編集部ブログ作品

2017年10月 2日 12:00

真夏に降る雪を連れていく その4

 <ホテル・カフカ>で僕は雪と寝た。といっても性的な意味ではない。ただ同じベッドで眠っただけだ。雪は僕から離れたがらなかった。

「あなたには過去がある」

 僕の背中にひたいを擦りつけて雪はいう。

「ネットにあなたの名前をみてから、調べたの。過去をさかのぼって、あなたのいた教室を。あなたの誕生日を。そして待っていた。あなたは天使よ。きっと私たちをこの世界から連れ出してくれる......

 冷蔵庫のように冷えた部屋で僕らは眠りに落ちる。アイスキャンディになった夢をみたが、それは雪から届く甘い吐息の香りのせいだろうか。それとも紫外線に灼けた紫のガラスの鉢に盛られたレモンのせいだろうか。頭痛はいつのまにか消え、僕は深い眠りに落ちていった。

 地球が一回転して朝が来る。シャワーを浴び、歯を磨いて僕たちはまた渋谷の街にでる。

「ほしいものがあったら、なんでも買えるんだよ。お金がなくても、くださいっていえば」

 そういう雪は制服を着ている。

「服は買わないの」ときくと、雪はすこし首を傾げる。

「最初はたくさん買った。ドレスも香水も宝石も。好きなだけ。夢みたいって思った。なんでもほしいものが手に入るなんて、って。でもね、本当はなにも手に入らないってある日気づいたの。それからずっと制服を着ている。最初に着ていたこの制服だけが、私の唯一の記憶だから」

 それでも花屋の前を通ると、雪は顔を輝かせて、立ち止まった。店員(十七歳のボランティアだが)と楽しそうに花を選んでいる。

「おまたせ」

 緑と白でまとめた大きな花束を抱えて、雪は幸せそうに笑った。

「いい匂い......。ねえ、花の匂いって遠い琥珀の色に似ていない? 透明で、儚くて、いつかみた夢のかけらみたいでしょう?」

「花は君を幸せにしてくれるの?」

「眠っているときはね。夜を花の匂いでいっぱいにして懐かしい夢をみるの。過去がないのに、おかしいね」

 悲しげな瞳の雪を僕は風のなかでみつめる。柔らかそうなほほやチェリーのようなくちびるは瑞々しく、はじけそうに生きてはいても、そのなかに隠された脆さを思う。僕がこの世界に訪れることをずっと待っていたという雪。

「雪」

 僕はいう。雪は振り向く。さらりと髪が揺れる。その時まで気づかなかったことを僕は雪に問う。

「僕の<記録>ってなに? 僕は過去になにをしたの? 君は知っているんだよね」

 ためらうように雪は花束に顔を埋める。夏の匂いと花の匂いが香る。

「王政と民主主義を殺したの」

「え?」

「血は流れなかった。あくまでも記号的な殺害を十四歳だったあなたは侵した」

「記号的ってどういうこと?」

「日本最古の天皇の詔宜(みことのり・若干当て字ですがママで・詔勅とはすこし違います)を掲げて皇居で自分の首をナイフで切ったのよ......

「僕が? 僕は死んだの?」

「ううん。でもそのときのあなたの言説は強い影響を与えたの」

「僕の?」

「そう。日本の歴史観をあなたは忠実に再現した。そして歴史と神話を実在化した。あなたは説いた。古代の最初の皇子の最初の子どもだったヒルコは流され、亡き者とされた。自分はそのヒルコであり、日本はヒルコをもう一度血筋に返さないといけない、そういった。そしてナイフで......。でもあなたは生き残った。けれど死すべき者であったあなたは、あなたの言葉通り追放された。この世界に存在してはいけないひとになった。でもあなたを担ごうと大勢のひとがやってきた。政府は混乱したらしいわ。暴動のようなことが起こったみたい。詳しいことは私にはわからないけれど、十四歳のあなたは海に消えて、そして二度と戻らなかった。あなたは伝説なの、潮崎柊くん」

 日本書紀を碌に読んだこともない僕が? と僕は思った。その話はみたことのないシチリア島のように遙か果てしなく遠い風景のようにぼんやりと霞んで、僕は再びはじまった頭痛に目を閉じた。

 明日沙織の十八歳の誕生日ということで、僕たちは<ホテル・カフカ>のスイートルームでパーティを開いた。といってもホテルの最上階のプールサイドでアルコールやドルチェをつまんだりするだけだ。雪は花をたくさん買ってきて(お金は払っていないけれど)プールサイドを花で埋めた。夜の匂いと花の匂い。それに飲み慣れないシャンパンで、僕は薄く意識が離れていく感覚を味わう。十七歳しかいない、この世界で、明日、沙織はどうなるんだろう。今までいた十七歳はどうなったのだろう?

 束瑳はギターを抱えてメロディを奏でている。沙織がそれにあわせて踊りながら、歌う。

 Bye-byeセブンティーン 

 私は高い樹に昇り

 そこからもう降りてこない

 bye-byeセブンティーン 

 遠い国から手紙がきても 

 私の行方は誰もしらない

 沙織の歌う声は心地よく、空には満月が光り輝き、ダイヤモンドのような粒をきらきらと地面にこぼしていた。これはこれでいいんじゃないか、と僕は思い始めていた。食料もインフラも整った都市。労役することもなく、青春はいつまでも続き、夏は終わらない。楽園かもしれない。雪がいったように僕がヒルコとしてこの岸辺に流れついたとしたら、そこは冥府ではなく、「神国なる我が国ぞかし」ではないか?

