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罪滅し編

罪滅し編概論——鬼隠し編の真実

 ついに鬼隠し編の真相が明かされた。

 目明し編とは違う手法で描かれた真実を、あなたはどう受け止めただろうか。

 綿流し編と目明し編は表裏一体の物語になっていた。不良グループのバイクを蹴り倒す人物が異なる、といった細部の違いはあるが、基本的には同じ日に同じ出来事が発生する。それを圭一の視点から見たのが綿流し編であり、詩音の視点から見たのが目明し編なのだ。

 一方の罪滅し編では、鬼隠し編と異なる物語を複数の主観で描くという手法を採る。疑心暗鬼に囚われて暴走していくレナと、ごく普通の判断力を維持している圭一。二人の主観を交互に描写することで、レナの異常性が明らかになっていくのである。

「疑心暗鬼」は「疑心暗鬼を生ず」の略であり、「疑心を抱くと存在するはずのない鬼の姿を見てしまう」という意味だ。鬼は人の心が生み出していたのである。

 鬼隠し編における部活メンバーと村人の豹変。穏やかだった日常が崩壊し、圭一は死の危険と隣り合わせの異常な世界に叩き込まれた。優しかったはずの仲間は恐ろしい因習に従って、凶悪な犯罪に手を染める人物だったのか——。

 答えはもはや明白だ。仲間思いの部活メンバーが圭一を殺そうとしていたはずはない。それを信じられたなら、鬼隠し編の真相を見破ることは難しくなかったはずだ。鬼隠し編はすべて圭一の一人称で書かれているため、読者は必然的に彼の主観を通して情報を受け止めることになる。鬼隠し編の圭一は命を狙われていると思い込んでいた。彼に感情移入しながら読み進めていた読者も、途中までそれを信じて疑わなかったはずだ。

 客観性を失ったままの読者が「村ぐるみの殺人事件」という結論に辿り着いてしまうのは必然だ。だが圭一の主観を廃し、客観的な視点で鬼隠し編を読んだなら、描かれていることの多くが何の変哲もない日常の出来事だったと分かる。これはミステリにおいて「叙述トリック」に分類される手法である。

『ひぐらし』に冠された「正解率1%」というキャッチフレーズは、原作版鬼隠し編に寄せられた感想メール100通のうち、圭一の主観異常を見抜いたのが1通だけだったことに由来している。つまり「鬼隠し編で異常だったのは圭一だ」と推理できた時点で、1%の壁を破ったと言えるのである。

アリバイと祟殺し編

「アリバイ」という言葉がある。

 事件発生時、容疑者が犯行現場にいなかったことの証明と定義されており、
「その時間、私にはアリバイがあった。別の場所で人と会っていたんだ!」

 といった使われ方をする。アリバイ(alibi)は元々「他の場所に」というラテン語に由来した言葉だ。ミステリはもちろん、子供向けの作品でも前置きなく使われるほどにポピュラーな用語である。実は「現場不在証明」という日本語訳も存在するのだが、こちらは滅多に使われない。

 ミステリで「アリバイトリックをいかに崩すか」という展開が見所になる作品は多い。古典的なトリックの例を挙げよう。生前の会話を録音したテープを室内で再生し、外にいる 人物に「被害者がまだ生きていると思い込ませる」のだ。犯行時間を誤認させることで、犯人のアリバイが成立するという仕掛けである。逆に「被害者はまだ生きていたのに、すでに死んでいたと思い込ませる」パターンもある。また、関係者の目撃証言が誤りだったことが判明するケースもある。もちろん犯人がそれを誘発するために何かを仕掛けたのである。作中の登場人物が100%の信頼性を持った機械ではなく、常にミスを犯す可能性を持った生身の人間であることを忘れてはならない。

 アリバイトリックの重要度は作品によって大きく異なる。そこに主眼を置いている作品であれば複雑かつ精緻なトリックが用意されるだろうし、味付けの一環として使われているだけの作品であれば軽く流す程度の扱いになるだろう。読者は物語の内容やロジックを見極めた上で、どこを疑い、どう論破するかを楽しむのである。

