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Niconama/stay night

北海道にいた頃からニコニコ生放送を視聴者として観る機会は多かった。ユーザー生の歌ってみた系からゲーム実況。ラジオ状態にして流しっぱにしている放送から、積極的にコメントを打ちこみたくなる放送。公式放送のタイムシフト予約の数は毎日毎週のようにどんどん増えていった。

改めて振り返ってみると、そこそこのニコ厨ぶりだったと思う。

 

だからニコニコ生放送に関してのリテラシーはあるつもりだった。いわゆる自称中級者である。

少なくとも映像ありの生放送という舞台で、どういうふうに画面の中の人物が映ってしまうのか、どういうふうに見えてしまうのか、を感じ取ることはできるつもりだった。

 

巻末ページに相当するラスト数分の登場であれ、画面の中に映り、多くの視聴者の目とコメントの前に己を晒すことになるのだ。

某佐藤友哉ぐらい口達者であり人間力の高い人であるならば、この舞台にあがることは何ら問題ないが、小柳粒男ではそうもいかない。

さらに放送という舞台と相性が悪いことに、僕は何かしらの話を振られるまでは延々押し黙っていることに一切の苦痛を覚えないタイプだ。せいぜい頑張って何かしようとしても、したり顔で相槌を打つぐらいである。

 

 

ニコ生についてはこういう認識であるからこそ、公開企画会議(仮)へ出ることは、ある種の恐怖もついてまわっていた。

 

でもそれはあくまで、中野へ行くまでの話である。

Kカフェに入るまでの話である。

放送が始まる前までの話である。

 

 

僕にとって、公開企画会議(仮)には二つの側面がある。ニコニコ生放送という放送にて、視聴者に小柳粒男のパーソナルを晒してしまう番組としての一面。

 

もう一つは多くの創作者達と、実際に目の前で出会える場としての一面だ。

公開企画会議(仮)へ行けば、渡辺さんがいて、太田さんがいて、佐藤さんが時々いて、滝本さんがまれにいたりする。イラストレーターの方々とも何度かお会いしたし、バレンタインデー企画という狂気のイベントで出会った方々もいる。

 

Twitterやメールで人と接するのと、実際に人と会って話すことにどれだけの差があるのか。

僕は実際に人と会って話すことに強く重きを負うタイプではない。少なくとも自分の言いたいことが何かしらあっても、実際に目の前で会うと、頭が真っ白になって何も浮かんでこなくなる経験の方がはるかに多いからだ。

あうーとなるわけだ。うわぁーとなるわけだ。

 

でもそれはそっちのほうが楽だ、というだけの話ともつながる。

人と目の前で出会って会話して、僕の心が支離滅裂の意味消失の結合破壊してしまうほどのダメージを受けたとしても、それは数日経てば癒えるダメージでしかない。あまりの巨大な傷口に人生オワタと思ってしまうことは多々あれど、眠りについて目覚めたあとには、何事もなかったかのように綺麗さっぱり塞がっている程度の擦り傷でしかないのだ。

 

 

人と会うということは相手がいるということであり、僕が緊張のあまりどうにもならない状態に陥っていたとしても、相手側までがそういう状態なわけではない。

 

実際に中野へ行き、物作りをしている人達と出会い、話し、接することは、僕のなかにある小説家としての何かを震わせる。

それはニコ生という舞台に出演し、まともなことは何もできない残念な自らを晒してでも手にするべきものだった。

 

少し怖いけど、公開企画会議(仮)へ行けば大丈夫。一月の僕はそんな小さな恐怖と確かな安心感を抱きながら、中野へ向かっていた。

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