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レビュアー「鳩羽」のレビュー

銅

from everywhere 坂本真綾

遠くの声、近くの声

レビュアー:鳩羽 Warrior

旅は「ひと」を二重の存在にする。これから出かけていく場所と、いつか帰ってくる場所。どれだけ距離があっても関係ない。旅の目的地が決まったときから、きっとその両方に心は分かれて存在している。
五週間にわたるヨーロッパの一人旅。
言葉は簡単な英語だけ、予定も大まかな進路だけ、目的らしい目的も、理由らしい理由もないけれど、どうしても旅に出なければという気持ちに急かされて。
毎日の日記と、「あなた」への手紙で構成されるこの旅の記録は、パリ、プラハ、ウィーンと歩を進めて、イタリア、そしてまさに呼ばれるようにして決定していた最終目的地のリスボンへと向かう。

声優、歌手、女優。さまざまな分野で活躍している著者が書く文章は、奇をてらわず、素直でなめらかだ。しかし、思いがけない強さでここぞというポイントを突いてくる。目にしたもの、体験したこと、それに対する感想のバランスが自然と規則正しいリズムを生みだしていて、表現することに慣れているひとなんだろうなと思わせる。
こんなひとが自分をよく見せようとかっこつけたり、それが恥ずかしくて自己嫌悪したりなんてするのだろうか。
こんにちは、ありがとう、おいしい、と伝えることの大切さに気づけるひとが、本当に、人混みの電車に耐えきれずに降りてしまったりするのだろうか。
悪気はないけれど、読みはじめたとき、少し意地悪な気持ちになったのも否定できない。

旅行記の手紙の部分、私はこの手紙の宛先の「あなた」とは、著者自身のことなのだろうと思っていた。特定の家族や友人ではなくて、もう一人の自分に向けて「あなた」と呼びかけ、思いを綴っているのだろうと。
けれど、ときに具体的になる「あなた」のイメージに、この「あなた」とは実在する誰かなのかもしれないと、読み進めていくうちに思うようになっていった。
そうして最後に、旅のおぼろげな目的が、答えが明らかになる瞬間が訪れる。問いつづけてきたものが、この本のタイトルの意味が、「あなた」が誰なのか、一望できるような瞬間に連れていかれる。
考えてみれば最初から自明のことで、「あなた」が誰かなんて、謎でもなんでもないことだった。けれどそれがわかったとき、なぜだか涙がでた。

「あなた」達に向けて書きながら、ずっと「わたし」は「わたし」とも対話をしたのだろう。そうやって、人生で取りこぼしてきたものを、忘れてしまったものを、選択してこなかったものを、たんねんに拾っていった。
著者はオペラの舞台を見ては自分の舞台のことを思い出し、初めて広がる光景に自分の歌の歌詞を思い出す。
未知の国で未知のひとびとと出会いながら、おそらく二度と会うこともないであろうひとと笑顔を交わしながら、同じくらいの鮮明さで思い出すのは、自分の過去や近しいひとびとのことばかりだ。
そして、拒絶されているように感じ、居心地の悪い思いをした街でも、数日したらどんどん離れがたくなって、離れる頃には懐かしい思い出のある場所となっていく。
自分を見つける、というとありふれているけれど、自分には何ができて何ができないのか、何がしたいのか、たまには輪郭を掘りだしてやらなければ、自分にすら判らなくなってしまう。自分の好き嫌いすら判らずに、一体何を表現できるだろう。

その衝動が、旅へのエンジンとなって著者を飛び立たせた。
誰だって多かれ少なかれ、無駄なものを取り除き、嫌な自分を批判しながら、生きているのだろうけど、ときにはミニマムな存在に戻って、当たり前のことを再発見していくのもいいんじゃないだろうか。
それはいつだって可能だし、そうしようと思えば、あらゆる場所からたくさんの「あなた」達が応えてくれるかもしれない。
ホームシックになったり狭い寝台特急が辛かったりと大変そうなことも多いけれど、この五週間の旅の記録からはずっと暖かなやさしさを感じられた。
それは旅先で出会った「だれか」の親切であり、「あなた」からの言葉であり、一番近しい存在である「わたし」からのまなざしだったのだろう。

