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「銅」のレビュー

銅

ダンガンロンパ霧切1

探偵は事件のために、事件は探偵のために

レビュアー:鳩羽 Warrior

依頼者から呼び出され、シリウス展望台に集められた五人の探偵たちは、雪のため展望台に閉じ込められる。そして薬で眠らされた後、気がつくと、たった二人を残して他のメンバーは皆バラバラに殺害されていた。
自分が犯人でなければ、犯人は残るもう一人に違いない。
外部からの侵入の可能性、誰かが潜んでいる可能性。それを相手に納得させることができる論理で、語れるかどうか。
それが現実味よりも、人間的な感情よりも、数式のような簡潔なうつくしさを目指して収束していく本格ミステリだ。

探偵図書館に得意なジャンルごとの分類ナンバーを振り分けられ、登録されている探偵たち。
難事件を解決すると、そのクラスが上がる仕組みになっているらしい。
名探偵という名称は、自称だったり他称だったり、神から与えられた任務だったり生まれつきだったり、好き放題に使われる側面も否めなかった。
だがそれが客観的に、誰でも判断できる数字で表されているとしたらどうだろう。
その数字を、我々は無条件に信用できるのだろうか。
混乱に秩序をもたらす存在としての探偵が、1プレイヤーとして四苦八苦しているのを評価された「数字」。
名探偵という名称への盲目的な信仰が、数字への無邪気な信頼に取って代わられるのだろうか。この緊張感にたまらなくわくわくする。

何はともあれ、難事件は探偵のために起こるのである。
犯人は探偵のために存在すると言ってもいい。
犯人は探偵の経験値を上げるためのエサなのだ。……補食に失敗すれば、手痛いしっぺ返しをくらうこともあるというだけの。

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2014.06.18

銅

「遙か凍土のカナン2 旅の仲間」

僕のオススメは二つ角の姫君”ことジニたん!

レビュアー:オペラに吠えろ。 Lord

 「旅の仲間」という副題から、「指輪物語」(もしくは「指輪物語」を原作にした映画「ロード・オブ・ザ・リング」)を連想する人は決して僕だけではないと思う。そして作者の芝村裕吏は、そうした期待に見事に応えてくれる。言ってしまえば、“ザ・「指輪物語」”とでもいうべき、仲間集めのストーリーが、本書「遙か凍土のカナン2 旅の仲間」では展開されるのだ。

 本書は日露戦戦争直後のユーラシア大陸を舞台に、元帝国軍人の新田良造と可憐なコサックの公女オレーナが極東の地にコサック国家を建設しようと奮闘するさまを描いた「遙か凍土のカナン」シリーズ第2巻で、あとがきによると、良造がオレーナを母国につれて帰るまでを追った「帰国編」3部作の第2部にあたる。

 冒頭で「指輪物語」に言及した通り、本書では良造とオレーナの“旅の仲間”となるキャラクターが2人、登場する。一人は元英国騎兵隊のグレン(実はユダヤ人)で、もう一人は“二つ角の姫君”の異名を取るジニ(実はツンデレで純情←超重要!)だ。グレンもいい味を出しているが、とりわけジニのキャラクターは強烈で、その王道すぎるほどのツンデレぶりは世の男という男をノックアウトするに違いない。

 もちろん、メインヒロインたるオレーナの可愛さも本書を語る上では欠かせないのだが、いかんせん、オレーナは良造とは親子を間違えられるほども年が離れているーーつまり、幼すぎるきらいがある。その点、ジニはいい。「少女」「女子」というよりは「女性」というべき年齢であり、「女としては背が高い気がする」という描写があるように長身。別に個人的な好み云々というわけではないが、何とも「大人の女性の魅力」にあふれているではないか! しかもそんな「大人の女性」が良造にあんなことやこんなことを申し出るという神展開。良造がそういった好意にちっともなびかないのは相変わらずだが、うらやましいぞチクショウ……なぜ俺は明治の世に生を享けなかった……。

 閑話休題。

 上記では本書のキャラクター小説としての側面、つまりはジニの魅力にばかり筆を割いてしまったが、ああ、えっと、もう一人の新キャラクター……グレン? もそれなりにいい味を出していますよ、ええ。とはいえ、まだまだ顔見せといったところで本格的な活躍は次巻以降のお楽しみといったところ。その次巻ではついに「帰国編」が終わり、4巻からは「建国編」が始まるというから、楽しみ楽しみ! まだ巻数の少ない今のうちに本シリーズを手に取ること、そしてリアルタイムで物語の行方を見守ることができるのは、一読者として至上の悦びである。

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2014.06.18

銅

「マフィアの日」

The day of Mafia

レビュアー:牛島 Adept

『マージナル・オペレーション』は今から少しだけ未来――2020年代初頭の世界の話だ。我々がいま生きている世界の延長線上に、この物語は存在する。ちなみに、作中の未来が来た頃には、自分はアラタとほとんど同い歳になっているはずだ。

