編集部ブログ作品

2017年1月 9日 17:10

交換日記

 父と母は同じ年の同じ日に生まれた。東京と福岡ではあったけれど。その二十数年後、彼らは神奈川で出逢い、結婚して、僕が生まれた。

 父母はお互いの生まれた日をまるで運命のように感じており、僕が幼いころから、知り合いや近所のひとを招いてホームパーティをひらいた。母は料理研究家だったし、父はプロダクトデザイナーだったので、それは割に華やかなものだった。

 父のつくったセンスがよく個性的な家具に、母のつくった料理が並ぶと、ワインやシャンパンで顔を赤らめた来客たちは嬉しそうにさざめく。まだ幼い僕はひとり庭にでて、ひとりでかくれんぼをして時間をつぶした。

 外交的な両親の許に生まれた僕は何故かひとぎらいで、友だちがいなかった。

 いつものようにホームパーティが催されたある日の午後、裏庭の木戸をあけて、喪服を着た幼稚園の先生がそっとはいってきた。

 きれいでやさしいその先生を僕は好きだった。

「あの先生はね、男のひとにだまされて、ひとりで子どもを生んだのよ」

 近所のひとがちいさな、でも刺のある声でそうささやいていたのをきいたことがある。でも僕にはそれが悪いことだとはちっとも思っていなかった。先生はいつものようにやさしく僕に話しかけた。

「朔也くん、先生ね。遠くにいくことになったの」

「え……。どうして?」

「赤ちゃんがね、死んじゃったの」

 そのことと先生が遠くにいくことの意味がわからなくて、僕はただ黙って頷いた。

「先生、これからどうしようかなあ……

 すこし悲しそうに先生はほほえんで、春の霞みがかった空をみあげた。

「最後に朔也くんに逢いたくてね。あのね、これ、もらってくれる?」

 先生は人形をとりだした。それは僕にそっくりだった。

「先生の赤ちゃんね。朔也くんによく似ていたの。大きくなったらきっとこんな風になるのかなあと思って、この人形、つくったの」

 先生は僕の好きな笑顔をつくると、そっと裏庭から遠ざかっていった。

 そのことを僕は誰にもいわなかった。何故なら僕の成長につれ、その人形も大きくなっていったからだ。最初は掌に入るくらいだった人形は僕が高校に入る頃には赤ん坊くらいの大きさになっていた。

 それが怖いことだとは思わなかった。友だちのいない僕にとって、その人形だけが話し相手だった。と、いっても人形は別に話したりしない。僕ひとりが人形相手に話すだけだ。

 僕は時折、朝、家をでると、学校にいかず、公園などをぶらぶらするようになっていた。

 夏が音を立てずにそっと近づいてきた日、僕が公園の草叢でうたた寝をしていると、遠くから声がした。目を開けても、誰もいない。でも声は続いた。

「ねえ、なにしてるの?」

 僕は顔をあげた。公園に隣接した二階建ての窓から女の子が顔をだしていた。

「その制服、敬恭学園でしょ? 君、いつも公園にいるけど、学校いってないの?」

 僕はその子をみつめた。短い髪に大きな目。その子はびっくりするくらい痩せていた。緩いTシャツからのぞいた鎖骨の形が、くっきりと浮かぶ月のようだった。

「君だって」と僕はいった。「僕と同い年くらいじゃないの? 君こそ学校いかないの?」

 窓から顔が消えた。怒ったのかな、と思っていると玄関が開いて、その子がでてきた。胸に大きなスケッチブックを抱えて。

「これ、みる?」

 その子は僕にいった。僕は頷いた。その子は僕の隣に座ると、スケッチブックを開いた。

 僕は驚いた。そこには僕が描かれていたからだった。その子はとても絵が巧かった。その子が描いた絵は僕によく似ていたけれども、それは僕よりも透明で、澄んでいた。

「すごく、いいね」

 その子はほっとしたようにほほえんだ。その笑顔を僕はかわいいと思った。

「交換日記したいな、と思って」とその子ははにかみながらいった。

「交換日記?」

 ラインもメールもあるいま、どうして? と思っている僕に彼女はスケッチブックを指差した。

「この絵に君の言葉をつけてほしいの。そうすれば、この絵が君が話すみたいになるから」

 それはそれで面白いかもしれない、と僕は思った。この女の子は何処となく僕の胸を打つような表情をする、と僕は感じた。それは彼女のみせてくれた絵のせいかもしれない。細い細い身体のせいかもしれない。乾いたくちびるのせいかもしれない。僕はそのスケッチブックを持って家に戻った。

