編集部ブログ作品

2017年7月10日 16:08

キャラバン

 彼女の耳にはいつも音楽が鳴り響いていた。

 それは彼女の頭のなかから聞こえてきた。彼女だけに天から授けられた賜物だった。

 物心ついた時からそうだったので、他人がそうでないことを知るまでにはずいぶん時間がかかった。

 彼女は鳴り響く音楽にあわせ、いつでも歌ったり、踊ったりしていた。子どもの頃はそれでよかった。周囲の大人達は彼女を明るく、無邪気な子どもだと思った。だが学校にいくようになり、そして年齢を重ねていくと、彼女は「問題を抱えた子」になっていった。

 頭のなかで鳴り響く音楽のため、彼女は他人のいうことをきくことが苦手だった。当然、勉強もできなかった。それどころか、格好のいじめの対象になった。けれど彼女は音楽のうつくしい音色に耳を傾けることで、心の平穏を保つことができたし、他人の悪意に損なわれることはなかった。

 高校を卒業すると、彼女はチョコレート工場に勤めた。甘い甘いチョコレートの香りと鳴り響く音楽に彼女は酔いしれた。試作品のチョコレートがいつも入り口に置いてあり、それは誰が持っていってもよかったので、彼女は帰りの電車のなかでいつもチョコレートを口にしていた。

 そんな彼女に恋をした青年がいた。

 彼は毎朝、彼女と同じ時刻に電車に乗る大学生だった。大学では地質学を学んでいた。いつかアフリカにいって、古代の断層をみることを夢見ている青年だった。

 青年の視線に彼女が気づいたのはいつだろう?

 鳴り響く音楽の音色が変わった。世界が甘く染まった。いつの頃からか、ふたりは毎朝並んで窓の景色をみるようになった。土曜日には広い公園の青い草を踏んで、寄り添って歩いた。彼女はそのあいだもメロディを口ずさんでいた。ひとりで暮らしている青年のアパートに初めて足を踏み入れた時もそうだった。ベッドのなかでも彼女は音楽と共にあった。鳴り響くメロディは彼女から離れることはなかった。幾度か身体を重ねるうちに青年は不安に思い始めた。

 彼女は本当に僕を、僕自身をみているのだろうか?

 彼は未来の話を彼女にした。君を連れて遠くまでいきたい。そう青年がいうと、彼女はにっこり微笑んだ。瑞々しいマスカットのような微笑みに、青年の不安は消えた。彼は思いきって彼女にプロポーズした。彼女は頷いた。

 彼が大学を卒業し、数年の後、彼と彼女は結婚式を挙げ、彼の夢見ていたアフリカへと渡った。彼女のトランクにはどっさりとチョコレートがはいっていた。

 メロディを口ずさむ以外は彼女は無口で、だが家事はなんでも見事にこなし、彼は仕事に打ち込んだ。慣れない異国の地にいても、絶やされない彼女の微笑みは彼の心を落ち着かせた。ただ、時折、そう夜中に不意に目を覚ましたときなど、彼の心は不安になるのだった。隣で眠っている彼女を自分は本当に掌のなかに収めているのだろうかと。いつか彼女は何処か、もっと遠くに去ってしまうのではないかと。

 彼女の頭のなかに鳴り響く音楽について、彼女は誰にも話したことはなかった。音楽のせいなのか、そういう性質なのか、彼女にはほとんど自我というものがなかった。誰かに自分の心をわかってほしいとか、誰かと気持ちを分け合いたい、と思うことはなかった。

 青年はいつも心に不安を抱えていた。そのせいで、何度か他の女性と関係をもった。愛からではない。彼が愛しているのは彼女だけだった。けれどどうしても自分の物にならない彼女を、彼はどうしていいかわからなかった。

 そんなある日、街にキャラバンがやってきた。天蓋をつけた馬車。踊るこびと。着飾った女たち。曲芸をする男たち。

 キャラバンが音をたててやってきた瞬間、彼女の瞳に光が灯ったのを、彼はみた。それは初めて彼が、本当の彼女をみた瞬間だった。彼女の耳にキャラバンの音楽が届いた。それは彼女の頭のなかで鳴り響いていた音楽だった。彼女はキャラバンに近づき、踊り、歌った。異国の歌を。音楽を。

 そして砂埃とともにキャラバンが去った後、彼は彼女がいないことに気づいた。寝室に置かれたオーディオセットから壊れたレコードが同じメロディを繰り返していた。ベッドには食べかけのチョコレートが散らかっていた。

 彼女は音楽にさらわれたのだ。

 不安が現実になったことに、彼は何故か安堵していた。彼女が食べ残したチョコレートを彼は口にした。その時。音楽が彼の頭のなかに鳴り響いた。