一人旅だけれど、一人じゃなかった。
それが「よかったね」と思えて、なんだか泣けたのだ。

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2014.02.25

銅

物語の体操 大塚英志

語り騙られ

レビュアー:鳩羽 Warrior

 文体だとかオリジナリティだとかくそくらえ! とまでは言わないが、かなり実践的で作業的な部分に焦点をあてた小説のつくり方の本だ。
 何枚かの絵を使って、子供は自由に「おはなし」らしきものを語ることができる。つまり、本来誰にだって物語る能力はあるのだ。それはほかの童話の真似っこだったり、終わりのない「ごっこ遊び」だったり、よく知らない世界のルールを把握していくための自分なりに納得していく方法だったりする。
 その「おはなし」らしきものを、とりあえず破綻なく完結させるところまでを目的とした本だが、プロット100本や漫画のノベライズといった実際の講義で出された課題があるので、小説を書きたい人は素直にこの課題に取り組んでみるといいと思う。
 特に、自分にしか表現できない芸術/エンタメ性だとか、個性的なものを追求して行き詰まっている人にこそ、これらの技術的な、目に見えるタイプの修練は役立つだろう。

 それとは別に、小説を書く、物語をつくるとはどういうことか、考えさせられる本でもあった。
 日本の近代小説の歴史における「私小説」、それは「私」という一人称で書かれていても小説という仮構の中での「私」であり、作者とは別の存在であるというのが一般的な理解だった。けれど、仮構の「私」=作者であるような文脈に依拠する作品群が多いのもまた事実で、その是非はともかく、その小説の外にあるはずの作者の物語性が、作品になんらかのベクトルを付与してしまうのはなにも小説に限ったことではない。
 このことからも、同時代性というステージの上で様々な組み合わせから作られるキャラクター小説と呼ばれるものが、特に作り手と受け手の境界を曖昧にするのもよく分かる。作中のリアリティを作者にひもづけず、作者の存在と作品を分断することで、作品は作者だけのものではなくなるからだ。
 この方向に進んでいった作り手と受け手が一致する物語、つまり自分で創作し自分で消費するタイプの物語のあり方は、子供の頃に誰しもが持っていたという物語る能力の現れ方に近いように思える。モノや動物を擬人化し、どこかで知ったようなストーリーを模倣して、自分が飽きるまで延々とスピンオフを続けることができる。
 通過儀礼がなく、成長物語である教養小説がないときに、それでも成長し大人になろうとするならば、こういう自作自演の物語を語ることには大きな意味がある。小説を書こうと思っていなくても、物語を読んだり書いたりして落としどころを見つけて完結させるという構造は、安堵感と共に不思議な力を与えてくれるからだ。
 と、同時に、もちろん娯楽として単におもしろいことでもある。

 小説の二つの系譜が今後混じりあっていくのか、断固として文学は孤高の道を行こうとするのかは分からない。ただ小説を書くにあたって、どちらのものを書いていくのか、どういう位置づけの小説を書いているのか、少なくとも小説家を目指している人は知っていることが大事だと結ばれている。
 物語をつくる能力や技術が求められる世の中に思いを馳せると、その質を見抜く目を養うことは、作り手だろうと受け手だろうと関係なく怠ってはならないことなのだなと思わされる。

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2014.02.25

銅

魔法少女まどか☆マギカ 一肇

魔法少女はほうき星に乗って

レビュアー:鳩羽 Warrior

TVアニメ、漫画、映画と様々な媒体で展開された人気ストーリーのノベライズである。
ノベライズにはあのコーラスを合わせた重厚な音楽もなければ、メルヘンとグロテスクとの違和感からくる奥行きのある絵もない。キャラクターの表情で一瞬のうちに心をつかむような、強力な魅力もない。
あるのは、ただ一方向に進んでいくだけの文章だ。

