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カテゴリ: 編集部より

記事カテゴリ:作品

海辺で

 誰がなんていっても、もう学校なんていかないから、と私がいったのは、小学校五年生のことだった。その頃、私にはみえないはずのものをみる、特殊な能力、というか、才能のようなものがあった。宙に浮かぶふわふわしたものを目の端に感じながら、何事もなく勉強したり、友達と仲良くコミュニケーションを交わすことなんかできなかった。

 そして、私は家に閉じこもることになった。時折近所を散歩することはあっても、もう学校にはいかない。学校にいると特にそれを感じるからだ。

 その頃私は本当の両親と離れて暮らしていた。私を育ててくれた人達は私にとてもやさしくしてくれたし、なんの不満もなかったけれど、でも私と彼らの間にはいつも薄い遠慮の膜のような線引きがあった。それは浸食する水のように私の心を少しずつ侵して、私はなんだかいつも疲れていた。

 私が誘拐されたのはそんな日々が三年近く続いた後のことだった。

 ある日、ふと思い立って家をでた。電車を乗り継いで、でたらめに降りた街を歩いている時、私はその庭をみた。

 中央にやさしい彫像がある荒れた庭は、何故か心をなごませた。庭にかわいくない大きな猫がいた。それを撫でている女の子がいる。私の足が草の葉を踏む音に彼女は振り向く。白くて、ふんわりとしたあどけない彼女は、人差し指をそっとくちびるにあてる。ふっと花が咲くように微笑む。私は黙ったまま彼女をみつめる。彼女は透明な足取りで庭から去る。そして彼女は煙のように消える。本当に、空気は透明のまま、私は繁った緑を茫然とみていた。

「そこにいるの、誰?」

 その私のことを叱責するように奥の廃屋から男のひとが出てきた。

「私は……」

 勝手に庭にはいってきたこと。そのことを怒られるのかと、私はすこしふるえる。そのひとは大きなひとだった。

「ああ……」と男のひとは表情をなごませていった。目が優しかった。

「どうしたの? 君、学校は? 中学生でしょう?」

 男の人は大きな鉢を持っている。中には真っ赤なラズベリーがはいっている。

「わかった」

 なにかが頭の奥でひらめいた。花だ。私は口をひらいた。

「あなた、まなかってひとを探しているでしょう? 私とそのひとを間違えたでしょう?」

 柔らかかった男のひとの目が鋭くなった。さぐるように私をみている。

「君は、誰?」

「私が誰でもいいじゃない。私、目にみえないものがみえるの。さっきここでみた女のひとのこと、あなたずっと探しているでしょう? わかるのよ、私。ねえ、まなかって誰なの?」

 私がずけずけと心の奥にはいっていくのを気にしないように、男のひとは考え込むように首を傾げた。

「まなかは……、僕の妻、かな」

「なんでそんなひとと私を間違えるの? だってあなた大人じゃない。私、まだ十二歳なのよ」

「まなかは十四歳だった」

「じゃあ、結婚してないじゃない」

「うん。その前に死んじゃったからね」

 彼は大きな手で鉢からラズベリーをつまんだ。手が赤く汚れた。そういわれてみると、彼は捨てられた子犬のような瞳をしていた。

「なんで死んだの?」

 彼は答えなかったので、質問を変えた。

「いつ、死んだの」

「……十日、いや、二週間程前かな……」

「じゃあ、まだ魂が空に昇ってないかもね」

 彼はためらうようなほほえみを浮かべる。その表情はまるで少年のようだ。

「私、みえるっていったでしょう?」

 秘密を打ち明ける、ちょっと親密なくちびるで私はいう。男のひとは鉢のなかのラズベリーをつかむ。赤い指。

「なにが?」

「だから、ほら、空の彼方に漂っている形のないものが。ねえ、あなたの恋人ならさっきこの庭にいたよ。猫を撫でていた」

「ばかばかしい。まなかは僕の心のなかにいるんだ。それだけでいいんだ」

「それ、すこし嘘でしょう?」

 ラズベリーをつかむ彼の手がふと止まった。私はその心の隙間に忍び込む。

「ねえ、寂しいんでしょう? あなたの身体に涙が一杯たまっているのがみえる。ねえ、涙がでないんでしょう? あなた、彼女が死んでから、一度も泣いてないんでしょう?」

 庭の隅の赤い椿が揺れる。彼はじっと私をみる。柵の向こうに買い物帰りの主婦の人達が笑いながら通り過ぎてゆく。

「涙が身体からこぼれないと、悲しみで心が壊れてしまうのよ。そうなったらもう戻る事はできない」

 彼は私の髪にそっとふれた。風景が消えた。

「君を誘拐して遠くにいこうかな」

「空に落ちる夢をみせてあげる」

 私はいった。

 

 私達は旅にでる。彼はネイビーブルーの大きなコートを着て、ごつごつした安全靴をはいている。そのつま先を私はじっとみつめている。電車は船着き場につき、私達は船に乗る。

