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レビュアー「横浜県」のレビュー

銅

星海社ラジオ騎士団

アニラジっぽいトークラジオ

レビュアー:横浜県 Adept

『星海社ラジオ騎士団』が公開されたとき、「アニラジとAMトークラジオを混ぜた感じ」みたいなことをTwitterに書きました。
アニラジっぽい要素があるというのは、多分みんなも賛成してくれるんじゃないかな。
第1回のゲストだった佐藤友哉さんが「アニラジみたい!」と叫んだくらいだしね。

じゃあその雰囲気がどこからくるのかといえば、やっぱりパーソナリティの「のぞみ姫」こと古木のぞみさんでしょう。
彼女は声優として、いくつかのラジオを担当していらっしゃるようで。
他のパーソナリティ2人に比べて、明らかにラジオ慣れをしています。
また、彼女が見せるノリは、アニラジのそれです。
でも「声優が1人いれば、それでアニラジっぽくなるのか」と聞かれれば、そうでもないわけで。

『星海社ラジオ騎士団』には、1つのラジオ番組としてのアニラジっぽさがキチンとあるのです。
たとえばそれは、アニラジの集まる「響」で配信されている点や、のぞみ姫が「しゃるらんら~ん」(?)とか「わたしの魔法で叶えます!」とか叫ぶコーナージングルにも表れています。
で、これって要は枠組というか、外面がアニラジっぽいというわけです。
声優さんが出てるし、なんかイラストもあるし、アニラジ配信サイトで流れてるし、ジングルもそれっぽいし……。
だけど「そういった外面じゃなくて、内面はどうよ?」「実際のコーナーやトークの内容ってどうよ?」と考えたとき、僕は全然アニラジっぽくないと思うんです。

そこで思い浮かんだのがAMトークラジオなんですね。
まずトークですけれど、のぞみ姫に比べて、さやわか団長と平林さんの2人はテンションが低いんです。少なくとも高くはありません。
それは決して悪いことではなくて、むしろ彼らの役割になっています。
うまいことのぞみ姫と対比されているんですね。
それはコーナーを聴けばよく分かることで、「レビュアー騎士団攻略法」や「編集者に聞きたい!」で2人はガチトークを繰り広げます。
「つけよう! キャッチコピー!!」にいたっては、コーナー名とジングルからは想像もつかない講評が待っています。彼らのダメだしやアドバイスは実にためになる一方で、「そんなマジ採点するの?」と突っ込みたくなるほど。
そこに僕は、おじさん達がちょっとグダりつつもトークを深めていく「深夜のAMトークラジオ」臭を感じたのです。
新しくできた本紹介のコーナーだって、バレンタインがテーマだからライトなエンタメ作品でも薦められるのかと思いきや、ハードボイルドと中公新書ですよ……。
じゃあ、のぞみ姫が唯一アニラジっぽさを保っているのかと思いきや、そうでもないんですよね。
彼女は各コーナーで、2人の話や主張に疑問をもって質問したり、「なるほど」と相槌を打ったりします。リスナーの目線に立っているんですね、無意識でしょうけれど。
オープニングやジングルでは仕切り役の彼女が、コーナーに入るとパーソナリティからアシスタント役に転じているわけです。

だから『星海社ラジオ騎士団』は「アニラジとAMトークラジオを混ぜた感じ」だと僕は思いました。
厳密に言えば、「アニラジっぽいんだけど、その実は深みのあるトークラジオ」といった印象です。
これは先に名前を出した「響」の中では異質ですし、『星海社ラジオ騎士団』らしさになるのではないでしょうか。

最前線で『星海社ラジオ騎士団』を聴く

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2012.04.02

銅

青春離婚

Webにおいて「読む」ことは「見る」ことだ

レビュアー:横浜県 Adept

Webにおいて「読む」ことは「見る」ことだ。
厳密に言うと、まだ完全にそうではない。しかしこの先そうなっていくのではないか、そうなるべきではないか、と思わせてくれるような作品に出会った。
『青春離婚』である。

