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レビュアー「USB農民」のレビュー

銀

上遠野浩平『あなたは虚空に夜を視る』

徳間デュアル文庫版と星海社文庫版の読み心地の違い

レビュアー:USB農民 Adept

 この本は、以前に発売された徳間デュアル文庫の同名小説の再刊である。
 再刊とは、同じ物語を異なるリズムで作り直すことだと私は思う。

 私は徳間デュアル版が気に入っていたので、好きな作家の傑作の一つが再刊されることに喜びを感じていた反面、あの中澤一登さんのイラストでなくなることにやや寂しさを感じてもいた。
 けれど、星海社文庫版を読んでみると、徳間のものとはまた違った読み心地があり、同じ話でも新鮮に読むことができた。

 両者の違いは、いくつかある。
 文章はほとんど変わっていないが、例えば文庫のフォーマットがだいぶ異なっている(本の大きさも微妙に違う。あとスピンの有無とか)。
 そして最も大きな違いは、イラストについてだ。
 徳間デュアル版は、サイバーな世界観と宇宙の冷たさを同時に感じさせる表紙イラスト以外に、各章の扉絵にキャラクターのイラストが使われている。この扉絵が秀逸で、各章の扉で登場人物が一人ずつ紹介されているのだが、まず章題に添えるように人物の横顔がアップで描かれていて、項をめくるとその人物の全体図と名前が示される。
 扉には各章の意味深な章題も書かれていて、(例えば「生死を視る」とか)その項をめくると人物の姿が立ち現れるこの独特のリズム感は、よくできた美術館の展示に似ている。まず展示の最初で目を引く特徴的な作品を置き、通路を進んで次の部屋に入ると広がった視界に壁に並んだ作品がずらりと飛び込んできて、その場所の空気感を見事に演出しているような小気味いいリズムが、感じられる。また、徳間デュアル版には扉絵以外には挿し絵が一切ない。

 打って変わって星海社文庫版は、スタイリッシュな絵柄が表紙を飾っている。そのままゲームのポスターにも使えそうな印象だ。そしてこちらは、徳間デュアル版とは逆で、扉にイラストがついておらず、カラーの挿し絵が印象的な場面に配置されている。戦闘機ナイトウォッチは、星海社文庫版で初めてイラスト化されたのではないか。主人公の乗る兵器にしては奇怪なシルエットを持つナイトウォッチは、作中でもっとも最初に現れる挿し絵でもある。その姿は太陽系から遠く離れた絶対真空の世界という、日常とは異質な世界観で物語が展開されていることをよく表している。(少し脱線になるが、ナイトウォッチの背後に見える白い丸は何なんだろう? 天体なのか。何かの爆発なのか。その手前で煙をあげているように見えるのは、カプセル船なのか? でも宇宙に煙って変だし……よくわからない)
 二枚目となる挿し絵は、銀色の未来的ファッションに身を固めたヨンが、主人公に艶めかしい動作で迫るシーンだ。これもまた、ファッションによって世界観を伝える役割を果たしている。
 一枚目は宇宙空間にある巨大で異質な存在。そして二枚目では、作られた日常のなかに存在する異質な存在を表しているといえる。
 この物語は、宇宙空間と20世紀末頃の日常を繰り返し往復する。そのリズムと、一枚目と二枚目の挿し絵の並びは、上手くかみ合っている。音楽のカノンのように、同じメロディが間をおいて併走しながら、心地よいリズムを作っているのに似ている。

 星海社文庫版のイラストは、物語全体のメリハリを際だたせるリズムで置かれていると私は感じた。
 そして徳間デュアル文庫版のイラストは、物語の世界に対するイメージを、読み手の中で深く醸成させていくようなリズムに思える。
 そして物語は、たとえ同じテキストで書かれていても、それを摂取するリズムが違えば、読後感や印象に残るシーンなども変わってくる。(わかりやすい例で言えば、徳間版よりも星海社版の方が、ナイトウォッチの存在感は強い)
 この本を読んで、そのことを改めて実感した。

 このレビューが、これから『ぼくらは虚空に夜を視る』を読む人の参考になればと思う。(徳間版、星海社版、どちらを読むか?)
 かつて徳間版を読んだことのある人にとっては、十年ぶりに再刊されたこの本を、もう一度手に取る機会となることを願う。

 あるいは、これから星海社版を読み、その何年後かにでも、「そういえば別の出版社からも出ていたな」と思いだし、徳間版を読んでみようという気持ちになるきっかけになれていたら嬉しく思う。

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2013.07.08

銅

佐々木寿人『人生勝たなきゃ意味が無い』

麻雀が強くなった気分(錯覚)

レビュアー:USB農民 Adept

 麻雀。
 牌を巡って4人が技術と度胸と運を競い合う知的遊戯である。
 しかし、このゲームの勝利において、運の占めるウェイトはそれほど高くない。技術と度胸=精神力こそが勝敗の明暗を分けることは、麻雀を長く続ければ続ける程、はっきりと実感できる。

