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読者レビュー

銅

空の境界

ハーゲンダッツを始末しろ

レビュアー:大和 Novice

 『空の境界』と聞いて、あなたは何を思い浮かべるだろう。両義式、黒桐幹也、蒼崎橙子、浅上藤乃、荒耶宗蓮、直死の魔眼、伽藍の堂、『 』、新伝綺、奈須きのこ、TYPE-MOON……候補としては色々上がるだろう。はたまた「空の境界って何?」なんて人もいるだろう。しかし僕は、今挙げたどれとも違うものが頭に浮かんでしまう。

 僕が思い出すのは、ハーゲンダッツだ。

 その出会いは劇場版・空の境界にあった。劇場版の俯瞰風景ではプロットが大胆に再構成されている。オリジナルで追加されたシーンも多く、件のシーンもその一つだ。式が巫条ビルに突入する前、自宅で一人寂しくハーゲンダッツを食べるシーンがある。

 僕にとってこのシーンは衝撃だった。月明かりだけが差す仄暗い部屋の中、白いベッドに腰掛ける式。風呂上りの式は下着こそつけているものの、ほとんど裸にワイシャツといった姿でハーゲンダッツを食べる。食べ方がまた独特だ。式は左手が使えない状態にあり、仕方なく口で蓋を開け、露わな膝を内股気味にして容器を支え、スプーンですくって食べる。演出的にはむしろシンプルなのだが、同時にカオスな欲望の奔流を僕は感じた。

 無駄にエロいのだ。
 本当に、無駄としか言いようがないエロさなのだ。

 衝撃すぎて爆笑した。最初に劇場版を見た時、このシーンがあまりに強烈すぎて他の事は何一つ覚えてなかったくらいだ。誰もがそう感じたとは思えないが、僕にとってはそうだった。もうこのシーンがストーリー上どんな位置づけかなんて関係なくて、僕の中では空の境界=ハーゲンダッツになってしまった。

 裸ワイシャツの隻腕美少女が膝でハーゲンダッツ支えて食べてるんですよ。
 いたって真面目なシーンで。ヤバい。狂ってるとしか思えない。

 なんだか貶しているように聞こえるかもしれないけど、僕は素直に、このシーンは果てしなくインパクトがあって面白いと思ったのだ。アニメ史に残るワンシーンだとすら思っている。一体何が、件のシーンに異常さを与えているのだろう。原因の一つを挙げるとすれば、細かなディテールの積み重ねにあるのではないだろうか。

 劇場版は冒頭からして音にこだわっている。ドアの開け閉め、ポリ袋がこすれる音、冷蔵庫の開け閉め、ベッドのシーツが擦れる音、衣ずれの音、ペットボトルを掴む音、ペットボトルを開ける音、式が力を入れた時に漏らす吐息など――物と物が接触し、擦れる音を丁寧に拾っていくことで、二次元にすぎないはずの図像には感触が与えられていく。言い換えれば、そこに実物が在るかのように錯覚させようとする。

 背景にも目を向けてみよう。例えば青崎橙子の事務所だ。漫画版の事務所は物が少なく、がらんとした場所になっているが、劇場版の事務所は物で溢れかえって非常に雑然としている。大量の書類、壊れたテレビの山、デスク上の小物に至るまで、かなり細かく描き込まれている。巫条ビルにおいても、漫画版は古ぼけたビルであることをほんのりと匂わす程度だが、劇場版ではコンクリートのわずかな汚れまで執拗に描き込まれている。

 無論、それらは件のシーンをエロくみせるために施されたわけではないだろう。基本的には、ホラー演出の強化を目的としていたのではないか。劇場版では陰惨な死体や壊れた人形、錆びた扉や不穏なBGMなど、ホラー映画的な表現が積極的に使われている。奈須きのこの作品、特に月姫においてはホラー要素がかなり強い。空の境界はしばしば月姫のプロトタイプとして語られる作品だ。ホラー要素が奈須きのこの世界観を再現するために用いられるのは自然だと言える。(もしかしたら、どこかで監督のインタビューがあって、全然違うことが語られているかもしれないけども、少なくとも意図的に選択された演出であることは間違いない)

 では細かいディテールとホラーの間に、どんな関係があるのか。簡単に言えば、記号的なモノが死ぬより生きものが死ぬ方が怖い、ということだ。想像してみてほしい。漫画の中でキャラが殺されるのと、目の前で生きた人間が殺されるのと、どちらが怖いだろう? 多くの人は後者だと答えるはずだ。細かいディテールの積み重ねは、恐怖感を出すため、世界やキャラに、その場に実在するかのような感触、実在感を与える行為なのではないか。