まずそもそも、Webで「読む」ことのデメリットを考えてみる。
簡単に思いつくのは、やはり「紙でないこと」である。
自分でも失笑してしまうほど、当たり前な話をしてしまった気がするけれど。
やはり紙の質感や匂い、そしてページを繰る感覚が失われるというのは、どうも大きな問題だと思う。今まであったはずのものが存在しないという喪失感に苛まれてしまう。
ところがどうだろう、いまWeb上で出版社が掲載するマンガというものは、たいていが本の概念に縛れている。画面上に映る絵や文字はページに区切られ、クリックが紙を捲る行為を代替している。
そこでは本を「読む」ということが、まるで虚構のように存在している。
この「最前線」においても同様であった。紙を捲る行為を模してまではいないが、確かに作品はページという枠組みで分割されている。
それは後の書籍化を考慮すればよいことに思われるし、むしろ妥当ですらある。
けれど、いまそのとき、読者はWebで作品を見ているのである。
彼らにただの紙の本もどきを提供することが、果たしてWebで「読む」ことの価値を上げうるだろうか。いいえ、紙の本ありきという前提が浮き彫りになるだけで、かえって下がるばかりだろう。
現状として、Webにおける「読む」ことは、紙における「読む」ことの劣化版でしかないのだ。

一方で『青春離婚』はどうか。そこにはページの概念がない。
同じ形のコマがいくつも縦に連なっている。読者はページをスクロールすれば、物語を最初から最後まで読み切ることができる。
今まであった紙のマンガにおける概念では捉えられないコマ割(?)だ。
たとえると、長い4コママンガ。もしくは映画のフィルム。
そう、映画のフィルム。
今までのマンガでは、読者が複数ある異なった形のコマを目で追う必要があった。だが『青春離婚』では、視線を動かす必要がない。
求められているのは画面のスクロールのみで、読者はただ眺めてくるコマをじっと見つめればいい。それは映画やテレビを見ているのに近い感覚である。
だから『青春離婚』を「読む」ことは「見る」ことなのだ。
さらにいえば、先に述べた通り、物語を最初から最後まで読み切れるのも大きい。
これが本であれば、読者はページという切れ目で紙を繰らねばならない。だが区切りのない『青春離婚』では、読者は何をすることもなく、垂れ流される物語を受容することができる。
(唯一マウスのスクロールが要求されているが、これを意識的に行いながら読む人は少ないだろう)
この点でもやはり、『青春離婚』が「読む」と同時に「見る」ものであることが分かる。

これは新しいマンガのあり方である。
それも元来ある紙の本ではなく、Webだからこそできることだ。
僕は他のWebコミックも同様たるべきだと考える。
別にこういったコマ割にしろと言っているわけではない。ただ紙の模倣をやめてほしいだけだ。
Webは紙ではないのだから。異なる媒体である以上は、いままで通りの表現をしていては価値がない。
その意味で、『青春離婚』はWebにおけるマンガのあり方の一つを提示してくれている。
マンガを「見る」こと、それはWebだからできること。
いつか、「読む」ことは「見る」ことである、そう断言できる日が来るかも知れない。むしろ来るべきだ。
いや、他に様々な「Webだからこそ」なマンガのあり方が生まれてくれるのなら、それにこしたことはないのだけれど。

最前線で『青春離婚』を読む

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2012.03.09

銅

夜跳ぶジャンクガール

『夜跳ぶジャンクガール』は、あなたの目を覚ますか否か

レビュアー:横浜県 Adept

『夜跳ぶジャンクガール』が好きだ。
これは賛否両論のある作品で、ツイッターやAmazonで見受けられる感想もまちまちである。
でも僕は好きだ。
『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』を思い出したからだ。



まず『夜跳ぶジャンクガール』 について。
小泉陽一朗のデビュー二作目 であり、帯には「青春の最前線」と謳われている。
ただ僕には「死と対比する形で、生を自覚する物語」でもあるように感じられた。
どういうことか。

