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レビュアー「鳩羽」のレビュー

銀

星海社FICTIONS

心も身体も愛して☆

レビュアー:鳩羽 Warrior

 本を持たずに電車に乗ることはない。お弁当を食べるときは、大抵傍らに本を開いている。座って読み、寝転がっては読み、待ち時間に読み、いそいそとお茶とお菓子を用意しては読む。あまり誉められた読書の仕方ではないかもしれないが、何冊かの本をひょいひょい渡り歩くように読み、つまらなかったら放り投げて、いつ読めるか分からないのに、積ん読、飾っ読、並べ読。
 一冊の本にじっくりと集中して読めたなら、それが一番の至福だろうがなかなかそうもいかない。空き時間やそのときの気分によって、細切れに読む機会が多分私には一番多い。

 星海社FICTIONSで私が好きなところ、それはスピンでも天のアンカットでもない。カラー見開きの挿し絵には毎回どきんとするが、それも一番ではない。すでにレビューされているかと思ったら、まだ触れられていないようなので、ひっそりと主張させてもらおう。
 私が好きなのは、この、開きやすさだ。

 他のどのソフトカバーの単行本と比べても、ノベルスや文庫本と比べても、もちろんハードカバーの本と比べても、断然星海社FICTIONSは開きやすい。折りグセをつけなくても、新品のときから軽くページを開ける。
 開いた状態のまま片手で持つことも簡単にできるし、机に置けば箸を使いながら読むのにもあちこち押さえる必要がない。楽に開けるので、真ん中の文字列を読むときに力を込めて広げなくてもいい。逆に、思い切って広げても、ハードカバーの本のように背表紙から頁が離れてしまうということもない。
 造本の仕組みに明るくないので、この開きやすさが何に由来するのか分からないが、初めて星海社FICTIONSを手にしたとき一番驚いたのは、このまといつくようなしなやかさ、軽さだった。

 この開きやすさに似ているものを、二つ思い浮かべることができる。一つは週刊誌。そしてもう一つは絵本だ。
 この二つに共通点を探そうとするなら、それは読んでもらおうとするアピールが、内容だけではなく、モノ自体にまで溢れている品物だということができるだろう。
 読者がどういうふうに本を開くか、どんな形態なら不自由なく生活に寄り添えるか。本棚に大事に収めておくのもいい。だが、通勤通学のお供のためには軽い方がいいし、どんな状況でもぱっと出せて軽く開くことができたら、読書は特別なイベントではなく日常のなかにすっととけ込む。それを考えた結果が、この造本なのだと思う。
 星海社FICTIONSは、少なくとも本の形態では、読者を拒まないシリーズだ。
 内容では、まあ、割と個性が強いときもあったりするが、それでもこの開きやすさを手の上で味わってみると、すぐに物体としての本の存在を忘れること、間違いなしである。

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2013.07.08

銅

おやすみ、ムートン

ムートンが生まれてくれたこと

レビュアー:鳩羽 Warrior

 風船に手紙をつけて飛ばすという、ロマンチックな遊びをしたことがある。本で読んだのだったか友だちに聞いたのだったか忘れてしまったが、どこかの店で風船を手に入れてすぐ、風船がしぼんでしまう前にと大慌てで手紙を書いた。海辺に住んでいたのなら、小瓶に手紙を入れて流していたかもしれない。どこかの誰かが手紙を拾ってくれ、メッセージに気づいてくれるかもしれない。そう空想するだけで、とても幸せだったのを覚えている。

 小説家だったsさんを慕って集まったメンバーは、帰るべき故郷をなくし、宇宙船で放浪するしかない未来に絶望しきっていた。そんななか、周りの空気を読まずにsさんが作ったのが、羊のぬいぐるみに宇宙船の人工知能を利用したムートン。
 この白くてかわいいムートンが言葉を覚え、生まれたばかりの子どものように少しずついろんなことを学習していく。「おやすみ、ムートン」は簡単にいうならばそんな話だ。
 ムートンが、悲しみと苦しみとでどうにもならなくなった人間たちに教えてくれるのは、いや、その小さな身体でせいいっぱい体現するのは、何かを伝えようとする必死さだ。少ない語彙でムートンは懸命に話し、自分の名前と「おはよう」の一言だけでも、たくさんの人と心を通わせていく。

 泉和良の小説でよく目にする、そしてこの「おやすみ、ムートン」でも、浮かび上がってくるのはあるコミュニティの強さともろさだ。
 特別な才能を持った人の周りには、その才能を愛する仲間が集う。同じものを愛するメンバーがそ揃えば、楽しくて、わくわくして、無敵の集団であるかのようにそれぞれが特別で個性的な一員としてうまく機能する。
 それがある日、壊れる。そうすると、この一人のために集まった集団は、あまりにも密接に理解しあえていたために、些細な意見の違いでさえ、刃となって互いを切り刻むようになってしまう。
 楽園はどこに消えてしまったのだと、メンバーの行き場のない他罰性はなかば必然的に、中心となった人物に向かう。
 けれど、コミュニティを作るきっかけとなった「彼ら」に、どんな罪があるのだろう。優れた才能があった罪なのか、人を集めた孤独さが罪なのか。その果てに「彼ら」がひっそりと選ぶ自己犠牲はいつも、コミュニティのメンバーと、中心人物となった「彼ら」との静かな絶縁を感じさせてきた。
 
