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読者レビュー

銀

おじいちゃんの小説塾

瀧本は青春を生きている

レビュアー:6rin Novice

自分よりも背の高い棒を抱え走る。地面に棒を突き立て、しなった棒のまっすぐに戻ろうとする力を利用してバーを跳び越える。そんな棒高跳びの選手のように小説家はまだ誰も見たことのない世界を創ろうと、筆という棒で懸命にその世界へとジャンプする。
 この作品に登場する小説家のおじいちゃんは理想の小説が書けない。落ち込むおじいちゃんは一日中ゲームをして過ごし、自分を「終わらない思春期」だと卑下する。孫である小学生の少女が捨て鉢になったおじいちゃんを「よしよし…」とあやし、執筆を頑張れるようにおじいちゃんを導く。少女は毎日おじいちゃんのために夕食を作り、学校がない日は昼食まで作るらしい。少女はおじいちゃんに一人前の小説家になって欲しくて、子供じみたおじいちゃんを母親のように見守るのだ。おじいちゃんは大人なのになんと情けないことか。それほどまでにおじいちゃんは小説家として未熟なのだ。
 小説を書くのは難しい。プロアマ問わず、執筆技術に難のある未熟な小説書きも多いだろう。彼らは己の力不足を不甲斐なく思っているはずだ。彼らが懐く小説書きとしての自己像はおじいちゃんのような情けない姿をしている。彼らは未熟から抜け出したいだろうが、執筆技術の向上が一朝一夕にいくほど小説は甘くない。彼らは未熟者としての長い長い時間を生きねばならない。彼らの、おじいちゃんのような自己像を懐く時間を名付けるならば、おじいちゃんが未熟な自分の時間を評したように、やはり「終わらない思春期」とするのが適切なのだろう。しかし、僕はそれを全面的に肯定することはできない。
 「終わらない思春期」という言葉は、おじいちゃんが自分を卑下するのに用いたことからも分かるように、ネガティブなニュアンスを強く含む。だが、未熟者の時間にもいいところもある。完璧な執筆技術を備えた小説書きが技術をさらに高めるのは無理だが、未熟者ならばそれは可能だ。未熟者の頭上には、見上げることができる場所が空のように広がっているのだ。未熟であることに耐え、成長しようと努力する姿は美しい。たとえ技術が高みから遠く離れていてもだ。努力する未熟者の時間の呼び名には、子供から大人になる途上の成熟していない者が過ごす美しい時期「青春」が相応しい。
 作者の滝本は小説を書くのが困難になり、数年にわたって小説を発表できなかった。それでも今は小説を書けるようになった。雑誌『カドカワキャラクターズ ノベルアクト1』のインタビューでは瞑想など様々なことに、小説を書けるようになるために挑戦したことが語られている。滝本は頑張ったのだ。未熟であることの苦しみに耐え、成長を続ける滝本は「青春」を生きている。そのことは本作における記述の視点からも伺える。瀧本は少女の一人称視点で描かれるこの作品をおじいちゃん視点の小説にすることもできた。でも少女の視点になって記述した。未熟な小説家を見守る視座に立つことを選んだのだ。視点の選択に、未熟な小説家として生きる自分と付き合っていこうとする滝本の覚悟が窺える。
 小説家であることを受け入れた滝本は、きっとこれからも面白い小説を目指して書いていってくれるだろう。僕は小説家にはできるだけ高く跳んで欲しい。それが想像を超える大ジャンプだったら最高だ。

2012.01.30

さやわか
文章力が非常に高くて、読み応えがあります。特に、一行が短いのできびきびとした印象を与えていますな。それに加えて論旨の流れがよいのです。この短い一行ごとに、思考の流れを取りこぼさないようにしながら話が進むため、骨太で熱さのあるレビューになっている。冒頭と末尾の棒高跳びの比喩についてだけ、評価のわかれるところはあると思います。冒頭の比喩がこういう形でリプライズして文章が終わるのは嫌いではないです。問題はタイミングですね。あ、冒頭の比喩が戻ってきた、としっかり意識させて終わるとかっこいいのですが、これは何となく、そこまでうまくはいっていないかもしれない。もちろん意識して読むとわかるのですが。こういうのはほとんどセンス次第なのでアドバイスは難しいですが、うまい解決としては、中盤に、もう一つ棒高跳びの描写を入れる方法があると思います。そうすると、冒頭から末尾にいたるまで棒高跳びの印象を何となく持続することができるはずですな。ただし、イメージが強すぎるとかっこ悪くなるので、中盤に出すのは間投詞のようにして、比喩としてはちょっと意味不明なくらいでもいいと思います。まあそれはともかく、このレビューは「銀」にして十分な内容だと思いましたぞ!

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