 祟殺し編にはアリバイに関する大きな矛盾が提示されていた。「祭りに来ていた圭一」である。鉄平殺害のために走り回っていた彼が、なぜか祭りの会場で目撃されていたというのだ。あなたはこの謎に対して答えを用意できただろうか。

 解答は目明し編の中盤で描かれている。以下に詩音と魅音の会話シーンを抜粋しよう。

「………悟史くんって、祭りの日にアリバイあります?」

「ぇ、あ、……ん、どうだろ…。」

「はぁ…。」

 私は悪態をつくように深くため息をついた。

「馬鹿ですね。悟史くんは祭りに来ていた。そういうことでいいじゃないですか。」

「ぁ……ん、……そうだよね。気が利かなくてごめん…。」

(星海社文庫版『目明し編(上)』228ページ)

 詩音が提案したトリックを祟殺し編に当てはめれば、唯一の解が導き出せる。鍵となるのはそれを証言した人物だ。祭りの会場で圭一を見たと主張していたのは、果たして誰だったか? 竜騎士07氏は答えに辿り着けなかった人のために、罪滅し編でも情報を再提示しているようだ。レナの犯行を隠蔽するために、魅音と圭一は次のような言葉を交わしている。

「村全体で警察の目を誤魔化すため、アリバイを作る。レナが穀倉の辺りで目撃されたことにしよう。警察の目が広域に散れば、それだけ薄くなるはずだよ。」

「な、なるほどな。そいつぁうまいぜ!!」

(星海社文庫版『罪滅し編(下)』)

 住民の結束が強い雛見沢ならではのトリックである。常識では考えられないような人数が、架空のアリバイ作りに協力するのだから。しかし、さすがに殺人犯のアリバイ作りと知れば警察に通報する者も出たはずだ。恐らく、主導者は真相を隠したまま協力を求めたものと考えられる。何も知らない気のいい住民は「仲間のためなら」と快く頷くに違いない。

レナの精神異常1「うじ湧き病」

 罪滅し編を読んだ方は、赤く変色したページに驚いたことだろう。

 時には赤い文字で、時には支離滅裂な思考を示すかのようにぶれた文字で。最終的には世界そのものが赤く染まってしまったかのように、ページ全体が塗り潰される。

 中盤まで読み進めれば分かる通り、これは疑心暗鬼の強さを示す演出だ。原作だと最初はうっすらと赤みを帯びた文字になり、それが徐々に濃度を増していく。そして最後には傷口からあふれ出る血のような、鮮やかな赤になってしまう。文庫版はそれを文字色にとどまらない形で表現しているのである。鬼隠し編で圭一の主観を疑った人は、レナの主観が赤い文字で書かれていた時に「やはりそれが答えか」と確信したはずだ。

 鬼隠し編の圭一同様、レナの精神が異常を来していたことは明らかだ。中でも特徴的だったのは、茨城にいた頃に経験したという「うじ湧き病」である。彼女は自ら傷つけた大腿部から赤黒いうじ虫があふれ出るのを目撃する。その後、レナは担当医に向かってこう叫んでいた。

「私の血管の中のうじ虫をやっつけてぇえぇ!!! 血を全部抜いて、綺麗にして!! 私の血管にはうじ虫がいっぱい詰まってるの!! どうして信じないの!? 見せてあげるから! 見れば信じるでしょ!? もう注射はいや、いやいやいやいや!!!」

