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読者レビュー

銅

私の猫

自分の小説

レビュアー:akaya Novice

なぜか知らない世界だけどノスタルジックを感じる。これが昭和という奴なのか。
いまの大学生がこんな生活していたら瞬く間に親に怒られて就職も出来ず嘆き途方にくれるだろう。まあ作中の男も就職できない日々を過ごすのだけれど。そういう自堕落な様を描いた小説に、最前線で触れられるとは思わなかった。

そんな作品であるが、"自分"という単語だけがただただ曲者な文章である。この作中では常に"俺の"や"私の"に置き換えられる。このせいで時折混乱するのだ。"女は一週間がかり自分の部屋を片付け"と書かれたら普通は女自身の部屋である。ここでは否だ。ギター男の部屋なのである。
自分の猫はというのもギター男の猫だ。とにかく1人称を貫き続ける。日本語の持つ素晴らしき文脈というパワーを反故にしてまでも貫き続けるのだ。そういう手記のような小説なのだ。

この最前線で読むには何処か古臭くて、それが新しい。

2012.03.09

のぞみ
「この最前線で読むには何処か古臭くて、それが新しい。」この、最後のところ、素敵だなぁって思いました。
さやわか
書き手が感じたノスタルジーはなかなか魅力的に書けていると思います。ただ、それが主題として文章の冒頭と結句に出てくるわりには、一人称を「自分」という言葉にしたこととの関連が今ひとつ明確でないように思いました。「日本語の持つ素晴らしき文脈というパワーを反故にして」いるのであれば、この小説は古風なものではなく、むしろ新しいと言っているようにも見えます。また、「自分」という言葉を一人称として用いるのは一般的な文章としてありえることなのですが、それを書き手が理解した上でこのレビューを書いているのかも少し伝わりにくいようです。しかし姫がおっしゃるように、最前線で読むにしては古めかしいという、興味を持たされる言い方はよかったです! 「銅」ということになりましょうか。

本文はここまでです。