 誰だって本当は、ムートンが目覚める前にいたという、ざわめきの大地にひとりきりで立っているのだ。遠い空の星をつなげて誰かの面影を思い描き、私たちはその面影に向かって話をしているにすぎない。どんなに近しい人でもその人の心の荒野はその人だけのもので、共有することはできない。たとえ肩を組んで歌っていたって、皆、自分の星に、ただ一人きりで立っている。
 親しければ親しいほど、好きな人であればあるほど、それは認めたくないくらい辛いことだ。私には、sさんをはじめ泉和良の描く才能のある「彼ら」が、その事実に直面することを避けようと、さらに自分の周りに高い壁を張り巡らせ閉じこもっているように思える。そうして、所詮才能の提供と消費という関係にすぎないのだと言いたげに、「彼ら」があっさりと関係を絶とうとすることに私は傷ついてきた。
 生まれたばかりのムートンでさえ、知っていたではないか。本当は離れていても、一緒にいるように感じること。それが信じることだったり、心をひとつにすることなんだと。
 そのためには、たとえ星座に向かってしゃべっているように思えてでも、伝えようとすることをやめてはいけないのだと。
 だからどうしても、考え抜いた結果なのだと分かってはいても、最終的なぎりぎりのラインで、私はsさんのしたことを許すことができないでいる。

 私が飛ばした風船の手紙には、隣市の親切なひとが返事を書いてくれた。名前と挨拶だけで、こんにちは、私はここにいるよ、と伝えあうことができた。
 sさんを許すことはできなくても、この物語には、ムートンが残された。ムートンを残してくれた。
 彼の存在が希望となって、傷を癒し、虚しさをなだめてくれるだろう。
 その奇跡だけでも、充分だ。

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2013.07.08

銅

僕たちのゲーム史

遊びをせんとや

レビュアー:鳩羽 Warrior

 僕たちのゲーム史、の「僕たち」とは誰のことなんだろう。少なくとも、ゲーム機を持たず、テレビゲームは後ろで見ているだけという子供時代を過ごした私のことではないなと思いながら読んでみたところ、意外なことに「僕たち」のなかにゲームとは無縁の私も含まれていた。
 それはこの本が、歴史として様々なゲームを繋げていくために使った、ゲームがゲームである限り変わらなかった「ボタンを押すと反応する」という点と、時代やゲームのジャンルによって大きく変わってきた「物語をどのように扱うか」という二点。この二点のうち、「物語をどのように扱うか」という点について、現代でなんらかの娯楽に触れるならば、無縁でいられる人などいないだろうからだ。

 アドベンチャーゲームにしてもロールプレイングゲームにしても、さらにシミュレーションゲームにしても、物語性を豊かに膨らませていくことで発展した時期があった。
 これはのちにCD―ROMなどの記憶媒体が安価に普及するようになり、華麗なグラフィックや高音質の音楽がゲームに立体感を与えることが可能となってからは、それらと手を取り合ってさらに物語の充実が進んだ。
 さらに時代を下って、その類似はゲームの楽しみを外側でのコミュニケーションに置くということに見ることができるだろうか。それを意図的に取り込んで作られたSNSのゲームは、ゲームとしておもしろいかはともかくとして、コミュニケーションツールとして惰性でついつい遊んでしまう。
 これは、物語が完璧に出来上がりすぎていてプレイヤーが介入できず、ただAボタンを押しているだけといわれたファイナルファンタジーなどと対照的でありながら、よく似ているように思える。
 このようにして、優れた技術はゲームの内側に虚構性の強い物語を構築し、コミュニケーションはゲームの外側に終わらない円環の物語を作った。

 虚構と現実を行き来する楽しみ方だけでなく、本書でも触れられているように、現実のリアルタイムのうえにそのまま虚構の時間を重ねるような楽しみ方が、いつのまにか普通のことになっている。現実の自分の今を生きながら複数のゲームを進め、複数のキャラクターを使い分けながら自分自身もキャラのように個性を使い分ける。
 それが遊ぶという身体の体験に固定されたならば、脱出ゲームのような実際に身体を動かすものにもなるだろうし、特定の場所に固定されたならば、アニメやゲームの舞台となった土地を訪れる聖地巡礼のような観光と結びつく。
 また、メディアミックスという形は外側を持たない娯楽に多面的に外部を作り出し、そうでなくとも、二次創作という形で読者やプレイヤーが無数に作品の外側を作り出すことも、何ら目新しいことではない。そうやって私たちは、自分の分身を増やして遊ぶか、光源を増やして影絵遊びを楽しむかして、現実では通用しなくなってきた物語を個々で享受している。

