされていた今日までの日々を」

誰にとっても、それは苦渋の想いを思い起こさざるをえない歴史だ。家族が、親戚が、知己が巻き込まれ、自ずと自分達も搦め捕られていった憎悪の連鎖。その果てに在るものを彼らは知識ではなく経験で知ってしまっている。

「同じヒルトリアの大地で生まれた我々が、同じヒルトリアの血をもつ兄弟同士で争い、そして、兄弟の血がどれほど大地にしみこんだことだろうか」

始まりは、多くがほんの些細ささいいさかいだった。誰もが、そんなことで、争うなど馬鹿げていると笑い飛ばすような些事さじと第三者ならばあきれることだろう。だが、お互いの不信感は対話ではなく暴力の連鎖を招き、最終的には引くに引けない民族間の意地の張り合いでお互いが酷く困窮こんきゅうする羽目になっていた。

語ることははばかられるが、暴力の連鎖はそれこそ何処までも際限なく加速するものだと彼らは学んだのだ。悪意の応酬の末に今尚パルチザン部隊の大多数にとっては語ることさえおぞましい蛮行ばんこうに平凡な人間でさえも手を染めてしまいえた。

「我々は、その過去を忘れない。だが、忘れないでいると同時に許すのだ。諸君、空を見上げようじゃないか」

だから、彼らは忘れない。平凡な悪を。しかし、同時に許す。それは、決して簡単なことではない。誰だって、恨みを飲み込み自分の心の底にしまいこむのは苦痛だ。

家族の遺恨を水に流すと宣言する男達は、その向かいにいる相手がどれほどの葛藤かっとうでそれを口にしたかを知っている。

許そうと理性で自分自身に言い聞かせてなお震える握り拳を誤魔化そうと腰の後ろで手を隠すポーズを決まり悪げにとったとき、彼らは隣で同じ姿勢の男達を見出す。その瞬間、全員が全員、腕を後ろで組んで強張った笑顔を浮かべていたのだ。

だが、兄弟の融和と協調だけがたった一つの解決策だと五族の指導者達が同意したその瞬間に、ヒルトリア共産党はその産声を高らかに全土に響かせたのだ。

自分達は、平等な労働者なのだ、という自覚。党の求める団結と協調は、ヒルトリアにおいて、ヒルトリア人に約束の国を建国するための兄弟愛の原理を全員に教えてくれた。

だから、今日、此処に、彼らは、同じ旗の下に集っている。

「ヒルトリアの大地は確かに兄弟の血で染まっている。だが、故郷の空を見て欲しい。同志達よ、我々はこの群青の空の下で一つの兄弟として生まれ、そして死んでいく定めなのだ。この兄弟の血に染まっていない空の下で、共に歩もうではないか!」

そうして、言われるがままに空を仰ぎ見た彼らは今日ばかりは何時もと違う思いで見慣れたはずの空を凝視する。

彼らの目の当たりにする澄み渡った群青色の空。それは、ヒルトリアに住まう人々にとって何の変哲もない空。だが、ヒルトリアの兄弟達の故郷が空なのだ。

一つの故郷、一つの家、そして、その大空を共に眺め、同じ空の下で同じ空と星星を戴天するのだ。

同志達との深い紐帯ちゅうたいによって結ばれるヒルトリアの兄弟達にとって、それはたとえどれほど別れていようとも、一つの家に住んでいるという事実を伝えてくれる。

「同じ空の下で集う五族の同志兄弟たちよ。党とて、他の同志達との連帯の紐帯を示す為に赤旗を掲げて進むべきだという同志や党友達の意見にも大いに尤もな道理があったがために躊躇っていた。党を信じ、革命のいしずえと化して先に倒れた先達の赤い血潮を旗に、というのも尤もだ。だからこそ我々が今日、このときまで国旗を決定することを躊躇ったことをどうか同志兄弟諸君にはご海容願いたい」

苦笑するケイリーの肩を、これで事情は分かったかな、同志? などと大真面目な口調で小突くミハイルに分かったよ、分かったと小声で返しつつ、ケイリーもまた厳粛な面持ちで空を仰ぎ見た一人だ。

だから、ケイリーもまた理解している。故郷の空を旗にしたのだ、と。革命の星と、祖国の空を組み合わせて五族の融和と強調をモチーフにした旗。それは、言われてみれば国旗としてこの上なくしっくりと彼の脳裏にも受け入れられている。

