編集部ブログ昼の最前線
子供の頃好きだった飴はリボンの生梅飴!
生梅の酸っぱい感じが大好きだったんですよね……。
というわけでアシスタントエディター・平林です。
さて、自他共に認める歴史オタのワタクシ、日ごろより某巨大掲示板の当該ジャンルの板なども覗かせていておりまして、いくつか贔屓のスレなどもあったりする次第でございます。
その某スレのまとめサイトなんかもありまして、そこでは日々戦国時代の「ちょっといい話」「ちょっと悪い話」がデータベース化されております。
つらつら読んでおりますと、知らなかったエピソードや、マニアックな資料に出会えてなかなか楽しい。
そのうち僕も投稿したいなぁと思っていたところ、本日読んでいた資料にうってつけのネタが出てきたのでここに書いちゃおうと思った次第。
いつものことだけど、歴史に興味ない人は飛ばしてくださいネ☆
『元和先鋒録』より、藤堂高虎家臣・渡辺八左衛門のちょっと残念な話
(大坂夏の陣において)渡辺八左衛門重と小川三郎右衛門は藤堂新七郎(良勝)麾下であった。
(二人が)新七郎に従って玉串川の堤まで押し出して行ったところ、母衣衆(大将の近くにいるはずの旗本部隊)が先に進軍しており、それを見た八左衛門が新七郎に向かって言った。
「母衣衆が先鋒を追い抜いて先行しているのはどういうことなのでしょうか? (あの勢いでは)ワシが行って留まれと言っても留まらんでしょう」
と言ったところ、新七郎は、
「そうだろう、お前が留まれと言っても留まるまい。お前が母衣衆を追い抜いて先に出て、(敵の長宗我部軍に)取りつき次第一人討ち取ってこい」
と言ったのを、この日は風が強かったせいで、
「お前が行って留めてこい。もし留まらないようだったら、お前も(敵軍と)槍合わせしてこい」
と言ったと聞き違え、小川と一緒に一散に馬を走らせて(母衣衆に追いつき)留まるように言ったものの留まる様子がなかったため、両人共に馬に鞭打ち両肩を合わせて駆け、渡辺長兵衛守が奮戦して功名を挙げたあたりにまで疾駆した。
二人は(先に兜首をあげた長兵衛隊にむかって)「ワシらがこれから功名を挙げるのをとくとご覧あれでござるよ!!」
的な広言を吐きつつ先へ進み、槍を合わせてよさげな首を取った。
(しかし、その頃には)馬もどっかに乗り放ってしまっていたため、敵の馬を奪ってこれに乗り、北の方の川下の堤を乗り越え、千塚を経由して藤堂勢の所まで戻ってきた。
この頃には藤堂和泉守(高虎)も大和川の東堤まで押し出し、旗や馬印を押し立てていたところに八左衛門と三郎右衛門は戻ってきた。
(その時)狩机の前に首級が14あり、その内兜首は4つほどだった。
八左衛門が取ったよさげな首は新七郎隊の一番首だったので、
「ご実験、願い奉〜る!!」
と声高に名乗り出、若江南口へもその足で行った所、主君の新七郎は既に討ち死にしてしまっており、すごすごと引き取るしかなかった。
以上、奮戦して兜首を取ったものの、戻ってきたら主君が死んでいた渡辺八左衛門さんの残念な話でした。
主君の言葉を聞き違えたことは、けっこう痛恨だったのでは……。
しかし後に加増されてはいるので、一応評価はされたんでしょう。
ちなみに、『元和先鋒録』で八左衛門さんの次に出てきた山岡兵部重成という人は、「同僚の加勢でようやく討ち取った首を、首実検のために本陣に戻る途中に何者かに奪われる」というこれまた残念なお話が。
藤堂家は残念な人が沢山いたんですね(笑)
今日のネタはちょっと濃すぎた気もするので、次回以降はもうちょっと薄めていきます。
では皆さんごきげんよう!