「僕の祖父は中国から台湾にいった。父は台湾から日本にきた。まなかは空に逝く。僕と君は何処にいこうか」

「暖かいところ」

 私はいう。彼はすこし顔をしかめる。

「お金がない。実をいうと僕は芸術家なんだ」

「つまり無職ってことね」

 私は鞄からクレジットカードをとりだして、彼の前でひらひらと振る。

「だいじょうぶよ。お金ならあるもの。パスポートも持ってるし、行こうと思えば南極にだっていける」

「さっき暖かいところがいいって、君、いったじゃない」

 まるで子どもをあつかうような言い方に私はむっとして、黙る。彼は私の手からクレジットカードをとりあげて、じっとみつめる。前髪がひとすじ、聡明な額に落ちる。

「君名義のカードじゃない」

「だって、私、まだ未成年だもの。それは仕方なにわ。でもいいの。これは私の養育費用に毎月振り込まれているお金なんだから」

 彼はふうむと唸る。

「ねえ、私達、まなかさんに逢いにいくのよ。これは葬送の旅。喪の旅よ」

 私達は船着き場につく。そして乗り込んだ船はゆらゆら揺れた。遠い水平線の果てでは空と海の境がつかない。灰色の景色のなかで私達はみつめあう。風が息を凍らせる。こんな景色をいつか何処かでみた。既視感といわれればそれまでだけど、誰かが私の意識の底に沈みこみ、私に夢をみせている。そんな奇妙な感覚に私は捉えられていた。

 船はちいさな島にたどりつく。彼は枝や小石を踏まないように注意深く歩く。森のような樹木のなかの白い家の扉をあける。

「ここは?」

「君を軟禁するための場所」

 彼はそういって、私を招き寄せる。肩におかれた大きな手の厚みが気持ちよかった。

 

 翌日、テレビをつけると私の顔が映っていた。

「まずいな。君、事件になってるよ」

「そうねえ、私、子どもだしね」

 パンにバターを塗りながら、私はテレビのなかの私をみる。彼は黙ってコーヒーをのんでいる。

 かもめの群れが空を行き過ぎる。私達は小屋を出て、海岸りをゆっくりと散歩する。痩せた犬があとからついてくる。私はポケットのなかからクッキーをとりだして犬に食べさせる。歩き疲れると私達は適当な草地に横たわる。冬の空気は澄んで、冷たい。

 彼と話す事は特になかった。彼は彫刻刀で貝殻を削ったり、スケッチブックに絵を描いたりしていた。オーブンがあったので、ケーキを焼いた。シナモンのシフォンケーキ。夜になると、ひとつしかないベッドに一緒に眠った。

 ある夜、ふと目を覚ました。窓の外をみると、白い雪の上に赤いラズベリーが点々と散らばっている。それをひとつずつ、大切そうに拾っている女の子がいる。

「まなか……さん?」

 私が声にならない声を告げると、彼女は黙って、また人差し指をくちびるにあてる。そしてあの微笑み。私は手をのばす。彼女が私の内側にはいってくるのがわかった。はっと私は息を飲んだ。

 私はいま、私ではない……。

 私は私の傍らで眠っている彼をみつめる。天窓から、切れた雲の隙間からさす月の光が彼の顔に深い陰影を刻むのがみえた。私はそっと彼を抱きしめる。吐息が首筋にふれ、鼓動が伝わる。

 今、彼女が私のなかにいる……。

 その時、私のくちびるから私ではない声がもれる。

「ごめんね」

 漂う言霊。淡く、ほのかな声が響く。彼がそっと目をあけ、不思議そうに私をみている。言葉は続く。

「あなたを残して逝ってしまって、ごめんね。いつまでもこうして抱きしめてあげたかった。うんとやさしくしてあげたかった。ごめんね。もう遠くに逝く、私を許してね」

 彼の色の薄い瞳からひとすじの涙がこぼれる。

「いつまでもあなたを愛してる。それだけ、伝えたかった。私、あなたを愛せてよかった。生まれてきて、よかった……」

 私と彼のくちびるが重なる。ラズベリーの甘い香りが引き潮のようにひろがる。

 ふっと彼女の気配が消える。私は私に戻る。彼がつぶやく。

「今、あの子がいた……」

「うん」と私はいう。

「いまは、もういない」

 悲しげに彼はささやく。

「うん……」

 彼はすこしあたりを見回す。深いため息をつく。

「すこしだけ、君を抱きしめていいかな」

「うん。私、今だけあなたのものになる」

「全部、夢ならいいのにな」

「夢でも、まなかさんに逢えてよかったよ。まなかさんはあなたの許にいる。そうでしょう?」

 私の身体にまわされた彼の腕の力が強くなる。

「そうだな。逢えてよかった。あの子と逢って、僕は幸せになった。記憶は生きている。忘れないよ。ずっと、君のこと……」

 彼は私ではない誰かを求めている。それでも彼の胸はおおきく、温かい。私はその温もりのなかで、ゆっくりと満たされてゆく。

 空に落ちて現実に帰れなかったのは私だったのかもしれない。まなかというもういないひとがたすけてくれたんだ。このひととめぐりあわせてくれたんだ。涙がいっぱいたまって、壊れそうだったのは私の心だ。私は泣いた。

「どうして君が泣くの?」

 彼は不思議そうに私の涙をぬぐう。悲しい時、この手の温かさを思い出そう、と私は思った。

 

 翌朝、目覚めると、隣には誰もいなかった。砂浜には海に続く足跡だけが刻まれていた。

 私は家に帰ろう、と思った。もう私にはないもみえないし、なにもきこえないだろう。

 あの女のひとが全部もっていってしまった。

 私はごく普通の中学生になり、もう彼には逢えない。

 彼に初めて逢えたのが私だったらいいのに、と船に乗りながら私は思う。

 彼が抱きしめたのは彼女の身体で、私ではない。海に沈んだのは彼女で、私ではない。沈んでしまいたかった、と私は思う。彼のなかに、いつまでも子どものままで。

 でも世界は私を包んで、未来に向かうのだ。

 いつかまたきっと逢える。運命のひとに。

 揺らぐ波をみながら、もう逢えないひとのことを胸にしまうと、涙が海にこぼれていった。

(written by 白倉由美



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