同じ空、同じ星、そして、ひとつの理想。

「では、何故、今、決断するのだろうか?」

だが、そうだ、とケイリーの頭は評議委員の言葉でその疑問に思い至る。何故、この国旗が今日、この日に発表されたのだろうか、と。

「同志兄弟諸君、答えはたった一つ。我々は、首都を解放する。シンギディドゥヌムを、あの白く麗しい街を取り戻そう! そうして、我々は我らの国家を、兄弟の家を、我々の家を手に入れるのだ!」

「兄弟達の力で成し遂げる解放、そして、建国だ! 党は、だからこそ、今日、この日に、諸君の集うべき旗を示すことを遂に決断したのだ」

建国の響きは、ざわめきからやがてとどろきとなって全員の心に届く。

「だから、敢えて繰り返そう。我々は、過去を忘れない。しかし、許そう。寛容の精神で以て、我々は兄弟愛によって一つの家を、家族の国家を建設するのだ。同志兄弟諸君、革命のため、解放の為、今一度、力を一つに集わせよう」

一人は皆のために、皆は一人のために。陳腐ちんぷで、どうしようもなく使い古された言葉だが、それでも、それは、ヒルトリアの地にあって兄弟と相争っていた彼らにとって魔法のような言葉だった。

「国旗に、ささげぇ、銃!!!」

感極まり、何時の間にか威儀いぎを正し、粛然しゅくぜんとした雰囲気の中で彼らは掲げられたばかりのひるがえる蒼い旗に敬意を表していた。誰ともなく、囁かれる『我らがヒルトリア』の賞賛の声は、やがて万雷のごとき万歳三唱ばんざいさんしょうに取って代わられていた。

「本日、九月一四日を以て、パルチザン評議会は以下のように宣言する」

そうして、誰もが厳粛な心境で翻る蒼い旗を仰ぐ中で、それは叫ばれる。

「解放攻勢を行う!」

轟くのは、怒濤のような応諾おうだくの叫び。その瞬間に、彼らの心は一つとなっていた。彼も、彼らも、同じように隣の戦友に叫んでいたのだ。

「さあ、奴らには我らの家から出て行ってもらうぞ!」

「そうとも、家を取り戻しに行くぞ!」

肩を組み、そして、彼らは一様に立ち上がると叫んでいた。取り戻す、と。家を、約束の国を、そうしてヒルトリアに平和を取り戻すのだ、と。

だから、彼らはその最高潮のまま軍歌を歌いながら行動を開始する。

取り戻すのだ、と。

そして、それに対する敵の抵抗は激烈だった。後のない侵略者らもまた、懸命に死に物狂いに抵抗する腹を決めていたのだろう。彼らが、これまで散々やらかしてきたことを思えば無理もない話だ。

だから、戦いは神様が休暇を取られた様相をていする。そんな戦場にあってはケイリーもまた、神様に祈るしかない。無神論が党の公式見解だろうとも、別に何を信じようが、それは個人の自由だ。

だから、その時の戦場では居合わせた全員が祈っていたことだろう。『どうか、神様。休暇は、そろそろ終えてください』と。

彼らは、今や先発していたC小隊からの悲鳴のような救援要請に何とか応じようと努力しつつ、しかし、徒労に終わるのではないかという恐怖に心臓をすくみあがらせている。

運悪く、敵の十字砲火に囚われた彼らC小隊は、命からがら街路近くの建物に逃げ込んではいる。しかし、そこで彼らは閉じ込められてしまったのだ。出ようにも、出た瞬間に敵の火線に捉えられてしまう彼ら。

助けに向かおうにも、街路の一角でこちらの頭を猛射で抑えてくる敵の火力点を前にはどうにも手が出せずにパルチザン側も手をこまねくしかない状況だった。辛うじて、というべきか供与された砲で即席ながら編成された砲兵隊が敵の火力点を潰そうと猛射を浴びせるも強固にベトンで要塞化されていると思しきトーチカ相手には遅々として状況は改善しない。

だが、放って置けば助けられる仲間も助からなくなる。そんな悲鳴に近い衛生兵を求めて叫ばれる声にいたたまれない想いに駆られかけていた、ケイリーは飛び出そうとするミハイルの背中に思わず叫んでいた。