 ーーこんな文体のまま続けていくと、まるで私が麻雀に詳しいと誤解されそうなので、この辺でくだけた調子に切り替えておこう。麻雀は好きだが、あくまで下手の横好きの領域をでていないのが実状だ。
『アカギ』を読んだ後は、自分も麻雀が強くなったような気分になり、『オバカミーコ』を読んだ後も、自分が強くなったように錯覚した。『ムダヅモ無き改革』は、これはさすがにそんな錯覚をする余地はなかった。(注:どれも麻雀漫画)

 星海社ラジオ騎士団で、高井舞香さんとさやわかさんと緑萌さんの三人のトークでこの本が紹介されていて、興味をもった私は早速その本を読んでみた。結果、私は自分が麻雀が強くなったような気分になった。(注:錯覚です)

 麻雀が強くなった気分になる作品には、2つの共通点がある。一つは、作中で勝つための麻雀理論が語られていること。もう一つは、その麻雀理論を実践し、勝利する人物が描かれていることだ。
『アカギ』に登場するアカギは、常人とは別次元の人生哲学を持ち、ギャンブルにもその哲学=理論を用いて勝ちを積み上げる。『オバカミーコ』は、麻雀理論の解説と、勝負の場での実践が毎回の定型となっている。『ムダヅモ無き改革』は麻雀理論が出てこない(だから麻雀が強くなる錯覚は起こらない)

『人生勝たなきゃ意味がない』にも、麻雀理論が登場し、その実践者として著者である佐々木寿人がいる。ここで面白いのは、『オバカミーコ』は客観的な戦法を解説することが多いのに対して、『アカギ』や『人生勝たなきゃ意味がない』は、主観的な人生哲学が麻雀理論の大きなウェイトを占めていることだ。
 普通、理論とは客観的な方が人を説得しやすい。にも関わらず、アカギや佐々木さんの理論は、驚くほど説得力がある。なぜか。それは、彼らが実際に勝っているからだ。主観的な人生哲学でも、実際に勝利に貢献しているなら、それは紛れもなく、勝つための理論だ。
 自分の人生哲学の有用性を他人に認めさせる方法は、その実践でしかあり得ない。
 タイトルには、そんな意味も含まれているのだと思う。

 ……ところで、「麻雀が強くなった気分」になった後は、誰かと麻雀が打ちたくなる。強くなった気分が錯覚だとしても、そうやって気分を高めて打つ麻雀が楽しいのは純然たる事実で、だから私はこの手の本が好きだ。
「麻雀が強くなった気分」にさせる本は、麻雀で勝ちたい気持ちと、麻雀を楽しみたい気持ちの両方を刺激してくれる。

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2013.07.08

銅

江波光則『スピットファイア』

赤いチューブトップワンピースを着た美少女

レビュアー:USB農民 Adept

 ネット上でまことしやかに囁かれている「ビッチ萌え」という言葉がある。本書を読み終えて、その言葉を思い出した。

 エンターテイメントに登場する美少女は、類型的になりがちであるので、意外性のある美少女はそれだけで他より魅力的に映る。その意味で、意外性の連続である倫子は、かなり魅力的な美少女といえる。実際、彼女は意外性に満ちている。刑事を一発でノックアウトする場面の流れるような殴打の動きなどは、女子高校生とは思えない程に手慣れている。と思えば、パンツを覗かれることを頑なに拒否する純情な女子っぽさを見せる場面もある。
 美少女として表紙に描かれたイメージからは、ビッチという属性は意外性に映る。と同時に、ビッチという属性のイメージからは、純情っぽい部分が意外性に映る。二重三重に意外性が仕掛けられている。
 そして彼女の一番の見せ場は、物語の後半、港で主人公に告白紛いの言葉をぶつける場面だ。
 カラーの挿し絵が挟まれるその場面は、実は物語の本筋からすれば、あまり重要ではないのだが、倫子と主人公の間には並々ならぬ緊張感が張りつめている。二人の選択如何によって、その後の人生が変わりかねないからだ。

「その行為には契約じみた重さが感じられた」
「ここで何かが変わる。俺の気持ち一つで、何かが変わってしまう」

 主人公は内心で、そう独白する。
 倫子も主人公も、物語の中で終始、性的にも暴力的にも無軌道な振る舞いが激しかったがゆえに、人生を左右する選択という、ここでのやりとりが強い意外性となって、より一層の重みをもっている。

 読了後、表紙を見返したとき、中央に立つ倫子の印象は、最初に本を手に取った時と変化していたことに気づいた。
 なるほど、と思った。
 ビッチというのは、その言葉の印象が強い分、意外性がよく引き立つ。「ビッチ萌え」という言葉も、そういうポイントに支えられているのだろう。だとすれば、倫子ほどその言葉の似合うキャラクターは希かもしれない。