 彼女は幻触と幻覚に囚われている。だが彼女にとってそれは真実なのである。こうした異常は『ひぐらし』の世界だけでなく、現実世界にも存在する。薬物依存の症状である。

 コカインの慢性中毒者は妄想に取り憑かれたり幻覚を見たりするだけでなく、皮膚の下に大量の虫が這いずり回っているという幻触に襲われることがある。これは「コーク・バグ」(コカイン虫)という症状で、日本語では「蟻走感」と表記する。皮膚の中を蟻が走り回るような感覚、という意味だ。これに襲われた患者は頻繁に身体をひっかくようになる。やがて肉体的・精神的に耐えられなくなり、自らの爪で皮膚をかき破ってしまうことも珍しくない。それでもなお、傷口に爪を立てることをやめられないのだ。ひどい時には虫を殺そうとして身体に刃物を突き立てることすらあるという。——それこそ「うじ湧き病」に冒されたレナのように。

 彼女の前に降臨したオヤシロさまは、祟りによってうじ虫が発生していると断言したらしい。そして雛見沢に帰れば助かるとも。雛見沢の住民は故郷を離れるとオヤシロさまの加護を失い、うじ虫に身体を食い尽くされるというのだ。鷹野三四が残したスクラップ帳にも、それと全く同じ記述があった。

〈何でも、鬼たちがやって来たという「鬼の国」は、「死者の国」とも読み取れるらしく、死者の国の鬼たちは、常にその身をうじ虫に食われ続けているというのである。

 その鬼たちの血を宿す彼らは、オヤシロさまの加護がある雛見沢では何の問題もないが、異郷の地で加護を失うと、鬼の血の中で眠っていた「うじ虫」たちも目覚め、全身に溢れかえって、その身を食い尽くしてしまうというのだ。〉

 鬼が死者を意味することは以前のコラムで述べた。死者の国という解釈はそこから来ているのかもしれない。しかし、なぜレナの体験と鷹野のスクラップ帳が一致したかは謎である。様々な可能性を検討する必要があるだろう。

レナの精神異常2「幻覚・妄想と凶暴性」

 覚醒剤や麻薬の常習者が、いきなり見ず知らずの通行人に襲いかかった——というニュースを見た覚えはないだろうか。 『アルコール,タバコ,覚せい剤,麻薬 薬物依存Q&A』(ミネルヴァ書房)によると、覚醒剤の乱用者には幻聴、幻視、被害妄想、追跡妄想といった症状が現れ、〈このような幻覚妄想状態に支配されて傷害,脅迫,監禁,殺人などの犯罪にいたる場合〉があるという。

 大麻でも〈時間や空間の錯誤が起り,距離感や時間経過がわからなく〉なったり、〈被暗示性や被影響性が高まり,他人の暗示に支配されやすく〉なったりする。また、〈長い間幻の声で自分の悪口が聞こえてきたり,誰かに狙われているなどの被害妄想が続く〉こともある。

 乱用者による凶悪事件は、こうした異常が原因となって引き起こされることが多い。逮捕された犯人が、動機について「殺せと命令された」「危害を加えられそうだったので、自分の身を守るためにやった」などと支離滅裂なことを語るのは、薬物の影響で幻聴や被害妄想が引き起こされていたからである。

『ひぐらし』の読者なら、こうした症状に心当たりがあるはずだ。鬼隠し編の圭一、そして罪滅し編のレナである。鷹野のスクラップ帳を盲信して学校に立てこもったレナが、極度の被暗示性と妄想に取り憑かれていたことは疑いようがない。鉄平とリナを殺すまでの心の動きも普段のレナとは明らかに違うものだった。美人局という現実的な被害があったにせよ、真っ先に殺人という最終手段に訴えるのは尋常ではない。鬼隠し編の圭一と同じく、被害妄想に囚われて暴走したと考えるのが妥当だろう。

 圭一とレナがどうしてこのような状態に陥ったのかは分からない。確かなのは、彼らの異常が薬物中毒のそれに酷似しているということだけだ。薬物による精神異常は中枢神経の異変によってもたらされる。すなわち「圭一やレナは、何らかの理由で中枢神経に異常をきたしていた可能性が高い」と推論できるのである。

 鬼隠し編の圭一はレナと魅音を殺した後、電話ボックスの中で喉をかき破って息絶える。しかし、罪滅し編のレナが迎えた結末は違うものだった。支離滅裂な思考に支配された彼女は、学校の屋上で圭一と戦った時、なぜか平静を取り戻していたのである。それは一体なぜなのか?