 それは即ち、式の身体がある種の生命感を帯びていたということだ。性行為とは生殖行為であり、性と生は密接に絡み合っている。だから劇場版における、式の「感触が与えられた身体」は、同時に「性的でありうる身体」に近付いたと言える。

 けれども面倒なのは、ここで言う「性的でありうる身体」と「性欲を喚起させる図像」はイコールではない、ということだ。例えば18禁の漫画やアニメやゲームで後者に相当するものはたくさんあるだろうけど、それらが全て前者に当てはまるわけではないし、実写であれば即ち性的≒感触的であるというわけでもない。

 つまり僕が言いたいのは、ハーゲンダッツのシーンにおける「エロさ」は、単に僕のリビドーを刺激したとかそういう話ではなく、もっと奇妙なモノがそこに出現していた、ということなのだ。演出意図、作り手のフェティシズム、観客の願望、あるいはハーゲンダッツの宣伝や尺の稼ぎなんかもあったのかもしれないが、そういった溢れんばかりの欲望たちを式は一身に背負って、結果的に何やら得体の知れない「過剰さ」をまとってしまった。

 しかしその「過剰さ」は、とても奈須きのこらしいのではないか。奈須きのこの特徴としてしばしば語られるのが、独特の世界観だ。奈須作品は世界観が共通したものが多い。その世界観は過剰に創り込まれている。例えばその世界観の用語を説明した辞典を作って出してしまうくらいだ。奈須作品はしばしば、それを前提として消費される。奈須きのこの世界観を知る新しい手掛かりが、この作品には書かれているんじゃないか? という感じで。

 文体もそうだ。媒体や作品によってある程度スタイルを変えるものの、奈須きのこの文体は幻想的で衒学的だ。そもそも本人がイメージするキャラやシーン自体に過剰な意味づけがされているのだろう。その圧倒的な情報量を読者に伝えるため、奈須きのこは徹底して作り込まれた世界観や、徹底して装飾した文章を提示して見せる。少なくとも僕にとって、奈須きのこは溢れ出る「過剰さ」の人で、ハーゲンダッツのシーンは偶然ながらもそれを非常によく捉えていたと思うのだ。


 さて、天空すふぃあ版『空の境界』に、僕は不満がある。ハーゲンダッツのシーンが無いから、ではない。若干、立ち位置が半端ではないかと思うからだ。

 前提として、この漫画はよく出来ている。例えばカレンダーに刺さったナイフのような独自の工夫が見られるし、天空すふぃあの絵柄によって今までにない『空の境界』になっている、とも言えるかもしれない。

 だがそれだけでは物足りないと思う。「よく出来ている」というのはプロとしてはスタートラインだし、違う人が作れば違う感じになるのは当たり前だ。そんなレベルを越えた、もっと突きぬけたものを僕は読みたいと思っている。

 コイツ何様だ、と思われるかもしれないが、僕はそれくらい高いハードルを用意するのが、この漫画には当然だと思う。理由は第一話、この漫画の冒頭にある。

 最初のシーンでは式がページを切り裂いて登場する。一見してただカッコいいことやらせてみただけのようだが、ここには明らかな意味がある。まず一番最初の大量に重なった単語や台詞や文字列は『空の境界』を構成する文章だ。(もしかしたらここには小説・空の境界全文が入っているのかもしれない、視認できないけど)つまりこれは『空の境界』という作品そのもののメタファーだ。その下部に、斜めの黒い直線が入っている。これは式がこの文字群を切った、ということだろう。式の能力が『直死の魔眼』であることを考えれば、ここでは漫画版の式によって『空の境界』という作品が『殺されて』いる。要するに、全く新しい空の境界を作って見せる、というパフォーマンスなわけだ。

 だとすれば、もっと鮮烈で新しいものを読みたい、と願うのは当然じゃないだろうか。

 今のところ、天空すふぃあは奈須きのこ「らしさ」をなんとか再現しようと苦心しているように見える。例えば俯瞰風景は奈須きのこ「らしい」会話がかなり詰め込まれていて、漫画としては正直なところ窮屈だ。膨大な会話の合間合間になんとか漫画らしい動きを入れようと努力している様子は見られるが、物語を動かしているのは基本的に奈須きのこの文章で、漫画的な躍動は薄い。殺人考察(前)からは若干慣れてきたのか、会話のテンポに改善が見られるものの、このパートで読者の目を引いているのは、雪の中で儚げに佇む式、血や死体といった残酷描写、式の下着姿といったあたりで、それらはどちらかといえば劇場版が提示したものに近く、とりわけ新しくはない。作者独特の空気が無いわけではないのだけど、やはり立ち位置が半端だと思う。

 じゃあ、どんな空の境界が「新しい」のか? 

