編集部ブログ作品

2017年9月 4日 16:20

真夏に降る雪を連れていく その1

「エディプス・コンプレックスはあらゆる社会に存在する」とフロイトは説いたが、血縁という呪いを持たない子どもにとって殺すべき者は誰だろう。

 ひんやりと冷たいリノリウムの床で目を覚ました僕は、眩暈のような物憂さに暫くのあいだ、身体を動かすことをしなかった。日に焼けたカーテンがかすかに揺れる窓から差し込む陽射しが眩しい。太陽の位置を計ればきっともうすぐ正午になるだろう、と僕はぼんやりと薄目を開けて考えていた。僕の目のまえには机と椅子があった。学校用のありふれたものが、並んでいた。僕は教室の床で眠っていたことになるのか、と僕はこつこつと頭を叩くキツツキのような頭痛に眶をぎゅっと閉じて、それから勢いよく起き上がった。蝉が遠くで鳴いている。喉がひどく渇いていた。どれほどの時間、この教室で眠っていたのだろうと僕は思う。教室には誰もいない。差し込む太陽の強い光に首の後ろがじりじりと火照った。僕は教室の扉を開け、廊下にでる。階段の踊り場に水道があった。僕が蛇口をひねると温い水が勢いよくほとばしる。ちいさくできた水の塔を手で横に払うと淡く虹ができた。真夏なのだ。

 水を飲むと、僕は昇降口に向かう。無数に並ぶ色褪せたロッカーを無作為にあける。空だ。あける。空だ。僕は何度もロッカーをあける。繰り返すと、ついに靴があらわれる。JMウェストンの27センチ。つま先がすこしきついが、履けないことはない。

 出発だ、と僕は思う。

そのささやかな決意とも呼べない内なる声は僕をその奇妙に古びた柿色の塀のなかから生み落としたが、しかしその結果、幾らかの自由を勝ち得たかといえばそうではなかった。

「柊(しゅう)」

 校門を抜けようとすると、僕がそこを通るのを待ち伏せしていたように声をかけてきた少女がいた。凛、と響く透明な声だ。

「潮崎柊(しおざき しゅう)、くん、でしょう?」

 目覚めたあと、こめかみに芽生えた痛みが側頭部全体に広がりかけていた。僕はうつむいて、右手の指で頭をさすった。地面に濃く、ちいさな影がみえた。

 潮崎柊、それは僕の名前なのか? 

 まるで憶えがない。誰かにその名前を呼ばれたことがあるだろうか。そのことを不思議と思わずに僕は少女をみた。おおきな瞳がまず目にはいる。桃色のほほに口紅の色ではないあかいくちびる。ショートカットの髪はストレートで、黒曜石のように黒い。青とグレイのネクタイにグレイのスカート。たぶん制服だろう。高校生なのか。この教室の生徒のひとりなのか。校庭の向こう側にプールがあるのだろう。漂ってくる塩素のにおいと強くなる頭痛に曖昧になる意識のなかで僕は呟くように「悪いけど、頭が痛いんだ」とだけいった。けれど少女は哀憐のこもった声で僕にささやきかける。

「目覚めた時は誰でもそうだよ。だいじょうぶ」

「目覚めた時?」

 落ちてくる前髪と汗を拭う。ちらりと少女をみる。見下ろす、といった方がいいかもしれない。少女は小柄だった。華奢で、幼くみえた。中学生かもしれないな、と僕は思った。こぼれるような蝉時雨に交錯するように、少女はいった。

「潮崎柊くん。あなたが目覚める日を、私まっていた。ずっと、ずっとこの真夏が来ることを」

「悪いけど」僕は頭痛と陽射しを遮るように髪をかきあげる。

「僕は君をしらない」

「でも私はしってるよ。ね。潮崎柊くん。だって私のセブンティーン・デイズはあなたを待つことだけに費やされていたんだもの」

 少女はつま先をそっとのばして僕のひたいにかかった前髪にふれる。その指が汗で冷えている。緊張しているのだ、と僕は思う。僕はそっとその指をふりほどく。彼女はりすのようなつぶらな目を僕に向ける。

