ファイナルファンタジーVII

「次世代」と聞いて最初に思い浮かんだのがゲームの「次世代機」である。僕が中学に上がった頃は、次世代機のシェア争いが激しかった頃で、セガサターン派とプレイステーション派がクラスでも激しく拮抗していた。その勢力図を一気に塗り替えたのが本作である。オープニング・ムービーの最後のシーン、画面がぐっと引いてミッドガルの全景にロゴが重なるシーンで身震いしたのは僕だけではないだろう。確実に何かが始まるという予感があったし、今思い返してもそういう結節点に位置した作品であったと思う。なお、僕はエアリス派であり、ゴールドソーサーのデートイベントの前でセーブしたデータは未だに消さずに取ってある。

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新世紀エヴァンゲリオン

この作品については未だに冷静に語ることが出来ない。当時14歳であった僕にとって、シンジは自分自身だったし、エヴァを理解できない大人たちは全て忌まわしき旧世代であった。ついでに、エヴァの素晴らしさを理解できないようなやつは同世代であっても旧世代であった(ややこしい)。ともあれ、当時の僕にとってエヴァは自分のアイデンティティを担保してくれる作品であり、自分の責任はさて置いて世の中の不条理に対する怒りを託す対象でもあった。そういう青少年は僕だけではなく、庵野監督にとってはさぞかし迷惑なことだっただろうと思う。しかし、本作が各方面に与えた影響を鑑みれば、正しく「次世代」と言える作品であった。

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ケータイ小説

大学院を卒業して書店に就職した頃はケータイ小説ブームの真っ只中であった。僕は割に保守的なほうなので、『恋空』が飛ぶように売れていくのを苦々しく思っていた(売上的には大変ありがたかったが)。当時の僕は「ケータイ小説など一過性のくだらないムーブメントであり、小説の伝統を破壊する敵である」と思っていたが、実際のところは「次世代」を理解できなかっただけなのかもしれない。『エヴァ』を理解できなかった人が沢山いたように、僕もケータイ小説を理解できなかった。ただそれだけのことであり、憎しみは理解できない戸惑いの裏返しだったのかも知れない。憎しみはなくなったが、未だによく分からない。

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シフォン主義相対性理論

音楽について書くのは苦手なのであまり上手く説明できないのだが、相対性理論の楽曲をはじめて聴いた時に思ったのは「今までに誰も思いつかなかった組み合わせを試して成功している」ということであった。新しい世代の新しい想像力による新しい音楽。勿論過去と断絶しているわけではないが、確実に新しいと思った。そして、その新しいものに全体重を預けられない自分を省みて、やや残念な気持ちにもなった。僕は年下のAV女優が出現した時よりも、相対性理論に没入できない(好きではあるのだが)自己を確認した時に年齢を感じたのだった。

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姑獲鳥の夏京極夏彦

山奥の村に住んでいたA君はなかなか物知りで、面白い小説や漫画を教えてくれた。「こんな田舎に住んでるのに良く色々知ってるなぁ」と思ったが、自宅に遊びに行ってその謎が解けた。彼は『ダ・ヴィンチ』を購読していたのである。『姑獲鳥の夏』もA君が『ダ・ヴィンチ』で仕入れて僕に卸してくれた小説だったが、とにかく滅法面白かった。今まで読んだこともない不思議な小説なのに、「そうそう、こういうのが読みたかったんだ!」という謎のフィット感。その時はまだ始まったばかりのメフィスト賞の存在は知らなかったが、ミステリ新時代の幕開けを感じていたのだと思う。

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