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レビュアー「もるちこ」のレビュー

金

ブレイク君コア

ブレイクコア的精神

レビュアー:もるちこ

 この作品の登場人物の多くは、あまりに行動が突発的で、暴力的すぎる。要するにリアリティがまったくないように見えるのだ。そこに拒否反応を示す人も多いだろう。しかしこの支離滅裂な登場人物たちの行動にこそ、この作品の本質が現れているように思う。
 登場人物の突発的な行動については、作品のタイトルにもあるように、ブレイクコアという音楽が強く関係している。ブレイクコアがどういう音楽であるかは、作品内でヒロインが言及している。

「サンプリング元が分からないほどに細かく素材を裁断して複雑に再構築した奇形の音楽…(中略)…音楽として成立しているかも危うい、聞く人によっては雑音以外の何物でもない…(中略)…ラジオのノイズ、工事現場のボーリング音、都会の喧噪、感度を上げたマイクが拾う割れた風の音。そういう日常の奏でる音も私にとってはブレイクコアだ」(『ブレイク君コア』第一回の390段あたりから)

 この小説に出てくる登場人物で、支離滅裂な行動パターンを持つキャラクターは、みんなブレイクコアを聞いている。それはブレイクコア的精神(ぼくの造語です)の持ち主だからだ。上の引用から、ブレイクコア的精神を持つ人間の特徴として二つ挙げられるだろう。一つ目は、強い破壊衝動を持つこと(「細かく素材を裁断」)。二つ目は、日常生活にある、あらゆるものがブレイクコアになること。
 この作品の中で起こる唐突で支離滅裂な出来事は、すべて破壊衝動=暴力衝動≒性衝動が原因になっている。ブレイクコア的精神の持ち主は衝動的であるために、感情が短絡的に行動へと結びつきやすい。
 身体感覚が鋭いのも彼らの特徴だ。この作品において、身体感覚に関係する描写は、リズムが強調された文体で表現される。それは、ブレイクコア的精神が、感覚すらも音楽的なものに変換してしまうからだ。だから唐突にセックスしたり、暴力行動にでたりするのは、身体感覚の刺激を常に求め、感情の抑えがきかない彼らにとって、とても切実な問題でもあるのだ。そのために彼らは社会と迎合することができず、厭世的になってしまう。

 さて、この小説には精神と身体の入れ替わりという設定がある。ぼくが思うに、これには二通りの読み方がある。一つは恋愛もののライトノベル的な読み方。そして二つ目は文学的な(という言葉が正しいのかわかりませんが)読み方だ。
 一つ目の読み方は、まあそのまま読めば楽しめるだろう。身体と魂の問題について、恋愛感情を鍵に主人公が考えていく。これは共感しやすいところだろう。
 二つ目の読み方は、さっきも言った「ブレイクコア的精神」に着目する必要がある。そしてこの小説には、ブレイクコア的精神だけでなく、ブレイクコア的身体も存在しているのだ。
 ヒロインははじめブレイクコア的精神の持ち主だったが、身体はそうではなかった(彼女は「柔和な顔つき」の美少女である)。ところが精神と身体の入れ替わりによって、彼女の精神はブレイクコア的身体を手に入れることになる。するとどうなるか? 入れ替わり直後のヒロインの行動はあまりに唐突なものだったが、同時にきわめて象徴的なものなのだ。
 このような文学性を持ちつつも、この小説は飽くまでライトノベル的な視点で語られる。この二重性こそ著者の真の狙いであろう。
 読んでみれば分かるが、この小説はライトノベル的な設定や文体を使いながら、普通のライトノベルとはまったく違ったものとなっている。どこが違うのかは、簡単に指摘することができよう。それはキャラクターである。
 ライトノベルはツンデレやヤンデレといった、カテゴリー化されたキャラクターを使う。あるいはアニメ的にデフォルメ化されたキャラクターだ。しかしこの小説のキャラクターはカテゴリー化できない。それは原初的な感情の塊として現れるからだ。それでいて明晰な自己分析能力を持っているから、キャラクター小説には成り切れない切実さを持っているのだ。
 そこでやはり舞城王太郎からの影響が指摘できるだろう。舞城王太郎の小説も、支離滅裂行動パターンを取りながらも明晰な一人称で語られる場合が多い。
 この小説の終盤で「究極のブレイクコア」が出てくるのだが、これは舞城王太郎の『山ん中の獅見朋成雄』に出てくる「究極の食」を意識したものと思われる。「究極のブレイクコア」が果たしてどういったものだったか、ぜひ読んでほしいと思うが、一見過激さを演出するための残酷描写が連ねられているように見えるが、実際は非常に切実な問題をはらんでいるのだ。

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2013.04.16


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