「僕はみんなきらい」と僕は彼女のスケッチブックの僕の絵の横に書いた。

「学校も、他人も、寒い日も、うるさい音楽もきらい。そういう僕を、僕はいちばんきらい」

 翌日、僕がスケッチブックを持って公園にいくと、彼女は待っていて、僕の書いた文章を読んだ。

「この気持ち、わかる」と彼女はいった。僕はすこし恥ずかしくなって、なにげなく鞄からお弁当箱を取り出して、ひらいた。彼女は驚いたようにそれをみつめた。

「すごい凝ったお弁当だね。きれい」

「みんなそういうけど、母は料理研究家だから。仕事なんだ。こういうの作って、写真に撮って、本を出したりしてる。だからこれはただの素材みたいなものなんだ」

「へえ。お母さん、食べるの好きなの?」

「作るのが好き。食べる方の気持ちなんか考えてないと思うな、あのひとは。だって僕が食べたい焼きそばなんかも、なんだかハーブとかいれたりオリーブオイルとかつかったり、違うものにしちゃうもの。僕が食べたいのはウスターソース味の普通の焼きそばなのに。食べるのがきらいになるよ」

「私もなの」

 僕は彼女をみつめる。

「私ね、食べられないの。キョショクショウって、いわれるの」

 拒食症、と僕は頭のなかで変換する。

「心の病気っていわれて。気がついたら自分の身体も傷つけるようになって、学校にもいけなくなって……

 彼女の黒い瞳が潤んだ。水玉がこぼれる。はらはらと。僕は思わず彼女の肩を抱きよせる。彼女は僕の肩に頭を載せ、涙をぬぐう。

「ごめんね」とそっと呟く。

「いいよ」と僕はいう。「君はきらいじゃない。幼稚園の時の先生みたいだし」

「それ、なんのこと?」

 僕は幼いころのホームパーティの時のことを話す。その時もらった人形のことも。その人形が大きくなっていくことも。

「みてみたい」と彼女はいう。「君にそっくりの人形」

「こわくない?」

「君のことなら」

 僕はまだお互いの名前も知らないことに気づく。

「僕は朔也。君の名前は?」

「私も咲夜よ。夜に咲く、と書くの」

「僕たち、似ているね」

「うん」

 ようやく彼女はにっこり笑う。そして自然なことのように彼女は僕のお弁当に手を伸ばし、きれいな黄色い卵焼きをつかむと、その乾いたくちびるのなかにいれた。

「おいしい……。なにかをおいしいと思うのって、何年ぶりかな」

 僕も緑色のブロッコリーを口にする。なんだか父母と和解したような気持ちになった。

 翌日、人形を持っていくと、彼女は嬉しそうに人形を抱きしめた。そしてふたりでひとつのお弁当を食べた。僕は咲夜といると素直になれるような気がした。だから僕は咲夜に逢いにいった。彼女の絵に言葉をつけた。そしてそれを楽しいと感じるようになった。

 交換日記は続き、それはいつしか何冊にもなった。

「これ、本にしてみない?」

 ある日、彼女はいった。

「本?」

「うん。公園に日曜日、ひとがたくさんくるでしょう? そこで売ってみたいの。たくさんのひとにみてもらいたいの」

 僕はすこしためらった。僕の父母はいつも他人にみられている。そういう職業だ。でも僕にはそんな才覚はなかった。僕にはそういうことは向いていないと感じていた。その気持ちを咲夜に正直に話した。

「咲夜。僕はすこしこわい。他人にみられることが」

「私たちがみられるんじゃないわ」

 僕はすこしきょとんとする。咲夜の言葉の意味をつかめない。

「作品になれば、これは私たちから切り離される。私たち、傷があるね。でもきっと本にすれば、他人がそれを持っていってくれる。私たち、解放される。歩き出せる」

「何処へ?」

 咲夜はすこしはずかしそうにほほえむ。

「私と朔也の道」

 僕は咲夜をみつめる。夏の陽射しが咲夜の白い顔に濃い影を落としている。蝉時雨が雨のように降る。

「咲夜」僕はそっと名前を呼ぶ。そして、その乾いたくちびるに静かに僕のくちびるを重ねた。咲夜は動かずに僕を受け入れた。

 その僕たちの後ろに喪服を着た幼稚園の先生が近づいて、人形を持って立ち去った。それは一瞬のできごとで、僕も咲夜も気づかなかった。

 でも人形は消えた。天に昇った。空にすいこまれた。人形は、赤ん坊は幸福な場所へと帰っていった。

「咲夜」と僕はいった。

「一緒に歩き出そう」

 咲夜は頷いた。

 明るい夏の陽射しが、僕たちを祝福しているように光り輝いていた。