 罪滅し編終盤の描写を再確認する価値は十分にある。

参考資料
『アルコール,タバコ,覚せい剤,麻薬 薬物依存Q&A』(ミネルヴァ書房)

昭和58年の学校と消費税

 昭和50年代は学歴社会の風潮がますます強まっていた時代であり、校内暴力が深刻化していた時代である。警察に卒業式の警備を要請する学校が後を絶たなかった、と書けばおおよその雰囲気が分かるだろうか。昭和55年(1980年)には三重県の中学校で39人もの警察官が校内に乗り込み、生徒たちを補導・書類送致する事件も発生していた。注意されたことに腹を立てた生徒(合計23人)が集団で教員たちに襲いかかり、暴行を加えたのである。この事件は荒れ狂う校内暴力の象徴として大きく報じられ、国会でも取り上げられている。レナが茨城で起こしたという暴力事件や雛見沢分校での立てこもり事件も、そういった文脈で報道される可能性は十分にあったはずだ。

 さて、学校の「週休2日制」は今でこそ当たり前になっているが、当時は「週休1日制」だったことをご存じだろうか? 土曜日は午前中で授業が終わるものの、休日ではなかったのである。土曜の休みは段階的に実施日が増えていき、今に至っている。ほとんどの学校で「完全週5日制」となったのはごく近年(平成14年度)のことである。これを踏まえると、雛見沢の雰囲気を伝える圭一のモノローグが理解しやすくなる。祟殺し編から引用しよう。

〈今日は土曜日。午後は丸ごと学校から解放されるという素晴らしい日だ。

 ちなみに、雛見沢の学校の土曜日は普通の、都会の学校の土曜日とは少し違う。

 お弁当を持ってきて、お昼を食べて、校内や校庭で遊んでいく生徒がとても多いのだ。学校自体が子供の遊び場になっている、とでも言うのか…。〉

「週休2日制」だけでなく、当時はまだ消費税が存在していなかったことも忘れてはならない。雛見沢の子供たちが「消費税3%」の導入を知るのは6年後、平成元年(1989年)のことになる。もっとも、雛見沢大災害がある限りその機会は永遠に訪れないのだが——。

 自動販売機の缶ジュースはワンコインの100円(平成4年になると、103円ではなく110円に値上げされた。子供たちは「ぼったくりじゃないか?」などと愚痴っていたものだ)。現在では350ml缶が主流だが、当時使われていたのは細身の250ml缶である。また、飲み口の蓋は缶から完全に外れてしまう「プルタブ方式」だった。これは環境問題がクローズアップされるにつれて姿を消していき、現在では缶から外れない「ステイオンタブ方式」になっている。

〈大石氏と一緒にいるからドライブをしていられるのであって、………自分がこの車を下車して自動販売機でも探しに出掛けたなら、そのまま失踪して、帰ってこられない可能性だってあるのだ。〉

 暇潰し編には赤坂がこんなことを考えるシーンがある。しかし雛見沢はとても不便な土地であり、鬼隠し編の圭一によると〈気の利いたハンバーガー屋はおろか、自動販売機すらない〉らしい。東京から来たばかりの赤坂はそういった事情を知らなかったようだ。興宮まで出なければ自動販売機は拝めない。雛見沢でジュースを飲みたくなったら、100円玉を握りしめて個人商店に駆け込む他なさそうである。

参考資料

国会会議録検索システム 第093回国会 文教委員会 第12号 昭和55年12月12日

http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/093/0170/main.html

現実世界の災害と雛見沢大災害

 昭和58年5月26日正午頃、秋田県沖を震源とするマグニチュード7.7の日本海中部地震が発生した。昭和57年6月23日に東北新幹線(大宮−盛岡間)が、11月15日に上越新幹線(大宮−新潟間。東京まで開通するのは東北新幹線と同じく平成3年6月)が相次いで開業。昭和58年1月27日に青函トンネルの先進導坑が貫通し、昭和63年の開業に向けて工事が進められていた時期である。