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2013.07.08

銀

壜詰病院

ラジオ小説としての「壜詰病院」

レビュアー:USB農民 Adept

 ーーその小説は、静かなピアノの旋律から始まる。

「壜詰病院」は、星海社Webページで公開されていた、星海社ラジオ騎士団というWebラジオで放送されていた朗読作品だ。
 夢野久作の作品を彷彿とさせるタイトルのこの作品は、死や諦念や情念などの要素で、ごくごくと濁った彩りを放つ作品だ。死があちらこちらに湧き出すような病院で、一人の少女の数奇な体験が描かれている。

 ところで、この作品は制作サイドから珍しいジャンル名を与えられている。
 連続ラジオ小説。
 聞き慣れない言葉だ。その言葉からは、NHKの連続テレビ小説がすぐに思い浮かぶが、そこにはあまり共通点がないように思う。
 一般的には、「連続ラジオドラマ」と呼ぶのではないか。なぜ、わざわざ「ドラマ」の部分を「小説」に置き換えているのか?

 もうひとつ、この作品で気になる点がある。
 星海社からはいくつかの朗読CDが発売されているが、それらは基本的に、BGMが存在しない。けれど「壜詰病院」には、ピアノ曲がBGMとして使われている。それもまた、なぜなのか。

 私はこの二つの要素は、密接に関係していると考える。

 なぜ「ドラマ」ではなく「小説」なのか。それはこの作品が、小説と同じ要素を持っているからだろう。しかもそれは、紙の本であること、のような媒体としての要素ではない。もう少し目には見えにくいことだ。

 ところで小説とは何か。それは文字の連なりだ。しかしただ文字が連なっていればいいというわけではない。それは一貫性のある論理的なつながりを持っていなくてはいけない。(ここでの論理とは、科学的、客観的である必要はない。特殊な論理性で書かれた小説も世には多い)だから(広い意味での)論理性を持たない小説はあり得ない。
 そして小説の妙味とは、作者ごとに文体が異なることで、そこで生まれる論理性にも様々な種類が生まれることにある。

 では、「壜詰病院」における「文体」とは何か?
 佐藤友哉の文章か? しかし、佐藤友哉のクレジットは原作だ。作品全体を左右する文体レベルの論理性は、別の存在にゆだねられている。クレジットに並ぶもう一人の存在。朗読の古木のぞみだ。
 佐藤は「壜詰病院」の文章を、古木が読むことを前提に書いたという。そこには、古木の声で表現されることが、この作品の前提にあるという意識が窺える。(そのためか、星海社の他の朗読CDには必ずついている、本文を載せたブックレットが、この作品にはついていない。制作サイドから、佐藤友哉の文章ではなく、古木のぞみの声でこの作品を体験することを奨められているように私には思えた)
「内容=何を書くか」と「文体=どのように書くか」という分類でこの作品を捉えるならば、佐藤が「原作=何を書くか=内容」を担当し、古木が「朗読=どのように読むか=どのように書くか=文体」を担当していると言えるだろう。
「壜詰病院」の「文体」とは、古木のぞみの「声」ということになる。

 そして音楽もまた、この作品の論理性を支えるために存在している。
 人間の感情は、イメージに引っ張られやすい。映画やゲームなどで、悲しい曲調の音楽が流れていると、それだけでその場面が悲しく見えてくるのは、よくあることだ。そういった音楽の持つ力というのは不思議なものとして捉えられやすいが、しかし基本的に音楽もまた、文章と同じく限られた記号の並べ替えによって作られている。そこにはやはり、一貫した論理性が存在している。リズムも音階も考えずに、ただ音の記号を並べただけでは、聴く人に何かを感じさせることはできない。
 音楽もまた、ラジオ小説を支える論理性の一つなのだ。

 ここまでの話で、冒頭の問いは次のように答えることができるはずだ。
「壜詰病院」は、なぜ「ラジオ小説」なのか。
 それは、「小説」と同じように、作品内の論理の一貫性を最重要のファクターとして意識しながら制作されているからであり、また、その論理性を「文字」ではなく、「声」と「音楽」で表現した「小説」だから、「ラジオ小説」なのだ。

「壜詰病院」は、静かなピアノの旋律から始まる。その旋律は、少し悲しい色を帯びている。そこへ音を重ねるように、古木のぞみのかすれ気味の細い声が入る。その相乗効果は、どこか俗世とは遠く離れた世界観をよく伝えている。


 静かな場所で、この作品を聴いていると、まるで物語の舞台に自分がいるように思える瞬間がある。
 ここではないどこかにある、とても死に近い場所としての病院。
「壜詰病院」。
 その病院は、声と音楽に支えられて、そこにある。

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2013.07.08


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