主人公の「僕」は『首絞め衝動』を持っていたり、後輩いわく「イタい人」の墓無に恋をしたりする。ようは変人だ。
冒頭で幼なじみ・楓の首を絞めながら、彼はそのまま息絶える彼女を思い浮かべる。
このときの彼は、間違いなく死を意識している。
一方で「人の死っていうのはもっと遠くにあるべきものだ。こんな近くにあってはいけない」とうそぶく。でもそんなギリギリのラインにこそ、彼は陶酔していたと言わざるをえない。
「僕」は生から逃れられないことを理解しつつも、死という概念を間近で見たいと欲していたのだ。

では結末に目を移してみる。物語における全ての謎が解決して、ことが終わりを迎えたとき、「僕」は打って変わって生を見つめている。
姉は死んでいる。楓も死んだ。
でも「僕」は生きているし、ヒロインの美月も生きている。
「僕」と美月は死を選びかけた。それでも命を捨てなかった。
そこに残ったのは、姉と楓の死に対比することで強調された、主人公とヒロインの生である。
だから彼は、天にいる二人に「見せつけるように」ふるまう。
死者からの羨望を感じながら、彼は生を全うするのである。



次に『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』だ。
滝本竜彦の処女作で、主人公・山本陽介の青春を描いた作品である。
僕はこれも同様に「死と対比する形で、生を自覚する物語」だと主張している。

象徴的なシーンを紹介する。バイクに跨った 山本陽介は、かつて友人が死んだ急カーブに全速力で突っ込んだ。でも死ななかった。ルーチンだらけの日常に飽きていた彼は、天の友人に「 オレを置いて行かないでくれ!」と叫ぶ。

そんな彼の思いは、ヒロイン・雪崎絵理の命を救うことで一変する。
目の前で絵理が生きている。彼女を見ている自分も生きている。
これからも日常が続くのだと悟った彼は、「生きているオレが羨ましいだろう!」と雄叫びをあげた。
そこには友人の死と対比する形で、主人公とヒロインの生が強調されている。
非日常への逃避をやめた山本陽介は、自らの生を自覚することで、あるべき日常へと無事に回帰したのである。



このように、両者はたいへん似通った構造を持っていると言える。
だが 一つ決定的な違いがある。僕が作品と出会った時期が異なるのだ。

僕が後者と出会ったのは中学一年生のときで、当時の僕はまさに山本陽介みたいな奴だった。日常から視線を逸らし続け、非日常を欲していた。 いわゆる中二病である。
そして僕には、自らの生を自覚するチャンスなんてなかった。それを際立てるための材料が、くだらない日常には存在していなかったのだ。
だけど『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』が、僕の目を覚ましてくれた。
現実世界にはなかったはずの、リアルで身近な死。それは虚構の中に存在した。
僕は山本陽介と一緒に、友人の死と自らの生を実感したのだ。
この一作は、いま自分が生きている日常を直視するキッカケをくれた、僕にとって人生のバイブルと呼ぶべき大切な小説なのである。

でも前者と出会った僕は、すでに中学一年生でも中二病でもなかった。もう非日常や死を望んでなどいないし、生を実感しながら日常を過ごしている。
それゆえ僕はこの作品を楽しむことはできても、この作品に助けられることはなかった。
残念なことこの上ない。 だって勿体ないではないか。
『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』が僕の目を覚ましたように、『夜跳ぶジャンクガール』にだって、誰かに生を自覚させることができるはずだ。
僕は両者に同じ匂いをかぎとったがゆえに、強くそう思うのだ。

だから僕には見える。
『夜跳ぶジャンクガール』によって、生の実感を与えられる者が。
それは間違いなく僕ではない誰かで、僕はその誰かを羨ましく思う。
きっと僕が 『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』をそうしているように、彼はこれから『夜跳ぶジャンクガール』を何度も紐解き、味わうことになるのだろう。
そしてその度に、自分がいまここに生きていることを認識するのだ。