 甚大な被害をもたらした日本海中部地震は、犠牲者104名のうち100名が津波によって命を奪われたことでもよく知られている。加茂青砂(かもあおさ)海岸では遠足に来ていた小学生が津波にさらわれ、45名中13名が亡くなった。「弁当を海岸で食べさせてあげよう」という大人たちの配慮が裏目に出てしまったのである。一行はバスの中で地震をやり過ごし、その直後海岸に降りて被害に遭っている。当時はまだ地震と津波に関する知識が不足していたのだ。現地には「地震が来たら、山崩れに巻き込まれないように海の方へ逃げろ」という俗信があったという。

 また、10月には伊豆諸島の三宅島が噴火し、溶岩流が流れ込んだ阿古地区でほとんどの家屋が焼き尽くされるという被害が生じた。この二つが昭和58年における主な自然災害だ。

 一方の『ひぐらし』では雛見沢大災害という惨事が描かれている。罪滅し編には20年以上の時を経て雛見沢を再訪した赤坂が、コンクリートで埋め立てられた鬼ヶ淵沼を眺めるシーンがあった。「悪魔の脚本」から彼の思考を引用しよう。

〈雛見沢大災害は、マグマ溜りから噴出した火山ガスが湧き出して発生したことがすでに確認されている。

 昭和六十一年にはアフリカのカメルーンにあるニオス湖でも同様の災害があったこともあり、地球規模でどこにでも起こり得る不幸な災害ということで決着した。〉

 ニオス湖の話はフィクションではない。

 1986年8月21日——ニオス湖周辺の村々で、一夜にして計1700人以上が死亡するという大惨事が起きる。死神の正体は湖から湧き出したガスだった。二酸化炭素を主成分としたガスが近隣の村に流れ込み、眠っていた住民たちを酸欠死させたのである。現在では再発防止のために湖水からガスを抜く作業が行われているが、まだ安全宣言は出せない状態であり、周辺地域への居住も禁じられたままだ。

 ニオス湖の災害と比べた場合、雛見沢大災害には奇妙な点が散見される。

1.橋から転落し、気を失ったまま河原で一夜を過ごした圭一が、なぜ流れ込んだはずの火山性ガスで死ななかったのか。あの状況でガスに巻かれた場合、生き延びることは不可能である。

2.ガスの発生源とされている鬼ヶ淵沼が、なぜコンクリートで埋め立てられたのか。赤坂は罪滅し編「悪魔の脚本」で次のように語っている。

「それが馬鹿馬鹿しいか調べたくても、見ろ。沼はコンクリートで数メートルの厚さで固められ、確かめる術もない。地質学的にはガスを防ぐ効果は何も期待できないはずの馬鹿馬鹿しい工事によってだ。」

 この謎を解くのは極めて難しい。原作では祟殺し編に〈難易度は最悪。多分あなたは推理するにすら至りますまい。〉というフレーズを冠しているほどである。常識的な仮説が成立しないなら思考を飛躍させることも必要だろう。

 なお、ニオス湖の災害は日本でもテレビ番組がきっかけとなって広く知られるようになり、『ひぐらし』ファンは雛見沢大災害に似た事例として注目していた。赤坂がニオス湖に言及したのは、そういった動向が影響したものかもしれない。竜騎士07氏は連作形式であることを活かし、読者の声を時折『ひぐらし』に反映させていたからである。

参考資料

東海大学理学部化学科 大場武研究室「カメルーン火口湖ガス災害防止の総合対策と人材育成」

http://www.sc.u-tokai.ac.jp/ohbalab/Japanese/

http://www.sc.u-tokai.ac.jp/ohbalab/Japanese/satreps/index.html

刊行情報

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