「やめろ、ミハイル! 君まで、死ぬぞ!」

「だが、彼らが呼んでいるんだ。呼んでいるんだ、僕を、彼らが!」

だから、いかなければ、ならない。

いつになく真剣なミハイルの両眼が浮かべた叫び声を読み取ったとき、ケイリーはその時点で、反駁する言葉も、引き止める言葉も飲み込み助けを求めているC小隊が閉じ込められている家屋までの距離を目算していた。

それは、眼と鼻の先。機関銃と、狙撃兵の山盛りの悪意さえ駆け抜けてしまえば全力疾走でどうということもない距離だ。

そして、彼は。僕の戦友ミハイルは、行くつもりだ。ならば、自分も行こう。

だからケイリーは無言で頷き、その頷きに力づけられたとばかりにミハイルは深々と頷きかえし腹を決めたぞとケイリーの肩を小突くとことを始める。

「いくぞ!」

そう鋭く叫ぶなり、ぱっと飛び出す彼の背中。無我夢中のままにケイリーはほとんど条件反射でその背中に続いて走り出す。そうして自分達衛生兵が駆ける時には約束されている何時もの習慣、戦友のバックアップとばかりに味方が敵の火力点に手持ちの火器を撃ちこんで牽制してくれていた。

仲間を助けたいという想い。

その全てに突き動かされ、距離にすればほんのわずかなその長さが無限に思えるような疾走を行って我に返った敵の火力点に狙い撃たれる前に、なんとか奇跡的に無傷で建物に飛び込むことが出来たとき、ケイリーは殆ど神様が休暇を終えて戻ってきてくれたのかと呆然としていた。

「衛生兵だ! 今来たぞ!」

だから、タフなヤツだとミハイルの威勢のよい声にほとほと、ケイリーは感心したものだった。

「助かる! よく来てくれた! 来てくれるとは思わなかったぞ」

「呼んだのはそっちだろ? まったく、呼んどいてその言い草はないだろう。こっちは、必死に走ってきたんだ。終わったら、あるだけアルコールと煙草を徴発させてもらうぞ」

「こっちだ! 奥で横にさせている。本当に、すまん」

「いいさ、兄弟。気にするなよ」

そんな軽口を叩きながら、涙ぐむ仲間の背中を小突くミハイルの落ち着いた姿。そうして、殆ど信じられないと眼を見開く生き残りの小隊員らに案内されて彼らがそのこぢんまりとした一角に足を踏み入れたとき。

ふと、家屋の外部に積もった瓦礫がれきの陰にうごめく人影に気が付いた誰かが警告の叫びを上げ、ケイリーをはじめ、幾人かが咄嗟とっさに手持ちの武器をそちらへ牽制を兼ねた射撃を撃ちこみ、間一髪のところでコチラに忍び込もうとしていた敵の小部隊を彼らはすんでの所ながら邀撃ようげきすることに成功する。

クソッタレ、回り込まれたのか、とぼやくC小隊の兵士達がそれでも駆けつけて銃撃戦を演じるさなか、そんな鉄火場てっかばにあってもいつもと変わらずミハイルはさあ、仕事だとばかりに負傷した仲間たちのほうへ脚を向ける。

だから、たぶん、その叫び声が響いたとき、彼は一番負傷者達に近かった。

「っ! 擲弾てきだん!」

誰かが叫んだ警告の声。

転がり込んでくる丸い嫌な球形の卵みたいなやつ。

ごとり、という音ところころと転がるそれは。

「蹴りだせっクソッ!」

周囲に倒れ伏す負傷者達の呻き声と、動ける人員の欠如。蹴り出せる位置にいる中隊の仲間には蹴り出そうにも、そのための足がない。

だから、一瞬、どうしようもないのかと諦観ていかんに染まりかけた全員の前でその男だけは僅かな時間で決断していた。その瞬間、ミハイルが罵詈雑言ばりぞうごんのあらん限りを尽くしながら、背負っていた衛生キットを放り出すと同時に我武者羅がむしゃらに駆け出すのを居合わせた人間は確かに目の当たりにする。

「ミハイル!?」

彼は、飛び込んだ。手榴弾しゅりゅうだんの上へ封をするべく飛び込んだ。自分の体を、仲間たちへの盾として。

そうして、その彼の肉体がずたずたに切り裂かれる光景をケイリーは鮮明に目の当たりにしておきながら、その記憶はぼやけたまだら色と化して整理しきれず、ただ、彼がボロボロになって吹き飛んだと理解したときには駆け寄っていた。

