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「銀」のレビュー

銀

企業に管理される快適なポストモダンのためのエッセイ

未来の創作

レビュアー:ジョッキ生 Knight

開始一行目で笑ってしまった。著者の感情丸出しじゃねーか。でもこれのおかげで、難しそうだけど読んでみようかなって気持ちになれた。ありがとう。

『KADOKAWAとドワンゴの合併のニュースを聞いて軽い吐き気がした。』から始まるこのエッセイは、まとめればオタクコンテンツ(アニメ、まんが、ラノベ等)の未来の話をしている。この合併によって今後この業界に何が起こっていくのか。それを著者自身が予測している。

それは角川春樹、角川歴彦と行ってきたメディアミックス戦略の歴史から始まり、2人の方向性の違い、そして今まさに角川歴彦が目指しているシステムの話と、全く無知でも分かりやすい説明がされており、読んでて為になった。図解まであって緊急寄稿ってレベルじゃねーなと思うほどだ。

ざっくり言うと、これまでのメディアミックスって言うのは、原作があってそれを多方面に展開していくやり方のことを言っていた。小説が原作ならそれをアニメ化したり、まんが化したりって感じで、一個のものからたくさん作って儲けましょうみたいな。もったない精神の具現化した感じだった。でもこれからのメディアミックスの違うところは、原作という根幹を変えてしまうことにある。原作に変わるのは世界観という、原作の基みたいなやつ。プロットに近いのかな。それをみんなが共有することで生まれるたくさんの物語が商品になっていくというスタイルだ。

これはたぶんニコニコ動画で説明すると分かりやすいかな。ニコニコにあるカテゴリがそう。ゲームカテゴリで言えば、実況動画であったり、TAS動画であったり、解説動画であったり。ゲームというカテゴリの中で、投稿者が好きに作ったものをアップしている。このゲームカテゴリを世界観に置き換えれば、その下に出来た動画達が商品となる。つまり、これからのメディアミックスの目指す所は、一般の人が気軽に創作できる環境から生まれたものを、商品として売っていくシステムになるだろうと著者は言っている。

これを著者は吐き気がするというわけだが、同意するのはなかなか難しい。なぜなら、これから創作者になるであろう一般の人にはデメリットがないからだ。だって、たとえば趣味でやっていたものを、企業からぜひお願いしますみたいな感じでオファーされて、嫌な気がする人は少ないんじゃないだろうか。タダでもいいですよなんていって、仕事を請けてくれる人までいるかも知れない。それはやっぱり、創作に対する立ち位置の問題なのかな。あくまで趣味である人にとって、その作品がお金になるかどうかはあんまり問題じゃないと思う。まあ多少はお金になればとは思っているかもしれないけど。大事なのは評価であったり、そこで生まれるコミュニケーションであったり、精神的な満足感がでかいと思う。だから著者が感じるこのシステムへの嫌悪感は、はっきり言って感じ難いんじゃないだろうか。

だから、これに嫌悪感を感じる人っていうのは、結構限られると思う。それは今まで原作者という立場にあった人や、創作というものを専業でやってきた人が、自分たちの領分を侵されることに対して感じてる危機感のようなものだと思うから。自分達の価値が下がる。それは一般の人も含めた総クリエーター化によって、いくらでも代わりがきくようになっていまうから。さらには、貰っていた報酬も下がる。これはタダでもいいと言うような人が出てきた場合、必然的に価格の見直しが行われるだろうからだ。このような事態を想定した場合、ヤバイと感じるのは至極当然のことだと思える。

だから両者の間には溝が出来てくる。このシステムに賛同するものと、しないもの。どちらも創作するという意味においては対等であるが、同時に共存するのは難しい。時代の流れがどっちに味方するのか、正直分からない。でも怖いのは、今まで好きだった作家さんや絵描きさんが、この流れでいなくなってしまうことだ。市場が広がれば自然に淘汰がなされるんだろうが、その中でいなくなってしまうものの中に、自分の好きなものが含まれるのはなんか嫌だな。しかもそれが直接ではないにしろ、そのシステムに賛同したことで起きることとなればちょっとね。だから考えなくちゃいけないのは、自由を得た対価として何が失われるのか。その実態だ。一般の人が好きに作品を作って販売されていく時代の先に、今まで創作によって自分達を楽しませてくれた人たちの排除が行われていくんだとしたら、それは悲しいことだ。どうすれば彼らを守れるのか、そんなことも考えていかなければいけないかも知れない。