謎のインキュベーターの懇願により、どんな望みでもを叶うという条件で魔法少女となる契約を交わした少女達。けれどその契約には代償が隠されており、魔法少女となった少女達は絶望とも言える苦しみを抱え込むこととなった。
このノベライズでは、主人公の鹿目まどかの一人称の視点で物語を追いかけていく。
おとなしくて、ちょっと気が弱くて心配性で。でもとても友達思いの優しいまどか。そんなまどかの、一人の中学生としての気持ちを読んでいくと、彼女がどんなふうに悩み、葛藤したかがそのまま素直に伝わってくる。
ここには並行世界のことなど知らず、ただ一度きりの人生を歩む、ただ一人のまどかがいる。

まどか☆マギカの物語を知ると、どうしても謎めいた転校生ほむらの物語に惹きつけられてしまう。運命を変えることができず、かといって諦めることもできないで、同じ時間を何度も遡行し続けるほむら。彼女が自身で生み出したジレンマに囚われていくのを、読者である我々は胸を痛めながら見守ることしかできない。
そんなほむらの迷宮を、まどかは突き破る。
それは、ほむらや他の魔法少女達への裏切りではない。友達は助け合い互いに支え合うものだという、まどかが自分で考えて見つけ出した答えは、シンプルだが揺るぎない強さとして、まどか自身から生まれるからだ。
それは別の可能性を知ることも、他者の心を完全に理解することもできないという人生の潔いリアリティに裏打ちされ、複雑に行き詰まった虚構をほどく。

望む未来を手に入れるためのほむらの執念の物語ではなく、インキュベーターの宇宙の合理を追求する物語でもなく、皆に愛され可愛がられてきたまどかが、自力で殻を破り、より大きな世界へ飛び立っていく物語。
まどかの内側から共に見た結末の光は、これまで魔法少女と呼ばれる存在が伝統的に体現してきたまごうことなき希望、そして憧れを伝えてくれる。
ノベライズという方法は、そんな新しい「まどか☆マギカ」の視点を提示してくれた。

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2014.01.29

銀

本を読む人のための書体入門

イメージを生み続ける装置

レビュアー:鳩羽 Warrior

 調香師は膨大な種類の匂いを記憶するため、それぞれの匂いのイメージをビジュアルで思い浮かべたり、文章を作ったりして覚えるそうだ。この本の著者が書体を発見、意図的に見つめてきた方法はちょうどその逆だ。文章から発せられるメッセージからの印象だけではなく、そこに味覚、食べ物や食卓の情景などを付加させて、その書体にいつのまにかイメージを記憶させてきたのだという。
 もちろん味覚でなくても、なんとなくさびしい感じだとか、活発な雰囲気だとか、そういう詩情や心情のようなものでもいい。ただの記号、二次元にぺったりと貼りつけられただけのものが、表現される内容と読者の思い出や嗜好を、強烈に、ときに思いがけない方向へと連結させる。その双方向の動きを含めて、文字は「記憶を読む装置」なのだろう。
 本において、あるいは広告やポスターで、書体が中心になるということはあまりない。脇役ですらない。それこそ「水や空気のような存在」のように、無色透明であってくれなくては困る。
 けれど、気にとめてみると随分とたくさんのフォントがあることに気づかされる。またこの本には、いちいちこれは何フォントだと注釈が入っており、気づかざるを得ないような仕組みになっているのだ。そして振り返って、普段読んでいる本が何という書体で記されているのか、ほとんど知らないということに気づく。
 名前も知らないのに確かに見たことがあり、この書体はこれこれこういう感じがするという記憶の引き出しすら、いつのまにか持っている。名前を知らなくても、きっと誰もがはっきりと区別して、知っているのが書体なのだ。
 誰でも見たことのある書体を漫画やテレビ番組の字幕を例に紹介しながら、そのひとつひとつに名前があることを、今まで気にしなかった書体を、水や空気の存在を発見することの目新しさ。
 この本は書体の入門書でありながら、本を読む人が自分でも気づいていない、本と自分の記憶のつながりを発見する入門書なのかもしれない。

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2014.01.29


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