 僕は雪の髪にふれようとした。雪は僕の肩に凭れた。束瑳の奏でるギターのメロディと沙織の歌が、僕と雪の距離を縮めた。僕は雪にくちづけをしようとした。その時だった。

 すさまじい衝撃音と爆音が響いた。反射的に僕は目を瞑り、頭を抱えてしゃがみこんだ。プールサイドに並べられていたシャンパンのボトルが粉々に割れて、雨のように降っていた。

 なにが起こっている? 

 身体を縮こまらせ、ふるえながら僕は考える。冷えた身体に汗が滲む。僕の隣にどさりとなにかが倒れた。沙織だった。白いタイルの床がみるみる赤い液体で染められてゆく。

「沙織......?」

 それはもう沙織ではない。ただのモノだった。傷ついた沙織からはきなくさいにおいがした。それが銃のにおいだと僕はしっていた。何故なら僕は以前戦場にいたからだ。僕の記憶が断片的によみがえるのを感じた。

 そうだ、僕は右傾化し、武器を所持したカルト集団のシンボルだったのだ。十四歳の時の詔宜が僕を果の土地に導いた。失われ、そして蘇ったヒルコとして。僕のまわりには大勢のひとが集まった。ひとびとは新しい思想に飢えていた。いや、それは真の意味では思想ではなかった。ただ「死」というものに飢えていた。そこで僕は説いた。十八歳になるためのイニシエーションを行うべきだと。僕がそうであったように、死の儀式をして、なおかつ生き延びた者しか大人になれない。そんな世界をつくるべきではないか。

 セブンティーンを殺せ、と僕は説いた。

 一年間だけ、セブンティーンは楽園に生きる。そして迎える十八歳になるその日にセブンティーンを君たちは攻撃してもいい。そして生き残った者だけが選ばれる。十八歳になれる。そうだ、選ばれない者を殺せ。

「戦争反対。無辜の者を殺してはいけない」

 そう僕は説いた。

「世界に平和を。君たちの手に選ぶ権利を。君の手に銃を。そしてセブンティーンは一度死ぬことになる。生き残る者は栄えある市民に。栄光の十八歳に蘇って、未来を生きる」

 僕の言葉は歓声に包まれた。詔宜は世界平和憲法になり、日本中の子ども達はロシアと日本の両方の国が権利を主張する島に隔離されることになった。そして十七歳になる前の晩にそれまでのすべての記憶を消す薬を飲まされ、渋谷の街で<目覚める>ことになった......

 すべてを思い出した僕のそばに、銃を持った男が数人、ヘリコプターから降りてきて、気さくな笑顔を浮かべる。

「久しぶりの渋谷はどうでした? 記憶を消す薬は効きましたか? 楽しめたでしょう、セブンティーンを」  

 彼らはてきぱきと沙織に蘇生処置をする。そして沙織を担架に載せる。

「きれいな子ですね。一応治療はしますけど、たぶん蘇生は無理でしょう。仕方ない。選ばれなかったとしか」

 雪と束瑳は銃撃のショックで気を失って倒れていた。沙織をみることがなくて、それだけでもよかった、と僕は思った。

「今日、誕生日のセブンティーンは大勢いるんです。ひとりひとり殺すのも、結構たいへんなんですよ」

 ほほえみを浮かべて<彼ら>はいう。とても感じのいい兵士たち。彼らも<殺され>そして生き抜いた。彼らは選ばれ、そして殺す側になった。略奪することを憶え、快楽を憶え、月の光のように銃の引き金を弾くことを憶えた。

「平等を」と僕は説いた。

「誰にでもひとを殺す権利を」と。

 人類の歴史はひとを殺すことの積み重ねであった。燐光珊瑚を折るように、ひとはひとの死体を求めて水色に染まった過去の山頂へと登っていく。

 それはひとの宿命であり、願望であった。僕はそれらの感情に手を触れたに過ぎない。僕は炭鉱のカナリアだった。ほかのひとよりすこし聡かった。それだけなのだ。

 兵士達は沙織の顔についた吐瀉物を清潔なハンカチで拭う。その仕種はやさしげでさえある。曇った水晶玉のようなきれいな沙織の閉じた眶がみえた。

「もうすこし渋谷の街を楽しみますか? それとも我々と戻りますか?」

 兵士の言葉に僕はぼんやりと答える。

「記憶を失う薬をいま持っている?」

「ええ、持ってはいますけど......。どうされるんですか」

「教室に戻りたいんだ」

 彼はすこし困惑した顔をする。子どもの悪戯をみかけたような表情だ。

「そう何回もやり直しをされても困るんですけどね。結局おなじことの繰り返しなんですから」

 兵士はふと倒れている雪をみた。

「あれ、この子......。あなたが最初に殺した子に似ていますね。確か妹がいたんじゃないかな......。ああ、それでまた教室にきたんですか」

「僕が......

 僕のこころはひからびた梨のようだ。僕の手は血にまみれているのだ。兵士は柔らかな声で、慰めるように僕に話しかける。

「でもそろそろ遊びは終わりです。帰りましょう。平和な世界って意外と忙しいことを、あなたしっているでしょう」

 僕は思い出す。広い会議室。資料のつまった白い箱。タイプライターの響き。撮影。説教。支援者への挨拶回り。

 それは僕が選んだ現実だった。

「十七歳を殺していいことにしてくれたおかげで世界は平和になったんです。あなたは英雄ですよ。はやく戻ってくださいね」

 パラパラと軍事用ヘリコプターが去ってゆく音がする。沙織の姿はもうなかった。僕は横たわった雪を見下ろす。

 雪。君を連れていこう、と僕は決意する。

 戦争のある世界でもいい。君が殺されない世界に、十七歳が殺されない世界に君を連れていこう。

 君が目覚めたらバイクに乗って、地平線の彼方までいこう。

 僕の瞳から涙があふれでたが、僕はそれをぬぐうこともせず、ただ満天の星空の下に立ち尽くしていた。 

 了