 僕の中では空の境界とはハーゲンダッツであり、ハーゲンダッツは奈須きのこの持つ「過剰さ」を象徴している、と述べた。つまりそれは、足し算的に様々な要素が加えられて構成されたものだ。僕の立場から新しさを提示するとすれば、その逆を行くのがいいのではないか。

 つまり、引き算的に、奈須きのこ「らしさ」を手放していくのだ。過剰な台詞、過剰な世界観、そういったものを可能な限り削ぎ落として、『空の境界』という物語の核となっている部分を抽出し、スタイリッシュに再構成する。どこまで「らしくない」空の境界を作れるか、なんて道も、中々スリリングで面白いのではないだろうか。

 その可能性が垣間見えるシーンを提示しよう。俯瞰風景・第一回、16・17ページだ。「今日もいるじゃないか」と呟きつつ式が巫条ビルを見上げるシーン。右上には月をバックに幽霊のようなものが浮いて、中央から左下にかけて見開きで蝶が描かれている。蝶は画面左上に向かって飛び立つように羽を広げている。(この蝶は後々、儚さを表現するようなギミックとして使われるのだけど、とりあえずここはこの画を単体として見てほしい)

 僕は今のところ、このシーンが漫画版で一番好きだ。はっきり言って、このシーンは空の境界「らしくない」。右上の幽霊はおどろおどろしいどころか、むしろ毅然とした態度でそこにいるように見えるし、蝶は浮遊というよりむしろ羽ばたいているように見え、その姿は美しくて力強い。ここには90年代的な退廃感とか後ろめたさみたいなものが全然なくて、むしろポジティブであるように見える。こういう「らしくなさ」が漫画全体を満たすようになったら、すごく新しい『空の境界』が創れるんじゃないだろうか。

 今後、天空すふぃあはどのようにして『空の境界』を描いていくのだろう。僕はここで一例を提示したけれども、むしろ僕が想像もしないような全く新しい『空の境界』を見せてくれたら、それが一番愉快に決まっている。そうあってほしいと思う。何はともあれ、これからも僕は天空すふぃあの描く『空の境界』を読むつもりだ。なんせ天空すふぃあには、『空の境界』を殺した責任、取ってもらわないといけないからね。

2011.03.22

のぞみ
小説版、劇場版、漫画版、それぞれの特徴と違いが細かく分析されていてすごいなぁ~と思いました。私も、今度からそういう細かいところに気をつけて、色々な作品を見てみたいなと思いました。
さやわか
うむ! ちょーっと冗長ですがね! もちろん、書き手にとってそれぞれの文章がどういう意味を持っているかはわかるんですよ。しかし、それが書き手にとってのこだわりである以上、読み手に届かないリスクを重ねていると考えてみてもいいのでは。とりわけ、この文章の本論である(と読者が思って読む)漫画版の話が完全に後半にならないと出てこないので、途中で興味を失ってしまう人もいると思います。そのへんは文章の構成で何とかなることもありますぞ。
のぞみ
ちなみに、私の好きなハーゲンダッツは、ドルチェシリーズです!! このドルチェシリーズは、他のハーゲンダッツの商品よりもお値段高めで、ひと手間加えてある分、リッチな気分を味わえるので、何かあった時の自分へのご褒美にしています。
さやわか
ほら! 姫なんかもう、完全にハーゲンダッツの話になってる! またもやレビュー関係なくなってるし!
のぞみ
今はまだ月に1回食べられれば良い方なので、もっとご褒美のハーゲンダッツを食べられるように、お仕事をもっともっと頑張るので、これからも応援よろしくお願いします(^ω^)vV
さやわか
なんか自分をアピールし始めただと!? いやいや、このレビュー、内容はいいと思いますぞ。姫じゃないですが、自分にとって『空の境界』はハーゲンダッツだ、というのはいいと思うのです。ページを切り裂いて式が登場する意味とかも「おお! なるほど」と思わせる。しかしこれ、偶然かもしれないですが冗長であるがゆえの欠点があるように思いました。というのも「奈須きのこらしさ」を一つの軸として話は進むんですが、漫画版で賞賛できる部分、つまり「らしさ」からの逸脱として「90年代的な退廃感とか後ろめたさみたいなものが全然なくて、むしろポジティブ」という話が不意に出てくる。奈須きのこの原作は「過剰さ」が特徴だと言っていたはずなので「らしさ」の話と漫画版の特徴の話は正しく接続されていないように見えます。これはたぶん、いろんな話をしようと思った結果、何を焦点にして書くべきなのが混乱しているのではないかと思います。ということで「銅」にさせていただきましょう!
のぞみ
ちなみに団長は、ハーゲンダッツ何味が好きですか?
さやわか
え!? ……え、えーと、クッキー&クリーム……か、な…………?

本文はここまでです。