ここで最初に戻って繰り返すが、この作品に対する反応は賛否両論ある。
でも僕はそれを不思議には思わない。
日常において地に足をつけて生きている者、ないし「生とはなにか」「死とはなにか」などと考えることがないような者には、確かに必要のない小説であるからだ。
批判的な意見を述べたくなるのも分かるし、いっそ読まなくてもいい。

『夜跳ぶジャンクガール』を欲している人間は、自らの生と対比すべき虚構の死を求めている人間は、決して彼らではない。
中二病をわずらっていたり、どこか浮ついていたり、なにより自らの生を自覚しえていなかったり。
そんな読者がこの一冊と出会ったとき、初めて真なる価値を発揮するに違いないのだ。

『夜跳ぶジャンクガール』は、あなたの目を覚ますか否か。
それによって、本作に対するあなたの評価も決まるだろう。

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2012.02.18

銅

夜跳ぶジャンクガール

世界は狂っている、僕は生きている

レビュアー:横浜県 Adept

この作品に出てくるやつらはみんな狂っている

主人公の「僕」は、幼馴染・楓の首を絞めたい衝動に駆られる
楓は少女たちの自殺をネットで中継し、やがて自らも死を選ぶ
クラスメイトの足立は、その自殺中継に心酔する
後輩は死にかけた思い人に、最後のとどめをさす
「僕」の惚れこんだ美月は、眼球を舐め合う性癖をもち、非日常と死を望んでいる

世の中みんなが、こんなやつらだったら、どうかしている
でもこの作品では、確かに誰もが狂っている
もしかしたら、僕が気づいていないだけで、現実だって、似たようなものなのかもしれない

楓の葬式
彼女の母親は、とつぜん「僕」に殴りかかる
彼女の父親は、「出てってくれ!」と「僕」に叫ぶ
「僕」の存在が、彼の首絞めが、楓を死に追いやったのは事実だ
でも彼が「なに僕のせいみたいな遺言残してんだよ!」と怒鳴るとおり、命を絶ったのは彼女自身の責任だ
なにひとつ相談しなかったのも、自殺中継なんて犯罪を始めてしまったのも、最終的に悪いのは楓その人である
それでも彼女の両親は、「僕」を殴らずには、追い出さずにはいられなかった
この時点において狂っているのは、間違いなく両親だ
パトスを抑えられない両親だ
「僕」が理不尽だと感じるのは当たり前だ

本当は異常であるはずの「僕」が、むしろ正常である
ただの一般人だった楓の両親が、理性を失っている
だとしたら、僕だって狂ってしまうかもしれない
いまは普通に毎日を送っている僕だって、ふと何かの拍子に、たがが外れてしまうかもしれない
誰だって人間、みな心のどこかが狂っているんだ
作中のこいつらは、中二病よろしく、その異常な部分をこじらせてしまっているだけなんだ

では僕や「僕」は、一体なにを信じたらよいのだろう
もはや理性など、ブレーキの役目を果たしてはくれない
答えは、自分がいまここに生きている、ということ
自分や周りがどれだけ狂っていようと、自らが生きているその事実は変わらない
楓は死んだ、「僕」は生きている
楓の死が、「僕」の生を際立たせている
彼女の存在を意識しているからこそ、「僕」は愛する「美月と白目を舐めあう。痛くても幸せそうに、見せつけるように」
彼はこの先、日常の狂った一面と向きあおうとも、間違いなくそれを越えてみせられる
自分がいまここに生きている、そんな心の拠りどころとしての実感が、彼にはあるのだから

そして僕だって彼のように、もし自らの生を自覚できたならば、それはどれだけ心強いことか
けれど対比しうる誰かの死なんて、現実に望みたいものではない
だから僕はフィクションの中に、『夜跳ぶジャンクガール』の中に楓の死をみた
「僕」と同じように僕は、「僕」と僕は、生きている、そう思った

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2012.01.30


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