なんてことを、深夜に公開されたこの文章を読んで考えてたら、朝日が眩しかった……。知恵熱でたから寝よう、そうしよう。

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2014.06.18

銀

大阪将星伝

死に様って

レビュアー:ジョッキ生 Knight

歴史ものが汚いと思うのは、死に様がやたらかっこいいことだ。別にそんな大したことをしてなくても、その死に様で大分印象が変わる。それが何かね、ずるいなーといつも思ってた。

この本の主人公、毛利豊前守勝永もそう。この人の人生を要約すれば、豊臣家に仕えた、ただそれだけだ。父親が豊臣秀吉付きの黄母衣衆という諜報を行うような部署にいたので、自然とそれを手伝う形でその人生を生きていくことになる。すべては豊臣家のため、それが当たり前の人生だ。だから彼が成したことで歴史が変わったことなんて特にない。彼の名を知り合いに聞いた所で返ってくるのは『えっ、誰?』って言葉くらいだろう。

その生涯だけを語ればそんなもんだ。でもね、死に様がかっけーんだよ、この人。マジで知らねーとか答えた知り合いを片っ端から引っ叩いて『はっ?何で知らねーの?』って胸倉を掴みたい衝動に駆られる。そのぐらいかっこいい最後だった。

きっかけは徳川家康の所業。かつて仕えていた豊臣家に対し蛮行を散々働き、それが隠居生活をしていた勝永のおっさんに火を着けた。嫁さんも子供もいて、十分幸せな生活をしていたし、今徳川家に逆らった所でいいことなんて一つもない。しかもたぶん勝てない戦いになると分かっていたはずだ。それでも譲れない一線があって、豊臣家を貶める行為に関してだけは全力で立ち向かう。それがこの男の信念だったに違いない。だから、かつての仲間と共に命尽きるまで、一矢報いるまで戦い続けたその死に様は、もう全身が震えるほどに勇ましかった。

読み終わって、やっぱずるいなーとは思った。死に様がかっこよかっただけで大分印象が変わったことは否めなかったからね。でもちょっと思ったのは、死に様がかっこいいってことは、その人が歩んできた人生にちゃんと信念があったからなんじゃないかってこと。それがなくちゃ何をしたって重みを感じないんじゃないかって。毛利豊前守勝永で言えば、ずっと豊臣家に仕えてきたからこその最後の行動があって、読んだ俺はその人生を知っていたからこそそこに感動したのかもしれない。そう考えると、死に様がかっこよくてずるい。ではなくて、その生き方がかっこよかったと褒めるべきなのかもしれないねー。