「今日はね、潮崎柊くん。あなたの十七回目の誕生日なんだ。八月十五日。遠い戦争が終わった日だね」

 粒のそろった白い歯をみせてにこっと少女は笑う。そして今度はさっと僕に手を差し出す。

「おめでとう」

 校庭に整然と列をつくって植えられた銀杏の並木が、空の天辺に日の丸のように掲げられた太陽の光をまるいきらきらとした木漏れ日にかえる。

 そして突然僕は気づく。潮崎柊。それは僕の名前なのか? 記憶がない。僕は慄然とする。頭の奥にあるのは痛みだけだ。蝉時雨。夏の陽射し。見知らぬ少女が記憶にない僕の名前を呼ぶ。待っていた、と僕をみる。僕は誰かの所有物だった靴をじっとみつめ、自問する。僕はーーーー誰だ? と......

 爆音がはじける。六本木通りから246号線は無人だった。逃げ水を追う速さで僕はバイクのアクセルを踏む。

「うわぁきもちー」

 僕の背後で少女が高い声をあげる。背中に手をまわしながら、上体を反らしているのを感じる。仰向けになって空をみあげているのだ。

「危ないな。手を離すなよ」

「だいじょうぶ、だいじょうぶ。ねえ、運転巧いね。バイク、よく乗るの?」

「さあ。たぶん初めてだと思うけど」

 少女は上半身を起こし、僕の背中にしっかりと腕を回す。

「嘘でしょう?」

 嘘じゃない。でも機械の構造と機能を把握できればそれを操縦することは僕には造作もなく行える。そう以前からーーー。以前?

「潮崎柊くん?」

 僕は急ブレーキを踏む。バイクはスピンし、前輪はガードレールの隙間を抜け、ビールの自動販売機に鈍く音をたてて掠った。

「柊くん? どうしたの? 怪我はない?」

「頭がーーーー」

 こめかみを両手できつく抑える。浮かび上がる血管が指先にふれる。割れるような、という言葉が浮かぶほどの強い頭痛だった。

「頭が痛むんでしょう?」

 バイクを降り、しゃがみこむ僕の肩に少女はそっと掌を載せる。

「教室を出てきたばかりだものね。仕方ないけど、苦しいよね」

 ポケットから水色のハンカチを取り出すと、少女は僕のひたいの汗を拭う。晴れ上がった濃紺の空の色が彼女の指先を染める。僕は吐息をつき、彼女に尋ねる。

「名前は?」

「え?」

「君の名前。まだしらない」

 彼女は眩しそうに僕をみつめる。睫毛が長くて、二重がくっきりとした、愛らしい瞳。くちびるが綻ぶ。

「雪。真砂雪(まさご ゆき)。17歳と九ヶ月......

 雪は背負っていたリュックから生徒手帳をだした。青い表紙に「聖蓮学院」という校章がみえた。表紙をめくると雪の名前と写真が貼ってあり、印章が押されていた。

「ねえ柊くん。東京、変わったでしょ......

小鳥のさえずりのように雪はいう。「変わっちゃったよねえ......」悲しげな雪の声に僕は顔をあげる。頭痛は続いていたが発作らしいものは遠ざかっていった。

「君は僕のしらないなにかをしっているの?」

「なにかって?」

「だって、君は僕をしっている。そして東京は変わったという。なにをしっている?」

 雪は恥ずかしそうにくちびるを噛む。

「私、嘘つきね。本当は私、なにもしらない。柊くんはお見通しね」

 犬も通らない道に僕たちは座り込み、お互いに顔をみることにも気まずさを感じている。僕には記憶がないし、彼女が誰なのかもわからない。

「ただ、なんとなくそう思うの。東京は以前いまみたいじゃなかったんじゃないのかなって。だって......

 僕は午後の光を反射する自動販売機をみる。飲み物の表示の下はすべて準備中だった。喉が乾いたな。再びそう思う。雪はハンカチで自分の汗を拭うと、心配そうな顔を僕に向けた。

「まだ休んでていいよ。頭が痛いんでしょ? 無理しないで」

「平気だよ、もう」僕はバイクにまたがる。「乗れよ、雪」

 雪がにっこりとほほえむ。

「名前、呼んでくれたね。うれしい」

 夏の陽射しはまだ僕たちに降り注いで、空は果てもなく青かった。

 

 続く