「ミハイル! しっかりしろ、ミハイル!」

腹部にかけて、大口径の散弾銃をコレでもかと打ち込まれたかのような裂傷れっしょう。金属片が突き刺さり、まるで崩れた粘土のような彼の腹部からしたたる鮮血の鮮やかさは動脈がやられたものだろう。

だから、ケイリーは嫌でも理解させられてしまう。それは、もう、と。だが、そこで彼は考えを振り切る。いや、今や、考えるのは時間の無駄だと。

口元からの血は、気道を確保しよう。ああ、腹部の裂傷には虎の子のサルファ剤と、ああ、そうだ、失った血を補う為にも血清けっせいアルブミン剤を入れて早く止血しないとならない。

そんな診断を下しながら、自分が後生大事に担いでいる衛生キットに手を伸ばしてケイリーはただひたすら焦る気持ちに突き動かされて機材を取り出す。

「ああ、こりゃ、駄目だ。痛み止めをもらえればそれでいいよ」

「いいから、黙ってくれ。今、止血する」

血清アルブミン剤を衛生キットから取り出す手馴れた手順さえももどかしく、点滴しようと焦るケイリーのその手は、しかし、ミハイルのどこか、何時もと変わらない飄々ひょうひょうとした声にぎょっとして空を彷徨さまよってしまっていた。

「いいよ、腹に喰らったんだ。見慣れているから、よく分かる。君は、他の人を診てやってくれ」

それは、そんなことは、と叫びたいケイリーにとってさえ、『たい』という願望で語らざるを得ない希望的な観測。その願望を口にさせることをケイリーに逡巡させるどこか不思議な強い意思を感じさせる言葉。

なあ、最期の頼みだ。少しだけでいいんだ、空を見せてくれないか。君の腹で空がふさがっている」

「お願いだから、変な事を言わないでくれ。なあ、戦友、こっちは君の手当てに忙しいんだ。頼むから、ちょっとは協力してくれよ」

「いいんだ、分かっているから。なぁ、頼む」

わかった、おい、少し痛みを取るぞ」

だから、ケイリーにとってそれ以上は強いて断れなかった。モルヒネを取り出しながら、彼は殆ど泣き出したい思いで友人が死につつあるのを見守るしかない。

今日、この日に、友をなくすのだろうかという悲嘆。助けられた、という想いがこみ上げてくる中で、ケイリーは何と口にすればよいのかとただただ戸惑うしかない。

「ああ、やっぱり、正解だなぁ

「何? 何だって?」

聞き取りにくいかすれ声を聞き漏らすまいと耳を寄せつつ、せめて、視線をさえぎらないようにと屈んだケイリー。彼の案じる顔に対し、ミハイルはなんとか笑みとでも形容すべき表情を浮かべてなあ、と言葉を残す。

なあ、友よ、と。

「空だよ。いや、家の屋根を国旗にするのは党が議決した中でも一番の最高傑作だね。約束の国は、直ぐそこだ。僕の夢はかなったよ。兄弟たちと同じ空を見ながら死ねるのはなかなか乙だろう? たまには、空を見たときは思い出してくれ」

それは、遺言。満足した人生への誇りと共に、だから、ミハイルは別れのときが来たことを告げるのだ。そして、託すのだ。

「ああ、友よ、泣かないでくれ。生きてくれ。そして、出来ればこの空の下で語り継いでくれ。バクスター家のシュルいや、ヒルトリア人のミハイルがどうであったかを」

もう、ミハイルは手を動かして惜別せきべつの握手を差し出すこともできない。だから、彼は、せめて同じ空を見てくれと視線で空を促す。

そして、その言葉なき叫びを聞き取ったケイリーはゆっくりと群青色の空に視線を向けると、ああ、と頷く。

自分達の、ヒルトリア人の空なのだ、それは。今日から、今日、このときから、自分達は家を手にするのだ。五族の同志兄弟達と、約束した国を、ヒルトリアをここに築くのだ。

「誓おう兄弟。ヒルトリアに勝利を。さようなら」

「ああ、さようなら。約束の国、楽しみにしているよ」

だから、ケイリーは友を置き立ち上がる。彼にはやらねばならないことがまだ沢山あるのだから。そして、生きる限り一つの大きな家の中で語り継がねばならないのだ。

ヒルトリアの仲間の、同志の、兄弟達の物語を。

語り継ぐのだ。

約束の国で、永久に。