 一対一で創作物と向かい合い、それと対峙するには勇気や覚悟が必要だ。それがどうでもいい価値のないものなのかもしれないという不安に、絶えず心は揺れる。そんなとき、それぞれで異なる物語の解釈をまとめようとする動き、そうすることで大きな物語の代わりにしようとする動きが、ゲームの外側、舞台の始まる前で行われているのかもしれない。
 ボタンを押す、それはいつの世も変わらぬ決定の意思表示だろう。ただその意思決定にいたるまでを、さまざまな物語が彩り、誘惑する。
 ゲームが人生に似ているのか、人生がゲームに過ぎないのか分からないが、こんな現在を生きている「僕たち」のゲーム史は、未だ、変わってきたものの歴史を追いかけて、変わらないものを探そうとする試みの途中にあるのだろう。
 ボタンを押すと、どんな反応があるのか。それは押してみないと分からないのである。

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2013.07.08

銀

レッドドラゴン

幕が降りるまで

レビュアー:鳩羽 Warrior

 こんな物語、早く終わってしまえばいい。
 いいところでストーリーを切られ、欲求不満にさせられる。次週持ち越しというのが我慢できない性質だから、テレビドラマの類も連載ものの漫画も小説も、見ようとすることはほとんどない。それでもこのレッドドラゴンの単行本一巻目を手に取ったのは、今をときめく錚々たる参加者達、TRPGをテキストにしてそれを参加者じゃない私が楽しめるのかという興味、そしていささか食傷気味になった「物語」「物語」「物語」……という言葉の澱みを吹き飛ばしてくれるような何か。そう、強くて新しい風に当たってみたかったからである。
 参加者達のすべての活動を私は知らないが、一つのジャンルを軽々と飛び越えるような活動をしているクリエイターばかりのようだ。文章、絵、音。それらはかつて、単独で鑑賞されることしかなかった。だが、昨今ではこれらを同時に体験する鑑賞の仕方が、しかも個人ではなく大勢で同時に体験し、その感動を同期的にやりとりすることすら珍しくない。音がつけられることが前提の絵、動画となることが前提のシナリオ、リアルタイムで感動を引きずり出すことができる創作物、そういった純粋さと強靱さの両方を求められる創作のいわば猛者たちが、全力で虚構の中に潜り込み、それを遊ぶ。

 ゲームのプレイヤー達は、最初は紅玉いづき、しまどりる、というふうにこちら側、現実の名前で表記されている。それがキャラクター紹介の後から、それぞれのキャラクター名の表記となるが、完全にキャラクターになりきっているというわけでもない。プレイヤー同士の他愛ないやりとり、フィクションマスターへの質問、ゲームへの感想といった素の発言も結構ある。文脈から注意深く読まないと、ああこれはキャラクターの発言なのだなと分からないところすらある。キャラクターは知らないキャラクター同士の情報をプレイヤー同士が知っていることもあれば、秘密にしたいことを他のプレイヤーにも伏せることもある。
 ゲームの舞台ニル・カムイという島、プレイヤー達が集うどことも知れない部屋、そしてそれを観戦する我々、幾層にも折り畳まれた存在と存在の狭間で、ゲームの仕組みを最大に生かし裏をかこうとする虚淵玄の操るキャラクター・婁が笑えば、それは果たして虚淵玄が笑ったのやら、婁が笑ったのやら、判別がつかずに戦慄する。しまどりるが操るのは策を巡らせるタイプではないキャラクター・忌ブキ。率直な感情で予想もつかない展開を引き起こしては、物語の土台を大きく揺さぶる。奈須きのこ本人も、操るキャラクター・スアローも、飄々としていて人なつっこいが誰よりも固い殻で何かをひっそりと隠したまま打ち解けない。そして紅玉いづき操るエィハは、世界の成り立ちを理解する前の開始早々に自分が死ぬか守るべき存在を見殺しにするかの選択を迫られ、疑似的に一度死ぬ。
 そしていくつものキャラクターを使い分け、遊技盤を整えるフィクションマスターの一番の鉄仮面っぷり。彼は一体どんな棋譜を思い描き、どこに辿り着こうとしているのだろう。

 理性と感情。正義と情念。その均衡と綱渡りは、サイコロの出目のようにその時その時に決定される。この物語は、選択されなかった選択肢の先の物語を殺しながら、幾層にも重なった息づかいを一身に受けて、ただ一本の道を選択してつき進んでいく。誰かを助けて誰かを見殺しにし、誰かの声を聞いては誰かの声を無視する。動かされるキャラクター、複数のプレイヤー、リアルタイムで追いかける観戦者、混乱したポリフォニーから、やがて一つの主題が自然に出来上がってくるのか、それともプレイヤー達が創作者の意地をかけて作り上げるのかも、不確定だ。
 終わってしまえば過去のものとなり、語られなかったことは知るすべもない。だが私は意味なく死んでいく悲鳴を聞いた。プレイヤー達の動揺と、躊躇う姿を見る。生き生きとした魅力と、限りない期待と興奮、大きな手のひらで受け止めてもらえるような安心感を、もう一度物語りに見つけるだろう。
 だからこそ、早く終わってほしい。
 完結してから、読み終わりたくない! とじりじりしながら読むのが好きなのだ。

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2013.06.22


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