毛利豊前守勝永という人は、豊臣家のために生き、豊臣家のために死んだ。その人生はちょっとずるくて、でもかっこよかった。と、俺はそう思う。

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2014.06.18

銀

メイ・デイ

そのナプキンから目を背けるな

レビュアー:横浜県 Adept

 主人公の「私」は、心が壊れている。離婚した母には見捨てられ、父からも暴力を受けている。それでも父との間に家族のつながりを求めようとする彼女は、典型的な共依存の状態にあり、僕たちに危うさを感じさせる。そんな「私」の心は、壊れているが、しかし、強い。「守られてはいけない」という自負に支えられている。その強さは、小説家だった父の言葉を、魔法のようだと感じたことに由来していた。その魔法を継承した「魔女」として過ごす生活は、「私」にとって、僕たちの考える普通な生活よりも大切なものであった。
 もちろんそれは彼女の思いこみだと、僕たちはそう考えるだろう。「私」の見せる強さは、不安定な自我のうえにかろうじて成り立っているにすぎない。だから彼女が「私は父親の子供ではない」という真実を受け入れたとき、僕たちは「私」を祝福する。彼女もついに現実を直視したのだと。
 しかし彼女はやはり壊れていた。彼女は父との親子関係を解消する代わりに、新しく男女の関係を結ぼうとする。その決意には、以前のような危うさも感じられない。彼女はついに、父親と家族のつながりを結ぶための、たった一つの冴えたやり方に気がついたのだ。
 作者の大間九郎は「この短編は少女の闘争と、さらなる闘争の物語。甘えんな!戦え!って話」とツイートしているが、しかし読者の僕たちは、そのような「闘争」に身を投じる「私」の姿を受け入れることができるのだろうか。きっとその多くは、作中の一般人、校長先生のように絶句をするのが関の山だろう。大間九郎が「守られてる読者の鼻先に使用済みのナプキンぶら下げるような小説」とつぶやいたように、僕たちはどこか複雑な読後感に苛まれてしまう。そしてそれはまた、作者の思うつぼなのであった。
 だがしかし、これは当然の反応であるとも言えるだろう。僕たちは魔女ではない、「私」のような「闘争」に身を置く強さを持たない。だからこそ僕たちは「守られている」。でもそれでよいのかと大間九郎は呼びかけている。もちろんよくはないはずだ、僕たちだって、心のどこかで「闘争」に惹かれているところがあるのではないか。この「メイ・デイ」を読んで面白いと思ってしまったとき、どこか胸糞の悪い思いをしながらも、この作品について、「私」についての考えをめぐらせてしまったとき、あるいは「闘争」について、かえって過剰な拒否反応を示してしまったとき、僕たちはすでに「闘争」への欲求に貫かれていたのではないか。そうでなければ、僕たちにとって「私」の行動は何の意味も持たなかったはずだ。「メイ・デイ」は退屈な小説だったと、ただそのように感じるだけで終わりだったにちがいない。
 「メイ・デイ」を読んだ僕たちが、改めて闘争に身を投じることになるのか、それともこれまでと同じように守られつづけることを選ぶのか。いずれにせよ、「メイ・デイ」は僕たちに「甘えんな!戦え!」と語りかけている。それは父の言葉が「私」にとって「相手に自分の意思を伝える道具」ではなく「相手を支配する、やはり、魔法だ」と感じられたのと同じように、僕たち読者に向けて、大間九郎から放たれた魔法であるのかもしれない。だから彼が「使用済みのナプキン」を僕たちの鼻先にぶら下げたとき、僕たちは嫌悪感を催しながらも、いやそれゆえにこそ、またそのナプキンを嗅いでみたいと思ってしまうのだった。

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2014.05.20

銀

大間九郎『メイ・デイ』

大間九郎の描く、最悪な人間と、最悪な世界と、人の心を動かす「何か」。

レビュアー:USB農民 Adept

 大間九郎の描く物語が好きだ。

 主人公(小学生女子)の父親は、クズだ。人としても親としても作家としてもクズだ。そいつの名前は大間九郎。本当だ。別に作者をディスっているわけじゃない。
 主人公の少女は、クズの父親と二人で生活している。家事炊事は少女の仕事だし、朝が来るたびに父親が寝ゲロを喉に詰まらせていないか、真冬に裸で布団にも入らず寝ていないか、そもそも生きているのか、確認するのも少女の仕事だ。それが小学生女子には荷の重すぎる酷い生活であることは間違いない。そんな少女の心を支えているのは、「大間九郎」(紛らわしいので、登場人物の大間を「」で括る)が昔に書いた小説だ。そこに書かれた言葉は、少女にとって世界のどんなものよりもきれいですてきな「魔法の言葉」だった(大間九郎による「大間九郎」の持ち上げっぷりが凄まじい)。「魔法の言葉」を使う「魔法使い=「大間九郎」=父親」の血を自分は引いているという事実は、少女に、自分もいつか「魔法の言葉」を使う「魔女」になることを決意させる。

 少女はよく理解しているのだと思う。どんなに最悪な人間にも、人の心を動かす「何か」はあるし、どんなに最悪な世界でも、人は「何か」に心を動かされながら生きていくということを。
 それが大間九郎の描く物語だ。

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2014.05.20


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