 そう。俺はアラタと同世代である。……つまり「マフィアの日」を迎えたとき、俺は梶田よりも年上になっているのだ。

 梶田。スキンヘッドにサングラスの、革ジャンを着た男。報われないと知りながら、日に陰に愛する女性を守り続ける男。
 梶田。ハードボイルド、いぶし銀……そんな言葉ではとても語れない生き様を貫く、男の中の男。
 梶田。意外と子どもに人気のマフィア。
 おお梶田。教えてくれ、いったいどんな人生を送れば、かくも「男の魅力」を身につけられるのか。

 ……きっと俺はマフィアにはなれないだろう。だからこそ、梶田という男にこうも憧れるのだ。

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2014.06.18

銅

一○年代文化論

一○年代を生きるすべてのひとへ

レビュアー:鳩羽 Warrior

 オタクという言葉に、正確にはその使われ方に、長い間違和感があった。「キモい」とセットになるような蔑称のときもあれば、「一般人(パンピー)」とは違うのだという特権意識の現れのときもある「オタク」。
 アニメやドラマなら1クール、あるいは年齢を重ねるにしたがって、それまでハマっていた漫画やラノベから自然と離れていく。その流れを選択しないで、好きなものに気持ちを残すのがオタク的といわれる行動なのだろう、と個人的には思っていた。
 だからこの『一○年代文化論』が帯に掲げる「残念」の文字に、意味は違うのだけれど、「念が残ること」とでもいうのか、その字面に妙に納得してしまったのだ。

 実際、この本で取り上げられる「残念」の思想は、言葉自体が持つ本来のネガティブな意味はそのままに、「残念」な部分がまるで愛すべき短所のように肯定される使用例から抽出されている。
 それは芸人のような人間にも使われれば、キャラクターの設定にも使われるし、人格を持たない技術にも使われる。
 ここで注意しておくべきところは、残念な部分を、つまり短所を敢えて愛好しているというのが、かつてのオタクらしいスタンスだったと指摘していることで、今の若い人の「残念」の受容の仕方は、そうではないということだ。
 十代、二十代、三十代、もしかしたらそれ以上に離れた世代でも、同じポップカルチャーのファンであるということが珍しくない世の中。
 つまり同じ作品のファンであっても、ある年齢以上は、キャラクターの残念な部分を「敢えて」愛好していることに酔い、秘めた特権意識を持っている「オタク」かもしれない。
 しかし、若者世代にはその「敢えて」感はなく、当然隠そうという感覚もなく、もっとフラットな楽しみ方を享受しているかもしれないのだ。

 若者世代じゃないから分からない! とも思ったが、こういう意味での「残念」という言葉。これは私も使う。そういえば他にも似たような用法の言葉は、探してみると結構あるような気がする。
 たとえば、「イタい人」というネガティブな言葉は、痛車や痛ネイルという独自のジャンルを生み出したし、それを言うならばゆるキャラの「ゆるい」も、B級グルメの「B級」も、二次創作の「二次」ですら、それほど良い意味ではないだろう。
 逆に、「上から目線」への嫌悪感、「タメ口」を推奨する雰囲気をピックアップしてみれば、これは上下関係や階級、ランクが実際にあるにも関わらず、それを忌避しようとする感覚の現れのように見える。
 ポップカルチャー自体には、好みもあるし、世代が違えば理解もできないこともある。ただ、言葉の使い方の変化という点を通してなら、誰だって新しい感覚に近づくことができるんじゃないだろうか。
この本からは、世代間の埋まらない溝よりも、そこを繋ぐ架け橋としての言葉の意義を感じるのだ。

この新しい「残念」という使われ方のせいか、残念の検索数が伸び始めた2007年。
 アニメにも漫画にもラノベにもさほどのめり込んでこなかった私が、おそらく一番親しんできたポップカルチャーはSound Horizonというアーティストなので、その乏しい経験から振り返ってみると、Sound Horizonにとっても2007年というのはアーティスト自身が残念なところを露わにし始めた年だった。
 個人的な経験からで恐縮だが、「残念」でグダグダな部分を晒し始めたかのアーティストは、まずなによりも親しみやすくなり、エンターティナーとして、パフォーマーとして、はたまたプロデューサーとして、豊かなバリエーションをファンに見せるに至った。
それはミクがネギを持ったことと、よく似ていたのかもしれない。それは、世代や好みによってできていた住み分けを、大きく揺るがせる一点だった。
その、かつては短所でしかなかった瑕が、凹凸の役目を果たすようにファンやフォロワーたちをいつの間にか繋げた。このことは、応援してあげたくなるような緩やかな愛着を起こさせ、参加型・体験型のイベントとの相性も良かったのだろうと思う。

 何が言いたいのかというと、残念という言葉を、本書でいうような「残念」の意味で使ったことがあるならば、そして使うことに違和感がないのであれば、この文化論は誰にとっても「あるある」という切り口になるはずだということだ。
 著者自身は、サブカルチャーを取り上げたこの本での主張が、別に広く受け入れられなくてもいいと考えているようだ。しかし、この切り口を知らずに、今の言葉や時事などのニュースを読み解くことは、もうできないだろう。
現在を生きている人のなかで、ポップカルチャーと全く無縁でいるということの方が難しい。
ただそれは、自分でも気づかないうちに体験し、理解したと思ったときにはもうすり抜けてしまっている。
そのあとに何が残っているのか、それを振り返るのは、少し未来の仕事になるのだろう。

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2014.06.18


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